6 - 天使天使

ズンドコペロンチョ
「それ、どうすんの」
 鍵山くんの口調は冷たかった。「やばいよ」
「でも」
「先生、見てんじゃん」
「うん…」
 松永くんは天使先生の顔をそろそろと見てみた。
カメラで顔が隠れていてもわかる、あの笑顔。天使先生は天使先生だ。
続いて黒板の、あの18文字をもう一度見直す。
『しょうがいのあるこどもを くるしめよう』
 しょうがいのあるこどもを くるしめよう。
 しょうがいのあるこどもを くるしめよう。
 しょうがいのあるこどもを くるしめよう。
「しょうがいのあるこどもを くるしめよう」
 はじめて自分の口から発した、この18文字。
「いいって、言ってるじゃん、先生も」
松永くんは独りごちた。
「だって、そういうことじゃん」
 誰かに反論するような口調で、クラス全員が見渡せるように視線を上げた。「な?」と、藤井くんを横目で見る。引っ込み思案の彼はいつものくせでうつむいたが、クラスの何人もが自分の動向に注目しているのを感じたのか、目だけは正面の松永くんのこわばった頬を見ていた。後方にいる谷村さんがしっかりとうなずき、首をもう一度まっすぐに戻したところまで見届けると、ゆっくりと首を縦に動かした。
「おい」
「よし、うん、うん」すばやく松永くんが鍵山くんの制止をさえぎった。
「藤井さ、ちょっときて」
 左手で藤井くんの腕をつかむと、彼は首をぐったりさせて横たわるユウキくんの近くまで寄っていった。油や糞尿でネチョネチョと音を立てる床もあまり気にならなくなっていた。
 ユウキくんはもううめかなかった。二人はこの肉体の全様を見渡すと、水びたしになったTシャツをまくし上げた。いつの間にか、クラス全員、ようこちゃんまでもが汚物まみれの床を踏み、二人の観衆になっていた。
灰色に濁った出べそが顔を出すと、信原くんがブッと吹き出した。強張っていた松永くんの表情もわずかにほころんだ。キリキリとカッターの刃を出す。銀色に光る刃に託した彼の心情はごく簡単だった。出る杭は打つ。
彼はへその真ん中めがけてチクリと刃を立てた。
ウアウウアウウウウ
ユウキくんがまた牛のようなうめき声を上げ、足の付け根部分の小さな突起物をウネウネばたつかせた。「きっもちわるい」信原くんが興奮気味に声を漏らす。松永くんはのろのろと振り回される太いブヨブヨした腕をよけつつ、刃先を離した。かすかに赤い点になっているだけで、血は流れなかった。
ユウキくんの興奮は収まらず、腕をブンブンとめちゃくちゃに振り続けている。耳は聴こえるらしく、「わわわ」と慌てた松永くんの方に向けているように見えた。これを後ろから回り込み、手首の辺りを「ガシッ」と机のステージに押さえこんだ子どもがいた。鍵山くんだった。
片腕の自由を失うと、今度はもう一方の腕を暴れさせようとしたが、こちらは鮎川くんと信原くんに押しとどめられた。それまで藤井くんは終始松永くんの背後に半身を隠していたが、何を思ったか不意に早歩きで彼のそばを離れ、足になるはずだった肉のかたまりを机に押しつけた。
「よし」
何が「よし」なのかを自分で理解する前に、松永くんの口からその言葉が発された。彼はユウキくんのステージに上り、ほぼ裸に剥かれている肉体を上から見下ろした。
「あ、うんこついてんじゃん」無表情を崩さずに言った。
「どこどこ」
「それそれ」
 松永くんが指差したのは、流れ落ちそこねていたうんちではなく、胸のあたりにある、二つのしわしわした茶色い突起――人間でいう、乳首だった。
「こいつ、からだの中にまでうんこつけてるぜ」
「うわーきめえ」
一人で押さえつけるのに困難の色を見せはじめている鍵山くんがはやし立てた。
「とっちまおうぜ、うんこなんだから」信原くんがおどけた。
「いみわかんねえよ、どうやってとるんだよ」鮎川くんの声が大きくなった。
「信原、おまえがとれよ、うんこまみれじゃんおまえも」
「やだよ、いみわかんねえよ、うんこはついてねえよ」
「いいよいいよ」
廃油と糞尿の中での歓談を、松永くんがさえぎった。「おれ、とるよ」
いけいけいけ、まじかよ、という二つの声が重なった。彼はユウキくんの上に馬乗りになると、口で息をしながら少しずつ手と顔を胸の辺りに接近させた。
一度収めていたカッターの刃を、もう一度むき出しにする。刃先にちょこんと乗っかっている赤い血の粒を、ズボンの端でふいた。
神妙な彼の表情とは異なって、鮎川くんや鍵山くんなどはおもしろいおじさんの話を聞いているかのような顔つきをしていた。信原くんは何か言いたげにウズウズしていたが、静かにことのなりゆきを見守っていた。休み時間の喧騒が過ぎさり、水槽の音が失われた教室で、天使先生が足を組み直した衣ずれの音だけが子どもたちの耳を支配した。結局誰もスクリーンなど見てはいなかった。
ウウウウウウ
松永くんは振り返り、藤井くんの顔を見た。表情なく見つめ返された。
ふーう。深呼吸しながら向きなおる。目下の対象物に視線をやり、再び顔を近づける。刃はすでに乳首の数ミリ手前で、彼の手の動きを待っていた。
沈黙。
1秒、2秒、3秒。
「だあっ」
 たんの絡まったかけ声とともに、松永くんは刃を乳首の端に突き刺した。
ウウウウウウ
刃と乾燥した梅干しのような乳首の間から血が乳頭をつまんでいた左手の指は一瞬で血まみれになった。やわらかいのでなかなか思うように切れない。彼は4分の1回転し、右肩を落とした。
同時だった。
ウウウウウウウウウウウウウ
魂を削るがごとくの雄叫びを上げて、ユウキくんの頭はものすごいスピードで松永くんに肉迫し、その右肩に噛みついた。
「わああっ」
 反射的に引き離そうとするも、もうすでに歯が肩の肉をちぎりはじめていて、いくら振り払おうとしても、顎の筋肉が妥協する気配はなかった。
 ウウウウウウウウウウ
 鍵山くんが驚きのあまり手の力をゆるめてしまうと、まだ赤い点滴痕が残る左腕も豪快に振り回された。右腕を押さえる二人は自分たちの任務に四苦八苦し、彼らに加勢することはできなかった。左腕の勢いは止まらず、その動きとともに松永くんの肩の惨状は進行していった。
 ウウウウウウウウウウ
「いたいいたいいたいいたいいたい!」
「先生、先生」鍵山くんが隅で同じポージングを撮り続ける天使先生に助力、救いを乞う。
「先生、先生」
 ウウウウウウウウウウ
「先生」「先生」谷村さんや梨本くんがこれに続く。
「先生」
「先生」
「先生」
それでも、天使先生はカメラと一体化しているのかと見まがうほど、指一つ動かさなかった。ただのカメラスタンドと違うところは、微笑んだ人間の顔がついているということだけだった。

この小説について

タイトル 天使天使
初版 2012年4月5日
改訂 2012年4月5日
小説ID 4385
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