パンプスと階段

 1.桃色のパンプス



今まで誰も信じてくれなかったんです。


彼が三回目のデートのときにポロリと涙をこぼしながら言った言葉だ。
仕事帰りに疲れていた私は、駅の改札に向かう階段を降りている途中、足を滑らせ落ちて頭を打った。そのときたまたま居合わせ、救急車がくるまでの間、大丈夫ですかと問いかけながら私を見ていてくれたのがこの目の前の彼だ。
翌日、同じ駅で彼が降りたところを見かけ、声をかけた。そしてお礼にご飯でもと私から誘ったのが始まりだった。

「幼い頃から…そういう性質(たち)で、…けれど母親は頑なに否定して、父は言葉にだしてはいけないよと眉を下げて言って…」

父もそういう性質だったんです。
深夜も開いているパスタ屋の照明は少し薄暗く、彼が俯いてしまえば表情は見づらかった。周りに客は二組ほどしかおらず、席は離れているので私たちの会話は聞こえていないだろう。静かなクラシック曲が流れているため、なんとなく声を潜めて喋ってしまう。

「触ることは…?」
「無理ですかね…喋ることはできますけど…見えて、喋るだけです。」

三回目のデートの今日、注文したパスタを彼が食べているのを見ながら「お付き合いを考えていただけませんか」と聞いた私に彼が一時停止し、黙りこんだ。可笑しいと言われるかもしれませんが、と前置きした彼が、僕は幽霊が見えるんですと言ったので、今度は私が一時停止させられた。水を飲もうとしたが私の水は無かった。
私は幽霊を信じていないわけではないが、だからといって見た経験も感じたこともない。テレビでよくやっている心霊特集などは大好きだし、見終わったあとは怖くてびくびくしながらトイレに行く。普通の、そう、極々普通の、見えない人代表ぐらいだから、信じる信じないの真ん中ぐらいで。 私の沈黙を否定と受け取ったのか、彼は、やっぱり、信じられないですよね。と肩を落とした。だから私は首をほんの少し横に傾けて「平池さんが見えるというなら、じゃあ見えるんでしょうねぇ」と返した。そして冒頭の、涙だった。

「初めて見た幽霊は僕の友人でした。トラックにはねられ、死んだのだと学校の朝礼で知りました。帰り道、歩道にランドセルと黄帽子をかぶった彼が立っていたんです。後ろ姿だったので、なんの確証もないのに、ともやくんと、…そう、彼はともやくんと言って…かけっこが苦手でちょっぴり太っていて…ともやくん、呼び掛けたら彼は振り返って。風がゆらりと吹き、すすきが揺れて、僕の前髪を揺らしたのに、ともやくんの髪の毛は揺れなかった。『学校に行きたい』と言った…といいますか、頭に声の音波が広がって聞こえたというか。『明日一緒に行こう』と僕が返したら振り返り、嬉しそうに待ってるねと笑ったんです。それから三日ほど彼と学校に行きました。彼は気づけば校門前で消えていて、帰りは校門前で待っていて途中の横断歩道でいなくなっていたんです。そしてなんの前触れもなく彼は現れなくなりました…。
あとから思い出したんですが、ともやくんには好きな女の子がいて、その子の名前は失念しましたが、目がくりんと大きくて、背がすらりと高い子だったのを覚えています。僕の学校には高学年になると、朝の挨拶当番というのが設けられるんですが、その女の子が担当だった日、ともやくんのいる方に向かって『おはようございます』と挨拶したのが、きっかけだったような気がします。きっとその子に挨拶をしてもらえるのを楽しみにしていたんでしょう。厳密に言えば、その、ともやくんのいる方に向かって、というよりは、僕のいる方に向かってその女の子は挨拶したんですけど、僕のうしろにはともやくんがいたので、自分に挨拶してもらえたと、そう感じれたんだと思います。」

