怖い話シリーズ - 視覚と聴覚 後





  
                      「ここですか?」







 一瞬、自分の耳がおかしくなったのかと、思ってしまった。

何回も聞いたことのある、無機質のように、生気を感じられない声。

それが、玄関から……そして、テレビの方からも、聞こえてきたのだ。

男なのか、女なのか、年齢も、性別さえも曖昧な、
聞いてしまうと……酷く不快になる声。

それが部屋に響き渡る程の大音量で、僕の耳に入って来る。

はっきり言って、かなり困惑していた。

二度と聞きたくないモノだったが……そう簡単には、いかないらしい。

知らず知らず、ねっとりとした汗が、額から流れてきた。

部屋の中は、相変わらずインターホンと砂嵐で、
半ば騒音の域を超えつつある。

僕はというと、玄関でドア窓を見た瞬間に、
そしてあの声を聞いた途端、金縛りに遭ったかの如く、
体が硬直し、動けずにいた。

理由は至極簡単、
あまりの恐怖で、体がすくんでしまったのだ。

自分の手を見ていると、びっくりするほど小刻みに震え、
手のひらはぐっしょりと汗で湿っている。

一方、僕の脳内は……この状況を何とか理解しようと、
必死にフル稼働していた。

一体、何がどうなっているんだ!?
大体この状況、どう考えてもおかしいだろ……

やっとのことで出した答えが、
とりあえずこの状況が、酷く異質なものなのだという、
何とも曖昧な答えだった。

それもそうだろう、今現在進行形で、大音量のインターホンと、
砂嵐の音が、不気味なほど一定のリズムで聞こえてくる中、
『ここですか?』と人外めいた声で、
意味不明な言葉が割り込んでくる……頭など、容易に働くわけがない。

しかし、もう一つだけ、
僕が導き出した結論がある。

それはとても単純明快で、今の僕の現状を、
簡潔に述べることができる、唯一の言葉だった。

『危険』全くもって、単純である。

以前の携帯電話からの声、今日の階段での一件、
そして……今この瞬間に起きている、非日常。

その経験と、僕の視覚や聴覚から発せられる情報が、
今僕の第六感を介して、危険を知らせている。

ハァ……何とも頼りない。

僕の頭の中で出した答えなのに、
自然と溜息が洩れてしまった。

しかしそれだけ分かれば、今自分がやるべきことを探るのに、
十分こと足りている。

気を取り直して、僕はもう一度必死に考える。

この状況を打開する方法、
それが一番知らなければいけない、やらなければいけないこと。

一体どうすれば良い、どうすれば良いんだ!?

……そうだ!この部屋から逃げれば……いや、無理だ。

僅か脳内五秒、自問自答は、虚しく消えていった。

初めに思いついたのが、逃げること。

当然な答えだと、僕も思う。

この場がかなり危険だと察したのなら、
どこか危険が及ばない場所まで、逃げればいい。

少なくとも、この場にいるよりは、いくらかマシだ。

しかし、この状況では、その『逃げる』という選択肢もない。

それは、またしても単純明快、『脱出経路』がないからだ。

玄関には、少年の姿に見える、
何か異形なモノが待ち構えている。

その事実を知っていて、
それでも玄関から行けるかと問われれば、
無論……僕はできないと答えるだろう。

次に窓から出る案がでたが、『七階』の二文字が頭に浮かんだ瞬間、
その選択肢は儚く散っていった。

じゃあ、どうすれば……どうすればいいんだ!?

僕はまた、必死に何か得策はないかと、
考えを張り巡らす。

体はいまだに震えていた、
焦りからくるのもあるが、間違いなく恐怖から来る、
妙な緊迫感が原因だった。

早く、早く何かしないと……!!

