酒場のお話

「ニーチェの口癖は『神は死んだ』だと思うんだが、あなたはどう思う」

 そう訊ねてきたのは、カウンターの隣席に座った白いスーツの男だった。欧米人、もっぱらドイツかイタリア人かのどちらかに似ている顔付きだ。彼の前にはジンの入ったグラス。僕の前にはバーボンの入った、琥珀のグラス。二つの氷が、オン・ザ・ロックが、あの心地の良い音を奏で、店の奥にある小型の パイプ・オルガンの音色とシンフォニックな調和を果たしていた。

「言い方を変えたらどうです? 少なくとも、僕にはその問いに対する答えは持ちあわせていない」

 彼はジンを一口飲むと、懐から文庫本を出した。大分紙が色あせているが、それは日本語訳の『善悪の彼岸』であった。

「そうか…なら、あなたは神が死んでいると思うか?」
「まるで子供が考えるような哲学的問題ですね」
「哲学者といのはもっぱら子供みたいなもんさ。大人の境界がわからないようにね」

 僕は琥珀色の、上品な香りのする液体を飲む。喉を通る熱に浮かされそうになって、僕は自分から話を振った。

「なら、大人は愛を知っているんでしょうか?」
「唐突だね。そしてまた答えにくい」

 彼は笑った。初めてみる微笑だったが、眉間の皺もあわせて、彼には似合わなかった。彼にはもっと、凄惨な笑みが似合う。ビールだと思っていたものが実はバナナ酒であったと騙されたような、そんな笑みだ。
 僕はバーテンである男性に、バナナフィッシュの刺身を注文した。黒髪のバーテンは僕に微笑みかけると、店の厨房へと下がっていった。パイプ・オルガンの音が、沈黙の代わりに、マナのように浸透した。

「愛とは…そうだな、少なくとも人類が持つべきものではなかったものかもしれない。しかし同時に、持つべくして持ったものと言うべきか」

 彼も唐突に口を開いた。その次に、この店「デュラン・デュラン」のドアに括りつけられたベルが鳴った。僕と彼はそちらを見、口笛を吹いた。黒いドレスの女だ。彼女は僕たちを見ると、獣と同じフェロモンを持つ女性特有の笑みを浮べると、僕の隣りの席に腰掛けた。彼の目が批難を浴びせかけてくる。

「面白そうな話をしてそうね」
「ただの暇つぶしですよ。きっと権力者にはつまらない類の」
「あら、益々興味深いわ」

 バーテンが戻ってくる。その手に乗った皿には、バナナフィッシュの刺身が、控えめな日本人女性のように乗っかっていた。僕の前に皿が置かれると、彼女は「彼と同じものを」と僕の隣りで居心地悪そうにしていた彼にウインクして、注文をした。

「フム、それで、何の話をしていたかな」
「愛について、ですよ」
「ああ、そうだったそうだつた」

 机を作った彼女の両腕の前に、グラスが置かれ、ジンが注ぎ込まれた。オン・ザ・ロック。僕は彼女にはクラッシュの方が似合うと思った。

「愛、ね…そういえば私、この前男をフったばかりだわ」
「そうだと思った」
「これだから女は」

 彼女は僕らの呆れ顔に子供の悪戯に困ったような母親のような顔をすると、ジンを飲んだ。彼女の頬がほんのりと赤く染まった。僕は刺身をつまみながら、それに女とは別の、一種の魅力を感じていた。

「それでは、話を戻そうか…愛とは酒のようなものさ。酔いやすく、癖になる。きっと人類が見つけた最初の酒さ」
「あなたにしてはとても分かりやすいですね」
「アイロニーね、あなた」

 彼と彼女は僕が注文したバナナフィッシュを勝手にとつた。そこに僕は、仕返しの意味を見出し、ひどく不機嫌になってしまった。二人から顔を逸らし、あのパイプ・オルガンを見やる。
 奏者は、金髪の、中学生ぐらいの少女だった。こちらからは見えないが、彼女の顔には火傷の痕があった。それが少女の魅力を、僕の隣りにいる女性とそれとは違う、しかし同等のものを感じさせた。
 そこで僕は、彼女に近寄ろうとする、場違いな男の存在に気付いた。どうやら僕と同じく、彼女の酒に酔った若者らしい。

「いいのかい、あのままで」

 彼が囁くように言った。彼女もまた、喜劇を眺めるような目でジンを飲んでいた。僕は自分のものを呷ってから、カウンター席から立ち上がった。若者は少女に手を伸ばそうとして、まるで肉食動物に気付いた草食動物のように、僕に気付いた。
 彼は僕の姿を無遠慮に眺めると、口を開いた。酒臭い、というよりも薬のような口臭だ。

