つばめ - 少し、遅れて参ります 〃

 大事な卒業式を明日に控えた今日、僕たち一年生は午前の授業を終えれば放課後だ。ちなみに二年生は卒業式の準備をするために居残りするらしい。
 僕も後二年程度すれば卒業生。それから大学に入ったりバイト始めたりで忙しくなるはず。そんなことになればこの学校で暮らしているつばめさんと会う機会なんかもうすっかりなくなってしまうじゃないか。嗚呼嗚呼、卒業なんてしたくないよー。
 ていうかそもそも、どうしてつばめさんは学校なんかに定住しているのだろう。彼女が地縛霊だなんて話は聞いたことないし。
 そんなことを考えながら帰りのショートホームルームの進行を促す委員長(男)の方へと視線をやれば、彼は「先生、あとお願いします」の一言で自分の役目を終え、足早に自分の席へ着いていく。そして今度黒板の前に立つのは我がクラス担当の新任(らしい)女性教師。
「では、あなたたちは二年生の邪魔にならぬよう、なるべく早く帰るんですよ?」
 先生の注意事項を語る声に邪魔され、僕は一旦考えごとを中止する。そんなことより早くチャイムが鳴って放課後にならないかなあと思いながら宙を眺めるも、いつもそこに浮いているはずのつばめさんはとある用事のため今ここには居ない。少し寂しくなる。
 それにしても退屈。先生の話はあまり面白くないし、窓より向こうの雲ひとつ無い青空はいくら見てても全然楽しくない。

 ――つばめ。

「……え?」
 視線が捉えたままに空を眺めていると、不意に、聞きなれない男の声が頭の中で響いた。
 これって幻聴? それに何だろう、今見つめている快晴のこの空、前にも一度どこかで見たような気がする。
「せっかちな君や君は半月後に始まる春休みに期待を膨らませていると思うけど、その前に学年末学力考査があることを忘れないでね。これで私の話は以上です。明日は笑顔と涙で卒業生を見送りましょう」
 先生の話がようやく終わったその時、実に丁度良いタイミングでチャイムが校内に鳴り響く。委員長が号令を済ませた後、僕ら生徒はすぐさま解散となった。
 ひょっとして、さっきのは噂に聞くデジャビュってやつだろうか。既視感とも言うらしい。
 既視感はよくあることとして、あの声は何だったのかな。仮に誰かの声をふとかなりリアルな感覚で思い出したのだとしても、僕の知ってる人の中でつばめさんを呼び捨てにするのは黒沢先輩と前の部長さんくらいだし……うーん……。
「ま、いっか」
 どうせ幻聴だ。別に深く考え込むようなことじゃないよね。
 そう思い直して教室を見回してみると、さっきのチャイムが鳴るのと同時にさっさとここを飛び出して行った人もいれば、当分終わりそうにないお喋りを繰り広げ始めている女子グループもいる。そんな中で僕は何かをしようと思い立つこともなく、今日あった出来事の一つをなんとなく頭の中で再生し始めていた。
 あれは今朝のことだったかな。つばめさんは黒沢先輩と大事な話があると言ってどこかへ行ってしまわれた。ちなみにその話の内容が「今まで京介さんにはお世話になったので、明日で卒業してしまう彼にちゃんとお礼を言いたいんです」というものなのだから可愛らしい。つばめさん大好き。
 それにしても今頃どうしてるのかな。きっと放課後に突入した今、人目につかない場所へ移動して、それから二人解放感に溢れた雰囲気の中で楽しい会話を繰り広げているのだろう。いいなあ。僕もそこに混ざりたいなあ。
 思えば僕も黒沢先輩にはお世話になりっぱなしだった。よし、これはお礼を言いに行かなくちゃいけないね。ちなみにこれはつばめさんに会いたいがための口実では決してなくて、純粋に黒沢先輩へお礼を言いたいという気持ちから動くのであって――誰に言い訳してるんだろ、僕。
 そんなこんなでつばめさんたちのもとへ行く決意をした僕は、
「よいしょ」
 すぐさま起立して机の横に掛けてあったカバンを右手に取る。
「行きますか」
 ひとり言ひとつ呟いて、僕はここを後にしようと教室の出入り口へ向かった。
「悠樹」
 ――もとい、向かおうとしたところで美央に呼び止められる。何かな、僕忙しいんだけど。
「その……今日は部活もないんだし、一緒に帰らない?」
「ごめん、これから用事あるんだ。また今度ね」
 きっぱりと断ってから、僕は今度こそ教室を出ようと足を踏み出していく。横目に一瞬だけ見えた美央の表情は、眉を少し下げたりして何だか寂しげな様子だった。

