キズモノ - はじまりの退屈

机の引き出しから取り出した駆血帯の金具が冷たい。
ゴムのチューブの部分までも冷蔵庫に入れていたかのようにひんやりとしている。ずっと暗闇に置いておいたからだろうか。まあどうでもいい。それぐらい冷たい方が気持ちいい。
続いて注射針を傷と曇りでぼけた色のプラスチックの小物入れから、危険物を扱うかのようにそろそろと取る。透明のビニル袋に入れてはいたが、万が一破れて手が刺されたら針が傷付くわバイ菌が付くわで、もう使い物にならなくなってしまう。
いったん取り出したものをガシャッとベッドの脇に置き、一度も使ってないキッチンの棚からボウルとビーカーを取りに行く。空気が雨の日みたいに湿っぽい。外は晴れだというのにどんよりしている。換気したいのは山々だが、今からやることは誰にも見られたくない。妨害されてメチャクチャにされたくない。
ボウルとビーカーを持ってベッドの脇にもたれると、自分が疲れを感じているのが分かる。たった5mの往復だけで動悸が止まらない。年よりみたいだ。もう長くないのだろうか。それとも、ここ最近、朝起きて毎日死にたくなるぐらいのだるさにやられて起きられないでいるこの疲労のせいなのだろうか。
外で超音波みたいにキッキッキと子供が遊んでいる声が聞こえる。赤ん坊の泣き声も聞こえる。それをあやしている父親の声も。そうか、今日は日曜日なのか。あまり外に出ないし、テレビも使わないので曜日感覚がないことに改めて気づかされる。だからといって必要なわけでもないが。
駆血帯を利き腕でない左腕に巻いた。外に出してしまったのであまり冷たくないのが残念だ。二の腕を二周しているチューブの表面の粘り気も、買ったころと比べて随分なくなった。もともと部屋が汚いせいだろう。その辺に舞っているホコリに勝手にくっつかれて、もはや古いセロハンテープのようになっている。
それにしてもチューブが巻かれた感触のなんと気持ちいいことか!僅かなチューブの粘り気につねられ、皮膚が縮こまってねじれている。洗濯バサミに挟まれたかのようなこの感覚がたまらなく好きだ。人につねられるのはこの上なく大嫌いだが、モノに締め付けられると気持ちいい。僕はモノに対するM性向を持っているのだろう。仮に変態性欲だろうと構わない。どうせ誰にも知られやしないんだ。
 駆血帯のおかげで、手首の動脈がプックリと浮き出て分かりやすくなっている。この浮き出た部分の、水風船のようにぷにぷにした触り心地もたまらない。クリクリと弄っているだけで時間が経ってしまう。股間がムズムズする。女の乳首みたいだからだろうか。なら別に、適当な穴にペニスをぶち込んで性欲が満たされるなら、生身の人間とヤらなくてもいいわけだ。大体、自分の子孫なんて興味ない。自分の何かを受け継いで発生する奴らなんか、考えただけでヘドがでる。ケガらわしい。
 手首の下にボウルを置いた後、ゆっくりと注射針を近づけ、散々弄んだぷにぷにの動脈に突き刺した。今日はちゃんと真っすぐいった。青あざが出来ることもないだろう。刺した反対側から赤い血がドクドクと流れ始め、小川のように手首を伝っていく。手の力が抜けていく。突然、周りの音が聞こえにくくなった。代わりに自分の脈と心臓の鼓動がいつもより強く聞こえてくる。いい。これがいい。チューブを巻いた皮膚のねじれも、動脈の感触も、全て無下にしてしまうようなこの脱力感。言い表せない気持ち良さだ。流れる血を虚ろに見つめ、死にてえ死にてえ、ニヤニヤ笑いながらそう呟き続けていた。
不健康な生活のためか、どこかドロドロしているように見える。でも色は鮮やかな赤だ。出すたびに綺麗な色になっているようにも感じる。手首の端からボウルへこぼれる前に、反対側の端へと向かう血流と、まっすぐボウルへ落ちていく血流とに分かれてしまった。意味もなく流れを一本にしようと、針を持っていた右手で軌道修正することを考えるが、針を指から離した途端、針が抜けてしまった。流れる血を身にまとい、コロンと床に落ちた。別にこの後は針がなくてもできるのでそのまま捨て置いた。
 しばらくすると、傷口が黒ずみ始めてきた。血流も細くなってきている。どうやら今日はここまでのようだ。このままだと変な菌が入るかもしれないので、右の親指で傷を抑えた。圧迫止血というやつだ。ボウルを見ると、後のほうの黒ずんだ血のせいで、せっかくの鮮やかな赤が汚れてしまっていた。青あざはできなかったが、完全な成功とはいえないようだ。量も少ない。せいぜい120ccといったところだろう。だが、心地よいだるさが残ってくれた。朝起きた時とは違う、どこか救いを感じるだるさが。
 ボウルに溜まった血をビーカーに移しかえた。トロトロと流れていく。ボウルにはこびり付いた黒い血だけが残った。ビーカーの目方を見ると、110ccちょい。やはり少なかった。ブラックアウトには程遠い。次やる時は針を太くしてみよう。
 20分は経ったはずだが、外ではまだ子供が遊んでいる。人数が増えたのか、さっきよりうるさくなった。


メニョメニョニュマニュマミミョミミョグナグナニョモニョモミカミカブリュブリュブコブコビゴビゴエノエノウィドウィドスヌスヌサフィサフィヴルヴルコケコケツィニャツィニャワリワリボナボナポルポルキロキロミュリミュリウラウラソビソビゴニゴニする。
なんと言えばいいのだろうか。死ね、消えろ、失せろ、殺すぞ、英語だったらファック・オフ。あえて一般化してみたらそんな感じだろう。もちろんどの言葉も正確じゃない。全部微妙に僕の感覚とずれている。脳から発信された自分の感情を理解するには言葉が必要なわけだが、言葉にした時点でもうそれは自分のものではなく、擬似的なものになってしまう。だから僕はよく擬態語で感情を表現する。これらはずれが少なくていい。ただちょっと曲者で、その擬態語が表現できる状態が非常に短期間なのだ。さっきの、メニョメニョニュマニュマミミョミミョグナグナニョモニョモした時間はたったの3秒足らずだった。そのため、どんどん違う表現に変えていかなくてはいけない。今はキニャキニャピニャピニャキョモキョモビュイビュイビゾビゾドヴォドヴォしている。こんなこと、他人に言っても伝わらないだろう。そんなこと僕には関係ないが。
大抵、こんな風に感情を表現するのは鬱な時だと決まっている。今は緩すぎた眼鏡が落ち、拾おうとした拍子に尻を民家のガレージのシャッターにぶつけ、ジャアーンと大きな音を閑静な住宅街に響かせてしまい、近くにいた白髪の老婆から「大丈夫?」とにこやかに心配されたからだった。笑われるのは昔から大嫌いだった。笑われるということは、そいつにお前は格下だ、と無意識の階級決めをされるということだ。要するに僕は負けず嫌いで自意識過剰なのだ。今周りにいる、普通の人の十分の一のスピードで歩いている死にかけの老人にだって、時にけたたましい声を挙げながらじゃれ合っている下校中の小学生にだって負けたくない。一人残らず屈服させたい。だけど出来ない。そんな葛藤も、僕の腕の注射痕を増やしているのだろう。
「あの、すいません」
 後ろから声がする。
「あなたです」
 僕の肩が軽く掴まれた。振り向いてみると、若い男だった。人間の顔をまともに見たのは久しぶりだった。
 その顔を見るや否や、背筋がぞっとした。あまりにも顔立ちが整っていたからだ。恐らくハーフであろう、目鼻立ちが洋風だ。バランスのいい小顔に嵌められた瞳は澄んだブラウン。日本中の人間に美男を想像させてみたら、きっとほとんどの人がこんな顔を思い浮かべるだろう、そんな顔だった。それに足がすらりと長くて背も高い。全体を見て8頭身は下らないだろうと思われた。
「ちょっとお聞きしたいんですが」
肩から彼の手が離された。僕は少しほっとした。というのも、指があまり綺麗に並んでいるので、灰色のTシャツに着いたフケが付いてしまわないかと少し心配していたからだ。下等生物が反射的に思いつくことだ。
「いいですか?」
「は…ぃ」
「すこし、腕を見させてもらってもよろしいでしょうか?」
「え…?」
 ふざけんな、なんでてめえごときに見せてやらないといけないんだ、俺が半袖で見せびらかしてんのがいけないってか、大体なんで敬語使わねえんだよ、初対面の人間に対する礼儀ってもんがあんだろが、…そんなことを脳内で呟いているうちに美男子の魔力にかかり、僕の腕は自然に差し出されていた。フェロモンは男女問わず凶器だ。
 男は僕の腕を優しく掴むと、真剣な顔で所々に散りばめられた注射痕を観察していた。体全体からローズマリーの匂いがする。自分の腋臭に対して恨みを感じたのは久しぶりだった。
 男が顔を上げた。さっきより少しほころんでいる。
「あなたもしかして、シャケラーですか?」
「ひぃっ」
「だって、覚せい剤か何かだったら、腕剥き出しで歩いてて職質されるの怖いから隠すでしょうし。そしたらシャケ以外にこんなにいっぱい注射痕作ることはないかと思って…。セルフ瀉血も違法ですが、そこまで重く罰せられませんし――」
 そういうと男は肘から上へと僕の腕を調べようとした。
 二の腕に熱い指が触れる。生物の象徴。
 気持ち悪い、そう思う直前に足が男から離れていこうとしていた。
だが動けなかった。男に足を踏まれている。尋常じゃない力だ。怒ったのだと思い、男の顔を見上げた。しかし表情は変わっていない。菩薩のような微笑みを浮かべたままだった。瞳が死人のように冥い。殺される、殺される。
「すいません、私が無礼でしたね…。でも決して怪しい者ではないので、逃げないでもらえませんか?あなたしかいないのです」
頭がぐるぐるする。さっきの拒否反応だろうか、体中が痒い。
「私はあなたに救われるかもしれないんです」
 ……?僕は抵抗を止めた。殺されるわけじゃないと分かったからだ(もともとそんな訳ないと薄々感じていたのも事実だったが。単に、僕は殺される人間になることに対して自己陶酔に浸っていただけなのだろう。ナルシストは僕が一番嫌いな人種だ)。
 男が足と手を離した。些細なことだが、綺麗な動きだった。
「とりあえず、こんなところで立ち話してるのもアレですね。何ていうか、『注目の的』になったみたいですから」
 そう言われて辺りを見た。いつの間にか、何人か近隣住民がこちらを見ている。一人の主婦の、ニヤニヤ顔が鼻につく。
「私の家がすぐ近くにあるんです。ちょっと来ませんか?変なことは何もないので、まあ、そういう風に言う人の方が怪しいですけどね」
 ハハッ、そう笑うと男は僕の前方へと進んでいった。丁度よかった。帰り道が分からなかったからだ。僕は習慣として、鬱な気持ちを晴らすために知らない道を散歩をする。そうすると、体に絡みついた無数の腕が離れていく感じがするのだ。わずかなエクスタシーだった。だからこそ、僕に絡みつく腕を一本増やした、あの老婆は罪人だ。
「あ、一つ忘れてましたね」
 そう言うと、男は黒の革ジャンの中に手を入れた。
「これ、ここまでお時間を使わせてしまった謝礼です」
 札束だった。

