風のソウタ - 風のソウター前編ー

『港町』

寂びれた小さな漁港と狭い海水浴場。
この国ではよく見る風景だ。
ただ、この町の海岸は砂が真っ白で有名だった。
そして、海に突き出た岬が、絵葉書にもなる観光名所だった。
自分達が食べるだけの漁業と、段々畑の農業と。
あとは、観光バスに乗ってやってくる人々が生活の糧だった。
「颯太。待って」
可愛らしい女子高校生の声が、怒っていた。
この漁村で生まれ育つ、ほとんどの子どもが通う学校の制服を着た、高校三年生の酒井康子。
振り向きもしないで、どんどん歩いていくのが柳井颯太。
野球選手みたいな短髪と、チョコレート色に日焼けした肌。
ひょろ長く見えるが、制服のブレザーは肩の辺りがきつそうだ。
「もう。颯太っ」
小走りに後を追い、腕を掴む。
無言で見下ろす颯太の目は、切れ長で少し怖かった。
「進路の提出は今日が締め切りだったのに」
母親のような口調になってしまうのは、幼馴染だからか。
彼女が、しっかりものの学級委員だからか。
「颯太だけ出てないって、担任に言われたよ」
どうするの、と問う康子の顔は本気で心配そうだ。
「別に」
短く答え、颯太はそれでも歩く速度を緩めた。
「漁師になるんじゃなかったの」
「ああ」
顔を上げると、湿った風が生温かく吹き抜けていった。
高台にある学校から、海へ向かって下る一本道。
「あれは、やめた」
「やめた、って。じゃあ、何になるの」
「わかんね」
「そんな」
康子は少し考えてから言った。
「お父さんが言ってたよ。卒業したら、おじさんの船で修業させようか、って」
「いや。もういいし」
「進学にするの」
「勉強なんて、もうしたくない」
肩で息をつき、康子は足を速めた。
いつの間にか、颯太の歩調がまた速くなっていた。
彼の腕から手に、繋ぎ直していた康子の手を、颯太は静かだが頑固に、解く。
「俺のことなんて、ほっとけよ」
「あっ」
商店街に出た混雑に紛れて、離れていく颯太。
周囲の人よりも、頭ひとつ分大きな彼の後姿を、康子は泣きそうな表情で見送る。
「あれ、康子ちゃん」
後ろから明るい声がした。
「あ。栄治先輩……じゃなかった。駐在さん」
「いや、栄治でいいんだけど」
夏服の若い警察官が、制帽を取り、額の汗を拭う。
「今日は登校日だったんだね」
「うん。進路の」
「ああ、そうか。もうそんな時期なんだな」
頷きながら、松坂栄治は康子の視線を辿った。
「あれは、颯太か」
「そうなの。あいつ、進路提出しなくて」
「ううん。まあ、しょうがないよな」
気さくで明るい先輩に励まされ、康子はやや笑顔を取り戻し、帰っていく。
「いいねえ」
地元に就職した栄治は、のんびりと笑った。
「青春だなあ」
呟きながら帽子を被り直したところで、押しボタンの信号に難儀していたご老体に気付く。
「おばあちゃん、大丈夫。荷物持ちますよ」
「ああ。ありがとね、栄ちゃん」
眩しそうに駐在さんを見上げたおばあちゃんの頭上で、鳶が輪を描き、涼しい声で鳴いた。

『漁港』

「運転手さん。ここでいいわ」
「あ。はい」
駅前と観光地を往復するタクシーが、寂れた漁港の入口で客を降ろす。
「ありがとう」
つま先から上品に降り立ったのは、白いワンピースの若い女性。
「お気をつけて。良い旅を」
ちょっと心配そうな表情で、タクシーの運転手が去っていった。
銀色の小魚が、干乾びかけて腐臭を放つ防波堤。
波のない鏡面のような海面は、砂浜よりも磯臭い。
観光客が来るような場所ではなかった。
きれいなお姉さんは、涼しげなレースの上着と、つばの大きな帽子で強い日差しから肌を守っている。
海風に持ち上がる帽子を片手で抑え、懐かしそうにやや微笑む彼女は、港の奥へと歩いていった。
赤いペンキで、『関係者以外立入禁止!』と書かれた看板も気にしない。
「だいじょぶだべか」
船の陰で網を直していた漁師達が、彼女の姿を認めて囁きあった。
「観光客だべよ」
「まさか、飛び込んだりしねえべな」
「まあ。落ちたら拾えばいいべ」
皺の中までこんがりと日焼けした屈強な老人たちは、そう決めるとまた自分達の仕事に気持ちを戻す。
そんな風に見られているとは気付きもしない彼女、鈴木美奈は、防波堤をどんどん歩き、ついに一番端の、赤い小さな灯台の下までやってきた。
ここから先は、海しかない。
港の外側は波が強くうねり、水温も低そうな深い色をしていた。
美奈は適当な所に掴まって、こわごわ真下を覗き込む。
「何やってんだ」
不意にすぐ後ろから男性の怒った声がして、美奈は小さく飛び跳ねるようにして振り返った。
「そんなとっから落ちたって、死ねないぞ」
全身ずぶ濡れの少年が、高い位置から彼女を睨みおろしていた。
裸の上半身は、まんべんなくチョコレート色に日焼けしている。
濡れて重たそうな膝までのジーンズに、ぺらぺらのビーチサンダル。
そして、片手には槍のような長い棒を持っていた。
「ご、ごめんなさい」
思わず謝る美奈に、少年はぐいと近付いた。
彼の全身から、冷たい海底の空気を感じる。
「飛び込みたいなら、手伝ってやろうか」
怒りの感情を腹の中に押し込めた、奥歯を噛んだような言い方だった。
「そんなつもりは」
「ない人間が、こんなとこには来ないんだよ」
明らかに年下の、口の利き方も知らない子どもに、なぜこんなに叱られなければならないのか。
多少むっとして顔を上げた美奈が、まっすぐに少年の顔を確かめた。
「え……潤……」
「は」
美奈の呟きに、少年が眉根を寄せた。
「潤、って。あんた誰だ」
傾けた頭から、海の水が一滴垂れる。
少年を見上げていた彼女のほほにそれは落ち、まるで涙のように見えた。
「ごめんなさい。間違えちゃった」
淡く微笑む美奈との距離感に気付いた少年が、急に耳を赤く染め、飛ぶように離れる。
「とにかく。港は危ないから、遊ぶならあっちの海岸にしろよ」
「ねえ。あなた、もしかして」
呼び止める美奈を無視して、少年は素早く身を翻すと、海に向かって、跳ねた。
「危ないっ」
小さな悲鳴に、水面を叩く水音が重なる。
見ると、イルカのように泳ぎ去る背中が海中に消えるところだった。
帽子を抑えながらそっと見下ろす防波堤は、足がすくむほど高く感じる。
「こんな所から飛び込むなんて」
間近で見た少年の、きれいな瞳を思い出す。
強さと同時に、なぜか怯えのような感情が含まれていた。
しばらく待ってみたが、少年は戻ってこない。
太陽が傾き始め、美奈は予約していた宿に向かうことにした。

