瞳の中に咲きし花(後編)

水瀬紫苑
 三月の第二土曜日。この日、博物館友の会の定例会が九時から十一時まで館内で開催された。透はこれに出席し、閉会後に会長と話しながら正面入り口まで行き、館内から会長を見送った。正面入り口から遊歩道は目と鼻の先だ。透は遊歩道の方を見やった。遊歩道やその周囲の風景は眩しいほど白く輝いている。
 明るい陽光に満ちていている外が、透には気持ち良さそうに思えた。彼はこれから学芸員室に戻るのだが、まっすぐ戻るのも芸がない、ここは一つ遠回りしてみようと思い立ち、ちょっとした気分転換も兼ねて外に出た。風もなく、入り口付近は日陰になっていたのでいくらか肌寒かったが、日向に出ると暖かい。春の訪れを思わせる麗らかな日和だ。
 透は顔に柔らかな日差しを受けて、眩しいけれどふわりとした暖かさが心地よくて、立ち止まり目を閉じて深呼吸した。
 今日で終わりだ……。
 頭の中に講座のことと如月のことが同時に浮かんだ。
 これまで彼女との間に特別なことは起きなかった。講座のあとに一言二言ことばを交わすだけだった。ずっと透は二階の窓から彼女を見ていたし、彼女も透を見ていたとは思うが、そのことを透は口にしなかったし、彼女も同じだった。透はそれで不満はなかった。瞳の中に一輪の花を置いたような気分だった。それを愛しみ見守ることで充実感を味わっていた。
 しかし、そんな美徳とも言える自分の行為に、透は嘲りを込めて拍手喝采してやりたい気持ちでいっぱいになった。彼は、花を見守っていた自分自身がまだ蕾だったような気がした。春の日差しを浴びて、蕾が綻び始めるように、抑えていた気持ちが膨らみ出した。
 見事に咲いてみせる――。
 自信を持って、楽しい気持ちで思った。
 透はのんびりした足取りで通用口まで歩いた。そこから中に入ろうとしたのだが、鍵がかかっていた。苦笑いをこぼすと早足で引き返し、正面入り口から入って二階の学芸員室に向かった。
 学芸員室には井村がいた。
「どうしたんですか?」
 透は思わず言った。井村は、今日は休みの日だった。
「ちょっと調べたいことがあって」
 井村は本棚の前でファイルに目をやりながら言った。
 透は自分の机に着こうとして、机の上に今朝はなかったメモ用紙が一枚あるのに気付き、それに視線を落とした途端、顔を曇らせた。
「井村さん、これはいつ?」
 透はメモ用紙を井村に向けながら訊いた。
「知らん」
 井村は透の方にちらりと目を向けるとそう言って、ファイルに目を戻した。
「そうですか……」
 透はメモ用紙をじっと見詰めた。それには大石の字で『如月みゆき 欠席の連絡有』と書かれてあった。
 井村が部屋を出て行きかけた。
「帰るんですか?」
 透は何気なく口にした。
「収蔵庫に行く。暫くいるよ。講義に顔を出すかもな」
 井村は甚だ当てにならない口調で言うとドアの向こうに姿を消した。
 一人になった透は椅子に腰を下ろすと指で挟み持ったメモ用紙の短い文章に目を当てながら、仕事だろうか? と欠席の理由を考え、気持ちがすっきりしないままメモホルダーにメモ用紙を挿すと視線を足元の床に落とした。床の上には結婚式の引き出物用の手提げ袋があり、それには小冊子が何冊も入っていた。作ったのは透だ。講義内容を補足するもので、閉講式で渡すつもりでいた。井村からは「真面目というか、こまめというか、好きだね」とからかわれた。
 仕方ないか……。
 透はそう思って、ため息を吐いた。
 午後一時半。透は、如月のいない最初で最後の講義を始めた。
 最後を飾る花がない……。
 透は、最前列中央の席が空いているのを見ると寂しい気持ちになった。そして、帰りがけに如月の家に立ち寄ってみようという気持ちが沸いてきた。彼女の住所は受講者名簿に載っている。



 透は、一日の仕事を終えると警備員に声をかけて通用口から外に出、遊歩道を横切って駐車場に向かった。駐車場は博物館から少し離れていて、駐車場正面の道路を挟んだ向こう側は一面に畑が広がっている。駐車場を出た時には、辺りはまるで淡い水色のベールに包まれているような雰囲気だった。しかし、田んぼに挟まれた道を走って如月の家に着いた時には、空はいくらか青さを残していたが、辺りは薄い闇のカーテンに覆われていた。おそらく行楽帰りと思われる車が多くて所々道路が込んでいたのと、夕間暮れに住所だけを頼りに車を走らせながら家を探すのはなかなか大変で、思ったよりも時間がかかった。
 透は、門柱の前に車を止めて降りた。門柱には、如月の表札がはめ込まれていた。
 如月の家は、田畑に囲まれた小さな集落の中にあった。平屋造りで、広めの庭の奥には納屋があり、周りにはブロック塀が見る限りでは巡らされ、両側は畑で、向かいにも広い庭の家がある。如月の家も向かいの家も農業をやっているような雰囲気だ。
 透は、門柱を歩いて通り抜けた。
 軽自動車が二台、庭に止められていた。玄関は道路に対して垂直方向に配置されていた。家は灯りの一つも点いていなくて静かだ。
 透は、一応呼び鈴を押してみたが、やはり応答しなかった。
 家族みんなで旅行に行ったとか……。だったら今夜、帰ってくるかどうか……?