ほんの少しだけ疲れたようで、彼は一息ついた。そして喉を潤すため水をごくりと飲む。
小学校の5年生のときです、と彼は続ける。

「その次に見えたのは祖母でした。大好きな、優しい祖母に学校であった嫌なこと、嬉しかったこと、母親に叱られたこと…毎日毎日話して…そしてある日、僕は祖母の誕生日だという日に道端で見つけた雑草の花をできるだけ、とにかく一番大きく咲いていて、とにかく綺麗な花を選別して、両手いっぱいに、当時の両手だから、今だと片手ぐらいなんですけど、普通の背の高い草とかも混ぜてね、ちょっとでも多めに見せれるようにかき集めた花束を、祖母に『おばあちゃんのために摘んできたよ!』と手渡したんです。すると祖母が普段から穏やかな顔をしている祖母の顔がもっと柔和に崩れて、縁側で『こうくん、膝枕してあげようね』って、僕は祖母の実体があるはずのない膝に頭を預け昼寝をしました。
 父に起こされ目が覚めると祖母は見えなくなっていました…花束は、縁側に散らばっていました。次の日も…その次の日も見えなくて…僕は泣いて、おばあちゃんに会いたいと、父を困らせて…。」

彼の涙がパスタに混ざる。クラシックの曲に合わせて、ピアノの鍵盤を鳴らすように、ぽた、ぽた、と。
心がふるり、と揺れた。それと同時に私は疑問に感じたことを口に出していた。

「…私の水がないのはそういうことですか?」

彼が切ない顔のまま、苦笑いをこぼす。

「あなたは確かにここに居ます、けれど、ほかの人には、…僕の話で大体の、想像はついたと思いますけれど、」

それ以上は言わないで、と両耳に手をあてた。階段から滑り落ちたことが、フラッシュバックする。
ずるり、と履いていた靴が滑った。雨のあとだったから濡れていたのだろう。体制を立て直すとか、手すりに掴まるとか、考えるよりも前に、体の全身が打ち付けられて、履いていたお気に入りの桃色のパンプスが片方脱げたのが視界の端に映る。
階段と天井と手すりと壁とが視界の中でめちゃくちゃになり、持っていたカバンが宙に投げ出され中身がはじけ飛ぶ。着ていた服がこんがらがり、私の視界を何度か邪魔する。「きゃああ、あ、あ、あ、」と、悲鳴のようなものを叫びながら、ぼんやりと頭の中では冷静に(足が、腕が、折れたらどうしよう)とか(カバンの中身どうしよう、恥ずかしい)なんてことを考えていた。そしてひときわ大きな衝撃が頭を打ち付ける。視界が一瞬で真っ白に消えた。
真っ白な視界の中で、大丈夫ですか、大丈夫ですか、しっかりしてください、しっかり、と大きな声で叫ぶ誰かのおかげでぼんやりと視界が戻る。薄く開いた目の中に映ったのは30代より少し手前のサラリーマン風の男だった。眉は少し情けない印象だが、目は三白眼ですっきりとした顔立ちだった。ああ、恥ずかしいな、と、思った。救急隊員が野次馬をかき分けて通っているような声が聞こえた。私に声をかけていた男の人は救急隊員を見てすぐに状況を説明し、救急車に乗る直前まで付き添ってくれた。私の乗った担架が救急車に乗り込む寸前、ぽんと私の上に何かを彼は乗せた。その軽さと、下の方に視線を落としたときにぼんやりと見えた桃色で、私の履いていたパンプスだと気づいた。
このときに私は彼にすとんと恋に落ちていた。


「消える前に、貴女のお名前を伺ってもよいですか」

平池さんの声が涙で掠れて揺れていた。それでも私の目をしっかりと見て。

「…さとうち、ななえ」

ひゅるり、と喉が締め付けられるような感覚に陥る。それ以上声が出せなかった。けれど、まだ、言いたいことがたくさん詰まったままだった。

(階段から落ちたとき、誰よりも早く私に声をかけてくれてありがとう)
(呼びかけながら私のカバンの荷物を拾い集めてくれていましたよね)
(脱げてどこかに飛び出したあの桃色のパンプス、お気に入りのやつだったんです)
(次の日、同じ駅で見かけた私に気づいてくれてありがとう)
(また次の日も、次の日も、私を見つけるたびに会釈してくれてありがとう)
(こうしてご飯に付き合ってくれてありがとう)
(それから、それから……それから、…)