『嵐』

おとうちゃんは、漁師だった。
この村で生まれて育つ半分は船乗りだったから、別に珍しくもない。
おかあちゃんは、海女だった。
この村の女たちは、朝ごはんは潜って採るもんだと思っていた。
あの嵐の前日、沖にタンカーが停泊しているのをおとうちゃんたちが見ていた。
「アブねえかなあ」
「でっかいし、だいじょぶだべ」
だけど心配は的中して、翌日の朝早く、漁協と消防がSOSを受信した。
「船は諦めるとしてもよ、人は助けなきゃダメだべよ」
「だけど柳井さん。相当時化てるし」
「漁協のほうで警察と自衛隊、要請してるってよ」
颯太のおとうちゃんは、地元消防団の団長でもあった。
いや、何よりも、正義感の強い男だった。
「そんなん待ってたら、放り出された奴らみんな沈んじまうべよ」
オレンジ色のジャケットを着て、颯太のおとうちゃんがおかあちゃんを見た。
「頼んだぞ」
黙って強く頷いたおかあちゃんの肩が、小刻みに震えていた。
「親父。俺も行く」
「待ちなさい潤一」
引き止めたおかあちゃんの手を、颯太の兄貴が強く握った。
「親父一人じゃ、舵取りで精一杯じゃないか」
独りで行かせるわけにはいかない。
潤一が颯太を見た。
「颯太。おかあちゃんを、頼んだぞ」
命を賭ける男の瞳は凄く強くて、凄くきれいに輝いていた。
返事なんて、出来なかった。
慌ただしく準備を進める大人たちと、肩を並べる兄貴の背中が、やけに広く、遠くに見えた。
学校では強がり、喧嘩も負けなしだった颯太が、怯えて涙を滲ませた。
「あんちゃん」
がたがたと強い風が、建物を吹っ飛ばす勢いで揺らす。
真横から吹き付ける雨と風に、颯太の身体がぐらつく。
「しっかりしろ、颯太。お前しかいないんだからな」
両肩を、痛いくらい強く掴まれた。
颯太の顔を覗き込む兄貴の顔は、むしろ晴れ晴れとしていた。
「行ってくる」
それが最期の言葉だった。
タンカーは斜めに沈み、数隻のゴムボートが海岸に流れ着き、柳井家の船は行方が分からなくなっていた。
テレビとか新聞とか、警察やレスキューとか。
嵐は去ったのに、静かな村は連日大騒ぎになっていて、上空もヘリが低空飛行を繰り返していた。
だけど、何も解決しないうちに、世界は元通り静かになった。
颯太には、日に日に小さくなっていくおかあちゃんが辛くて怖かった。
「頼んだぞ」
とは確かに言われたけれど、一体どうすればいいのか。
中学二年生の颯太には、難しすぎる課題だった。
「柳井さん。見つけたよ」
何日、いや、何ヶ月経ったのか、笑い声の消えた柳井家に、地元消防団の一人が訪ねてきた。
潤一とそんなに変わらない、若い団員さんが持ってきたのは、船の破片だった。
その日、颯太は家にいなかった。
もう、ずっと家には帰っていなかった。
笑いも喋りもしない暗いおかあちゃんが、すごく嫌いになっていた。
「おかあちゃん。俺は、生きてるよ。ここにいるよ」
虚ろな瞳に、颯太は映っていないみたいで、悲しみは度を越して、怒りに変わっていた。
「俺も、一緒に船に乗ればよかった」
頑張って呑んでも馴染めない酒の味。
悪い仲間と無理して呑んで、吐いた上に寝ていたこともあった。
「颯太っ」
そんな颯太の元に、栄治が駆け込んできたのはいつだったか。
薄暗い倉庫の隅で、隠れるように眠っていた颯太を、栄治は思い切り蹴飛ばした。
そんなことをする先輩ではなかったので、颯太は驚き、酔いも反抗期もみんな吹っ飛んだ。
「おまえっ。潤さんに、お袋さんのこと、頼まれてたんじゃなかったのかよっ」
腰が抜けている颯太の胸倉を掴んで引き起こす、栄治の目から涙がどんどん溢れてくる。
「栄にい」
「いいから、来い」
有無を言わさず、颯太は栄治に引き摺られて帰宅した。
おかあちゃんが、真っ青な顔で眠っていた。
生きている人の顔色ではなかった。
「おかあ……」
次の瞬間、颯太はその場にくず折れると、猛烈に吐いた。
泣き声ではない、呻き声みたいな音が、颯太の喉から漏れていた。
ひきつけみたいに震えだす身体を、栄治が上から抑え込む。
近所のおばちゃんたちが一斉に泣き出し、消防団員さんと駐在さんがぽつぽつ語ってくれた。
その時の颯太には何も聞こえていなくて、葬式が終わってしばらくしてから、栄治が教えてくれた。
おかあちゃんは、岬から飛び降りたらしかった。
「あっこは、自殺の名所だからな」
畳にひっくり返ったまま、颯太は天井を見上げてそう呟いた。
「俺より、潤にいのとこへ行きたかったんだろ」
そのことについて、栄治は何も言わなかった。
ただ、卒業したら地元の警察官になる、と告げて、栄治は帰っていった。
広すぎる家の中で、颯太は独りぼっちになった。
中学を卒業して、颯太は地元の高校生になると決まった。
幼馴染である酒井康子の父が、この辺では一番大きな網元だったのだが、颯太の保護者を名乗り出て、それまでずっと世話になっていた。
「おじさん」
卒業を目前にした師走のある日、颯太は酒井氏の前で膝をつく。
「んん。どうした、改まって」
「今まで、ありがとうございました」
「うん、偉いな。良く頑張ってきたよ、颯太は」
「おじさんに、お願いがあるんです」
「何だろう。言ってごらん」
思い切った颯太のお願いに、酒井氏は初め難色を示した。
しかし、彼の頑固さはそれまでの生活の中でよく理解もしていた。
結局、酒井氏は颯太のお願いを全面的に聞き入れ、大人にしか出来ない手伝いを全部してくれたのだった。

