7 - 天使天使

ズンドコペロンチョ
ユウキくんの顎の力は衰えるどころか、時間に比例して強くなっていった。
「ううううううう」
自分の体が気がかりで、松永くんは猛烈な痛みに意識が飛びそうになりながらも、反撃に応じることができなかった。手の空いている残りの5人は固唾をのむ心のスキもなく、ただただ静かな教室でうねりとどろく空気にしめつけられていた。
「このやろ」
 ドガッ。鍵山くんの渾身のキックが、傲岸なる肉体の左肩に入った。
 ウウウウ
 命中とともに、松永くんをとらえていた欠損だらけの歯が一瞬、肩の肉から離された。彼は銃弾のような速さで机のステージの上を降り、肩の傷の具合をたしかめていた。谷村さんと浜崎さんが、くっきりと前歯の先の形にえぐれている肩を押さえてうずくまる7才の児童のもとへ駆けよる。
 相手が弱ったと見るや、鍵山くんは噛まれないように距離をとりつつ両手でハンマーをつくり、腹部に数撃打ちおろした。ユウキくんの興奮はマックスになり、両腕を縦横無尽にひた振ったが、その短い腕が届く距離には臭気が舞う空気しかない。鮎川くんと信原くんはすでに退避していた。
「しねよまじで」
 松永くんが絞った声でつぶやいた。ヌメヌメする傷口まわりをティッシュでよくふき、谷村さんが持ってきた大型の絆創膏を貼った。誰かが「先生」と言いかけたが、言いおわる前に声がしぼんだ。この場にいる10人すべての子どもたちが無意識にフィルターをかけていた――天使先生に話しかけてはいけない。あれはモノだ、動かないモノなんだ、それぞれが似たような思いを幼い語い力ゆえにグニャグニャうごめくアメーバのままで、思考回路に埋めこんでいた。
 ウウウウウウウウウウ
 鍵山くんの攻撃には、もはやみじんのためらいもなかった。彼は落ちていたビニール手袋をはめ、怒り狂うユウキくんの顔に背を向けて馬乗りになり、藤井くんが持ちこたえている下半身を注視し、こぶしを振りおろした。
「うーらうーら」
 ウウウウウウウウウウウ
「うらうらうら」
 ウウウウウウウウウウウウウ
 3回、4回、5回。鍵山くんはリズムよく、何度もこぶしを打ちつけた。流れそこねた尿の残りかすが飛散する。ところが、
 ウウウウウウウウウウ
 急な臀部の揺れを感じ、藤井くんが思わず手を離して何歩も引きさがった。鍵山くんもあわてて机のステージから降りてころげ落ちた。
 ウウウウウウウウウウ
 両腕を何かのダンスのように回転させながら、ユウキくんは全身で回っていた。もう机の表面に染みついた糞尿や、乳首から噴出する血で胸部を真っ赤にしながら、ひたすら回り続けていた。
 ウウウウウウウウウウ
 近づこうなどという勇者はだれ一人いない。浜崎さんと谷村さんが、両腕をわなわなと震わせながらしゃがみこみ、口をおさえた。松永くんも言葉を探さなかった。
 ウウウウウウウウウウ
 声の消えた1年1組の教室で、両足のない子どもが踊っている。藤井くんや桜庭さんまでもその場にうずくまって丸まり、信原くんはまぶたをかたく閉じて耳をふさいだ。10人の6、7才の子どもたちのいずれも、何らかの形で自分の限界と逃避を行動に示していた。だが、地獄は一分と続かなかった。
 目の見えないユウキくんは、あまりにも雄大に暴れ回ったので、子どもたちの見ている方からしたら奥の右端、教室の入り口付近にゴロっと落っこちてしまった。一瞬全ての音が消えた、が、すぐにユウキくんはもぞもぞと下半身をくねらせて動きだし、再度うめき続けた。
ウウウウウ
 落下の衝撃で意識がもうろうとしてるのかこの肉体は回転こそしなかったものの、両腕をユラユラと床にこすっていた。血まみれになった胸部や腹部は、まるでそこだけ違う人間が動かしていたかのように微動だにしなかった。
 ウウウウウ
 ガタ、ガタ。
 教室のドアが音を立てる。鍵山くんと松永くんがそっと近づいてみると、ユウキくんが頭部をドアに何度もぶつけているのが見えた。
「おいやばいよ」
肩をおさえた松永くんの瞳には、痛みよりも明らかに焦りの色が浮かんでいた。
「このままじゃばれちゃうよ」
