若葉の行方 - 『忘れ得ぬ裏切りの罪〜石渡編』『唇と涙〜沙代子編』『君を想へども〜小野崎編』『朝〜沙代子編』 合併章

僕は、この日の事を生涯忘れることはないだろう。

 「石渡、今日、講義のあと予定は空いているか?」
彼がそう言ってきたのは、ようやく梅が咲き始めた二月始めの事だった。次の講義の準備をしていた僕に声を掛けてきたのだ。
「ああ。空いているよ。」
「少し相談したい事があるんだ。」
彼の父との確執が勘当という形で落ち着いてからは、彼が僕に相談してくるのは珍しいことだった。
「何かあったのかい?」
思い返せば、昨日一昨日と、彼は何か思い詰めた様子だった。
「・・・詳しい事はあとで話す。」
「わかった。じゃあ、講義が終わったら君のとこに行くよ。」
「いや、今日も補修を受けていくから、終わるのが少し遅くなるんだ。それと出来れば外で話したい。そうだな、こないだ行った、大学の近くの喫茶店で七時に待ち合わせるのは?」
「ああ、構わないよ。」
そして僕らは待ち合わせをすることにした。

 僕は考えていた。小野崎は七時までは確実に帰ってこない。それにその頃には沙代子さんも和菓子屋での仕事を終えて帰ってきている筈。これは沙代子さんと二人きりになるいい機会ではないか、と。もしも僕のこの想いを沙代子さんに打ち明けるとしたら、今日しかない。自分がどれ程卑怯で卑劣な事をしようとしているかはわかっているし、小野崎の相談事も気にならないと云えば嘘になる。しかし僕はこの千載一遇の機会を逃したくないと云う思念に囚われていた。

 そのあとの講義は、全く上の空だった。とても長く感じた。僕は時間を見計らって沙代子さんの家に向かった。まるでこれから犯行を実行しようとする殺人犯のような、云い知れない緊張感を感じながら。夕暮れの中、玄関の前に立ち戸を軽く叩いた。すぐに沙代子さんの声が聞こえ、戸が開く。
「あら、石渡さん。」
彼女ははにかんで笑顔を見せた。
「こんばんは。小野崎は居ますか?」
答えのわかりきった問いを口にする。
「いえ、まだ帰ってませんが。」
この時、もしも僕に世の善悪を問う者があったなら、僕はそそくさと引き返していただろう。だが。
「そうですか。暫く待たせていただいてもいいですか?相談事があると云われていたので。」
人は完全な嘘をつくことができないと聞いたことがある。嘘の中にも必ず真実を含ませると。僕もまた例外ではなかった。
「ええ、どうぞ。」
彼女は戸惑いながらも僕を家へ上げた。初めて此処を訪れた時のように、僕の前を歩き二階へ昇る。木の軋む音がした。僕はふと、彼の云っていた相談事が気になった。
「沙代子さんは」
僕がそう云いかけると、彼女は階段を昇る足を止めて振り返った。
「相談事について何か心当たりはありますか。」
「さ、さあ。私は何も。」
沙代子さんはそれだけ云って、また前に向き直り階段を昇り始めた。
 「今ストーブ着けますね。」
襖を開け、いつもの殺風景な部屋に入ると、沙代子さんはストーブを着けた。すぐに石英管が赤々と照る。至極喉が渇いていた。緊張の所為(せい)かも知れない。気付けば外套を脱ぐ事さえ忘れていた。
「沙代子さん。」
声が上ずる
「はい。」
彼女が振り向いた。愛らしい瞳に僕の顔を映す。
「沙代子さんは、今好いている人はいますか?」
「え?」
沙代子さんは突然のことに少し驚いているようだった。僕はゴクリと生唾を飲み込んだ。頭の中をどくどくと血が駆け巡るのを感じる。
「僕は、初めて出会った日から、貴女のことばかり考えて」
僕を見つめる瞳が、大きく見開かれる。窓が、風に吹かれてカタカタと鳴った。
「沙代子さん、どうか答えてください。貴女は、僕をどう思っていますか。」
我を忘れて、沙代子さんの肩を掴む。チリン、と小さな鈴の音がして、小野崎が買ったあのお守りが床に落ちた。
「石渡さん・・・。」
困惑と僅かな怯えの表情を浮かべて、沙代子さんは後ずさろうとする。しかし僕は自分の行動に引っ込みがつかなくなっていた。さらに詰め寄る。
「どうか、どうか答えてください!沙代子さん!」
思わず、手に力がこもる。体の熱が、理性を燃やしていく。沙代子さんを抱きしめ、その柔らかく瑞々しい唇に己が唇を押しつけ重ねる。嗚呼。僕の心はこの上もない幸福感で満たされていく。心臓がどくどくと脈打ち、体中の血液が激しく脳の中を駆け抜けていく。声にならぬ声で沙代子さんは叫んだ。僕の腕を振り解(ほど)こうと必死にもがく彼女を、さらに強く抱き寄せる。

