町の小さな喫茶店で苦味の強いコーヒーを飲むこと三時間。
 ミシェルは、今朝八時から、彼女が来るのを待っていた。待ち合わせ時間は九時。初めの一時間は気持ちを落ち着かせようと思った。九時を過ぎたときは気長に待ち、十時になったときは、コーヒーにガムシロップを入れた。
 「今日も暑くなりますね」
 先程からミシェルのところへ幾度もコーヒーのおかわりを運んでくれているウエイトレスに、ミシェルは赤面した。時刻はすでに十一時を切っている。
 六月。
 高校を卒業し、夏休みに入って一週間が経った。
 ミシェルは、同じ学校のアリスに恋をしていた。いつか告白してやろうと機会を待ったが、ついに卒業式直前。彼は、口頭ではなく「ラブレター」の形で彼女にアタックした。そして、その返事を今日受けるつもりだったのだ。
 (やっぱり来ないか・・・)
 ため息をつくこと以外、胸に詰まる冷めた思いを、外へ出すことが出来ない。人生初の「失恋」だった。
 (帰ろう)
 そう思い、席を立とうとしたときだった。
 店のドアに掛かっているベルが鳴り、誰かが店へ入ってきた。それがアリスだったことに、ミシェルは驚いた。
 「アリス!ここだよ!」
 胸が高鳴った。
 彼女が現われたことが感動的でならない。
 アリスは、ミシェルの姿を見極め、静かにこちらへやってきた。
 ミシェルは髪を撫で直した。姿勢を正し、やってきた彼女に席を勧める。
 「なにか飲む?僕、おごるよ!」
 裏声になりそうだった。
 アリスは座らなかった。
 テーブルに、何かを置き、
 「ごめんなさい」
 突然頭を下げる。
「!」
 ミシェルは立ち上がった。
 アリスを見つめ、
 それはミシェルが先日渡したラブレターである。
 「好きな人がいるのよ」
 彼女は、ミシェルが知っている女性ではなかった。普段から憧れてきたアリスは、もっとおおらかで優しかった。
 アリスはそれ以上なにも言わなかった。すぐにテーブルを離れ、店を出てしまう。
 再び、ミシェルの中で冷たい雨がしとしとと降り始めた。
 「あん、残念だったわね。また頑張ればいいじゃない。若いんだから」
 ウエイトレスが、ミシェルのカップに七杯目のコーヒーを注いだ。その隣にさりげなく置かれたガムシロップに、ミシェルは我慢していた口の中の苦味を思い出すのだった。


