つきのないよる。

 夜の海。

 何も光源がない海は、ただひたすら真っ暗で、聞こえてくる波が岩場に当たる音と潮の香りが、私は海にいるということを教えてくれていた。

 振り返ると、ずっと遠くに見える小さな外灯がひとつ。民家や建物はひとつもない。舗装されてからずいぶんと経ったのか、いたるところが穴だらけで、でこぼこになっている道がかすかに照らされている。人も滅多に来ることがないのだろう。無造作に捨ててあるコーヒーの缶は、もう完全に錆びてしまっていた。数年前に発売されて、今じゃ見かけなくなったラベルだ。

 ここだけ、時間の流れが遅くなっているような、そんな錯覚を感じる。

 星ひとつ見えない空に、真っ暗な海。誰の気配も感じず、自分がそこに立っているという実感すらなくなっていくような、まるで不安定な夢を見ているかのような、そんな感覚。

 いける、と思った。

 躊躇いや恐怖は、もちろんある。けれどそれすらも押さえ込んで、今ならやれると思った。一歩前へと踏み出す行為。すべてのしがらみから抜け出し、自由を手に入れる大きな前進。

 私は、死のうと思った。

 元からそのつもりでこの場に来た。つらい現実なんてもうたくさんだ。生きていても何も楽しいことなんてありやしない。ちょっとあったとしても、そんなのはすぐに消えてしまうものだ。生きている中で、つらいこととうれしいこと、どちらが多いかと聞かれたらそれは間違いなくつらいことだ。私だけに限ったことじゃない。生きるってことは、つらい目に遭うってことだ。ほかの人たちは、そのつらいことを、楽しいことやうれしいことで上書きできるだけ。先にある良いことを糧に、今のつらいことを耐えることができるだけ。……つらいことのほうが多いのにね。

 私には、そのつらいことに耐えられるぐらいの楽しいことが、ないわけで。毎日が本当に耐えるだけ。苦しいだけ。ゴールが見えないマラソンなんて、誰が好き好んで走るというんだろう? 仮に見えたとしても、それが真っ暗でどん底で、希望なんてひとつもないようなゴールなら、誰がそれを目指すんだろう?

 だったら、耐えることなんて無意味で、走り続けることなんて無意味で、生きていることだって無意味で、

「死ぬしか、ないじゃない」

 私は死にたいわけじゃない。死ぬしかないのだ。別に死後の世界を信じているとか、生まれ変わりたいとか、そんなことはない。無意味なことならやりたくない。つらいことなんて体験したくない。でも、生きていたら逃げられない。今の生活から逃げても同じだ。本質的につらいことには何も変わりない。

 だから私は、死逃げするのだ。

 私は真っ黒い世界を見た。あそこに一歩踏み出そう。それで、後は何もしなければいい。向こうで勝手に私を殺してくれる。何も難しくはない。抵抗さえしなければ、意外とあっさり人は死ねるんだ。死にたくない人だって死んでしまうような世界だ。死にたい私が死ねないわけがない。

 ほら。

 一歩。

 ただ、足を前に出せば。

「おーい、あんた」

 突然背後から男の声がして、私はびくりと反応してしまった。振り返ると、そこにはさっきまではいなかった人の影があった。暗くて顔まで良く見えないが、私よりも明らかに背が高くて、手にはなにかビニール袋みたいなものをぶら下げていて、

「死ぬんだろ? さっさと死ねよ」

 とんでもないことを、言った。




 『 つきのないよる。 』




 一度突き放すような言い方をして相手の心を揺さぶるとか、そんな甘いことは少しもなかった。彼は完全に、完璧に、私に「死ね」と言った。理由は単純明快で、いつも彼が独占している場所に私が突っ立っていて、私が死ぬとか死なないとか呟いていたからだ。

「え? なに? もしかして誰かに止められようとしてるの? 止めてくれるのを待ってるの? だとしてもさ、ここじゃないとこでやってくれねぇかな。そこ、俺の場所だから。いつまでもうだうだと立ってられると邪魔なんだよね」