『海辺の家』

「颯太。いるかい」
岬の足元、海岸沿いに、一軒ぽつんと海の家みたいな建物がある。
駐在さんの制服を着た栄治が、開けっ放しの引き戸に手をかけ、中を覗いて声をかけた。
「いるよ」
一段高い奥の畳部屋から返事が聞こえ、栄治は靴のまま中に入る。
壁掛けタイプの扇風機が、あさっての方向に風を送りながら唸っていた。
小さな台所には、食べかけの素麺が蓋をして置いてある。
「今日、登校日だったんだって」
畳の縁に腰をかけ、栄治は制帽を取ると汗を拭いた。
「うん、まあ」
裸の背中をこちらに向けて寝転がったままの颯太の脇で、コーラのペットボトルが横倒しになっている。
「颯太、おまえ。ちゃんとメシ食ってるか」
ほとんど何もない室内を見回して、栄治が言った。
「食ってるよ」
半分眠っているみたいな声。
「まあ、いいや。颯太に聞きたいことがあるんだよ」
その台詞に、颯太がようやく身体を起こしてこちらを向いた。
「今日、不審な観光客を見かけなかったか」
言われた瞬間、白いワンピースの女性を思い出したが、颯太はすっ呆けた。
「どうかなあ。何で」
「宿泊客で一人、部屋に戻ってないって連絡が入ったんだ」
「またかよ」
盛大なため息のあと、颯太はペットボトルに手を伸ばす。
温いコーラを流し込む彼の横顔をじっと見つめていた栄治が、威嚇的な声になった。
「おい。何か知ってるだろ」
裸の肩が小さく揺れるのを見逃さず、栄治はポケットから手帳を出す。
「喋っちゃえよ」
「栄にいって、時々怖いよな」
「そうか。気にするな」
わざとらしい笑顔を浮かべる栄治にしかめっ面を返して、颯太は昼間の出来事を話した。
真剣にメモを取る栄治の頭上で、大きな蛾が蛍光灯に体当たりを繰り返している。
かちん、かちんと、リズミカルな音がしていた。
「若い女性だったんだな」
書き終わった手帳を見ながら、栄治が念を押す。
「うん。多分、栄にいと変わらないんじゃないかな」
「別人か」
「違ったの」
「俺が聞いたのは、五十歳くらいの女性で赤っぽい花柄のワンピース」
「うわ。ぜんぜん違うじゃん」
「うーん……」
ペンの先でとんとんと手帳の縁を叩き、栄治はしばらく考え込む。
「俺が、探してこようか」
颯太の声に、栄治はますます難しい顔つきになった。
「今夜はもう無理だろう、日が落ちちゃったしな。それに」
栄治は言葉を切り、颯太の顔をじっと見つめた。
「……やめる気はないのか」
何度も繰り返された質問に、颯太は同じ答えを出す。
「ないよ」
「……そうか。そうだよな」
重たくなった空気を振り払うように、栄治は元気良く立ち上がった。
手帳をしまい、制帽をきちんと被り直す。
「明日の朝早く、俺たちでこの付近を捜索するから。颯太は無理するなよ」
背筋を伸ばし、軽く敬礼をして、栄治は駐在さんの顔に戻ると颯太の家を出て行った。
胡坐をかいたままの颯太はやがて、畳部屋から足を下ろし、ビーチサンダルをつっかけて台所に向かう。
砂対策に積んだブロックの上に設置してある、小さな冷蔵庫を開けて中を覗くと、知り合いのおばちゃんがくれたトマトが程良く冷えていた。
その一つを鷲掴みにしてシンクへ行き、水道水で軽く洗う。
片手でその作業をしながら、反対の手は真水に浸けられた刃物を取り出していた。
洗ったトマトにかぶりつき、二股に分かれた形の刃を持って、部屋に一つしかない椅子に向かう。
サンダルが砂を引き摺るざらざらした音と、外から聞こえる波の音が重なっていた。
歩きながら手を伸ばし、壁掛け扇風機の向きを多少乱暴に変え、颯太はテーブルに置かれたやすりで銛先を磨き始める。
すべての作業がゆっくりに見えて、単調で、一切の無駄がなかった。
翌日、太陽が岬の端から顔を出す少し前、颯太は銛を持って家を出た。
肩に小型の竹かごを引っ掛け、まだ青い景色の海岸沿いを歩く。
夏とはいえ、早朝の空気は裸の肌に寒く感じた。
颯太が向かうのは砂浜ではなく、岬付近にある岩だらけの漁場だ。
毎朝、登校前に獲った魚や貝類を、朝市の誰かに買ってもらうことで、彼は生活しようとしていた。
ごろごろする足元に気を付けながら、うつむき加減に歩いていた颯太がふと足を止める。
非日常の景色が視界の先で展開されていた。
真っ赤な丸太のようなものが、海と陸の境目でゆらゆら動いている。
自然界にある色ではなかった。
海の青、木々の緑、砂浜の白、そして岩場の黒。
颯太の目に親しんだどの色とも合わない、人工的な赤。
「ああ。あれか」
栄治との会話を思い出した。
再び歩き出した颯太は、躊躇うことなく赤い丸太に近付き、片膝をついて生死を確かめる。
うつ伏せていた身体を無表情にひっくり返し、冷たい首筋に指先を当てた。
目を閉じて真っ青な女性の顔を見ながら、手早く骨折の箇所を調べる。
尖った刃にやすりをかけるのと同じくらい、慣れきった動作だった。
「颯太」
「見つけたのか」
海岸線に沿って作られた車道から、身を乗り出すようにして大人たちが叫んでいた。
「すぐ行く。そのままにしておけ、颯太」
栄治が真っ先にガードレールを飛び越え、走り出す。
颯太は独りで波打ち際から乾いた場所へ女性を運び、心臓マッサージを施していた。
銛とかごを脇へ置き、大汗を流して、彼は蘇生に向かって一心不乱だった。
「生きてたのか」
制服の上着を脱ぎ捨てて交代した栄治が、ようやく腰を伸ばす颯太を見上げる。
「わかんね」
興味なさそうにそっぽを向く颯太が、大切な生活道具を手に、海に向かって歩き出していた。
「じゃあ、俺。銛突き行くから」
「颯太」
道を歩くみたいに海へざぶざぶ入っていく颯太の背中に、栄治が声を張った。
「おまえ、本当に、無理するな」
聞こえないふりで、チョコレート色の背中が不意に波の下へ消える。

