傘探偵事務所物語

雪奈
プロローグ

拝啓 ×××様

 お久ぶりです。元気にしていますでしょうか?
 こうして筆を走らすのも本当に久しぶりです。緊張してしまって何て書こうか悩んでいる内に、気がついたら一時間も経っていました。私は文章を考えるのが昔から大の苦手で、昔ある人にお前は絶対に新聞記者や作家にはなれないだろうと言われたこともあります。私はその話を聞く度に記者や作家になんて絶対にならない、と強く心に誓っていました。
 話が脱線してしまいましたね。
 きっとあなたのことだから、口では「元気だよ」と言いながら無理をしているのではないでしょうか。だけどあなたが意地を張ってそう口にしている場面を想像するだけで、私はなぜか笑みがこぼれてしまうのです。
 反対に自分が元気かと聞かれたら、正直あまり元気ではないかもしれません。
 もちろん身体は元気です。風邪ひとつ引かずに毎日を過ごしています。ですが心の底から笑うことができないんです。
 なにしろ――あのような事件がありましたから。
 今でも思うんです。あの事件は本当に必要だったのか。起こらなかったら、それでもよかった事件だったのではないか。
そうすれば、私たちは今でもあの場所で笑い合うことができたのではないか――と。
 でも同時に思うのです。
 あの事件がなければ、きっと私たちは過去と向き合うことができませんでした。
 嘘で塗り固められた現実を、虚構に満ちた優しすぎる世界を、

本当

――なのだと言い張っていたでしょう。
 まるで子どものようですね。
 だけどあの時の私はどうしようもなく愚かで、どうしようもなく嘘つきな人間だったのです。
 現実と向き合うこともできない、逃げてばかりの卑怯な人間だったんです。
 どうしようもなく――弱い人間だったのです。
 そんな私を、今のあなたならどう思いますか?
 弱い人間だと思うでしょうか?
 どうしようもなく愚かで情けない人間だと思うでしょうか?
 もしかしたら、あの様々な出来事を経て、あなたの考えは変わったのでしょうか?
 私はあなたの言葉が聞きたいです。
 私はどうしようもなく――あなたに会いたいです。






第一話 嘘つきは泥棒の始まり


 窓の向こうは薄暗く、外の世界は昼間とは思えないほど鉛色に深く沈んでいた。ひたひたと雨が降りしきるなか、憂鬱な気分は一向に晴れそうもなく、ついでに雨も止む気配を見せない。
 とある街中に構える三階建ての雑貨ビル。その二階に拠点をおくこの事務所も例外なく梅雨の季節に影響を受けていた。部屋の中は外の天気に呑み込まれるかのように澱んだ空気に包まれている。
 窓ガラスに映る自分と目が合った男――相川涼一は、思わず溜め息を漏らす。こうも長丁場に雨の日が続くと、日に日に鬱屈した感情が溜まっていくようだった。
「……早く晴れないかな」
 ポツリと、涼一は漏らす。
 いつになったら太陽が顔を出すのか。いつもは鬱陶しく感じることもある日差しも、今ばかりは恋しくなってしまう。しかしながら、涼一の淡い期待は今朝の天気予報で早々に打ち砕かれたばかりだった。
「あれ? 涼一君は雨が嫌いなの?」
 背中に届いた問いかけに、涼一は振り返り、怪訝そうに眉をよせる。
「雨の日が好きな人なんて、あまり見たことがありませんよ」
 涼一のやや非難めいた口調にも、その人物は回転式の椅子に座りながら笑って応じる。
「僕は好きだけどなー。それにこういう日でもないと、僕のコレクションは見せ場が無くなるからね」
 彼の言うコレクションとは傘のことを指していた。傘の収集が趣味の彼は、自分が集めたお気に入りの傘を使えるからと、雨の日を喜んでいるようだ。
 楽観的過ぎる……。
 涼一は彼が座る机へと歩み寄り、そこで一つ、わざとらしく息を零す。
「所長。最近めっきり仕事が減りましたね」
 涼一に所長、と呆れながらに呼ばれた男――傘(からさか)宗助は、白い歯をこぼしながら回転式の椅子にさらにもたれかかる。すらりとした長い手足に線の細い身体付き。くわえて中性的で整った顔立ちをした宗助は、下手をすると女性に見間違えるほどだった。
「まぁ、そんなにかっかしないで。来るものは来るし、こないものはこないんだから。いずれ、時間が解決するよ」
「所長の主張通りにいくと、このままだと俺たち――傘探偵事務所は全員餓死することになりますね!」
 怒りのあまり、つい語尾を荒げてしまった涼一だったが、宗助は気にする風もなく、回転式の椅子で遊び始めた。くるくると愉しそうに椅子を回す姿からは、三十路手前の成人男性にはとても見えない。
「今は梅雨の季節だからね。ほら、雨の日ってあまり外から出たいとは思わないじゃない。だから客足も遠のくのもいたしかた無いことなんだよ。ここは忍耐との勝負だね。雨が勝つか、それとも僕たちが勝つか」
「……どっちが勝っても、俺らの台所事情は変わりませんよ」
 涼一は溜息交じりにつぶやく。それでは根本的な問題は解決しない。そう意味を込め放った言葉だったが、宗助はまるで気にする風もなく答えた。
「雨の日が終われば、気分も変わるし、依頼人も増えるって」
 気にしないで、と宗助は穏やかな口調で言葉を添える。
「……所長はもう少し気にして下さい」
 この人はもうダメだな……。
 涼一は宗助の楽観的な考え方を変えることを早々に諦め、小さく嘆息しながら再び窓の外へと視線を伸ばした。
 宗助は雨の天気が終わると依頼人は増えると根拠もなく述べていたが、本当だろうか。涼一がこの探偵事務所で働きだしておよそ一年。彼の経験上、そのような法則は一切なかった。悲観的に考えるのもよくないが、楽観的過ぎるのも考えものである。
「そんなに切羽詰っているんですか?」
 そのとき、宗助に負けずに劣らない呑気な言葉が、事務所の部屋に響き渡った。その声と共に奥の台所から部屋に現れたのは、色素の薄い髪の毛を腰まで垂らした少女であった。猫のような大きな瞳が驚いたように丸くなっている。少女の名前は波村琥珀といい、この街では有名な進学校に通う女子高生で、この事務所でアルバイトとして雇われている。
琥珀は宗助の机に茶飲みを置くと、穏やかな笑みを二人に見せた。
「まだ大丈夫ですよ。ほら、お茶もまだ買えるくらいですから。まだ余裕です」
「お茶が買えなくなったら本当にこの事務所終わりだぞ!」
 思わず突っ込みを入れた涼一に、琥珀は頬に笑みをたたえながら「まぁまぁ」と言って彼をなだめる。
「さすが、我が事務所のマスコットキャラクターだ。涼一君も、この琥珀君の落ち着きっぷりを見習いなさい」
 上司風を吹かせる宗助に、涼一はこぶしをきつく握り締めながら応じた。
「……それは世間一般では、能天気と呼ぶんですよ」
 こめかみの青筋を引きつらせ、涼一は低い声で反論する。
「涼一さん、大丈夫ですよ。この雨が止めばきっと依頼人が……」
「だからその自信の根拠は何なんだ?!」
 この二人は雨の日の何を知っているというのか。
 いつの間にやら雨の日と仲良くなっている二人を無視して、涼一は両手で顔を覆った。
「もぉヤダこの人たち……」
 涼一の嘆きの声に、琥珀と宗助は不思議そうに顔を見合わせる。
「……一体何したんですか、所長。涼一さん、もはや壊れかけのラジオ的な感じなんですけど……」
 声を潜めて問う琥珀に、宗助は心外そうな顔を作る。
「僕はただ、雨の日が過ぎれば依頼人も増えると……」
 そう言っただけだけど……、と困った風に彼は琥珀に視線を送る。
「確かに、依頼人はここ最近少ないですよね……」
 琥珀は悩ましげに溜め息を吐き、窓の外に視線を移す。宗助とは違い彼女はようやく現実を見始めたようだ。
「そうだッ!」何か閃いたようにいきなり宗助が声を張り上げた。
「何ですか! 急に!」
 驚いたのは涼一だけではなく、琥珀も宗助の奇行にギョッとした表情を向けていた。
 宗助は二人の訝しげな視線を受けつつ、しかしそれを笑顔で受け流した。
「そういえば、家の卵が昨日賞味期限だったこと思い出した」
 やっちゃったなー、と宗助は明らかに悔いてない様子で額を押さえた。
「…………それ、今言うことですか?」
 無駄に時間と体力を浪費した気がしてならない涼一だった。
「大丈夫ですよ。全部捨てればいいんですから」
「笑顔で言うことでもないけどな」
 確実に、この二人は傘宗助探偵事務所の現状について真剣に悩んでない。涼一はたった今確信を得た。
(いっそのこと新しい働き口でも探すかな)
 ふと、そうは考えたものの、不景気の世の中すぐに見つかるとは到底思えない。涼一は再度窓の外を見据える。やはりまだ雨は止んでいなかった。
 それに――と胸中で溜め息混じりにつぶやきながら、涼一はこの状況下でものんびりとお茶を口に含んでいる宗助を見た。
この人を放っておいたら、いずれ本当に餓死してしまうのではないか。そこまで自分は、鬼畜な人間ではないと信じたかった。
 するとそのとき、涼一の思考を妨げるように事務所の電話が鳴り響いた。
「はい。こちら傘宗助探偵事務室です」
 受話器を取ったのは宗助だった。
――事務室じゃなくて、事務所だけどな
 自分の事務所名を間違える所長など聞いたことがない。しかし久々の依頼かもしれないと思うと、自然と気持ちが弾んでしまうのも事実だった。
「そういえば、雨は三日後にはあがるそうですよ。しかも快晴ですって」
 ふいに、琥珀が窓の外を眺めながらそんな台詞をこぼした。
「そうなのか? 俺は今朝の天気予報であと四日は曇りの日が続くってテレビでみたぞ」
 多少なら局によって天気予報が異なることもあるのだろうが、こんなにも予報がずれることがあるのか。念のため涼一がどこの局の天気予報を見たんだ、と尋ねてみると、彼女はなぜか得意げに胸を張り、フフンと鼻を鳴らした。
「涼一さんは遅れていますねー。私が見た天気予報はネットの占いサイトです。今は回りまわって逆に占いで天気予報を見るのが私の中で流行っているんですよ」
「……非科学的すぎるだろ。それに回りすぎて目的を見失ってないか?」
「失礼な! いいですか涼一さん。占いは信じてこそ意味があるんですよ。そうです! 信じるものは救われるんです――」
 このあたりで目を覚まさせたほうがいいだろうか。
しかし恍惚した表情で謳うように語る彼女に対し、涼一は残念なことに、かける言葉が見つからなかった。
涼一の呆れ顔にも、琥珀は考えを改めるつもりはないらしく、今に見ていてください、となぜか涼一に対抗心を燃やしてきた。
二人のやり取りが区切りを見せると、ちょうど宗助の会話も終了したらしい。
「はい。分かりました。今からそちらに向かいます」
 そして宗助は受話器を置き、
「――依頼だよ」
 一言、そう告げた。