気持ち悪い。それが、男の家に入った時の第一印象だった。
汚れのない白いカーテンに白いベッド。灰色の机の上にはパソコンと、僕には到底理解できない医学書や、恐らく有名なのであろう画家の画集、今の首相が書いた本、その他インターネットからプリントアウトした研究論文のようなものが沢山散乱している。真面目な研究者なのかと思えば、枕の上には少年漫画雑誌が置かれていたりする。もしかして、普通の家ならこうなっているものなのだろうか。僕は昔から誰の家にも行ったことがない。だから、「部屋の中」に関するスタンダードが自分の部屋しかない。僕の部屋?一体何がある?パソコンと布団と後は?極端に言えばそんなもんだ。ものの見事に「健康で文化的な最低限度の生活」を体現できる、日本政府に忠実な住み処だ。
それにしても、男はなかなか戻ってこない。「ある人と連絡を取るのでしばらく待っていてください」と言われ、僕が部屋を散策し始めてからもう一〇分だ。電話でもしているのだろうか。
違う、騙されたのか。そうだ、よく考えてみたら、見ず知らずの人間を自宅に入れるなんて普通はあり得ない。机の上に散乱したあらゆる本、これはあの男がインテリヤクザである証拠じゃないか?僕はこのままここで身体をバラバラにされ、臓器を売り払われるのだ…。肝臓は300万、腎臓は50万って売られて行って…。黒スーツの男達がニヒルに嗤って………死ね死ね死ね死ね。クソ頭。お前やっぱただのナルシストじゃねえか。自分が崩壊していく姿に酔いやがって。人間だと認識できるギリギリの顔してるくせにお笑いだぜ。マジでやめろ気持ち悪い死ね消えろゴミ屑童貞野郎ファックファックファックファックファックファックファックファック…ああああ、どこまでも低俗なり!
駄目だ。普段なら壁に頭をぶつけて一旦思考を止めれば簡単に終わる無限ループの鬱が、生憎人の家なのでそれができない。とりあえず雑誌でも読むしかないので、枕の上の少年漫画雑誌を手に取った。
ん?僕はその下にあった本に目を留めた。白い表紙に、妙な形の人形の写真がプリントされている。黒や銀色の髪を垂らす外国の少女の人形のほかに、下半身同士がくっついたものもある。人間の身体を模したもののようだが、赤や青の染色がされている人形もある。全てに共通の特徴があるのが見て分かった。関節に丸い球体か何かが埋め込まれている。それがどこか肉感的に見える。
芸術分野に疎過ぎて、芸術性やデザインセンスがどうとかは全く分からなかったが、僕の目はその人形たちに釘付けになった。この衝撃をどう表現すればいいものか。手が感電したかのように震えている。宇宙人に出会ったかのようだ。何か自分の中の感情が疼いているようだ。突きたい。不意にそんな欲望がこみ上げた。突きたい。何を使って?ナイフ?注射器?ペニス?何でもいい。とにかくズタズタにさせてくれ。可憐な少女の顔、愛らしい身体をサディスティックに犯したい。今すぐ、今すぐ、今すぐ!体中マンコだらけにしてやる!
もう僕の目も、耳も、腐ったように使えなくなってしまっていた。性欲に支配されていく。
あと三〇秒、この殺風景な部屋のドアが開かなければ、僕は耐えられずにオナニーを始めるところだった。