沙代子さんが欲しい。
沙代子さんの全てが欲しい。

その時、階下から玄関の硝子戸が開く音が聞こえた。それに冷静さを取り戻した僕は、慌てて沙代子さんから手を離した。やや急ぎ足で階段を昇ってくる音。「血の気が引く」というものを身を持って知り、僕は恐怖に慄いた。
「石渡・・・。」
振り返ると、少し驚いたような表情の小野崎が居た。三人の間に、微妙な静寂が訪れる。
「やあ。・・・喫茶店で待っていたけれど、なかなか来なかったから寄ってみたんだ。」
僕は沈黙を破り、必死に嘘をついた。
「・・・そうか。」
小野崎は沙代子さんと僕を交互に見る。
「石渡、ちょっと外に出ないか?」
「・・・ああ。」
けれど小野崎は動かない。小野崎の視線に促され、僕は先に部屋を出た。

 後から来た小野崎と、暫くお互い無言のまま歩き続けた。ただ事ではない雰囲気に、きっと小野崎は気付いていただろう。或いは、沙代子さんが云ったかもしれない。
小野崎が何を察し、何を思い、それをどう口にするか、僕は裁きを待つ罪人のような思いで待っていた。
 すっかり日は暮れていて、肌寒かった。やがて、小さな公園に辿り着いた。満月の光を受けて、咲きかけの白い梅が夜の帳に淡く浮かんでいた。甘い香りが漂う。どちらからともなく椅子に腰かけた。ようやく小野崎は、口を開いた。
「・・・沙代子さんと何かあったのか?」
静かな口調で、顔を僅かに僕のほうへ向け尋ねる。表情からも口調からも、何も読み取れない。沙代子さんが小野崎に何も告げなかったのであろうことを安堵した。けれど同時に、云ってしまいたいという欲求が頭をもたげる。それはきっと、小野崎にとって大きな打撃となるはずである。
 嗚呼、もし神という存在が本当に居るなら、僕は懺悔しよう。この時の僕は、この世で最も卑劣な人間であると。例えそれが許されざる罪だとわかっていても。
「・・・沙代子さんに、好いていると伝えた。」
小野崎は黙って聞いている。僕の声は震えていた。舌に草が生えたように至極喋りづらい。
「沙代子さんも、僕を好いてくれている。」
再びの沈黙。そして。
「・・・そうか。よかったな。」
大きく息を吸い込む。冷たい空気を吸い込んでもなお、冷めやらぬ火照った体。昂ぶる感情。あの感触が甦る。
「沙代子さんと、口付けをした。」
一瞬の間。そして小野崎は、僕の外套の襟元を掴みあげた。この時の彼の表情がどんなものだったか、僕は覚えていない。いや、無意識のうちに記憶から消しているのかも知れない。彼の拳が、今にも僕に殴りかからんとするかのように震えている。それで彼の気が済むなら、僕は甘んじて彼の拳をこの身に受けよう。そして、僕は彼に対して決定的な言葉を投げかけた。
「僕だったら、苦労のない生活をさせてやれる。彼女を幸せにできる。」
不意に訪れる静寂。彼はそのまま、襟元を掴む手を離した。彼を打ちのめそうとするほどの言葉をぶつけたのは、きっと不安だったからなのだろう。沙代子さんのことを、諦めさせたかったからに他ならない。
「沙代子さんを、本当に好いているのか。」
低いくぐもった声で、呟くように小野崎が云う。
「ああ。誰にも渡したくないほど。」
嘘偽りのない本心を、僕も述べた。
「・・・そうか。」
そんな僕らを、この景色を、包み込むように月が照らす。夜風が、梅の香りをあたりに漂わせる。僕にはあまりに美しすぎて、ただただ震えていた。