『朝市』

「見つかったみたいよ、昨日の人」
「あらやだ、亡くなったの」
「それが、奇跡的に生きてたみたいで」
「あらそう、でもどうなのかしらね」
「死んじゃったほうが良かったてこと」
「どちらにしても、辛いわね」
今朝の市場は、昨夜の飛び込み事件で盛り上がっていた。
とはいえ、裏名所の顔もあるこの町で、岬からの飛び込みは交通事故とそんなに変わらない扱いだ。
この朝市のほうが白い砂浜とセットで公式な観光だったから、太陽が昇ると、港町は一気に蒸し暑く、騒がしくなった。
観光バスが次々と駐車場になだれ込み、派手なおばちゃんたちが口々に何か喋りながら降りてくる。
売り子の声も一段とヒートアップして、なんだか喧嘩みたいになっていた。
「お嬢さん、これ買って。獲れたてぴっちぴち」
「あらあ、私のお肌とおんなじね」
「うん。まあ、そうだね」
「なによその反応。この店じゃ買わなあい」
「うう……」
下品に笑いながら、観光客は次々と流されてくる。
美奈も、宿の仲居に勧められて、そんな朝市に顔を出していた。
「あら。あの子」
赤や青のノボリ、金銀に輝くおばちゃんたち、朝市ブランド黄色の包み紙。
リゾート気分満載の色彩の中に、自然色がぽつんと見えた。
チョコレート色の裸の背中が、周囲の人垣より一段高い場所で動いている。
「昨日の子かな」
肩から入ってくるおばちゃんたちを左右に避けながら、人の波を上手に泳ぐ美奈。
少年は売り子の手伝いをしているようで、野生的な彼に惹きつけられたおばちゃんたちが蟻のように群がっていた。
「その魚、私にもちょうだい」
「今ので最後です」
「他に何かないの」
「あとは、貝が少し」
「それでいいわ。ちょうだい、幾らなの」
「ええ、と」
興奮した女性客の剣幕に圧されて、店主のおばあちゃんが目を回している。
手伝いの少年は、口数こそ少ないものの、長い手足を活かして、小さな露店の一切をカバーしていた。
「1200円です、ありがとうございます」
「お兄ちゃんは、地元の子なの」
「……はい」
「可愛いわねえ」
「……ありがとうございます」
美奈は感心したように、少し離れた位置からその様子を見守っていた。
バスの観光客は、来た時と同じように固まって次の町へと運ばれていく。
静けさを取り戻した市場の隅で、少年は、座り込んだままのおばあちゃんと談笑していた。
「あの」
ようやく近寄り、声をかけようとして、美奈は戸惑った。
彼の名前を知らなかった。
「颯太」
立ち止まった美奈の後ろから、若い男性の声がした。
呼ばれて顔を上げた少年と、美奈の目が合う。
「何」
逸らした少年の目線は、美奈の後ろに立つ人物に注がれた。
「今朝の事情聴取がまだだった」
「いいじゃん。栄にいが適当に書いとけば」
「そういうわけには、いかないだろ」
「栄にい、って……」
美奈が驚いた表情になり、そのまま勢い良く後ろへ身体を反転させた。
「栄治君」
「え」
颯太だけを見ていた栄治が、すぐ目の下にいた女性に視線を移す。
「えーと」
困惑した顔の栄治が、みるみる耳を赤く染め、声を上ずらせた。
「みっ、美奈さん。どうしてここに、ていうか、いつ。ていうか、颯太」
栄治は照れ隠しか、怒った声で颯太を呼んだ。
「なに。知り合いだったの」
一言おばあちゃんに断って、颯太が露店の向こうから出てくる。
「昨日見かけた女性って、彼女」
「そうだけど」
「そうだけど、っておまえ。覚えてないのか」
「は」
颯太は、改めて白いワンピースの彼女を見下ろした。
今朝は大きな帽子を被っていないので、薄化粧をしたきれいな顔が良く見えるが。
「俺、こんな美人さん知らないよ」
炎天下、真正面から言われて、美奈は恥ずかしさのあまり俯いてしまう。
「鈴木美奈さん。俺らの先輩だよ」
「へえ。この町の人だったんだ」
興味なさそうに、颯太は露店に戻ろうとする。
「あっ、待てよ颯太。事情聴取」
「分かってるよ、栄にい。荷物を取ってくるだけだ」
颯太は露店のおばあちゃんと穏やかに話し、頭を下げると、幾らかの小遣いを手に戻ってきた。
夏の陽光が容赦なく地面に降り注ぎ、反射熱が足を焦がす。
からからに晴れた青い空を見上げてから、颯太は栄治を見て自分の腹を押えた。
「話すなら涼しいとこに行こうよ、栄にい。腹減ったし、俺」
「ああ。そうだな、分かったよ。奢ってやるよ」
「やった」
小さくガッツポーズをして、颯太が先に歩き出す。
美奈をまったく無視した彼の行動に、栄治が気を遣った。
「美奈さんは、どうします。暇なら一緒にお茶でも」
「でも、栄治君。勤務中なんじゃ」
栄治の制服姿を指差して美奈が遠慮する。
「構わないっすよ。平気、平気」
「そうなの」
駐在さん、美人のお姉さん、上半身裸の野生児。
変わった組み合わせの三人が、仲良く話しながら、市場を抜けて商店街へと向かう。
街角の古びた喫茶店は、ガラス窓に濃い色のフィルムを貼って、中が見えないようになっていた。
「ここなら、行きつけなんで」
栄治が悪戯っ子の笑顔で木製の扉を引き、美奈を招く。
「いらっしゃいませ。……って、栄治君か。お昼休みにしては、早過ぎないかい」
店長のおじさんが、壁の時計を見上げて呆れ顔になった。
栄治はにこやかに返す。
「仕事の一環ですよ、店長。事情聴取がしたくて」
「へえ、そうなんだ。じゃあ、奥の席がいいね」
「ありがとう。そうします」
程よく冷えた店内に、颯太が裸の腕をさすった。
「ここ、寒いよ」
栄治が笑う。
「おまえ、上着は」
「ない」
「しょうがねえなあ」
これでも掛けておけ、と、栄治が持っていたスポーツタオルを渡した。
定食を二人前注文した颯太と、早速話を始める栄治。
女性を発見したときの詳しい状況などを聞かされて、美奈の表情が硬くなっていく。
「はい、お待たせ」
「美味そうだな」
「栄にい、ゴチ。いただきます」
「本当に全部食えるのかそれ」
「育ち盛りだから」
「じゃあ、発見した時から意識はなかったんだな」
「脈も弱かったし、もう少し遅かったら死んでたかもね」
「そうかあ」
旨そうに食事をほおばる颯太を見ながら、美奈は自分の食欲が落ちていくのを感じていた。
「……奈さん。大丈夫ですか」
いつの間にかめまいを起こしていたようで、心配そうな栄治の顔が、間近で美奈を呼んでいた。
「うん。ごめんなさい、大丈夫」
食事と話を終えて外に出ると、熱気を含んだ海風が全身を包んだ。
薄暗く涼しかった店内での出来事が夢のように思える。
「じゃあ。俺、もう一回潜ってくるから」
「気を付けてな。次こそ、まず俺に言うんだぞ」
「ああ、はいはい。分かってるって」
竹かごを担ぎ片手に長い銛を持って、海の子が去っていく。
裸の背中を見送り、美奈が栄治に訊いた。
「結局、颯太君は私のこと思い出してくれたのかしら」
「ああ」
栄治が制帽を被り直す。
「思い出していましたよ」
「そうなの」
「兄貴の思い出とセットでね」
「……悪いことしちゃったかな」
それには応えず、栄治が言う。
「宿は、福寿荘でしたね。明日非番なんで、良かったら酒でも呑みに行きませんか」
「うん。考えとくね」
駐在さんの顔に戻った栄治が、美奈に向かって軽く敬礼をする。
「では。自分はこれから巡回なので、ここで失礼します」
「ありがとう。楽しかったわ」
栄治が去り、美奈はまた一人になった。
顔を上げると、道の向こうに海が見えた。
途切れることなく続く波の音、海水浴場から響く人々の笑い声が、違う世界のもののように聞こえる。
砂浜のスピーカーから流れる音の割れたFM放送と、商店街から流れる陽気な音楽が、妙な調和を見せていた。
行き交う自動車の排気ガス、焼けたアスファルトの臭い。
それらが潮の香りに混じって、たまらなく美奈の郷愁を駆り立てた。