 ああうん、嫌な予感はなんとなくしてたんだ。なのに僕は選択を変えなかった。これは判断を誤った僕が悪いのであって、彼女が悪いわけでは決してなくて……。
 ちなみにどうして僕がこんなに頭を悩ませているのかと言うと、教室を出てから廊下をしばらく進んだ所で、
「ゆーっくーん!」
 前方のあまり近くない位置から僕の鼓膜を緩く震わすいきなりの大声が僕を襲ったからだ。それに反応して身体はびくっと揺れ、さらには全身が強張る。
 僕は屋上までの道のりであまり混雑しなさそうなルートを選び、卒業式の準備により既に空っぽとなった二年生教室の並ぶ廊下を渡っていたのだけど、まさか薫先輩と出くわすなんて。迂闊だった。
「ゆーくん、私に会いに来てくれたの? 嬉しいなあ」
「薫先輩、体育館で卒業式の準備があったんじゃないのですか……」
 それにしてもどうしてここに薫先輩が居るんだ。他には二年生が誰も居ないというのに、どうしてよりにもよって厄介なこの人だけが。
 きっと邪魔される。僕の行く手を阻まれる。つばめさんが遠ざかってしまう。
「実はね、その体育館に飾るお花が足りなくって、私が買ってくることになったの。だから今ね、鞄に入れっぱなしだったお財布を取りに教室へ向かうところだったのよ」
「ああ、そうなんですか。じゃあ今はお忙しいんですね」
 なんだ、それなら別に心配する必要はないか。薫先輩は忙しいんだから、いつもみたいに僕の腕を抱き締めにかかるなんてことはないだろう。一度僕の腕にしがみつくとなかなか離れないからなこの人は。ああ良かった良かった、これで早くつばめさんのもとに行ける――ってあれ、何だか右腕が少し重くなったような気がする。どうしたのだろうと右下へ視線をずらせば、
「えへへ、ゆーくんあたたかあい」
 薫先輩がいつものごとく僕の腕に抱きついて来ていた。
「……忙しいんじゃないのですか?」
「ん〜?」
 くすぐったいから頬で腕にすりすりしないでください。
「お花買うだけだよ、忙しいわけないじゃん。それにさっき教室からお財布取ってきたから、もう準備万端整ってるよ。ねね、一緒に行こうっ」
 そう言いながらこのちっこい先輩はぐいぐいと僕の腕を引っぱろうとする。
 くっ、やっぱり嫌な予感が的中しちゃったよもう! 駄目だ、ここでこの人に連れて行かれてはつばめさんに会えなく――じゃなくって。黒沢先輩にお礼を言いに行けなくなってしまう。早くしないと二人に帰られちゃうかもしれないからなるべく急がなきゃならないって時に!
 さっき美央を相手にした時みたく、僕は薫先輩の誘いをきっぱり断ろうと口を開く。こうなったらなるべく冷たい声で言ってみよう。
「すみません、僕これから用事が」
「そんなの後回し。いいでしょ? いいよね。レッツゴー!」
 しかしそんな些細極まりない抵抗も空しく、薫先輩は力尽くでも連れて行くと言わんばかりに僕の腕を引っぱっていく。
「わっ、いきなり走ったら危ないですって!」
「ゆーくんとお買い物っ、ゆーくんとお買い物ーっ。ふんふんふーん」
 ああもう、こうなればさっさと花なり何なりの買い物を終わらせて屋上へ向かうしかない。どうせ断っても薫先輩は連れて行こうとするんだ、抵抗するよりも素直について行った方が時間を無駄にしないで済むだろう。
「先輩、僕は用事があるんです。買い物なら急いで済ませましょう」
「うんっ」
 僕たちは無人の廊下から駆け出した。

