コ志ノがホモを告白した日、オレはバイト先から脱走した。
 さして大きいわけでも小さいわけでもない、やたら床がピッカピカなコンビニで、学校帰りに週2回働かせてもらっていた。「高校生は夜まで働かせられない」と、脳ミソにコンクリート流し込んでるだろっていうくらいに堅物でギャグみたいに顔のでかい店長はかたくなに主張し続けたが、人手が足りないのに四の五の言っていられないと、70過ぎのじいさんオーナーがOKサインを出したのでやむを得オレを雇ったのだった。堅物だが人のいい店長はオーナーの命令にはなすがままだった。何せ自分の父親なのだから。かくしてオレはお偉いさんの意向に反して、ファミリーマート高円寺北口店で働くこととなったのだった。やっとのことでこぎつけたバイトだったので、最初の給与明細で時給が20円落とされていたことについては目をつぶってやることにした。それから4ヶ月。もう仕事をあらかた教わり、店長不在時の発注業務も任されていた、そんな折だった。
 脱走した理由は、正直なところオレにもよくわからない。ただなんとなくムシャクシャしていただけに過ぎないのかもしれないが、そうだとすればその日のうちにでも後悔の念に苛まれつつ布団を頭までかぶって寝る夜が訪れていたハズだ。しかしずいぶん経った今になっても、オレは1秒たりとも後悔していない。
 その日。オレはいつも通り19時に出勤して、いつも通りレジを打って、いつも通りファミチキを揚げ、いつも通りおでんのつゆをつぎ足していた。いつもと違うことといえば、明日からそのおでんを作らなくてもいいと店長から言われていたことぐらいだ。フランチャイズはこういうときに融通がきくからいい。もともとは酒屋を営んでいたオーナーは毎日本部の悪口ばかり言っている。よく来るタバコ臭い丸々とした本部の男と夜道ですれ違って、闇討ちでバックドロップをかますご老体を想像するとちょっと面白い。不意打ち喰らってゴミの山にぶっ飛ばされ、ニキビ跡と生ゴミにまみれた顔面をカラスにつつかれる本部の社員の姿を想像したらさらに面白い。一連の流れの中で二人とも絶えずドヤ顔だったらシュールすぎて爆笑モノだ。3分ぐらいの暇つぶしには最適。もっとも夜中にカラスがいるわけがないのだけれど。
 オーナーは本部への罵詈雑言のほかにも、それが生きがいであるかのようにさまざまな文句を思いついては口にしていた。「ポテトなんて売れないのに何で作らなきゃいけないんだか」「レジなんていちいち拭かなくてもきれいだろ」「ヘルメットつけて店に来るなんて自分犯罪者ですって言ってるようなもんだ」…など。マイキョニイトマガナイというやつだ。
 オーナーの人となりは分かっていた。その日の20時すぎ、客がおばさん一人しかいない店内に、ヘルメットをかぶった男が入って来た。オレは「いらっしゃいませ」を言わなかった。服で分かる。黒地に青緑のライン、店の制服。オーナーだ。ウォークインで作業している先輩が戻ってきたらちょうど交替するのだろう。至って冷静だった。ハズだった。
 ボクスキナンダヨ、…ガ。
不測の事態だ。オレのとりすました頭の中に、コ志ノの声が割り込んで来るのだった。それは確かにコ志ノの声だ。10年来の親友なんだから間違えるハズがない。だけど何かが違う。あいつの声質と癖を熟知した誰かが、あいつの声を使ってソックリにしゃべっているような、不気味な感覚。あるいはオレだろうか?ボクスキナンダヨ、…
「ヘルメット…」
「あん?」
オーナーのジジイがきょとんとした顔でオレを見る。
「ヘルメット、外してください」オレは繰り返した。なぜだか背中に汗が流れる。指の震えが止まらない。オレと、オレのサイボーグが一体になって、オレの体を共有している。
探せ・・・・・・
「ヘルメット外してください、店内なんで」
オレに何が起きた?
探せ!
 何を?5W1Hの一つぐらいあったっていいじゃないか!
怒れ!