 透はそう考えた。そして、手に持っている封筒に目をやった。封筒の中には、小冊子と今日の講義の資料が入っている。
 透は少し待ってみることにして、車に乗り込み、バックさせてブロック塀に横付けした。
 日中は暖かいが、夜は寒い。エンジンを切った暖房なしの車内はどんどん冷えて来る。
 透は、時々車から降りて身体を動かして一時間ほど過ごしたが、流石にもう身体が冷えてこれ以上は辛いので、封筒と名刺を郵便受けに入れておくことにした。
 透は名刺に一筆書き添えようとした。車内灯を点けて、なんて書こうか迷っていたら、ぱっと車内が明るくなった。
 タクシーが、透の車を追い越して止まり、ドアを開いた。
 帰ってきた。
 透はタクシーから降りる人影を見て、如月だと直感した。
 如月は一人だった。
 透も車から降りた。
「北山さん、どうしてここに?」
 如月は驚いた様子で透のそばに立った。
「どうしたのか、気になって――」
 透が封筒を差し出すと、如月は訝しそうな様子で受け取った。
「今日の資料と僕が作った小冊子です」
「それでわざわざ……? ありがとうございます」
 如月は透を見上げた。
 透は、自分の頬が緩むのを感じた。安堵感に包まれ、何故か言葉が出て来ない。如月も黙っていた。薄暗がりの中、二人は目を凝らしてお互いの顔を見詰め合った。
 暫し、二人の間にしじまが続いた。そして、
「本当に気になったんです……」
 透は呟くように言った。
「あ……」という、吐息とも声ともつかぬ音が如月の口から漏れた。
「いつ、いらっしゃったんです。もしかして、随分待ったんじゃないんですか?」
「少し待ちました。でも、待っていて良かった。貴女に会えた――」
 戸惑うような空気が、如月から透に伝わってきた。
「外は寒いのに……。良かったら上って、温まって行って下さい」
「はい――」
 透は素直に応じた。彼女の物言いが、透をそんな気持ちにさせた。
「車は中に入れて下さい。どこに止めてもいいですから。門柱に擦らないように気を付けて」
 透は車を門柱を潜ったすぐのところに止めた。
 玄関を入ると、すぐ左手に広い座敷があった。
「こっちへどうぞ」
 如月は、台所の隣のこたつの置かれている六畳ほどの部屋に透を通した。台所とは戸で仕切られるようになっているが、その時は戸は開いていた。
 如月は、部屋の隅に持っていた荷物を置き、こたつのスイッチを入れ、透にこたつに入るように勧めると一旦部屋を出、戻ってきた時にはコートを脱いでいた。
「今日は、親戚のお兄さんの結婚式で、掃除もしていないから、こんなに散らかっていて恥ずかしいんですけれど、寒いお座敷よりもこたつのあるところの方がいいと思って」
 如月は台所でお湯を沸かし始めた。
「それはおめでとうございます。いい天気で良かったですね。――僕こそいきなり来たんですから、気をつかわないで下さい」
 透は、胸のときめきを覚えながら、普通の口調で言った。彼女が結婚式場の名前の入った手提げ袋を持っていたので、だいたい想像が付いていたし、見知らぬ男の結婚式になど、なんの感情も沸かない。透の心を躍らせたのは、彼女の雰囲気だ。
 如月は、髪を内巻きにカールさせてサイドでふんわり纏めていた。それだけでもいつもと印象が違っていたのだが、コートの下には桜色のワンピースを着ていた。胸元には刺繍が施され、胸元の切り替えから裾に向かってプリーツラインが広がっている。
 透の目には、彼女がたおやかで優美な女性に映っていた。保育士の姿を見慣れているのと、彼女のことを明るくて元気で逞しくて、少しお転婆な女性だと思い込んでいたから、その変身ぶりに、男心がくすぐられてたまらない。
 如月は透の祝い言葉に、
「ありがとうございます」
 と応え、
「ケーキがあるんですけれど、召し上がりますか?」
 と言った。
「はい」
 如月は結婚式場の袋の中から箱を取り出して台所に持って行った。