      ***

 無理やり連れて行かれた先はとある商店街。たまに叩き売りを始める八百屋さんはもちろんのこと、コロッケをも売っているお肉屋さんに自転車で出前というスタイルをとったラーメン屋さんと、道を歩いている間にもいろいろなお店の前を通り過ぎて行く。
 お花屋さんは確か、このまま商店街の中央に進んで、左へ何軒かさらに進んだ辺りだっけか。しばらく来ていないからすっかり記憶が曖昧になっている。
「らんらんらーんらんらんらーん」
 隣では歌詞の無い歌を歌いながらスキップ気味アンド笑顔の薫先輩。何やら機嫌が良いようで。
「どうしたんですか先輩。えらく上機嫌ですね」
「うんっ。だってね、ゆーくんとショッピングなんだよ。デートみたいで嬉しいんだもん」
「はは、そうですか」
 デートか。僕もいつかつばめさんと一緒にこうして商店街の真ん中を歩いてみたいものだよ。
「あ、お花屋さんめっけ」
 薫先輩は呟くと同時に色とりどりの花を陳列させている店頭へぱたぱた走って行き、顎に人差し指をあてながら「うーん」だの「あうー」だの呻き始める。僕も彼女の跡に続き、店先にまで陳列された花の数々を眺めてみた。名前の分からない花がほとんどだけど、綺麗だな。
「何かいいのありました?」
「花言葉に因んだお花がいいかなって思ったんだけど、私そういうの全然分かんないの。どうしよう」
 店員さんに聞けばいいのにと思い店の奥へと視線をやれば、たまたま目に映る小奇麗な棚に鉢ごと収められた白いスイートピー。
「あれでいいんじゃないですか」
 人差し指をそれに向けながら言うと、先輩は僕の指し示す方向に目線を辿らせてからかくんと頭を傾けた。
「うーん……あれ何て名前の花なの?」
「スイートピーって言うんですよ。花言葉は確か“門出”とか“思い出”だったと思います」
 薫先輩は感心してくれたのか、「ほえー」となんとも間抜けっぽい(良く言えば可愛らしい)声を漏らしている。とりあえず半開きになった口は閉じてください。
「ゆーくんってお花に詳しいんだね。花言葉まで知ってるなんて」
「いえ、あれ結構有名な花ですし。花言葉は何ヶ月か前、新聞部の活動で園芸部にお邪魔した時教わりました」
 言いながら僕は早速店内へ入り、棚からスイートピーが数輪植えられた鉢を取り出して薫先輩に見せてみる。先輩はしばらくじーっとそれを見つめ、「じゃあこれにするー」と言って鉢を受け取りレジへ向かった。
 さて、会計が済んだらさっさと学校に戻ろう。もうそろそろつばめさんと黒沢先輩はばいばいしそうな頃合だし、急ぎたい。
 しばらくして薫先輩はレジ袋に入れられたスイートピーを抱えて戻って来る。土も結構あるし、大分重そうだ。
「先輩、僕が持ちますよ。そのちっこい体じゃ大変でしょう」
「むう、大変じゃないもん。私一人で平気だもん」
 僕は袋の取っ手に右手を潜らせ、それをひょいと持ち上げる。
「あう」
「持ちます。じゃあ急ぎましょう、先輩を待ってる人がいっぱいいるはずですから」
 思えばこの人、卒業式は明日だと言うのにのんびりしてていいのだろうか。準備はちゃんと間に合うのかな。
 先に歩き出す僕の後ろを薫先輩がひょこひょこついて来る。
「ゆーくん早いよ、もっとゆっくり歩こうよお」
「言ったでしょう、先輩を待ってる人がいっぱいいるはずです。のんびりできません」
 本音はつばめさんなんだけどね。さあ急ごう。