「ヘルメット外さないと」
「なんだよ、俺だよ俺、んなにね、いちいちマニュアルになんて従ってらんないの。犯罪起こす人は犯罪者。起こさない人は一般人」
怒れ!
「ヘルメット外さないと…」
「何なんだよ」
怒れ!怒れ!怒れ!怒れ!怒れ!怒れ!怒れ!怒れ!怒れ!怒れ!怒れ!怒れ!怒れ!怒れ!怒れ!怒れ!怒れ!
「外せよ」
「あん?」
怒れ!
この、強盗がッ!
 オレは一喝すると、レジの後ろに置いてあった発泡スチロールの小箱からカラーボールを一個取り出し、ひるんだジジイの顔面めがけて投げつけた。手でよけるのが一瞬遅れて、黄色いカラーボールはちょうどジジイの鼻の頭に直撃・破裂した。目のくらむ蛍光液が奴の顔と手を真っ黄色に染める。「何だおまえは!」という怒号とともに、アッハハハハハハ、と意識が飛びそうな甲高い笑い声が響きわたる。一人店に残っていた、薄桃色のカーディガンを着た女だ。裏の雑誌の棚からこっちの様子をうかがっている。オレもつられてブフッと吹き出した。ジジイの顔がいつぞやのテレビで観た、全身黄タイツの頭の悪そうなアメリカのコメディアンみたいになっていたからだ。外のサラリーマンの集団が店内をのぞき込み、なんだなんだと訝しがりつつ去っていく。人通りが少ないのもフランチャイズの長所だ。直営と違って、店長やオーナーの家族が生活できていればそれ以上の湿っぽい野心は出てこないのだから。
怒れ!怒れ!怒れ!怒れ!
ジジイがポンコツと化した眼鏡を外すと、オレはレジに足を乗り出し、容赦なく2発目のカラーボールを殴るようにぶつけた。ジジイは勢いのままに倒れ込み、目と鼻を抑えてうずくまった。今度はオレの手や顔にも蛍光液が飛散する。明るすぎて鬱陶しい色。だけど、悪くない。
しかしどうしたことだろう。オレは次の行動に戸惑い、客側のレジ前で棒になっていた。ひと漫才やり終えた芸人の心境。オレは何がしたい?
怒れ!
脳にこだまするメッセージがフェードアウトしていく。オレは再び5W1Hを要求する。なにを?どこで?どうやって?どうして?誰が?
怒れ!
イカレてやがる!
「ちょっ、ちょっ、ちょ、ちょっと」
 裏のウォークインから先輩が今気付いたかのように飛び出してくる。背は高いがガリガリで覇気がない。今までもそしてこれからも自分は童貞ですっていう予定運命を出会って1秒かからずに全人類に晒していく決意表明をしているかのような、典型的な容姿。略してブサイク。少なからずキレているのか興奮しているのか、顔が徐々に紅潮してきたが、脱力感に身をかまけていたオレにはどうでもよくなってしまっていた。脳ミソはもう電波を受信しなくなっていた。まいっか、明日はヤンジャンの発売日だし。オレはルパン3世のキャラクターみたいに伸びすぎたアゴを見た。
 ばいいいいいん。
 気の抜けた効果音とともに、ガリの先輩は「はおぁっ」という奇妙な鳴き声を上げた。「さけるチーズ」を3種類同時に収納しているプラスチックのケースが、床に転がった。勝手に湧いて出たように、白い床をさけるチーズが彩る。床に犯人はオレじゃない。
「アッハハハハハハハハハハハハハッ」
 女の人間性を疑われるような奇声が、店内放送で流れるaikoの曲をかき消して鳴り響く。先輩の立派なアゴを見た瞬間にオレが思いついたことが、あの女の考えと一致したようだ。息を上がらせ、もわっとした体温が1メートル離れたオレにまで伝わってくるが、女は止まらない。続けてDOCOMOの電池式充電器を4つまとめて豪快に投げつけ、「キャヒョオオオゥ」と思いつくままの雄叫びをあげて先輩の側頭部にカカト落としを喰らわせた。さらにもう一発。頭のてっぺんまで振りかぶって繰り出された二度の攻撃は、女っていうより発情したメスザル――
 あれ?