 雨の日の住宅街。
 傘探偵事務所にやってきた依頼を受け、バスを乗り継ぎ、それから歩いて数十分ほど。所長の宗助を筆頭に、その後を涼一、そしてなぜかマスコットキャラクターである琥珀も、閑静な住宅街を歩いていた。
人の気配が全く感じられない閑散とした住宅街は、薄暗く灰色に沈んでおり街中と比べても別世界に入り浸っているようだ。
 しかし、周囲の異様なほどの静けさもなんのその。肩に柄を掛け、傘をくるくると回しながら歩を進める宗助は、後ろ姿から伺ってもとても楽しそうだった。
「……楽しそうですね」
 思わず口から零れていた涼一の言葉に、宗助は前を向いたまま弾むように言う。
「そうだねー。楽しいよ」
 心なしか、傘を回す速度が速くなったような気がした。
「あとどれくらいで着くんですか?」
 琥珀が涼一の背を飛び越すように宗助に尋ねた。彼女の傘は、涼一と同様にその辺の百円ショップで購入したものだ。
「あと少しだと思う。ちなみに依頼内容は人探し」
 言いながら、宗助は後ろを振り返り、涼一たちに向き直る。後ろ背に歩く姿は、非常に危うい。
「人探し……ですか。ちょっと難しいですね」
 琥珀の表情に翳りが帯びた。
「まぁ、そこはこの所長様が何とかしてくれるだろ」
 涼一が前を向いたまま言う。少し嫌味が過ぎただろうか。先ほどの恨みがこもっているため剣を含んだ言い方になってしまった。しかし宗助はというと、苦々しい顔をするわけでもなく彼は口元に微笑を漏らす。
その余裕は一体どこから出てくるのだろう。涼一は、呆れを通り越し、諦めの意味も込め、盛大に溜め息を吐く。
(今難しいことを考えても仕方がない……)
宗助も、きっとそう思っているはずだ。
 場の空気が緩みかけたとき、突如、涼一の背後で息を引くような悲鳴が上がった。
「――ちょっと所長! 後ろ!」
 静かな住宅街に、琥珀の切迫した叫び声が反響する。
 宗助は、え?と訳が分からぬまま、慌てて後ろを振り返る。すると、彼の足先にはちょうど一匹の猫が通り過ぎようとしていたところだった。
「ニャンコちゃん――!?」
 虚を衝かれた宗助は、足をもたつかせながらも、大きくまたいで猫を避けてみせた――が、大きくバランスが崩れた身体は、そのまま地面に正面からダイブしてしまった。
 あたりに豪快な飛沫が飛び散る。
「――大丈夫ですか!?」
 間髪入れずに、血相を変えた琥珀が猛然と駆け寄る。
「大丈夫大丈夫……」
 宗助は顔だけ上げ、弱弱しい笑みを浮かべながらつぶやいた。
「本当に大丈夫だった? 怖い思いをしたね」
 しかし宗助の思いも虚しく。琥珀は猫の身を案じていたらしい。彼女がまっさきに駆け寄ったのは、彼の目の前にいた猫のほうだった。
 猫の頭を撫でている琥珀を横目に、涼一が宗助に手を差し出した。
「大丈夫ですか?」
 一応、涼一は声をかける。
「さすが我が事務所のマスコットキャラクターだ……人間の心配をするより、動物の心配をするとは……」
「何をアホみたいなこと言っているんですか」
 意味不明な負け惜しみにも似た台詞を、涼一はピシャリとたしなめた。
「別に全然平気だからね。全然気にしてないから……」
「本当に気にしてない人は、そんな風に言いませんよ」
 これはかなりショックを受けている。こうなると面倒くさい展開になることを、涼一は経験上よく知っていた。
「とにかく早く起きてください。本当に風邪引きますよ」
 涼一の懇願も、しかし宗助はそれを無視した。
「涼一君。僕を慰めてよ」
「嫌です。というか早く起きろ」
 有無を言わさない態度で涼一は言う。
「……ねぇ、僕ってそんなに威厳がないかな? 一体何が足りないんだろう……」
「何もかもが足りません。そしていいから、さっさと起きてください」
「酷い! もう少し優しくしてくれてもいいのに! こんなに傷ついている所長に冷たく当たる部下なんて聞いたことないよ!」
 やはり面倒な展開になってきた。
 宗助は頑として起き上がる気配を見せず、雨で濡れた道路にうつ伏せになっている。
 頭を抱えそうになる衝動を押さえ、涼一は諦めた風に息を吐いた。こうなってしまったら、適当に慰めるしか道はない。そう判断した涼一は、おずおずと口を開く。
「所長は……傘の収集が趣味で……そして雨の日になると傘を差して外に出ます……」
「普通は雨の日はみんな傘を差して外に出るよね」
「……所長は……よく食べ物の賞味期限を切らして……いますよね」
「何の確認? よく分からないのに無理やり褒めようとしたの?」
 いちいち合いの手を入れてくる宗助に、涼一は徐々に怒りの感情が芽生えてきた。
 いいじゃん。せっかくこっちは褒めようとしてるのに。
 いいじゃん。褒めようとすると嘘吐かなきゃいけないこっちの身にもなれよ。
 そしてついに、涼一の怒りが爆発した。
「あーーーー!! もういいから、さっさと起きてくだ――」
「あッ! もしかしてあれかも!」
 涼一の声にかぶさるように、再び宗助が奇声を上げた。思わず涼一は、びくっと肩を動かす。
「ったく……一体何なんですか……」
 もはや怒る気力もなかった。涼一は脱力しつつ、重い腰をゆっくり上げた。
「何を見つけたんですか?」
 猫を腕に抱えた琥珀が、宗助に尋ねる。
「見つけた。たぶんあれだ」
 依然うつ伏せの宗助は腕で支えながら顔を上げ、視線を前に向けていた。
 肝心なことは説明しない宗助に不満を覚えながらも、涼一も彼の視線の先を追う。涼一の目に映ったのは、洋風の建築物が立ち並ぶ住宅街では異様な雰囲気を漂わせている、和風の古ぼけた家だった。
「もしかして……あの家が?」
 確認のため、涼一は問う。
「きっとね」
 宗助は、立ち上がりながら肯定してみせた。
 ――あれ? 何で分かったんだ?
 ふと覚えた違和感は、しかし宗助の言葉で頭の隅に追いやられた。
「そうだと思うな、きっと」
「きっとって……」
 ガクッと肩を落とした涼一に、宗助はたくましい笑みを口元に浮かべる。
「まぁ、行ってみればわかるさ」




