認識ラヴ

 この世には男と女が溢れている。それでもいつしか無量大数ほどの組み合わせの中から一対が選び出されていき、そうして人間は子孫を繁栄してきた。生命が誕生してから40億年もの間興隆を繰り返し、そして19世紀に入り人類は人口爆発を迎えたのである。ここ東京の田園調布の一角にある35坪一軒家の佐藤さんの家の庭でもまた、今まさに一組のカップルが生まれようとしていた。日時は2012年12月2日日曜日の午前9時12分のことである。

 窓の外に人がいて私と彼と向かい合う形になっていることに気がついた。どうしてこんな所に人がいるんだろう?って疑問に思ったけど、何も答えが出て来なかった。だってここは私の家の庭なんだもん。まるで歩道の対向から歩いてくる人とたまたま目が合うみたいに自然な感じに男の人が私の庭先から親しげな微笑みを向けていた。しかも彼は見返り美人みたいに振り向いて目を向けているんじゃなくて、真正面から私のことを見つめている。なんだかニワトリの雌がポンって卵を産むところに遭遇しちゃったような変な感じがした。お腹の中がムズムズして、たぶん腎臓に通る血管がすごい痙攣していたと思う。
 今日はいったいどういう日なんだろう。起きたばっかりで寝癖も整えていないし、しかも歯磨きをしてる最中だった。歯磨き粉の泡がぶくぶくと私の口腔からは溢れていたし、こんなところに人がいるなんて思ってなかったから、目尻はふにゃっとしてて対人向けにピンっと張った美しい目をしてなかった。
 それなのにこんな所で人に遭遇しちゃうなんて。しかもパッと見た時はわからなかったけど、彼はけっこう美形な気がする。『もしかしてお父さんが急に寄越したお見合い相手?? いやいや、そんな筈はないって。だって日曜日の朝の庭に急に現れるお見合い相手だなんて。。。そんなの常識はずれ。慮外千万。でもお父さんなら…あり得るかも。びっくりさせようとして誕生日プレゼントに火星の土地をくれるぐらいだもの。お父さんはいつも斜め上に上をゆく人なんだ。私が想定してなかったことをしてくる。物事は一番最悪の事態を想定して取り組みなさいって先生が言ってたし、どっちにしても彼をお見合い相手だって思って接するべき。』

 その頃亀好きな高校生の田中雅哉は、逃げ出した亀を探して雑木林の中に入っていた(田園調布には密林といっても差支えがないほど木が生い茂っている。少なくとも彼にはそのように思えていた)。低温が苦手な亀であれば、温かい腐葉土の中に潜り込もうとするだろうと思ったからだった。しかし、そこは都会育ちの温室育ち。何度も道に迷ったのちやっとの思いで出てきた場所が佐藤邸の庭だった。つまり彼女を最初に見たときの微笑みは(少なくとも彼にとっては)久しぶりに人と接した安堵の気持ちからだった。
 しかし瞳と瞳が合わさった途端彼は我に返り困惑した。見渡す限りそこは私有地であり個人宅であり、しかも目の前にいるのはパジャマを着た10代の少女だったからだ。これは明らかに不法進入だし覗きによる軽犯罪に当たるように思われた。
 額から油のように汗が溢れ出てくる。目が合った瞬間はお互いに静止画のように動かなかったが、再び窓の向こうの彼女が歯磨きを再開しはじめた時にはさらに困惑した。『絶対怪しんでるし』そう思わざるを得なかった。彼女は歯ブラシをゴシゴシと動かしながらも彼からは絶対目を離そうとしない。まるで獲物をとらえた猫が絶対に見逃すまいと身を低くしながらそぞろに動く動作のようにも思えた。睨み合う猫とネズミ。
 いいや、俺は動物じゃない。動物どころかただ亀を探していただけの善良な男だと彼は主張したかった。動物に欠けている常識も理性も持ち合わせているし、下着を見た瞬間走り出す下着泥棒とは違う人間だということを。まっとうに社会的に組み込まれている人間、モラリストとは違う、いわばユーモアのある常識人。そう、単に説明すればいいだけだ。私は無害ですよというアピール。初対面に慣れていない少女にはまず全てに寛容になること。少女が猫なら動物愛好者はまずそう接する。心を広く、マザーテレサのような愛をもって、寛容に。彼女は怯える猫で俺は人間、そう思って対処すればいい。

