風のソウタ - 風のソウター後編ー

『灯』

死に向かう人のエネルギーは、時として、生きようとする人よりも強い。
でもそれより更に、周囲の人までも突き動かすのは、死の淵から帰ってきた人の生命力だ。
『人間、死ぬ気になれば何でも出来るよ』
だからって、そんな簡単に言わないでほしい。
死と向き合った時、その人の心はやはり、一度世界から突き放されているのだから。
「颯太。おまえ、海岸で男の人見なかったか」
栄治がプレハブ小屋に来たのは、近付く台風の雨が降り続く午前のことで。
冷たい雨に叩かれて色を失った砂浜では、遊泳禁止の赤い旗が風に煽られていた。
「見たよ」
椅子に座って銛先を磨いていた颯太が顔を向ける。
雨風のせいで窓が締められた小屋の温度は湿度とともに高く、不快指数は上昇一方だ。
噴き出す汗を拭い、栄治は壁際に行くと扇風機の風を独り占めしたまま聞く。
「いつ。どの辺で」
記憶を辿るように天井を見上げて、颯太が答えた。
「嵐の前だったよ。岬下のバス停辺りだったかな」
「そんな、前か」
ぬるい風に向けていた顔を悔しそうに歪めた栄治が唸る。
「もう、無理かなあ」
「捜索願でも出たの」
青ざめた顔で両腕を弱々しく振っていた、疲れた男性を思い出しながら、颯太が言う。
「家族の方がね。探し回ってて、やっと昨日ここに辿り着いたらしいんだ」
「栄にいには辛い状況だね」
「……おまえにも、だろう」
「俺は。別に」
「強がるなよ」
颯太に歩み寄った栄治が、その頭をぐりぐりと撫で回す。
「やめろって」
照れ隠しに立ち上がり、颯太はそのまま部屋を横切ると海側の窓を開けて外を見た。
夜が明けたはずの空は灰色にどんよりと曇り、湿った風が小屋を持ち上げる勢いで吹き込んでくる。
巻き上げられた海水が霧状になって室内を舞っていた。
「直撃かな」
外を見たまま、颯太が呟く。
「ここは、台風のコースじゃないからな。沖は相当時化てると思うけど」
栄治が空いた椅子に座って返す。
美しく磨かれた銛先を手に取り、なんとなく眺めながら、側にあったコーラを勝手に飲んだ。
「間に合うかな」
「え」
「台風が来る前に、俺、ちょっと潜ってみようか」
「馬鹿言うな」
思ったより大きな声が出た。
振り向いた颯太よりも本人が驚いて、栄治は自分を落ち着けようと深呼吸をする。
「そういうことじゃないんだよ」
「何が」
真っ直ぐ見つめる栄治の目は、少し寂しそうにも見えた。
「なあ、颯太。俺がこうやって、ここに来るの、迷惑か」
「別に。何で」
「俺いつも、居なくなった人の話ばっかしに来てさ。でも、探してくれってわけじゃないんだ」
窓辺に寄りかかり、颯太は黙って栄治を見つめ返す。
「俺。颯太のことは生まれた時から見てて、俺は一人っ子だったし、潤さんと三人兄弟みたいに育って」
予期しない涙だった。
目尻を伝う温かいものには構わず、栄治は続けた。
「本当の弟だと思い込んでたよ。俺の本音みたいなもの、ここなら吐き出せると、勝手に思ってた」
「栄にい」
「……ごめんな」
立ち上がった栄治の顔は、もう駐在さんに戻っていた。
制帽を被り直す、いつもの癖。
「おまえは潜るなよ。遊泳禁止の時に潜ったら逮捕するからな」
栄治の制服姿が、やけに頼もしく見えた。
常に鍛えている身体、心に持つ強い正義感。
その瞳に宿る、意思の強い光。
「じゃ」
背中を向けて嵐の外界へ出て行く栄治の後姿と、あの日の潤一が重なる。
「ま、待って。栄にい」
思わず叫んだ颯太が、栄治の腕を掴んだ。
あの頃の颯太にはなかった、心と腕の力。
「俺も行くよ。俺も、連れてってよ」
もうこれ以上、誰も失いたくない。
何も出来ないまま、すべてを失うのは、もう、嫌だ。
「俺にも、手伝わせて」
掴まれた腕に力を込めて、振り解こうかと考えた栄治が少しの間動きを止める。
「力さん。台風、どうですか」
海に一番近い消防団の詰所で、パソコンに向かう男性に栄治が声をかけた。
数台並べたモニターには、海上保安庁の情報部が公開する海図が映し出されていた。
海流概況図、潮汐カレンダー、沿岸域流況図。
脇のラジオからは、台風の実況中継が聞こえている。
「順調」
リキさんと呼ばれた若い男性は、短く答えながら栄治を振り返った。
「俺は、通り過ぎるのを待った方が、より安全だと思うよ」
「船、出せませんか」
「難しいんじゃない」
そう言ったあとに力さんは、栄治の後ろから頭だけ飛び出ている颯太に気付き、表情を変えた。
「柳井の弟じゃないの」
颯太は黙って頭を下げる。