早くしなければという焦燥感から、
思考回路が余計にこんがらがってしまう。

それでも、僕は考えるのを止めない、
考えを止めてしまうと、もう終わってしまいそうな感覚を覚えた。

助けを呼ぶ、いや……携帯電話は現在川の中だ、
家にはそれ以外に電話はない。

じゃあ、部屋に待機するしかないのか?
この状態が治まるまで……

もっと良く考えれば、おそらく良い案は出ただろう。

しかし、やはりというか、
僕の頭ではこの考えしか、思いつくことができなかった。

僕は玄関から、ゆっくりと後ずさる。

その目線は玄関から離れず、ただ体だけが動いた。

とりあえず玄関から離れよう。

何があるのか分からないこの状況で、
奇怪の近くにいるのは得策ではない、そう思ったからだ。

僕はもう一歩、後ろに後ずさる、
どうやら少しだけ……体が動くようになってきたようだ。

考えが固まると、少しだけ安心感が湧いた。

恐らく、それが体が動くようになった理由だろう。

僕は二歩下がった後、小さく、ゆっくりと深呼吸をした。

少しでもこの状態が治まれば良い、
そうすれば、きっと逃げ出す方法はある。

僕は甘さとも言える、半ば放棄的な考えに囚われていた。

その証拠に、僕は忘れている、かなり重要なことを……

恐らく、玄関のことに目が入ってしまったため、
他のことには集中できなかったのだろう。

とんでもなく、重大なことである。

そしてそれは、僕に気づかせるように、突如現れた。








                   ガチャ、ガチャ……





あれ、何の音だろう……?