 私は唖然として、彼の影を見ていた。現実はドラマや映画とは違うことは分かっていたつもりだったけど、まさかこの場面で、こんなことを言われるなんて想像もしていなかった。唖然としていた気持ちは、すぐに彼に対しての怒りに変わり、私は体ごと振り返った。

「ここはあなたの所有地なの? お金でも払って使ってるの? そうじゃなかったら、あなたにどうこう言われる筋合いはないわ」

「いやでも、死ぬんだろ? だったらさくっとやっちまえばいいじゃねえか。死んだら終わりなんだぜ? 何をためらってるのか知らねぇけど、死んだら意味なくなるんだからよ。時間の無駄じゃねーか」

 彼は淡々とそう言った。怒っているわけでも呆れているわけでもないようで、ただ本当に思ったことを言っているみたいだった。今まで生きてきた中で酷い人間はたくさん見てきたつもりだったが、ここまでの奴はそうそういない。

 でも、彼の言うことにも一理あった。確かにこれから死ぬのなら、この場に立っている行為そのものが無駄だ。こんなことを考えている暇があれば死ねばいいのだし、考えたからって何かを残せるわけでもない。誰にも伝わらない思考は、本人の意識が途切れた時点で無いのと一緒になるのだから。

「あ、そうだ。ここの下の海って意外と浅いからさ。溺れ死ぬっていうより、海底か岩に直撃した衝撃で死ねるかも知れないぞ? 頭から落ちればたぶん一発だな。そんなわけで、即死したいなら頭からがおすすめ」

 ……なんだ、こいつは。

 止めてほしい、とは思わない。けれど、これが死のうとしている人間を目の前にした反応なのか? いつから人類は、死に向かう人の背中を軽く押すようになったんだろうか。人口があまりに増えすぎて、おかしくなってしまったのかも知れない。

 彼は黙り込んだ私を見て、ふ、と息を吐いた。肩をすくめたようにも見えた。すごく馬鹿にされた気分になり、ぶん殴りたくなったが我慢した。

 持っていたビニール袋にがさがさと手を突っ込んだ彼は、中から何かを取り出す。暗くてよく見えないが、その取り出したものを口に持っていくようなしぐさをして、パリッ、という音がしたので気が付いた。

 こいつ、おにぎり食べてやがる……。

「……ん? なんだ、やらねぇぞ」

「いらないわよッ!」

「おおコエー。ヒステリックな女ってめんどくせーよなぁ。てか、ほら、早く死ねっつーの。俺がそこに座れねえじゃねーか。そこで飯食うんだよ」

 こいつは、私が死んだ後に、その場で晩御飯を食べるつもりらしい。もう私を止めるとか止めないとかのレベルじゃなくて、こいつは根本的からオカシイやつだと私は認識した。

 ぱりぱり、と海苔の音がする。そういえば、私も今日一日は何も食べていなかった。空腹感なんて全然感じていなかったのに、人が食べている気配を感じるだけで、一気にそのその思いが膨れ上がる。

「……おなか、へった」

「だからやらねーって言ってんだろ。死ね。死んだら腹減ったとか関係ねーから死ね」

 そのとおりだった。今から死のうって人間が、お腹すいたも何もない。死んだら、そのとき空腹だろうか満腹だろうが、結局は同じことなのだ。死ぬ直前までの気分は変わるかもしれないけど。

「……ん、なんだあんた。もしかして」

 ひとつを食べ終わったんだろう。彼はパンパンと手を叩くと、ビニール袋を足元に置くと、

「死ぬ勇気がないから、突き飛ばしてもらいたいのか」

 両手の指を組んでポキポキと鳴らしながら、一歩こちらへと歩み寄ってきた。でももう私は驚かない。彼はそういう奴だって、ついさっき認識したのだから。

 それに、彼が言っていることだってすべてが間違っていたわけではない。自分の意思で死ぬよりも、他人の意思によって殺される方が、きっとずっと簡単だ。他人が明確な殺意をもっているとするならば、自分がいかに抵抗しても殺されてしまう可能性がある。自分の意思ならば、いつどのタイミングでも、止められる。