「お待たせしました」
 男だった。僕は慌てて本をベッドにぐしゃっと置いた。座るように言われたので、高級そうな絨毯の上で正座した。
「そんなに硬くならないでいいですよ」
 男は胡坐をかいた。だが、僕は体勢を変えられなかった。
「あなたにやって頂きたいことを説明する前に、まずお互いのことを話しておきませんか。そうでなくては、実験の意味がないので」
 柔らかい口調だった。革ジャンを脱ぎ、前より幾らか話しやすい格好になっていたので、僕の警戒心は前より薄れた。
「もちろん、あなたからとは言いません。でも一応、先にお互いの名前を知っておきたいですね…」
 そう言うと、男はおもむろにポケットからカードのようなものを取り出した。
「私、一応大学生なんですよ…二度目ですがね」
 それは学生証だった。菊川天馬と記されている。年齢は二十六。東京で指折りの有名大学に通っているらしい。
「最初は医学部生で、それなりに勉強してたんです」菊川は俯きながら語り始めた。
「親の意向があったわけでもなく、自主的に選んだ道なんです、でも…何と言うんでしょうか…段々と患者を救うという行為に疑問と抵抗を覚えたんです。理由は…本当に情けなくて、惨めで、くだらないことだったんですが」
 菊川は顔を上げた。
「ああそうだ忘れてました。ええと、お名前をお聞きしてもよろしいでしょうか」
 とりあえず名乗っておいた。
「では、カンザキさん、あなたのその腕の傷、瀉血によるものでしたよね」
 僕は頷いた。綺麗な模様の絨毯に、汚いフケが落ちる。
「あなたの場合は自分で傷を増やしてますが、患者の方々は大抵、事故や病気という無作為に訪れる機会を通して、ほぼ偶発的に何らかの傷をもつことになります。変な話ですが、私にはそれが、妬ましかったんです。私の身体には、傷がありません。できたことだって一度もないんです。でも、多くの患者の方々は、ある種自然発生的に傷をもつことが出来たんだ。僕には、それが、堪らなく羨ましいんですよ」
 菊川の語気が強まる。
「僕だって、何度も自分で傷つこうと考えた。でも、それじゃダメなんです。自分という要素が完全に排除されている誰かもしくは何かによって傷つきたいんです。僕はキッとマゾヒストなんでしょうね…でもそんな偶然になかなか遭遇しない。小学校の時はそれなりに喧嘩をしたし、その頃からずっと剣道をやってきましたが、痣一つ、切り傷一つできたことがない…。本当に幸運だぜ、僕は」
 と、自嘲気味に微笑む。僕は瀉血について詳しく知っている人間なのかと思って話を聞いていたので、話の展開に若干の落胆の色を隠せなかった。汗が出過ぎて喉が渇いてきたので、キッチンの上のぬるそうなペットボトルのお茶にチラチラとラブコールを送り続けたが、菊川はまるで気付いていなかった。人に話しかけている、ということを忘れている風に見えた。
喉の奥があくびに圧迫されている。この男の話はいつまで続くのだろう。この男はお互いのことを話しておこうと言った。ということは、後で僕もこんな身の上話をしないといけないというのか。やめてくれ。そんなのミニャミニャピピョピピョブニャブニャングングじゃねえか!
「そう、僕にないものはなかったんだよ」彼は続ける。
「僕の父は、社名は挙げられないけど、とある有名企業の社長で、金は腐るほど持ってる。それこそ、札束で汗を拭けるくらいに。だから金に困ることもなかった、先ほどお支払いした百万も、ほんのはした金に過ぎないんです。それに、外国でミスコンの代表になったこともある母の血を濃く受け継いだから、容姿に恵まれてもいます。すいません、なんか自慢話のようになってしまってますが、無駄に謙遜するほどナルシストじゃないので」
 この男は偉い。
「きっとそんな条件下だから尚更なんだろうな、僕は自分にないもの――服、アクセサリー、尻軽ビッチ共――をもっている人間に対しての嫉妬心が人一倍強力で邪悪なんですよ。勿論、金と自分の能力ですぐに手に入れられましたが――」
 ふいに、男の右手が僕の左腕に触れた。無駄のない滑らかな動きに、一瞬股間が疼いた。
「これがないと悟った時から、そんなものは全て虚しいだけになった。他は何もいらないんだ邪魔なんだゴミと一緒に捨てちまってもいいクソまみれの廃棄物の集合体だ――」
菊川は青い注射痕を指でなぞり続けている。僕はその指をじっと見つめていた。まるで恋人を愛撫するかのような動きだった。正直気持ちいい。こんな手つきで、今まで何人もの女を満足させてきたのだろうか。僕は菊川が美女と裸で抱き合っているところを想像した。案外、不気味な感じがする。妄想上のその愛おしげな優しい目を焼きつけたまま、菊川の顔を見た。
僕のイメージは爆風のように吹き飛んだ。眉間に皺を寄せられるだけ寄せ、歯を食いしばってギリギリと音を立てている。それに、口を横に広げたまま、何か二つの形を繰り返しながら微かに動いている。時代劇の切腹シーンでこんな顔を見たことがある。僕の視線に気づいている様子は全くなかった。何か感情に視界を塞がれているような感じだ。僕という、自ら傷をつけた者に対する同情か、それとも自分の今までの人生の徒労に対する悲しみか。
違う、怒りだ。まるで誰かに仕組まれたかのように、自分の身体が傷つかず、自らの手で傷つけざるを得ない状況にまで追い込まれている。それだというのに、自分が助けを求めた相手は、自分自身が憚っている自傷行為に耽っている男だという皮肉な事実に対しての。或いは、存在がなければこんなに苦しむことはなかった、傷それ自身に対しての。そこで、菊川の口の動きの表す言葉を悟った。
――死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね、死ね……教義のごとくこの男の頭を支配している、最も簡単で、最も残酷な怒りの言葉だ。
長い静寂が訪れた。いや、そう感じているだけなのかもしれない。効きすぎているクーラーの音だけが空しく響く。汗が乾いてきたせいで、さすがに寒くなってきた。
その時、ケータイのバイブ音が聞こえた。菊川ははっと我に返り、僕に背を向けて立ち上がりながらズボンのポケットに入っていた黒いケータイを取り出した。静寂に菊川の声が混ざる。ああ…はい、わかりました……ええ、もういらしてますので。………はい、どうもありがとうございます。…では。
そこで会話が終わった。明らかに僕に話す時より親しげな声音だった。胸のどこかで、遠い昔に片想いをしていた頃のようなもやもやした気分を拭えない。電話から微かに漏れていた相手の声が、まぎれ(、、、)も(、)なく(、、)女性の声だったからだ。
「カンザキさん、今協力者の方から連絡がありました。もうすぐこちらに来られるそうです。それまでに、はやく序盤戦を終わらせてしまいましょう」
 菊川は座りなおした。
「それから…、そろそろ足、きつくありませんか?」
顔が紅潮した。その通りだった。正座が長引いたので、膝下が悲鳴を上げていたところだ。恥ずかしさと、同情されたことへの怒りが同時にこみ上げる。
「もう私の方の話はあらかたし終えました。後は実験の説明の時にでも少し話しましょう。ではカンザキさん、次はあなたの番です。あなたの経歴や、瀉血のやり方などをできるだけ詳しく教えてください。言いたくないことは言わなくて構いませんので。大丈夫です、私も質問を交えたりして、カンザキさんが話しやすいようにサポートしますから」
 遂にこの時が来てしまった。だが憂鬱になる反面、一種の安堵を覚えていた。自分の身の上話など、誰にもしたことがない。誰もがそれを情けなくて、汚くて、今の自分に邪魔なものだと思い、黒歴史にしてしまいがちだ。それはきっと菊川も同じだろう。そうか、結局内心では、誰もがそれを理解してほしがっているということか。それには他者との対話が不可欠だ。
「あ、喉渇いたでしょう?今お茶をお持ちしますので」
菊川がスッと立ち上がった。もしかしたら今、僕たちはこの見知らぬ人間同士で、互いに理解者を見つけたのかもしれない。
 他人に伝わらなくても関係ない…か。自嘲の笑みがこぼれる。
所詮、薄っぺらい奴の思想なんて薄っぺらいものだ。

