匂ふ思ひ出

匂ふ思ひ出



懐かしい匂いがする。
算数の宿題の多さに苦しみながらも、この匂いを嗅いでわくわくしてたっけ。

 「すみれ、出来るまでもうちょい待ってな」
顔に似合わずフリルがあしらわれたエプロンを着ている父は、台所に立って娘である私のために料理をふるまってくれる。
父の得意料理であるオムライスの匂いが漂う。
この匂いを嗅ぐと出てくる様々な思い出。
すやすやと陽だまりの中でうたた寝している息子のそばで、私は目をつむった。


 私の母親は、私が小学校に上がると同時に蒸発した。よって、私は彼女に関する情報をほとんど持っていない。
顔を思い出そうとアルバムを開いてみても、彼女が写っている写真は一枚も残っておらず、私と父の写真しかない。
幼いころ、彼女の人物像を探ろうと思い、父に尋ねた。
「あいつはなぁ、えらいべっぴんなもんだから、金魚のフンみたいに男がいっぱいついてくるねん。やらしい女や」
母について尋ねると必ず言う昔からの名台詞だ。イントネーションがいつも同じだ。
いつもその父の一言を聞くたびに私の頭の中に出てくる母は、髪が長く、化粧は派手、紫とか赤とか、ビビッドカラーの洋服を纏っている。
「お母さんはどんな仕事をしていたの?」と尋ねても、「風呂入ろか」と話を反らす。
父はこれ以上、情報を与えてはくれなかった。
2日ほど放っておいた無精ひげに囲まれた口から出てくるのは母に対する批評ばかりだ。
温厚で優しい父がそこまで嫌うのだから、とんでもない女に違いないと思った。
父にとって母は他人でしかないが、私にはかけがえのない存在だ。
軽蔑することなんて到底できない。
 
 あれは高校時代のこと。
私は高校の3年間だけでも6人と交際した。
クラスメイトやサッカー部のキャプテン、ある時には教育実習のために来た大学生と付き合った。
恋人がいない日なんてないのではないかと思われるぐらい男性との交際が盛んだった。
いずれも長くは続かず、交際期間は長くて3ヶ月ほどだった。
晴れて恋人同士になるまでのプロセスが楽しかったのかもしれない。
6人目を連れてくると父は呆れながら「お前は金魚によう似とる」と呟いた。
私にはそれがどういう意味なのか、すぐさま理解できた。
口をぱくぱくと動かして餌を待ち、美味しくいただいたらすぐに排出する金魚にだけはなりたくないと思っていただけに、父の回りくどいその言葉は私にとって痛烈なものだった。
父の冷酷な言葉にショックを受けると同時に、自己嫌悪に陥った。
ある日、『お父さん、ごめんね』とだけ書きとめた便箋を食卓に置き、私は当時付き合っていた男性の暮らすアパートへ行くことにした。
嫌いな女に似た娘の顔を毎日見て暮らすなんて寝覚めの悪いものだろう。
ならば父のためにいっそ姿を消そうと思った。
自殺という選択は決してしなかった。
そんな勇気はどこにもなかったし、父を悲しませてはいけないと思ったからだ。


 家出をした一週間後、恋人は「お前の親父さん、アパートの前におったわ」と目を見開いて言った。
私は思わず、えっ、と声をあげた。
どうしてこんなに早く居場所がわかったのだろう。
「いいよ、放っておこう」
私がそういうと恋人は私の腕を強くつかみ、「本当にそれでええんか」と目を見据えて言った。
「お父さん、心配そうな顔しとったで。はよ行きや」
そのうち帰るでしょう、と冷たくあしらうと、今度は私を引っ張って部屋を出ようとした。
一週間前、彼は私が父の前から身を引きたいという気持ちに理解を示してくれた。
結婚して幸せな家庭を築こう、とまで言ってくれた。
その結果の同居であるはずなのに、なぜ父のもとへ返そうとするのか、彼の真意が私にはどうしてもわからなかった。
私は、なんでよ、と言って必死に抵抗したが、無駄だった。
「お前のために親父さんに会わせようとしてんねん。それがわからんのか」
彼の目は真剣そのものだった。
玄関のドアの隙間から覗くと、電柱に寄りかかって私が来るのを待っている父の姿があった。
ドアを閉め、恋人の顔を見た。
彼は微笑み、「親父さん、待っとるで」と言った。
私はうなずき、ドアの向こうへと歩みを進めた。
 父は革のジャンパーのポケットに手を突っ込み、小石を蹴っていた。
「お父さん」
呼びかけると、父はゆっくりと顔を上げ、「すみれ」とつぶやく。
「ほんまに心配したで。元気そうで安心したわ」
父は生え放題のひげに囲まれた口元を歪ませ、笑った。
「何で出てったん」
急に真顔になった。
「お父さんのためだよ」と言った。
「ちっとも嬉しないわ」
父はタバコに火をつけ、空を見上げる。
たったの一週間しか経っていないのに、セブンスターの香りが懐かしく思える。
「俺はあいつが嫌いや」
「うん。知ってる」
「お前はあいつによう似とる」
うん、と私はうなずく。
「けどな、お前が嫌いなんて一度も言っとらん」
セブンスターの煙が舞うのを見届けて父はそう言った。
「私、もう家には戻らないわよ。そう決めたの」
父は一呼吸おいて、「ああ、そうかい」と言った。
「勝手にしいや。けど、たまには顔見せてな」
孫の顔を見てから死にたいわ、と叫びながら父は踵を返した。