「すいませーーん、誰かいませんかーー?」
 宗助の気の抜けた声が、周囲に響きわたる。
「ちょっと……ここのインターホンがあるじゃないですか……」
 まったく、とつぶやきながら、涼一は宗助の後ろから手を伸ばしてインターホンを押した。
「……本当に、誰か住んでいるんですか?」
 涼一の肩から、琥珀の不安げな声色が届いた。涼一は視線を落とし、チラリと琥珀の表情を伺う。見ると、彼女は眉をよせながら、おびえた眼差しで辺りを見渡していた。
 涼一は、彼女の気持ちが分からなくもなかった。なにしろ、涼一自身もこの家の敷地に足を踏み入れたとき、同じことを思ったからだ。一目見ただけで、庭は長年、手入れが十分に施されていないと分かるほどに荒れており、窓ガラスも割れたまま放置されていた。庭の手入れはさて置き、窓ガラスくらいは修理していてもいいような気がした。
 ……それとも、本当に人が住んでいなかったりしてな。
いたずらの可能性だって、大いにあり得る。実際その手の嫌がらせも、ここ最近増えているのだ。
それか――涼一は宗助の背中を見た。宗助がうっかり住所を間違っているか。この可能性も大いにあり得る。
「あれ? 本当にいないのかな」
 宗助が頭をかきながら言う。
「そ、それならそれでいいじゃないですか! 早く帰りましょう! 何かこの辺に霊がいるようでなりません……それにさっきから視線も感じるし……」
「お前はいつから霊能力者になったんだ……」
 涼一の呆れ顔に、しかし琥珀は恐怖に満ちた形相を向けた。
「嘘じゃないです! これマジですから! ほんっとマジで視線感じたんですよ!」
「わ、分かったから――唾を飛ばすな!」
 迷惑極まりなかった。
 琥珀の顔をぐいっと片手で押し退けた涼一は、念のために尋ねることにした。
「所長、ところで住所はちゃんと確認しましたか?」
 ん?と後ろを振り返った宗助は、応じるように微笑を浮かべた。
「住所は確認してないよ?」
 ……はい?
 ポカンと口を開けた涼一は、慌てて立て直す。
「何してるんですか! 早く確認してくださいよ!」
 何を言っているんだといわんばかりに、涼一はたたみかけた。
 しかし宗助はというと、涼一の反応を眺めたあと、おもしろそうにクスクスと忍び笑いを漏らした。
「確認も何も、住所は聞いてないからね」
 涼一は自分の開いた口が、さらに広がるのが分かった。
「住所を聞いてないって……だ、だって、住所聞かないとここまでこれないじゃないですか!」
 彼は気まで狂ったのか。隣にいた琥珀が、涼一に同調するかのように、訝しげな視線を宗助に送った。
「そうですよ。住所を知らないとここまで来られないじゃないですか……」
 先の読めない彼の行動に、琥珀は眉を曇らせる。
「それもそうだよねぇ」
 宗助は二人の眼差しも悠然と跳ね返すように、笑いをこぼした。
「そうだよねぇって……」
 耳を疑うような宗助の言動に涼一が不信感を募らせていると、不意に玄関のドアが開かれた。三人は一斉に玄関を向く。
「あらまぁ、あなたたちはいったい?」
現れたのは、見事な白髪の老女であった。老女は驚くような、それでいて不思議そうに目を動かしている。
唐突の出来事に涼一が言葉に窮していると、宗助が身を乗り出すように一歩前へ出た。
「久本タキさんですね?」
 宗助の問いに、老女は戸惑いながらも、えぇ、と頷いてみせた。
安堵した風に目元をほころばせた彼は、相変わらずの微笑を老女へくれた。
「――お初にお目にかかります。傘(からさか)宗助探偵事務所の者です」