サングラスを発明した人に感謝したい。
サングラスは私を、他人から遠ざけてくれる。それだけで、日光の下では十分な価値がある。こんな大通りでどんなに奇異の目を向けられようとも、私は彼らを「障害物その1・その2…」と置き換えて、その生命を無くすことが出来る。また、自分の姿をも不鮮明にしてしまうことで、同時に自分をも殺しうる。自分が存在しないのに存在しているという自己矛盾が心地よい。誰かを食い尽してしまうかのようで。隠遁生活をする僧侶のような心境、と言えば正しいだろうか。仮に、私が晩年のサリンジャーだったら、きっと今と同じ感覚を味わっているだろう――もっとも彼はそんな心境ではなかったと思うが。
私がそこまでして「自己」の姿を消したがるのには、当然理由がある。自分が外見的に「異端な」人間だというのは自覚しているからだ。
 私は毎日、朝起きた時からゴスメイクを施し、外出時はゴシックファッションを身に纏っている。今日は暑いから、定番のalice auaaのワンピース。Na+Hのつば広の帽子を土台にして他のアクセを選んできた。つば広の帽子は「オバサンくさい」と言って毛嫌いする人もいるらしいが、少し目立つ反面、自分の姿がより隠れるので私は気に入っている。
 ゴスロリが、他人の好奇な目に対しての戦闘服――そう書いていたのは宝野アリカだ。
 この国では様々な面で自由を保障されていて、何でも思い通りにやっていいように見えるが、事実そうではない。私たちのようなゴス系は、夜ならばいくらでも街に繰り出せるが、昼間となるとそうはいかない。外出することはできても、日光の照りつけるこの場ではどこか居心地の悪さを感じさせる。その主犯格が「他人の目」の存在だ。彼らのほとんどはコンビニなどで簡単に見られるファッション誌のモデル達のような着こなし、メイクを好んでいる。他人と似た姿になることで、一種の安心感を得られるからだ。それが「かわいい」「きれい」などと表現されるのは、それが誰もが簡単で、容易に真似することが出来るからだ。多数派であるが故に。そんなものを「美しい」などと表現する今日のメディアの姿はもはや笑いがこみあげてくる。そんなのただのカメレオンだ。人々はそこに「美」を見ているのではなく、その格好によって他人の称賛を受ける自分自身を見ているにすぎない。しかし、その愚かなカメレオンたちによって、私は昼の世界で好奇の目を向けられるのもまた事実だ。彼らが皆ゴス系を纏って街を出歩いているのであれば、私はサングラスを着けることもなかったはずだ。その点を考えると、サングラス着用の意味は、多数派への抵抗のカンフル剤であるとも、彼らに屈服したともとれる。
 だが、サングラスを着けることに執着するのには他にも理由があった。私は数年前から、自分自身の身を守ることに異常なまでに過敏になっているのだ。すべてはあの男がつけた、呪わしい記憶によって――。
 ドン。
 突然、誰かと肩がぶつかった。私は血相を変えた。何しやがる。この高貴な身体にこれ以上傷をつける気か。だが怒りはすぐに収まった。
ぶつかったのは、バッグを提げている右肩だ!!
――マリナ!!
 迂闊だった。私の、私の私の、私がやってしまったこんなことを。悪寒があざ笑うかのように私を覆う。ヌメッとした冷や汗とともに、悲しみが全身のありとあらゆるところから放出されていく。周りの音が消えた。聞こえるのは耳鼻科の鼻水吸引器のようなスーッという不快な耳鳴りと、破裂しそうなまでに高鳴る心臓の音。目の前のパン屋から発せられる芳香が腐った肉の臭いに変わる。この孤独、寂寥感はあの時以来。3年前、最初の娘の――。
♪〜♪♪♪〜♪〜
不意に、ケータイからチャイコフスキーが鳴り響いた。私は我に返り、同時に安心感を覚えた。このままあと数秒、あの蟻地獄のようなヒステリーに侵されていたら、私はこの場で発狂していたかもしれない。
だが、安堵はすぐに不安へと変わった。もしかしてあの男からだろうか。それを考えると憂鬱になった。さっきこっちから連絡して、社交辞令的に向こうの状況を聞き、もうすぐ着くと冷たく言い放ったばかりだった。この際切ってしまおうか。
しかし、液晶画面には知らない番号が表示されていた。何とはなしにパッドの真ん中を押す。
「はいもしもし…」
「ああもしもし、俺だけど」
 聞き覚えのある、喉にかかったようなテノール。もっと嫌な相手だった。そうだ、この番号、知らなかった、のではい。私が記憶の奥底に押し込めて(・・・・・)いた(・・)番号だ。
「何の用なのよ」
「そう怖くすんなよ、マリナの話をしたいんだ」
「あなたにそんな権利はない」
「今度…三回忌だろ。俺も行きたいんだ。だから――」
「あなたにそんなことが出来ると思って?やっぱり脳が縮んでるのね」
「お願いだ。もうクスリはやめた。執行猶予付きの判決も出ただろ。これからまたやり直す。そのことを娘にちゃんと伝えて、きちんと謝りたいんだよ」
 謝る?何をほざくかと思ったら…。もう感情の抑制が限界まで来ていた。クスリで脳が溶けて更にバカが進行したらしい。
「ホンッットに何も分かってないのね。いい?もう何もかも遅いの、あなたは手遅れな所まで行ったのよ。自分が人殺しだって分かってるの?」
「分かってる。分かってるから謝りたいんだ。マリナだけじゃなく、お前にも」
 いい加減、この男の軽薄な台詞にはうんざりだ。更生を期待した私がバカみたいだ。それなら、もう本当のことを言ってもいいだろう。
「三回忌の法要はしないことにしたわ」
「え?どうしてだ?」
「する必要がなくなったの」
「意味が分からん。ちゃんと説明してくれ」
 そこで一呼吸置いた。
「あの子、死んでないのよ」
「バカ言え、あいつはあの時確かに――」
「そう。でも生き返ったのよ、私の手で」
「どういうこと――」
 電話口でハッと息を呑む音が聞こえた。
「まさか、お前っ――」
「私は神になったの!」
高らかに言い放ってやった。周囲を怪訝そうな雰囲気が漂うが、サングラスに救われた。
構わず早口で続けた。
「あなたはいつまでも謝ってばっかり、そんなことで何か生めると思って?私はゼウスみたいに、人を生むことが出来るようになったの。あなたみたいに無意味な人間じゃないのよ。あなた、一度だって私の身体につけた傷を消そうと思ったことがある?」
「いや、そんな――」
「ないでしょうね。形式だけで何かできると思ったら大間違いなの。本当にその人のことを思うんだったら、形式を超えたアクションを起こしてみなさいよ。だから私はあなたから慰謝料も取らなかったの!サル並の知能しかない人間の金銭なんて所有したくなかったの!」
 電話口が沈黙している。何かごもごもと声が聞こえるが、もう聞く気なんてない。
 これで、最後だ。
「じゃあね、鴻池陽一さん。もうあなたと話すことはないわ」
 素早く電話を切った。一瞬、ダメだ、という声が聞こえた気がした。何について呟いたのかは分からない。
 ふう。疲れたので通りの並木を囲いに腰掛けた。柄にもなく熱くなったせいか、額にほんのりと汗が浮かんでいる。
 …?汗?
 …汗…
 汗汗汗………汗…
 汗!
 汗汗汗汗汗!!
 ああああ汗!
 溶ケル!私ノメイクガ!
 うああああああああああああああああああああああ
 狂ったように走り出した。走る時の手足の動かし方など吹き飛んでしまったように。誰かがぶつかる、舌打ちされる、昨日買ったばかりの薔薇のリングが間が抜けたようにすぽっと抜ける。拍子にサングラスを落とす、動く障害物が人に変わる、ハイヒールで思いっきりレンズを踏みつける。どうでもよくないと思っていたことが、とことんどうでもよくなってくる。傷を隠す。あの元夫につけられた、忌まわしき呪いの欠陥を消し去る。只一つ、成し遂げなければならないこと。それ以外ならどんな犠牲を払ってもいい。――。
 よくない、エゴイスト!私は途中からバッグを慈母のごとく優しく包みながら走っていた。マリナだけは、マリナだけは、マリナだけは――。
 駅のトイレにでも入って化粧を直したら、マリナの顔を少しだけ覗かせてもらおう。あの子の皺一つない、どんな人間よりも愛らしい、粘土製の紅顔を。
それが私のクスリだ。

少し前に見た夢がある。
僕はその夢で肉体を持たず、お化けのようにふわふわした存在だった。場所はどこかの病室。4人部屋の一番奥に、患者が一人だけいた。短髪だったが死人のように力なく俯いていたため、顔ははっきり見えなかった。体格から察するに、中学生くらいの少年だっただろう。どこか一点を見つめているようだ。彼の視線の先には、透明の液体が入ったビーカー。また、彼は二人の人間に囲まれている。一人はベッドの正面で身体を少し屈めている痩せた女性。少年の母かもしれない。もう一人は縦も横も常人より一回り大きい大男で、毛深い腕を組みながらしきりに少年に話しかけていた。父親にしては若すぎるので、親戚か、はたまた警察か何かかもしれない。少年は大男の話を馬耳東風し、突然、布団の中から一本の白い棒を取り出した。棒の先にはバチバチと火花が飛び散っている。僕は戦慄した。少年の周りを黒いオーラが覆っている。アニメやゲームによく出てくる、邪悪な力を有するように見せるための、あのエフェクトのように。何かを憎んでいる。直感的にそう考えていた。少年は変わらず俯いたまま、手に握った棒をゆっくり動かしていく。先端の行き先は、あのビーカーだった。何をしようとしてるのか分かった途端、僕の肉体が視界に映るようになった。
――危ない!
 叫びながら二人の元に駆け寄る。しかし母親と思われる女性は魂が抜けたようにひたすら黙りこくり、大男はずっと少年に言葉を発しているだけで、僕以外に異変に気づく者はいなかった。それでもいいから二人を連れだそうとした、その時。ビーカーから太い轟音とともに大きな爆発が起こった。二人は跡形もなく消滅し、僕は無傷のまま焼け野原に取り残される――筈だった。しかしいつの間にか僕はどこかの高級マンションの前にワープされていて、何気ない退屈な会話を駄々漏れさせる一般ピープルの中で遠くに立ち上っている細長い煙を一瞥する…。

