若葉の行方 - 『晴れた日に〜石渡編』『友のためにできること〜石渡編』合併章

 それから間もなく、彼は頻繁に体調を崩すようになり、念のため病院で検査を受けることになった。僕が彼にその結果を打ち明けられたのは、雨上がりのよく晴れた日だった。彼に誘われ、僕らは上野恩寵公園を、不忍池(しのばずいけ)に沿って歩いていた。
「この間、検査の結果を聞いてきた。」
空を仰ぎながら、彼はのんびり歩く。
「そうか、どうだったんだ?」
僕の言葉に立ち止まる。この時彼の眼に、この青空はどう映っていたのだろう。
「結核だそうだ。あと一年もつかどうか。」
日差しはあたたかいのに、僕は背筋に冷たいものを感じた。まるで刃物を突き付けられたような。頭の中が真っ白になった。
彼が、小野崎が、結核?
「ここに、巣食っているらしい。」
僕のほうを向き、外套の上からトントンと自分の胸を指差す。
「念のため沙代子さんにも検査を受けてもらったら、幸い彼女には伝染(うつ)ってはいなかった。」
複雑な心境の中で、僕はその言葉に安堵した。
「『事実は小説より奇なり』とは云うが、可笑(おか)しなものだな。自分が結核になると考えたことなど微塵もなかった。」
彼は微笑んでいた。まるで何気ない世間話を楽しむように。なぜ、こんなにあっけらかんとしていられるのだろう。
「・・・随分冷静なんだな。」
周囲からは、話を聞いている僕のほうがよほど暗く沈んで見えたことだろう。
「まだ自分でも実感がないだけさ。今こうして話しているのでさえ、まるで他人の事を話しているような気分だ。」
そういうものなのだろうか。僕には、彼が特別強い精神力を持っていて、その精神力故にこうして平静でいられるのだとしか思えない。
「それと・・・2、3日中に、あの家を出ようと思う。」
彼の真剣な眼差しが僕を捉える。
「え?」
予想もしなかった言葉に、僕はわが耳を疑った。あまりにも急な話ではないか。
「こんな厄介なものを沙代子さんに伝染(うつ)しては大変だ。それに、沙代子さんとお前が想い合う仲になった今、俺がいつまでもあの家に居るわけにもいくまい。」
その言葉に、鼓動が速くなるのを感じた。頭の中でもう一人の自分が僕を非難する。
「家を出てどうするんだ?」
彼は再び空を仰いで歩き始めた。
「それは何も決めてないが、どうにかなるさ。」
僕もそのあとを追う。
「小野崎、君の父君は腕のいい医者だ。勘当を解いて貰って治療すれば或いは」
池の水面が風に揺れ、日差しを受けて煌めいた。
「それは無理だろう。俺もそうだが、父もかなりの頑固者だからな。」
僕の言葉を遮って、彼は淡々と言葉を放つ。僕らとは対照的な、幸せそうな家族連れが僕らの横を通り過ぎすれ違う。幼い少女は父親に抱きかかえられ、その兄らしい少年は何かを見つけたのか、笑顔で母の手を引き走りだそうとしている。ふたりして振り返り、その家族を眺めた。少年は母の手を離しさらに走るが、何かにつまずいたのか転倒してしまった。母親は駆け寄り少年を抱き起した。我慢していたらしい涙が少年の目に溢れる。僕らは再び歩き出した。
「沙代子さんにはもう?」
彼は小さくかぶりを振った。
「黙って出ていくつもりでいる。お前も、沙代子さんには云わないでほしい。」
「・・・。」
それで、いいのだろうか。彼女は何も知らないままで、いいのだろうか。素直に返事を出来ずにいると、彼は僕をじっと見つめた。
「約束してくれ。」
「・・・ああ、わかった。」
彼に反論の意を述べることもできず、僕はただ頷いた。そして。
「もし嫌じゃなかったら、当面の凌ぎとして、僕の家へ身を寄せるというのはどうだろう。」
突拍子もなく浮かんだ考えを口にした。小野崎は少し驚いた顔をして、
「突然に転がりこんだりしたら、迷惑だろう。」
遠慮がちに云う。
「気にすることないさ。君がその気になったらいつでも来るといい。」
暫く悩んだ様子だったが、小野崎は僕の申し出を受けることにした。