老女は宗助の言葉に、そうだったんですか、と嬉しそうに返すと、なんの躊躇いもなく三人を居間へ通した。
涼一は宗助の切り替えの早さに舌を巻きつつも、先ほどの彼の言葉が気になって仕方がなかった。
『確認も何も、住所は聞いてないからね』
あれは一体どういう意味なのだろう。宗助の予想通り、この家は依頼人のものだった。
だとしたら、彼はどうやってこの家に来たのか。
「どうしたの涼一君? 何か言いたげだね」
 涼一は、隣に座っている宗助を一瞥する。
「いいえ。別に……」
 不機嫌な口調で涼一は言葉を濁す。
 彼は――宗助は、根っからの嘘つき男なのだ。今、彼の口から説明を受けたとしても、本当かどうか分からない。なにしろ彼は平気で事実を捻じ曲げるのだから。
だったら最初から訊かないほうがいいのではないか。子供じみていると自覚しているが、拗ねてしまった涼一は、そう考えてしまった。
「中は綺麗ですね……」
 琥珀が涼一の隣でポツリと漏らす。宗助と涼一は、同時に視線を横に向けた。
二人の注目に気づいた琥珀ははっとし、頬を赤らめながら慌てて口を押さえた。今の言葉は失言であったと気づいたらしい。
  宗助は琥珀を咎めるわけでもなく、優しく微笑みかけた。
「……す、すいません」
 謝りながら肩を縮める琥珀を眺めた涼一は、何気なしに部屋を見渡してみた。彼女が言ったように、家の中の手入れは行き届いているようだった。綺麗好きの涼一からすれば散らかっている様に映ったが、世間的には片付いているといえる範囲だろう。
「ごめんなさいね。大したものをお出しできなくて」
 居間の沈黙を破るように、タキが部屋に戻ってきた。両手で持ったお盆には、様々なお菓子が盛られている。
「いいえ。おかまいなく」
  宗助がお決まりの文句を添えた。
  タキは穏やかな眼差しを三人に向けながら、自身もちゃぶ台に座った。
 「こんなにお客さんが来たのは久しぶりだわ。本当に、わざわざ来ていただいて」
「これが仕事ですから」
 珍しく真面目に応える宗助に、タキは上品に口元に手を添えて笑った。
「依頼が人探し、ということなんですが一体誰を探せばいいんですか?」
 二人に割って入るようにして、涼一が話を進めた。
「あら? 探してくださるんですか? 本当に?」
 驚いたように、タキは目を丸くする。その反応に違和感を覚えながらも、涼一は躊躇いがちに「はい」と返事をする。
「だったらお願いしようかしら」タキは一拍置いたのち「――私が探してほしい人は、息子です」そう告げた。
「息子?」
 涼一と琥珀が同時に復唱する。
 これはかなり複雑な事情が絡み合っている可能性がある。言い換えると、非常にややこしい依頼になりそうだ。涼一の眉根が知らず知らずの内に寄っていく。
 宗助は二人とは対照的に眉一本動かさず、落ち着いた様子で続けた。
「探してほしい人は息子さんですか……ちなみに、息子さんとはご一緒に暮らしていたんですか? それとも離れて?」
 宗助の質問に、タキは表情を硬くした。
「一緒に暮らしていました……それがある日突然いなくなってしまって……いずれ帰ってくるだろうと思っていましたが連絡も何もないので……」
 そして未だに帰ってきていないわけか……。
 涼一は静かにタキの話に耳を傾ける。
「連絡はとれましたか?」
 宗助の問いに、タキは頭をふった。
「いいえ。息子は電話を持っていませんから」
「それじゃあ、警察には?」
 続けて投げられる質問にもタキは迷いなく答える。
「まだ連絡はしていません。これからするつもりです」
「そうですか……失礼かもしれませんが、息子さんは何か事件に巻き込まれるような問題は抱えていましたか? 例えば借金とか」
 不服そうに、タキは顔を歪めた。
「まさか! 私の息子はそんな人ではありません。間違っても、汚いものには手を染めたりしないわ」
 毅然と言い切った彼女は、その眼差しも揺ぎないものだった。聞いていると、タキは心から息子を信頼しているのが伺えた。
 宗助は困ったように微笑を浮かべながら、すいません、と謝罪を挟む。
「大事な息子さんなんですね。きっと性格も素敵な方なんでしょう?」
 琥珀が宗助とタキの間に入るようにして言う。きっと彼への助け船のつもりだろう。そして琥珀の口添えは功を制した。
「ええ! それはもう、とても優しい息子なんですよ。いつも私のことを心配してくれて、それでいて家事とかも進んでやってくれて」
 タキは子どものような無邪気な笑顔を涼一たちに向けた。その笑顔は見ているだけで、自然と顔が緩んでしまいそうだった。
宗助もタキにつられる様にして頬をゆるめた。
「でしたら、詳しい話に入りますね。息子さんはいつ頃いなくなりましたか?」
 タキはうーんと頭を捻ったあと、おずおずと口を開いた。
「二週間くらい前だったかしら……」
 ……かしら?
 大事な息子が出て行った日を覚えていないものだろうか。涼一は、彼女の質問の答えがいまいち腑に落ちなかった。
「詳しい日にちを覚えていますか?」
 涼一と同じようなことを察したのか。宗助は涼一の疑問を代わりに口にする。
 タキは再度頭を捻ったが、すぐに諦めたようにふっと息を吐いた。
「最近物忘れが酷くて。こんなことなら、日にちをカレンダーにかいておけばよかったわ」
 自虐的な笑みを作りながら、タキはカレンダーへと視線をずらす。横顔からうかがう限りでは、タキは本当にそのことを悔いているように見えた。
「いえいえ。人はうっかりするものですから。私なんか、今日雨の日なのに転んでしまったんですよ。本当にぼーっとしていて、ダメですねぇ」
 涼一は弾かれたように顔を横に向けた。ついでに隣にいる琥珀も、恐る恐る宗助の姿を横目で窺う。
 ……そういえば、そうだった。
 よく見ると、宗助の服は上下ともびしょびしょに濡れていた。風邪を引くから早く起きろと手を差し出しといて、肝心なところで自分は気が利かない。あまりの鈍感さに、涼一は自身のことながら嫌になる。
「あらあら。それでは風邪を引いてしまいますよ。息子の服がありますから、ぜひ着替えていってください」
「いいんですか? それじゃあ甘えようかな」
「全然かまいませんよ」
 タキは人が良さそうな笑みを浮かべながら立ち上がり、宗助もそれに倣った。
 二人が居間を出て行ったあと、部屋には気まずい沈黙だけが残される。
「私たち……何か酷い部下……みたいになってますよね」
「みたいじゃなくて、そうなんだよ」
 ばっさりと切り捨てた涼一に、琥珀はしゅんと身体を小さくした。
 しまった、と涼一は心の中で舌打ちをする。なにも琥珀に当たることはなかったはずだ。自分にだって非はあったのに、彼女だけを責めるような形になってしまった。
「……涼一さん、機嫌悪いですか?」
 唇を尖らせながら、琥珀が探るように尋ねてきた。
「何でそう思うんだ?」
「雰囲気で分かりますよ」
 琥珀はそっと顔を背ける。
「悪かったよ。……というか、ごめんなさい」
 涼一は珍しく殊勝な態度で謝る。自分のことは棚に上げ、琥珀だけを責めるような言葉をかけてしまい、なんだかバツが悪い。どうしてこんなにも苛立っているのか、自分自身でもよく分からなかった。
「……いいですよ。所長も所長ですよ。全く、何で言わないんだか……」
 涼一の苛立ちがうつったかのように、琥珀もブツブツと文句を流し始めた。
 気まずい雰囲気が漂うなか「そういえば」と琥珀が周囲をキョロキョロと眺め始めた。
「何かアンバランスな気がしませんか?」
「アンバランス?」
 意味を図りかねた涼一が琥珀に聞き返すと、彼女は自信がなさそうに「はい」と頷く。
「だって外の庭には草とか生え散らかっていて、窓だって割れてあんなに荒れていたのに、部屋の中はとっても綺麗じゃないですか」
 涼一は再び部屋を眺めた。
「……そうか?」
 綺麗好きの涼一にとって、琥珀の言葉がいまいち掴めなかった。
 涼一の釈然としない態度にしびれを切らした琥珀は無理やり話しを進めた。
「そうなんですよ! まぁ……確かに床には物が色々と転がっていますけど、外と比較すると全く違います。それに見てください、あれ」
 そう言って、琥珀は部屋の中のある一点を勢いよく指差した。涼一は促されるまま視線を動かす。そこにあったのは、
「本棚?」
 部屋の脇に備えられている、三段型の本棚だった。特に装飾も施されていない、いたって普通の本棚である。
 涼一が小首を傾げる横で、琥珀が毅然とした口調で指摘する。
「よく見てください。あの雑誌、きちんと月順に並べられているじゃないですか」
 目を凝らしてみて見ると、確かに琥珀の言う通りだった。涼一がなにか言葉を返すよりも先に、彼女はどんどん話を進めていく。
「それだけじゃありません。その隣にある二つのカゴ。新聞紙とチラシが別々に分けられていますし……それに玄関にあった靴棚も、丁寧に季節に合わせて並べられていました」
 そこまで観察している琥珀の洞察力に驚嘆しつつも、しかし涼一の脳裏にいくつかの疑問がよぎった。
「息子さんがいなくなったんだから、外の手入れが行き届かなくなるのも当然じゃないか?」
 仮に息子がこの家の掃除や庭の手入れを任されていたのなら、家の中が多少なりとも散らかっているのも納得できる。
 しかし琥珀は涼一の疑念を鋭い目つきでなぎ払った。
「たった二週間ですよ? あんなに草が伸びますかね? ここ最近いじっただけではああはなりません」
 そう言われると、庭に生えていた雑草は長年に渡り放置されている、という言い方が正しいような気がした。つまり、彼女の疑問は的を得ていると言えなくもない。
「だけどさ、外はどうでもいいけど、家の中は綺麗にしたいって言う人だっているだろ」
 涼一の苦し紛れの反論に、琥珀もうっと言葉につまる。そこを衝かれると痛いらしい。
 それに、と涼一はたたみかける。
「だいたい、その話が依頼と何の関係があるんだ?」
 とどめの一言を受け、琥珀は屈したように「それはそれですけど……」と言い淀む。
 琥珀の言い分は理解できる。指摘を受ければ、そうなのだなと涼一も納得する。しかしそれが依頼と繋がらなければ意味がないのだ。
「で、でも……上手く言えないんですが。タキさん、絶対何か隠しているような気がするんですよね……」
「隠しているって……お前な」
「だって少しおかしくないですか? 何か妙に落ち着いているし……息子さんがいなくなったんなら私、もっと焦ってもいいような気がするんです……」
「性格じゃないか? もともとおっとりした人だし」
 涼一の言葉に、琥珀はむっとした表情を浮かべた。
「そうかもしれないですけど……私が言いたいのは、もし嘘吐いていたらどうするんですかって話です」
「あのなぁ」彼女が嘘を吐いて得することがあるのか。涼一が呆れた声調でそう言い返そうとしたとき、
「いやー、待たせてごめんね」
 着替えを終えた宗助が、意気揚々と部屋に戻ってきた。そして、あとに続くようにタキも遅ばせながら入ってくる。
 タキは宗助の姿を上から下まで眺めると、どこかほっとした様子で笑顔をみせた。
「サイズがぴったりで本当に良かったわ」
「ご迷惑をかけて申しわけありません。きちんと洗ってかえしますから」
 今まで身につけていた服を手に持ちながら、宗助がお礼を言う。
「いいんですよ。風邪を引かないようにしてくださいね」
 なおも穏やかな空気が二人を包むなか、それを断ち切るように琥珀が横から口を挟んだ。
「あのタキさん。一つ訊きたいことがあるんですが」
「何ですか?」
 少し迷うように瞳を揺らした琥珀だったが、すぐに表情を引き締めた。
「この家のお掃除をしていたのって、息子さんでしたか?」
「ええ、そうです。……それが何か?」
 表情を硬くしたタキに、琥珀は焦ったようにバタバタと慌てて手を振った。
「ち、違います! ただあのっ――」つかの間、視線を泳がせた琥珀は「あ、アレです。あのかわいい棚を誰が買ったのが知りたくて!」と先ほどの棚を指差した。
 涼一は、何とも言えない複雑な眼差しで棚を見つめた。どこからどう見ても普通の本棚である。それに贔屓目で見ても、若い女の子がかわいいといえる品物ではなかった。
「ほぉー、琥珀君の趣味は変わってるな」
 万遍の笑みで、宗助は正直過ぎる感想を漏らした。
 空気を読んでください、と頬を叩きつけてしまいそうになる宗助の言葉にも、タキは気分を害するわけでもなく笑声を上げた。
「あの本棚は息子が買ったんですよ。そう言ってくれると、息子も喜ぶわ」
 頬に手を当て、嬉しそうにタキは目じりを緩める。
琥珀は彼女が嘘を吐いているかもしれないと漏らしていたが、涼一はタキが自分たちを騙しているようには、どうしても見えなかった。
 なぜなら彼女の顔は、心から息子の身を心配している――母親のものだったからだ。