詰所内に漂う緊張感が、少年の身体を硬くしていた。
けして広いとはいえない部屋の中では、地元の消防団のメンバーが、淡々と身支度を整えている。
「彼が男性を見たのは、数日前なんですよ。岬下のバス停付近だったそうです」
栄治が説明するのを、彼らは背中で聞いていた。
「これ以上捜索が遅くなったら、間に合わないんじゃないかと思いますが」
頷きながら、力さんは颯太を見た。
「確かに岬から飛んだと、思うかい」
遭難者の救助は何よりも大切な任務だが、力さんには、救助隊仲間の生命も守る責任と義務があった。
「状況を良く思い出して、答えてくれよ」
時化の海に船を出す危険性。
飛び込んだと思われていた遭難者が、別の場所で見つかることも、この町ではよくあることだった。
「あの時俺、おじさんと会話してるんですよ。俺、帰れって言ったんです。飛び込んだところで、俺が拾いに行くからって」
「君は、良く見てるんだよね。そういう、人達を」
「……はい」
「どう思う。正直に、その人は、死ぬ人だったかい」
小刻みに頷く颯太の額に、汗が滲んだ。
「……いいえ。思えません」
そう答えて逆だった場合の恐ろしさに、颯太の背中がぞわぞわと寒くなっていた。
見捨てることにならないか。
もし生きたまま漂流していたら。
「覚悟は、見えなかったと」
確かめるように、力さんが聞く。
「思い直したように、俺には見えてました」
「……そうか」
力さんは、大きなため息を吐いて椅子を回すと、モニター画面を確かめる。
「今回の台風は強い勢力を保ったまま、こちらに向かってきている」
オレンジ色のウエットスーツに着替えた屈強なメンバー達は、互いに水中ライトや時計の確認をしながら力さんの発言を待っていた。
「行くなら、三時間が限度だと思うよ」
「三時間」
顔を見合わせたオレンジ色の集団から、ため息が聞こえた。
「そんなんじゃ、ろくに探せないな」
頭に白いものが混じり始めた一人が言う。
「よほど範囲を絞っていかないと」
「どうするんだ、力」
決断を鈍らせようという勢いで、突風が建物を揺らした。
窓に当たる雨音はますます強くなり、雨粒は大きくなっていく。
「俺に、潜らしてください」
颯太の発言に、どうしようかとざわめいていた室内が一気に静かになった。
「嵐の前に、ものが流れ着くならここ、って場所があるんです」
力さんはモニター画面が見えるように、身体をずらして言った。
「これ見て、何が何か分かるかい」
「……はい」
「心当たりの場所がどこか、教えてくれないか」
颯太はしばらく黙って海図を見下ろしていた。
少年を見守る室内に、外の嵐が凶暴な唸り声を届ける。
「この辺り、です」
颯太の指先が画面の一箇所を示した。
「うん」
そこは、力さんが心の中で絞っていた捜索ポイントと、まったく同じ場所だった。
短く唸るように声を出し、腕組みをして椅子の背に身体を押し付ける力さん。
「船を出さなくても、この岸から行けます」
念を押すように言った颯太に、力さんは大きく頷いた。
「分かってる。君なら、泳いで行っちゃう、ってことだよな」
「はい」
視線を感じた力さんが顔を上げると、栄治が側に来ていた。
「俺が付き添います。こいつの腰にロープつけて、俺が岸から引っ張ります」
力さんは二回、颯太と栄治の顔を交互に見直した。
数分後。
また強く降り出した雨の中、パトカーと消防車が赤灯を回転させながら、海岸沿いの道を駆けていく。
車では入れない捜索ポイントに到着すると、待っていたように雨が止んだ。
分厚く空を覆っていた黒い雲が一箇所薄れ、薄明かりが遠く海面を照らす。
「天使のエレベーターだ」
呑気に颯太が言い、命綱を用意する栄治は忙しなく頷いた。
「風が止んでる。今のうちに仕度しちゃうぞ」
借りたウエットスーツのおかげで、水温は気にならなかった。
より速く泳ぐために、足ひれはつけたが、その他の装備は颯太が嫌がった。
うちに帰るみたいにざぶざぶ海へ入っていく颯太の背中が、慣れたフォームで水中に消える。
引っ張られるまま綱を繰り出しながら、栄治は手のひらに颯太の命を感じていた。
「じゃあ、栄治。ここはおまえに一旦任せるぞ」
最後まで残っていた力さんが、二人の様子を見届けて言った。
「俺も別のポイントへ行く、連絡は無線で取り合おう」
「はい。力さんも、お気を付けて」
制服を脱いで身軽になっていた栄治が、敬礼で力さんを見送る。
また、霧雨が降り出していた。
厚手の雨合羽を着た栄治が、滑り止めの付いたゴム製軍手で命綱を握っていた。
