若葉の行方 - 『疑心〜石渡編』『さよならの言葉〜沙代子編』合併章

沙代子さんとは、あの一件以来会っていない。余程、小野崎の所在を知らせようかとも迷った。彼の現状も。あの人はどんな思いでいるだろう。

 入院から二週間余り。小野崎を訪ねようとした時、扉の閉まった彼の病室の中から、あの人の声が聞こえるではないか。僕が口外していないことはもとより、小野崎も外部と連絡を取れる状況にはなかった。沙代子さんは、自力でここを探し当てたということか。
 僕は入室を躊躇い、はしたないと思いながらも聞き耳を立てていた。しんと静まり返った夕暮れの廊下に、二人の声が微かに響く。
「『今まで有難う。』って、そんなたった一枚の手紙で納得なんてできません。それにあのお金は何なんです?どうか正直に話して下さい。何故何の相談もなしに・・。」
「・・・。」
「・・・私のことが、迷惑だから、ですか。」
「それは違う。」
「じゃあ何故・・・。」
「・・・沙代子さん、俺たちはもう子供じゃないんだ。ここは黙って聞き分けてくれ。」
「・・・嫌です。私、正臣さんについていきます。正臣さんがわかったと云ってくれるまで、私、帰りません。」
沙代子さんが、小野崎と・・・。
突然の宣言に驚いたのは、小野崎だけではなかった。暫く沈黙が続く。
「・・・面会時間を過ぎても見舞客に居座られたんじゃ、看護婦もさぞ困るだろう。・・・わかった。君の好きなようにしてくれ。」
・・・・・・・・・・・・・・・・・。
小野崎は、沙代子さんを連れて行く。そう云う事なのか?僕は、頭の中が真っ白になった。僕は彼らの会話の続きを聞く気力を失い、そのまま病室を離れた。





 小野崎が沙代子さんを連れて行く。
小野崎が沙代子さんを連れて行く。
小野崎が沙代子さんを連れて行く。
嗚呼、彼らはやはり、想い合っていたのか。
僕が入り込む余地など恐らくないのだろう。
僕だってこんなにも、沙代子さんを想っているのに。
道化師のような自分が惨めに思えた。
だが、いいだろう。
それが宿命(さだめ)というのなら。





 千葉へと発つ彼らを、僕は東京駅で見送る事になった。それは傍から見たら三流の喜劇であり、僕自身にとってはあの嘘の贖罪だった。
午前十一時に待ち合わせ、彼らは十一時十二分の電車に乗る手筈になっている。しかし出発の前日になっても、彼から沙代子さんが同行する話は聞かされる事はなかった。当日に僕を驚かせるつもりなのだろうか。
 梅の香りがそこはかとなく感じられる三月初めの某日。空は花曇り。僕が東京駅に着くと小野崎は既に着いていたらしく、薄手の外套を羽織って立っていた。荷物は小さな旅行鞄がひとつだけ。必要最小限という態だった。沙代子さんは未だ来ていないらしい。小野崎は何か考え事をしているのか、いつも以上に口数が少なかった。何処か思いつめたように。そしてただ時間だけが過ぎて行く。まだ沙代子さんは来ない。彼女が来る前に立ち去れるならそうしたかったが、上手い口実が見つからなかった。やがて時計は十一時五分を指示す。そろそろホームに向わなければ、間に合わなくなるだろう。
「そろそろだな。」
僕はぽつりと云った。小野崎の反応を窺う。沙代子さんはまだ来ていなかったが、それを指摘すればあの日二人の会話を立ち聞きしてしまった事が知れてしまう。僕はさりげなく辺りを見回しながらも、素知らぬ顔をした。
「ああ。」
彼は改札口に一歩踏み出した。不意に立ち止まる。
「・・・石渡。」
背を向けたまま、僕を呼んだ。
「・・・?」
僕は彼の言葉の続きを待った。沙代子さんを連れていくことを、ついに打ち明けるのかと思いながら。
「あと一時間程したら、沙代子さんが此処へ来ると思う。一番右の改札口だ。そしたらどうか、家まで送り届けてやってほしい。」
彼が何を云っているのか、僕はすぐには理解出来なかった。
「一体、どういうことなんだ?」
一緒に発つのではなかったのか?
「すまないが、兎に角頼まれてくれ。」
これ以上尋ねる余裕を与えぬ素振り。向こうで落ち着いたら手紙を書くと云い残し、「それじゃ。」と彼は足早に改札を抜けた。一人で。
 僕は訳が分らぬまま、壁に身を委ねて沙代子さんを待った。一時間もあるなら一度出直してもよかったものだが、何となくそうする気にはなれなかった。
 何がどうなっているのだろう。沙代子さんは小野崎と一緒に千葉へ発つのではなかったのか?疑問が頭の中を何度も行き来する。気がつけば、小野崎が云っていた時刻に近くなっていた。誰かを探すようにあたりを見回しながら歩く沙代子さんが見えた。
「石渡さん・・・?」
沙代子さんが僕に気付き、駆け寄ってきた。長い髪を後ろで一つに結び、薄手の白い外套に薄紅色のスカートを履いている。荷物は小野崎と同等の大きさの鞄が二つ。僕は気不味さから言葉が出ず、会釈だけした。彼女もやや視線を反らしながらそれを真似た。
「あの、正臣さんは・・・。」
何処に居るのか、と問いたいのだろう。僕はやや躊躇いながら答えた。
「一時間ほど前に発ちました。僕は彼からあなたを家まで送り届けるように云われました。」
戸惑いを含んだ、茫然とした表情。
「・・・そんな・・・なんで・・・」
彼女はこんな時でも、愛らしかった。
「沙代子さん・・・。」
「石渡さん、後生です。正臣さんの行き先を教えてください。」
僕は彼女の言葉に違和感を覚えた。彼女は、行き先を知らない?
「・・・小野崎から、聞いていないのですか?」
彼女は戸惑いの表情をそのままに頷いた。
「此処で正午に待ち合わせようと、ただそれだけ・・・。」
僕はどうするべきか迷った。彼との約束を守り行き先を教えなければ、恐らく沙代子さんは今後彼に会うのは容易くはないだろう。そうすれば、もしかしたらいつかは僕を・・・。また卑しい考えが頭を擡(もた)げる。
「沙代子さん。小野崎は貴女を置いていった。なのに何故、彼を追いかけるのですか。彼は、もうここにはいない。おそらく、戻ることもないでしょう。沙代子さん。僕と、帰りましょう。僕ならずっと、貴女のそばにいる。貴女をひとりになんかさせない。あの日の事も、申し訳ないことをしたとは思っていますが、後悔はしていない。僕は、貴女を好いているんです。」
戸惑いを露わにした、沙代子さんの表情(かお)。そして。
「私は、あの日の事を許したわけじゃありません。それに貴方と帰るつもりもありません。これが、私の返事です。」
まっすぐな瞳で僕を見つめ、はっきりと、そう云った。僕は無性に笑いたくなった。なんと滑稽な、むさ苦しい、くだらない茶番劇だろう!
「・・・彼は、千葉のとある町に行きました。多分あと二時間程で着くでしょう。」
僕は見事に、愚かな道化師を演じた。チェーホフの『かもめ』に出てくるトレープレフも、こんな三文芝居は書かないだろう。