 桜色のワンピースが良く似合って、桜の花みたいで、綺麗だ。会いに来て正解だった。
 透はこたつで温まりながら思った。
 如月は紅茶とケーキを運んで来ると、それをこたつ天板の上に置きながら、
「今日は遠方の親戚も来て、久しぶりに全員集まったから、みんなでホテルに泊まることにしたんです。今頃、騒いでいると思います」
 と言った。
「貴女はなんで泊まらなかったんですか?」
 透は、自分としてはその方が都合が良かったと思いながら言った。
 如月は一瞬、表情を曇らせた。が、すぐに、意を決したものに変え、畳みの上にきちんと座って口を開いた。
「私、短大一年の夏休みに発掘のアルバイトをしたことがあるんです。それ、北山さんの現場でした」
 透には意外なことだった。
 夏の現場……?
 透は記憶を探ったが、如月のことは出て来ない。
「すみません。どうしても思い出せない……」
「ほんの短い間でしたし、人の多い現場で、直接話したのは一度だけでしたから、覚えていなくても仕方ないと思います。――私、つまずいて、盛大にすっ転んで、あちこち擦りむいちゃったんです。そうしたら、北山さんが飛んで来て、私の様子を見て、人を呼んで、傷の手当と、傷に障らないような仕事を考えてやってくれって、言ってくれたんです。話したのはそれ一度だけ、ほんのちょっとのことです。――ただ、すごく心配してくれたのに、ちゃんとお礼を言っていなかったので、気になっていて。――遅くなりましたけれど、あの時は、ありがとうございました。――はあ、やっと言えたわ。すっきりした」
 如月は、目を細め、薄紅のルージュの引かれた唇の間からほんの少し白い歯をのぞかせた、嬉しそうな顔をした。が、何故かそれは眉間にしわを寄せ、口元をわななかせた、辛そうなものへと変わり、ついには目尻から涙がこぼれ落ちた。
 透は驚いて目を見開いた。
「ごめんなさい……」
 如月はくるりと身体を返した。
 透は如月の背中を呆然として見詰めた。
 如月は、肩を震わせ、声を押し殺して泣いている。
 この人はこんな風に泣くのか……。
 透は彼女の想いも寄らなかった一面を知った思いだった。その泣き姿は、まるで風に吹かれてはらはらと舞い散る桜の花びらのように儚げだった。
「寒くないですか……?」
 透は上着を脱いで、彼女にかけた。
「何があったかわかりませんが、泣きたいのなら思い切りお泣きなさい。我慢することはないんですよ。ここには僕しかいないのだから、遠慮は無用です……」
 透は、花びらを手のひらで受け止めるように、この人の涙も受け止めてやりたいと思った。
「あったかい……」
 如月は微かな声で言った。
「僕は、ここにいられて良かったとつくづく思っています。だって、貴女がこんな風に一人で泣いているのを知らなかったなんて、男として恥ずかしいし、辛いです。――僕では貴女の力にはなれませんか? 僕は貴女の力になりたいんです」
 如月は、透の上着を両手で掴んで、自分の身体をしっかり覆っていた。
 透は待つことに決めて、
「紅茶、いただきます」
 と言った。すると、
「親戚の家、うちのすぐそばなんです――」
 如月が話し始めた。
「私は妹が一人で、お兄さんは末っ子で、私たち、本当の兄妹のように育ちました。多分、二、三歳の頃だと思いますが、お兄さんと遊んだことを覚えています。私の記憶はそこから始まっているんです。お兄ちゃんって呼ぶのが私にとっては自然なことでした。――でも、その人が大人っぽい女の人といるのを見た時、私、思わず隠れちゃったんです。その時まで、そんなのしたことなかったのに、その時は、そうしなきゃいけないような気がして、いたたまれない気持になりました。それから、なんだか心に泥棒が入って、大切にしていたものを掠め取られたようで、ずっと心にぽっかり穴が開いたみたいでした。