「わかってるよ」
鍵山くんもささやくように返した。
「でもどうすんだよ、またあばれたら」
「どうすんだよって」松永くんはどもった。
「どっちにしても、どうすんだよ、これ…」
 ウウウウウウウ
 ガタ、ガタ。
 誰かに訊けばいい。その選択肢はまだ確かに残っていた。しかし、いくら6,7年しか生きていなくてもわかっていた。取り返しがつかないということを。天使先生が廃油の容器を持ってきたあの場面から、自分では処理できない重荷を抱えてしまっていたことに、いまやっと気がついたのだった。
 ウウウウウ
 谷村さんと浜崎さんは隅の掃除用具入れの近くで後ろを向いてしゃがみ、OLなどがやるようにお互いの肩を支えあっている。教室全体ににおいが充満していることを、子どもたちはさとった。
 ガタッ。
 ドアの音ではなかった。不意にだれかがほぼ一個一個が裂けている机のステージに駆けあがった。みんなが反応する間もなく、それは全速力で机を縦断していった。そして、ユラユラうごめく肉体に飛びかがった。
 ゴッ。
 鈍い衝撃音とともに、ユウキくんの動きがとまった。教室に完全な静寂がおとずれた。クラス全員がドア付近に駆けよる。
「ふう」
鍵山くんが安堵のため息をもらした。おでこの中心に大きくはれた青あざが増えたユウキくんは、ピクリとも動かなかった。今の反動でドアが半開きになり、頭のてっぺんが教室からはみ出している。両腕がまるで童話に出てくるクラゲのように変な方向に曲がっていた。
「とまった」と松永くん。
「うん」
「とまったね」
「うん」
「うごかないね」
「うん」
「うごかないよ」
「うん」
「どうしたんだよ」
「うん」
「うんじゃねえよ」
松永くんが肩から手を離し、鍵山くんにつかみかかった。
「どうなってんだよ」
「うるせーよ」
「うるせーってなんだよ」
「しらねーよ」
「なんだよ」
「しらねーっつってんだろがよ!」
「うるせーよ!どうなってんだよ!」
「わかんねーよ!」
「なんでうごかねーんだよ!」
「なんでだよ!」
「どうなってんだよ!」
「どうしたんだよ!」
「うごかねーよ!」
「うごけよ!」
「おい!」
「んでうごかねーんだよ!」
「なんなんだよ!」
「わかんねーよ!」
「わかんねーよ!」
「わかんねーんだよ!」
「おい!」
「おい!」
「おい!」
「おい!」
 鍵山くんが、松永くんの後ろにいた人影に人さし指を向けた。
「なにやってんだよ、おまえ!」
 指でさされたようこちゃんは、握りこぶしにできた赤いはれの痛みを我慢しながら、だまってうつむいた。
「おまえのせいだよ!どうすんだよ!」
「うごかねーじゃねーかよ!」
「おい!」
 ようこちゃんは薄いくちびるをぎゅっとむすんだ。はじめて近くに来て感じた、固まった肉体から発せられる強烈な悪臭にむせかけていた。
「なんとかしろよ、おまえ」
「…」ようこちゃんはやはり答えない。
「どうすんだよ」
「…」
「どうすりゃいいんだよ」
「…」
「なあ」
「…」
「…」
「…」
 ……………。
「うわあああああああああ」
 鍵山くんが教室を飛び出した。それを皮きりに藤井くん、松永くんと、おのおのが何か叫びながら、続々と飛び出していく。最後の谷村さんは飛び出していく直前に、天使先生の方を見た。先生はもうカメラを机に置いて腕組みしていた。さっきまでとの違いはそれだけだった。笑っている。天使先生が笑っている。谷村さんは力いっぱい駆けだした。
 それから10分あまり、1年1組は震災直後と同じ、ほとんど音のない空間と化していた。授業を終え、2組を担当する男の先生が覗いたとき、、残っていたのは足元に放置された肉塊と、それを心なげにじっと見つめるようこちゃん、そして教室の隅でしっかりと腕を組み、にまっと白い歯を見せてそちらを向いた天使先生だった。

この小説について

タイトル 天使天使
初版 2012年4月6日
改訂 2012年4月6日
小説ID 4386
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