 何かオカシイ。何か、オカシイ。
 先輩の動きが微かになっていくのを見るや、女は内線で店長を呼ぼうとふらふら立ちあがった黄色いジジイの妖怪目がけ、床に落ちていたプラスチックのケースを後頭部にヒットさせた。続いて自分のハイヒールのヒール部分を使ってノド輪をかまし、ジジイを再度地に這わせた。
 あれ?
 やっぱり何かがオカシイ。
 女は血に飢えたゾンビのような顔をしている。そばに設置されていた、三井住友銀行のATMを見た。オレはわずかに吹き出した。全ての物体を武器に、全ての物体を鈍器にってか。
 予想は当たった。女はATMに付属している非常用受話器のコードを無理矢理ブチ抜き、ジジイの首を思い切り絞めあげた。
「ヒュウウウウウウウウウウウウウッ」
苦悶に呻くジジイをATMの手前まで連れてくと、股間をヒールでねじり潰し、ATMの緑色の縁に両手をかけて――



え?
あれ?
気づいたときには、年老いたオーナーの身体は横転したATMの下敷きになっていた。気を失っている。ポカンと開いた口の中で綿ぼこりが湿って黒ずんでいる。
明らかにオカシイ。
先輩の方を見た。首の裏を撫でながら頭をゆっくりと左右に動かしている。女の乳児レベルの手加減のなさに屈して、意識ごとひねりつぶされかけていた。
 オカシイ。オカシイ。
 オカシイのは、オレだ。
 くしゃみをした。生の感覚が10年ぶりな感じ。
 「はい、ベンショー」
女は財布から1万円札を2枚取り出し、ピンと指ではじき、怒っているのか混乱しているのか自分でもわかってなさそうなジジイの上に放った。
「釣りはいらなーい♪じゃぁね」
 自動ドアが開きはじめたとき、女は踵を返し、オレに軽く手招きした。
「ほーらほら!ケーサツがおいでになるよ!全部アンタのせいになるよ!来な!」
オレはビニール袋のストックの上に置いていた高校のカバンを手にすると、お世話になりました、と小さく礼をして女の跡を追った。
燃え立つ炭火・・・・・・
また何か聴こえる。
僕は燃え立つ・・・・・・
なんのことだかわからない。オレの理解の範囲外だ。つまり声の主はオレじゃない。じゃあ誰だ?オレは蛍光液の目立たない黒いコンビニの制服姿で走りながら笑っている。先導して走る女も笑う。それだけが事実として残り、高円寺の星のない夜空に吸い込まれていく。
「あたしマキ。タナカマキコのマキコのマキ」息を弾ませる女は言う。
「アンタは?」
「テンマ」
「いい名前ねー、ペガサスなんて」
マキと名乗った女は交差点の隅に横たわるホームレスの毛布を勢いのままに車道に蹴り飛ばすと、オレの顔を見てニカッと笑った。
「なーんちゃってね、ホントは知ってるのよん」
「は?」
「だってあたしが名付けたんだもの!」




            **************




 暴力おばさん、マキに連れられて来たのは、高架下の小さな飲み屋だった。小さいといってもそれは店舗本体の大きさのことで、アメ横の飲み屋みたいに店外にいくつもの座席が出ているので、平均サイズといったところだ。店内から出る焼き鳥のタレと焼き魚のにおいが混じった中毒になりそうな濃い煙が立ち込めている。
「ふーん」
マキはアテがあるらしく、視線をギョロギョロと左右させている。
「ひっさしぶりーん」
「おお…久しぶりだな」
彼女が挨拶すると、外に砂肝と生ビールを3本持ってきたヒゲ男はくぐもった声で返した。
「シンヤ、まだココ来るの?」彼女は男の左肩に手を置いて背を傾けた。
「裏」
「裏?」女は訊き返す。「なんだってそんなトコに」
「コレだよ」ヒゲ男は右手の親指と人差し指で小さな○をつくった。