 彼は私を、殺してくれるという。なら私は、殺されればいいのだろう。背負わずともいい私の死を背負ってくれるというのだから、感謝こそすれ文句など言えるわけもない。

「なぁあんた、遺書とかそういうの書いたか?」

 こちらに近づいてきながら、彼がそう聞いてきた。私は首を振って答えたが、考えてみるとこの暗闇では首を振ったって気づかないかもしれない。

「……書いてないわ、そんなもの」

「どうして?」

「ずいぶんと面白いことを聞くのねあなたは。さっき自分で言ってたでしょ。死んだら関係ない、ってね」

 遺書というのは、死んだ後のことを考える人間が残すものだ。死んだら終わりっていうのなら、残すことにどれだけの意味があるというのだろう。残された人のため? 自分を死へと追いやった人物、事柄に復讐するため? くだらない、実にくだらない。遺書を書くぐらいなら死ぬなと言いたい。もちろんこれは、自殺、に限った話ではあるけれど。

「そりゃそうだ。死んだらもうこの世界がどう移り変わろうとも、関係ないな。感じ取れないなら、それは無いのと同じだ。あんたが死んだってこの世界は存在し続けるが、でもあんたが感じ取れる世界は終わる。だから、あんたと一緒にあんたの見てる世界は死ぬんだ」

「面白い考え方ね。どこで教わったの?」

「持論だって。これでも俺、頭の回転は良い方なんだぜ? 言うだろ? テストで良い点数が取れるのと、頭が良いというのは違うってよ」

 それはそうだ。テストの点数と、頭の良さは違う。いくら成績が良くても馬鹿はたくさんいるし、成績なんか悪くても世渡りがうまい、頭の良い連中もたくさんいる。言わせてもらえば、テストの成績で優劣を決めようとする人物こそ大馬鹿で、物事の本質が見えていない。

「だけど、テストの点数が悪い人が言うと、その台詞もただの負け犬の遠吠えに聞こえるけどね」

「言うねあんた。でも、そうだな。悔しかったら良い点数を取ってみろって話だな」

「ちなみにあなたはどうなの? あまり成績は良くなかったみたいな話だったけど」

「中の下ぐらいだよ。教師に文句をつけられない、ぎりぎりのあたりだな。あんたは?」

「毎回補習を受けるぐらいね」

「ブッ! なんだよそれ、馬鹿じゃん」

「だけど頭の回転は良いと思うわよ?」

「くくくっ、はいはい負け犬の遠吠え遠吠え」

 思わず私も笑ってしまった。今から死ぬとか殺すとかいう状況なのに、いったいなんの話をしてるんだろう。頭が良いとか悪いとか、そんなことはどうでもいいはずなのに。

 彼は私の目の前までやってきた。後は押すだけだ。

「じゃあ……そうだな。言い残すことも何もないよな?」

「そうね。何を言っても、それを聞くのがあなたじゃ特に意味がないわね」

「あんたの即死、祈ってるよ」

「そう。ありがとう」

 ドンッ!

 呆気なく、彼は私を突き飛ばした。それは優しくもないし、強くもない。ただ前に手を突き出す感じだった。私の足が地面から離れる。宙を舞う。いや、落ちる。暗いから、ここがどれぐらい高い場所なのか分からないけれど、彼が言うには頭から落ちれば即死できるかもという話。それなりに高いはず。なら落下までの時間、走馬灯が思い浮かんだりするんだろうか。そもそも走馬灯っていうのは死ぬ前に頭をよぎるっていうけど、それって脳が死ぬことを覚悟したってことなんだろうか? 死ぬ直前ですら、死ぬということは確定していないはず。でも走馬灯は死ぬ前によぎる。じゃあやっぱゴッ!