沙代子さんに小野崎を追わせたくない。けれど、彼女はそれを望んでいる。そしてきっと、本当は小野崎も・・・。彼を、裏切ったままでいたくはない。

二つの思いが胸の内で葛藤する。あたかも自分という人間が二人居るかのように。
「彼を・・・追いかけますか?」
深く頷く彼女に、小野崎のような強い意志を感じた。こうなったら、僕も覚悟を決めねばなるまい。
「わかりました。駅員に電車の時間を訊いてみましょう。」
改札口に立つ駅員に電車の時刻を尋ねると、十二時十九分に出発する列車があるとのことだった。僕は小野崎の新しい下宿先の住所を手帳の切れ端に書き、それを渡して沙代子さんを見送った。

これで良かったのだ。これで。




     ◇     ◇     ◇





沙代子は正臣を追って電車に飛び乗った。胸が高鳴る。気が漫(そぞ)ろに落ち着かない。正臣が向かったという千葉の外れに着いたのは、東京を発ってから二時間半程を過ぎた頃だった。
 小さな木造の駅を出て、地図と「皆川診療所」という名前を頼りに歩き出す。そこは小さな港町だった。商店街を抜けると目の前に海が広がり、波の音と潮の香りが此処まで来たのだと感じさせる。砂浜には波打ち際で遊ぶ家族連れと犬を散歩させる老人。季節外れの海に、人気は殆どなかった。再び歩き出そうとしたその時、何気なく向けた視線の先に、沙代子は探していた人影を見つけた。正臣の姿を。静かに佇み、遠くの水平線を眺めている。沙代子は走り出した。無我夢中で。両手に持った荷物を放り出し、
砂に足を取られ、時折転びそうになる。
「正臣さんっ。」
ようやく辿り着き、後ろから声を掛けた。ゆっくり振り返った正臣は、幻でも見るかのような顔をしていた。

会いたくて会いたくて、たまらずに追いかけてきたその人が、今目の前にいる。沙代子は嬉しさに言葉が出なかった。

正臣がふっと微笑む。その表情が、何処か哀しげに見えたのは沙代子の気の所為か。
 何故一人で来ようとしたのか。何故自分を置いて行ったのか。此処に来るまでの間に、云いたい事は沢山心に渦巻いていた筈なのに、いざ彼を前にしてみると、そんなことはどうでもよかった。無言のまま、時間が過ぎた。
「正臣さん、私、傍に居ても、いいですよね。」
縋るように正臣を見つめる。正臣は僅かに視線を落とした。不安が胸を占める。
「・・・東京に帰るんだ、このまま。」
正臣の言葉に、潤んだ瞳から涙が零れ落ちる。咄嗟に正臣の胸に縋りついた。
「いやっ。私、帰りたくないっ。ずっと傍にいるっ。」
子供染みた我儘かもしれないことはわかっている。けれど、感情だけが先走り、抑えきれなくなっていた。服越しに、正臣の鼓動を感じる。そのぬくもりも。

離れたくない。
傍にいたい。


背中に、そっと腕が回された。沙代子をぎゅっときつく抱きしめ、その髪に顔をうずめた。微かに吐息がかかる。
「沙代・・・。」

たしかに、正臣は今、「沙代」と呼んだ。
「沙代子さん」ではなく、「沙代」と。
まるで幼い日のように。

正臣は震えていた。一瞬とも、数分とも感じる時が流れた。正臣は腕を解(ほど)き沙代子の肩を掴むと、すっと自分から離した。
「・・・さあ、帰るんだ。もう、此処に来てはいけない。」
絞り出すような声。俯いた顔には前髪がかかり、その表情を見る事は出来ない。
「・・・。」
「・・・さよなら。」
踵を返して歩いて行く後姿を、沙代子はただ見つめるしか術がなかった。

この小説について

タイトル 『疑心〜石渡編』『さよならの言葉〜沙代子編』合併章
初版 2013年7月5日
改訂 2013年8月4日
小説ID 4526
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作家名 ★佐伯 諒
作家ID 824
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