      ***

 ギロッ。そんな聞こえるはずのない擬音が鼓膜を掠めるほどに、体育館にて卒業式の準備等を行っている二年生の方々(薫先輩を除く)から僕に送られた視線は鋭いものだった。
「みんなー、お花買って来たよお!」
 ここ体育館の出入り口からぱたぱた奥へと駆けて行く薫先輩。
 しまったな……靴箱の辺りで適当なこと言ってさっさと屋上へ向かえば良かったよ。二年生一同が薫先輩愛護(と言うより過保護)協会の会員で、何故か僕が彼らに敵対視されているということをすっかり忘れていた。
 僕は走り遠ざかることでさらにちっこくなっていく薫先輩の跡を追う気にもなれず、何かとやばい雰囲気から脱出するために回れ右退散を即行で試みるも、後ろから肩をガシリとつかむ何者かの手によって移動を阻まれる。
 振り向けば、綺麗な容姿をした知らないお姉さんは僕に対して蛇の睨みを発動していた。なるほど、天敵と遭遇したカエルはいつもこんな気持ちになっていたのか。生物の良い勉強になるなあ。
「あなた薫ちゃんの想い人よね。薫ちゃんを振っといて未だに彼女をもてあそんでいる悪い子よね。ちょっとお話があるんだけどいいかしらあ?」
 優しい声に秘められた轟々と燃え盛る鬼のごとき殺気。何かとやばい雰囲気、何かとやばい雰囲気。誰か助けてー!