 佐藤啓子は驚いた。直立していたかと思うと窓の向こうの男の人が急に右腕と左腕を斜め45度ぐらいに開きはじめたからだ。しかもやたらとゆっくりと、まるで書道家が最初に筆を空中でふうっと移動させるみたいに優雅でとことなく洗練されていたように思えたからだ。何かしようとしている。でも何をしようとしているかはわからない。啓子は戸惑った。無意識に歯ブラシをよけいに擦る。彼は何か伝えようとしているの? 
 ジェスチャー。彼女はそう思った。身体言語。非言語的コミュニケーション。言語の壁を越える最後の砦。彼女と彼は窓の向こうとこちら側の世界で隔たれている。透明でありながらベルリンの壁よりも大きな男女の国境線。だから彼は体で伝えようとしている、そのように彼女は思った。でも何を伝えようとしているの? わからない。わからないけど、何かを感じる。そう…、まるで雄孔雀が羽を広げようとしてるみたい。でも、それってどういう意味?
 彼女はしばらく考えたがわからなかった。そうしている間にも彼は柔和な微笑みを返してくる。啓子は不思議と暖かい気持ちになったが、しかし意味はわからなかった。彼の笑みの理由を知りたい。もう意味がわからならから直接聞いた方がいい、と彼女は思った。一意専心。そうよ。特攻あるのみ。お母さんが言ってた。言葉は違っても心は伝えることが出来るって。心はみんなと繋がっているって。

 おもむろに彼女が窓の鍵に手をかけた時には田中雅哉は驚きを隠せなかった。彼女がこんなにも簡単に警戒を解くとは思わなかったからだ。『いや』彼は思った。これは違う。警戒を解くどころか俺に近づいて来ようとさえしている。まるで親をどこまでも追っかけるアヒルの雛のような従順さだ。接近することが当たり前であるかのような、こちらが抵抗さえしなければずっと離れずに付きまとうかのような。
 しかしそれにしてはおかしい。どこかしら彼女は怪訝な表情を浮かべている。不可解なところがあるらしい。俺を泥棒だと勘違いしているのか。いや、そうであれば窓の鍵を開けようとする筈はない。今はどんな状況なんだ? なぜ眉をひそめながら鍵をあけようとする?
 その瞬間田中雅哉の心にはちょっとした戸惑いが生じた。今まで降霊術のようにマザーテレサと同化していた彼の精神に隙が生じ、そこに恐れと疑いが芽吹き始めた。今まで作っていた物柔らかな笑顔は徐々に頬の引きつりに変わり、眉間はピクピクと小刻みに動き始めた。『しまった!』と思った時にはもう遅く、負の感情の種は芽生えてポコッと若干心に芽を生やしたのだった。いつの間にか微笑みは苦笑いに変わっていた。

 同じ頃佐藤啓子も戸惑いを感じていた。なぜなら窓の向こうの男が急に渋面になったからだ。額の皺が4.5本増えて深刻な表情にも見えた。
 彼女は考えた。先ほどまで天使のように優しい笑顔を絶やさなかった目前の男がまるで年老いたマントヒヒのような顔をしたからだ。ジャングルのはるか彼方に沈んでいく太陽を眺めているマントヒヒ。夕闇が夜に変わりだんだんと星が天上に満ち溢れていく様子、そして天体の運行と世界の移ろいを長年眺めてきた長老のような彼にはいつしか無数の皺が刻まれている。彼はそんなマントヒヒ。
 もしかしたら目の前にいるのは凄い人なんじゃないかと思った。そうじゃなかったら日曜の早朝に天使が音もなく舞い降りてきたように、他人の家の庭にいるはずなんてない。それにもし泥棒や不審者だったらはじめに笑みを浮かべる筈はなくて、顔を覚えられる前にすぐ逃げ出すはず。
『この人もお父さんと一緒だ』
彼女は思った。私よりずっとずっと先に進んでいる人で、だから彼のすることや表情の意味なんてわからない。私が子供をかわいくあやすみたいに、目の前にいる男の人にとって私なんてちっちゃな子供も同然なんだ。まるで手のひらに乗せてコロコロ転がされるみたいに私は、私はハムスターみたいにもて遊ばれるんだ。なんだか良いような、悪いような。でも嫌じゃない。むしろ今まで接してきた同級生の人たちにそんな人はいなかった。今目の前にいる人は私にとってお父さんの次に凄い人なんだ。
 そう思うと佐藤啓子は父がこの人をお見合い相手に選んでくれたことに感謝した。運命の出会いは思いもよらないところからやってくる。アンナ・カレーニナとヴロンスキー。私の運命の人は庭にいた。灯台もと暗し。
 