「仕事してねえんだ、いずれこうなるってわかってただろうよ」
「フフフフ」
口紅の塗ってない口元を引き上げながら、マキは含み笑いをした。下品だがどことなく色っぽい。
「相変わらず優しいのね、アンタ」
「湿っぽい唐揚げを餌付けしてやることのどこが優しいのか、オレには分からんね」
 言い捨てると、ヒゲ男は初めてオレの顔を見た。それから全身を不思議そうに見渡す。「オトコか?」
「違う違う、その辺で拾ってきただけよ、こおんな若い子に見向きされたらウレシーけどねぇ」
 マキが俺の頭を撫でようとしたので、オレは咄嗟に首をかがめた。マニキュアもなく無駄に伸びた爪の先端だけがオレの頭頂部を軽く引っかく。
「変わったコスプレだな、ボウズ」
「テンマっていうの、まだ高校生。18だっけ?」
どうも、と挨拶する間もなく「おじちゃーん、こっちこっち」という若い女の媚態で固めた声に応じて、ヒゲ男は去って行ってしまった。マキは一瞬目線を地面に落としたが、すぐに「こっち」と店の裏手を指差して向かった。
店の裏は空き地になっていて、細い葉っぱの雑草が発疹のようにぽつぽつと生えている。人類は滅びても雑草は生き延びると聞いたことがあるけれども、こいつらはきっとここがどんな土地なのか知らずに生まれてきてしまったのだろう。神様が地獄に落ちた人間を生まれ変わらせるとしたら、それはきっと雑草だ。
 男は道沿いから少し離れたところにしゃがんでタバコを吸っていた。「シンヤ」と呼ぶ甲高くハリのある声が聞こえる前に、こちらに気付いたようだった。
「おっす、マキさん久しぶりじゃん」
「おす、やっちゃったねアンター」
マキはシンヤという男の正面にしゃがみこんだ。「つひに行き詰っちゃった?その年で。あ」
 この女はそこで言葉を切り、オレに向けて自分の右のスペースに手を差した。
「そこ座んなよ。このコ、テンマっていうの、仲良くしてやって」
 オレは一瞬ためらったが、これといって反抗する理由もないので素直に従った。高円寺は通学路なので何度も来ているが、地べたに座ったのは初めての経験だ。シンヤという男は「ども」と軽く会釈すると、こちら側を向くように座りなおした。上も下も作業着みたいな薄汚いベージュという身なりだったが、悪い人じゃないことはすぐに分かった。
「ホームレスじゃあないよ、まだ」シンヤという男は話を続ける。
「もう3年ぐらい前だな、前のアパートを追い出されたのは。それからはいろんな友達の家に居候させてもらってたんだよ。炊事洗濯はできなくもないしね、んだけどまあ、類友みたいなヤツばっかだったからさ、オレと一緒でおっぽり出されたり、警察様のお世話になってしまったりしましてね。朝帰ってみたら夜逃げして部屋がカラッポだったなんてことも一回あった」
男はプッと鼻で笑った。
「今はこの辺りにある中古のレコード屋に住ませてもらってる。まあ、屋根裏なんすけども」
「屋根裏って、モノノケかっつーの」
 マキは立ちあがり、カギの壊れた窓から厨房を覗きこむと「おじちゃーん、生!」と叫んだ。そして人格が切り替わったようにすぐに座る。
「で、まあなんとか働かずに都会でサバイバルに励んでるってわけね」
「たまに店番やってんでね」
「アンタ、メンソールは吸わないでしょ」
「よく覚えてんね、マキさん」
シンヤという男は、くわえていたタバコを店の建物と空き地の間の溝に放った。
「四の五の言ってらんないからね、乞食の身なんだから」
 男が胸ポケットからタバコをもう1本取り出そうとすると、マキが自分のハンドバッグからパーラメントを取り出して、ライターと一緒に放り投げた。それを男が片手でキャッチ。映画みたいなコンビだ。
