瞳の中に咲きし花(前編)

 市立の小さな郷土博物館。ここには、郷土の歴史が詰まっている。
 名だたる博物館ではないから、企画展や講演会等の行事や催し物がある時こそ来館者もそこそこいるけれど、それ以外はちらりほらりしかいない。だから、館内がひっそりしていることなど珍しくもない。だけれども、こんな時の方が古に想いを馳せるには向いているのかもしれない。
 一人で足を踏み入れた展示室。そこはまるで自分だけの貸し切りのようで、全く自分のペースで展示物と向き合える。そこには閑寂な空気が漂っていて、それは古寺の境内の空気にも似ていて、その空気に触れると外界から切り離されたような心地になる。いやむしろ、現代世界から切り離されたような、と言う方がふさわしいかもしれない。そうして、近代から近世、中世へと、時間をさかのぼる旅をする気分で、過去との出会いに胸をときめかせながら歩を進める。
 そして、古代へと辿り着く。そこで目に留ったものは、縄目文様の付いた土器。破片を接合して復元したものだけれど、その縄目文様の不可思議な美しさに心引かれて、ガラス越しに見入った。
 低く唸るような空調設備の音が微かにしている。その音は風の音のようにも聞こえる。
 古代の大地を吹き渡る風の音――。
 そんなふうにも思えて、古代へのロマンが掻き立てられる
 幾千年ものはるか昔にこの土器を作った人がいる。
 その人はどんな姿をしていたのだろうか、髪や瞳や肌の色は、衣は。
 その人にもいたのだろうか、愛しい人が。
 その人はどんな言葉で語ったのだろうか、愛を。
 誰もいない展示室で、暫し古代の恋人たちに想いを巡らした。



 万葉集の歌の世界をイメージして整備された広い市立公園。その一角に郷土博物館はある。
 穏やかな天気に恵まれた四月のある日。そよ風が、公園の薄桃色に染まった桜の枝を揺らし、色とりどりの草花の上を渡って、半開きの窓から部屋の中へと流れ込む。
 二階の学芸員室で、学芸員の北山透(きたやまとおる)は、手紙を整理する手を止めて、耳をすませた。小鳥がさえずるような声が、遠くから聞こえて来る。
 透以外の学芸員は全員、出払っていた。
 透は席を離れると窓辺に立ち、半開きの窓をもっと大きく開けて外を見下ろした。透の視線の先には遊歩道がある。
 公園内に設けられた、博物館のすぐそばも通っている遊歩道は、散歩コースとして利用する人も多い。
 遊歩道を今、黄色い帽子を被った保育園児が集団で歩いている。その中には、救助用の大きな乳母車を押した保育士らしき女性もいた。保育園は公園の近くにある。
 小鳥がさえずるような声は、園児たちの声だ。透はどんなに仕事に集中していても、園児たちの声を不思議と聞き逃さなかった。
 北山透は、大学で考古学を専攻し、卒業後は市の職員として採用され、三年間埋蔵文化財の調査員として発掘調査に携わったのち、博物館に異動になって二度目の春を迎えた。
 部屋に人の入って来た気配がして、「なんだ。また、見ているのか」という声がした。
 学芸員の井村の声。井村は五十歳に手が届く男だ。
 透は黙って窓を半分閉めると自分の机に戻った。
「最初の頃は、やかましいって文句を言ったり、やたら神経質になっていたのが、すっかり変わったな」
 井村は窓越しに外を見ながら言った。もう、園児たちの姿はない。
「子供に慣れていなかったせいか、あの声が癇に障っていらいらしたんです。でも、不思議なもので、今ではあの声を待っていて、あの子たちの元気な姿を見るとほっとするんです」
「それは慣れたんだ。ここにな――」
 井村は振り返って床を指差した。そして、
「昨年の今頃は、しんどそうだった」
 と言った。
「採用された時は、採用の条件が、学芸員資格を有する、発掘調査を適切に実施できる者ということでしたから、発掘で飯が食えると喜びました。でも、思っていたのとは随分違って、働くとはこういうことかと身に染みました。辞令が出た時も、仕方ないとは思いましたが、ここに来ても違和感があって、馴染めなかった。馴染むことに抵抗していたんですね」
「それが、若いってことだ。こいつは、発掘現場に心を残して来たなと思っていた。根っからの発掘野郎だな。――考古学はロマンか?」
 揶揄とも労りとも取れる口調だった。
 透は笑い顔を作って応えた。
「それはそうと――」
 井村は口調を変え、
「今年の講座は、参加者が多いようだな。昨年は、寂しかったよ」
 と言った。昨年は井村が講座を受け持った。
「昨年、館長から、来年の講座を受け持ってもらうと言われた時には一瞬、頭が真っ白になりました。――多いと言っても、知っている名前がいくつもあります」
 講座は事前申し込み制で連続十一回、五月から三月の第二土曜日に開かれる。
 透は、『考古資料から覗く〜郷土の歴史』というテーマで、地元の考古資料に触れながら考古学の基礎的な知識と郷土の歴史を学んでもらおうとカリキュラムを組んだ。
 知っている名前とは、かつて透のもとで発掘調査補助業務のアルバイトをしていた人の名前。孫がいる人もいる。
 講座の受講者は、ほとんどが透よりも年上で、どちらかといえば井村の年齢に近い。その中で唯一、透よりも年下の女性がいた。如月深雪(きさらぎみゆき)、二十一歳。申し込み時の年齢だから、現在はもしかしたら二十二歳になっているかもしれない。
 最年少の受講者として如月深雪という名前が、透の記憶に刻まれていた。