 翌年、私は同居していた恋人と結婚した。
その次の年には待望の息子が産まれ、私は幸せの絶頂にいた。
しかしその年のある日、旦那が突然交通事故で亡くなり、早くも未亡人になってしまった。
私は、旦那を愛していた。
今までの恋人とは違って、私を心から愛してくれた人だった。
あとで父から聞いた話だが、旦那から連絡があったので、父は旦那のアパートに行くことが出来たのだという。
私はあの時、なぜ彼はあんなにも必死に父との対面を強いてきたのか不思議でたまらなかった。
彼が私のためにはたらきかけてくれた。
お礼を言う間もなく彼は旅立った。
私は彼の遺影を抱いて泣き続けた。



 現在、私は36歳になった。
息子は16歳になり、旦那が亡くなって16年が経つ。
今日は父の還暦祝いだ。
主役がなぜか台所に立ってオムライスを作っている。
私が目を開けると、息子はすでにオムライスを間食したらしく、父と談話していた。
「すみれ、やっと目覚めたかい」
「お母さん、オムライス冷めちゃうよ」

 父は無精ひげに囲まれた口を歪ませて、今日も笑っている。

後書き

はじめまして。市松イチコと申します。
もうすぐ入試だというのにちゃっかり書いてしまいました。
ストレス発散に書いたものですが、気軽に読んでいただければ幸いです。

この小説について

タイトル 匂ふ思ひ出
初版 2008年1月11日
改訂 2008年1月11日
小説ID 1781
閲覧数 940
合計★ 11
市松イチコの写真
駆け出し
作家名 ★市松イチコ
作家ID 188
投稿数 1
★の数 11
活動度 108

コメント (5)

★トリニティ 2008年1月12日 1時49分18秒
面白かったです。
少々関西弁に不自然な点があるものの、しっかりとした作品として読めました。
父の思いやりと彼の思いやり。
ふたつともを表すには少し内容が足りない部分もあったかな、と思いましたが一人称なのでそれほど軽くも感じなかったです。
お父さんの苦味の方が強い苦笑が見えそうな気分でした。
少しばかり誤字が見られたのが残念でしたね。

オムライスというキーワードが存分に生かされていて、素敵でした。
思いやりの空回りってときには誤解や憎しみを生んで悲しいですよね。
それが人間なんだって割り切れたら、もう少し生きやすくなるんでしょうか……?
★市松イチコ コメントのみ 2008年1月12日 10時19分19秒
>トリニティさま
はじめまして。感想ありがとうございます。
まさか誤字があったとは。
推敲もきちんと行わずに投稿した自分を叱りたくなります…。
自分では気づくことの出来ない部分を指摘していただき、とても勉強になります。
次回からはトリニティさまの助言を胸に書こうと思います。
ありがとうございました。
★やまけん 2008年1月13日 15時27分47秒
よかったです。読んでいるこちらも匂いとともに情景が浮かんできました。
(ときわ荘、みたいなアパートの外で白い息と白い煙を吐きながら立っている父と、暫時無言で見つめ合う私、みたいな)

結婚してからの部分が少し短く、もう少し読んでみたかったのですが、父が料理をしている間のしばしの回想、と言う意味ではちょうどいい長さなのかも、と思いました。

オムライスの匂いが過去にも登場するか、セブンスターの匂いが現在にも登場していれば、より「匂ふ思ひ出」というタイトルが生きてきたかなと思います。
★冬野 燕 2008年1月14日 14時12分19秒
 不器用だけど優しい子ども想いな父親。いいですねえ、理想像です。うちの父親もこれくらい優しかったらなぁ。
 オムライスを作る父親の姿が浮かんできて、こんな人になりたいなと思いました。
 ただ、六人目の彼が優しくて思いやりがある人というだけで終わっているのが少しだけ惜しいかな、と。彼との馴れ初め話が聞きたかったです。
★市松イチコ コメントのみ 2008年1月16日 18時05分01秒
最後までお読みいただきありがとうございました。

>やまけんさま
はじめまして。
私も「ときわ荘」という感じのアパートを思い描いていました。嬉しいです。
彼との出会いを書くと父娘というテーマから反れて曖昧になるかもしれないと思い省略しました。
やはり書いたほうがよかったのでしょうか…。

>冬野 燕さま
はじめまして。
料理のできる父親って温かさが感じられて良いですよね。
確かに、これだけだと六人目の彼の詳細がわかりませんよね。
以後気をつけます。
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