 僕は彼を出し抜いた。優越感からくる憐みの心が、彼の云っていた「相談したい事」を思い出させる。つまりのところ何だったのだろう。翌日気になって聞いてはみたが、「もう相談する必要がなくなった」と云っただけで、話はそれきりになってしまった。僕は、それがなんだったのか知る術もないままでいるよりほかなかった。





      ◇     ◇     ◇





 石渡が部屋を出ると、沙代子は力が抜けたように壁に寄り掛かった。
「沙代子さん・・・?」
正臣の声が、柔らかく通り過ぎていく。顔を見なくてもわかる。きっと、心配そうに自分のことを見つめているだろう。沙代子は呆然としながらも、必死に言葉を探す。何か言わなくちゃ・・・。
「・・・いえ、大丈夫です。今日は仕事が忙しかったから、ちょっと疲れてるだけです。」
床に落ちたお守りを拾う。
「私のことは気にせず、どうぞ行ってきてください。」
顔を正臣に向け、精一杯笑って見せる。それでも正臣は沙代子を心配そうに見つめている。
その視線が痛い。今の自分を、正臣に見られたくない。
「さあ、早く。石渡さん、待ってますよ。」
沙代子に促され、正臣はようやく部屋を出て行った。階段を下りていく足音。玄関の戸が開き、再び閉まる。窓から街灯の明かりに浮かぶ二人の背中を見送ると、沙代子は壁に背を預けたまま座り込んだ。

さっきのあれは、何?なぜ石渡さんはあんなことを・・・。
嫌。
嫌っ。
嫌っ!。

 唇を重ねた感触が消えない。自分の唇なのに、そうでなくなったような違和感。それを拭い去ろうと何度も唇を手の甲で擦(こす)る。涙が溢れてくる。
 ふと、我に返って強迫観念にかられる。石渡は正臣にこのことを云いやしないだろうかと。

知られたくない。
決して。
何があっても。
どうしよう。
どうしよう。
もし知られたら、
こんなことを軽々しくする女だと
きっと嫌われてしまう・・・。

 そんな思いが、心を浸食していく。恐怖。焦燥感。悲しみ。戸惑い。不安という闇の中を、沙代子は彷徨いもがく。そのままどのくらいの時間が過ぎただろう。と、その時再び戸の開く音がして、正臣が階段を上ってきた。
「正臣さん・・・。」
正臣の表情は暗かったが、沙代子の顔を見てはっとした。
「泣いて・・・た・・・?」
沙代子は下唇をかみしめた。正臣に云われて初めて、自分が泣いていたことに気付く。このまま泣いて正臣にすがりつくことができたらどれほどいいだろう。正臣の唇でこの違和感を消し去ってもらえたらどれほどいいだろう。けど、そうしたくはなかった。正臣への想いまで、踏みにじられたくはなかった。正臣は静かに隣に座り、そっと沙代子の髪を撫でた。その手が、とても優しくて、優しくて、思わずまた泣き出しそうになった。
「泣きたい時は、泣けばいい。」
その言葉に、沙代子は再び泣き始めた。幼い子供のように。正臣は静かに沙代子の髪を撫で続けた。