 五月の第二土曜日。午後一時半。透は、研修室の演壇に立ち、レクチャーテーブルの前で、講義開始に先立ち開講式を執り行った。
 透が早めに研修室に入った時には、如月は既に最前列中央の席に座っていた。透は一目見て、この人で間違いないだろうと思った。彼女は、セミロングの髪を自然に垂らして、白いブラウスを着て紺のタイトスカートを穿いていた。可愛らしい顔立ちで、年齢の割には落ち着いた雰囲気の女性だった。透は彼女に資料を手渡して名前を訊いた。やはり如月と答えが返って来た。透は名簿の如月深雪のところに出席の印を付けた。
 開講式を締めくくろうとした透は、
「今日は初回なので直接資料をお渡ししましたが、次回からは入口の受付で受講票を提示して、資料を受け取って下さい。それでは、講義を始めます――」
 と言って、
「それと、土器に触れたり、整理作業なども体験していただきます。汚れてもいいような服装で来て下さい」
 そう付け加えた。如月の白いブラウスがふと目に留り、汚れたらもったいないし、気の毒だとも思ったのだ。白いブラウスに薄化粧の彼女は、清潔な感じがした。
 透は時々、研修室内を見回して、受講生の反応を見た。如月は真剣な顔で講義に聞き入っていた。
 三時になった。
「では、これで本日の講義を終わります。また来月お会いしましょう」
 透の言葉でその場の張り詰めた空気が緩んだ。受講生たちは思い思いに動き出し、研修室内がざわつく。
「北山先生」
 と、数人が透のところにやって来た。かつて透と一緒に仕事をした彼らは、懐かしそうな口調で話し始めた。
 透は演壇のそばで少しの間、彼らと雑談を交わした。そして、彼らを見送る時、如月が退室するのが目に入った。
 講座の翌々日の月曜日。その日、博物館は休みだったが、透は出勤だった。
 十一時頃、外出のために通用口から出て、そこに停めてある公用のワゴン車のドアロックを解除した。丁度そこへ、賑やかな声が聞こえてきた。
 透は、来るな、と園児たちのことを思うのと同時に、園児たちが通り過ぎるのを待った方がよさそうだ、とも思った。通用口は遊歩道に接していて、公道に出るためには遊歩道を横切る必要がある。
 透の判断は正解だった。時を移さず、園児の集団が現れた。
 先頭のショートヘアーの女性保育士は、園児二人に挟まれて歌を歌いながらも、前後左右に目を配ることを怠らない。
 透は、ただただ目を細めた。間近で見るのは初めてで、やかましさも一入だが、それ以上に可愛らしくて面白かった。
 集団が透の前を通過して行く。後尾にはいつもの乳母車が付いている。
 なんだ?
 透は首を傾げた。乳母車を押している保育士の女性が、歩きながら透に顔を向けて頭を下げたのだ。透は訝しく思いながらも反射的に浅く頭を下げ返したが、その女性が歩調を変えることなく通り過ぎたので、どうでもいい気持ちになって、車の方に向き直った。そこに「如月先生」という声がした。
 あっ! と透は閃いて、集団が歩いて行った方を見やった。
 頭を下げて通り過ぎた女性が、園児を乳母車に乗せていた。
 透は、如月の熱心に講義を聞く顔やら研修室を出て行く姿やらを思い出しながら、乳母車を押して去って行く女性の背中を見送った。
 今日の如月は、髪を一つにくくって背中に垂らし、上はトレーナー、下はジャージズボンだった。格好が違ったので咄嗟にはわからなかったが、よく思い出してみれば、確かに如月だった。
 と言うことは、俺はいつも彼女を見ていたのか――。
 そう思ったら、愉快な気持ちが込み上げてきた。
 それからの透は、あれが俺の講座の受講生だな、とこれまでとは少し違った気持で二階の窓から外を眺めるようになった。
 若葉が日々勢いを増して緑の茂りを濃くする五月も終わり、六月に入った。梅雨の時期を迎え、ぐずついた天気が続き、公園を園児たちが散歩する日も減った。
 講座の行われる日も小雨がぱらついて肌寒かったが、欠席者はいなかった。
 透は、如月が前回と同じ席に座っているのを見て、妙な満足感を覚えた。彼は、ここにいる人たちは皆、考古学に興味関心を抱いて学ぼうとする意欲を持っていると思い、その中でも如月のそれは群を抜いているように思われた。
 ちょくちょく目にするから、贔屓目に見てしまうのだろうか?
 透は内心で自問した。
 講師の立場はわきまえているつもり。受講生一人に目を掛けるようなことをしてはいけない。しかし、話している最中ふと、彼女のことが頭をよぎる。重要な点を説明した時など、この言い方で正しく伝わっただろうかと彼女の反応を窺う。