突然後ろから、金属が擦れるような音が聞こえてきた。

部屋は依然として、インターホンの音や砂嵐の音が、
大音量で響いている。

しかし、その音はまるで別次元で鳴っているかのように、
僕の耳にスッと入ってきた。

僕はその瞬間、またその場で止まってしまう。

恐怖からではなく、単純に考えてしまったからだ。

何の音だろう……僕は黙って考える。

その瞬間、僕自身が何かとんでもないことを忘れている、
そう言う感覚に囚われた。

それはまるで、体を這うかのように、
ジワジワと僕に押し寄せてくる。






                   ガチャ、ガチャ……






尚も後ろでは、ガチャガチャという音が聞こえる。

しかし、僕はその音の正体を、いまだ掴めずにいた。

何回も聞いたことのある音なのだが、
それが何だったのか……一番大切なことが思い出せない。

まるで誰かに拒まれているかのように、
頭の中からその記憶だけ、引き出すことができなかった。

くそ、何だこの音は……何か忘れているような、
思い出せ……!何か危ない感じがする。

僕は懸命にその音の正体と、
自分がいま忘れている『何か重要なこと』を必死に探していた。






                      カチャン……





突然、音が変わり……カチャンという高い音が聞こえてきた。

その音を聞いた瞬間、僕は思い出した、思い出してしまった。

僕はその音を聞いた時、二回……後悔する。

一つは、何でこの音の正体を、何で早く思い出さなかったということ。

そして、もう一つは……







            後ろには、何もいないと、勝手に思ってしまったことだった。







カチャンと、後ろから音がする。

それは、金具が外れる音……そう、後ろから聞こえる金属音、
その音の正体は……窓が開く音だった。

ゾクッと、背筋に悪寒を覚える。

僕は気づいてしまった、理解してしまった。

何故今まで忘れていたのだろう、それが未だに、
僕の中で後悔として残っている。






                ザリ……ザリ……ザリ……







また新しい音が聞こえてきたが、僕はすぐに、
それが何の音か理解することができた。

後ろから聞こえる、金具が外れるかのような音、
次に、ザリザリ……と聞こえる、何かを動かしている音。

そしてこの事実、後ろに『何かがいる』ということ。

僕は頭の中で、その事柄が結びついた時、
勝手に体が動いていた。

あれだけ恐怖で体が硬直していたのに、
今は何か、タガが外れたかのように、僕は無我夢中で動いていた。

いや……半ば暴れて、無理やり動かした感覚に近い。

それほど、僕は焦っていたのだろう。

そう……かつてないほど、僕は焦っていたのだ。

僕は、後ろのテレビ側へと振り向き、急いで向かう。

砂嵐は依然、灰色の景色を、映し出していた。

しかし僕は、それには見向きもせずに、
そのさらに後ろに向かう。

そこには、風に揺れるカーテンがあった。

揺れる筈のない樫色のカーテン、
それがゆらゆらと、ひらひらと、まるで生き物のように、動いていた。

僕はそこにたどり着くと、深呼吸をし、
閉まっていたカーテンを、ゆっくりと開ける。

別に外が気になったわけでもない。

例え雨がザーザーと降ってきたとしても、
外に何かがいたとしても、今はどうでも良い。

カーテンを開けた理由は唯一つ、
それはあることを、確認するため。

そして残念なことに、
僕の予感は、的中してしまった……









                    手があった






ベタベタと、白く曇った窓ガラスには、
大小様々な手形が残されている。

そう、カチャンという音は、窓の鍵が外れたこと、
そしてザリ…ザリ…と言う音は……

窓がゆっくりと、開く音だったのだ。

性別さえも、年齢さえも分からない、ただ真白く艶めかしい手が、
手だけが……窓ガラスを撫でるように、ゆっくりと窓を開いていく。

僕は、何も言うことができなかった。

視線は、その手から離すことができない。

それでも、白い手は、窓を開こうと、
窓ガラスに指紋をつけていき、ザリ…ザリ…という音を響かせている。

砂嵐の音が、よりはっきり聞こえてくる中、
僕はやっと正気に戻った。

ハッとして、僕は勢いよく窓に触れる。

「ふ、ふざけるな……こんなこと、あってたまるか!!」

言葉は、緊張と恐怖で、大きく、怒声へと変わる。

僕は窓に触れた後、自分に残されているありったけの力で、
思いっきり窓を閉めようとした。

しかし、思うように窓が閉まらない。

歯を食いしばり、腰に力を入れ閉めようとしても、
逆に大きな力で、押し戻されそうになる。

何で、閉まらない!?
何で、こんなに力を入れてるのに……

窓には、あの真白い手が張り付いている。

しかし……力が入っているようには見えない。

それどころか、変わらず撫でるように、ガラスに触れ、
窓を動かしている。

頭ではとうに窓は閉まっているはずなのに、
現実はいまだ窓は開いている……

その脳内での矛盾が、より一層、焦りに拍車をかけていった。

「くそ、閉まってくれ!離せ!離せよ!!」

僕は声を荒げ、必死にドアを閉めようとする。

絶対に中に入れてはいけない、
それだけを考えながら、力の続く限り、
精一杯……窓を押し続けた。

本当に強い力だ、
あんなので力が入るのか……!?

突っ込む余裕など、持ち合わせてはいなかったが、
手が疲労で痺れてきて、別のことを考えていないと、
負けてしまいそうになるのだ。

限界は近づいていたが、僕は諦めなかった。

今までで一番、必死になって力を入れていたのかもしれない。

一心不乱とは、まさにこのことを言うのだろう。

もはやインターホンの音も、砂嵐の音も聞こえてこない。

窓は依然として、閉まることを拒んでいる。

そして僕は、窓が開くことを、拒んでいる。

そのことだけに、集中していた。

そう、それがいけなかった……









                     キィィィィィィィ……






その音が鳴った時、僕は自然にその音の方へと、視線を向けた。

そして気づいた、僕の感覚からの……警告を。

インターホンは、集中して聞こえなかったのではない、
ただ単純に……鳴り止んでいたからだ。

砂嵐も、既にテレビには映っていない。

横目で見たが、テレビからは光など感じられはしなかった。

僕はもう、窓を見てはいない。

よもや、窓を閉めることなど、その一瞬で完全に頭から離れてしまった。

僕の目線はさっきまでいた、玄関へと向けられている。

チェーンロックと鍵でしっかりと閉まっていたはずの玄関が、
今はゆっくりと……開いていた。

僕は、何故か驚いてはいない。

というよりは……頭の中が、真白になってしまった。

ただそれだけを見て、そこに立ちすくむ。

後頭部には、強い湿った風があたり、カーテンが体に触れる。

そして、首に何かが触れる感覚を覚えた。

それでも、僕の視界は、玄関から離れはしない。

何故なら、その視線の先には……





    
                  一人の少年が、立っていたのだから……








その時、僕はこう思った。

そういえば、玄関は鍵が閉まっているから大丈夫なんて、
何故思ってしまったのだろう……

よく考えれば、簡単に導き出せたのに……そう思って、
嗤ってしまった。

僕は何故か、仰向けになっている。

その目線の先には、その少年が見下ろすように立っていた。

まるで虫でも見るかのように、僕に顔を近づけてくる。

そして、一言僕にこう言い、その真白い手を、僕の首に近付けた。






                      「みつけた」






その途端、まるで何かを握りつぶすかのように、
その少年は手に力をこめ……僕の首を絞めつけた。

物凄い力が、僕の首にかかる。

僕はひどい吐き気を覚え、弱々しく抵抗する。

しかし、もはや体に力が入らない。

少年の眼は、まるで生気が入ってないかのように、白と黒がはっきりしていた。

その大きな黒眼は、まるで絵具を垂らしたかのように、光の反射がない。

僕はその瞳を見ながら、必死に呼吸をしようと努める。

しかし、出来る筈などない……ゴッ、ゴッ、むなしく喉を鳴らす。

手だけはなく、体全体で、その苦しさから逃れようと、
必死にバタつかせる。

何で子供なのに、こんな力が?