「で、テンマくんはどうしてここに来たの」タバコに火をつけながら、男は言う。
「まさかバイト中にしゃぶられちゃってホイホイついてきた、ってわけじゃないっしょ」
「オレは――」
「ああこのコ」マキがオレの言葉を制した。
「駅前のコンビニでバイト中に発狂しだしてさ、あたしもストレスたまってたから一緒に店内メチャメチャにしてやって、それで拾って逃げて来たってワケ」
「いや、オレは――」
「なるほどね、マキさんらしいや」シンヤという男はヒャハハハハハと高らかに笑った。
「出所したばっかりじゃないの?また捕まるよ、オレは知らねーっすけど」
「まあね、まだ1週間経ってないね、まあその時はその時でしょ、出てきたらこうして出所祝いしましょって感じで、アッハハハハハハハ。ってまだビール来てないじゃんよ!」
 マキが厨房の方を恨めしげに睨む。
「あのさあ――」
「でもまあね、堕ちるにしてもリズムが欲しいわよね、タンゴを踊りながら入所して、ボサノヴァに歩調合わせて出所するの。ロマンチーな犯罪者が一人いたってこの国は迷惑しないでしょうよ。それから言い忘れてたけど、このコあたしの子どもなのよ」
「ちょっと待ってって!」
オレはついに大声を出した。コンビニの制服を着たまま発した声では今までの中で最大だった。謎の電波のお導きはもうない。結局オレが狂っていただけなのだろうか。
「訊きたいコトが山ほどあるんだよオレには。さっきからオレが発狂しただの何だのって頭オカシイ奴みたいに扱いやがって。大体アンタはなんなんだよ?オレの母親だって?生まれてこのかた父さんの顔しか記憶にないけど、アンタは…アンタは…ちゃっちゃかちゃっちゃか」
 急に疲れが襲ってきて、オレは唇の筋肉も動かせないまでに脱力してしまった。オナニー中に突然めんどくさくなって下半身丸出しで寝てしまったのと似た状態。
「なんなんだってなんなんよ、母親は母親よお。オッパイ吸わせた覚えはないけどね。もちろんアンタの父ちゃんは吸ってるよん。そうだじゃあアンタ吸ってみなさいよ、遺伝子に埋め込まれたキオクがどかーんとよみがえるかもよ、おおおこれはあの女のチクビ!って」
「きもちわりい冗談はやめろって――」
 ひょっとこみたいな表情で上着を脱ごうとするマキから目をそらして、オレは言った。
 不意に、さっきの店の窓から透明のビニール袋が落とされてきた。シンヤが拾い上げると、冷えた鶏の唐揚げが一個入っていた。「ラッキー」シンヤはビニールに付着した窓の油汚れに触れないように注意しながら、飄々とした表情で丸ごと口に入れた。
「そういやさ、いつ彼を産んだの」
口の中で分解されていく鶏肉を見せつけるように、シンヤは言った。「てか、出てったの」
「アンタ18だっけ?」
「今、16。もうすぐ17」
「んじゃあ17年前に産んだってコトね。同棲はしてないよ、そゆう体質なもんで」
 マキは短くなったタバコを店の壁に押しつけた。木造の古い壁に丸い焦げ跡が残る。
「アンタの父ちゃん、昔はケッコー遊び人でさ、ところかまわず中出しして嫌われまくってたみたい。あたし以外にも孕んだオンナ、2,3人はいると見たね。んでももう落ち着いちゃったみたいね」
「父さんに、会ったの、最近」オレの声はかすかに震えていた。
「3日前に中野でばったり。口臭がくさくなっててビックリしたね。そろそろ信じてくれてる?」
「いや…」
「いや?」
「なんかもう…どうでもいい」
「ヒャハハハハハ、若いねー」
シンヤの声だった。
「いろいろ話しこんじゃった。もちろん寝てはいないんだけど、仕事のこととかいろいろ。ほらあたしも無職だからさ、アンタの父ちゃんの店で雇ってくれないかなーとか思ってたワケ」
「それで、オレのことも訊いたの?」