 タキから一通りの話を訊いた涼一たち一行は、彼女の家をあとにした。主に宗助が主体となって情報を集めていたため、涼一と琥珀はひたすら傍観者役に徹していたのだが、こういうときの彼は完璧に仕事をこなすため、涼一が口を出す必要は全くといっていいほどなかった。
 依然、雨は降り続けていたため、宗助は嬉しそうに自分のコレクションをくるくると回していた。しばらく歩いてから彼は立ち止まり、後ろを振り返りながら言う。
「ねぇ涼一君、琥珀君。二人に頼みたいことがあるんだけど」
 不意におとずれた申し出に涼一と琥珀はなんだろうと、顔を見合わせた。
「僕はこれから一つ寄りたいとこがあるから、二人はタキさんについて近所の人から色々訊いてきてほしいんだ」
「何を訊けばいいんですか?」
 涼一の隣で、琥珀がうんうんとしきりに頷いている。
 宗助は柔らかい微笑を浮かべる。
「そんなに肩を張らなくていいよ。ただ彼女のことを近所の人から訊いてくれればいいんだ」
「……答えになってませんよ」
 宗助の回答に、涼一は不満を口にする。彼が知りたかったのは具体的な話の内容だったのだが、宗助には伝わらなかったのだろうか。
 それに、と涼一は続ける。
「何でそんなことを聞き回る必要があるんですか? 情報は仕入れたんです。早く息子さんを探してあげればいいんじゃないですか」
 刺々しい口調で話す涼一だったが、それに対して彼は呑まれることなく穏やかな笑みで語りかける。
「それはそうなんだけどね。実はちょっと気になる点がいくつかあって――」
 彼は言いながら、切れ長の目をさっと細めてみせた。宗助は何か考え事をするとき、決まって、こうして目を細くする癖があることを涼一は知っていた。
 そして、こうなると決して口を割らないことも。
「……分かりました。所長の命令に従います。それで、具体的に何を訊けばいいんですか?」
 諦めた涼一は、溜め息混じりに訊いた。
「そのまんまだよ。本当に、ただ訊くだけでいいんだ」
「じゃあ……ただタキさんについて教えてください、でいいってことですか」
 おずおずと尋ねた琥珀に、宗助は肯定の意味を込めた頷きを返す。
「そういうことだから、あとはまかせたよ――」
 そう言って踵を返した宗助は、傘を回しながら二人から遠ざかっていく。
 またしても取り残された二人だったが、琥珀がさきに口火を切った。
「私たちも負けてられませんね。言われた通り、近所の人から話を訊きましょう!」
 はつらつとした笑みを浮かべながら、琥珀はぐっと拳を握る。
「だけど今日は雨も降っているし、人とか簡単に見つからないんじゃないか?」
 困惑の色を浮かべながら琥珀を見つめる涼一に、彼女は驚きを隠しきれないような表情で応えた。
「何言ってるんですか? そんなの直接家にいって訊けばいいじゃないですか」
「こんな話をわざわざ家まで訊きにいくのか!?」
 今度は涼一が、驚嘆の顔になった。
「そうです。じゃないと、いつまでたっても終わりません」
 琥珀は行きますよ、と意気揚々に告げると涼一に背を向ける。
「でもさ――」
 意義を唱える涼一を背中で流し、琥珀はさっさと歩を進める。
 はぁ、と息を吐き出した涼一は、しぶしぶ琥珀のあとを追いかけることにした。