なんて、僕はもう思わない。

玄関でその姿を目撃した瞬間、
その声を聞いた瞬間……そいつが人間ではないことは分かっていた。

分かっていた……しかし、一瞬だけ、その警戒を解いてしまったことが、
こいつを部屋に入れた原因だろう。

もっとも、警戒していたとしても止めれたなんて確証など、ありはしない。

僕は苦しさの中、妙な笑みを浮かべてしまった。

こんな時でも、自嘲ができるなんて……

全くもって自分自身が、本当におめでたく思ってしまう。

だが、それもこれで終わりのようだ。

何でこんなことになったのか、
どうしてこういう状況になってしまったのか、
疑問は残るばかり。

しかし、今はもうどうでも良くなっていた。

その証拠に、抵抗していた腕や体は、小さく動くだけで、
抵抗など……もはやできる状態ではない。

視線は、霧がかかったように、ぼやけてしまっている。

もう終りだ……楽になりたい。

そう思った途端、さっきまで霧のようにぼやけていた視界が、
段々と暗幕が下りるかのように、暗くなっていく。

ああ、そうか……瞼が、下りてくるのか。

そう思った後、僕はゆっくりと……眼を閉じていった。




















                     「カエセ……」








 機械音声のような声が、僕の耳に入ってくる……

ああ、またあの夢か……そう思った。

「カエセ……」

同じ夢を見るのは、確かまれなことだったような気がしたが、
それにしても……我ながら、何ともへんてこな夢だ。

暗闇の中、半ば面倒くさかったが、
その意味不明な言葉に、疑問を投げかける。

「だから、何を……カエセって……」

何故か酷く眠たい……暗闇の中、僕は立つこともままならず、
その場に座ってしまう。

あれ、さっきまでは立っていたのか、
てっきり寝ころんでいたような気がしたが……

またどうでも良いことを考えてしまった。

「カエセ……カエセ……トルナ……」

またこんな調子……もう良いや、
適当に答えてから……無視して眠ってしまおう。

「ハァ……だから何を……とるなって?」

そう言って、僕はその暗闇から、もう一度、眼を瞑りなおそうとした。

その時……

「フィルム……カエセ」

明らかに、成人男性の野太い声で、そう聞こえた。

「フィルム……?何の事だ?」

強い眠気の中、意識を保つこともままならなかったが、
そのフィルムと言う言葉はどうもひっかかる。

それにあの声……一回も聞いたことがないはずなのに、
妙に頭に残る声だった。

「フィルムって……何の?」

眠気に抗いながら、僕は大きい声で、
暗闇の中に質問を投げかける。

「フィルム……フィルム……撮るな……」

……ダメだな、フィルムと撮るな、たまに返せ。

全然、意味が分からない。

僕は諦めて、もう一度瞼を瞑り、眠ろうとした。

「フィルム……フィルム……フィルム……」

段々と、声が小さくなっていくのを感じる。

良かった、これで眠りやすい。

そう思うと、また意識が薄れ出した、
これなら気持ち良く眠れそうだ……

もう何も考えるのを止めよう、
最近よく眠れなかったし……疲労も溜まっている。

それを最後に、僕は考えるのを止め、
深い眠りに落ちようとした……その時だった。




                 頭の中で、何かが繋がる音がした。




そういえば、僕はフィルムを持っている。

写真も、最近撮ったことがある……そうだ、
思い出してきた。

何がきっかけだったのか、良く分からない。

しかし、今この瞬間フィルムの文字が、
頭の中ではっきりと映ったのだ。

そして気づいた『僕は写真を撮った、フィルムもある』

そう確信した、その途端……一気にさっきの心地よい感じから、
息苦しさと、どうしよもないほどの激しい痛みが襲った。

僕はたまらず、眼を開ける。

光……さっきまで暗かった空間が、
一転して、白い光で包まれていた。

最初は良く見えていなかったが、
段々と目が慣れていき、目の前の状況が再び鮮明になってくる。

そこには、はっきりと少年の顔が視界に入っていた。

さっきまでは、意識を失っていた、
そういうことになる。

「カエセ」

さっきまで夢の中で聞いていた声は、
目の前の少年が呟いていたモノだった。

その声は、もはや機械音ではない。

はっきりと成人男性の、独特の野太い声が、
少年の姿で淡々とそう呟いている。

息苦しさと、首への痛みから、
僕の意識は、また薄らいでくる。

呼吸もできない、すでに限界を迎えつつある。

しかし、頭の中ではその『フィルム』のことに、
考えが集中していた。

フィルム……こいつは、それを欲しがっているのか?

