若葉の行方 - 『君と云ふ人を知る〜石渡編』『静寂の中で〜沙代子編』合併章

ある日、僕は書きあげたばかりの小説を読んでほしくて、講義の間の休憩時間に彼を探した。彼は空いていた講義室でやはり僕同様小説を書いていた。
「ここだったのか。」
「石渡か。」
彼は原稿用紙から顔をあげた。何気なくその手元を見ると、彼が握っているのはいつも使っているものとは違う万年筆だった。銀色の滑らかな曲線の万年筆は、彼の細い指にとても馴染んでいた。
「あれ?万年筆変えたのか?」
「これか。・・・下宿してる家の人に貰ったんだ。」
彼は万年筆を見つめた。それはほんの二秒ほど。そしてすぐに僕のほうに視線を戻す。
「何か用事があったんじゃないのか?」
「ああ、そうだった。昨日やっと書き終わったのがあって、読んで感想を聞かせてほしいんだ。」
僕は彼に原稿を差し出した。
「俺の感想などなんの参考にもならんと思うが。」
苦笑しながら受け取る。彼はそう云って謙遜するが、僕は彼の感想は的を射ているといつも感じていた。



 大学三年の十一月だった。それまでは遠慮して彼の下宿先を訪れることを避けていた僕だったが、風邪を長引かせ休んでいた彼が心配になり、初めて彼の下宿先に見舞いに行った。手ぶらというのもなんだから、途中の青果店で林檎を三つ買った。
 その家は小さな二階建ての、こじんまりとしていたが掃除の行き届いた清潔感のある家だった。
 驚くことに、家主は和菓子屋に勤める十八の娘で、彼とは昔から家同士で付き合いがあったらしい。事情はわからないが今はひとりで暮らしていて、実家に勘当され路頭に迷う羽目になりそうだった彼を、「気儘なひとり暮らしだから」と下宿するよう声を掛けたとのこと。そして僕がこの家を訪ねた時、最初に出迎えてくれたのがこの娘だった。

 僕は、彼女を見て、今までに無い感情を抱いた。美しく長い黒髪。絹のような白い肌に、桜色の頬。紅い唇は果実のように瑞々しく、黒目がちの大きな瞳がとても愛らしかった。
「あの、どちら様でしょうか・・・。」
玄関前で呆けている僕に、彼女が云った。
「ああ、すみません。小野崎の友人で、石渡と云うものですが…。」
僕はそれだけ云うのがやっとだった。
「ご友人・・・。お見舞いに?」
きょとんとした顔で問いかける。
「はい。何日も大学を休んでいるので、気になって・・・。」
僕が云うと、彼女はさも嬉しそうに笑顔を浮かべた。
「そうでしたか。正臣さんのお部屋は二階です。ご案内しますね。」
家に上がり、先に立って歩く彼女について僕は階段を上った。歩き方に左足を少し引きずるような癖があった。彼女は中に声をかけ部屋の襖を開けると、
「正臣さん、また読書ですか。横になってなくて大丈夫なんですか?」
呆れたように云う。
「ああ。もうだいぶ熱も下がったし、そうなると、ただ寝ているというのはどうも退屈で。」
彼の声だった。言葉のあと、軽く咳き込む様子。
「あまり無理をなさらないでくださいね。ご友人の方も心配して、お見舞いに見えてますよ。」
「見舞い?」
彼女は襖を更に開け、「どうぞ」と僕を呼ぶ。部屋は六畳ほどで、小さな机とぎっしり本が並んだ本棚。それに電気ストーブと布団がひと組みあるだけだった。小野崎は寝間着姿のまま本を手に、布団に座っていた。
「石渡。」
僅かに驚いた表情を浮かべる。
 大学に進んでからの彼は、仕事と勉強の両立から来る疲弊のせいか僅かに窶(やつ)れ、威風堂々としていた高校時代とはまた少し雰囲気が変わっていた。あの頃より、精悍さが増したように感じる。
「やあ、突然にすまない。具合はどうだい?」
部屋に入りながら何気ない風を装って云う僕に、彼も何気ない笑顔で答えた。
「ただの風邪さ。大したことはないんだ。」
彼は目を細めた。
「お茶淹れてきますね。」
「あ、そうだ、林檎を買ってきたんだった。」
思い出して、茶色い紙袋を差し出した。
「そうか、気を遣わせて悪かったな。沙代子さん、すまないがちょっと剥いてきてくれ。」
「はい。すぐ用意してきます。」
彼女は紙袋を受け取るとにっこりと笑いかけ、階段を下りていく。思わずそれを目で追ってしまう。
「ここの家主だよ。沙代子さんと云うんだ。」
僕の様子を見て彼は一言そう云った。
「そうか・・・。」
ぽつりと返事をする。

(沙代子)