 鍵を開け、窓を開けついに佐藤啓子は田中雅哉の目前までやってきた。彼女は真面目な表情の奥に笑みを称えており、逆に彼に恐怖を与える結果となった。全てを見透かしているかのような表情。優位に立つ者のこらえた笑み。こんなところか、と彼は思った。
 もはや一刻の猶予もない。言い訳をするにも頭は混乱してよい提案が思い浮かばなかった。他人の家の庭に勝手に入ったこどをどう説明する? 『キャッチボールしてたらボールが入っちゃって。(こんな時間に一人で?) 道に迷ったんです。(歩道から庭に出たの?) トンネルを抜けたらそこはここでした。(トンネルないし。)』
 もうどうすることも出来なった。あらゆる言い訳のパターンを試行錯誤したが、彼には良い提案は思い浮かばなかった。そのように考えている間にも二人の間の会話のリズムが彼に言葉を発するように急かす。もう正直に言うしかないと思った。口を開こうとした途端に緊張して唇が乾燥していることに気がついた。上唇と下唇が糊で貼りけたようにへばりつき、全てを話す前に彼は噛んでしまった。
「…亀…」
どういうこと? 彼女は思った。一番最初に語る言葉がどうして『亀』なの? 私にはこの人の思考は難解で意図がまったく読めない。ただ亀という言葉に何かの意味があるとしたら…もしかしたらこれは暗号なのかもしれない。目の前にいる人はそれほどの人だ。私の二手三手先を読んでいるような人。昼食を食べている間にも夕食をも考えているような人。お父さんみたいに右斜め上からやってくる。だから庭にいたんじゃない。考えなくちゃ。
 彼女は思考をめぐらした。そして彼女の中の亀のイメージは脳内で絡み合い、やがて小学校時代の記憶とリンクした。鶴は千年亀は万年。おめでたいこと。紅白幕。お酒の席。お見合い。そして結婚。もしかして…もしかしてこれって告白?
 そうとしか思えなかった。少なくとも彼女にはそう思えた。そう思えて仕方なかった。勝手にそう思った。父から送られたお見合い相手の言葉なのだから仕方ない。それにあの優しい微笑み。彼女は突然の告白に上気し、お父さんの薦める相手ならと意を決して決断した。
「はい///」
「えぇぇぇ?!」
どういうこと? もしかして…亀が目の前の娘っていうこと? 亀が彼女に化けた? どこまでも二人はおめでたかった。
「ずっと探してたんだ。運命を信じて探して、やっとここにたどり着いたんだ。神様がこうして導いてくれた意味がわかったよ」
彼はいたって真面目に答えた。
「うん///」
彼女の頬は赤らんだ。
「運命の出会い」
「うん///」

 

後書き

ちげーよ。

この小説について

タイトル 認識ラヴ
初版 2012年12月1日
改訂 2012年12月1日
小説ID 4435
閲覧数 590
合計★ 7
堀田 実の写真
ぬし
作家名 ★堀田 実
作家ID 778
投稿数 46
★の数 73
活動度 5764

コメント (3)

そら てんご 2012年12月12日 8時52分28秒
「う〜〜〜〜〜〜ん」
貴方の感性を理解するには、私は歳を取りすぎているのかも知れません(笑)
まさに若さゆえの特権でしょう。貴方のような純粋でメルヘンなポエムを今の私には書くことはできないでしょう。だから、過去に私も持ち合わせていたに違いない、そんな懐かしさに出会ったような後続感です。
もう少し推敲をかさね、『一人称』で書き改めれば更に想いが伝わる文章になろうかと思います。
★堀田 実 コメントのみ 2012年12月13日 3時51分52秒
>そら てんごさん
コメントありがとうございます。
正直全体的にギャグのつもりで書いたので純粋でメルヘンと言われるとは思ってませんでした。
どのように読まれるかはわからないものですね。
最初は一人称で書こうとしていたんですけど、同じ場面・無会話の状態でずっと一人称を続けるのは難しかったので二人の思いを交互にして書きました。もっと上手くならないとダメですね。
弓射り 2016年4月20日 0時40分37秒
当時見逃してたなぁ、すごい面白い。
ビビンバさんのギャグもそうだけど、発想がある時点で異次元に飛ぶというか。これは、最後の最後の見事なボタンのかけ違いが、それまでの理屈っぽい文をジャンプ台にしている。
あと「うん///」が秀逸。オチだけじゃなくて萌えるという。

当時のコメント読むと、自分で書いたくせに辛っ!と思う。
名前 全角10文字以内
コメント 全角3000文字以内 書式タグは利用できません
[必須]

※このボタンを押すと確認画面へ進みます。