若葉の行方 - 旅立ち 〜石渡編〜

 年末の慌ただしさを感じ始めたある日の朝、僕は沙代子さんの家を訪ねた。ここを訪れるのは、どのくらいぶりだろう。玄関の戸を叩くと、聞きなれた、けれど何処か物静かな声で沙代子さんが返事をする。戸を開けた沙代子さんは、初めて会った時と同じような、少し驚いた顔をした。
「石渡さん・・・。」
「お久し振りです。」
僕は帽子を取って会釈した。そして彼女も。
「この度、露西亜(ロシア)に留学する事になり、ご挨拶にあがりました。」
「露西亜に?」
「はい。いろいろと考えるところがあって。」
「・・・そうですか。」
沙代子さんはそっと視線を落とした。
随分、遠いところへ行かれるのですね。」
「はい。・・・それと、」
僕は大きく息を吸い込んだ。
「・・・沙代子さん。」
緊張に心拍が早くなる。
「僕は、貴方に謝らなければなりません。」
「え?」
これで僕の罪の枷が外れるとは思わない。けれど、それでも僕は、言葉を続けた。
「・・・本当に申し訳ありません。」
深々と頭を下げる。
「僕は、小野崎に嘘をつきました。もし僕の嘘がなければ、小野崎は貴女が傍(そば)に居ることを許したかも知れません。」
体を起こし、一呼吸、大きく吸い込む。全身が、まるで中心に向かって押しつぶされていくような感覚。
「僕は、彼に、小野崎に、貴女と僕が互いに想い合っていると、嘘をついてしまったんです。」
また暫くの沈黙。僕はただ、立ち尽くす。彼女からどんな非難の言葉を云われようと、僕にはそれを聴かなければならない義務がある。
「・・・そうでしたか。でもどの道、私は正臣さんのそばには置いてもらえなかったと思います。私、振られてしまったんですもの。」
「え・・・?」
話の筋が見えなかった。
「石渡さんが、正臣さんに相談を持ちかけられたからと訪ねていらした日がありましたでしょう? その何日か前に、気持ちを伝えたんです。」
・・・・・・・・・・・・・。
「正臣さんは、困惑した表情(かお)をされてました。」
もしかして、彼が相談したかった事とは、この事だったのか。そうだとしたら彼は僕の嘘を知っていた事になる。嘘と知って、それでも尚、彼は・・・?
「結局返事はいただけないまま、千葉まで追いかけた時には、もう会いに来てはいけないと云われました。きっと、それが答えなのでしょう。」
「それは違う。」
僕は彼女の言葉を遮った。彼は、小野崎は、沙代子さんを心から愛していた。心から、沙代子さんの幸せを願っていた。だから、離れようとしたのだ。別れの言葉は、それを惜しむ気持ちを振り払うため。互いに想いあっているとわかった上で、別れを決意した小野崎は、どれほど苦しかったろう。どれほどやりきれない思いだったろう。
「彼は、貴女を好いていた。」

『・・・好いていた。』

 僕の問い掛けに答えた、あの時の彼の言葉を、そのまま口にする。彼の深い想いに比べたら、僕の恋心など幼い子供の執着心に等しかった。僕は、懐からあの万年筆を取り出し、沙代子さんに見せた。
「これは、彼が後生大事に持っていたものです。」
沙代子さんはそれを驚いたようにじっと見つめる。
「最後に会ったとき、彼はこの万年筆を僕に託しました。」
そして彼が僕に託したのはきっと万年筆だけではない。それは、彼自身の想い。ひどい裏切りをした、この僕に、彼はそんな大事なものを託したのだ。けれど。
「きっと、僕よりもあなたが持つに相応しい。」
僕は沙代子さんの手を掴んだ。ひどく冷えたその手に、万年筆を握らせた。僕がこれを彼から受け取った時に伝わってきた、彼のあのぬくもりも伝わるようにと願いながら。
「沙代子さん。」
幸せになってください。それを壊した僕が言うにはおこがましい言葉。けれど僕は心からそう願った。
「どうぞ、お元気で。」
そう一言口にして、僕は会釈をした。再び帽子をかぶり、沙代子さんに背を向け歩き出す。風が頬をなでて通り過ぎた。空には、雲ひとつない澄み切った青が広がっていた。それが僕には、とても眩しすぎて、思わず目を閉じた。

この小説について

タイトル 旅立ち 〜石渡編〜
初版 2013年7月9日
改訂 2013年8月4日
小説ID 4532
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熟練
作家名 ★佐伯 諒
作家ID 824
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