岬の斜め下、岩場に囲まれた本当に小さな砂浜。
背中は断崖絶壁、夕方みたいに薄暗い海岸で、栄治は一瞬ものすごい孤独感を味わった。
「あいつは……いつもこんな思いをしてたのか」
眼前には、無限の奥行きを持つ海。
高い体温を持つ哺乳類の気配は皆無で、当然、人の姿もない。
途方もなく広い広い地図の上に、ぽつんと針の先みたいに置かれた小さな身体。
「いや。水の中の方が、もっと淋しいよな」
無意識にため息が出て、栄治は肩に入っていた余計な力を抜く。
しばらくすると、延々と出続けていた綱の動きが止まった。
「着いたか」
栄治の独り言が大きい。
うねる海面を見ると不安は増すが、颯太は、海中の方が静かなのだ、と、言っていた。
綱が、岬の方角に向かって動き出した。
海岸線とほぼ水平を保つ、颯太の距離感覚に舌を巻く栄治。
「何か、俺初めて、あいつを尊敬したよ」
顔に当たる雨粒が冷たく、体温は嫌でも奪われていく。
「うう、寒い」
足踏みを繰り返して暖を取る栄治の、綱を握る腕が引き摺られた。
「うわっ」
確かに油断はしていたが、手を放して正解だったかもしれない。
煙を出す勢いで引っ張られていくロープに挟まれたら、脱臼で済むかどうか。
「颯太っ」
ようやく落ち着いた命綱が、大分緩んでいる。
「これは、少し巻いたほうが良いよな」
栄治は綱の先の颯太を感じるために、ウインチのレバーを手動に切り替えて、ゆっくりと動かした。
元の位置まで戻った辺りで、ごんごんと叩くような感覚が指先に伝わってきた。
颯太が何か言っているみたいで、栄治は思わずほほを緩める。
「何だよ。ちゃんと言えよ、わかんねえよ」
(もうちょい、出してやって)
「え」
この鳥肌は、寒さのせいではない。
「うそだろ。今の声……潤さん」
何かを漏らしそうになりながら、震える栄治の腕がレバーを逆回転させる。
もう一度、ごんごんと叩く感触がして、栄治はレバーを止め、周囲をそっと見回した。
「……潤、さん」
期待半分で、わざと声に出してみる。
霧雨に曇る海岸の景色。
生い茂る鮮やかな緑は灰色に変色して、昔の写真みたいだ。
「見えるわけ、ねえか」
栄治は気持ちを引き締めた。
目には見えなくても、心はそこにあるのかもしれない。
もしも、潤一が颯太を心配してここに来たのなら、事故が起きないよう細心の注意を払うのが栄治の務めだ。
「颯太。気を付けろよ」
吹き付ける風の強さが、雨とともに増してきていた。
遠く水平線の向こうに、巨大な低気圧の渦があるのかと思うと、かなり恐い。
栄治の緊張感は、海中の颯太にも伝わっていた。
(颯太、あっち)
潤一の声が呼んだが、颯太は躊躇した。
潮目が、いつもより岸寄りに流れている。
あれに掴まると、さっきみたいに厄介なことになる。
「……」
颯太は呼吸のために海面へ顔を出した。
大きなうねりが身体を強く揺すり、体力を削る。
見上げた景色の正面で、岬の先端が無表情な冷たい顔を海に向けていた。
「……あれ」
気のせいと思いたい。
人影が、岬の一番端っこで動いた気がした。
嵐は立派に育った木々を大きく揺らし、何が何か判らなくしてくれる。
人なのか、折れた枝なのか、それとも塵なのか。
「あっ」
塵のような黒っぽい塊が、岬の天辺から海に向かって落ちていく。
颯太が、落下地点を目指して泳ぎだした。
残った体力を全部使い切る勢いだった。
その勢いがロープを伝って、栄治に届く。
「ん。どうした、颯太」
目を上げた栄治の視界にも、黒い塊が、今、水しぶきを上げて海中に落ちた。
「あれかっ」
栄治の片手が無線機を押す。
「力さん。発見しました、岬の真下です」
「了解。直ぐに向かう」
ごろごろした石の海岸を、命綱を握ったままの栄治が走る。
何度も転びそうになりながら、目に入る雨を腕で拭い、おそらく今までの人生で一番真剣に、栄治は走った。
「無事でいてくれよっ」
手には颯太の、命の重さを感じながら。
真っ黒で大きな断崖絶壁は、近付く人間を真っ向から拒否しているように思えた。
黒く濁る海だって、本当は人間なんて大っ嫌いなのかもしれない。
身勝手で、我侭で、脆弱で。
(栄治っ)
「うわっ」
潤一の声に反応した栄治が、反射的に腕に力を込めた。
その瞬間、命綱が勢い良く引っ張られた。
「ちっきしょ」
足を止め、腰を落として踏ん張り、栄治が綱を支える。
「栄治っ」
力さんが、仲間と一緒に海岸へ転がり降りてくる。
後は何も言わず、全員でロープを引っ張った。
勢いを増した風と雨が、小さな人間達を試していた。