     ◇     ◇     ◇





 それから数日後のことだった。僕の家へ向かう道中で小野崎は倒れ、病院に運び込まれた。幸いそれ程重い症状ではなかったらしいが、彼はそのまま入院することになった。



 彼は、このままでいいのだろうか。沙代子さんとの事も、彼の父との事も。

 彼の父とは、高校生時代に何度か会ったことがある。小野崎が文学に進むことを決心する以前の頃で、その当時の親子関係の印象としてはお互いどことなく他人行儀のように感じた。

 小野崎の父に、会いに行ってみようか。

 会いに行ってどうするかというようなことは、あまり考えが及ばなかった。ただ無性に、彼に対して何か役に立ちたいと思った。それはもしかしたら親友としての友情からくるものであったかもしれないし、或いは犯した罪の償いからくるものであったかもしれない。



 日曜日の午後。やわらかい日差しの中、僕は門の前に立った。沙代子さんを訪ねたあの日とはまた違う緊張感があった。
「ごめんください。」
腹の底から声を出す。果たして、誰かの耳に届いただろうか。雀の鳴き声が聞こえた。
「はーい。」
若草色の着物を着た、中年の女中が門を開けた。
「どちら様でございましょう。」
鬢に僅かな白髪が見えた。
「正臣君の友人の、小野崎と申します。」
「・・・正臣坊ちゃまは家におりませんが。」
視線に戸惑いの色を滲ませる。
「あの、それは存じています。今日は、正臣君の父上にお話したいことがございまして・・・。」
身を竦ませ、しどろもどろにそう告げるのが精一杯だった。
「はあ。左様でございますか。では、中で少々お待ち下さいませ。」
ようやく門をくぐることを許され、僕は客間に通された。
 中庭に面した八畳ほどの和室は、床の間に椿などをあつらえた生け花が飾られており、中央には舶来物らしいテーブルが置かれていた。畳のい草の香りが心地良い。そのまま、四半刻ばかり待っただろうか。
先程の女中が足音静やかに廊下を歩いてやってきた。部屋の前まで来ると正座して一礼する。
「旦那様にお伝えいたしましたが、『縁の切れた息子は死んだも同じ。その友人に会う義理もない。』と申しておりますゆえ、どうぞこのままお引き取り下さいませ。」
・・・・・・。
膝に置いた握り拳が震えた。僕はそのまま部屋を出た。どたどたと、怒りにまかせて廊下を歩く。
「小野崎さん!小野崎さん!どちらにいらっしゃるんですか!話だけでも聞いてください!」
屋敷の中を歩き回った。女中が慌てて後を追ってくる。だがそんなことは構いやしない。屋敷の奥まで来ると、書斎らしい部屋に行きついた。勢いよく扉を引くとそこには探していたその人が机の向こうの椅子に座っていた。
「この強情な馬鹿親子が!まさに『この親にしてこの子あり』だ!お互い意地を張ってないで、いい加減和解しろよ!勘当が何だって云うんだ!そんなもの糞喰らえ!だって、たった二人の親子でしょう!」
一気に捲し立て、大きく息を吸った。気付くと、僕は泣いていた。
「君は確か・・・。」
呆気にとられた様子のまま、小野崎氏はつぶやいた。
「・・・。」
我に返った僕は、一気に顔が青ざめていくのを感じた。袖で瞼を擦り、涙を拭う。
「・・・正臣君の友人の石渡です。突然の無礼をお許しください。」
全くその通りだ、と我ながらに思う。
「・・・入りたまえ。」
落ち着きを取り戻して、小野崎氏は静かに云った。入室を促され、僕はおずおずと部屋へ入った。蛇に睨まれた蛙のような気分だ。こうして近くで見ると、やはり小野崎と似ている。特に目元が。きっと彼が年を重ねたら今の小野崎氏のような風貌になるのではないだろうか。
「正臣の友人の君が、私に何の用だね。」
 僕は、全てを告げた。彼の所在。これまでの生活ぶり。そして病のこと。
 彼が沙代子さんの家に身を寄せていたことを、小野崎氏は知っていた。というのも、沙代子さんが小野崎に下宿を申し出たのは、小野崎氏からそう頼まれてのことだったのだ。小野崎には内密に、僅かばかりの仕送りもしていた。
「病状は?」
目を見張るようにして尋ねる小野崎氏。まさしく、子を案じる父の顔だった。
「十一月頃に体調を崩し、本人も周囲も最初は風邪かと思っていたのですが、今にして思えば、それが症状の始まりだったのかもしれません。五日前に倒れ、今は神田にある病院に入院しています。」
「そうか・・・。」
僕は病院名を告げ、是非会いに行ってほしいと頼み、屋敷を後にした。