 …………。


 なにこれ、すごくいたい。いたい。アタマからおちるのにしっぱいした? 右ウデから叩きつけられたかんじがする。へんなほうこうにマガってたりするのかな? くらいからよくミエナイ。あたまもブツケタし、チも出てるのかな。みみがきーんってしてる。

 ザクッ、というおとがした。なにかがとなりにおちてきた……?

「これで、あんたは死んだ」

 カレのこえだった。

「あんたに何があったのかなんて全然、これっぽっちだって知らねぇし、知ろうとも思わねぇ。生きてくのが嫌になった理由なんて、他の誰かに話したところで理解なんてしてもらえねぇからな。だからあんたは死んだ。この俺が殺した。あんたはもう、あんたとしては終わってる。もっと別の何かだ。見えるか、地面が。見えるか、空が。見えるか、世界が。その全部がもう、新しく生まれ変わったんだよ。さっきまでとは違う」

 彼は、何を、イって……

「ようおはよう。いやぁ、このクソッタレな世界へようこそ。俺はあんたを歓迎するぜ。犠牲者はひとりでも多い方が気が楽だ。この世界に食いつぶされて、汚れながら消えていく運命からは誰だって逃げられねぇ。生きてる限りな。だから俺を恨めばいい。お前をこの世界へ呼び寄せた俺を恨め」

 私は芋虫みたいに惨めに体を動かしながら、ゆっくりと、よろよろと立ち上がった。右腕に激痛がある。だけど動かせるから、どうやら折れてはいないようだった。頭がふらつくのは、落ちた瞬間に地面に打ちつけたからだろう。でも、正常な思考で物事を考えられている。血は出ているのかもしれない。けれど、致命的な傷ではない。

 ……私は、死んでいなかった。

 私が立っていたあの場所から、海へと落ちるまでの途中に出っ張りがあって、そこに落ちたのだ。高さは3メートルもないだろう。

「……あなた、知ってたわね」

「さぁて、なんのことだか。運が良かったんじゃねえの? あんた」

 しれっと彼がそう言った。でも私は怒る気にもなれず、崖になっている部分へ背中を預ける。空は相変わらず真っ暗で、海も真っ暗で、なんにも変わってなんかいない。

「なぁ、あんた」

「…………なによ」

「やってみろよ」

 彼は、『何を』とは言わなかった。ただ、やってみろ、と私に言った。

「死ぬのなんていつでもできるだろ。あんたはもう、全部やったのか? やり尽くしたのか? やりたいことはもうないのか? それが終わってから死んだって、全然遅くねえだろう?」

「私の何が分かるって言うのよ……あなたなんかに!」

「あ、俺その台詞大嫌い。知るわけねーだろ、あんたのことなんて。誰が分かるって言うんだよ、あんたのことなんて。誰もいやしねーよ。自分のことを分かってやれるヤツなんて、自分自身だけだっつーの。いいか、勘違いしないようにこれだけは言っておくけどな。俺はあんたに死ぬなって言ってるわけじゃねえ。死ぬならどうぞ、この先に飛び降りたら今度こそ確実に死ねるぜ? どう足掻いたって生き残れる高さじゃねぇからな。ただ俺は、やれることが残っているのに、簡単に俺の前で死のうとするのが気に食わなかっただけだ」

「……私だって、もうやれることは全部」

「じゃあどうぞ。この先へ行っちまえ。でも今度は俺は背中を押さねぇ。自分の最後のケツぐらい、自分で拭け。はい、さようなら」

 私は。

 私は、崖から背を離して、歩き出そうとして、足を前に出して……。


 心の底から死にたくて自殺する人なんて、たぶん、いない。


 ただ、現状に耐えられないから、我慢できないから、もうつらくてどうしようもないから、死ぬ以外ないから、自らの命を絶つのだ。もし自殺以外の解決方法があるならそれに飛びつくだろう。死ぬなんて選択肢は、一番最初に除外する。特に理由も無く死にたい人間なんてのは、狂っていると思う。

