若葉の行方 - 『夏の終わり』『なほも君を想ひて』『かけがえのない時』『静かな夜』合併章

 外が明るんできた。夜が明けたらしい。今夜は結局一睡もできなかった。正臣は手のひらを窓に向って翳(かざ)す。細く、骨が浮き出ているのが目立つ。自分の手は、こんなに頼りないものだったろうか。
 ここに来た当初は、普通に歩くこともできた。咳き込むことを除けば、なんら病を実感することはなかった。しかし春を過ぎたころから、外を出歩くことに疲労を感じるようになった。日に日に食欲も落ちていき、体を起こしていることさえ辛くなってきた。徐々に、しかし確実に、体は衰えていく。病と云う名の厄介者に喰い尽くされていく。そして時折、その衰弱をまざまざと気付かされる。この先どうなっていくのだろう。次は何ができなくなるのだろう。ジワリジワリと己が身を侵していく病に、恐怖を感じないと云えば嘘になる。咳き込むたびに、血を吐くたびに、一歩ずつ死へと近づいていく恐怖。眠れないのは、苦痛のせいだけではない。自分と云うものが、ここまで弱いとは思っていなかった。虚勢を張って、何処までいけるか。自分の母も、こんな思いで日々を過ごしていたのだろうか。
 そんな日々の中で、千鶴の見舞いは正臣にとって安らぎになっていた。ある時には笑い話を聞かせ、ある時には姉妹ケンカの愚痴をこぼし、ある時には正臣と共に黙って窓の外の海を眺めている。沙代子に対する感情とは違えど、精神的な支えだと感じていた。


 あれを、書いておこう。まだ字を書く力が残されているうちに。


 父や石渡への手紙は、とうにしたためた。ただひとつ、まだ書いていないもの。
 正臣は寝台の横にある棚の引き出しから、筆記帳と万年筆を取りだした。沙代子がくれたものは石渡に託した。久しぶりに、以前使っていた万年筆を手に取る。感触が、やはり違う。重く感じるのは、個の違いのせいか、それとも・・・。


 書き置いたとて、あの人が見ることはないだろう。


 そう思いながらも、正臣は最後の二行をインキで塗りつぶした。
「『君への想ひは海の泡となりて消えゆくことを何も厭わず』。・・・なんか、ちょっと哀しい詩ですね。」
千鶴だった。いつの間に病室に来ていたのを、正臣は今更ながら気がついた。
「別に深い意味はないよ。」
何事もなかったように、筆記帳と万年筆を元の引き出しに戻す。

 外では日暮らしが、どこか悲しげに啼いていた。もうすぐ夏も終わる。





     ◇     ◇     ◇





 正臣に別れを告げられてから、幾日過ぎたろう。
帰るようにと云われた。
二度と来てはいけないと云われた。
沙代子はどんなに反対されようと留(とど)まるつもりでいた。しかし、そうはできなかった。
抱きしめてくれたのは、「沙代」と呼んでくれたのは、兄妹のように過ごした幼馴染として。肩を掴み体を離したあの手が、言葉以上に正臣の心を伝えている気がした。

正臣さんは、きっともう私のことを疎ましく思っているのね。

 見合いの話を相談した時、自分の想いを伝えてしまったからだろうか。そんなことさえしなければ、ただの幼馴染として傍にいることができたかもしれない。
 あるいは、正臣の留守中に石渡が訪ねてきたあの日のことを、やはり心のどこかで軽蔑しているのだろうか。
 どちらにしても、今となってはどうしようもないこと。諦めるより他に術がないように思えても、沙代子にとってそれは並みならぬ決意を要することであった。

消せないものなら、共に。たとえ想われることがなくても。

そんな愛し方があってもいいのかもしれないと、そう思えた。





     ◇     ◇     ◇





その日も、千鶴が見舞いに来ていた。傾いていく秋の日が横顔を照らす。正臣は、彼女の話す日々の出来事をただ静かに聞いていた。本当に、面白い娘だった。千鶴の話に思わず笑いそうになった瞬間、不意に、小さく咳き込む。
「小野崎さん? 大丈夫ですか?」
心配そうに見つめる千鶴を安心させようとは思うのだが、抑えようと思えば思うほど堪え切れず、胸から何かがこみ上げてくる感覚に襲われる。
「・・・っ」
血生臭い味がした。吐き出すまいとしても、もはやどうすることもできなかった。
「小野崎さん!」
布団を赤黒く染める血を見て、千鶴は慌てて人を呼んだ。
「誰か!誰か来てください!小野崎さんが!小野崎さんが!」
その声を聞いて、看護婦をしている姉が病室に飛び込んできた。
「千鶴!先生を呼んできて!」
指示を出すと看護婦は正臣を寝台に横向きに寝かせた。千鶴は病室を飛び出し、医者を呼びに行った。
「小野崎さーん、大丈夫ですからね。すぐ先生が来ますからね。」
朦朧としていく意識の中で、看護婦の言葉も次第に遠ざかる。正臣はそのまま意識を失った。
(ああ。・・・ついに、この時が来たのか。)
いつもと違う感覚に、そう思った。ひどく体が気怠いのに、苦しさや痛みを感じない。恐怖もない。目の前が霞んでいく。何も見えなくなっていくその中で。


(・・・・・母さん?)