 琥珀の行動力に押されて、涼一が訪ねた家は現在で三軒目だった。一軒目、二軒目とも不在だったため結局空振りに終わってしまったが、今度こそという願いも込めて、涼一はインターホンを押した。
 数秒後、ドアの向こうから声が聞えた。何と言っているのかよく聞き取れなかったがそれでも不在ではなかったことに、涼一はほっと胸を撫で下ろす。隣に立っている琥珀も安堵するように、ふっと息を漏らしたのが分かった。
 緊張した面持ちで涼一が待っていると、玄関のドアが小さく開いた。細い隙間から覗くように顔を出したのは、三十代半ばと思しき女性だった。
「どちらさまですか?」
 ハスキーな声が涼一の耳に届く。今まで通り、先に琥珀が対応した。
「すいません。少しお話をお聞きしたいのですが……」
 その言葉で、女性はさらに玄関のドアを開け身を前へ乗り出した。ドアに隠れて琥珀の姿が見えなかったのだろう。
 琥珀の優しげな顔を見た女性は、涼一と交互に見比べたあと、何ですか?と訝しげに尋ねた。
「私たち駅前で探偵事務所を営んでいるものですが、ちょっとお聞きしたいことがありまして。お時間よろしいでしょうか?」
 女性は琥珀の顔を凝視したあと、躊躇いがちに首をたてに振った。琥珀の人懐っこい笑みはこういうときに便利だった。
「ありがとうございます。訊きたいことというのはですね、こちらの三軒隣に住んでいる久本タキさんについてなんですが……」
 穏やかな笑みで話す琥珀とは対照的に、女性の顔は見る見るうちに嫌悪に歪んでいく。 当然ながら彼女もそれに気づいたようで、ひとます話を切った。
「何かご存知のことがあれば、ぜひ教えていただきたいのですが」
 表情を崩さない琥珀に、女性は煩わしそうに眉に剣を含ませた。
「全く、あの人また何かしたんですか? 本当に迷惑なんですよね」
 開口一番からそんな言葉を聞くとは思っていなかった涼一は、内心むっとする。さすがに言葉を選ぶべきだろう、そう思ったからだ。
「迷惑……? 何かあったんですか?」
 琥珀もこの反応は予想していなかったのか。彼女の表情に翳りが帯びる。
 女性は、やれやれといった風情で口を開く。
「私一年前にこの家に引っ越してきたばかりなんですが、それから何ヶ月か経ったあとから本当に酷かったんですよ――異臭が」
「異臭?」
 女性はええ、と迷惑そうに頷いてみせた。
「きっと家の中を掃除していないんだと思います。ちょうど私の家まで異臭がきて……何度か市役所に苦情をいれようかと思いましたよ」
 涼一は、一瞬この女性が何を言っているのか分からなかった。
 異臭……? 掃除をしていない……?
 そんなものを涼一は全く感じなかったし、それどころか家の中は普通に綺麗に片付いているように見えた。
 琥珀は先ほどの微笑を消し、真剣な眼差しで質問を続けた。
「思いましたってことは、実際に苦情は入れなかった?」
 彼女は鋭い洞察力を、ここぞとばかりに遺憾なく発揮させる。
「電話しようとしましたけど、ある日急に異臭がなくなったんです」
 琥珀は片方の眉を微かに動かした。
「それはいつ頃ですか?」
 女性は考える仕草をする。しばらくして思い出したように答えた。
「確か……半年前だったかな?」
 琥珀が「半年前……」と独り言のようにつぶやく。
 三人とも口を閉ざすため、徐々に気まずい空気が出来上がってきた。耐えられなくなった涼一は隣にいる琥珀を肘で小突いたが、彼女はずっと視線を落としたまま、険しい表情で熟考している。
「あのー……何で久本さんのことを訊くんですか?」
 女性の声で我に返った琥珀は、はっとして顔を上げた。
「えッ? ――あぁ、それはですね、彼女に人探しを頼まれたんです」
「人探し?」
「はい……あまり詳しくは話せないんですが……」
 申し訳なさそうに、琥珀は微笑を漏らす。
「そうだったんですか……」
 息を吐くようにしてつぶやいた女性は、一転して悲しそうに睫毛を揺らした。さきほどの怒りを忘れたかのように、女性の表情は暗く沈んでいた。
 そして女性はポツリと独り言のように漏らした。
「一人で暮らすのは無理がありましたからね……」
 ん?と涼一は首を傾げた。
 一人……?
 話の流れが、涼一が見えないところで急激に変わり始めた。
「あ、ああの、一人暮らしって……今まで誰かと同居していたんじゃないんですか?」
 さすがの琥珀も涼一同様、意表を衝かれた様子で、驚きを隠しきれていなかった。
「暮らしていましたけど、一年ほど前……ちょうど私が引っ越してきた頃にご主人が亡くなって、その後はずっと一人だって近所の人から聞いています」
 琥珀は咄嗟に口元に指を添えた。苦しそうに顔を歪めた彼女は、ややあってから冷静な、落ち着いた態度で女性に尋ねる。
「――子どもは? タキさんに息子さんはいますよね?」
 それは何かを確認するかのように、そしてそれは何かを疑ってかかるように――涼一の目にはそんな風に映った。
 なぜそんなことをいちいち訊いたりするのか。涼一には琥珀の意図が理解できなかった。
 タキには息子がいる。だってあんなにも嬉しそうに息子のことを話していたではないか。
 タキには大切な子どもがいる。でなければ、あんな幸福そうな笑みを浮かべられるものか。
 ――そうだ、そんなこと
 おかしいのは彼女ではない。今自分の隣に立っている琥珀のほうだ。涼一は一瞬、頭を掠めた非情な考えを必死に振り払う。だが彼の意思に反し、心臓の鼓動が速くなるのが分かった。
 そして涼一の願いは、しかし――どうしようもなく儚かないものだった。
 女性は不思議そうに目を瞬かせたあと、驚くべき事実を口にした。
「――いいえ。久本さんには息子どころか、子ども自体いませんよ」


