若葉の行方 - 君を想ふ故に 〜石渡編〜

それから間もなく小野崎はなんとか回復し、大学にも復帰した。僕は小野崎を足繁く訪ねた。いや、もしかしたら「小野崎を」というのは、語弊があるかも知れない。それからの僕の頭は、平常と云うものをとんと忘れてしまっていた。何をしてもそわそわと落ち着かず、まるでひっきりなしにさざ波の立つ水面のようだった。彼女の事が脳裏から離れない。
笑顔。
声。
仕草。
あの黒目がちの大きな瞳に見つめられた時を思い返すと、異様に胸が高鳴った。
あの瞳にもっと見つめられたい。
あの笑顔をもっと見ていたい。
あの声をもっと聞いていたい。
あの指先で触れられたい。
欲望という思念が、僕の心をこれでもかと云うほど貪った。そして彼女を思う時、その傍らに浮かぶのが、小野崎だった。彼があんな風に微笑むのを、果たして高校時代に見たことがあったろうか。否。彼は、沙代子さんを好いているのだろうか。彼は明らかに、沙代子さんに心を許している。僅か三年ほどの付き合いだが、今まで僕以外の人間に対して、彼のそんな様子を見たことはない。沙代子さんはどうなのだろう。小野崎を好いているのだろうか。同じ家にあって共に過ごす時間は長いのだから、二人がそういう仲になっても不思議はない。僕は、甲斐甲斐しく小野崎の世話をする沙代子さんを想像した。僕の作り上げた想像の中で、二人はまるで夫婦のようだった。
胸を掻き毟(むし)られるような感情が湧く。
嗚呼。
嗚呼。
僕はどうしてしまったのだろう。
小野崎が羨ましいのか。否、そんなものともまた違う。苛立ち?嫉妬?
妬ましいと思っているのか?
僕が小野崎を?
唯一無二の親友を?
あり得ないはずの感情に僕は僅かに恐れ慄(おのの)く。僕が小野崎を妬ましいなどと、思う筈がない。そんなことなどありはしない。決して。嗚呼、それだのに、この感情は何だと云うのだ。打ち消しても打ち消しても、浜に寄せる波のように僕の胸に絶える間もなく押し寄せる。僕はこの名付け難い感情を抑え込む事に、自身の精神力の殆どを費やした。



 その年の大晦日の晩、沙代子さんの誘いで、僕らは三人で連れだって神社に初詣に出掛けた。さして大きな神社でもなかったが、辿り着いた頃には零時をわずかに過ぎていて、それなりに混み合っていた。
 沙代子さんは牡丹の描かれた白と薄紅色の着物を着て、ほんのり薄く化粧をしていた。冬の夜に冷えていく身体とは対照的に、僕の心は高揚していた。提灯が赤々と照らす参道を、参拝客の列は緩やかに進んで行く。いよいよ僕らの番になり、それぞれ賽銭を投げると、真ん中にいた沙代子さんが鈴を鳴らした。二拍手一拝し目を閉じる。軽く手を合わせて頃合いだろうと思い隣を見ると、沙代子さんも小野崎もまだ手を合わせ目を閉じていた。ふたりがほぼ同時に目を開くと、僕もつい今しがた目を開けたような顔をして、参拝の列から外れるよう促した。
「ねえ、御神籤(おみくじ)引いてみませんか?」
沙代子さんがはしゃいで云う。僕らは社務所に立ち寄って籤を引き、各々の番号の籤紙を巫女の女性から受け取った。
「まあ、私大吉だわ。『縁談 よろずよろしい。良縁身近にあり。』ですって。」
満面の笑みで喜んだ。
「俺は吉だ。『試験 合格する。先輩の考へを聞きなさい。』か。」
小野崎も結果に満足そうだった。反面僕は…。
「ははは、僕は凶だ。『願望 油断が大穴となる。慎重に当たれ。病気 不注意から重くなる。注意。』だそうだ。」
二人には良い結果が書かれているのに、僕だけ・・・。苦笑いしか出ない。そんな僕を見て沙代子さんも気不味(きまず)そうな顔をした。僕はそれほど悲痛な顔をしていたのだろうか。
「どれ。」
小野崎は、僕の手からすっと御神籤の紙を取ると、代わりにと云わんばかりに自分のを差し出してきた。僕らは互いの結果を読む。