『狂夜』

(颯太……)
誰かに呼ばれた気がして、颯太は首を回した。
しばらく気配を探すが、波に転がされる石の音しかしない。
(颯太、こっち)
立ち上がった颯太が、銛を手にふらふらと海へ向かう。
「颯太。いる」
海辺に立てられたプレハブ小屋。
常に開けっ放しの引き戸と全開の窓。
太陽は西に傾き、東から夕闇が迫る時刻。
壊れそうな音で壁の扇風機が首を振り、誰もいない部屋の空気をかき回していた。
思いつめた顔で訪ねてきた康子は、肩透かしを食らって椅子に座り込む。
いつもの場所に銛がない。
「まだ、潜ってるんだ」
しばらくは扇風機の唸る音を聞いていた康子だったが、颯太が戻る気配はない。
肩で息をして、ポーチの中から、可愛らしい絵の付いたメモ帳と甘い香りのするペンを取り出す。
何度か書き直し、読み返し、康子はようやく満足すると、テーブルの上にあったやすりを文鎮代りにして帰っていった。
膝までのブルージーンズとビーチサンダルを履いたまま、颯太は海に入る。
いるかのようだと、誰かが言っていたが、満遍なく日焼けしたこげ茶色の背中がゆったりと海面を泳ぐさまは、確かに海の生き物だった。
(ここ。颯太)
孤独で無音な場所から人の声がすることに、何の違和感も感じないまま、颯太の身体が海底を目指す。
シュノーケルも足ひれも必要としない、使い込んだ水中眼鏡だけで、彼はかなりの時間、深くまで潜ることが出来た。
相棒の長い銛を手に、ほぼ垂直に降下していく颯太。
耳に聞こえるのは泡のはじけるような音、見えるのは緑がかった海水と、波に千切られ漂う海藻。
時々銀色の小さな魚が、人間に驚いて身を翻していく。
(こっちだよ)
そう深くない海底に到達した颯太を呼ぶ声に、彼は身体を水平に保ったまま周囲を見渡した。
弱く挿し込む太陽光に、岩の一部がきらりと反射する。
妙な確信で、颯太はその光に向かって泳いだ。
「……」
水中眼鏡の奥で、瞳が驚く。
岩の隙間に挟まれた小さな物体を掴んだところで、颯太の息が切れた。
顔を上げて水面までの距離を計算した身体が、ゆっくりと浮上していく。
波の音と揺れが大きくなり、颯太は呼吸を整えながら現在位置を確かめた。
慣れた海とはいえ、こんなに暗くなるまで潜っていたことはない。
海沿いを走る道路に設置された街灯が、等間隔に光を海へ投げていた。
陸を目指し、颯太は握ったものをしっかりと意識しながら泳ぐ。
そうしてプレハブ小屋に戻った颯太は、鳥肌を立てている自分に気付いた。
手にあったものを机上に置こうとして手紙を見たが、すべて無視で浴室へと向かう。
冷え切った身体が、異常に疲れて重たかった。
海の家にあるような質素なシャワールームだったが、熱いお湯は出る。
血液が温まると同時に、肩の力が抜け、ため息が漏れた。
(颯太、いるかい)
元気な栄治の声が、浴室まで届く。
「いるよ」
シャワーに負けないように声を張って、颯太はわざとゆっくりお湯を浴びた。
バスタオルを腰に巻いて出て行く、と、部屋には誰もいなかった。
「栄にい」
年甲斐もなく隠れん坊でもしているのかと、颯太は思いつく限りの場所を探し歩く。
外にも出てみて、小屋を一周する。
「誰なんだよ、さっきから」
颯太の顔が不機嫌に歪んだ。
部屋に戻ると、海底から拾ってきた戦利品が床に落ちていた。
強い風が吹いたとは思えない、康子からの手紙はそのままだ。
(美奈に、渡してやってくれよ)
屈んで拾う颯太のすぐ耳元で声がした。
「……潤にいだったのか」
栄治の声真似までして、そんなにも伝えたい大切なことなのか。
颯太は、緑色に錆びたボロボロの銛先を見つめる。
音叉に似た形でカエシが小さい、間違いなく潤一が愛用していたものだった。
この数年間、ずっと探していたのに、見つからなかった。
あの場所だって、何度も潜った。
「美奈さんが帰ってきたから、だとしたらひでえな」
着替えた颯太が夜の町へ出て行く。
手紙は読まれないまま、そこにあった。
「おう、颯太じゃねえか。久しぶりだな」
「最近付き合い悪くねえか」
わざと薄暗くした電飾の、危なげな店の前で、昔の悪友たちが声をかけてきた。
「一緒に呑むか」
「来いよ」
しゃがんでいた一人が立ち上がり、颯太の肩に腕を回す。
背の高い彼より、縦も横も大きな少年だった。
「そうだな……呑むか」
今夜は独りでいたくない。
栄治の家へ行くつもりだったが、颯太の心は立ち止まる。
たまには現実から目を逸らして、何もかも忘れて騒いだっていいじゃないか。
改造した単車や車の間を抜けて、仲間たちと一緒に薄暗い店へと入っていく颯太。
「きゃあ、久しぶりじゃない」
「颯太、こっち座って」
そこから少し離れた海沿いの店に、栄治と美奈がいた。
海風を感じられるオープンデッキが自慢の、リゾート向け居酒屋風レストラン。
オレンジ色のカンテラと観葉植物が夜風に揺れ、波の音は足元から程良く響いてくる。
お洒落な細いグラスで適度なアルコールを楽しみ、ようやく自分のことを語る気になった美奈。
「じゃあ、仕事をやめてこの町に帰ってきたわけじゃないんですね」
栄治が、ほっとしたように話をまとめた。
「同じようなものよ」
肩の力を抜いて、美奈が暗い海を見つめる。
「会社の失敗が、全部私のせいなんだもの。時間の問題よね」
「でも、美奈さんは好きなんですよね、その仕事が」