『生きる』

「颯太。待って」
明るく弾んだ女子大学生の声が、海に近い駅の構内で響く。
線路は単線で、駅員さんは一人しかいない。
颯太は、呼ばれると歩調を緩め、少しだけ後ろを振り向くような仕草を見せた。
電車を降りた康子は、重たそうなかばんを肩に掛け直して、足を速める。
「同じ電車だったんだね。気付かなかったよ」
「……貸せよ」
「え」
颯太の片手が伸びてくる。
意味が解らず顔を見上げていると、康子の肩が不意に軽くなった。
「うわ、重てえ。何が入ってるんだ、弁当か」
からかうように笑って、また背の伸びた颯太がさっさと改札を抜けていく。
「しっ、失礼しちゃうわね。何よ、お弁当って」
追いかけて駆け足になる康子。
「やっすっこは、食いしん坊う」
凄く離れた場所で、颯太が変な節を付けて歌っている。
「おかえり。今日は早いんだな」
その歌に釣られたのか、駅前の交番から、駐在さんが出てきた。
「ただいま、栄にい。俺達、明日から夏休みなんだ」
「あああ。学生さんはいいなあ」
そして、やっと追いついた康子に笑顔を向ける。
「青春だねえ」
「栄治先輩、コイツ叱ってください」
唇を尖らせて康子。
「え。何で」
いつもの癖で、制帽を直す栄治。
「大っきな声で、変な歌、歌うの」
「そっか。じゃあ、タイホすっか」
「うん。そうして」
「ええ、何でだよ」
言い返す颯太の、切れ長の目が優しく笑っている。
康子が笑った。
周囲の人まで嬉しくなるような、心から幸せそうな笑顔だった。
「あ、そうだ。颯太、ちょっといいか」
栄治に呼ばれて、開けっ放しの交番に入っていく二人。
「手紙が届いてたんだ」
「俺に」
「そう、あの時の。仲代さん」
「……ああ」
思い出に向かって、一瞬だけ暗い表情を見せた颯太が葉書を受け取る。
じっくり読むまでもなく、分かりやすい感謝の言葉が、丁寧な文字で並べられていた。
「誰から」
康子が覗き込む。
「俺が……栄にいと一緒に拾ったおじさん」
葉書を康子に渡して、颯太が栄治を見る。
「市から感謝状って、あのおじさん何者だったんだ」
「さあ。別に、何者でもいいんじゃないか」
栄治はにやにや笑って教えてくれない。
「一人の人間さ。命いっこの」
その説明に不満そうな表情だった颯太は、外からの湿った海風にほほを緩めた。
「ま、いっか」
そして、側にあった康子の頭をぐしゃりと撫でた。
「帰ろうぜ、康子」
あとは待たずにさっさと交番を出て行く颯太に、康子は驚いた顔を向けていた。
「帰ろう、だってさ」
彼女の気持ちを読んだように、栄治が呟く。
「明るくなったよな、あいつ。これは、康子ちゃんのおかげだよ」
噛みしめた何かを飲み込んで、康子が微笑んだ。
「私だけじゃないです。栄治先輩も……美奈さんだって」
急に、栄治が悪戯顔になった。
「ところで。君達って、結婚するの」
負けじと、康子がにいっと笑い返す。
「栄治先輩と美奈さんが先です。いったいいつまで待たせるんですか、美奈さんこないだ」
最後まで喋らせずに、栄治が空気を変えた。
「さあっ、て。午後の巡回行かなきゃな」
大きく伸びをした栄治が、机上の葉書に気付く。
「あいつ、忘れていったぞ」
「わざとでしょ」
康子が大きくて重たいかばんを肩に担ぐ。
「何が入ってるの、それ」
「撮影機材です」
「へえ」
「学校のサークルで、颯太を主人公にした映画を撮ろうって」
「そうか。いいねえ、青春だ」
栄治の視線が、ゆっくり歩く颯太の背中を見送る。
「栄治先輩のことも、撮らせてくださいね」
「かっこよく、頼むよ」
遮るもののない、明るく真っ直ぐな太陽光線。
遠くどこまでも続いて見える水平線。
際限なく打ち寄せる波の音と、壊れたスピーカーから流れるFM放送。
「それじゃ、またあとで」
「おお。夕飯は二人で食べに来いよ」
「はいっ」
康子がかばんの重さに負けて、よたよたと駆けていく。