「願望 協力を受けなさい 解決する
 交際 寛大に旧交を温めなさい
 縁談 友の助言を容れよ 忘我は失敗の素
 産児 女児 安産で予定通り
 事業 生産に従へば可 助言を容れなさい
 試験 合格する。先輩の考へを聞きなさい
 病気 夏は軽い。冬は稀に長引く
 転居 時を待てば、よい家あり」

紙には、これと云って悪いことは書かれていなかった。小野崎は何も言わず、僕が引いた籤を、他と同じように結び付けた。僕は彼へ紙を返そうと差し出した。ところが小野崎はそれを受け取らなかった。
「それはお前が持っているといい。」
彼は何事もないかのようにさらっとそう云った。
「そうですね。正臣さんだったら、凶のほうが恐れをなして逃げ出しそうですもの。」
沙代子さんもおどけて茶々を入れる。結果的に、僕は籤を小野崎と交換した事になる。彼の行動ひとつで、気不味い空気は一掃された。僕は改めて、彼と云う人間をまざまざと見せつけられたのだった。そして人としての格の違いを。劣等感が胸を占める。そんな僕の思いをよそに、僕たちは再び社務所の前に戻った。
「あ、これ、可愛い・・・。」
沙代子さんが見ていたのは、ウサギを象(かたど)ったお守りだった。彼女がそれを手に取ろうとしたとき、さりげない仕草で小野崎はそれを先に取った。
「すいません、これお願いします。」
巫女の女性に云ってそれを買うと、沙代子さんに渡した。
「え?そんな、いいんですか?」
「いつも世話になっているせめてものお礼だから。」
「ありがとうございますっ。」
沙代子さんは満面の笑顔を浮かべ、本当に嬉しそうだった。それを眺める小野崎の眼差しもとても優しげで…。
「…冷えてきたし、そろそろ帰ろうか。」
僕は、寒くて堪らないという態で手を擦り合わせてそう云った。正直、面白くなかった。彼らが意図してそうしたわけではないが、僕は何とはなしに疎外感を感じていた。自分が水を差すような真似をしているというのは、自分が一番わかっている。それでも僕は、二人を傍観するにはあまりに惨めで、いたたまれなかった。
「そうだ、甘酒いただいて帰りましょ。きっと温まりますよ。貰って来ますね。」
急ぎ足で歩く沙代子さんの後姿を見ながら、僕らもそのあとを追って歩いた。
「最近はどうなんだ?執筆活動のほうは。芥川賞に応募するんだろう?」
歩きながら、彼は尋ねた。
「前に書いていたものは、なんだか納得がいかなくてやめてしまった。また一から書き直しさ。君のほうこそ、どうなんだ?こないだの、何と言ったかな。」
「『崖の上の華』か?」
彼の書いていたそれは、身分の高い娘と闇市で生計を立てる男の恋物語だった。
「ああ、それだ。なかなか読みごたえのあるいい作品じゃないか。応募すればいいのに。」
僕は彼の文才を崇めながら、自分の才の無さを痛感していた。僕より遙かにあとから文学を齧(かじ)ったのに、彼には明らかに才能と云うものがあった。しかし、彼はこれまで何かしらの賞にも応募する事はなかった。
「俺が書いてるのは賞などに応募するような出来のいいものじゃないさ。ほんの道楽だ。」
彼はさらっとそう云って退ける。嗚呼、これなのだ。彼のこういう態度が、時々僕を苛立たせる。はっきり云って寶の持ち腐れと云うものだ。もし僕に彼のような才能があったなら、僕は惜しみなくそれを世に見せ示しただろう。彼の無欲さには甚だ苛立ちを禁じ得ない。
 そんな僕の気持ちを余所に、僕らは甘酒の給仕所の前に着く。列には六人程並んでいて、沙代子さんは丁度その先頭だった。
「すいません、三人分お願いします。」
「はい。お勤めご苦労様でした。」
自治会の婦人部の女性たちが数人で給仕にあたっていた。沙代子さんは先に注がれたひとり分を受け取ると、それを僕に渡した。次いで二人分を受け取り、ひとつを小野崎に渡す。僕らは指先を温めながら、甘酒をすすった。


