不器用な団欒者たち

 都会で暮らすこと十六年。俺は生まれ育った街、東京都を離れることとなった。


 理由は家庭の事情とでも言っておけば楽なのだろうか。その理由を深刻そうに第三者に話すのも気が引けるため、俺は家庭の事情という、どこにでも落ちていそうな有り触れた台詞で今後も貫き通そうと思う。
 新しい我が家に向かうため、車は高速道路を走っていた。隣で運転している母親は、気だるそうな表情でハンドルを握っている。東京に住んでいた頃は全く必要なかった車という交通手段も、この度、引っ越すことになった街では必需品だといって、母親がしぶしぶ購入したものだった。
 都会暮らしの母親は、運転免許を取得してからというもの、車に乗って運転する機会はほとんどなかったようで、車を買った時はそれはもう嬉しそうに目を輝かせていた。かくゆう俺も、いつもは自転車か地下鉄の電車が主な交通手段であったため、車に乗り込んだときは、実を言うと少しばかり心が弾んでいた。やはり車というのは良いものだ、と。何だか訳もなく楽しいじゃないか。例えるなら小学校の頃の遠足前の気分である。
 だがそれも六時間前まで。
 引っ越し先は車で運転して軽く八時間を超える場所にあり、もののニ、三時間で俺と母親は車という交通手段にほとほと参ってしまった。なにしろ走っても走っても一向に着く気配が見えない。なぜ母親は車で行こうと言いだしたのか。そしてなぜ俺もその無謀な案にほいほいとのったのか。あの時の自分を一発殴ってやりたかった。
もう少し冷静になって考えろ。車で六時間以上だぞ、と。新幹線で行けば、三時間で着いたというものを。しかしあの頃の俺は、車で高速道路を颯爽と駆け抜ける姿を想像しており、きっと冷静な自分の意見などに耳を貸さなかったであろう。
 車の窓を開け、吹き込んでくる風に髪をたなびかせる。六時間以上? それがなんぼのもんじゃい。俺は車の窓から入ってくる風を感じたいんだ。
 だが現実は全く違った。吹き込んでくる風は冷たく、俺は風を感じるどころか顔に強風が吹き付け、息もまともにできず、すぐに窓を閉める羽目になった。四月という気候と、高速道路で走る車の速度を明らかに計算に入れなかった結果だった。
 そんなものなのだ。俺は車の窓を閉めながらそんな諦めの境地に入った。
人生というのは結局、自分の思い通りにはいかない。小学校の遠足のときだって、今思い起こせば楽しい思い出ばかりではなかったではないか。たとえば酔ってバスの中で吐いてしまう同級生。その後、周囲に漂う微妙な雰囲気。先生が気を利かしてクラスメイトに言う。みんな、○○くんは具合が悪いんだから静かにしてあげてね。
 そう、俺である。
 酔い止めを事前に飲み、バスの一番前に席を確保したにも関わらず、俺は小学校三年生の遠足でバスの中で吐いたのだった。
 知ってるか? バスの一番前は酔いにくいんだぜ。
 得意げな顔でそう言い放った男友達の言葉を信じ込み、俺はバスの一番前に乗った。それはもう真っ先に席を陣取った。
 しかし一番前に乗ったところで、酔うものは酔うのだ。
 いくらその男友達に「お前、何で一番前に乗ったのに酔うんだよ」と訳が分からない責め方をされても、酔うものは酔うのだ。その事実が分かったときには、時すでに遅かったが。
  そして現在の俺も、後悔の真っ最中である。朝の十時に家を出てから約五時間。 途中サービスエリアで休憩を挟んできたため、予想よりももっと遅い時間に着くであろう。
窓に映る青々と生い茂った山の風景は、東京ではほとんど目にしたことのないものだった。綺麗だな、と思うより先に、俺はその風景に心を奪われ引き込まれていた。山には人を魅了する力があると聞くが、これはそのせいなのだろうか。
 いや、ちょっと違うか。
 ともあれこの景色は、これから俺たち親子が住むであろう場所を暗に示していた。そう、俺たちの引っ越し先は山々に囲まれた――田舎なのである。