 他にもついて来ようとした人はいたみたいだけど、それらはこのお姉さんが「薫ちゃんの親友として、この子とは二人きりで話がしたいの」と言って追っ払ったようだ。そして僕は今、人通りの少ない体育用具倉庫へ連行され、見知らぬ上級生一名(方々から感じる視線の数を含めれば約数十名)から取調べを受けている。
「あなたさっき体育館に現れた時、薫ちゃんに腕を抱かせていたわよね。どういうことかしら、薫ちゃんと付き合う気ないくせにあんなこと」
「いや、あれは抱かせていたんじゃなくて薫先輩が勝手に抱きついてきて……」
「問答無用、あなたは有罪よ。観念なさい」
 無用って、あなたがどういうことかしらって問うたんじゃないですか。
「私たちはね、何も薫ちゃんとの関係を完全に断ち切れとまでは言わないわ。ただ友達同士としてあの子と接していてくれるなら問題ないの」
「僕だってそうしたいんですけど、薫先輩が……」
「黙らっしゃい。でも今のあなたは、恋人同士でない男女の交遊としては遥かに度を超えたスキンシップを図っている」
「いやだから、それは薫先輩が」
「黙らっしゃい。いい? 薫ちゃんを振ったあなたが薫ちゃんと物理的に近しく接するということは、それすなわちただれた関係を引き起こすことに――」
 駄目だ、この人僕の言うことに全然聞く耳を持とうしない。本当は薫先輩が僕の姉になるだとか言ってぺたぺたくっついて来ているだけなのに酷い言われようだ。
 ところでふと疑問に思ったことが一つある。どうしてこのお姉さんや他の二年生の方々は、こんなにも薫先輩を守ろうという意識が強いのだろう。
 うまく話を逸らされることを願いつつ、早速聞いてみることにした。
「あの、どうして先輩方はそんなにも薫先輩が好きなのですか?」
「黙ら――え?」
 今聞くには少々場違いな質問に少しぽかんとした様子の先輩。大人びた綺麗さを持つ人だけに、薫先輩と違って口を半開きにさせた表情は似合ってない気がする。それから数秒の間を置いてもとの顔を取り戻した先輩は、取り繕うようにこほんと咳を一つ吐いて、話を再会した。
「そっか、あなたは一年生だから知らないのね」
 まず彼女は埃ごと積み重ねられたマットの上にハンカチを敷いて腰掛ける。わざわざ座ったってことは、話が長くなるってことですか? 勘弁してほしい。
「薫ちゃんは去年、この学校で生徒会副会長を務めたわ」
 ……はい?
「生徒会……副会長?」
 この人があまりに分からないことを言い出すので一瞬何が何だか分からなくなった。次第にまああり得ないことじゃあないかと徐々に納得はしたものの、やっぱり何か解せないことがある。
 去年と言えば薫先輩は一年生の頃だ。まさかあの幼さ全開な薫先輩が一年生で副会長になっただなんて、あまり考えられない。
「信じられない? でもあの子が中学生の頃、その学校の歴史上抜群にトップの成績を保持していたと言えば、いくらか納得もいくかしら。幼気な側面の多い薫ちゃんだとあまりイメージしにくいわよね」
 そういえばこの前、新聞部の部室にて薫先輩が武雄の宿題を見てやっていたことがある。僕も傍から聞いていて分かりやすい説明だなあと感じたし、何より中学生の頃成績が下の下と中を行ったり来たりだった武雄(受験時は相当頑張ったみたいだけど)の疑問をすぐに解決させていた。僕が教えたところで武雄は根本すら理解できないだろうに。
「その頭脳と真面目な性格により、入学早々副会長を任されちゃってね。薫ちゃん自身はちょっとばかし不本意だったみたいだけど、でもあの子は本当に真面目過ぎるほど真面目で、任命されたからには頑張ると言って、手を抜いても問題ない……これ以上手の抜きようがないくらい簡単な仕事だって本気で取り組んだわ」
「なるほど。それで皆さんからの人望が変に厚いんですね。変に」
「変にの部分はさて置き、まあそういうことよ。頑張りに頑張った薫ちゃんはこの学校で学園ドラマばりの感動的なエピソードを三つや四つや五つや六つも残したわ。だから私たちは薫ちゃんのことが大好きなの」
 目を閉じて感慨深げに話すお姉さん。つまりこの学校では薫先輩がアイドル的な存在ということで、僕を睨んできた方たちはその熱狂的なファン――もとい薫先輩を大いに慕っているというわけか。なるほどなるほど。
 それは分かったんだけど、ところで今は何時ぐらいだろう。そろそろここを抜け出さないと黒沢先輩が帰ってしまうじゃないか。もう帰ってるかもしれない。
「すごいんですね、薫先輩って」とりあえず適当に感想を述べておく僕。
「そうよ。でもすごいだけじゃないの。薫ちゃんは頭も良くて運動はちょっと駄目な可愛い子なの」その瞳を閉じ、頬を紅潮させながら薫先輩を褒めちぎらんとする過保護お姉さん的な先輩。
「そんな彼女は結構お茶目で、よく背後から目隠しして来てだーれだという問答を私に強いるけど、それがまた目に無理やり入れちゃいたいぐらい可愛いの。これって親友の私だけが得られる特権かしら、役得かしら。今のところ薫ちゃんのだーれだを独占できてるのは私だけなんだからねっ」
 まるでペットを飼い始めた時の美央みたいだ。ものすごく薫先輩を可愛がっている。その話題は自分にとってかなり盛り上がるものらしく、今は彼女のありとあらゆる面が隙だらけ。僕を監視していた数々の視線もこのほわほわした雰囲気に呑まれて心なしか緩くなっている気がする。
 よし、逃げるなら今だ!
「じゃあ先輩、僕は急ぎの大切な用事がありますのでこれでおさらばいたしますね」
「薫ちゃんの頭なでなでできるのも私だけ……薫ちゃんにあーんできるのも私だけ……」
 僕がこの倉庫を抜け出る寸前もお姉さんは何だか怖いぐらいに陶酔していた。いっそのこと薫先輩に告白して付き合ってみたらどうかななんてことを考えながら、僕は屋上へ向かうため全力で駆け出していく。
 もう何となく間に合わない気がしてならないんだけど、つばめさんと黒沢先輩がまだそこに居ることを心から願います。待っててよ二人とも!
 ……ところであのお姉さんな先輩、薫先輩にあーんしたことはあるらしいけど、逆にあーんしてもらったことはあるのかな。いや、どうでもいいけどね。そう、どうでも。