待っていた颯太が、軽々とかばんを取り上げるのが見えた。
まじめな顔をして制帽を被り直した駐在さんが、白い自転車に跨る。
午後の巡回をはじめた彼は、駅前の小さなビルをなんとなく見上げて通り過ぎた。
そのビルの窓から、カーテンを揺らして入ってきた海風に、書類のコピーを取っていた美奈が外を見る。
「もう、夏ですね」
上司に冷たい麦茶を出しながら、紺色の制服を着た美奈が笑いかけた。
「ああ。そうだねえ、また暑くなるねえ」
彼女が持ったお盆から自分の湯飲みを取って、別の社員さんが話しかける。
「でも、今年の納涼祭は楽しみですよ。鈴木さんの浴衣姿が見れるから」
「納涼祭があるんですか」
美奈が聞き返した。
「ウチの敷地内で毎年やってるんだよ。近所の子どもを呼んでね、屋台は社員企画で」
「わあ。楽しみ」
「それまでに、こっちの企画を何とかしなきゃだけどねえ」
机上に積まれた書類をぺらぺらとめくり、上司は呑気に笑う。
肩の力を抜いて、美奈も微笑んだ。
「……その納涼祭に、康子ちゃんの映画の上映は出来ないかな、って」
その日の夜。
少し広くなった栄治のアパートで、美奈が康子に提案していた。
「嬉しいです。誰かに見てもらえるなんて」
ビールと枝豆、冷奴。
上唇を泡だらけにしながら、栄治が颯太のグラスを取り上げる。
「だから、おまえはあんま呑むなって」
「何でえ。もうハタチだし、俺」
「身内にサバ読むな、来年だろ。ていうか、俺はお巡りさんだぞ」
同じような白い袖なしシャツを着て、同じような髪型の二人がじゃれているのを見て、女性陣が微笑みあう。
「颯太、おまえ。本当に体調はいいのか」
足の裏で颯太を向こうへ押しやり、自分のグラスにビールを注ぎながら栄治が聞く。
「大丈夫だって。もう倒れないよ」
長い腕を伸ばして、グラスを取り返そうと栄治にもたれかかる颯太。
そのひょろ長いくせに頑丈な身体を支えて、栄治が二つのグラスを空にする。
「……でもまだ、潜ってるんだよな」
空になったグラスを持たされた颯太は、そのまま畳に寝転がり、グラスを口に押し当てて喋った。
「半分仕事デスカラ」
ため息一つ、栄治が呟く。
「大事にしてくれよ」
「はい、はい」
颯太の返事はグラスの中に篭って響く。
栄治のげんこつが、颯太の頭を殴っていた。
それを見て笑いながら、女性陣がキッチンから合流してくる。
唐揚げがてんこ盛りの大皿を、栄治が正座して受け取った。
「美味そうです、美奈さん」
「いっぱい食べてね」
「はいっ」
すでに奥さんみたいな美奈と、毎回感動の涙を浮かべる栄治。
面白そうにそんな二人を見比べる康子。
大袈裟に痛がり、窓際まで転がっていった颯太が、夜風を入れようと手を伸ばしてカーテンを開けた。
「……満月だ」
寝転がったまま窓辺で空を見上げた颯太が呟く。
お世辞にも、涼しいとは言えない潮風が吹き込んでくる。
波の音はここまで聞こえて。
「ん。何だ」
栄治が顔を上げた。
「花火の音」
颯太が言う。
「ああ、そうか。今日は隣町で花火大会だ」
「ここから見えるかな」
康子の呟きを美奈が拾う。
「公園まで出れば見えるかも。行こ」
「あ、はい」
出入口で邪魔をする颯太をわざと踏みつけるようにして、二人が外に出て行く。
「あ、俺も行きます。夜道に女性だけじゃ危ないです」
慌てて追いかける、番犬みたいな栄治。
「栄にいの方が危ないって」
……ぐしゃ。
「いってえ」
踏まれた頭を抑え、颯太も外へ出るためにサンダルをつっかけた。
(颯太)
呼ばれて振り向くと、潤一が立っていた。
「潤にい……」
(生きろ。おまえは生きて、幸せになれ)
その笑顔は想い出のまま強く優しかった。
「……まだまだ、敵わねえなあ」
片手を挙げて、颯太は背中で兄貴に挨拶を返す。
真っ直ぐ前を見ると、暗闇の向こうでみんなが颯太を呼んでいた。
手を振る康子の頭上で、腹に響く音と一緒に、大きな花火が夜空を白く染めた。