「なぁ」

「……なによ?」

「生きてみろよ。この世界で。あんたは死すら覚悟したんだ。怖いもんなんてあるのか? 安心しろって、いざとなったら死ねばいいだけ。最大にして確実な逃げ道があるんだ」

「…………」

「やってみろよ」

「…………うん」

「生きてみろよ」

「…………うん」

「よし」

 そう言った彼は、笑っていると思った。暗くて見えなかったけど、たぶん歯を見せて、ニカッて感じで笑ったんだと思う。

 彼は私の頭をぽんぽんと叩くと、手に持っていたビニール袋を私に差し出してきた。コンビニのビニール袋だろうか、まだ重いから、中におにぎりとか入っているのかも。

「やるよ。俺からあんたへの餞別だ。感謝しながら食えよ。俺の今の全財産で買ったんだからな」

「ふふ、これで全財産? ずいぶんと軽いけど……よっぽど貧乏なのね」

「うるせー。俺だっていろいろあんだよ、いろいろ!」

「まあ、ありがたく受け取っておくわ。ありがとう」

 死なないって決めたら、さっきよりもさらにお腹がすいてきた。とりあえず崖の上に登ったら、あの薄暗い外灯の下あたりで何が入ってるかを確認して食べるとしよう。問題はどうやって上に登るかってことだけど……よじ登るしかないのかな、これ。

「ねぇ、ここから上に続く道って」

 言いながら振り返ったら、彼は私からはずいぶん離れた場所にいて、

「俺は、もうやること全部やったからよ」

 たぶん、ニカッて笑いながら、

「あんたはもう帰れよな! 簡単に負けんじゃねーぞ!」

 その姿を、暗闇の海に溶け込ませた。





 私は、しばらく呆然としていた。

 どれぐらいその場で硬直していたのか自分でも分からないけど、とにかく上に登らなきゃ、って思って、なんとか崖を上まで登って、あの外灯まで戻ってきた。相変わらず人の気配はなく、錆びた缶が転がっていて、時間の流れがおかしくなってしまったかのような錯覚に陥って、

「…………」

 外灯の目の前に、座る。彼に渡されたビニール袋を開く。

 おにぎりがひとつ。ペットボトルのお茶がひとつ。

 そして、白い封筒がひとつ。

 宛先も何も書いてないその封筒を、私はためらいもせずに開けた。彼が私に渡したビニール袋に入っていたのだ。私が読んでもいい、ってことなんだろう。

 ……それは、遺書だった。

 彼がこれまで辿ってきた人生、手に入れたもの、失ったもの、感じた絶望、気がかりなこと、そういったことが書いてあった。

 …………結局は、彼もここへ、死にに来ていたのだ。だけどあと一歩が踏み出せずに、ここへ来ることが習慣化していて、だけどいつ死んでもいいように遺書は持ち歩いていて、

 そして今日、私と会ったんだ。

「……なによ」

 私はおにぎりを手に取った。

「勝手に生きろって言って、自分は勝手に飛び降りて……」

 おにぎりのビニールを外し、海苔の上からかぶりつく。ぱりぱりという音がする。

「……遺書なんて、書いてさ。未練たらたらじゃないの。死んだら意味がなくなるんでしょ? だったらどうして書いたのよ」

 ついさっき会ったばかりで、顔もよく分からなかった彼。

「どうして、死んだのよ……」

 私を殺して、そして、生かした人。

「自分ばっかり、ずるいよ……」

 でも、私はもう死ねない。そう簡単には死んでやれなくなってしまった。やれることを全部やって、それでももうどうしようもないって状況になるまで、私は生き続けなきゃいけない。

 彼が私に投げかけた言葉を、無駄にするわけにはいかないから。





 …………。





 夜の海はやっぱり暗くて、月も出ていないその夜は、もう闇と言ってもいいような世界だった。ずっと見ていると吸い込まれてしまうような気がする。振り返ると、ほのかな光で地面を照らす外灯が、時折ちかちかと光を失っていた。そろそろ蛍光管の寿命なんだろう。でもこんなところの外灯、誰が交換するっていうんだ。消えてしまったらもう二度と光を取り戻すことなどないのかも知れない。