 僕にはこの夢が忘れられない。以後毎日のようにこの続きが見たい、この続きが見たいと思いながら眠りに就くようになっている。加えて一、二時間ほど睡眠時間が長くなった。
言い訳と言えば言い訳だ。夢には現実の価値はない。そんなものに執着して現実を閉じることは単なる逃げ。臆病者の選択だ。ただでさえ一〇時間以上も寝て過ごしているのだから、過度のオナニーと同じく、余計に疲れるだけだ。頭では分かっている。分かっている筈だが、どこかのふざけたヤツが唄ったように「分かっちゃいるけどやめられない」…。――僕はふざけてるわけじゃなく、真剣に、切実にそう思っている。すでに現実に僕の居場所も、希望も存在しないのだから。
よく、自分のことを「変人」だとか思うヤツがいる。そいつらは大体草をむしり取って食ったり、その辺の野良ネコの背後で腰を振ってみたりと、オジー・オズボーンのような目に見える「奇行」を繰り返しているようなヤツらだ。僕に言わせれば、そんなのは単なる目立ちたがり屋に過ぎない。誰もやらないことをやってみたって、皆が同じことをやるようになれば、そいつは即座に「凡人」に成り下がる。変人になりたがっている連中にはさぞかし屈辱的なことだろう。変化する倫理の上での少数派なんて、本当の意味での「変人」ではない。
僕はごく普通の家庭で生まれた。少しは変わったところもあったかもしれないが、一般人のモノサシ(だと僕が思っているもの)で測ると、「普通」の域を出ない家庭だ。しかし、そのあまりの「普通」さに神様がイタズラしたくなったのか、何らかの遺伝子異常で「僕」という人間を作ってしまった。
 僕には「抵抗」という能力がほとんど備わっていなかった。何もかもを信用し、受け入れていく。しかし、それでアメーバのようにグニャグニャ形を変えていくわけではない。限られたケースの中だけで育つ、箱入り娘の状態に対する抵抗すらしなかったのだ。
 学生という身分にとって一番必要であると位置付けられているものとは何だろうか。言うまでもなく勉強、学問だ。それは正しい。だが、僕はとんでもなく愚昧な解釈をしていた――勉強以外ハゴミクズダカラミンナ捨テチマエ、と。
 僕のいた中学校はこれまた吐き気がするほど普通の公立中学で、進学実績なんて誰一人気にしない、ただ義務教育だから通っている程度のところだった。同じ小学校から来た人が多いので、ある程度友人はいたが、彼らの多くはスポーツに熱中するようになっていって、年中教室に引きこもっている僕とは話す機会がなくなっていった。周りが昼休みにバスケやサッカーに熱中している中、僕は何をしていたか。教室で一人ノートや教科書を読んでいたのだ。古い曲で、友人がいない少年がノートに絵を描くという一節があったが、そんな少しのユーモアさえない、灰色の生活だった。一度保護者会の日に、とある親同士のヒソヒソ話を聞いたことがある。「こんな学校で勉強したって、結局ムダな抵抗にすぎないじゃないの」「いい大学に行けるわけでもないのにねえ」…あの時何も考えずに通り過ぎた自分を殺したいぐらいに憎んだのは、大学に入ってからだった。
 高校は中学よりは数段いいところに入ることが出来た。まあ、まかり間違ってヤンキー高校にでも入ることになった方が、もう少し面白い人生だったかもしれない。
 年はとっても、やることはあまり変わっていなかった。しかし、格段に勉強時間は減っていた。今度はその時間を、睡眠に費やすようになっていったのだ。いくら能天気でも、勉強ばかりでは人生つまらないと気づいていた。しかし、何かほかの趣味を見つけようとしなかったことが、僕という人間のキャパシティの限界だった。
 それでも、一つの陳腐な真実を悟ることはできた。結局、何かしなければ何も始まらない。でも睡眠などという現実逃避には何の価値もない。だから高二の時に一度だけ、自分の状況を変えようとしたことがあった。きっかけは三者面談で若い男の担任に協調性のなさを指摘されたこと。そいつは言った――カンザキが仲良くしようとすれば、必ずみんな心を開いてくれる。
体育の時間、いつものように校庭の端の水道に寄りかかり、出れる筈もないフットサルの試合をぼんやりと眺めていたら、さっきまでピッチで脚光を浴びていた、汗だくの運動部のクラスメイトに声をかけられたのだ。
――カンザキ、代わってくれ。
 言われていることがよく分からなかった。しかし内心嬉しかった。ちょうど自分を変えようとしていたときに君は本当に…と、脳内では彼に抱きついてすらいた。どうやら僕以外のもう一人のチームメイトは欠席しているらしい。僕は口元の緩みを抑えながらピッチに向かった。俺はここで変わる。今までの閉鎖的生活を打破してやるぞ――。いつも鬱陶しがってた日光が、今日は僕に歓迎の微笑みを浮かべているように見えた。
 二分後、それは嘲笑に変わった。


 手遅れだった。高校生になって変わろうとしたって、そこにはもう大きな差が開いている。誰もピッチ上でパスをくれない。僕に与えられたのは、ドリブルであっさりと抜き去られるだけの咬ませ犬の役。所詮雑兵だった。いなくても代わりはいくらでもいるクローンの一体。案の定、僕と交代した運動部のクラスメイトは僕とタッチすることもなく、一言「交代」と小さく言っただけで、僕はピッチから追い出された。意地の悪そうなヤツの「ぷっ(笑)」という侮蔑を確かに耳にした。
その時、今までは見えなかったクラスの別の形が見えた。ピラミッドだ。運動のできるヤツ、明るいヤツはピラミッドの頂上で悠々と過ごしている。反対に運動音痴なヤツ、暗いヤツはピラミッドの下で日々悶々と学校生活を送らねばならない。アメリカでいうジョックスとナーズの日本バージョン。これが僕を苦しめ、自分を変えなければいけないという強迫観念を生んでいたのだ。本当は体育なんかで活躍したって徒労に終わるのだ。マンガにしても寒いストーリーだ。高校の門をくぐった瞬間から、僕はすでにカースト制の最下層にいたのだ。その束縛から逃れることは…もうできない。
それからというもの、僕はこんなピラミッドをこの世に存在させている人間全員への憎悪と、頂上にいるヤツらへの嫉妬を糧にして学校に通い続けた。日々頭でヘビロテされる「FUCK」の嵐。ミボミボデロデロゲモゲモだのといった、日本語に存在しない効果音を自分の感情に当てはめるようになったのはこの頃だった気がする。
僕はあまり休まずに学校に通い、出席日数でいえば普通の生徒として卒業した。しかし、負の感情が生んだ心の迷いを振り切れないままで、成績は下降線をたどる一方だった。心の中は崩された砂の城のごとくバラバラになっていて、勉強する為の余裕すらなかった。遂に勉強すらも捨てることになり、僕は何も持たなくなってしまった。そんな状態で、大学受験を乗り切れるはずがなかった。
僕の入学した大学は、自宅の最寄り駅から二駅しか距離のない、地元の人間が半数を占める小さな大学だ。それしかなかったからこそ勉強に明け暮れた高校時代までの自分の人生は、見事に報われないまま幕を閉じた。それこそ、大声で笑ってやりたくなるほどに。
そうして僕は理解した。自分は本当の意味での変人だ。変化しうるモノサシによって測られる変人ではなく、人間としての能力が極度に低いという、普遍的な意味での。




瀉血に興味を持ちだした高三の三月は、珍しく雨が多かった。
親は僕の進学先など特に興味がなかった。父は子育てにかなり奔放な考えを持っていて、母は父の方針に従うがままになっていた。「お前の人生なんだから、お前の好きなようにしろ」という言葉をウザったくなるほど繰り返す人だった。きっと、医学部に入るために祖父の厳格な教育を受け、最終的に失敗してしまった反動なのだろう。正直、すごくいい人だと思う。だが残念なことに、当の息子は何も考えずに生きてきたので、自由に生きた、というより、ただ生きただけ、という廃人の人格形成に加担してしまったといえる。まあ、それに気付かず同じ教育を続けてきたのだから、バカは親譲りだ。
そんな親に、大学進学と同時に一台のノートパソコンを買い与えられた。選んだのは母、部屋で渡したのは父だった。
僕は一瞬不安を覚えた。もしかすると、いつも父の仕事部屋に忍び込み、パソコンでエロサイトなんかを見ていたことがバレてしまったのか。きっと、そのせいで架空請求やウイルスに悩まされていたのをずっと隠してきて、僕が大学に入るまで我慢していたんだ、だとしたら僕は大罪だ人間じゃない死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね死ね――。
いつの間にかクセになっていた、支離滅裂過ぎて爆笑モノの被害妄想が二秒で流れ去るやいなや、父が口にしたのは意外な内容だった。
「おまえ、『ノートルダムのせむし男』という本を知ってるか」
「…?知らない」素直に答えた。
「そうか、『レ・ミゼラブル』という本は知ってるな?」
「話は知らないけど」
「あれも面白いから読んでおいたほうがいいぞ。それと同じ作者のヴィクトル・ユゴーが書いたものがさっき言った本でな、あるフランスの男女を中心にストーリーが展開されていくんだが、そのうち男の方は、とても醜い顔をした元捨て子で、ノートルダム大聖堂の鐘つきをしている男なんだ」
 「醜い」という言葉に反応し、僕の胸を、不快なモヤモヤが渦巻き始めた。
「その男は一人の美しい娘を愛するようになる。その娘がもう一人の中心人物だ。しかし男は大変醜いので、娘に愛してもらえない。そんな中、娘が密かに想いを寄せていた男が、さっきの醜男が赤ん坊だった頃に拾って育ててくれた男に刺されてしまう。そしてその事件の犯人を娘に仕立て上げ、死刑になるのを止めさせる代わりに、自分の愛人になるよう迫るんだな。しかし娘はそんなのは嫌だと拒否したから、判決通り処刑される。そこでさっきの醜男が、真犯人である自分の恩人を塔から突き落として殺し、ケリをつけるといった話なんだ。大雑把に言うとだが」
「ああ…」
 大体の話は分かったが、いきなりで、「醜い」という言葉にまだ囚われていたので、かなり聞き流してしまった。
「で、何なの」ぶっきらぼうに返した。
「ああ、つまりな…」
 父は部屋にあった椅子に座りなおした。雨の日特有の酸っぱい臭いが鼻につく。
「お前は」静かな口調だった。若干だが、目が泳いでいる。
「きっとこれから、高校までとは違う大人の世界の問題にぶち当たっていくことが出てくると思う。だけどたった一つでいい、指針となる信念を持って行動していってほしい。そうすれば、どんなに醜い人間でも、美しい人生を歩める――」
 …………………………
途中から言葉が聞こえなくなった。
父の口は動いている。聴覚が麻痺してしまったようだった。


何て言った?