「まあね」
「バイトの場所も?」
「まあね。偶然だと思ってた?まさかあ」
「へえ、ヤリマン・マキが母性本能とは」シンヤが茶々を入れた。
「カルメン・マキみたいな呼び方しないでよ!そりゃ会いたくもなるでしょうよ、んだけど無償で教えてくれたわりにもう会うことはないなんて、昭和の映画みたいにカッコつけちゃってさあたしなんか悪いことした?」
 さっきから、この暴力おばさんの口調は句読点が分かりづらい。ラップでしゃべっているようだ。
「それにしても、アンタもなかなかやるわねー。仕事中によ、ご主人サマによ、カラーボール投げつけるなんてねえ、愉快な血受け継いだもんだ、あたしゃ嬉しかったよ、アンタの下品な雄姿がさ」
マキはほろ酔いのサラリーマンのセクハラみたいな手つきで、オレの肩によりかかった。オレはすぐに首を振って否定した。
「何」
「オレは知らない。やってない」
「やってたじゃないのよー、3mぐらいの距離でしかと目に焼き付けたわ」
「あー、あー」オレは両手で頭を掻いた。シンヤが至極楽しそうにニヤニヤしながら、オレたちの顔を見比べている。
「まあ確かにオレなんだけど、違うんだ」
「二重人格?」
「違う、いきなり聴こえたんだ、変な声が」
「声」
「そう」
 マキは一息タバコをふかすと「声ねえ…」とひとりごちた。
「なんて言ってた」
「オレも気になるな、新時代のトレンドはエスパーだからね」シンヤが身を乗り出す。
「怒れ、って」オレは初めて、脳内でこだまし続けていた言葉を口に出した。イカレ。何だろう。湧いて出るのは怒りじゃない。もっと朗らかで、テレビCMにしか出てこないような家庭にある、ほんのりと甘いあたたかさだ。ぬくもりだ。
「い、か、れ」シンヤが繰り返した。「至極明快だね、ロジカルからは程遠いけど悪くない。村上春樹のキャラならこんな風にコメントしそう。他には?」
「ほかは特に…なんか回想みたいなのもあった」
「回想?昔の?」マキは言った。
「そんな昔じゃない、ていうか今日の」
オレはそこで言葉を切ってしまった。次の言葉は喉元にあるが引きずり出せない。いいショベルがほしい。地べたにふんぞり返る無職二人の顔を見る。マキは珍しく無表情で次の言葉を待っている。シンヤはというと、口元だけを小さく動かしている。イ、カ、レ、イカ、レ。ホントにこの人のこと嫌いじゃなさすぎる。思わず確信してしまった。
「友達がホモだったそうで」オレは唇の筋肉を復活させた。
「コ志ノっていう、身長はオレと同じぐらいのモヤシなんだけど、なんでもずいぶん昔から、男にしか興味がなかったと」
「へーえ、イイじゃない、アンタまだ童貞でしょ」
「おもしろいじゃん」
シンヤがマキの前に出た。「そんだけ?」
「あいつ、友達ほとんどいないんですよ、オレ以外は。だからつまりその…」
「アイラブユーを告げられたってわけか」
「まあ、そんな感じです。でもそれだけじゃ済まなかった」
 




――おおおおおお
 だからねオレは何かそういうこと考えてなくてね、なんか怖いっしょだって愛するってさあ誰かが言ってたけど騙し騙される関係のことだろ、ティファニーが朝食抜くってことだろ、後ろの少年だあれって振り返ったら猟師に射殺されるってことだろ、オレおまえに嘘つけないからさ、オレおまえに何かしたか?
――好きだよおおおおおおおおおお
 うんまあ、良いことはそれなりにしたし悪いことも一晩眠って忘れる程度にあったと思うんだけど、でもさ何かそこでこう、人間になる?なんかこう人間っぽいじゃん愛って、ね、めんどくさいよ、流行は2000年代までだよそのうち飽きてきてさ、オレら二人で殺し合ったりしてさ、そんなのイヤじゃない?