その名は僕の心に、大きな波紋を描いた。
はっとして我に返り、彼に向き直った。
 彼にはもう一つ、以前と異なるところがあった。以前の彼は、他を寄せ付けない何かがあった。何人(なんぴと)たりとも近づくことを許さぬ、美しく研ぎ澄まされた刃物のような何かが。
 しかし今の彼は、そう云ったものがあまり感じられない。穏やかになったと云えばそうかも知れない。

彼女の影響、なのだろうか。

ストーブの石英管が、彼の顔を赤く照らす。階段を上る音が聞こえてきた。すっと襖が開く。
「お待たせしました。」
湯呑茶碗を載せた盆を持ち直し、沙代子さんが部屋に入ってきた。
「どうぞ。」
先に僕に差し出したので、僕は会釈をして受け取った。色の白い、美しい手。次いで彼に湯呑を渡す。
「有難う。」
彼が静かに云うと、彼女は笑顔で頷いた。
「すぐに林檎もお持ちしますね。」
その光景があまりにも自然で、僕は、知らずの内に疎外感を感じていた。お茶が無味に思える。沙代子さんはまた部屋を出ていく。なんとなく気が落ち着かず、僕は彼の前から逃げ出したくなった。
「そう云えば、このあと寄る所があるんだった。そろそろ失礼するよ。」
急に思い出したように云う。
「今しがた来たばかりなのに。また本屋でも冷やかしに行くのか?」
彼はふっと微笑んだ。
「まあ、そんなところかな。何か面白そうな本があったら今度持ってくるよ。」
まるで大根役者の下手な棒読み台詞だ。いや、きっとそれ以下だろう。
「有難う。楽しみにしている。」
それじゃ、と僕は立ち上がり、部屋を出た。階段を下りると、ちょうど沙代子さんが林檎を運んでくるところだった。
「どうされました?」
黒目がちの瞳で僕を見る。
「用事を思い出しまして、これで失礼します。」
彼女は大きな目を更に大きくした。
「あら、せっかくおいしそうな林檎ですのに、召し上がっていかれないんですか?」
皿の上の林檎は、蜜が多く確かに美味そうだった。しかし、まだ帰りたくない、とほんの刹那思ったのは、林檎によるものではなかった。
「ええ。すいません。」
軽く頭を下げた。
「またいらしてくださいね。正臣さんを訪ねてくださったの、石渡さんが初めてなんですよ。」
彼女が嬉しそうに言う。
「彼も、僕同様あまり人付き合いの多いほうではないですからね。それでは。」
僕はそそくさとその場をあとにした。



          ◇ ◇ ◇



 正臣の額に乗せた手拭を桶に張った水に浸して冷やし、また乗せてやる。再び上がり始めた熱はまだ下がらぬまま、正臣は静かに眠っている。明かりは豆電球のみ。薄暗くしんと静まり返った部屋に、柱時計が時刻を告げる音が階下から聞こえる。その音を数えて、十時になったのだと沙代子は知った。不意に正臣が咳き込む。
「大丈夫ですか?」
そっと声を掛けると、正臣はゆっくり目を開けた。
「・・・ずっとそこに?」
少し掠れた声。沙代子は黙って小さく頷いた。
「明日も仕事だろうに。早く休んだほうがいい。俺なら大丈夫だから。」
「こんな時に人の心配なんてしなくていいんですよ。それに、お店のほうには暫くお休みを頂けるようにお願いしてあります。」
「・・・迷惑を掛けてすまない。」
「そんな、迷惑だなんて。私が好きでしてることですから。何も気にしないで、ゆっくり休んでください。」
沙代子がそう云うと、正臣はふっと微笑んだ。
「・・・子供の頃の夢を見た・・・。」
「子供の頃の?」
沙代子の問いに正臣は微笑んでそっと頷き、再び目を閉じた。どうやら再び眠りについたらしい。
 「子供の頃」と聞いて、沙代子もふと思い返す。

『沙代ちゃんは、正臣が好きなの?』
『うんっ。大好き。』
『そう。じゃあ、大きくなったら正臣のお嫁さんになってやって頂戴ね。』
『うんっ。』

 あの時、傍らで会話を聞いていた正臣はどんな顔をしていただろうか。
(そう、たしか、顔を赤らめて、俯いてた。)
その少年は、今目の前に眠っている。その寝顔を眺めながら、再び手拭を取って桶に浸した。
(熱、早く下がるといいな。)
手拭を乗せてやると、ふと眠気を感じ、小さく欠伸をする。そのまま沙代子もいつの間にやら寝入っていた。

 

この小説について

タイトル 『君と云ふ人を知る〜石渡編』『静寂の中で〜沙代子編』合併章
初版 2013年7月5日
改訂 2013年8月4日
小説ID 4521
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作家名 ★佐伯 諒
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