どんなに醜い人間でも……

醜い…?
醜い…
醜い醜い醜い醜い醜い醜い醜い醜い醜い醜い醜い醜い醜い醜い醜い
オレハミニクイオマエハミニクイ
醜い醜いミニクミミミミミミミミミミマムメミモ
ああああああああああああああああああああああああああああああああああ
頭の中で僕は発狂した。そうだモヤモヤの正体、それは僕がいつも目を背けてきた、普遍のコンプレックス。汚点。公害。
もう何年もまともに鏡を見ていない。自分の姿が写ったら、即視線をずらしてきた。そうすれば、気にしなくなると思ってきた。だけど心の奥底でくすぶり続け、誰かに言われればすぐ爆発してしまう脆い危険物質として僕を内側から突っつき続けていた。
僕は醜い。
ついに指摘されたのだ。しかも、僕を守ってくれる立場の人間に。

 

それから数日間、鬱陶しい雨が続き、僕は部屋に引きこもり続けた。一日中ネットをいじり倒すようになり、そのうちにある二つのことにハマっていった。
一つは、女性の画像の収集。といても特定のアイドルとかではなく、外国のゴス嬢の画像だ。なぜだか分からないが、一目それを見たときに「これこそ僕の求めていたものだ」と確信していた。自分の持つ漠然としたイメージにやっと形を与えてもらったような感覚だった。ただの欲求だけで惹かれたんじゃないが、今もしばしばオナニーのオカズにしている。
しかしその反面、僕は絶望感を同時に抱えることになった。お金の問題だ。両親が共働きで、僕もまあそれなりの貯金はあったはずだが、ゴス系の服装はそんな中の下の人間の貯金などいとも簡単に吹っ飛ばすくらいの値段だった。体中をゴス系で整えるなら、悠に一〇万近く、いやそれ以上するだろう。そんな金は僕にはないし、サブカル系なんて親に反対されるに決まっているから、ねだることすらできない。「金なんて価値ない」などとのたまうミュージシャンやなんかは気が狂ってる。その価値のないものによって、僕の鬱度がますますアップしていったのだから。
もう一つは、とあるアングラ系アーティストの音楽PVの視聴だ。
 先日の父との一件以来、完全に鬱状態から抜け出せずにいた僕は、you Tubeの検索エンジンで「死ね」「自殺」「fuck」「発狂」「病」「血まみれ」などといった、とりあえずマイナス的な単語をやたらに調べまくっていて、そのうちの何かの関連動画に出てきたものだったと記憶している。
 『傷だらけのマリア』と題されたその曲のPVは、薄暗い部屋で一人の女の子がベッドに座り、手首から血を噴き出しつつ小動物の人形のようなものを投げつけ、キューピーの人形の首を引っこ抜き、噴水のように飛び散る血を自ら浴び、コテコテにガーリーなピンクのワンピースを血まみれにするというもの。単に映像に惹かれていただけなので、曲自体は今もよく覚えてない。
 その中でも一際僕の目を引いたのは、PV内で何度も映される、手首から血が鮮やかに噴き出るシーン――つまり、リストカットに興味を持ったのだ。
 カッターの一本でもあればできてしまう、非常に簡単な自傷行為。しかし、実行に移すことはなかった。傷口からばい菌が入り込んだ時の痛みが嫌いだからだ。きっとどんなマゾヒストでも、痛みの好き嫌いはあるだろう。中には自分の身体の一部が欠けていることで性的興奮を覚える人もいるらしいが、僕はそんなに変態ではない。
 もっと自分に合った「傷つき方」はないか。そんなことを考えながらリスカ趣味の人々のブログを漁っていたら、そのブログ『堕天使堕璃亜の堕落日記帖』に出会った。
そのブログはメンヘラ気味な人々のそれをランキング化したサイトの上位に位置していて、アクセス数は結構多いようだった。そのブログ主は夜咲堕璃亜という、見るからに病んだ、というよりむしろ痛々しいHNを用いていた。リスカを中心とした自傷行為を繰り返しているようで、時々引っかき傷のような切り傷が無数に並んでいる死人のようにか細い青白い腕の画像をアップしていた。リスカに興味がないので、そのブログはもう何日も見ていない。ブログ名も忘れてしまった。ただ、一度だけビーカーにたっぷりと溜まった文字通り血の池の画像を見たときの鮮烈な驚きだけがまだ残っている。
その量は悠に500㎖の線を超えていて、ルビーのように綺麗な赤色の、健康そうな血だった。血はもっと赤黒くドロドロしたものだと思っていたから(実際、僕の血は赤黒く、綺麗じゃない)、しばらくは一目惚れしたかのようにポーッと魅入っていた。ただし、赤黒く固形化してしまっている血のカタマリがヘドロのように所々にこびり付いていて、ブログ主はガッカリしていた。俺は別に気にならなかったが。どうやら彼女――男かもしれないが向こうの意思を尊重する――は完全無欠の赤い血をベストな美術品と考えているような感じがする。
最初の閲覧の時の最新記事《ひさしぶりのシャケ》という題名で始まったその記事の中に「瀉血」という言葉を初めて見つけた。

最近ごぶさただったので「出が悪いだろうなー」と思ってたくさん刺しちゃった。。。
そのためこんなに出たのに噴水できず。
残念。。。
もし成功したら、今度こそ動画うpしようと思います。。。
あぁシャケはやっぱええわ〜(はぁと)明日もやっちゃお。。。

どうやら血を抜く行為らしいというのはその記事の中で分かった。ただイマイチよく分からないので、Wikipediaで調べてみると、民間療法の一つとしてその効用の説明がなされているだけで、先のブログ主の書いていたこととだいぶ違った。そこで他のサイトを調べたところ、瀉血について詳しく説明してくれている別のサイトを発見し、詳しいことが分かった。
あのブログ主がやっていたことは「セルフ瀉血」というのが正式名称で、普通に「瀉血」と略されたり「シャケ」「鮭」などと言ったりするようだ。瀉血の嗜好者を「シャケラー」といい、メンヘラ達が好んでやっている。最低必要なのは針と容れもの。注射針がもっともよく使われていて、僕もそれにならってオークションで購入した。容れものは量を測れるビーカー、口が広くこぼれにくいボウルなどを使う。あと、駆血帯や包帯など、サポート用品があればもっとラクにシャケれる。
僕は勢いに身を任せ、さっそく翌日にネットのオークションでこれらを購入し、なんとか一式揃えた。しかし、なかなか実行に移せなかった。「痛くない」と多くのシャケラーがブログに書いていたが、果たして本当か、コイツ等は神経がおかしくなっていて、僕のような一般人とは感覚が違っているかもしれない、そんな疑いが晴れなかった。おかげで一週間それらは床に放置。やっと使おうとしたその日、それはパソコンの充電中にコードを足に引っ掛けて引っこ抜いてしまった日だ。足の指がコードに絡まっていることに全く気付かず、さらに一つのコンセントのプラグがバカみたいにひん曲がり、一人でホコリのこびり付いたペンチを使って修理する羽目になった。力がなく不器用な僕には拷問同然。ユダヤ人収容所で強制労働している気分だった。やっと終わって再びパソコンの電源をつけると今度は途中で切れたため見たこともないエラー画面が表示され、頻繁に使うくせにシステムがよく分からない僕の腐った脳みそは完全にショートした。しかもわけも分からず強制終了してしまい、ついに勝手に鬱状態になった。汚いアパートの一人部屋の冷たい床の上に寝転がり、生きられない生きられない生きられない生きられないとひたすらぼそぼそと唱え続け、脳が動くよりも先に、手が布団の横の注射針に伸びていた。
それから半年。最初に感じた痛みはもうない。あるのは快楽と少しのけだるさ。
憎悪、嫉妬、屈辱…これらが同時に流れていくこの安らぎ。それこそが自傷の醍醐味。セラピーだ。


このようにして、カンザキ君はシャケラーになりましたとさ。めでたしめでたし。
大体こんなのでいいだろう。適度に、というよりほとんど嘘で、それでいてなかなか筋が通っている。さっきはよく、理解者を見つけたなんてバカなことを思ったものだ。こんな得体の知れないヤツに僕の中身を理解されたいわけないだろう。本当はさっき名乗った名前だって嘘だった。出会ってすぐに理解されようとするなんて、それこそ薄っぺらいじゃないか。



 八月二八日 21:46
 From:私怨
To:来栖舞夜
件名:本日

第5回Alamode Festivalにて「処女膜再生専門学校」が講演予定です。
もし来られるのでしたらこちらで予約を入れておきますので、御連絡を頂けると幸いです。

P・S
先日アトリエにお邪魔した時のことが忘れられません。やはり、娘さんのご不幸が原因なのでしょうか。まったく同じ顔、同じ表情の人形ばかりが並べられていたのは正直不気味で仕方ありませんでした。あれだけで次の個展を開かれるというのなら、どうか思い留まって頂きたいと思います。来栖さんには多くの様相をした人形たちで表現力を発揮してもらいたいと心から願っております。
お節介かもしれませんが、どうか考え直しくださいませ。