どんどん、頭がはっきりしていく。

はっきりしていくにつれて、
さっきまで曖昧になっていたモノが、
徐々に明確になっていった。

息苦しい、体が痛い、
でも……さっきまでの弱々しい感じはない。

もう少しで何か掴めそうなんだ、
良く考えろ……必死に考えるんだ。

そう自分に言い聞かせ、
この状況でも冷静になるように……頭を回転させる。

何でこいつがフィルムを欲しがっているのか、
その答えは……分からない。

ただあの少年は、フィルムが欲しい。

そのフィルムは……前の花見の時、撮った写真が入っている。

その写真を、少年は欲しがっている。

何で……?
何故欲しがっている。

頭の中で、そのフィルムについての可能性があることを、
必死に考えた。

何度も何度も、
酸欠で意識が飛びそうになる。

それでも、死んでたまるか、絶対に死んでたまるかと、
そういう強い気持ちが、何とか意識をつなぎとめている。

僕は必死に考える、
そして……一つの答えがでてきた。

その答えは、良く考えるわけでもなく、
普通の精神状態なら、いとも簡単に導き出せただろう。

やっと導き出せた……その答えは、










             写真の中に何かが映っているという、何ともありふれた答えだった。











「離せ、離せ……!!」

僕はもう一度、精一杯、力を入れる。

首にかかる真白い手を、力の限り振り払おうとする。

その最中にも、僕は考えを張り巡らす。

フィルムは、どこにしまっただろうか?

びくともしない少年の手を、必死に振りほどこうとしながら、
必死に考える。

思い出せ、フィルムは……フィルムは、どこだ!

手は震えていた、しかし恐怖から出はない、
必死に力を入れている、その証拠だ。

力を入れていくにつれ、
首の痛みや、息苦しさがどんどん和らいでいく。

意識もはっきりとしてきた、
フィルムは……確か、確か……

その時、頭の中で誰かの声が聞こえてきた。

―あ、有田!この前撮ったカメラのフィルムのことなんだけど……

それは、吉崎先輩の声だった。

そうだ、吉崎先輩にフィルムのことを聞かれて、
僕は一体どうしたんだ?

思い出せ、思い出すんだ!

きっと、思い出すことができなければ、
もう二度と……ここにはいれないだろう。

だから、思い出せ!!

僕は自分に、思いっきり喝を入れる。

―ああ、あの花見のことですか?そこの棚の中に入ってますよ

―あ、そう?じゃあ、悪いんだけど……現像出してくれない?

どんどん思い出してくる。

しかしまた腕が痺れてきた、
早く……思い出してくれ!

―ええ!?僕がですか……今日はもう帰りますよ

―写真係でしょ?最後までちゃんとやりな!明日でも良いからさ

―ハァ、分かりましたよ……じゃあ、ちょっとトイレに行ってきますので……









 
                   ―僕のカバンの中に、入れておいてください








そうだ、カバンだ……カバンの中だ!!

そう思うと、僕は思いっきり叫び、最後の力を振り絞った。

「うわああああああああああああああああ!!」

叫び声とともに、無表情の少年は、
一瞬だけ後ろにのけぞり、首から手を離す。

それを見逃さず、僕は身をよじり、
カバンの置いてある場所へ向かおうとした。

カバンの場所は、既に分かっていた。

もう記憶は、鮮明に、はっきりとしている。

帰ってから、すぐ寝室にいったんだ、
カバンは寝室だ……!