 「ミシェル!」
 家へ着くと、庭で兄弟が集まっていた。
五人兄弟。ミシェルはその末っ子である。
父と母は、マイアミに旅行に行っているため、今はこの狭い家に男五人だけで生活している。
 「どうだった!」
 長男のヘスが大声で叫ぶ。
 「駄目。全然」
 ミシェルが小声で言うと、
 「そう簡単に恋人なんかできるかよ」
 次男のテッドが肩を掴んでくる。
 「父ちゃんも、母ちゃんと結婚するまでは大変だったみたいだからなあ」
 と、三男のジルは、ミシェルの頭を撫でる。
 「これだけ兄弟がいて、彼女がいる奴は一人もいなんだから諦めろ。末っ子の分際で、先駆けされてたまるかよ」
 四男のクライドに荷物を投げつけられる。
 「なんだよ、これ」
 「言っただろ?」
 テッドが、肩を掴んでいた手で今度はそこを叩いてくる。
 「あの車で、ロサンゼルスに行くんだ」
 彼の指差した先には、我が家のオープンカーがある。そこへ、ヘスがスーツケースサイズの荷物をトランクに詰め込んでゆくのが見えた。
 「お前がフラれたら、出発することになってたんだよ」
 「フラれたらって、既に支度しててそれはないだろ!」
 肩に乗る兄の手を振り払う。
 「お前がフラれることなんて考えなくても分かるさ」
 クライドが嫌な笑い声を上げて、隣を通りすぎた。
 「ミシェルは、人一倍不器用だからね」
 と、ジルがやってくる。
 「第一、あんなモロい車で、どうやってロスに行くのさ!」
 「え?走らせるんだよ。エンジンで」
 「そうじゃない!ここはテキサスだぞ!」
 「長旅で、失恋した傷も癒えるだろうさ」
 荷物をすべてトランクにしまったヘスは、珍しくウインクをした。その下手な格好のつけ方に、ミシェルが身震いする。と、同時に、テッドとジルがミシェルを抱き上げた。
 「なにするんだよ!」
 「こうでもしないと、お前絶対に来ないだろ?」
 嫌がる弟を無理やり車へ乗せ、後の四人も乗り込む。
 運転席にはヘスが乗った。
 「それじゃ、ダラスより弟の失恋を記念した旅行へ出発だ」
 「イエーイ!」
ヘスの言葉に盛り上がったのは、勿論ミシェルを除く三人だ。
 やがてエンジンがかかり、五人を乗せたオープンカーは、家を離れた。
 ミシェルは、小さくなってゆく家を見届けながら、ふと、ポケットに入るレターを取り出した。
 アリスに返されたラブレターである。今朝は気付かなかったが、レターは封も切られていない。
 (こんなモン・・・!)
 次の瞬間、ミシェルは、それを引きちぎり、空へ向かって投げていた。
 「いいぞ、ミシェル!」
 「そうだ、そうだ!」
 兄たちが順番に歓声を上げる。
 (さよならだ、アリス・・・今度は君が、好きな誰かにアタックする番だ)
 青春の儚さを知ったのは、このときが初めてだった。

 時間が経つにつれて、場所も変わる。
 ニューメキシコに入ってすぐ、ついにエンジンが利かなくなった。近くのガソリンスタンドに入り、そこで休憩を取る。
 ガソリンスタンドの中にあったファーストフードでミシェルは一人、朝食を取った。新聞を広げ、右手にはハンバーガーを持っている。
 「ミシェル」
 ジルがやってきて、ミシェルの前にジュースの入ったカップを置く。
 「おごりだよ」
 「それは、どうも」
 新聞を話した左手でカップを掴み挙げる。
 中身を口に含んだとき、思わず咳き込んだ。
 「なんだよ、これ!」
 「果汁百パーセントのオレンジジュース」
 何かに喉を刺されたようなすっぱさだ。
 「目が覚めただろう?」
 彼は変わらず優しい口調で、弟を見下ろす。
 「新聞なんて読んでも、ちっとも分からないくせに」
 「失礼な!」
 「なんでそんなにキリキリしてるの?」
 「そんなことないけど・・・」
 ジルから目をそらす。
 「・・・みっともない格好は、つけるなよ」
 本音をジルに突かれ、ますますミシェルは神経を高ぶらせた。

 アリゾナ州フェニックスの公園では、久々に五人が互いにバスケットボールをパス仕合い、幼い頃のように遊んでいた。中でもミシェルだけは、やはり気が乗らずに後を走るだけである。
 そんな末っ子に、テッドがボールをパスし、
 「いつまでもしょぼくれるな。男だろ?」
 彼の言い方はいつもミシェルを苛立たせる。
 「ミシェル。せっかく旅に出てるんだ。あんまり兄弟を困らすな」
 「俺はこんな旅に行きたいとは一言も言ってないぞ!」
 「アリスって子が恋しくて仕方ないんだろ?」
 「違う!」
 「そうだ」
 「違うよ!」
 ボールをテッドに投げ返す。
 「そうだ。その調子だ」
 彼は再びミシェルにボールを投げ返す。
 「ゴールまで、時間はまだある」
 「冗談じゃない!ロサンゼルスに着いたら、俺は飛行機で帰るからな!」
 二人の試合を、他の兄弟は見守った。
 