 



朝にシャケッたばかりだが、どうやらまたしないといけないみたいだ。粛々と入ってきた女を見て、かなり真剣にそう思った。
主な理由は、女がゴスファッションだったこと。俺が無念にも手に入れられないと悟った姿が、目の前に存在しているなんて…せこいぞ…!
「菊川、遅れて御免なさいね」
 高そうなサングラスを取りながら女が言った。妙にぶっきらぼうな言い方だ。歌舞伎役者のような白塗りに黒く囲まれた目。こんなコテコテのゴス嬢が日本にいるなんて思いもしなかった。
「初めまして、来栖舞夜と申します。本名ではありませんけど」
「…カンザキです」
 来栖と名乗った女の黒い口元がぴくっと動いた。だがあまりに化粧が濃いので、それがプラスの感情表現かマイナスのそれなのか読み取れなかったが、僕はプラスであることを願った。
「では来栖さん、早速ですが、あれをお出しください」
「…分かったわ」
 女の声は虫の羽音のように掠れていて、どこか寂しげだった。
 

 出てきたのは人形だった。
 それも、さっき僕が欲情した、奇妙な形の人形、銀髪の少女の人形!
 年齢は一〇歳くらいだろうか。取り出したばかりで、髪が乱れている。服は群青のロリータ系のようなドレスだった。
「マリナです」
「え?」
 菊川が驚いた声を上げた。
「あ…ごめんなさい。名前はお好きなように決めてください」
 来栖と名乗った女はそのまま押し黙ってしまった。自分の左下に視線をちらちらさせている。黒い唇が、とてもエロティックだった。
「では、実験の説明に入りましょう」
 女の分のコップを出しながら、菊川が言った。
「カンザキさんは、球体関節人形をご存知ですか?」
「いや…知りません」
「その名の通り、球体を関節にした人形のことです。来栖さんはその作家をやってらっしゃるんですよ」
「まだまったくの無名ですけれど」
 来栖と名乗った女は丁重にお辞儀をした。
 菊川が紅茶を注いだ。もうこの男の無駄のない動きに驚かなくなっていた。
菊川の対応は僕の時よりもいくらか紳士的に見えた。この男は来栖と名乗った女とどんな関係なのだろうか。女の態度を見る限りでは恋人には見えない。どのくらい話をしているのだろう、どんな話をしているのだろう。すぐに思いついたのは、菊川が女を奴隷のように扱い、フェラチオを強要しているイメージ。くだらないAVみたいで案外滑稽かもしれない。
「この人形に出会ったのは」菊川が続ける。
「一年前、身体論の授業でした。その教室でとあるビデオを放映して、そこに出てきました。前から知ってはいたんですが、現物を映像で観て、僕は感動しましたね。何というか、全身からエロスが滲み出ている感じがして。その点では原型である人間を超えてますね。よく言われていることですから受け売りみたいな意見なのが嫌ですが。」
「あら、知らなかったわ。あなたは大学生じゃないと思ってた」
 女が目を丸くした。アイラインが濃すぎて、殺意が湧いているのかと勘違いしかねない。そうですか?と菊川が受け流し、話を続けた。
「まあ僕のことはどうでもいいんです。実験の内容を簡潔にお話ししましょう」
 そう言うと、彼は右手で人形を差した。
「これからカンザキさんに、この人形をお渡しします。もちろんお金は取りません。そしてあなたにやって頂きたいことが…」
 菊川はズボンのポケットをまさぐった。そして――ズドン。
「この人形に傷をつけていって貰いたいんです。実験の大筋はたったこれだけです」
 言いながら、高そうな絨毯に刺したナイフを引き抜いた。来栖と名乗った女が引きつった口で笑う。
「そんな実験でも、さぞや報酬は弾むんでしょうね」
「ええまあ、大体一日一〇〇万程度お支払いしますよ」
 簡単に言える金額じゃない。
「但し、一つだけ条件があります。実験の期間中は、瀉血は一切禁止にしてください。この条件を呑みこんでいただけないと実験の意味がありません。分かって頂けますか」
 呆然とした。僕の癒しが失われる代わりに、多額の報酬を得る。果たして、この人形を傷つけるだけで癒されるだろうか。この男は単に、僕を苦しめたいだけか?きっとそうだ。腹の底ではケラケラ笑ってやがるに違いない…あの高校時代のジョック共みたいに。
 しかし、と僕は思い直した。菊川の画集で人形を初めて見たときの、今までにない高揚感。あの時のサディスティックな感情に賭けてみるのも面白いじゃないか…。
「いいですよ、シャケはしません。実験に参加します」
 はっきりと言い放った。菊川が微笑む。
すぐに、来栖と呼ばれた女がバッグから黒い櫛を取り出した。
「じゃあ、髪のお手入れをしなくっちゃ。こんなボサボサだとお客さんの家なんかに住ませられないわ」
 人形の口元が、わずかに笑ったように見えた。







 カンザキという男が帰るやいなや、私は許可も取らずにトイレを借りた。吐きそうなほど香りの強い密室ですすり泣き続け、マリナのことを想った。
 私が悲しいのは、マリナと別れることではない。マリナの、あの完璧な肉体を誰かによって傷つけられること、それが本当に許せなかった。マリナは不老不死の完璧な肉体を保持し続けること、それが存在価値だった。つまり、あの娘はもう消えてなくなること、死以外の道を失ってしまうのだ。だから、せめてそれまでは美しくあってほしいと思い、髪を梳かしてやった。
 もともと、女性は染色体XXをもつ生物の役目として、当然その肉体の美しさに重点を置く。だからこそ常に化粧をし、エステに通い、ダイエットをし続けている。だから、女性の肉体を実験と称して傷つけるなど、殺人行為に等しい。菊川は狂っている。
 それを分かっていながらこの実験に参加したのは、あの男がいないと私は生きていけないからだ。
 元夫のDVに堪えかねて離婚した後、私は慰謝料ももらわなかったので経済的に苦しかった。人形の制作費用もさることながら、前にも増してゴス系ファッションにも力を入れ続けたかったし、おまけにまだ駆け出しだったので個展を開くことですら一回もなく、財源はなくなる一方だった。
 そんな中、遂に知り合いがいるバーの上階にある画廊で小さな個展を開いた。そこで出会ったのが、菊川天馬だった。
 最初に彼を見た時、恐らく今まで彼が出会った女たちと同じように、その胸にふらっと倒れていきそうなほどの色気に吸い寄せられそうになった。あの男ならきっと、夜に渋谷を練り歩く汚いギャルたち全員とすぐに寝ることができるだろう。
 菊川は小さな画廊をゆっくりと一周した後、ソファに座る私に初めて話しかけた。それが、宝野アリカの「ゴスロリ=戦闘服説」を知っているかということだった。
「もしそれがゴスロリだけじゃなくて、ゴスメイクやゴスファッションも戦闘服だとしたら――あなたは一体、何と戦っていると思いますか」
 面白い質問だった。確かに、私は何と戦っているのだろう?ゴスロリと同じく、世間の好奇な目か?自己表現という存在そのもの?それとも単なる自己主張?分からない。どれも当てはまる気がする。意外と難しい問題だった。この人、面白い――。
 それから私たちは何度かサブカル系のライブやイベントで会うようになり、帰り道にバーなどで様々なことを語り合うようになった。決して恋人同士になったわけではない。しかし、菊川に惹かれていなかった、と言えば嘘になる。私は、菊川の醸し出すオーラ、フェロモンに惹かれていたのだ。つまり、抱かれたがっていただけだ。本当は、話の内容などどうでもよかった。菊川の体だけを求めていたのだ。
その一環として私が打ち明けたのは、自分の厳しい台所事情だ。彼が大金持ちであることは聞いていたので、きっと支援してくれると思っていたのだ。だが、バツイチで三十路前のふしだらゴス女を待っていたのは、思いがけない事態だった。
それが、この実験への協力。人形作家にとって、一番屈辱的で穢れた仕事だろう。活かし私は、菊川に会うためにライブやパーティーに無理に行き続けた報いとして更なる貧困に苛まれていたので、経済援助のために引き受けないわけにはいかなかった。このような状況下で、私は一つのことを悟った。
菊川は、元々私を利用するためにコンタクトを取ってきたのだ。体から滲み出るフェロモンは、邪気を覆い隠すための絶好のカモフラージュだった。
今、私はこの男と出会ったことを後悔している。