第一章

  外の世界は濃い群青色に沈んでいた。夜空の一歩手前の空には、せっかちな星たちが浮かんでおり、ついでに半月もその姿を現している。
東北地方の一角にあるとある田舎町。
 見渡す限り山に囲まれ、街全体が緑に囲まれている。街を覆う森が一切の物音を吸収しているかのように、辺りはひっそりとした静寂に包まれていた。
 長い――とても長い車の旅をようやく終えた俺と母親は、ぐったりした気分と一緒に車から降りた。しかし外気に触れた途端、ひんやりとした空気が肌を包み、俺は全身の皮膚が一気に粟立つのを感じた。
「何か寒くない? もう四月の後半なのに」  
 これは少し寒すぎるのではないだろうか。つい先日まで暮らしていたところは、すっかり春の陽気に包まれていたこともあり、口から白い息がこぼれ出る事実に衝撃を受けずにはいられなかった。俺が呆気にとられていると、車の対側から声が飛んできた。

「何言ってんの。ここは東北よ。このくらい普通」

 車のドアを勢いよく閉めながら、母こと新谷里美は俺を軽く睨みつけた。この様子から少しばかりご機嫌斜めらしい。半日近く車を運転していたのだから当然と言えば当然なのだが。
「……すいません」
 俺は頭を小さく下げて素直に謝った。悲しいことに昔から母親には頭が上がらない。反抗期という社会的に認められた大人に逆らえる権利も、彼女の前では何の価値もないただの紙切れも同然であった。
 母親はふんと鼻を軽く鳴らす。それから目の前に建つ二階建ての家に顔を向けると、彼女は憮然とした表情から打って変わり懐しそうに目を細めた。
「あんただって、昔何度かこの家に来ていたじゃない。忘れたの?」
 俺は母親に倣うようにして、半月が照らす古ぼけた家を見上げる。青い屋根が、妙に夜の暗闇のなかに浮いていた。
「忘れてはないけど、昔っていっても小学校三年生とかそのあたりだろう。あんま覚えてないよ」
 言いながら、俺は懐かしき記憶を掘り起こす。あれは小学校三年生の頃だ。今から八年前。俺は一度だけ、父親の叔母が住んでいたこの家に遊びに来たことがある。
 住んでいた。
 父親の叔母が。
 言葉通り、この家に居を構えていた父親の叔母は数カ月前に亡くなった。そして俺の父親もこの世にいない。俺と母親は、今は人っきりの親子なのだ。
「そんなこといったらトヨさん悲しむでしょ。薄情な子ね」
 全く、と母親は憮然とした顔で嘆息した。小学校三年生の頃の記憶を覚えていないくらいで薄情呼ばわりされるとは。いささか悲しい気持ちになる
「……トヨさん、ね」
 肌寒い風に吹き消されてしまうような声量で俺はつぶやいた。こんなことを言ったら母親に殴られるかもしれないが、
 俺はそのトヨさんという女性をほとんど知らない。というか覚えていない。
 父親がまだ生きていた頃。俺と母親、そして父親も含めた三人でこの家に遊びに初めて訪れた時に会っただけだ。当時はろくに言葉も交わしていない。しかし俺の母親はというと、そのトヨさんと馬が合ったのか妙に息投合し、その後も連絡を取り続けていた様だった。さらには単独でトヨさんに会いに行くという驚きの行動を何度か起こしたのだ。母親はどういうわけか、そのトヨさんをやけに慕っていた。
 そしてそんな縁もあり、俺の母親はトヨさんが亡くなったこの家を、この度急に引き取ることになったのだ。田舎ということもあり、誰も引き取り手がいなかったらしい。どうして母親がこの家を引き取ろうと思い至ったのか。それはまだ 見当がついていない。
 俺は車の後部座席から荷物を取り出している母親をチラリと盗み見た。この人が何を考えているのかなど、考えるだけ時間の無駄なのだ。彼女が突拍子のないことを仕出かすのは今に始まったことではなく、彼女はいつでもどこでも我が道を突き進む人間なのは昔からで、この引っ越しも本当に唐突であった。
 ある日突然、母親がこの家に引っ越すと言いだしたからこそ、俺は否応なく慣れ親しんだ家と高校を離れる羽目になった。
 それも四月の下旬という、こんな中途半端な時期に。
「もう慣れたけどな……」
 苦笑気味にぼそりと発した言葉だったが、荷物を手に持った母親が訝しげな視線をこちらに投げかけた。
「何か言った?」
「いや。母さんも母さんだけど、俺も俺だよなって」
 自虐的な笑みを浮かべながら、俺は首を横に振る。結局のところ、こんな風に母親に振りまわされるのが嫌いではないのだ。彼女は変わっているが、俺もその遺伝子をうけついでいるだけあり、少しだけ感覚がズレているのかもしれない。
 母親は俺の不可解な発言に、遠慮のない言葉を返した。
「あんたって、たまに意味分かんないこと言うわよね」
 いつも意味の分からない行動をとる人には言われたくない。俺はその言葉をぐっと飲み込んだ。反論したら倍返しされるのは目に見えている。
すると次の瞬間、彼女は俺の優しさを踏みにじる言葉を吐いた。
「それにしても寒いわね。こんなに寒いんなら上着でも着てくればよかったわ」