――おおおおおおおおお
人のいない放課後の裏路地。コ志ノは怪物になっていた。やんわりとお付き合いを断らさせていただいてから1秒以内のことだ。やつは体育のフットサルで見学しかしたことがないという、インドア系のレジェンド的存在だったが、顔も声も人一倍でかい。ガリガリだから巨大なスプーンのよう。
親友の突然の豹変は何よりオレの心をかき乱した。純度100%の健常者だった。しかしそんな10年間の過去全ての時間軸に銃口を向け、疑いをかけろと脅されているような気がした。オレの過去が嘘であるとしたらオレの存在でさえ嘘と思わざるを得ないのであるからして、結果オレの顔に自ら泥を塗ることになる。それだけは避けたかった。
コ志ノは体勢を中腰で前屈みにして、両腕をガード中のボクシング選手のように構えていた。謎のファイティングポーズ。おおおおおおお。おおおおおおおお。もうコ志ノじゃない。人間じゃない。ただのオオオオオオオだ。オオオオオオオオ怪人オオオオオオオオ。身長オオオオオオオオ体重オオオオオオオオ好きな食べ物オオオオオオオオ。
――テンマこれを見ろ。この体を見ろ。
 言うとコ志ノは、むしるように服を剥いだ。下着のシャツも、トランクスも。
――これを見てよ、この体をさ。
 ゆっくりと腕を開いたその胸には、「愛・し・て・る」という文字が、ナイフか何かで刻んだのだろう、いびつな字形で散乱していた。胸だけじゃない、腹部や両の手足、背中の至る所にまで「愛してる」「愛してる」「愛してる」「愛してる」…ソリッドな4文字のムレがオレの前に立つ。茶色く消えかかっている文字もあれば、まだ血が固まらず傷の外側が青く滲んでいるものもあった。在宅ワークにしちゃぶっ飛んでる。
――ぼくはこんなにもテンマが好きなんだよ。そう去年のさ入学式に、ぼくのコメカミにできたてのニキビがあってそれをテンマがちらちらちらっと見ていたの、覚えてるかな、ぼくは思い出だから覚えてるよ、あの時ねテンマ、テンマがそのニキビをいやらしくなめてくるところを想像してたんだ、ぼくのニキビをゆっくりとゆっくりとごっそりなめまわして、甘く噛んだり、殺したがってるような目つきで睨まれながらニキビをちぎって、ブチュって流れてくる血と膿を口にふくんで飲み込んでくれないかなって、思ってたんだ…。
 オレが言葉を失っている間、コ志ノの男根はみるみる勃起していった。身体は骸骨のくせにチンコはデブだ。しかしその時の自分はそんな小さな敗北を喰らっている場合ではなかった。
 やつのいきり立った男根の裏筋から根元にかけても、小さく「アイシテル」と刻まれていて、勃起がMAXに達した瞬間、傷口がカッと割れ、チャージされていた血がシャワーのように噴き出した。顔の筋肉を硬直させ、紅潮した自分を抑えつけるようにコ志ノは口を動かした。
――興奮してるよ、ぼく興奮してるよ、もっと見て、見られるとぼくもうやばいんだ、心が飛んでしまうんだよ、でもちょっとだけなめてほしいな、ううんちょっとじゃない、いっぱいなめていやらしくさ、テンマのベロっていやらしいんだよ、知ってる?何度も話してるからわかるんだ、テンマよりいやらしくしてくれる人は他にいないんだよ、え、ねえテンマなんか言ってよ、口の中が見たいんだよ、なんか言ってよ、テンマが欲しいんだよぼくはああああああああああ
――うわああああああああああっ
 コ志ノの雄叫びと自分の断末魔が重なり、オレはやつが接近してくるより一瞬早く逃げ出した。脱ぎかけの制服のズボンとトランクスに足首を取られている人間から逃走するのは簡単だった。電車に乗るとやつから逃げられない気がしたので、そのまま1時間半かけて高円寺まで、ひたすら走ったり歩いたりを繰り返した。すぐ数時間後にあった、コンビニでの事件もそうだ。自主的に行動しているときは逃げている記憶しかない。だけれど一つ覚えているのは、高円寺駅前のバス停付近までたどり着いたとき、オレの口は笑いの形になっていたということだ。