 私は穴だらけの道を進んでいく。真っ暗闇に向かって。道端に以前見かけた錆びだらけの缶はその姿を無くしていた。さすがに土に還ったわけじゃないだろう。誰かが拾ったのか、それとも風かなにかで吹き飛ばされたのか……まあ、なんでもいいか。そんなことは。

 少し進むとそこは海に突き出したような場所になっていて、日中なら眼前に広がる海を堪能できるような場所だ。今はただ真っ暗なだけだけど。私は手に持っているビニール袋を揺らしながら、その場所を目指す。

「…………」

 私は足を止めた。私が目指す場所に、誰かが居た。じっと立って動かない。きっと向こう……海の方を見ているのだろうけど、私に気づいた様子もない。こんな時間に、たったひとりで、人気のない場所に立ち尽くす人。普通ではなかった。って、私も人のことは言えないけれど。

 一言も会話してないし、顔も見えないから表情も分からない。男なのか女なのかも分からない。けれど、分かってしまった。だって私は、その場所に立っていたことがある。その人が、どうしてそこに立っているのか。何をやろうとしているのかを理解した。

「ねぇ?」

 私は話しかける。

 その人はびくりと体を震わせて、ゆっくりと振り返る。


「私が、殺してあげようか?」


 あのときの、彼みたいに。

後書き

お久しぶりの方、初めましての方、こんばんは。
蒼って存在です。ちゃっかり生きてます。

2年前ほどに書きかけだったものを最近発掘して、懐かしいなぁ、と思いながら、それを今書いたらどうなるんだろう? と思って書いた結果がこれでした。9割以上別物です。

いつもとは違う気分で書けて、良い刺激になりました。

それでは、またの機会があれば。

この小説について

タイトル つきのないよる。
初版 2010年2月1日
改訂 2010年2月2日
小説ID 3779
閲覧数 882
合計★ 0
蒼の写真
ぬし
作家名 ★
作家ID 53
投稿数 30
★の数 241
活動度 5620

コメント (4)

★水原ぶよよ コメントのみ 2010年3月25日 21時53分24秒
おひさしぶりでございます。
初めてこの作品を読んだとき、「切なく泣ける怖い話」というDVDのドラマを思い出しました。
登場人物には愛着は沸きましたが、このDVDを見た後で、本作を読むとオチがも予想がついてしまいました。その予想通りの結末になっていたのは、いろんな意味で残念に思います。
作品としては、「ホノ」のほうが好きです。
毎月毎日、たくさんの物語がいろんな媒体で発表されるわけだから、多少は同じようなものも出るとは思います。それだけに予測してもう少しひねってほしかった気がします。
人のこといえませんけどね(汗)