おぼつかない足で、僕は寝室へと向かった。

今は首が絞まってないとはいえ、
動きが鈍くなるぐらいの後遺症がある。

肉体的にも、精神的にも、疲労でいっぱいだ。

それでも、やっと僕は寝室にたどり着く。

明かりをつけ、僕がいつも使っている、
黒のショルダーバッグが、ベッドの上に転がっていた。

僕はショルダーバッグに覆いかぶさるように、
ファスナーを開け、中身をベッドの上にばらまく。

焦ってはいた、当然だろう。

手は震えながら、散らかるベッドので、
ひたすらフィルムを探す。

そして、手に硬くて丸いものがあたる。

そこには、透明なビニール袋の中に入った、
五つのフィルムがあった。

やっとあった……

ぼんやりしたものではない、確かな安心感が生まれる。

やった、これで……僕は……

その瞬間、僕は意識が遠くなるのを感じた。

何でだろう、急に眠くなったのだ。

せっかく見つけたのに、
こんな時に何で……

すると、目の前に何故か影が見えた。

その影は、人ひとり分では大きい、
何重にも重なっているように思える。

だが、それをはっきりと見るためには、
僕の視界は薄く暗くなっていく。

僕はそれでも、フィルムだけは手放さなかった。

腕を、その影の方向に向ける。

その影は、そのフィルムに近付いていく。

その瞬間、意識が消える瞬間、確かにみた……







                      幾重にも重なった、人の姿を……





















 「ありがとうございました」

外は快晴、桜の花は……すでにない。

今は暖かくなった気候と、青々とした清々しい空色が、
辺りを優しく包み込んでいる。

僕はその景色を一周して眺めると、
深呼吸をし、少しだけ微笑んでその場を後にした。

「ちょっと、お客さん……」

後ろから、何やら暗い声が聞こえてくる。

その店の主人だった。

初老の男性が、眉間に皺がよせ、
何やら言いたげな顔をしている。

「何でしょうか?」

僕は少し不思議そうに、店の主人にそう言った。

「そんな写真、本当にいるのかい?」

店の主人は、少し皺が入った指で、
僕の持っている封筒を指差す。

「ああ……これですか?
 全部欲しいと言ったので、問題ありませんよ」

僕は間をおいた後、ニコッと何事も無いように微笑んだ。

店の主人は『ああ、それなら良いよ』と言ったあと、
店の中へと戻っていく。

僕はその姿を見て一礼をし、
青々とした並木道を一人歩いていった。

今日は休日、
たまには散歩も良いかと、並木道を歩いた後、
ゆっくと河原へと向かっていく。

静かに川のせせらぎを聞いていると、
何とも穏やかな気持ちになれるというものだ。

僕はゆっくりと、
そこの河川敷に座り、その景色を眺めていた。

僕を通り過ぎる人や犬をぼんやりと見ていると、
ふと目の前に……見覚えのある建物があった。

それは、僕が住んでいた……アパートである。

最も、『以前』住んでた、であるが……

そのアパートを見た時、またあの記憶がよみがえる。

出来れば思い出したくなかったのだが、
どうやら完全にトラウマとなってしまったらしい。

僕はおもむろに、手に持っていた封筒を見た。

あれからのことが、徐々に頭から、滲み出てくる。






             あの夜の後、僕は気がつくと……病院のベッドで眠っていた。





最初は何が何だか分からなかったのだが、隣に心配そうに見つめる両親と、
これまで見たことがないほど、涙を溜めて泣いていた吉崎先輩がいる。

それはすぐに分かった。

「良かった、眼が覚めた」

そしてそれを聞いて、初めて実感がわいた……僕は、助かったのだと。

その瞬間、涙が流れた。

恐怖と安堵、普通なら相反する感情が、同時にやってきたなど、
初めての経験だった……今でも、思い出しただけど、涙が出そうになる。

その後は、精密検査のオンパレード、正直嫌になった。

しかし、あからさまに嫌な顔をすると、両親と吉崎先輩の鉄拳が飛んだので、
仕方なくやる羽目になる。

幸い、診断結果には、
精神的にも肉体的にも、問題はなかった。

問題は、その後のこと……

僕が友人と雑談をしていると、目の前に、灰色と黒のスーツをきた、
いかにもタバコ臭そうな、険しい顔つきの男二人だった。

何でしょうか?
と不安げに聞いたことを覚えている。

その男達は、僕に手帳を見せ、こういった。

ただ一言『刑事です』と……

刑事は、僕にどうやって襲われたのか、
何か盗られたものはないのかと、しつこく聞いてくる。

この人たちは、一体何を言っているんだと思った。

僕は隣にいた両親に、事情の説明を聞く。

一体どういうことだ?
そうやって、当然のように両親に聞いた。

その時の両親の顔は、まるでそのことには触れたくないと、
そう書いてあるかのように、僕を見つめる。

そしてゆっくりと、僕に話を始める。

それは、僕があの部屋で起こったことの、
その後の話だった。

あの後、僕はベッドで倒れてはおらず、
リビングで倒れていたそうだ。