 誰もが口を噤み、一言言葉を発することさえはばかれるような、重い空気が傘探偵事務所に流れていた。
雨はまだ止まない。それどころか雨脚はより一層激しさを増していた。雨粒の一滴一滴が事務所の窓に強く打ち付けるなか、さきほどの女性から聞いた話を涼一はソファに座りながら丁寧に説明していた。
彼の話が終わりを告げると宗助はそう、とだけつぶやいた。
「そうって……それだけですか?」
 涼一が憤りを隠したまま言う。
「他に特に言うこともないしね」
 宗助は回転式の椅子をくるっと回し、窓の外に目をやる。
「あの……所長、つまりこれはどういう意味なんですか?」
 涼一の対に座っていた琥珀が、おずおずと二人の間に割って入る。彼女も涼一よりは事実に近づいているはずだ。しかしその現実が余計に涼一を苛立たせていた。
「僕がわざわざ説明しなくても、琥珀君ならおおよその想像はついているんじゃない?」
 琥珀に対して放った言葉だったが、宗助は窓を向きながら言った。
「言えよ。所長は説明する気ないから」
 涼一の剣を含んだ言葉に、琥珀は戸惑ったように目を泳がしたあと、ゆっくりと己の抱く考えを口にした。
「もしかしてなんですけど……タキさんって、認知症ではないでしょうか?」
「認知症?」
 どっかで聞いたことあるような……。
 頭の隅にある記憶の引き出しをつついてみたが、涼一はやはり思い出せなかった。
 涼一の訝しげな視線に気づいたのか、琥珀は慌てて言葉を添える。
「認知症とは、昔の言葉に言い換えると痴呆、と呼ばれるものですね。今は人前でそんな風に言う人は少ないと思いますけど……」
 涼一はチラリと宗助の背中を伺うが、案の定背中からでは彼の感情を読み取ることはせきなかった。
「タキさんは……その認知症だっていうのか?」
 涼一の問いに、琥珀はたぶん、と曖昧に返事をする。
「あくまで予想ですよ。私の記憶が正しければ、認知症には本当に色々な症状があって、タキさんの言動もその症状に当てはめることもできる、という程度です。そもそも認知症とうのは、病気や加齢によって認知機能が低下することを指しますからね。タキさんが本来ならいるはずのない息子をいると思いこんでいるとしても、全くおかしくはないということです」
 たぶんと言う割には、説得力のある琥珀の説明に涼一は納得しかけていた。
 もし仮に彼女の言うことが事実だとしたら、タキは妄想の中で自分には息子がいるのだと、本来ならあり得ない息子の存在を作り上げていることになる。
「――と、これが私の予想です。所長はどうお考えですか?」
 その問いかけに、宗助は再び回転式の椅子をくるっと動かし、二人に向き直った。
「まぁ、彼女が認知症だということは合っているんじゃないかな」
 彼は琥珀の推理を肯定してみせた。
 だとしたら本当に――タキは本来であれば存在するはずのない息子をいる――と信じ込んでしまっているのだ。
「だったら、あの部屋はどうなるんだ? さっきの女性、異臭がするとか言っていたじゃないか」
 夫が亡くなってから異臭が漂い始めたタキの家。それは一体どういう意味なのだろう。
 琥珀は、これも想像ですが、と前置きしたあと再び説明を始めた。
「認知症はさっきも言ったとおり、認知機能が低下してしまう疾患です。家の中を彼女が片付けられなくなったとしても不思議はありません。タキさんのご主人が掃除をしていたのか分かりませんが、彼が亡くなってから異臭がし始めたというのも容易に頷けるんです――」
「というと?」
「認知症は急激な変化に弱いんですよ。環境が少し変わるだけで、その症状が悪化することも珍しくはないんです。元々の症状でなかったにしろ、そうであったにしろ、ご主人を亡くされたタキさんが部屋を片付けられなくなり、異臭が漂い始めた、という話は一応つじつまが合わないこともありません」
 いつになく歯切れが悪いのは、琥珀自身も自分の言葉に確信が持てないからだろう。それにもしかしたら彼女も、涼一同様にタキに息子がいてくれたらと、心の中ではそう願っているのかもしれない。
 彼女の説明が涼一の心にすとん、と収まろうとしたとき、彼は大事なピースがぬけていることに気がついた。
「だったら……あれはどうなるんだ。半年前に急に異臭が消えたっていう話」
 タキが認知症で部屋の掃除ができなくなり、家の中、それどころか外にまで異臭が漏れ出した――そこまでは分かった。しかし、そのあとはどうやって説明できるのか。
「そうなんですよ。そこが私にも分からなくて」
 と、思いのほか琥珀はあっさりとその事実を認めた。
「認知症の症状が良くなったりすることはあるのか?」
 悪化することがあるなら、もちろんその症状が軽快することだってあってもいいはずだ。涼一は勝手にそう解釈した。
 琥珀は喉の奥で悩ましげに唸ったあと、おずおずと涼一の疑問に答え始めた。
「まぁ、家の中に閉じこもっているとどうしても症状は悪くなります。ですが、ずっと家の中に閉じこもっていた人が、とある施設に行ったとたん良くなったっていう話はありますね。もちろんケースバイケースですよ。さっきも言った通り、環境がその人をどんな風に持っていくかは分かりません。あくまで個人差です。それに症状が良くなるって言っても、異臭がするほどの家をあそこまで綺麗にできるのか疑問に思ってしまいますね」
 琥珀もお手上げ、という風に言葉をしめた。
 となると残りは……。
 涼一は黙ったまま琥珀の話を聞いていた宗助に視線を向ける。
「所長はどう思いますか?」
 涼一ではなく、琥珀が宗助に話の矛先を転じた。
 宗助は椅子の背もたれに体重を預けながら、ゆっくりと口を開いた。
「さっき市役所に行って住民票を見て確かめてきた。二人の想像した通り、彼女には息子はいないようだね」
一体どんな言い訳を駆使して住民票を見たのか。涼一は、あえてそこには足を踏み入れない。
「……そうですか。タキさんには、息子さんが……」
 何かを堪えるようにつぶやく琥珀は、嬉しそうに息子のことを話すタキの姿を思い出しているのかもしれない。
「ついでに市役所の保健師にも会ってきた。彼女、やっぱり前からリストに入っていたみたい。僕が今回のことを話すと今度彼女に会いに行くと話していたよ」
「どういう意味ですか?」
 市役所の保健師とタキの繋がりどころが、涼一には分からなかった。
「あの人、元々子どもがいないだろう? ご主人が亡くなってから、彼女の世話をする人がいなくてね。その頃はまだ認知症もそれほど進んでないから、近くに住む親族に保健師が電話して彼女の様子を見てくれるように頼んでみたらしい。すると、その親族は分かりました、全て任せてくださいって、そう言ったらしい。それで保健師も彼らに任せたらしいんだ」
 らしい……。
 そこからあとは、涼一にも容易に想像がつく。そして分かるからこそ、ぎゅっと胸のあたりが強くねじれるようだった。
「当然、ご主人が亡くなったのなら遺産が入るだろうと、彼女の貯金を調べてもらうよう保健師の人に調べてもらった。すると驚くべきことにね……一年前に全額引き落とされていたんだ。しかも彼女に支給される年金も、彼女の手に渡っていなかった。つまり、これがどういうことか二人に分かるかい?」