ちなみに「ホノ」は全部読みましたが、別の人がコメントしていたので、私はコメントを控えさせていただきました。
★鷹崎篤実 コメントのみ 2010年3月26日 23時11分28秒
ども、おひさしぶりです
ホノにコメントするとか言っておきながら、最後の最後でコメントできなかった鷹崎です。その件に関してはもはや、何を言っても言い訳にしかならないので、すみませんとしか謝れません。
今回の作品の感想。
水原さんとは違い、DVDを見る習慣のない自分は件のDVDを知らないので、落ちについては想像していたものとは違い、楽しめました。
で、この作品の志向性について。
死という題材を扱っているため、重くなりがちな話ですが「彼」の存在のおかげでそこまで重すぎず、かといって軽すぎないある一定の水準で保たれていたような気がします。
個人的な好みですが、テストに関する会話に少し違和感がありましたので、もう少し会話のテンポを遅くなりしてもらうと、読みやすかったかもしれません。
ちなみに僕はこの話を読んでいる間、朔ユキオのセルフという作品を思い出していました。状況的に男と女が逆の立場でしたが。あ、だからといってセルフを勧めているわけではありませんよ。
で、ここからは、よく分かっていないくせに、分かったようなことをやたら小難しい言葉を使って書いていきます。
さて、物語冒頭で彼女は自殺による死を自由と定義していました。
つまり、この時点において彼女は生を束縛と、死を自由だと思っていたわけですね。
さらに彼女はこう続けています。
『だから私は、死逃げするのだ』
ここで、彼女の価値観は死を自由から逃避へと置き換えています。
自由とは現実との対峙であり、逃避とは現実への絶望だと僕は考えています。
この物語の中で、彼女の過去はあえて書かれていませんが、現実に絶望するほどのことが彼女にはあったのでしょう。
彼女はこの段階までは、現実と向き合うことに疲れ、自分の殻に閉じこもっている状態でしたが、死にいたろうとした直前、彼の声によって現実に引き戻されました。
無論、この時点で彼の目的を彼女は知る由もなく。
彼との会話の中で、彼女の閉じられていた心は無意識に開かれていきますが、このあたりは見事といった感じです。
蒼さんの作品を読みなれていないと、少し登場人物、特に彼に関しては違和感を持ってしまう人間が多いかとは思いますが、僕としてはアリかと。
で、遺書に関する僕の見解ですが、すみません。
見解を書こうと思ったんですが、僕自身、遺書を書いたり書こうとした経験がないので何とも言えませんね。
彼女は遺書を書いていなかったわけですが、どうなんでしょう?
どこかの本で、遺書とは未練だと書いてありましたが、彼女は遺書を遺していません。つまり、この場合は未練のない死として、彼女は自殺と向き合わなければいけなかったのに、飛び降りる寸前まで彼女はためらい続けていたわけです。
これを彼女の人間的な弱さととらえるか、それとも、どうとらえるかは読み手の裁量に任せるしかないのですが。
はい、そして、彼の手を借りて彼女は飛び降りるわけですが、結局死ねませんでした。
生き残った彼女に残ったのは痛みという生の実感だけ。
この痛みが虚ろだった彼女を現実に引き戻すわけですが。
精神的、肉体的にとはまた違う意味でこの瞬間、彼女は死に、生まれたとみるべきなのでしょう。
これまで自分の主観でしか動けなかった彼女が、このときから、客観的な思考を持つようになっています
そして、彼の「生きろ」という言葉に生への志向も取り戻したわけですが、今度は彼が入れ替わるように、現実という舞台から飛び降りてしまいました。
つまり、見方によっては、崖の上を現実世界とすれば、その出っ張りの部分が現実世界と死の世界の中間であり、夜の海が死の世界ということになるのでしょう。
彼は彼女に託し、夜の海へと旅立っていった、といった感じですかね。
彼の死を目の当たりにしての彼女の心理描写は多くありません。
そこを書けば、蛇足の感はぬぐえませんし、どうして、彼女が彼の分まで生きようとしたのか、感じ取れない人間はもはや諦めるしかないのですから。
おそらく、彼は誰かを待っていたのでしょうね。夜、誰もいないはずの崖の上に誰かがいた時は死のう、と。
それはきっと奇跡のような確率でしたが、彼は彼女に出会いました。
もしかしたら、彼が彼女に声をかけたのは嬉しかったからかもしれませんね。言葉としてどこかおかしさを拭えませんが。
錆びたコーヒーの缶が出てきますが、これが彼の置いたものだとすると、彼は何年もこの崖の上に足を運び続けたことになり、ずっと自分の死の瞬間を求めていたことになります。
と考えると、彼も十分に狂った、いや、壊れた人間であったといえるのでしょうね。
彼女はその後も、崖の上に足を運び続けているので、彼女もどこか壊れてしまったのでしょう。
無論、この壊れるという言葉はマイナスの志向ではなく、その逆の志向を持っています。
うーん、なんか書きたいことがぐちゃぐちゃになってしまった。
とりあえず、物語として見た場合に蒼さんの主義主張はこの作品の中にきちんと入っていますが、登場人物の特異性がその主義主張とぶつかりあって、少しまとまりのない感じになってしまったってな具合です。
登場人物も嫌味のない仕上がりになっており、特に彼女は僕好みのプリチーガールなのですが、だからこそ、物語のテーマとの食い違いも表面に出てしまった感じなのですかね。
うん、もったいない。プリチーなヤンデレにハアハアできたのですが、物語の主題があるので、少し真面目にならねばならず、その矛盾に僕は耐えきれませんでした。
毎回、蒼さんの作品へのコメントが長くなる傾向にある自分ですが、今回もその例に漏れることなく、書かせてもらいました。
うざかったら、消しちゃってください。
ではでは