 そして、ロサンゼルス目前。
 街に入ると、ふと安堵を感じさせられた。人の多さは何より、テキサスとは違う雰囲気を味わえる。
 「この店入ろうぜ!」
 夕食場所を探していたとき、クライドが一軒の店を見つけた。店の名前も見ないうちに彼が入ってしまったため、他の兄弟がクライドのあとを追う。
 ミシェルはその最後についた。店へ入った瞬間、鼻を嫌な臭いがさす。
 中は薄暗いバーの店だ。
 強い煙草の臭いと、酔ってしまいそうなほどの酒の臭気が漂っている。
 奥のカウンターで、スーツ姿の男が、赤いドレスの女を口説いているのが分かる。女と言っても、ミシェルと同じ年ほどだろうか。何かを間違えて紛れ込み、男から逃れられないような様子だ。
 不意に、ミシェルは女の方へ向かった。
 「おい、ミシェル!」
 兄が止めるのもつかの間、既にミッシェルは男の前に立ちはばかっている。
 「やめろよ。困ってるじゃねえか」
 ミシェルが言うと、店内にいた他の客が、彼を見た。
 女がミシェルの背後で怯えた顔をしている。
 「そこをどけ」
 鬼のような形相で男が怒鳴る。
 「嫌だね。こんな可愛い子、お前みたいなやつに渡せるか。格好つけるな」
 「お前が格好つけてるんだろうが!」
 「格好つけてるんじゃない!俺は元から格好いいんだよ!」
 ミシェルが叫ぶと、周りから冷笑する声が響き渡った。
 男は、側にあったワインボトルをテーブル上に叩きつけ、怒りを露にする。
 直後。
 側で、煙草に火を点けようとした男のライターが、ワインに点火した。
 その瞬間、カウンターが炎上した。
 客が悲鳴を上げ、波のような勢いで狭い店のドアを目掛けて走り出す。その力に押され、テッドたちも外へと流された。
 「ミシェル!急げ!」
 ヘスが持ち前の大声で、ミシェルを呼ぶ。
 「大変だ、早く!」
 ミシェルが女の手を引いた。
 二人を追いかけようとする男は、逃げ場の無い火の中にいる。
 店は二階だ。
 ミシェルは、窓辺から聞こえたクラクションに、下を見る。
 「ヘス!」
 兄たちがオープンカーからミシェルを見上げている。
 「飛び降りろ!」
 「無茶言うなよ!」
 「お前じゃねえ。まずは彼女だ!」
 「彼女・・・」
 ミシェルは、自分の腕に絡みつく女を振り向いた。
 「・・・飛べる?」
 そっと尋ねると、女は窓の外を見た。
 車までは、ざっと四メートル。
 「行く・・・!」
 蚊の鳴くような声だった。だが、それとは裏腹に、彼女は、自ら飛び出した。
 オープンカーの、ジルの腕へと着地する。
 「ミシェル、早くしろ!格好つけたいんだろ?」
 ヘスの言葉に、ミシェルは自分の中でなにかが切れる感覚を覚えた。アリスへの失恋、兄たちとの旅、挙句にこの展開はないだろう。
「うるせえ!俺は元から格好良いんだ!」
 ミシェルがオープンカーに飛び降りると、ヘスはすぐにエンジンをかけた。
 「待って・・・」
 女が、ミシェルの腕を掴む。
 「どうしたの?」
 「あの人・・・」
 と、女が指差した先は、先程飛び降りた窓だ。そこに男が立って、自分たちを見ている。
 もう窓以外逃げ場はない。
 ミシェルは、やり場の無い懐疑の念を抱いた。
 「ミシェル、行くぞ」
 ヘスが叫んだとき、
 「来い!」
 ミッシェルは男に叫んだ。
「!」
 窓辺の男は、耳を疑う顔をしている。兄たちも、弟の行動に不思議そうな顔をする。
 「こうなったのも、全部お前のせいなんだからな」
 ミシェルの言葉に、男は不満そうな表情を浮かべたが、直後背後で起きた爆発に、衝動的に窓から飛び降りた。
 オープンカーのわずかな隙間に乗り込み、すぐに七人が出発する。
 
彼等の行き先は、まだ決まっていない。

                             
                       おわり


後書き

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