栄治の台詞に、美奈はやや潤んだ瞳を向けた。
「どうなのかなあ。もう、わかんない」
お酒を含む唇が妙に色っぽくて、栄治は目のやり場に困りながら相槌を打つ。
「そうですか。わかんないんですね」
「栄治君は」
「は、はいっ」
急に名前を呼ばれて、姿勢を正す栄治。
「好きなの」
「えっ。ええと、何がでありますでしょうか」
「今の仕事」
「あっ。は、はい。好きであります……美奈さんのことも……」
精一杯の勇気は、考え込む美奈には届かず。
「栄治君は、どうして警察官になったの」
不意に訊ねられ、栄治は困惑した。
「美奈さんには、言い難いです」
「家業を継ぐのが嫌だったとか」
「そういうのじゃないんですけど」
「話して」
ほほを淡く染めた美奈が、下から栄治の顔を覗き込む。
場所が違ったら、思わず抱きしめたくなるようなポーズだ。
「俺はあの時、もう二度と、颯太みたいな被害者を出したくないと思ったんです」
はっきりした口調は、自分で思うより大きく店に響いていた。
他の客が、一瞬黙り込んでこちらを伺う気配がする。
「ああ。しまった」
頭を抱え、栄治が美奈の手を掴んで立たせる。
「美奈さん。外で話しましょう」
急いで店を出て、二人は海岸へと降りていく。
暗闇の中で、栄治は誰にも言っていなかった胸のうちを吐露した。
「飛び込み自殺なんて、確かに逝く方も理由があってのことでしょうし、辛いですが、遺された方はもっと辛いと思うんですよ」
黙って聞いている美奈。
すぐ傍に彼女の体温を感じながら、栄治は続けた。
「颯太はずっと探し続けているんですよ……潤さんの、欠片でもいいから、何でもいいから、って」
美奈が潤一を好きだったことくらい、二人をずっと見てきた栄治は知っていた。
でも、話すと決めたら最後まで話そう。
「あいつ、岬の下に家を建てたんですよ。飛び込みで死ぬのは、岩に当たるとかじゃなくて、むしろ溺れるからなんだって」
鼻をすする音が、波の音に混じった。
「発見が早ければ、助かる命もあるかもしれないって、あいつ、潜るのをやめないんですよ」
栄治の両手の拳が、強く握り締められていた。
「減圧症、って知ってますか」
美奈からの返事はない。
「潜水夫病とも言うんですけど。まあ、無茶な潜り方を続けると最悪、死ぬんです」
「えっ……」
「あいつは、母親を死に追いやったのが自分だと、後悔しています」
美奈が顔を上げる気配がした。
闇に慣れた目が、お互いの顔を確かめる。
「颯太が言ったわけじゃないんですよ。見てりゃ解るっつうか」
「そうだったんだ」
合わせた目線を逸らさずに、栄治が思い切って口を開いた。
「美奈さん。こんな話をした後ですけど、俺……」
急に背後が騒がしくなって、栄治と美奈はほとんど同時に振り向いた。
砂浜に誰かが降りてきたようで、酔って濁った声は威圧的で下品だった。
「栄治君」
本能的に恐怖した美奈が、栄治の袖を掴む。
「大丈夫ですよ」
栄治は明るい。
「この辺のチンピラは、全部俺の後輩なんで」
「え、そうなの」
「いやあ、はは。黒歴史、ってやつですか」
若造たちは、花火をやろうと騒いでいる。
「おう、火い貸せ。火」
「颯太、ライター持ってねえの」
「……ねえよ」
栄治と美奈が、またもや同時に声を張った。
「颯太あ」
「颯太君」
砂浜の向こうで笑い声と会話が途切れる。
二人の存在に今、気付いたようで、一番大きな少年が美奈を見て下卑た笑顔になった。
「わお、きれいな姉ちゃん。颯太、知り合いなら紹介しろよ」
「……しらねえ」
酔って俯いたままの颯太は二人に気付かず、顔を向けもしない。
「こんばんはあ。お兄さん、火い持ってませんか」
ふらふらと、数人が二人に近寄る。
「ついでにその彼女、置いてってくださいよお」
ぎゃはは、と大きな笑いが飛び交い、栄治に掴まる美奈の手に力が入った。
「ほお……おまえら、誰に口きいてんだ、コラ」
私服の栄治は、警察官というよりはむしろヤーさん。
「ええ。誰ですかあ」
「知らないでちゅう」
射程範囲内に入ってしまった二人が、砂浜に転がった。
「おおい。なにしてんだよ」
一番大きな子が気色ばんだ。
「俺の大切な友達によ」
「……あ。栄にいだったんだ」
砂浜に体育座りになっていた颯太の呟きを拾う大きな子。
「え。栄にい、って、栄治さん」
「そうだよ。文句あるなら受け付ける。今日は非番だしな」
栄治が美奈の手を離して、転がった二人を跨ぎ、大きな少年へ近付く。
「美奈さん。ほんのすこうし、待っててくださいね」
作った優しい声が本気で恐い。
「デッカイおまえは、北中出身の渡辺拓也だよな」
「ああう。そうです、すんません」
名乗りもしないのに身元を特定された拓也クンが小さくなる。
「颯太を返せ」
「あ、はい。どうぞ、どうぞ」
大きな手が颯太を引っ張り、立たせてから栄治に引き渡す。
「酒、呑ませたのか」
怒った声が低く響いた。
「ああ。すんません、久しぶりだったんで、つい」
「颯太は酒なんか受け付けない身体なんだからよ。気を付けてやってくれよ、友達なんだろ」
苛々と喋りながら、栄治はぐったりと力ない颯太の腕を、自分の肩に回す。
「美奈さん。行きましょうか」
「は、はい」
後は振り向きもしないで、栄治はひょろ長い颯太を叱り飛ばしながら引き摺り、階段を昇っていった。 
「起きろ、颯太」
古びて小さな平屋のアパート。