 透には、如月が、例えば白い花を一輪飾ったようで、殺風景な研修室に明るさと柔らかさを添えてくれているように思えた。
 講義終了後、透は受講生の男性から質問を受けた。それに答えながら、男性の後方にいる如月の姿を視界の端で捉えていた。彼女は何か言いたそうな様子でこちらを見て立っている。
 透は男性への説明を終えたら声をかけてみるつもりだったのだが、その前に如月はその場を離れてしまった。てっきり自分に用があるのかと思ったが、違ったのか、と透は少しがっかりした。
 講座の翌週後半のある日。その日は、久しぶりに朝から青空が広がり、過ごしやすい気持ちいい陽気だった。
 透は、公園内に復元されている弥生時代の竪穴式住居のところで、その建て替えの打ち合わせをしていた。
「傷みが早いですね。確か、建ててまだ三年位でしょう。毎日中で火を焚いて燻せば、虫やかびの発生も抑えられて、もっと持つんですが」
 建て替えを請け負った人が言った。
「記録でも三年になっています。それはわかっているんですが、毎日火を焚くというのはなかなかできない。――それじゃ、僕はこれで館に戻ります」
「日程は追って連絡します」
「お願いします」
 透は一人で博物館に戻った。その途中、博物館正面入り口近くの芝生の上に園児たちがいるのに気付いた。もちろん、如月もいて、園児と遊んでいる。
 透はいつの間にか立ち止まって、彼らを眺めながらぼうっとしていた。
 低く唸るような飛行機のエンジン音がした。
 と、芝生の上を跳ね回っていた園児の一人が、芝生の外に駈け出し、透の方に向かって来る。それを追って如月も走り出した。いきなりの出来事だ。
「ほら、つかまえた」
 如月は透の眼前で子供に追い付いた。
「ダイ君。芝生から出ないと先生と約束しましたね。さあ、皆のところに戻りましょう」
 如月は膝を折って子供と目の高さを合せて言った。
「はーい! ごおー、ごおー、きーん、きーん」
 子供は調子のいい返事をして、手を水平に伸ばして飛行機が飛ぶ真似をしながら戻って行った。
 如月はその場で子供が無事戻ったのを見届けると、
「こんにちは……」
 遠慮がちに小さな声で透に言った。
「こんにちは、如月さん」
 透は応えた。
 すると如月は、驚いたような顔をしたが、それはやがて嬉しそうなものへと変わって、
「いつもお世話になっています」
 さっきよりも大きな声、しっかりとした口調で言った。
「こちらこそ。熱心に聞いていただいて、やりがいがあります」
「北山先生のお話は熱いから――」
 彼女の口から飛び出した言葉に、透は嬉しさよりも不安を感じた。
「わかり難いですか? 突っ走り過ぎているとか……。講師をするなんて初めてのことで、先輩の学芸員に随分アドバイスをしてもらったんですが、その人は、考古学が専門ではないので」
「そんなことありません。わかり易いです。考古学への情熱のようなものが伝わって来るって意味です。――考古学って、遺物や遺跡に込められた過去からのメッセージを読み取るものでしょう。土器の破片ひとつにしたって、それを作った人がいるわけだし、現代の規格化されたものと違って、ひとつとして同じものはない。作った人の想いが込められていると思うんです。いつ、どんな人が、どんな想いでこれを作ったのかって考えると、どんどん想像が膨らんで、考古学にはロマンがあるなって思います」
 如月は楽しそうに話した。
 俺にもそんな風に想像を膨らませていた頃があった――。
 透は、考古学と出会った頃のことを思い出した。高校の日本史の教師が、もと考古学専門の学芸員で、自分の発掘体験をよく語ったことが、関心を抱いたきっかけだった。土器や土偶、石器の写真を見たり、実物を博物館に見に行ったりして、それが作られた時代の自然と人の営みを想像した。そうして考古学を志し、今では研究者の端くれでもある。研究者は客観的な事実だけを見詰めて、主観的な想像など排除して分析しなければならない。とは言うものの、こんな、彼女の考えを否定するようなことを口にする気など毛頭ない。趣味として学ぶのなら、彼女の考え方でもいいと思う。好きなことを仕事にした結果、想像を切り離して考えなければならなくなった自分とは立場が違うのだ。ただ、考古学にはロマンがあるいう言葉には、はっとさせられ、ある種の感情が込み上げてきた。