 あらかたの流れはこれで全部だ。しかしまことに残念ではあるが、ここまで全てをこの二人に話すことはできなかった。オレが自制をかけたのではない。コ志ノが勃起していたというくだりの途中で、マキが正面から飛び蹴りを浴びせてきたのだ。
今にもひん曲がりそうな飲み屋の壁に背中から激突して咳こむオレ。抱腹絶倒するシンヤ。
「そんなんだからアンタはダメなのよったら」
マキはオレを見下げる。
「そんなんじゃ一生童貞ね。今の時代オトコもオンナも余ってんのよ。やるときゃやんなさいよ。親友だろうがなんだろうがね、イヤだったら死ぬほどぶん殴ってやればいいのよ。コンビニでイイ感じだったじゃない。もっとやれるのよアンタは、そうよアンタはあたしみたいになんなさい。クソみたいな精神インポの親父のもとで暮らしてるからあたしの血も廃れちまうのね」
「なんなんだよアンタはさ」オレはなんとか声を絞り出した。
「オレは喧嘩なんてほとんどしたことないから、殴る習慣なんてないんだよ、なんだよアンタの血って」
「なんだって血は血じゃない!月イチでどばっと出てくるアレよ」
「そうじゃねーんだよもう」だんだんめんどくさくなってきた。
「ていうかオレはまだ、アンタを母親だなんて認めちゃいないってのに――」
「ああもううっせェんだよ!」
 不意にオレの顔面に、マキの上着が飛んできた。くすんだ金属のボタンが片目に入ったので目を擦った。目を開けると下半身ハダカのマキ。
は?
 それは確かに女性器だった。原始時代の草原みたくあらゆる方向に伸びたぼうぼうの毛の奥でトシのせいかあまり赤みがなく、濁った肌色がぷっくりと膨らんでいる。エロマンガみたいに元から濡れているなんてことはなかった。中心のブラックホールの周りを乾いたヒダが年寄りの垂れ乳のようにビロビロっと取り囲んでいる。オレにとって初のマンコお目見えが熟女の、しかも自分の母親を名乗る女のグロマンだなんてシュールすぎて笑えない。
「感じろっ!」
 マキが無理矢理オレの額に股を押し付けた。そして、ほとんど窒息しかけているシンヤの引き笑いをバックに、人の頭で性器を擦りはじめた。
「んうっ…んうっ…ううっ、わかる?」
 乱暴に擦りつけながら、マキは獲物を食い荒らすハイエナのような声音で言う。よくわからないがたぶん感じてはいない。
「わかる?アンタにこの力が。あたしの熱情が。あたしは真性の色狂いだ。ヤリマンだ。人生の全てをマンコの快楽に捧げてる。心臓が動いてればどんなオトコとだってかまやしないよ…ションベンくさい童貞のアンタとだってヤれるもんならヤってやりたいね」
 マキはオレの後頭部をつかみ、湿ってピチュピチュと音を立てる性器に押し潰した。オレはブヨブヨした太ももの間でもがき、気道を確保しようとした。
「この熱さを感じろっ…この飢えを感じろっ…アンタはこっから出てきたんだ…あたしはマンコだけで世界の一つや二つぶっ壊してやろうと思ってる。本気で思ってる。だから避妊しないオトコだろうと関係なくヤり続けた。世界をぶっ潰そうとしてるのに子どもの一人や二人産むことから逃げるなんてできるか。そんな甘ったるい気持ちで手に入る快楽なんてファッキンシットだ。あたしは死んだら天国に行ってやるんだ。究極にオトコとヤりまくってエンマ様を感心させてやる。そういう女だよあたしは。だからアンタが…あたしのマンコから飛び出したアンタが…生温い気概で生きてるだなんて許せないんだよ。怒れよ。もっと怒れよ。アンタの友達とやらみたいにさ。今のアンタは面汚しだよ、母のマンコの面汚しだよ」
 言葉が途切れるとともにオレは張り倒され、やっと息ができるようになった。ガリのチンコとババアのマンコ。今日は何て日だ。ヒダだけに。全然うまくないが仕方ない。少しでもくだらないことを考えてないと今にも頭がキャパオーバーしそうだ。
 オレの額にはまだ、マキの性器から
「そうだ、マキさん」
一部始終を後ろから傍観していたシンヤが口を開いた。
「テンマ君勧誘しちゃえば?『第六神会』にさ」


後書き

感想をお寄せください!

見開き表示を閉じてコメント欄へ移動