栄治は畳の上に颯太を放り投げてから、玄関に立ったままの美奈を振り返った。
「汚い部屋ですけど、よかったらどうぞ」
「ホント、キタネエよなあ」
うつ伏せたままの颯太がぶつぶつ何か言っている。
その後頭部を足の裏で踏みつけて黙らせる栄治。
「なんか。栄治君、初めとイメージ違うね」
多少怯えながらも、美奈は玄関で脱いだ靴を揃えて上がってきた。
「おじゃまします」
「こいつの始末つけたら送りますんで」
「一人で帰れたのに」
「駄目です。変なのに襲われちゃいますよ」
「ここにいたら、栄にいが襲っちゃうんじゃないの」
栄治の足から逃げ出した颯太が、仰向けに寝転がったままぐんにゃりと笑っている。
「泥酔だな」
呆れ顔の栄治は、山になった洗濯物を脇へ押しやり、美奈が座るスペースを作った。
「とりあえず、ここに」
「ありがとう。……颯太君は、大丈夫」
座りながら、美奈はぐにゃぐにゃの颯太を心配する。
「気持ち悪い」
いつになく素直な颯太。
「吐きたいなら、便所行けよ」
「起きれない、栄にい起こして」
海に鍛えられた鋼のような腕が、頼りなく宙を掻く。
思わず、美奈が声を出して笑っていた。
「みっともねえなあ」
栄治が颯太の腕を掴んで引き起こす、と、勢いが強すぎたのか、颯太がそのまま美奈に向かって倒れた。
「う、わああ」
慌てる栄治、声も出せないうちに酒臭い颯太の下敷きになる美奈。
「すみません、美奈さん。すぐどかしますから」
ばたばたと美奈よりパニくる栄治と、必死で颯太の両肩を押し返していた美奈の動きが止まった。
「……あったかいなあ……」
泣いているような声だった。
「……かあちゃん、ごめんな」
倒れたままの美奈が、颯太の頭を胸に強く抱きしめていた。
そのほほを、涙が止まることなく流れて落ちていく。
声を出さずに泣く美奈を、栄治はただ立ち尽くして見守るしかなかった。
「ええ。知らないよ、そんなこと言ってないし、してない」
翌朝。
いい気分で目覚めた颯太の頭を、寝不足の栄治が小突く。
「ふざけんな。おかげで、美奈さんは一睡も出来なかったんだぞ」
「それは栄にいのことが恐かったんじゃ、いてっ」
今度は蹴りを入れて、栄治は表情を崩すと台所を眩しそうに見た。
「すみませんねえ。朝ごはんなんて作ってもらっちゃって」
「ううん。平気」
熟睡してしまった颯太の腕がどうしても離れず、美奈は彼に添い寝する形で夜が明けてしまっていた。
優しく暖かい朝ごはんを、栄治と颯太が争うようにして食べ尽くそうとしている。
微笑ましく見守りながら、美奈はなんとなく部屋の片付けをしていた。
「俺はもう出ますけど、美奈さんは好きに使ってください。鍵とかもないんで」
自分のTシャツを着ている美奈が眩しすぎて、栄治は嬉しさに半泣きになりながら、制服に着替える。
「気を付けてね。いってらっしゃい」
美しい夢の新妻の笑顔に号泣しながら、自転車にまたがる栄治。
「夕方には帰りますけど」
そして、颯太を睨んだ。
「お前は帰れ。今すぐ帰れ」
「えええ」
「美奈さん。いざとなったら、金的ですよ。反則は取りませんから」
颯太を指差し、きりっと顔を作って、栄治が忠告する。
美奈は笑いながら頷いた。
「わかったわ」
「早く行けよ。遅刻なんて、警察がしちゃ駄目だろ」
颯太が、見送る美奈のすぐ後ろに立つ。
胸の位置に彼女の頭があって、どきどきするようないい匂いがした。
「おう、颯太」
「なんだよ」
「おまえ、美奈さんに何かしたら、マジでコロス」
「しねえよ」
「あああ。心配だ」
後ろ髪引かれまくりの栄治の自転車が遠ざかっていく。
ほっとため息をついて振り向くと、颯太はまだそこにいた。
近すぎる距離に、美奈の心臓が強く打つ。
「どうしたの、颯太君。部屋に戻ろ……」
予感はしていた。
逆らうことなど出来なかった。
颯太の目も顔も、仕草までもが潤一と同じだったから。
片手で頭を抑え、逃げられないように塞がれた唇、颯太の反対の手が窓を閉める。
「いいよ……潤って呼んで……」
心を読んだように囁くその声は、潤一そのものだった。
「……潤、いち……」
朝日が、摩り硝子の向こうから二人を照らす。
颯太の年齢が潤一に追いついて、追い越した。
美奈の真っ白な肌は陶器みたいにすべすべで、潮でがさついた指先が触れると、傷が付きそうなくらい繊細だった。
閉じた目尻から流れる美奈の涙も、颯太が全身から流す汗も、同じ海の味がした。
気だるく心地好い眠りから覚めた時、美奈は一人だった。
「颯太君……」
部屋は静かで、外からの蝉時雨が良く聞こえた。
起き上がろうとして、美奈は自分が何かを握っていることに気付く。
ぼろぼろに錆びた、それは銛の先だった。
「これは……潤一の」
また涙が溢れてきた。
自分の身体の中に、こんなに水分があったのかと驚くほど、この港町に帰ってきてからの美奈は良く泣いた。
宿でも、港でも、ここでも。
目が開かなくなるほど泣いて、化粧も落ちて、美奈はシャワーを浴びに浴室へ向かう。
お湯を頭からかぶりながら、美奈はまた、泣いた。
……死ぬために戻ってきた。
遠く離れても忘れられなかった彼の元へ行こうと決めていた。
「……どうして……」
この町は優しい。
あの岬の存在がそうさせているのかもしれない。
悩む旅人に、そうと知らせず優しく接する、この町の人々は、誰もが人に優しかった。