 二人はゆっくりとした足取りで、たまに立ち止まりつつ芝生に向かった。如月は話しながらも子供たちに視線を注いでいる。
「子供を相手にする仕事というのも大変ですね」
 透は、近頃思うようになったことを口にした。
「はい。子供って何をするかわからないですから、次々に思わぬことが起きて、毎日が闘いです」
 如月はそう言って、
「この腕は闘いの勲章だわ。すっかり太くなっちゃったけれど、これくらいじゃないと、おちびちゃんたちには勝てないもの」
 独り言のように呟きながら、長袖Tシャツの袖を捲って腕を撫でた。
 透は横目で彼女の腕を見た。確かに、意外に太くて、逞しさの感じられる腕だった。
 どうやら快活な性格らしい。
 透はそう思いながら彼女の横顔を盗み見た。初めの印象とは違っていたが、それを残念だとは思わなかった。むしろ、彼女の明るさ、元気さ、逞しさが嬉しかった。
 二人はいつの間にか、芝生のところまで来ていた。
「正直言うと、さっきは北山先生の口から私の名前が出るなんて思わなかったんです」
 如月はそう言って、透にふわっと微笑みかけた。
 透はふと、甘い花の香りを嗅いだような気がした。
 もっと話しをしたい……。
 そんな気持ちが沸いてきて、彼女にかける言葉を探していたら、「先生、おしっこ」という声に思考を邪魔された。
 如月のそばにさっきのダイという子供がいた。そして、ダイの言葉に刺激されたのか、子どもが三人、同じことを言いながらやって来た。
「公園のトイレより、館の方が近い。使うといい」
 透は咄嗟の判断で言った。
「お借りします」
 如月が一緒にいた保育士に「おトイレに行ってきます」と声をかけた。それで、透は歩き出し、途中、背後でするさえずりにも似た声が気になって肩越しに振り返ったら、子どもが縦一列に並んで付いて来る。如月は列の一番後ろにいた。
 透はおかしな気分を味わいながら博物館の正面入り口から入ると、彼らをトイレの前まで案内して、そこで別れた。それから、受付奥の事務室に入った。そこでは、事務員の大石が電話で話していた。大石は透の親くらいの年齢の女性。
 大石は透をちらりと見て、
「学芸課に代わりますので、少々お待ち下さい――」
 電話を保留にすると、
「北山先生、うちで預かっている市指定文化財の観音菩薩像についての問い合わせです」
 と言った。
 透が問い合わせに応えていると、大石は事務室から出て行った。
 透は電話を終えた。すると、大石が戻って来て、「受付にお客様です」と言った。
「はい――?」
 透が受付に行くと、如月と子供たちがいた。
「皆、準備はいい? いち、に、さん、はいっ」
 如月が言うと、
「北山先生、ありがとうございました!」
 子供たちが一斉に声を上げた。
「これは、どういたしまして……」
 透は、面喰いながらも、顔が緩むのを感じた。
「助かりました。北山先生、ありがとうございました」
「いえ、たいしたことは……。あの、その先生と言うのは止めてもらえませんか」
「でも、皆さん、そう呼んでおられますから……」
「先生と呼ばれると、背中が痒くて」
 透は不意に、彼女からは先生と呼ばれたくないと思ったのだ。そして、ちょっとした悪戯心を起こして、
「如月先生」
 と口にした。
 如月は一瞬目を丸くして、
「あら? 私も背中が痒いです」
 と、おかしそうに言った。
 素直だな、と透は思った。
 如月たちは立ち去った。
 透は、問い合わせのあった観音菩薩像を見ておこうと思った。それが置かれているのは、二階の展示室。その展示室から夫婦らしき年配の男女が出て来た。透は、彼らと入れ違いに展示室に入った。誰もいなかった。
 観音菩薩像に目を向けた透は、顔に困ったような表情を浮かべた。像の前に果物があった。時々、こうして果物や菓子などを供える人がいる。これはどうしようもないことで、見つけ次第取り払うしかない。
 像は、女性の背丈ほどの高さで、ふっくらとした優しいお顔をしている。キャプションには、名称・聖観世音菩薩像、時代区分・鎌倉時代とある。
 透は観音菩薩像と向かい合った。何故か、如月の微笑んだ顔が瞼に浮かんだ。子供を見守る彼女の姿は観音様のようだと思った。
「どうかしているな、俺……」
 そう呟き、苦笑した。
 七月の第二土曜日。強い日差しが降り注いで、暑くて眩しくて、夏の訪れを感じさせる日だった。
