5 - 天使天使

ズンドコペロンチョ
松永くんはほんの一瞬ピタッと静止するとすぐに、藤井くんと二人で水槽を持ち上げて運んできた。大きなガラスの容器の中には水が並々と蓄えられている。老人の死体は死んだ直後はずっしり重くなるというが、金魚の消えた水槽はこうも軽くなるらしい。
 彼らが目の前まで持ってくると、先生は一歩下がり、あらゆる臭いの元になっている子どもに向けて手を差し出した。
「やりたいんでしょ」
「え」
「先生が松永くんに『かして』って言ったときの目、見てたよ。左右にキョロキョロって。そうだよね、もうお手本はいらないよね。かけちゃいなさい、みんなのところにうんちが流れていかないように気をつけてね」
先生の言葉に松永くんは控え目にうなずき、みんなから背をむけた格好で「せーの、でりゃっ」と藤井くんと一緒に水を勢いよくクラスのステージにぶちまけた。「フゥフゥー」と鍵山くんと信原くんが掛け声を入れた。
 水はみんなが思ってたよりも汚物を洗い流してくれた。まだほんのりと温かみの残ったうんちはおしめとともに床へするるっと落ちていった。同時にユウキくんが全身に浴びていた廃油の固形物も徐々に下へ垂れていく。鼻が曲がるどころか腐り落ちてしまいそうだった臭気がやや薄らいだ。ある意味、震災による恩恵があったのかもしれない。地震が起きた当初のころ、作りかけだった料理の腐臭や人間の死臭など、何らかの汚いにおいがどこでも必ず漂っていたため、この学校の子どもたちや教師陣も例外なく嗅覚がマヒしてしまっていた。休み時間で他の教室の児童や先生が外にいる状況で、堅く閉鎖された教室のドアの隙間からこぼれる臭気に気付いて入って来る者は一人もいない。
ウウウ
 のどを絞ったような低い声を、クラス全員が耳にした。
 ウウウウ、ウウ
「しゃべった」
鍵山くんが口端を吊りあげながら言った。
「あれれ」
 天使先生がからかい口調で首をかしげた。
「さっきから何回かしゃべってたよ、気づかなかった?」
 誰一人言葉がない。一人ようこちゃんだけが小さく首を縦にふった。
「ふんふん、ようこちゃんはわかってたんだね。なーんでみんな気づかなかったんだろね、へんなの」
 ウウウウウウウ
よく見ると、ユウキくんの鼻の穴で水がシュッシュッと音を立てている。目にも入ったのだろうか、うっすらと見えていた黒い瞳が完全に閉ざされている。落ち着かなくなってきた何人かが顔を近づけてささやき合う。先生はその様子をじっと眺めていた。
 しばらくすると、松永くんが教室の後ろにある一人一人のランドセル置きから輪ゴムを数個取り出した。それをクラス10人全員に数個ずつ配る。何をするかは明らかだった。松永くんが合図するまでもなく、鍵山くんや鮎川くんはユウキくんに近づき、顔面目がけて輪ゴムを飛ばした。続いて信原くんや藤井くん、谷村さんと、順々に顔や腕などに当てていく。
反応はあまり変わらなかった。さっきと変わらずウウウとうなり続けているユウキくんは、輪ゴムを当てられると首や手を重々しくよじるばかりだった。だが松永くんがねりけし付きのゴムをユウキくんの額に命中させると、うめき声はさらにビブラートが増し、飢えた牛のような声になった。
クラス中が笑いに包まれた。あまり反応を見せなかった谷村さんや梨本くんまでもが微かに笑った。もちろん、天使先生も笑みを絶やさないままだった。
「あ、おまえ」
鍵山くんが眉を寄せて指差したのは、ようこちゃんだった。
「おまえ、やってないじゃん」
 やれよやれよ、信原くんもヤジを飛ばした。だがようこちゃんは口を一文字にしてうつむいている。クラスを囲んでいた笑い声が徐々にフェードアウトしていく。
「べつにいいよ、べつに」松永くんが間に入った。
「えー」鍵山くんはなぜか不満げだった。
「いいよ、アイツほっとこ」鮎川くんが目を細めてようこちゃんを一瞥した。
「あっそうだそうだ」
何か思いついた信原くんがみんなの輪から離れていった。5秒と経たずに戻って来ると、両手に赤いランドセルを抱えていた。ようこちゃんのだった。
「これ投げようぜ」
「えー、こっちにしようぜ」
「おいそれおれの」
「これでいいっしょ、投げようよ」言いながら信原くんはちらちらとようこちゃんの表情をうかがっていた。やはりダンマリを決め込んだまま、少しうつむいて動かない。
「こらこら」
天使先生が水を差した。
「黒板になんて書いてあるか、よーく見てごらん。『しょうがいのあるこどもを、くるしめよう』が、今日の授業です。ようこちゃんをくるしめるのは今日の授業とぜんぜん関係ありません。ほら信原くん、もとの場所にかえしてきなさいね、ちゃんとようこちゃんにあやまるんだよ」
 先生は笑顔を崩さなかったが、その分びびってしまった信原くんはすぐにランドセルを丁寧に置き直し、「ごめんなさい」とようこちゃんに頭を下げた。
「みんなわかったね、いじめるのはあのくさい子だけだからね、ん、松永くんどうしたの」
「これ使ってもいいですか」
松永くんが取り出したのは、自分のランドセル置きにあった「リロ&スティッチ」のキャラクターが描かれている青い道具箱だった。先生は腕を組んでうなずいた。
「もちろん。どんどん使っちゃっていいよ」
 先生の言葉が終わらないうちに、松永くんはさっそくしゃがみこみ、床の上で道具箱を開いた。ボール紙の切れはしやクレヨンのかけらといったゴミにしかならないものをどけて、道具の「品定め」をはじめた。折り紙は濡れてしまうから使えない。クレヨンも紙に巻かれている。のりもセロハンテープも役に立たない。ハサミは――。
「これ」松永くんは低い声で呟いた。
みんなの視線が彼の手に集中する。
「これ」
 松永くんは道具箱を床に置いたままで立ち上がった。どこか落ち着きのない挙動だ。
「これだ」
松永くんは震える右手を自分の顔の前に差し出した。
小さな手に握られているのは、黄色いカッターナイフだった。


この小説について

タイトル 天使天使
初版 2012年4月4日
改訂 2012年4月4日
小説ID 4384
閲覧数 572
合計★ 0
パスワード
編集/削除

コメント (0)

名前 全角10文字以内
コメント 全角3000文字以内 書式タグは利用できません
[必須]

※このボタンを押すと確認画面へ進みます。