      ***

 急ぎに急ぎまくって屋上へ辿り着いた時、そこ無人の空間にはある女の子がぽつんと一人。
「あれ、つばめさんだけ? 黒沢先輩帰っちゃったのか」
 僕の問いに幽霊な彼女はこくりと頷く。
「ほんの数分ほど前に」
 少し遅れちゃったかあ。まあ別にいいけどね。今までお世話になりましたーとお礼を言うのは家に帰ってから電話ですればいいし。
 冷えた空気の中、僕はつばめさんのもとへ歩み寄る。よく見るとつばめさんはどことなく寂しそうな表情をしていて、その視線の先は何を捉えるでもなく宙をさまよっていた。
「黒沢先輩が居なくなって、寂しい?」
「寂しくはありません、またいつでも会いに来ると言っていましたから。でも……」
 目を閉じ、口をつぐんでしまったつばめさん。彼女は今、まぶたの裏に隠した瞳のごとく澄んでいるその心で、いったい何を思っているのだろう。黒沢先輩と過ごしたひと時か、それともまた別の何かを思い出しているのか。
 じっと観察していると、つばめさんの口元がまた動き始めた。
「悠樹くん。今度、悠樹くんのお家にお邪魔してもいいでしょうか」
「へ?」
 唐突な質問に思わず間抜けな声を出してしまう僕。
 何だって、僕の家に来たい?
「学校の外は悪霊が出るかもしれないからって京介さんに外出を止められていたんですけど、その……一度くらい、悠樹くんのお家に行きたいなあって、思いまして……」
 彼女がなかなか学校から出ようとしない理由が分かったのと同時に、僕の内側からはどうしようもなく浮ついた感覚が呼び覚まされる。やっほーい。つばめさんが、恋人が僕ん家に遊びにくるよー。
「来なよ来なよ。今度と言わずに今からでも!」
「ふふ、ありがとうございますね。でも私、外出は一度だけという約束を京介さんとしましたので、そう何度も参ることができないのです」
「黒沢先輩って結構心配性なんだね」
 普段は僕が街中を歩いてたって悪霊どころか霊の一人も滅多に見当たらないのに、何を憂える必要があるのだろう。
「私は春休み、学校が静かになってしまう頃に行けたらなあと考えているのですが、どうでしょう」
 おずおずと控え目に尋ねてくる様子がまた可愛らしいつばめさん。そんな彼女に対し僕は快く頷いた。
「もちろんオーケーだよ。待ってるからね」
 春休みの楽しみが一つ増えました。きっとつばめさんが僕の家に訪れるその日は、今までに築き上げてきた僕たちの思い出と記念日に劣らない素晴らしい一日となるでしょう。
 嬉しさのあまり両腕を思いっきり広げ、青空をめいっぱい仰ぐ僕。
「綺麗な空ですね、悠樹くん」
 そんな僕につられてか、続いて上空を見上げるつばめさん。
「本当だね」
「私、快晴の青空が大好きなんです」
 その言葉を口にしたつばめさんの声からは、どうしてか、何か虚しいものを感じた。

      ***

 つばめさんと屋上でばいばいした後に僕がやって来たのは靴箱の並ぶ校舎の玄関。さあ帰ろうと上履きと下履きを取り替えているその時、僕の肩に誰かの手がぽんと優しく置かれる。
「悠樹、用事終わった?」
 何者だと思い振り向けば、そこには若干の笑みを浮かべている美央が居た。もう先に帰ったんだと思っていた僕はちょっとばかしびっくりしてしまう。
「ひょっとして美央、待っててくれたの?」
「まあね、どうせ帰っても暇だし。ところで用事って何だったの?」
 それから少し離れた女子用の靴箱で同じく下履きを取り出しながら尋ねてくる美央。まさかつばめさんのことを明かすわけにもいかないので、とりあえず適当なことを言って誤魔化すことにする。
「薫先輩のお手伝いをする約束があったんだよ。ほら、今日は二年生で卒業式の準備があるでしょ」
 よし、この返答なら後々矛盾が出てくるなんてことはないだろう。なんたって実際に薫先輩のお手伝いをしたわけだしね。
「あ……そう。そうなんだ……」
 美央の声から急に元気が失せていく。どうかしたのかと思い視線をやれば、幼馴染は取り繕うように微笑みを取り戻してこちらを振り返る。
「さ、帰ろう帰ろう。もうすぐ試験で大変よねー」
 玄関の土足スペース付近にしゃがんで靴に足をはめる美央。僕も一緒になって靴を履く。
「うん、帰ろっか」