桜の模様をあしらった着物を着た女性が、正臣を見つめていた。


(迎えに来てくれたんですね。)


自分の知る、あの頃の美しい母だった。母は何も云わず、ただ何処となく厳しい顔で正臣を見つめている。


(母さん?)
何も云わぬ母を不思議に思い、呼びかける。



『もう少しだけ、待ちなさい。』



微笑みながら、一言そう云った。そのまま母は白い霧に見えなくなった。







     ◇     ◇     ◇





十月の中旬、小野崎の父から電話があった。彼の入院する診療所から、彼が危篤状態にあると連絡が入ったとのことだった。僕は取るものも取り敢えず、急いで出かける支度を整えた。外は雨で薄暗く、まだ夕方だというのに日が暮れたようだった。
 待ち合わせ場所の東京駅に着くと、小野崎の父と沙代子さんがすでに到着していた。挨拶もそこそこに僕らは列車に乗りこんだ。千葉に着くまでの間、僕ら三人は終始無言だった。それぞれが、胸の内に様々な思いを抱いていた。

 診療所に着くと、あの病室に通された。小野崎氏と沙代子さんは、病状が進んだ彼を目にするのは初めてだったのだろう。驚きを隠せない様子で見つめていた。寝台に眠る彼は、あの時よりまた少し痩せたようだ。小野崎氏は医師から病状の説明を聞く。医師が何か問い掛け、小野崎氏が首を横に振って応えると、医師は病室を出て行った。
「正臣さん・・・。」
沙代子さんは寝台に歩み寄るとそのまま床に座り込み、彼の名前を口にした。
「・・・石渡君。ふたりだけにしてやってはくれまいか。」
ふたりの様子を眺め、小野崎氏はそっと僕に云った。僕らは静かに、病室を出た。





     ◇     ◇     ◇






 見慣れた病室の天井。雨音。横たわる自分の顔を、誰かが覗き込んでいる。
「正臣さん・・・」
幻だろうか。もう逢うことは叶わないと思っていた愛しい人の顔が、そこにあった。ゆっくりと、瞬きをする。やはり沙代子は、そこにいた。
「沙代・・・」
沙代子は泣いていた。正臣は鉛のように重く感じる腕を伸ばし、手でそっと涙を拭った。あたたかい雫が指に伝う。
(泣くなんて、馬鹿だな。)
そう口にしたつもりだったが、声が出なかった。沙代子の笑顔が見たい。沙代子は、正臣の手を両手で包んだ。
 正臣が微笑むと、沙代子も瞳を潤ませたまま微笑んだ。沙代子が正臣にそっと唇を重ねる。初めは驚いたように目を見開いた正臣も、ゆっくりと目を閉じる。ふたりの体温が優しく溶け合う。互いの熱を分け合うように。ほんのかすかな、淡い口付け。そして見つめ合う。交わす言葉は、何もなかった。今こうしてここにいる。それだけでふたりには充分だった。過ぎてゆく一秒一秒が、とても尊く感じた。何物にも代えがたいほど。そして正臣は、再び目を閉じた。穏やかな笑みを浮かべて。





     ◇     ◇     ◇





 薄暗い廊下で、小野崎氏と僕は椅子に腰かけた。とても静かだった。僕らふたりの他には誰もいない。
「私は、心のどこかで息子を避けていたのかもしれない。」
独り言のような、そうではないような、小野崎氏のつぶやきに、僕はその人を見つめた。
「あれの母親も、結核で死んだ。『必ず助けるから安心しろ』と云ったが、結局治してやることができなかった。それ以来、あいつの目を見るたびに、責められているような気持ちになった。約束を守れなかった私を、恨んでいるんだろうと。
 あいつが医者にはならないと云った時、素直に認めてやればよかったものを、あれ程までに頑なに反対したのは、自分の非力さをなじられているように感じたからかもしれない。私は本当に、どうしようもない父親だな。愛想を尽かされても仕方ないことだ。」
小野崎氏の言葉を、僕は黙って聞いていた。
 きっと最初は、ほんの些細な解(ほつ)れだったのかもしれない。どちらも不器用で、その解れをうまく直すことができないまま、ここまで来てしまった。この親子について、僕にはそのように感じられた。
「移転先を探す相談をされた時、小野崎は『母の死が辛かったのは自分より父だったに違いない』と、そう云ってました。過去に彼があなたをどう思ってきたかはわかりません。けれど、今の彼は貴方のことを微塵も恨んでなどいないのではないでしょうか。」
小野崎氏は、大きく息を吐いた。
「・・・ありがとう。」
静かな廊下に、小野崎氏の言葉が静かに響いた。
 暫くして、病室から沙代子さんが出てきた。

この小説について

タイトル 『夏の終わり』『なほも君を想ひて』『かけがえのない時』『静かな夜』合併章
初版 2013年7月5日
改訂 2013年8月4日
小説ID 4528
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作家名 ★佐伯 諒
作家ID 824
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