8 - 天使天使

ズンドコペロンチョ
拝啓  菊川喜見子様

 突然、見知らぬ人間からのお手紙が届いて、さぞかし驚かれただろうと思います。ひょっとすると、私のことをすでにご存知かもしれませんね。風の便りというものがございますから。
 最初に、あなた様にこうして手紙を送ることができましたことが、私にとってこの上ない喜びであるということをお伝えしておきましょう。お住まいを見つけるのに随分と時間がかかり、今日やっと手紙を書きつけるに至りましたが、もしかしたら15年前の震災の時点ですでに亡くなられていたのでは、という不安がいつも付きまとっておりました。
前置きはこれぐらいにいたしましょうか。では簡潔に自己紹介いたしましょう。私は榊容子。あなた様のご子息である勇機くんを襲った集団リンチ事件に加担した者です。どうして今頃、この時期になって手紙など送りつけてきたのかと、あなた様は憤りなされるでしょう。これには事情がありますので、追々説明いたします。最後までお読みいただけると幸いです。
 どこからお話しすれば良いか、私も大変悩みましたが、とりあえずあの事件以後、私がどのように生活してきたかを可能な限り簡潔にお話しいたします。
 私はその日のうちに校長室へ無理矢理引き連れられ、天使先生――当時の担任のことを私たちはそう呼んでおりました――こと、佐島ゆりか先生は、逃げも隠れもせず警察に連行され、パトカーのサイレンとともに姿を消しました。勇機くんは数人の先生が1階まで降ろしたあと、救急車に連れて行かれました。
 応接室で待機していた母が入って来ると、事情の説明もなく、校長先生は私を連れて今すぐ家に帰るよう命じました。母も娘から発する鼻の曲がるような臭気にただならぬ状況だと察していたようで、私は勇機くんが動かなくなってから1時間もしないうちに、家に帰って来たのでした。
 翌日。まだまだ首都復興の話題がすし詰めだったテレビや新聞でも、この事件はそれなりに大きく報道されました。「佐島ゆりか容疑者(24)」というテロップを目にして、先生の名前ってかわいいな、などと思っておりました。私は母の意向で、この日から1カ月ほど学校を休む段取りになっておりました。
家でおとなしく寝転んで過ごしていた間、母は私のことをほとんど責めませんでした。あの人非人の女教師がこの子にとんでもない罪を背負わせた、とひたすら佐島先生をなじる言葉を繰り返しておりました。私が言われたことはといえば「ああいう人からは逃げないとダメだからね、怖いのは分かるけど、ほかの先生方もいるんだから」という結果論だけでした。
私が1カ月ぶりに学校に復学した時、大多数のマスメディアは違うおもちゃに夢中で散開していったようで、校内は割と落ち着いていたように記憶しております。私は母によってあまりニュースを観させてもらえなかったこともあり、佐島先生や勇機くんの動向をつかんでおりませんでした。登校するようになってからも誰一人その話題を口にする子などいるわけがありませんでした。修了式の翌日に母の目を盗んでテレビを観ていたときに『大田区男児殺人未遂事件 佐島容疑者に無期懲役 控訴の意向なし』との報道を観たのが、それから10数年の間では最初で最後の情報となりました。
殺人未遂…確かにアナウンサーはそう報じました。私はその時あまり意識していなかったのですが、この時やっと私はほとんどシロ同然の立場になったのでした。もちろん、あくまでそれは法律上、裁判上の話です。勇機くんが大変な病気や障害を抱えていることは先生の口から聞いておりましたので、たとえ亡くなってはいなくとも、あの事件が原因で数ヶ月後、数年後に力尽きるという可能性は高かったでしょう。その点について私が言い訳を述べ連ねることはできません。
佐島先生の無期懲役の報道がなされて以後、母はようやく私がテレビを観ることを許すようになりました。完全な日常が返ってきたことである意味現実を見失ったのか、私の頭の中からあの事件の記憶は徐々にフェードアウトしていきました。何年か後には小学校を卒業し、中学、高校と、私は当時を忘れたり時々思い出したりといった具合で毎日を過ごしておりました。しかし、完全に忘れることなどできませんでした。私の右手には未だに、勇機くんの額の感触や湿り気までもが克明に記録されているのです。
1浪を経て大学に入ると、教職課程を取得するために夢中で勉学に励みました。教師として子どもたちを出来る限りプラスの方向に導いていくことが、自分にできる唯一の償いだと、以前から考えていたためです。負の解消のためには、負の発生源と一体化してみなくてはならない。そんな思いでした。
正直、私には教職など向いてないということは、親や友達に言われなくても分かりきっていることでした。私は小学校入学当初、あの事件が起きるまではいじめられていましたし、それからもどこか暗い影を引きずり、交友関係を広げる力、つまりコミュニケーション能力が大きく不足しております。私の希望は小学校の教員でしたが、中学だろうとどこだろうと、生徒と円滑な信頼関係を築けるようなレベルには到底及ばないと、皆口をそろえて言うのでした。それでも私は少しでも改善しようと、勉強はもちろんのこと「笑顔の作り方」なども学ぼうとし、インターネットで情報を得つつ、画面の前でニコッと笑おうと努めている、恥ずかしい生活をはじめました。しかし、一向に上手くいきません。もともとあまり笑わない性分でしたから、顔の筋肉が硬直していて思うように動いてくれないのです。もう愛想笑いは諦めて、少しでも友人と雑談を繰り返してコミュニケーションを改善していく方を優先すべきなのか、私の心は揺れに揺れておりました。
そんな時でした。急に私の元にこのような知らせが届いたのです――
あの天使先生が出所した、と。

この小説について

タイトル 天使天使
初版 2012年4月8日
改訂 2012年4月8日
小説ID 4387
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