 透は、研修室に入ると真っ先に、最前列中央の席が空席なことに気付き、訝しく思い、如月の姿を探して室内を見回した。如月は来ていなかった。
 受講生が一人、入って来た。
 直に彼女も来るだろう、と透は思った。が、出席できないようなことが彼女の身に起きたのかもしれないという考えも頭に浮かび、気楽さと不安とが交錯して、気持ちが落ち着かない。
 講義開始時刻になった。
「皆さん、こんにちは――」
 透は、胸にわだかまるものを抱えながら口を開いた。
 その時、如月が後ろの入り口に姿を見せた。髪は一つにくくり、服装は半袖Tシャツにジャージズボンだ。彼女はばつが悪そうな様子で入室して、入り口近くの空いている席に座った。
 透は、彼女の姿を一目見てほっと胸を撫で下ろし、気持ちを入れ直して、
「本日の講義を始めます」
 と言った。
 それから一時間半後、講義終了を告げてから、なんとなく、
「質問などありましたら、遠慮なくどうぞ」
 と言って、荷物をまとめて椅子から立ち上がったり、座ったまま言葉を交わし合ったりしている受講生たちに視線を走らせ、如月で止めた。
 如月は弾かれたように立ち上がると、透のところにやって来て、
「あの……」
 ちょっと何か考えるような顔をしたかと思ったら、
「遅れてすみませんでした」
 と言った。
「そんなことありません。ちゃんと間に合いましたから気にしないで。――仕事だったんですか?」
 透は彼女の格好から推測した。
「はい。この時間だけ抜けさせてもらいました。だから、これで失礼します」
 如月は小さくお辞儀を一つすると、そそくさと帰った。
 ちょくちょく見かけるのに、なかなか話しができないな……。
 透はもどかしさを感じた。
 六月に会話を交わしてから、如月は園児たちとの散歩の途中、よく博物館を見上げて通り過ぎる。彼女の視線が自分に当てられているように、二階の窓から外を見ている透には感じられた。
 夏は、通常業務に加えて、学芸員資格取得を目指す学生の実習と、教職員の夏季研修に小中学生の夏休み体験学習などがあり、九月末からの企画展の準備も本格化して、一人当たりの仕事量が増えた。透はその上、個人的に参加している歴史学界の原稿も仕上げなければならなかったので、公私ともに忙しかった。
 透が、時間的にも気分的にも余裕ができたのは、十月に入ってからだ。
 十月の講座は、バスでの市内遺跡見学。
 その日はまずまずの天気で、天気予報があまりよくなくて気を揉んでいた透は、ほっとした。こんなに天気を心配したのは、発掘現場にいた時以来のような気がする。あの頃は天候が作業の進捗に大きく影響したからだが、今回は如月のことが頭にちらちらした。
 しかし、博物館の外に出たからと言って、如月と思う存分話すことなどできない。
 如月は、講座仲間たちの中に入って、自分よりもずっと年上のその女性たちと見た目には上手くやっている。
 透は、彼女たちが保育園の話をしているのを耳に挟んだ。
 受講生の中に、如月が勤めている保育園に孫が通って、如月のことも知っている人がいた。それに、うちのもこの間まで通っていたと言う人、だったらうちのもそこに通わせるように言ってみようかなどと言い出す人もいた。如月はそういう人に気をつかっているようだった。
 透は、皆に自由に見学してもらっている間、一人で考えていた。
 如月は八月も九月も講義のあと、透に話しかけてきた。彼女は、「あの……」と一瞬の間を置いてから、「今日のお話も、外の暑さに負けないくらい熱かったです。黒曜石なんかの石から大昔、どことどこが付き合っていたかわかるなんて、面白いです」、「土器の接合って、完成図のないジグソーパズルで、難しいですね。来月が楽しみです。仕事は、しっかり休めるようにしてあります」とか言った。
 透は、彼女の態度が不自然なような気がした。本当は他に言いたいことがあるような気がしてならないのだが、自分が望んでいることがあるから、彼女の言動を都合よく解釈してしまうだけなのかもしれないという気持ちも心のどこかにある。
 透は大事なことを口にできないでいた。いずれはっきり伝えるつもりだが、受講生の中で、唯一妙齢の彼女は自ずと目立つし、興味を持たれやすいので、時期が来るまで待っている。
 あと半年……。あの人には最後まで気持ちよく俺の講座に通ってきて欲しい。
 透は、講座終了の日を想った。講師と受講生という関係が解消したら、自分の気持ちを彼女に打ち明けるつもりだ。
 貴女が好きです、と――。

