若葉の行方 - 別れの意味〜石渡編〜

 それから間もなく、彼から手紙が届いた。下宿先の手配への感謝と近況の報告。体調は小康状態を保っている事。そして追伸に。

「俺が此方(こちら)に着いたその日、沙代子さんが来た。彼女は此方に住むつもりでいたが、帰らせた。」

彼女に行き先を告げた僕を責めるでもなく、かと云って感謝するでもなく。そこにはただ、事実だけが書かれていた。





 僕は様子見がてら訪問することを彼に手紙の返事で知らせ、千葉へ足を運んだ。車窓からの景色は徐々に田畑や山が多く見られるようになっていった。四人掛けの席で向かいに座ったモンペ姿の老婦人に、蜜柑(みかん)と煎餅(せんべい)を貰った。

 三月中旬の暖かい日差しを浴びながら、僕は歩いた。時折潮の香りが鼻先を擽(くすぐ)った。海に近い駅を出て十五分ほど歩いたところに、彼のいる下宿先はあった。木造建てのそれは建てられてからだいぶ年数を経ているようだが、それなりに由緒ある屋敷に感じられた。
 家の人に今回の一件の感謝を告げ、手土産に買ってきた菓子折を手渡した。小野崎の所在を尋ねると、二階の一室に案内された。
 彼は右手で頬づえをつきながら窓の外を眺めていた。白く霞んで海が見えた。声をかけると、部屋の前に立つ僕を振り向いた。
「久し振り、でもないか。」
おどけたように彼は微笑んだ。
「・・・そうだな。」
変わらぬ態度で話しかける彼に、僕は内心ほっとしていた。自然に囲まれて空気がいいからか、東京にいたころより幾分元気そうに見えた。部屋に入るように促され、彼の向かいに座る。屋敷の二階の片隅にある小さなその部屋は、家具らしい家具はなかった。いや、それだけなら沙代子さんの家にいた頃の
部屋とさほど変わらない。しかし。
「本は、送って貰わないのか?」
本棚ひとつをぎっしり埋め尽くす程の本が、この部屋には見当たらない。
「ああ。いずれ父に沙代子さんのところから引き取って処分してもらうつもりでいる。もし気に入っていた本があったなら、沙代子さんに云って早めに貰っていってくれ。それと、これも。」
彼がそう云って僕に差し出したのは、あの銀色の万年筆だった。
「小野崎、君は・・・」
何もかもを捨てるつもりなのか。本気で。
「それは受け取れない。君の大事なものだろう。」
「いいんだ。お前が貰ってくれ。」
小野崎が僕の手に握らせたそれは、彼の温度をそのまま残していた。
「石渡。」
静かな、落ち着いた声。少し掠れて。
「これきりだ。」
「?」
彼の言葉の真意が解らず、答えを彼の中に探すように見る。
「見苦しい姿をさらすのはまっぴらごめんだ。だから、石渡、お前ともこれきりだ。」
彼は笑っていた。冗談でも云っているかのように。窓から、微かな風が吹き込んだ。日差しはまだ柔らかい。青く霞んだ空を、白い雲がゆっくりと流れて行く。
「・・・小野崎、ひとつだけ聞かせてくれ。」
小野崎は微かに顔を傾けた。
「君は、沙代子さんを好いているのか?」
刹那、時が止まる。彼は一度瞬きをした。僅かな沈黙。穏やかな、けど何処か悲しげな微笑み。そして。
「ああ。・・・好いていた。」

好いていた。

短いその返事に、彼の想いの全てが込められていた。僕は彼の笑顔に、思わず泣きだしそうになった。
「・・・そうか。」
胸を鷲掴みにされたような云い知れぬ感情に呑まれた。僕は君を裏切った、とは、云えなかった。
「じゃあ、そろそろ行くよ。」
彼の前に居るのが、辛かった。彼の気持ちを思うと、その苦悩は僕の想像など遠く及ばない。
「ああ。折角来てくれたのに、何のもてなしもなくてすまない。」
これが最後とは思えないような、ありきたりな会話。まるでまたこれまでと変わらず会えるような。しかし、きっと、これでいいのだ。下手な同情など、彼の望むところではない。
「それじゃ。」
静かに立ち上がり、部屋を出た。帰りの道中は何も考える気力がなく、ただ車窓からの流れる景色をぼんやりと眺めていた。





 それから暫く、僕は現実から逃れるように、小説の執筆に心血を注いだ。そうする事でしか自分の心を落ち着かせる術を見出せなかった。しかしいつでも、頭の片隅には「このまでいいのか?」という思いが居座っていた。彼のあの笑顔が鋭く突き刺さる。

 僕は再び、彼を訪ねることにした。

 まだ暑い日差しが射てつく九月の中旬。案内されたのは以前の部屋ではなく、診療所だった。彼は、病室に眠っていた。この部屋からも、海が見えた。
「最近苦しいのかあまり眠れないらしくて、時々にこうしてぐっすり眠ってるんです。十五時に検温がありますから、その時に起こしに来ますね。」
無言のままでいる僕を気遣うようにそう云い残して、彼の担当だと云う看護婦は出て行った。僕は驚きを隠せずにいた。
 土気色になった頬はすっかり痩せこけ、眼窩は窪み、点滴の針を刺した腕は僕の半分程に細かった。浅い呼吸のたびに夏掛けの下で上下する胸板も、とても薄く感じる。以前訪ねた時より、酷く衰弱していた。

これが、あの小野崎なのか。

 夏の日差しの下、明るすぎる外の世界が、この部屋をより暗く感じさせた。そしてその眩い外の世界では、蝉が啼いている。

蝉が、泣いている。

『見苦しい姿をさらすのはまっぴらごめんだ。だから、石渡、お前ともこれきりだ。』

 彼の言葉が脳裏にこだまする。幼い頃の彼はきっと、病に罹った母を、その目で見たのだろう。痩せ衰え、苦しむ母の姿を。 だから彼は沙代子さんを・・・全てを遠ざけたのだ。けれど・・・もしあの時僕があんな事をしなければ・・・。

 僕は彼が目覚めるのを待たずに、帰ることにした。

この小説について

タイトル 別れの意味〜石渡編〜
初版 2013年7月5日
改訂 2013年8月4日
小説ID 4527
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作家名 ★佐伯 諒
作家ID 824
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