[終]

2013.10.17

後書き

悲しくて、辛くて。振り返ることも出来ずに立ち止まる。だけど、いつかは、前に進まなきゃいけなくなる時が来るんです、よ。

この小説について

タイトル 風のソウター後編ー
初版 2014年11月13日
改訂 2014年11月13日
小説ID 4605
閲覧数 533
合計★ 4
アクアビットの写真
ぬし
作家名 ★アクアビット
作家ID 666
投稿数 29
★の数 67
活動度 7901
継続の大切さと恐ろしさを実感する今日この頃

コメント (2)

そら てんご 2014年12月3日 10時32分32秒
お久しぶりです。
突然にお見掛けしなくなって……私なりにあなたの 見えざる決意 を感じていました。
本格的に作家業を目指されたのだろうな――といった感じです。
失礼ですが、私はあなたと同類だと思っていますので、そのあたりが解るのです(笑)。

驚きました。
風のソウタを一気に読ませて戴きました。以前の作品を書かれた人とはまったく別人のように感じました。本当に同姓同名ではないかと今も思っています。
映画の情景のように、場面が浮かぶ小説といった感想です。人物の個性もよく表現されていると思います。

ところでもう一つ驚きがあります。
あなたは女性なんですね。失礼いたしました、今の今まで男性だとばかり思い込んでいました。
ウツゆえの混乱の程、お許し下さい。ιιι

ぱろしょは、若い方の詩が多いのですが、
久しぶりに帰ってきましたら、短編小説が多くなっていてアダルトにとっては嬉しいかぎりです。
★アクアビット コメントのみ 2014年12月7日 8時53分08秒
そらてんごさん>>
大変嬉しいコメントをありがとうございました。
ああ、プロフィールを変更したのは失敗だったかな〜
・・・性別は超越して、これからも切磋琢磨、励ましあえれば。
と、思っております。

別の場所で修行してきました。
かなりの雑食で、いろんな文章を書いてきたつもりです。
変化があったなら、一つの成果と思われ・・・
投げ込んでみて良かったです。

・・・ホントウニ、ホンニンデスヨ・・・




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