菊川のいる部屋に戻ってくると、私はつい吹き出してしまった。
菊川は机に座り、天野可淡の画集を読みながら音楽を聴いている。曲は紛れもなくマリリン・マンソンの「アンチクライスト・スーパースター」のイントロだった。
「あなた」私は笑顔のままだった。
「私がクリスチャンだと知ってるでしょ?喧嘩でも売ってるつもり?」
「いえいえ」画集に目を向けたままで言った。「来栖さんが敬虔なクリスチャンとは程遠いことは分かってますからね」
「どうして?」
「来栖さんのアトリエにお邪魔させていただいた時に確信しました。きっと来栖さんは、自分のことを神だと思っているのだと」
まったく図星だった。
「よくそこまで…」
「あの娘たちは誰をイメージして作ったものですか?娘さんの成長した姿でしょう?」
「…知ってたのね」
「娘さんのお写真を拝見させてもらってますからね、似ていることはすぐに分かりましたよ」
本当に、この男の洞察力には舌を巻く。だが――。
「あなた、それを知っててこの実験に参加させたの!?」
答えがない。
「あのカンザキとかいう得体の知れない男に、他人の娘を使って気違いじみたSMプレイをさせようとしてたのね。あんたほんっと鬼畜ね!」
「あなたはどんな神なんです?」私が言い終わらないうちに菊川が答えた。
「人間を作るという意味でですか?確かに粘土を彫るプロセスで、人形たちの容姿の美醜を決める権利はすべてあなたにあります。しかしあれらに生物のような意思はありますか?小さい子供の人形遊びみたいに、人形の意思を自分の中で想像することしかできませんよ。あなたの言う神とは5歳程度のレベルなのですか?それで神ですか?」
 …。
「単なる自己満足に過ぎないのではないですか?あなたの顔につけられた、消えることのない傷跡、それがない、永遠に純白の肌を保っていられる彼女たちに慰められてるだけではないですか?閉塞的なワンダーランドはいつか他人に浸蝕される運命です。それが今日なのではないですか?」
「それを教えておきたかったんです。あなたの世界はすぐに崩されるということを忘れないでください」
 嫌だ嫌だ嫌だ。私はパニックに陥った。たった数分で様々なことが見抜かれ、私のアイデンティティが否定されていく。マンソンの音楽も相まって、菊川が悪魔に見える。
「でも、彼一人に全てが崩されることはないと思いますよ。だから安心してください」
 敵に塩を送られた。それで少しでも安心してしまう自分が悲しい。
「あの男はきっと勘違いしてるわ」
正気に戻りつつある中で、私は非難した。
「球体関節人形はエロスだけが特徴じゃないの、知ってるでしょう?それしか言われてないと、それしかないと思ってしまうのは当然よ」
「それはわざとです」菊川は音楽を止めた。
「これできっと彼はあの人形に夢中になる。そうであると嬉しい」










菊川の家を出てから、一五分後にはもう自宅に戻っていた。例のごとく親がやってくる前に素早く部屋に入って鍵を閉めた。
部屋には昨日シャケに使った駆血帯が転がっている。丸まった管の形が来栖と呼ばれた女の唇に似ていたので、僕は思わすオナニーをしたい衝動に駆られたが、とりあえず我慢し、名残惜しくなる前にさっさと机の引き出しの中に片付けた。もう使うことはないかもしれない。
布団の上に古いミシンケースのような木製の箱をそっと置いた。中にはあの人形と、菊川がくれたナイフがある。そういえば、この人形に名前をつけていない。かといって、別につける気にもならない。とりあえず、早く始めよう。
いや、ふと思い出した。あの来栖と呼ばれた女は一回だけ、この少女をマリナと呼んでいた。それをそのまま使ってみたら面白いかもしれない。俺の理想をいとも簡単に体現した、憎らしいまでに美しく、崇拝すべき女。あいつがわざわざ名前をつけてまで大切にしていた少女を僕がナイフで凌辱する、吐き気がするほどピュアな青色をした瞳をくり抜き、腹の中をバラバラに引き裂いて、腕を口と女性器に押しこみ、全裸に引っぺがして女の前に差し出してやる、全身を精液まみれにしてやってもいい、来栖覚悟しろ、てめえの大事なものを俺が奪ってやる――。
怖い。僕の頭から声がする。何が怖い?すべてが。変わっていく自分が。それでいい。学校。同級生。教師。親。他人。思春期。欲求。社会。ネット。金。能力。血。肉。心臓。嘘。言葉。汚物。多数派。美麗。醜悪。菊川。来栖。俺の過去。それらに対する小さな反抗。それを実行する時がやってきた。くだらない、実にくだらないことだが、目には目を、歯には歯を、くだらないものにはくだらないものだ。どうせこれからの人生、くだらないことしかないのだから、それらを全部受け入れて僕の存在価値にしていたい。そうすればくだらない人間の中で最もくだらない人間になれる。それでいい。さあ覚悟しろ。そう、いつかこの時が来るのを待ちわびていたのかもしれない。だから、さあ、早く、僕のこの手の震えを止めてくれ!
僕はマリナを布団の上に寝かせ、ナイフを振り上げた。外が子供の声で騒がしい。ギッという、汚く甲高い奇声とともに顔の真ん中にぶっ刺した――はずが、切っ先は頬をわずかに掠っただけだった。僕の腕力が弱いのもあるが、それでも人間より固い感触だ。マリナは表情を変えない。わずかに笑ったままだ。何だかとても愛おしくなってきたので、僕は傷口に舌を這わせた。長いことそうしてるうちに、僕は服を脱ぎ、いつしか全裸になっていた。何故そうしたのかは分からない。マリナの両脇を手で挟み込み、僕は顔中を舐めまわし始めた。土のように苦い味がする。土でできているのかもしれない。もうナイフは手から落ちていた。今度はマリナの青いシルクのドレスを乱暴に脱がした。乱暴っていう響きがいい。
ドレスの下からは、未発達の平たい胸が出てきた。女性器までが精巧に作られているのにはさすがに驚いた。丸い関節がなかったら、ほとんどラブドールだ。僕は勃起した。
顔を舐めるのを止める。塗料が剥がれ、妖怪のように無様な顔になっていた。ザマアミロ。腕の力がどんどん強まっていく。もはや自分でも止められない。腹の真ん中が疼いて吐き気がする。何かが上がってくる。自分も知らない自分の何かが。僕は固そうな平たい胸に思いっきり咬みついた。三回咬んだところで、乳首の部分だけが引きちぎれた。そのまま錠剤を飲むように飲み込んだ。急に笑いがこみ上げてくる。腹から上がってきた何かが暴走寸前だ。片手で首根を掴んで立ち上がり、思いっきり振り回す。見事に胴体がスポーンと気持ちよく飛んでいき、壁にぶつかった。衝撃で関節がもげ、手足がバラバラに飛散した。何なんだこの感じは。もう本能しか残ってないような自分の動きは。愉しい。
僕は自分のペニスを握った状態で、今度は唇に咬みついた。味わえよ。自分の口の動きとともにオナニーも激しくなっていく。唇の中を削っていき、穴ができていく。口にマンコが誕生ってか、ああはははははははははは。最後の瞬間、僕はマリナの顔を股間に埋め、削った穴の中に射精した。
ふう。一息つくと、僕はマリナの顔を放り投げた。布団の上に寝っ転がる。下にナイフの冷たい感触があったが気にならなかった。外の子供の声が聞こえなくなった。そうだ、もう聞こえない、聞こえないんだ。僕は無上の喜びを感じ、数年ぶりに大きな声を出して笑った。窓の向こうの夕焼けが、僕だけを照らしているように見えた。

どのくらい経っただろう。一しきり笑った後で、急に激しい虚しさに襲われた。バラバラに転がっているマリナを見ても、言い知れぬ寂しさと悲しさしか湧いてこない。体に重い何かがのしかかっている。またいつもの激鬱状態に戻ってしまった。メロメロブレブレミソミソロイロイノバノバベボベボドザドザミケミケヌカヌカモベモベしてきた。結局こうなるのか。何が悪かったんだ。もう生きられない生きられない生きられない生きられない生きられないどうしようもない――。
無意識のうちに、僕の手は駆血帯と注射器が入っている引き出しに伸びていた。救われる方法は、これしか思いつかなかった。






「ああ、カンザキさんですか、こんな朝からどうしま――」
菊川が言い終えるのを待たずして、僕は戸口にいる彼を前に押しのけ、強引に家に入った。下っ端のヤクザ、いやパーキンソン病患者のように肩や腰をブンブン揺らしながらどたっと絨毯にふんぞり返った。
上体を反らしていたから見えにくかったが、菊川のパソコンのディスプレイには容器の中に溜まった血の画像が映っている。こいつもなかなか悪趣味だ。
「それで、ご用件はなんですか?」

後書き

繰り返しますが、変な単語の説明はあとで出ます。。。

この小説について

タイトル はじまりの退屈
初版 2010年8月17日
改訂 2010年9月26日
小説ID 4018
閲覧数 1020
合計★ 0
レッド・サイコパスの写真
熟練
作家名 ★レッド・サイコパス
作家ID 488
投稿数 20
★の数 28
活動度 1984

コメント (1)

2017.9.13xukaimin コメントのみ 2017年9月13日 10時06分27秒
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