それを発見したのは、気になって家を訪ねてきた、
吉崎先輩である。

そしてすぐに救急車を呼び、必死に僕の名を呼んでたのだが、
僕は死んだように、眠っていたらしい。

僕のことを呼び続ける吉崎先輩は、
ふと首筋に、何か妙な痣があることに気づいた。

何だろうと思い、恐る恐るその後を見た。

その途端、一瞬にして背筋が凍るような感じを覚えたそうだ。

その痣は、手形だった……僕の首に赤黒く変色して痣のようになった、
間違いなく手形だったのだ。

しかし、それだけなら……まだ救いがある。

その後、両親は声を震わせながら……こう言った。

その事実は、出来れば信じたくはないことだったが、
それは紛れもなく、現実のものと、なってしまう。









                その手形は、左右で大きさが違っていたらしい








普通ならありえない、左右で子供と大人程の違いがある手が、
僕の首を容赦なく絞めつけていたのだ。

その事実だけで、十分だった。

どうか夢であってほしい、
僕の中でそういう願望が、確かに僕の中に生まれていた。

病室のベッドの上で、僕は何故か笑っていた。

寂しい、何とも虚無感漂う、笑みだっただろう。













 後のことは、良く覚えていない。

退院後も、別にこれといって変わったこともなく、
平和に過ごすことができた。

もう、あの声も聞くことがなかった。

トントン拍子でことが進み、
刑事もあまり大したことのない事件として、処理したようだ。

そりゃそうだ、犯人など捕まるはずがない。

まぁ、僕が色々ごまかして言ったのもあるが、
それ依然に『警察ごときに何とかできるモノではない』だろう。

僕はまた、クスリと河川敷の草原で静かに笑う。

これでこの一件は終わった、もう僕は平和に生きている。

確かに、この一件は終わった、のだが……

もう一つだけ、気がかりがあった。

それは、今僕の持っている、封筒が知っている。

僕はそう思うと、封筒から、ツルツルの紙束を取り出した。

そこには、吉崎先輩やサークルの面々が笑っている姿や、
綺麗な桜が映っている……もちろん、僕の疲れきった姿もだけど。

そう、僕が気になったのは、あのフィルムに残された写真である。

僕が救急車に担ぎこまれ、病院のベッドに移動する間、
僕はずっとフィルムを持っていたらしい。

しかも、残り四つのフィルムを部屋に残し、
一つだけを大事そうに抱えていたのだ。

何故そのフィルムだけ、持っていたのだろう?

その答えが、ここにある。

そう思うと、居ても立ってもいられなくった。

この中に、ことの発端が入っている、
僕は妙な好奇心に囚われてしまった。

そしていま、その正体がわかる。

僕は最後の一枚だけを残し、全ての写真を封筒に入れた。

変な汗や、手の震え、そしてあの部屋で起きたあの妙な感覚が、
少しずつ蘇って来る。

しかし、僕はゆっくりとその写真を、裏返し、そっと視界をずらす。

そこに映っていたのは……写っていたものは……

ただの黒い、空間だけだった。

何もない、ただ黒い景色だけが写っている。

どう考えても、撮影ミスにしか見えない、
写真屋の主人が言う通りの、誰も欲しがりはしない写真。

しかし、僕はそれを見て、以外にも安心していた。

さっきまで好奇心があったのに、
今はもう消えうせていた。

その理由はただ一つ、僕が見たかった写真は、
まさにこの真っ黒い、ただの撮影ミスの写真だったのだ。

僕はその写真を、二回折りたたみ、思いっきり破く。

そして、こう呟きながら、風に乗るよう、やさしく放す。

「どうやら、この写真が目当てだったらしい」

そう、僕に恐怖を植え付けたあの少年の姿をしたモノは……






             きっとこの写真に写ってしまったのだろう……





僕はしばらく、この河川敷に座っていた。

その周りには、黒と白のコントラストが、ゆらりゆらりと、宙に待っている。

僕の視覚と聴覚は、あの部屋での一件をまた、再生していた。









後書き

本当にありがとうございました。

これで一応、怖い話は一区切りにしたいと思います。

これまで読んで下さった方々には、
何とお礼を言えば良いのか、ただただそういう気持ちになります。

怖い話を書きたいなと思ったのは、
やはり一番の興味の元だったからでしょう。

ホラー映画が嫌いな私ですが、不思議と文章には惹かれるものがありました。

こういうのを書けたらいいな、そう思った書いたのが、
この怖い話シリーズです。

気合いを入れて書こうとしていたのですが、
中々上手くいかず、悩んだりもしました。

しかし、暖かいコメントとここを直したほうが良いというアドバイスをいただき、本当にうれしく思い『拙い文章でも書いて良かった』と若輩者ながら、そう感じました。

怖い話からは、少し身を置きますが、
次回作も書いていくつもりでし。

もしよろしければ、そちらの方も読んでいただけると幸いです。

では最後に、もう一度感謝の気持ちを述べたいと思います。

本当に、どうもありがとうございました!