『居場所』

「何してんの」
いるかみたいな少年が、長い銛を片手に、立っている。
海岸から岬を見上げていた男性は、戸惑いを隠しきれずに口ごもった。
「あっこ、行きたいんなら案内するけど」
あごで示し、挑戦的に瞳を光らせる颯太。
「い、いや。私は、別に」
まさか声をかけられるとは思ってもいなかった。
自分の存在に気付く人間なんて、もう居ないと思っていたから。
押しのけられ、踏み潰され、罵られ。
何をしたわけじゃない、一生懸命生きてきただけなのに。
「飛び降りるんでしょ、おじさん。手伝うよ」
薄く微笑む感じが、鬼か悪魔かと思う。
飛ぶのか、と改めて問われ、男性は高い岬の先端を見上げると思わず喉を鳴らした。
ほら、と、颯太が近付き、その手が伸びてくる。
掴まれそうになった腕を振り、男性は引きつった笑いを浮かべた。
「い、いや。違うんだ。景色を」
「ふうん」
そこでようやく、颯太の強い視線が離れ、彼は海を見たまま言った。
「待ってるんじゃないの」
「え」
「おじさんが居なくなったから、探してるよ。その人」
「き、君は何を」
「あ、そうだ」
颯太が急に振り向いたので、青ざめた表情の男性と彼の視線は、音がするくらい噛み合った。
「それでも飛ぶなら、俺がいない時にしてよ。でないと俺、おじさんのこと拾いに行くからさ」
言葉なんて出なかった。
颯太の瞳は強く輝き、それは、あの嵐の日に潤一が見せた、死を超えた覚悟の光で。
俯き、肩を震わせる男性の薄い頭頂部を見つめながら、颯太が呟く。
「帰りなよ。今、浮かんだんでしょ」
その人のもとへ……。
まず、話そう。
飛び込む勇気があるなら、口を開いて喋ることくらい、簡単だって。
通りがかりに重たい言葉を吐いておきながら、少年はいともあっさり男性から離れ、海に向かって歩き出す。
頭の上にあった水中眼鏡を、慣れた速度で装着して、チョコレート色の上半身はすぐに波の中へ消えた。
「あれ。康子ちゃん、どうしたの」
巡回中の駐在さんが声をかける。
俯きがちに歩く彼女の肩に元気がなく、栄治は自転車から降りた。
「あ。……栄治先輩」
真上から容赦なく照りつける太陽光と、海から吹き上げてくる湿った風。
砂浜から聞こえる無駄に陽気な音楽が、今の自分と合わなくて苛々だけがつのる。
「元気ないね。颯太と喧嘩でもした」
そう言われて、康子はこらえていた涙をこぼしてしまった。
「喧嘩できたら……その方が、ずっといいのに」
「えっ」
思ったより康子の気持ちは重症で、栄治は彼女が落ち着くのを待ってから、改めて訊いた。
「何があったのか、話せるかい。まあ、俺でよかったら、だけど」
「……手紙をね、書いたの」
ガードレール越しに海を見ながら、康子は小さな声で話す。
潮騒と壊れかけたスピーカーが邪魔をしたが、栄治は必死で耳を傾けた。
「こないだ、進路が決まってないって話したでしょ」
「ああ、そうだったね」
「私ね。お父さんに、颯太と一緒に進学したいって相談したの」
「康子ちゃんは、進学希望だったんだ」
「うん。ちょっと遠いけど、大学行きたくて」
太陽光が、並んで立つ二人の肌を焦がす。
車道を通り過ぎていく車の排気ガス臭。
青い空には、白い雲が立体的に浮かんで見えて。
周囲はこんなに明るいのに、康子の表情は悲しい。
「願書の締切があったから、急いで返事が欲しかったんだけど」
訊ねていった小屋に彼の姿はなく、それどころか、手紙は開かれた形跡すらなかった。
颯太を探して港と海岸、康子は岬の上にも行ってみた。
「もう何日も帰ってないみたい」
「そうだったのか。知らなかった、ごめんな」
栄治が康子に謝った。
「どうして、栄治先輩が謝るの」
「あいつ、このところずっとウチに居るんだよ」
海から上がった後、身体のだるさが抜けない。
こんなことは今まで経験がなかった。
しかし、一日数回は潜らないと生活費が稼げない。
重度のめまいで倒れた颯太が救急車で運ばれ、栄治が病院まで引き取りに行ったのが数日前。
「お前はしばらくここで寝とけ」
少年を畳の上に転がしておいて、栄治は自分の生活パターンを崩すわけにもいかず。
「先輩のウチ、私が行ってもいい」
「ああ。構わないよ」
あいつが、おとなしく寝ているかは判らないけど。
颯太の所在が判り、康子は元気を取り戻して小走りに去っていく。
「……青春だなあ」
栄治が帽子を持ち上げて汗を拭きながら、康子の後姿を見送る。
海からの生温かい湿った風が、強さを増して吹きつけていた。
「颯太っ」
ぺらぺらのビーチサンダルが、脱いだままの形になっている。
開けっ放しの縁側から、勢い良く栄治の部屋を覗き込む康子。
一つしかない部屋に本人の姿はないが、奥の浴室からお湯を使う音が聞こえていた。
冷え切った身体が辛い。
腰の周囲に鉛を巻きつけたような重たさを感じて、それはめまいと一緒でなかなか消えない。
シャワーの合間に颯太は、康子の声を聞いた気がした。
「颯太、いるんでしょ」
「……なんだよ潤にい。今度はあいつの声真似か」
首の後ろに熱いお湯を当てながら、颯太は大きな声で返事をした。
「いるよ」
腰にタオルを巻いただけの颯太が、浴室から居間へ出ていく。
お互いに、まったく油断していた。
「きゃあっ」
驚いた康子が腰を抜かす。
軽く舌打ちをして、颯太。
「……ホンモノかよ」
「は、はは早く、着替えてきなさいよ」
両腕を振り回し、真っ赤になって視線を泳がせる康子が、なんだか可愛らしく見えた。
初めて、幼馴染に女性を意識した颯太が、悪戯顔で笑う。
「な、なに……」
「おまえ。栄にいんちに、何しに来たの」
言いながら、颯太は康子の方へ無遠慮に近付いた。
「何って。あんたがここに居るって聞いたから」
立ち上がり、若干後ずさりながら、康子は逃げ道を探していた。
「へえ。心配してくれたんだ」
颯太の腕が伸びて、開けっ放しだった引き戸を閉める。
直接畳に挿し込んでいた太陽光が、磨り硝子の向こうへ遠のいた。
それだけで空気の流れが変わり、康子は不安な表情になる。
「俺はてっきり、栄にいに会いに来たのかと思ったよ」
「どうして私が、栄治先輩に会わなきゃいけないのよ」
言葉は強気だが、声は弱い。
「え。だって、好きなんだろ。栄にいのことが」
迫られて押し付けられる部屋の壁。
チョコレート色のたくましい腕が、康子の顔の横にある。
こんな場面で、颯太のワルガキ笑顔が可愛い、と思ってしまった康子の負けだ。
「……ずるいよ」
「え」
「私が好きな人、知ってるくせに」
颯太は背中を丸めてほほを寄せると、康子の耳元で囁いた。
「知らない……誰」
黙り込んだ康子が、顔を真っ赤にしたまま、困り果てた表情を颯太に向ける。
文句を言いたそうに尖らせた唇が欲しい、と、正直に思った。
上がった彼女の小さなあごを片手で掴み、颯太は返事を待たずにその唇を塞ぐ。
その一瞬で、康子の全身が熱くなるのを感じた。
押し返そうとした彼女の両腕を、颯太は軽く掴んで自分の腰に回してしまう。
宙に浮いた康子の腕はやがて、躊躇いながらもそっと、颯太の広い背中を抱きしめた。
どのくらい、そうしていたか分からない。
突然、康子が思い切り颯太の胸板を突き飛ばした。
「ばかっ」
驚いて見つめた康子の顔は泣いていて、颯太は戸惑いを隠せない。
背中を向けた彼女が引き戸を開けた瞬間、防砂林を吹き抜ける海風の音が大きく響き、ぼんやりしていた颯太の頭を急激に醒ました。
「おい、待てよ」
下を向いたまま走り出した康子と、何も知らずに敷地内へ入ってきた美奈がぶつかりそうになった。
「きゃっ」
「ご、ごめんなさいっ」
相手が誰なのか確かめることも出来ずに、康子はそのまま行ってしまう。
「颯太君……彼女に何したの」
非難めいた口調の美奈が、厳しい顔つきになっていた。
「別に、何も」
美奈の視線を避け、颯太はあごを上げるとそっぽを向く。
「女の子を、泣かせたの」
「あんたには、関係ないだろ」
小さく肩をすくめ、持ってきた薬の袋を縁側に置く美奈。
「そうね、関係ないわ。だけど」
颯太の横顔を見上げながら強く言う。
「本当に好きな子なら、泣かせちゃ駄目よ」
居心地の悪さは最高潮で、颯太は着替えるために浴室へ戻ろうとした。
「そんな好きでもねえし」
「好きでもないのに、抱かないで」
背中に響いた美奈の声色に、颯太の肩が竦んだ。
恐いものでも見るように、そっと振り向く。
「美奈、さん」
彼女の姿はなく、おそらく颯太のためであろう薬の袋が、風にやたらと揺れていた。
栄治の部屋で、颯太は体育館座りで壁にもたれていた。
いつの間にか降り出した雨が、景色を灰色に変えている。
「……俺はどこに、帰ればいいのかな……」
湿った独り言に返事をするものはいない。








後書き

生きよう。
生きているなら。

少し重たいお話になりました。
あと、軽くR指定でしたね。
ご注意ください。

この小説について

タイトル 風のソウター前編ー
初版 2014年11月6日
改訂 2015年7月26日
小説ID 4603
閲覧数 462
合計★ 0
アクアビットの写真
ぬし
作家名 ★アクアビット
作家ID 666
投稿数 23
★の数 60
活動度 6971
継続の大切さと恐ろしさを実感する今日この頃

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