 思い返すと時の流れを感じずにはいられない。僕は高校生になってから、つばめさんと出会い、幼馴染たちを巻き込んで部活を始め、薫先輩と出会い、黒沢先輩と出会い……そして今、黒沢先輩との別れの時が近づこうとしている。
 僕たちは進路に沿ってそれぞれ別々の道を歩んでいく。そのおかげで皆と離れ離れになってしまうこともあるだろう。でも今日の放課後、教室でばいばいしたはずの美央と玄関で再会した時のように、また再び会うこともできるはずだ。
 いつか僕も卒業して、つばめさんとすっかり会えなくなっちゃう時がきっと来る。でももう二度と会えなくなるなんてことはないはずだから、別に気に病むことじゃないよね。
 またきっと、会えるはずだから。でも……いや、ここから先はあまり触れないようにしておこう。ポジティブシンキングはすごく大切。
 美央と語らいながら歩く道の上で、僕はそんなことを考えていた。また胸の内で広がり始めているこの嫌な予感が、今度こそ勘違いであるようにと、切に願いを込めて。

後書き

さて、学年末考査を控えた現在、部活動停止によりメインヒロインのつばめさんと会話できる機会がすっかり減っちゃった新聞部の部長源川悠樹くん。幽霊を恋人に持つと寂しい思いをしてばかりです。由々しき事態です。今回はそんな彼が急ぎに急ぎまくるお話ですよー!
と、後書きでちゃんとした紹介文を書いてみたり。
今回はいろいろ伏線を張ってみました。それの全てを回収できるかどうかはまた別の話として、どうでしょう。ご感想の方は。
時に簡単なお返事しかできなかったりしますが、コメントはどしどし受け付けておりますからね!

s:2958(第一話)
s:2997(第二話)
s:3260(第三話)
s:3560(第四話)
初見の方は最初から読んでくださいまし。

……コメントへのお返事……
けめこさんへ
はじめまして、日直です。わざわざ最初から読んでくださったようで、嬉しいです!
キャラクターの個性が確立されている……と言われると、心がけていたことだけに、やっぱり嬉しいですね。登場人物の皆さんには愛着がありますので、なるべく皆に活躍してもらいたいと思ってます。
伏線の張り方、うまくできてました? 実は結構気にしてた所だったので、何だかかなり自信がついてきました。
ずっと期待しててくださいね。本当に、ありがとうございました!

この小説について

タイトル 少し、遅れて参ります 〃
初版 2009年10月22日
改訂 2009年10月26日
小説ID 3575
閲覧数 805
合計★ 4

コメント (1)

★けめこ 2009年10月24日 21時51分21秒
初めまして、けめこといいます。
このお話、最初から読ませていただきました。

文章がすっきりしていて、非常に読み進めやすかったです。
さらに、各キャラクターの個性もしっかり確立されていて、テンポが良くスムーズなストーリー運びとなっていますね。
また、伏線の張り方がものすごく自然で、よくよく注意して読まないと気づきませんでした。
台詞も各キャラに合っていますし、流れが整っていてきれいです。

これからの展開に期待しています。
初めてながら、長文失礼いたしました。
名前 全角10文字以内
コメント 全角3000文字以内 書式タグは利用できません
[必須]

※このボタンを押すと確認画面へ進みます。