 沙代子さんや小野崎と別れひとり歩きながら、僕はふと思い返していた。今ではすっかり当たり前になっていて気付かなかったが、小野崎を訪ねた時、沙代子さんはいつもまず僕にお茶を差し出していた。小野崎より僕のほうが優先順位が上という事ではないのだろうか。そうだ、それに、僕が小野崎を尋ねると、沙代子さんもよく一緒に話し込んでいた。それは僕が居るからなのでは。
『またいらしてくださいね。』
初めて逢った日、そう云った彼女は嬉しそうに笑っていた。あれは、僕を好いてくれての事なのではないだろうか。そう思うと、先程のもやついた感情は何処へやら、途端に僕の心は高揚し始めた。そして僕には、ここで改めて認めなければならない事がある。

僕は沙代子さんを好いている。

 しかしどうしたものだろう。僕はこれまで、そういった感情を持ったことがない。つまり、何をどうしたらよいのか全くと云っていい程わからないのだ。沙代子さんに包み隠さず気持ちを伝えればいいと云うものでもないし、それ以前に、果たして僕にそんな勇気があるのかどうかさえ疑わしい。小野崎に相談するべきだろうか。しかし、小野崎の気持ちがわからない今、安直な行動は避けるべきだ。

小野崎が沙代子さんをどう思っているのか。これは重要な事だ。

 僕の脳裏に、あるふたつの事が蘇った。
 ひとつはあの万年筆だ。以前彼はそれを、下宿している家の人に貰った、と云った。つまりそれは、沙代子さんに貰った、という事だ。それを云った時の、万年筆を見つめる彼の眼差し。まるで宝物を見つめるような。
 もうひとつは、彼の書いていた「崖の上の華」。あれは、沙代子さんと自分を摸して書かれたものではないだろうか。

間違いない。小野崎は、沙代子さんを好いているのだ。

 小野崎はもう、沙代子さんに想いを伝えたのだろうか。同じ家に暮らしているのだ。その機会は僕よりはるかに多くあるだろう。とすれば、もう既に伝えたか。
・・・。
不意に浮かんだ疑念を慌てて掻き消す。
 僕が小野崎を親友と思っているように、きっと小野崎も僕を親友と思ってくれている筈。ならば、沙代子さんに想いを寄せているなら僕に打ち明けてくれるだろう。だとするとやはりまだ伝えていないのか。しかしこの仮定を確信へ変えるにはまだ心許無い。彼にそれとなく聞いてみるべきだろうか。それとも自分の想いを洗い浚(ざら)い露呈して、彼の出方を窺(うかが)うべきだろうか。いずれにせよ、慎重に考えて行動しなければならない。僕はつまり、臆病者なのだ。小野崎を友として信じる勇気も、自分の気持ちを露呈する勇気もない。僕はそれを恥じた。そしてその勇気の無さを知られぬように、僕はそれまでと変わらぬ態度で小野崎に接するように努めた。彼に先を越されるのではないか、と云う恐怖にも似た思いを抱きながら。

この小説について

タイトル 君を想ふ故に 〜石渡編〜
初版 2013年7月5日
改訂 2013年8月4日
小説ID 4522
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熟練
作家名 ★佐伯 諒
作家ID 824
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