「あなたは彼女の付き人ですか?」
「いや、ただの酔っ払いさ」
「なら、私と同じだ」

 若者は男装をした少女だった。しかしその心は男のものらしく、少女を手に入れようと劣情にその目を燃やしていた。僕は呆れて頭を抱えた。これだから若いやつは嫌いだった。
 ピアノ奏者が己の仕事を中断して、僕たち二人の間に入ってきた。

「酒でわたしに勝ったら、一晩中ピアノを弾いてあげるわ」
「なら、勝たなきゃね」
「私は止めておく。お酒は弱いから」

 男装の彼女が引き下がると、僕と奏者は近くのテーブルに座った。その席にバーテンが五つのグラスと、それらに氷と高いコニャックを入れていった。喉が鳴る。僕は緊張していた。
 いつの間にか僕の後ろには、スーツの彼がいた。ドレスの彼女はカウンター席でゆっくりと、まるで劇作家のように僕らを眺めていた。

「さぁ、始めましょう」

 少女の手が一つ目のグラスに伸びる。僕も彼女に習って、グラスを持った。タイミングは同じ、コニャック特有の香りが口内から鼻腔に纏わり付くと、僕は折角注文したバナナフィッシュを食べきれないことを悟った。

「安心しろ、バナナフィッシュはもう彼女が全部食べてしまったさ」

 僕の顔から思考を読み取った彼が、彼が呟いた。溜め息が漏れた。もうこうなれば、奏者の音色に酔うしかなかった。



 目を覚ますと、パイプ・オルガンの歌声が聞こえた。僕は三杯目で落ちていたはずなのに、彼女は彼女の聖域にいた。

「あら、起きた? もう朝よ」
「何故きみがそこにいるんだい?」

 周りを見れば、もう人は僕と彼女だけだった。彼に色々と質問をする予定だったのに、スケジュールがすっかり壊されいた。

「弾きたい時に弾くのがわたしのポリシー。けどあなたはそれじゃ納得してくれないわよね?」
「当然さ」

 僕はまだ机にあったグラスに残るコニャックを呷った。そんな僕を見て、奏者は子猫のように笑った。演奏を止めると、僕の前に立って、僕が飲んでいた酒を飲んだ。そのグラスに、唾液が入れられた。

「それじゃ、この酒の代金ってことでいい?」
「割りに合わないね」
「価値を決めるのは主観だわ。少なくとも、あなたとわたしは違う他者よ」

 やれやれ。肩を竦め、僕は違う酒がないかを探した。カウンターの向こうに、氷の入った冷凍庫が見つかった。二つ、氷を拝借して、それぞれのグラスに落とす。彼女の手にはいつの間にか赤ワインの入ったショットグラスがあった。

「とりあえず、乾杯しましょうか?」
「何に?」
「愛を知った日に」

 気障ったらしい台詞だ。しかし悪い気はしない。
 僕は二つの酒に乾杯して、命の水を身体の中に押し込んだ。
 氷が鳴る。

 カランッ

後書き

《dat1、ブレイク、ブレイク、アッーー!》
《ああ、シキ・ルイが堕ちた!?》

おはこんばんちわ兼はじめまして、シキです。どうやら夏ですね、光化学スモックが蔓延する時期になりましたね(光化学の字があってるか不明です)
今回はイカサビSの話に触発されました。イカ、サーセン。
約一年ぶりです。そしてバカ話です。バナナフッシュなんて魚はいません。後バーにパイプ・オルガンがあるのは妄想です。後書きこれだけです、まじすんません、短くて更にすんませんでした

or2<いい男に掘られてきまアッーー

追記:
前書き変更しました。皆様申し訳ありませんでした。

この小説について

タイトル 酒場のお話
初版 2008年7月12日
改訂 2008年7月14日
小説ID 2339
閲覧数 1355
合計★ 8
シキの写真
ぬし
作家名 ★シキ
作家ID 5
投稿数 59
★の数 474
活動度 8323

コメント (6)

★ビビンバ吉田 2008年7月12日 23時28分43秒
"机を作った彼女の両腕"って表現、すごくよく想像できました。こんなの私には思いつかないですよ。
雰囲気がナイスな話でした。
最後の"カランッ"を"ペビョラオッホーゥィ"とか謎の効果音にしてたら最後の最後に尋常じゃないミステリーを残す迷作になったと思いますが、ぶちこわしすぎるのでやらなくて正解です。

ニーチェはちょっとかじってみたけど、だいぶ忘れてしまったなあ。
神は死んだ?
どう思うって言われても〜、"語り得ぬものについては沈黙しなければならない"。
あ、ウィトゲンシュタインだった。ゲラゲラ。
弓射り 2008年7月13日 16時05分11秒
頭の良さげな文章だー。
でも、よく読むと何も語りえてないね。