店内は静かなままだった。気づけば客は私たち、いや、平池さんだけになっていた。平池さんの真っ直ぐな瞳が、詰まった胸をもっと熱くさせる。可笑しい話だ、熱くなるような身体を持ち合わせてなどいないのに。
けれど、なんとなく、そう感じた。肺のあたりがぎゅうと締め付けられて、涙が出た。涙なんか、そんなものでるくらいなら、声を出させてくれと誰かに怒りを向ける。まだ、何も伝えていない。
私がどれほど、深くこの目の前の男に惹かれているか。優しさに、笑い声に、歩いているときに躓いて慌てたときの声、小さい子に向ける慈しむような優しい眼差し、眠気に耐えれずうとうとと船をこいでいる顔、寒い風にウッとしかめた眉、それから、それから、それから。

「さとうちさん、ありがとうございます。貴女のおかげで、貴女の一言で、僕の心は軽くなりました。今まで、誰も…信じてくれなかった…、でも、貴女が。貴女だけは。」

私の消える条件が、彼に想いを告げるということなら、足りない、と心の中で叫んだ。ぐる、と喉が鳴る。とめどなくあふれる涙をこらえようとしたが、一度決壊した涙腺に抗うことはできず、頬へ、顔に添えた手へ、こぼれ落ちる。私の口から出るのは荒い息と嗚咽のようなものだけだった。店員は泣いている私におしぼりを持ってはこない。

(お願い、もう一声だけ、たった、もう一声だけでいいの)
(お気に入りの、桃色の、あのパンプス。)

意識が、階段から落ちたときのように真っ白く消えていく。視界も、どんどん狭まる。平池さんの姿を焼き付けようと彼の視線と私は視線を絡ませる。
からん、と彼の前に置いてあったお冷の氷がなった。
きっと彼以外だったら、気づかなかっただろう。気づいたとしても、わざわざ拾って行かなかっただろう。ただ彼は、パンプスを拾い、私に戻してくれた。たったそれだけ。たったそれだけでも、私の意識はあの駅に留めさせられた。
神様、違う、違うわ、私がずっと言いたかったことは、『好きです』でも、『付き合ってください』でもないの。お願いまだ私を連れていかないで。言いそびれた言葉は、簡単で単純で。たった2、3秒あれば事足りる。

(パンプス、拾ってくれてありがとう、だけ──)


彼が、涙を流したまま、ふにゃりと、崩れた笑みを向けた。また会いましょうと、言いそうな顔で。もう会えないのに。
私の意識はそこでついに真っ白になった。












 2.雨とアイリス




真っ白な部屋で目覚めた。ずきりと頭が痛む。一体なぜ自分がここに寝ているのか、さっぱり思い出せなかった。

「七星!!」

50代ぐらいのおばさんが、ななえ、と、私に抱きついた。

「先生!先生!!七星が目を覚ましました!!先生!!」

叫ぶ声が部屋に響き、廊下へ伝わる。疲れたパーマ、目の下のクマ、荒れた指、深く、暖かい、顔のシワ。

「七星、お母さんがわかる?」

大事なものを触れるように、優しく私の頭を撫でる。目には涙が溜まっている。そしてやっと状況を理解する。ああ、お母さんだ。
分かった途端、涙が滝のように溢れ出た。心の中には怖かったと良かったとがぐるぐる渦巻き、嗚咽が漏れ出る。一体何が怖かったのか、何が良かったのか、よくわからないまま、ああん、ああん、と小さい子供のように泣きじゃくりながら母親に抱きついた。
涙も落ち着き、医者の検診と問診も終わり、やっとゆっくりと部屋を見回した。一人だけの部屋。白い窓枠、澱んだ空。

「…雨」
「七星が倒れた日も、雨だったわね…」

母親がまだ潤んだ瞳で微笑んだ。私が倒れてから1ヶ月も経っていたらしい。けれど倒れた日も、倒れたその少し前も、記憶が曖昧で思い出せない。医者からは頭をぶつけたショックででしょうと説明していた。
1ヶ月も寝たきりだったせいなのか、体はぎしぎしと痛み、あちこちが少し痒いような気がする。

「お花もそろそろ変えなくちゃね」
「退院するし、わざわざ変えなくたって」
「あら、お母さんお花なんて買ってないわよ」
「じゃあ…そのお花」

誰が、と聞いた。薄紫色のアイリスの花。母がくすりと笑った。

「七星が目を覚ましたって、さっき連絡したからね」

誰に、と問うた。薄紫色というよりはピンクに近いアイリスの花。病室をノックする音。
誰がきたのだろう。父親は3年前に他界したし、兄弟はいない。祖父母だろうか、いや、彼らは新幹線を使っても2時間以上はかかる遠い場所に住んでいる。

「さとうち、ななえさん…おはようございます。」

走ってきたのだろうか、整えていたはずだろうにめちゃくちゃになった髪の毛、荒い息、手にはアイリスの花束。散りやすい花だから、病室の扉の向こうに花びらが散っていた。ああ、お見舞いには向かない花なのに、そんなものを持ってくるなんて。少し抜けているのが彼らしいなんて……、彼らしい?