 宗助は椅子の背もたれから身を離し、テーブルの上に腕を敷いた。
 これで分からなかったら、それこそ馬鹿だ。それほどまでに、宗助の説明は丁寧で、そしてその親族たちが、あまりにも浅はかな考えの持ち主だったから。
「――その親族たちたちは、お金はもらうだけもらって、生活費も最低限だけ渡して、あとはほったらかし、っていうことですか?」
 涼一は隣に立っている琥珀に視線をくれる。彼女の目には怒りが滲んでおり、静かに憤っているようだった。
「定かではないよ。もしかしたら、事実と異なる可能性だって十分ある――」
 そう言って、宗助はおもむろに椅子から立ち上がり、窓際へと歩みよる。
「彼女は買い物にはいけないから、食事だけはちゃんと世話をしていたみたいだね。何せ死なれたら困るわけだ……だからその辺りはきちんとやるだろう」
 乱暴な言い方をした宗助に、涼一は眉をひそめる。もしかしたら、さすがの彼もこの状況に対して怒り覚えているのかもしれない。あくまでも、涼一の想像ではあるが。
「今までの流れからいって、掃除をしたのは、その親族ってことですか?」
 涼一は自分で放っておいた言葉ながら、彼らの行動に違和感を抱く。そこまで非情な人間が、異臭まで漂う家の掃除をするだろうか。それとも、さすがの彼らも家のあまりの惨状を見るにみかねたのか。それとも業者にでも頼んだのか。
 答えに迷った涼一は、すがるように宗助を見た。だが彼は、肯定とも否定ともとれる、曖昧な微笑を浮かべるだけだった。
「もしかして……所長は最初から知っていたんじゃないですか?」
 二人の視線が琥珀に向けられる。
「どういう意味かな?」
 穏やかな笑みを見せる宗助の様相からは、彼の腹の底は全くと言っていいほど、伺いしれなかった。
「所長は、タキさんの家に行くときに住所は聞いていない、って言っていましたよね? それは彼女が住所を話さなかったのではなく、言えなかったから――ですよね?」
 タキは自分がどこに暮らしているのか分からなくなるほど、認知機能が低下していたらしい。そこまで、彼女の認知症は進行していたのだといえる。
 宗助は琥珀の推理を穏やかな笑みで肯定した。
「そうだよ。もう少し詳しく言うと、電話の向こうの彼女は住所を訊いても、県と街の名前までしか言えなくてね。番地とかは分からなかったらしい。だから僕は家の風貌や家の周りに建っている建物を聞いて、彼女の家まで行ったんだ」
 明かされたその事実に、涼一と琥珀はギョッとして宗助を見た。それだけの情報でタキの家を特定できるものなのだろうか。琥珀にいたっては、呆れるを通り越し、それこそ胡散臭そうに彼を見つめている。
だが涼一は同時に思う。なぜ宗助があんな曖昧な言い方をしていたのか。宗助があの家かもしれない、とそう言ったとき、涼一はふと考えた。なぜ彼は見ただけでタキの家が分かったのか。それは宗助が、あえて家の風貌だけを聞いていたから、いや訊くことしかできなかったから。
 それでも宗助の観察眼は、脱帽ものではあるが。
「……よく見つけましたね。普通分かりませんよ」
 琥珀は未だに、訝しげに宗助を見ている。
「まあね。でも窓から見える景色とか、家の中で聞える音とか。そういうのを色々訊いて総合的に考えれば、意外と分かるものだよ」
 それにどこの街に住んでいることは分かっているわけだしね、と宗助はあっけらかんと付け加えた。
「だったら、どうしてタキさんはこの事務所に電話できたんですかね?」
 琥珀が腕を組みながら悩ましげに唸る。
 すると宗助はふっと息を漏らすように、小さく笑った。
「それはタキさんに訊いたよ。おもしろいことに彼女、郵便屋さんに聞いたのって笑いなが言っていたよ」
 なるほど、と涼一は胸の中で膝を打つ。きっと彼女は、たまたま家に訪れた郵便局員に息子がいなくなったことを話したのだろう。その話を聞いたお人よしの郵便局員は、近くにある探偵事務所――傘探偵事務所の電話番号を調べ、彼女に教えたのだ。
 涼一は胸の奥がくすぐられるような、暖かい気持ちになった。その郵便局員は仕事中であったにも関わらず、彼女の話に耳を傾け、加えてわざわざ電話番号まで調べて彼女に教えてくれたのだ。その人が一体、どんな気持ちでその話を聞いていたのかは分からない。もしかしたら、迷惑な気持ちを押し殺して聞いていたのかもしれない。しかし彼の善意は確かにこの事務所に届いている。それは紛れもない事実だった。
「これからどうするんですか?」
 涼一の問いに微笑を向けた宗助は、窓際から離れ、再び椅子に座った。
「すでに市役所には連絡しているから、タキさんが施設にいくのも時間の問題だろうね。お金のことも、あっちで何とかしてくれるだろう」
「それじゃあ、息子さんの件は……」
 一拍置いた宗助は、ゆっくりと口を動かして答えた。
「彼女には息子はいなかったんだから、当然この依頼はなかったことになるね」
 きっぱりと、そう告げた。
「……そう、ですよね」
 涼一は弱弱しい笑みを作った。
 そもそも肝心の息子はいなかったのだから探しようがない。たとえ彼女がどんなに優しくて、家事もすすんでこなしくれる息子がいるのだと話していても、いないのだから仕方がない。
 涼一は、ぎゅっと拳を握った。
 ――分かってる……でも……。
 子どものように諭されるのが嫌だった涼一は、その言葉を懸命に堪えた。きっと口に出したら、宗助は優し過ぎるくらいの微笑をくれるだろう。そして慰めるような言葉を自分にかけてくれる。仕方がないのだと、これはどうしようもないことなのだと。
 分かっている。
 だから悔しい。
 何かできるのではないか。本当は何もできないくせに、そう思ってしまう自分が情けなかった。やりきれない、行き場のないこの心情に、なす術がない自分が腹立だしかった。
本来なら宗助のように潔く割り切ってしまうのが正しいのだ。いちいち感情移入していると仕事にも支障をきたす。宗助は最初から何もかも分かっていて、自分は最初から何もかもが分かっていなかった。
 そしていざ現実を叩きつけられ、涼一は動揺する。どうすればいいのか判断がつかない。最善の答えがどこにあるのかも見つけられない。
 そこまで考えて、涼一は口端にわずかな笑みを滲ませた。
 ――いや、あるじゃないか。
 今ここに。自分の目の前にいるではないか。
 それも直視できなくて。
 もっと他に何かあるかもしれないと逃げて。
 いつになったら、自分は大人になれるのだろうか――。


この小説について

タイトル 傘探偵事務所物語
初版 2014年11月29日
改訂 2014年11月29日
小説ID 4608
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そら てんご 2014年12月1日 14時00分16秒
凸凹三人組の対比が面白いですね。
作者の読者にイメージを湧かせようようとする表現力はいいと思いました。
しかしここで認知症や老人問題がでてくるとは予想しませんでした。(笑)
今度は三人が本格的に事件を解決するストーリーを読んでみたいものです。
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