哲学者の名前を出せば僕が怯むと思うなよ! 良い男!?ゴリラみたいな黒人に掘られてしまえ!あはははは(endless
★ コメントのみ 2008年7月13日 16時53分23秒
大人な世界だ…
お酒が飲める年になったら、彼らの気持ちが分かるようになりそうな気がするので
もう少し大人になったらもう一度読もうかと思いますです(笑

ところで、
「そこで僕は、彼女に近寄ろうとする。場違いな男の存在に気付いた。」
のところが
「近寄ろうとする。」が句点ではなく読点かと。

違ったらごめんなさい;
頼でした
★イカサビS 2008年7月13日 22時37分57秒
まず、ここで感謝を述べることは間違っているかとは思うけれど。
イカサビS新作「きのこ」を読んでくれてありがとう。
自分の小説から触発され、新作を投稿してくれるとは思いによらず、感動を覚えました。
しかし、少なからず不服な点があります。
小説の紹介文についてです。
自己を卑下することは自由ですが、その比較対象に個人名を出すことはあまり好ましくないと思います。
紹介文に何を書くかは作家の良心に委ねられます。小説を表現するため又はより効果的にするために工夫をするのであれば、好ましいと思います。
しかし、今回の文章は自分の作品を貶めているだけだと感じました。
少なくとも、俺は読む気が失せました。
そのくせ自分の比較対象として、他の作家の紹介をしている。
あとがきなどで自分のお勧めの作家を紹介すること自体は悪いことではありません。
手放しで褒められれば誰でも嬉しくなるでしょう。
しかしそれがマゾヒズムに付き合わされるための言葉であるのなら(それが意図したことではなかったとしても)、不快に思います。


作品について。
印象的な表現が多く、舌を巻く箇所も何箇所もありましたが、先のコメントで弓射りさんが言っていたように「語りえて」いないため、小説としての出来は良いものとは感じませんでした。
あえて解決させずミステリアスなムードにしたかったのであれば、成功だといえます。しかし、肝心の登場人物達の会話と行動が滅茶苦茶で、俺ならこの小説を「酔っぱらいたちの宴」と銘打ちます。
シキの実力から察するに、もう少し推敲を重ねていれば(その時間があれば)、非常に良いものになっていた筈です。
非常に残念です。


最後に。
自信をもてとは言わない。せめて、自分の作品に対して、真摯であって欲しいと思う。
同期の桜として、またかけがえのない友人の一人として。
長文失礼しました。
以上、イカサビSの偉そうで慇懃無礼なコメントでした。
シキ 2008年7月14日 10時45分26秒
数多のコメントから、いつもは誤字脱字発見の方以外は返信していませんが、今回はさせていただきます。

まず前書きに関して不快感を持ってしまった方(特にイカサビSさん)申し訳ありませんでした。前書きにおいての比較表現として勝手に用いたこと、また個人指定をしたことを、そしてそれを個人的かつ不快なマゾヒズムに用いたことを謝罪します。
前書きに関しては、今夜中までに変更します。ご容赦ください。

そして読んでくださったビビンバさん、弓射りさん、頼さん(指摘ありがとうございます)、イカサビSさん、そしてこれまで、これから読んで下さる読者様に感謝を。

そしてこれから僅かな反論を。
私はそもそもこの作品で「語る」気など一切ありません。テーマ性を持たせずにわざと書きました。何かを語ることだけが小説ではありません、少なくとも私はそう思っています。
キャラクターの動きや文体もまた、ある作家のものを模倣し、その動き方を自分なりに再現したものです。だから、ミステリと括られることは正直不快です。
パロディした作家のやり方通りならイカサビSさんの言うとおり「酔っぱらい」でもいいかもしれません。しかし私はこの文だからこの題にしました。これからのアドバイスとして受け取らせていただきます。
以上です。

最後にもう一度、この作品を読んでくださった方々に、そして友人として真剣に言葉をかけてくれたイカサビSさんに謝罪と感謝を。
★シェリ コメントのみ 2008年7月15日 22時25分34秒
 イカに続いて、シキまでも……。僕も頑張らなくては。

 最近初めてビールを飲みましたが、あの独特の苦さがどうも駄目でした。なのでジンやらバーボンやら平気で飲める登場人物が少し羨ましいです。

 作品の感想としてはコメントのみで。というのも今回の話はお酒に例えると、アルコール度数の高いウィスキーのようだなと感じました。ビールもろくに飲めないお子様な僕には、少々敷居が高かったです。
 ただ登場人物たちの会話には、舌を巻かれっぱなしでした。こういうセンスの会話は僕には書けないので、ただただ脱帽するのみです。

 やはり最近顔を出していないので、コメントを書くことが下手になっています。シキの次の作品までには、何とかもう少しましなコメントを書けるよう努力しますので、近いうちにでもまた投稿してください。楽しみにしています。ではノシ。
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