その人に大人の恋人ができて、その人が兄ではなかったって、初めて気が付いたんです。――でも、親戚だし、ほんとすぐ近くに住んでいるんだから、色々こじれたりしたら嫌だから、少し距離を置くようにしました。――その人、考古学が好きで、発掘のアルバイトもしていたんです。会うと、よくその話になって、その人、顔をきらきらさせながら話して、私の方も気持ちがきらきらして、ひたすら、うんうんって頷いていたんです。そうしたら、私が考古学に興味があると受け取って、夏休みの間、発掘現場で働けるように頼んでくれたんです。――嫉妬とか寂しさとか、ひょっとしたらって虚しい期待を抱いて自分を慰めたりとか、これまでで一番濃い夏でした」
 透は思った。
 最初、年齢の割に落ち着いて見えたのは、辛い恋をしていたからなのかもしれない。なかなか礼を口にできなかったのも、辛い恋に繋がるものだったからなのかもしれない。
「何気なく広報紙に目を通していたら、考古学講座の記事が目が留って、講師は多分あの時の先生だろうって思って、そう言えば、ちゃんとお礼を言っていなかったなって思ったりもして、何よりあの人の好きなことだから……、受けてみようって思ったんです」
 透は、講義を聞く如月の顔が脳裏に浮かび、だからあんなに熱心だったのか……、と思った。
「でも、受けて良かったです。今日はそんなわけで出られませんでしたが、北山さんも熱くて、きらきらしているから……。――結婚式も、どうしようかなってずっと迷っていたんです。出るのが筋なのはわかっていますが、そういう切ることのできない縁で繋がっていることが、重くて苦しかった。――でも、出てみたら、不思議とあんまり辛くなくて、おめでとうって気持ちが自然に沸いてきた。ただ、一人で考えたいことがあって、帰ってきたんです。そうしたら、北山さんがいるんですもの。――すみませんでした。なんかこう、北山さんの顔を見ていたら、急に泣きたくなっちゃって」
 如月は身体ごと振り返った。
 透ははっとした。彼女の涙で濡れた顔には、嬉しそうな笑みが浮かんでいた。
「さっき、北山さんがうちの前にいるのを見て、自分の気持ちがようやくわかってきました。北山さんのお陰なんです。結婚式が苦痛でなかったのも、おめでとうって素直に思えたのも、北山さんがいたからなんです」
 如月はくすぐったそうな表情を顔に浮かべると、すっと目を伏せて、
「私、北山さんが――」
「待って」
 透は言った。
 如月は、びくっと身を震わせると、がくりと頭を垂れた。
「違うんですよ」
 透は安心させるような口調で言って、彼女にかかっている上着をかけ直し、肩に手を置いた。
「僕が言いたいんです。――好きです。付き合って下さい」
 彼女が一瞬身体を固くしたのが透の手に伝わり、次に「はい」という可愛らしい声が耳に届いた。
「如月さん――」
 透が呼んでも、如月は顔を上げない。透は、愛しさでいっぱいになり、彼女の前髪を掻き上げて、額に唇を当てた。彼女の耳がうっすらと赤く染まった。
「あの……、紅茶、淹れ直します」
 如月は上着を透に返すと立ち上がった。
 ワンピースの裾が軽やかに揺れる。
 透はそれに風に舞う桜の花びらを重ね、思った。
 保育士姿の彼女は逞しくて嬉しくなるけれど、ワンピース姿の彼女は儚げで守ってやりたい。どちらの彼女もいい。俺は彼女が大好きだ。
 如月が花のような笑いを顔に浮かべて紅茶を運んで来、透は甘い香りを嗅いだような気がした。
                                              





後書き

 後編をお届けします。

この小説について

タイトル 瞳の中に咲きし花(後編)
初版 2012年3月5日
改訂 2012年3月5日
小説ID 4367
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