 母親に純情な感情を弄ばれた俺は、そのことにはあえて突っ込まず、両手に荷物を抱えながら新しい我が家の玄関へ向かった。目の前に立つ和風の家は、白い壁に漆黒の瓦が葺かれた屋根で外観を成していた。昔ながらの、古きよき建造物といった感じだ。
 トヨさんが亡くなってから、家具や家電などはそのままのようで、これといって必要となる物はないらしい。なんと布団や机なども揃っており、自分たちの荷物をそれぞれ運べばそれで引っ越しは済んでしまう。何とも手頃な引っ越しであった。
「いいわよねー、横に引く玄関って」
 母が玄関の鍵を開けながら嬉々とした声色で言う。しかし一方の俺は、何とも言えない苦い感情がふつふつと沸き上がっており、身体に効く粉薬を口に含んだような表情を浮かべていた。傍らに立つ母親も当然俺の表情に気づき、首を傾げた。
「どうしたの、律志。何か顔色が暗いけど」
 それは夜の暗闇のせいだろう。とはいっても、俺の心情が暗闇に沈んでいるのは確かであった。俺は迷うように瞳を動かしたあと、思い切って心の内を口にする。
「七年前にここに遊びに来た時さ……俺、見たんだよね」
「何を?」
「……幽霊」
 そう。あれは忘れもしない七年前。俺はこの家のトイレで幽霊を目撃したのだ。あのおぞましい記憶を思い出すだけで、俺のトラウマが悲鳴を上げそうになる。
 しかし俺の強張った顔とは反対に、母は「あぁ」と気にも留めていない様な口調でつぶやいた。
「そういえばそんなこともあったわね。あんた、あれから夜中にトイレに行けなくなったっけ」
 そしてあろうことか、あっけらかんと笑いながら母が言う。
 俺は冷めた眼差しでその挙動をじっと見つめる。笑いごとではない。こっちにしてみれば、心に深い傷を負う羽目になった人生で最大にして最悪のトラウマなのだ。
 俺の複雑な男心を、しかし母はさらりと流した。
「大丈夫大丈夫。幽霊なんていないから。あれもあんたの見間違いよ。怖い怖いと思っているからそういうのを見るの」
「でも見た。あれは見間違いじゃない」
 俺は毅然として憮然とした口調で反論する。
 断固として退かない俺を、母は面倒臭そうに見つめたあと、やれやれと肩をすくめた。
「分かったわよ。そんなに言うなら、一通り家の中を調べれば解決するわね。それで満足でしょ?」
「えっ? 調べてくれるの?」
 驚きの声を上げた俺に対し、母は呆れた顔を向け、こう言い放った。
「何で私がそんなことしなくちゃいけないのよ。自分で調べなさい」
 
