俺、人生舐めてました

 裁判がはじまると傍聴席には遺族が最前列をとって座り、娘を殺された恨みの篭った野次を飛ばした。大人の品格と呼ばれるものは心の底から沸き起こる殺意に似た感情の前に消えてき、彼らをまるで眼光鋭い獣のように変えてしまう。
 それにも増して佐島愛吏を殺した山口悠介はその細身で猫背な背中で罵倒を一身に受けながら、表情を変えずただ淡々と検察官が罪状を読み上げるのを聞いている。一時は微笑みを浮かべるようにして頭をあげ「そこは故意ではありません」と、愛吏ちゃんの首を絞めた経緯について一言述べる。すると傍聴席から再び罵声が飛ぶ。裁判官が制すると再び罪状が読み上げられた。
 動揺しているのは遺族の方だった。特に愛娘を溺愛していた彼女の母理江は当時を思い出すや否や胸をつまらせて嗚咽をもらし、過呼吸のように咳をした。人間の内部に存在する感情というものがこれだけ人を苦しめ、使い物にならない身体の一部のようにただ重荷に感じられることを恨めしく思った。いっそのこと心を捨て何事にも動じることのできない不感症な人間になることができればと強く心に思った。苛立ちが何度も押し寄せては引いていく。
 まるで悪びれる様子のないこの目の前にいる男はいったい何者なのだろう。理江自身にも彼には何かが決定的に欠けているのだとはっきりとわかっていた。それは良心、思いやり、現実感覚、心の痛みなどと形容されるような、情緒的な何かだった。しかし彼女はそれが何であるのかはっきりと知ることはできない。目の前の男はただ今この瞬間に存在していながら、この最高裁判所の法廷に立たされながらそれをまったく自覚していないようなのだった。
「命の重さ? そう、まるで私の娘を殺したのに他人事のようにこの男は振舞ってただ時が過ぎるのを待っている。晩御飯は何か考えているような上の空な心持ちでこの裁判に臨んでいる…」そう思うと再び心の底を激しい苦しみが襲った。

「なんでここにいる人たちはこうも大げさに物事を扱おうとするんだ?」読み上げられる罪状に首を傾げながら悠介は思っていた。「馬鹿な人たちだ。ただ人を殺しただけじゃないか。首を絞めたら頚動脈が締め付けられて、血液の循環が滞り顔が真っ赤になる。ただそれだけの事だ。結果人は死ぬ、ただそれだけ。ニワトリの絞首と同じじゃないか。」
欠伸をすると背後で「人殺しっ!」という怒号がする。一気に冷める。
「あーあ。ここに集ってる人たちはみんな人殺しっていう言葉にヒステリー起こしてるだけじゃないか」彼はニヤついた。「お前らだって牛も豚も殺してるだろう。馬鹿だなぁ。日常なんて現実じゃなくてただの制度にすぎないのに。現実っていうのは、そう、あの充血した顔、白目を剥いた眼、苦しそうな息遣い…あれが本当の現実ってもんだろう? 検察も遺族って奴らもただ人間社会っていう舞台の上でゲームしてるだけじゃないか」
 悠介は笑った。急にこの緊張した真剣な場が可笑しくてたまらなくなり、まるで葬式の神妙な雰囲気に噴出してしまう子供のように、悠介は笑った。傍聴席だけでなく、検察、弁護側からもどよめきが起こり、泣き叫ぶ声や激しい悪罵が飛び交い裁判の進行は一時中断された。検察側は終始彼の表情から漏れる笑みに無反省と公正可能性のなさを見出せるだろうと思案し、弁護側は再度詳しい精神鑑定を要求するべきだと画策した。

 無駄に長い時間を過ごしてきた。一審二審では無期懲役が求刑されていた。6年に及ぶ全ての裁判が終わるとまるで心が空になったようだと理江は思った。求刑通り死刑が宣告されると被告人席に座っていた青年の顔に若干の引きつりが起こったように見えた。今までまるで全てに関心がないように振舞ってきた彼の表情にはじめて焦りのようなものを見た気がした。罪の重さをやっと知る羽目になったのかもしれない。彼はもう生きることができない。それまで彼は一つも精神的に育まれることがなかったのだろうかと思うとこの世が無常に思えてならなかった。なぜ彼のような人間が生まれてくるのかを思うと不思議だった。もしかしたら彼も不幸だったのではないかと、この時はじめて理江は思った。
 死刑が確定してから3ヶ月が経つと遺族の元にはじめて山口死刑囚から手紙が届いた。文面には謝罪の言葉が羅列されており、本人が書いたのか誰かに言われるままに書いたのか見極めようとしたが検討がつかなかった。しかし最後の文面、愛吏を性的眼差しで見つめていたとの告白の後に続く最後の文面にこう書かれていた時、理江は再び胸を裂くような激しい哀しみに包まれ、青年に対するやるせない憐れみの感情にさえ襲われた。
『俺、人生舐めてました』
反省言葉にしてはあまりにも軽く、この世には分かり合えることのない人間存在しているのだと改めて感じた。

この小説について

タイトル 俺、人生舐めてました
初版 2013年6月29日
改訂 2013年6月29日
小説ID 4516
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ぬし
作家名 ★堀田 実
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