    ◇      ◇      ◇





 沙代子は泣いていた。正臣は、ただ手を握りながら髪を撫でてやることしかできなかった。やがて泣き疲れたのか沙代子は眠ってしまい、正臣は起こさぬようそっと横にならせた。今夜も寒くなりそうだ。布団をかけてやろうと思い、握っていた手を離そうとした。すると、それを拒むかのように沙代子の手に力がこもる。起こしてしまったのかと思ったがそうではなかった。手を解き、押入れから出した布団をそっとかけてやる。また手を握ってやると、しがみつくように握り返してきた。安心したように眠る顔。その頬に残る涙の跡を、そっと拭う。そして、改めて思う。

やはり自分は、沙代子のことを好いている、と。

 沙代子を守りたい。誰にも渡したくない。できることなら、死が二人を別つまで、共にありたいと思う。

けれど、沙代子の幸せを第一に考えるなら・・・・・・・。

もちろん石渡の取った行動は許せることではない。先の公園でも、本当なら殴ってやりたいところだった。しかし石渡の云うことも、事実である。

『僕だったら、苦労のない生活をさせてやれる。彼女を幸せにできる。』

石渡の言葉が、脳裏を過(よ)ぎる。自分の無力さを思い知らされる。



 俺には、沙代を幸せにする力など、微塵もない。





     ◇     ◇     ◇





カーテンから漏れる朝日の眩しさに、沙代子は目を覚ました。

あれ?ここは・・・。

 天井の造りは同じだが、自分の部屋ではない。自分のすぐ隣には、正臣が座ったまま眠っていた。正臣の手を握ったままでいることに気付き、慌てて離す。早くなる鼓動を落ち着かせながら、昨日の記憶を手繰り寄せた。

 そうだ、昨日は・・・。

思い出したくもないことを、何よりも先に思い出してしまった。

正臣さんは、あれからずっと傍にいてくれたの・・・?

 きっと、とても心配をかけてしまったに違いない。申し訳ない気持ちが胸を締め付ける。
 正臣を起こさぬよう体を横たえ、自分に掛かっていた布団を掛ける。沙代子には記憶にないが、その仕草は昨夜の正臣とまったくと云っていいほど同じだった。

 沙代子はそっと部屋を出て、台所に立つ。米を研ぎ水と一緒に釜に入れ火にかける。秋刀魚を二匹、魚焼き網にはさみ、これも火にかける。長ねぎを刻み、豆腐を角切りにする。魚が焼きあがるのを待ってから水の入った鍋を火にかけ、沸騰したところで煮干しを入れる。出汁(だし)が出来上がったらまずねぎを入れ、頃合いを見て豆腐も入れる。煮干しを取り除いてから、味噌は味が濃くならないように気をつけながら少しずつ入れた。
 そろそろ盛りつけようかという時、階段を下りてくる足音がした。正臣が起きたのだろう。
「おはようございます。」
振り返って、笑顔で明るく声をかける。
「・・・おはよう。」
まだ寝惚けているような、少し驚いているような、正臣の声。表情。
「もうすぐ朝ごはんできますよ。すぐ運びますね。」
沙代子のいつもと変わらぬ様子に安心したのか、
「ああ。」
正臣も、ふっと微笑む。
「・・・昨夜は、ごめんなさい。寒かったでしょう?あたし、いつのまにか眠ってしまって・・・。」
「気にしなくていい。何ともないから。」
これまでと変わらぬ、いつも通りの朝だった。

この小説について

タイトル 『忘れ得ぬ裏切りの罪〜石渡編』『唇と涙〜沙代子編』『君を想へども〜小野崎編』『朝〜沙代子編』 合併章
初版 2013年7月5日
改訂 2013年8月4日
小説ID 4523
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佐伯 諒の写真
熟練
作家名 ★佐伯 諒
作家ID 824
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