「ひら、いけ……さん」

なにかを思い出せそうで、雑音を取り除くため両耳に手をあてた。階段から滑り落ちたことが、フラッシュバックする。
彼との会話が、彼との思い出が、ひらひら、ひらひら、ひら。散らばった花びらのひとつひとつが、まとまっていく。

「平池さん!!」

ひゅうっと、喉の奥で息が鳴る。あなたに、伝えたいことがあるんです。あなたに言いたいことがあるんです。

(階段から落ちたとき、誰よりも早く私に声をかけてくれてありがとう)
(呼びかけながら私のカバンの荷物を拾い集めてくれていましたよね)
(脱げてどこかに飛び出したあの桃色のパンプス、お気に入りのやつだったんです)
(次の日、同じ駅で見かけた私に気づいてくれてありがとう)
(また次の日も、次の日も、私を見つけるたびに会釈してくれてありがとう)
(こうしてご飯に付き合ってくれてありがとう)
(それから、それから……それから、…)

平池さんがゆっくりと近づいてくる。アイリスの花束が私に手渡される。母親がにっこりと、祝福するように笑う。まるですべてを知っているかのように。
私が伝えたいのは、好きでも、愛しているでも、そんなことよりも、そんなことよりもずっとずっと、大切なこと。これを言わなければ始まらない。

「パンプス、拾ってくれて……ありがとう、平池さん」
「どういたしまして、里内さん。」

抱きしめられる。伝わる体温、頬に落ちる涙、私と彼の間に潰されてよりいっそうアイリスの花びらが散る。縁起が悪いかもしれないけれど、意味をもってこの花を持ってきてくれたのだろうか。
しばらく抱きしめ合ったあとに、母の少し遠慮がちな咳に私たちは慌てて離れ、そして、笑いあった。母は、まったく、もう。と呆れた声を出しながらも微笑んだまま。きっと母はわかってくれているのだろう。私がどれほど、深くこの目の前の男に惹かれているか。優しさに、笑い声に、歩いているときに躓いて慌てたときの声、小さい子に向ける慈しむような優しい眼差し、眠気に耐えれずうとうとと船をこいでいる顔、寒い風にウッとしかめた眉、それから、それから、それから。
あれも、これも、どれもこれも、彼を形成するすべてを。
窓の外には澱んだ空。今にも降りだしそうな雲。私を転ばせた天気。私たちを引き合わせた雨が、ゆっくりと降り始める。
雨でも、今日は、始まる。



後書き

衝動的に書いた話です。
珍しく前後編に分けて書きました。
みなさんによくご指摘いただくセリフのぐだぐだ感、なかなかうまく直せません…。
本当はともやくんとおばあちゃんのあたりはわけずに一つの「」に詰め込んでいましたが、長すぎるから目が滑るなーと思って分けてみましたが、それでもやっぱり長い。

この小説について

タイトル パンプスと階段
初版 2012年12月12日
改訂 2012年12月12日
小説ID 4439
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佐藤みつるの写真
ぬし
作家名 ★佐藤みつる
作家ID 510
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活動度 4932
だらだら社会人やってます。
本(漫画・小説)の量が半端なさすぎて本棚がぎちぎちになってます。

コメント (1)

★堀田 実 2012年12月13日 4時15分45秒
こんにちは。
衝動的にでもここまで書けるものなんですね。良かったですね。
何か音楽や本などに感動して書いたんでしょうか?
表現方法やリズムや語感にとても奥深さを感じました。
会話のぐだぐださは僕は感じなかったですけど、ただ一つ気になったのは一人称が里内さんだったり平池さんだったり唐突に変わっているような印象があったので、最初は誰が話しているのかわかりにくかったことですね。他は特に欠点は感じませんでした。
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