では、失礼します。

この小説について

タイトル 視覚と聴覚 後
初版 2009年9月22日
改訂 2009年9月22日
小説ID 3510
閲覧数 1069
合計★ 8
みかんの写真
ぬし
作家名 ★みかん
作家ID 445
投稿数 12
★の数 159
活動度 3999
みかんです、みかんと言ったら、みかんなんです。

コメント (4)

★五月 2009年9月22日 18時45分53秒
見ました〜!
うおーさすがみかんさん。
呼んでてゾクゾクしました(笑
今回もおもしろかったです。

次回作も期待しております!
がんばってください!(ってそれは一番僕にいえる言葉ですが^^;(苦笑
★みかん コメントのみ 2009年9月23日 15時03分43秒
五月さん、早速のコメントありがとうございます。

久しぶりなので、不安がありましたが、
怖がってくださって、私としては嬉しい限りです。

またちょくちょく顔を出しますので、
よろしければ次回作の方も、気軽にお越しください。

お互い、より良い作品を書けるように、頑張っていきましょう!

では、本当にどうもありがとうございました。

失礼します。
★青嵐 2010年1月19日 22時54分45秒

こんにちは青嵐です<(_ _)>

「視覚と聴覚 前・中・後」
「ひとりかくれんぼ」
「境界」
「銭湯にて」

読ませて頂きました<(_ _)>

まだ全部読めていないのですが、今日はもう夜なのでみれません(笑)

怖いんですけどっっ!!(;A;)
学校の授業中に読んでいたんです。
怖くて、怖すぎて、授業中に泣き叫ぶかと思いました。
いや、おおげさじゃないですよ;

この話は、中が一番怖かったです
背中が怖かった;自分の背中がこわかった;;
どうしてか、すごくこっちまで危機感が襲ってきたんですよ
一緒になって焦って、一緒になって安心して……だまされました。orz
「……心構えをして読めばいいんだ!」
と、思い直しての『中』読んだんですけど。
だめでした。
泣きました。←
怖くてw
だまされました。
負けました。笑
でも、すっきりとした終わりでよかったです=3
「ひとりかくれんぼ」みたいに怖い感じで終わってたら叫んでました;
全然先を予想できませんでしたし;
一番こわかったです(;_;)

「ひとりかくれんぼ」ですが、
このルール的なもの自体は前に友達が無理矢理話して聞かせてくれたのを憶えていたので、
「あぁ、人形おそってくるのかな?」っておもってたんですが。
何もないじゃんw
て、思いました。


……だましましたね?!←
ビデオあたり。
怖い!(もうこれしか言ってない気がするw)
だって、寝室に引き返して(?)行かなかったら、有田君終わってたよ!
「よかったね〜(;A;)」ってなりましたw
もー……心臓に悪い……orz

でも、表現力はすばらしいとおもいます。
ありがとうございました<(_ _)>

怖い物好きな友達に広めさせて頂きましたw(一人だけだけど)
その子は「ひとりかくれんぼ」が一番怖かったらしくて読み終わった後、放心していました。
いやぁ、ほんとありがとうございました<(_ _)>

こんだけべた褒めで、何故☆4つかといいますと。
誤字脱字ですねw
でもなんでかもう気にならないです(笑)
「あははwまた間違えてるよ、こいつぅw」
って感じになってきています。笑
みかんさんマジックでしょうかw

ではでは、長々と失礼致しました。
★みかん コメントのみ 2010年1月20日 0時23分01秒
青嵐さん、コメントありがとうございます。

私の作品を……ホントありがとうございます(泣)感動モノですよ。

拙い文章で申し訳ないのですが、怖がって、もとい楽しんでもらってなによりでございます。誤字脱字は、恥ずかしいですね、注意していきたいと思います。

中を読んでくださって背筋に悪寒が、
きっと気のせいですよ……たぶん、たぶんですけど(汗)

友人の方にも勧めていただいてありがとうございます。
放心ですか……最高ですね、ニヤニヤものです。

やはりコメントをもらうということは、本当に嬉しいことですね。
重ねてお礼を申し上げます。ありがとうございました!

次回作を書く機会ができ次第、指摘していただいたことに注意して、
書いていきたいと思います。

では、本当にありがとうございました。
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