 数日後、病院に彼を見舞うと、彼は個室のベッドに腰かけ、万年筆を眺めていた。あの銀色の万年筆だ。何となく声をかける事が躊躇われ、僕は開け放たれたままの扉を軽く叩いた。その音に気付いた小野崎は、一瞬驚いた顔をしたものの、何事もないかのようにその万年筆を傍らの引出しにしまった。

やはり彼は沙代子さんを・・・。

 病室に入る僕を、少し熱っぽい顔で迎える。
「やあ。」
彼は力なく微笑む。僅かに掠れた声。僕は持ってきた林檎を棚に置いた。
「・・・思ったより元気そうじゃないか。その様子なら全快するのも早そうだな。」
僕は精一杯の嘘をついた。容体が思わしくないのは一目瞭然だった。窓の外には柔らかな日差しが溢れ、小春日和の中を雀が鳴いていた。とても穏やかな日だった。
「そうだな。」
そう云って彼はまた微笑んだ。
「昨日、父が見舞いに来た。お前に説教されたと云っていた。『強情な馬鹿親子』って。」
小野崎はさも可笑しそうに笑って目を細める。僕は恥ずかしさに俯いた。
「・・・余計な事かとも思ったけれど、やはりこのままでいるのもよくないと思って。でも、そうか、来てくれたのか。」
「ああ。お前によろしく伝えてくれと云っていた。大学に入って以来だから、もう三年ぶりくらいだな。少し白髪が増えていた。」
彼は昨日見た父の顔を思い出すかのように、虚空を見つめた。
「三年も経てば年もとるだろう。それで、勘当は解いて貰えたのか?」
「ああ。・・・生きているうちに蟠(わだかま)りが解けてよかった。石渡、お前のおかげだ。」
僕ははっとして彼の顔を見つめる。
「生きているうちに、だなんて縁起でもない。そんな事云うもんじゃない。」
小野崎はただ微笑むだけだった。最近、彼のこんな笑顔をよく目にする。
「石渡、面倒ついでに、ひとつ頼まれてくれないか?」
「何だい?」
彼の言葉に内心、少し怯えた。沙代子さんとの事についてではないか、と。
「何処か遠い静かな田舎で、適当な下宿先を探してほしいんだ。そうだな、出来れば海の近くがいい。沙代子さんや父には内密に。」
「なんで。田舎に行くより此処のほうが病院も設備がいいじゃないか。ようやく勘当も解けたのに。」
「・・・いいんだ。どの道、治る見込みがないのは分かっている。それとお前には云っていなかったが、俺の母も結核で死んだんだ。あの時、俺より辛かったのは、きっと父だったに違いない。だから・・・」
彼の心中は、僕には到底計り知れないものだった。
「石渡・・・頼まれてくれるか?」
彼の頼みを断るなど、果たして僕に出来ただろうか、否。
「・・・わかった。探してみよう。」

 僕は彼の病状と希望について兄に打ち明け相談した。「できればいざという時受け入れてくれる病院の近く」という僕の意見も含めて。兄は僕が相談を持ちかけてきた事を珍しがりながらも知り合いや友人に
心当たりがないか掛けあってくれた。皮肉なものだ。親友の病を契機に兄弟の絆が深まるとは。
 その二日後に、兄の友人の母の実家だと云うところを紹介された。
 それは千葉の太平洋を臨むところにあり、さらにそこは小さいながらも診療所をやっている家だった。早々に彼に伝えると、彼は静かに喜んだ。すぐにでも移りたいと云う彼の意を汲んで、相談を受けてから一週間後には全ての段取りを整える事が出来た。

この小説について

タイトル 『晴れた日に〜石渡編』『友のためにできること〜石渡編』合併章
初版 2013年7月5日
改訂 2013年8月4日
小説ID 4525
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熟練
作家名 ★佐伯 諒
作家ID 824
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