後書き

 ここ数カ月、スランプで小説が書けません。これは、スランプ前に書いたものです。立ち直るきっかけになればと考えて、投稿いたしました。
 全二話です。

この小説について

タイトル 瞳の中に咲きし花(前編)
初版 2012年3月3日
改訂 2012年3月3日
小説ID 4366
閲覧数 665
合計★ 2
水瀬紫苑の写真
駆け出し
作家名 ★水瀬紫苑
作家ID 716
投稿数 3
★の数 10
活動度 305
小説書きは趣味ですが、上手くなりたいという欲はあります。

コメント (3)

★齋岐ナユ 2012年3月7日 23時46分19秒
>>水瀬紫苑 様

はじめまして。齋岐ナユと申します(。・_・。)


テンポの良い、素敵な作品だと思います。
ただ、冒頭部分の情景描写(違ったらごめんなさい)が若干長くて、読者は飽きてしまうのではないか、、と思うのですが……。

如月さんと透さんのこれからに期待して、後編もこれから読ませてもらいますっ。


ちなみに、
私もスランプしまくってます。
私の場合は、内容はボカボカ思いつくのに文字にならない、といったスランプなのですが(^^;;

音楽や風景からインスピレーションを貰って、一度頭の中でストーリーを完成させるのは如何でしょうか。


齋岐ナユ
水瀬紫苑 コメントのみ 2012年3月10日 13時59分27秒
 齋岐ナユ様、こんにちは、はじめまして、水瀬紫苑と申します。コメント、ありがとうございます。

 冒頭部分は、私(作者)の心の呟きです。ストーリーの展開上、なくてもいいものなのですが、どうしても書きたかったのです。ですから、さらりと読むには確かに長いですが、読み流して下さい。
 
 スランプは辛いですよね。
 スランプのどん底にいると、好きな音楽や奇麗な風景すら受け入れられない、心が拒否するんです。

 シリアスものが行き詰まっておりまして、ラブコメものに挑戦してみようかと思っているところです。そう言う風に思えるところまで気分が上がって来ております。

 
★齋岐ナユ コメントのみ 2012年3月10日 20時25分58秒
それは良かったです。

筆者が楽しんで書けば、きっとその気持ちも読者の方に伝わると、私は信じています。
怨念のこもったような文章を書いてもストーリーはなかなか展開できませんから。

自分が主人公になったと思って、小説を書くのもひとつの手だと、私は思います。

次回作(ラブコメ)も楽しみにしています!


齋岐ナユ
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