追伸 本当にセルフは読んじゃだめですよ。スピリッツの中の下くらいで連載されてますので。
★水原ぶよよ コメントのみ 2010年3月27日 10時36分38秒
鷹崎さんへ
読解力のない水原です。ご無沙汰しております。
内容が似すぎてます、というコメント以外で、そこまで読み取ることはできませんでした。鷹崎さんのコメント見ると、かなり価値のある作品といえるでしょう。話の展開のみでダラダラ書いた私としては、レベルの低いコメントを書いてしまったと反省するばかりです。

一般論で、、誰でも「死にたい」とか思ってるところはあるとは思うのですが、みんながみんな実行しない、のは、痛いから、というほうが強いんじゃないですか?だからためらいが、この世への未練に繋がるわけではないし、遺書を残さないことの矛盾になるわけじゃないですよね(念のため言いますが、コメントや本編への反論ではありません)
とは言いながら、本編の彼女は実際すべてを含めて「遺書なんか書いていない」と言いながら、未練たらたらだったようですが、それはすべてを終わらせることに対する後悔のようなものなのか、痛いのが怖いのか。それとも後悔を理由とする実は「痛いのはイヤ」という意味なのか。

私は彼女よりどちらかというと、男のほうが好きかな・・・・。こういう女性はどうも・・・(あぶない)

あと強要しているように思われると申し訳ないのですが、たまにそれだけ高い評価しているなら、なぜ★のいくつか出せばいいのに、と思うことがあるのですが(汗)

ってか、初出からこんなに経っているのに、なんで二番煎じでコメントするのさ。恥ずかしいw
★ コメントのみ 2010年4月4日 23時10分10秒
>ぶよよさん
コメント、ありがとうございます。
どうやら似た内容の話があったみたいですね。オチが想像できてしまうのは、狙っているものは別として、物語としてはよろしくないわけで、残念に思われるのはしょうがないことだと思います。
やっぱりちょっとひねったぐらいだと、どこかに同じような話が既にあるんですね。ここはひねった上に回転をかけて、さらに逆さの状態で着地するぐらいしないと。(ぉ)
かと言って超展開過ぎるのはダメなので、そのへんの塩梅が難しい……。


>鷹崎さん
いやいや、長いコメント嬉しいです。消すなんてとんでもない。大変ありがたく思っています。
私が書こうとしていたこと、こう思わせることができるかな、と思って使った表現方法が、鷹崎さんと食い違っていたりして、でもそこが面白いところだと思います。私の表現力が足りないと言われればそれまでなのですが、あえて詳しく説明してない部分がたくさんあるので、食い違いが生まれて当然なのです。それが楽しいのです。(ぉ)
例えば珈琲缶。あれは序盤とラストでの時間経過を表したいと思って置きました。でも鷹崎さんは、それを彼が置いたものだと考えています。その考えは私にはなかったものであり、なるほど、そういう考え方もあるのか、と目から鱗が落ちる思いです。
とてもためになるコメントでした。ご指摘を受けた部分も反省して、さらに技術を磨きたいと思います。ありがとうございました!

……読んじゃだめだと言われると、試しに読んでみたくなる不思議。
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