 さいですか。


 ひとまず荷物を玄関に置き、俺は家の中を回ってみることにした。家の中は整然としており、余計な物は一切置いていない。家の中は何だか殺伐としていた。
 これまでアパート暮らしだった俺は、改めてトヨさんの家の中の広さに舌を巻いた。とにかく無駄にでかいのだ。加え、何のために使うのかと疑問に思うほど部屋の数が多かった。確か外には納屋もあった気がする。
 俺は目に映った電気のスイッチをとにかく手当たりしだいに点け、ゆっくりと歩を進めた。不気味な静寂に包まれる廊下を歩きながら、ゴクリと唾を呑みこむ。幼い頃の記憶を手繰り寄せつつ、幽霊を目撃したあのトイレへと向かう。
 そう。あれは真夏の夜のこと。
 夜中に尿意を感じた俺は、何の気なしに布団から起き上がりトイレへと向かった。暗闇の中、慎重に二階から一階へと階段を下りた俺はふと、あることに気がついた。
 トイレの電気が点いていたのだ。
 だがこの時の俺は、きっと誰かが消し忘れたのだろう。寝ぼけた頭でそう思い至った。誰だって俺と同じ答えに落ち着くはずだ。だから俺はそのまま何も考えずにトイレへと向かい――無造作にドアを開けた。
 すると開けてびっくり。そこには同い年くらいの一人の少女が立っていたのだ。顔はぼんやりとしか覚えていない。確かなのは、死人のように青白い顔に、闇に溶けそうなほどの黒髪であったということだけだ。
 頭の先から足のつま先まで、一瞬にして凍りついた感覚は今でも覚えている。実際に、何秒か心臓が止まったのではないだろうか。
 元々白かった顔を恐怖でさらに蒼白にさせ、猛然とトイレのドアを閉めた俺は、夜中にもかかわらず奇声を上げながら階段を上がり、母親の元へと向かった。俺は無我夢中で母親を布団の上から揺さぶり懸命に起こした。
 幽霊を見た。
 女の子の幽霊がトイレでオシッコをしていた、と。
 しかし当時の母親は相も変わらずというか、何と言うか。彼女は俺を蚊でも追い払うような態度で「そりゃあ、幽霊の一匹や二匹いるでしょ」と冷たくあしらい、全く取り合おうとしなかった。そしてあろうことか、一人息子を置いてそのまま眠り続けたのだった。
 そのあとは当然のごとく眠りにつくことができず。俺は一睡もできないまま母親の布団の隣で朝を迎えた。……こういう言い方は、何かいやらしく聞こえるな。
 くだらないことを考えている内に、トイレのドアが見えてきた。当時の記憶そのままの光景だ。
 俺はひとまず立ち止り、大きく深呼吸をする。
 今や俺は高校二年生だ。幽霊ごときで怖がってどうする。母親の言っていた通り、きっと見間違いだ。俺はそう自分に無理やり言い聞かせた。
 再び歩みを開始した俺は、トイレの前まで辿りついた。恐る恐る手を伸ばし、ドアノブに手を当てる。ガチャリ、と音が耳の近くで反響し、鼓動が徐々に速まるのが分かった。だが俺は意を決し、そのままドアを勢いよく引いた。
 もちろんトイレの中には誰もいなかった。もぬけの殻、とでも言えばいいのだろうか。
「当然だよな……」
 思わず鼻先から笑いが漏れた。
 だろうな、と。
 当り前だ、と。
 俺は両手を上げ、やれやれと首を横に振りたい気分だった。全くもう。本当に困ったものだ。あの出来事を体験してからというもの、今まで何回、夜中のトイレを我慢したと思っているのだ。ふざけるなよ、この野郎。今なら幽霊の顔にボ ディブローでもできるような気がする。
「まぁ、幽霊には実態がないから無理か」
 アメリカ人でも笑わないような、つまらない軽口をたたきながらトイレのドアを閉めた俺は、そこで動きをピタリと止めた。
 視界の隅に、人の気配を感じたのだ。
 嘘だろ。
 マジで。
 夢じゃないのか。
 いや、でも確かにいる。誰かがそこにいる。
 俺の鼓動は心臓がはち切れんばかりに胸を激しく打ち付け、頭は酸素不足でくらくらしてきた。冷や汗は額から滝のように流れ、目を大きく見開き、不審者のように呼吸も荒くなっていた。
 どうしよう、と頭の中が混乱していると、横から甲高い少女の声が届いた。
「あの……私、トイレしたいんですけど」
 トイレしたいとな。
 俺はその言葉にはっとし、無意識に顔を横に向けていた。
 目線の先には、一人の少女が立っていた。死人のように青白い顔に、腰まで垂れた闇に溶けそうなほどの黒髪。
 俺の八年前の記憶が一気に甦る。
 そうだ――この女の子だ。少し成長しているようだが、この幼い顔立ちは、あの女の子に違いなかった。
 あの日のこのトイレで用を足していた幽霊の少女。
 無理やり閉じ込めていた記憶と感情が堰を切ったように溢れ、あの日の記憶がまるで走馬灯のように鮮明に思い起こされる。俺は再び、焦点を彼女に合わせた。
 そして、たっぷり三秒間置いてから、俺は奇声を発した。

「――いやあああああああああーーーー!!」

 そこで俺の視界は真黒に染まり、そこから先は残念ながら覚えていない。



 俺は一気に息を吸い込み、かっと瞼を開けた。目を刺激する照明の光に、俺は思わず顔をしかめる。
ここはどこなのだろうか。ぼんやりとした視界が徐々に焦点を結びはっきりしようとしたところで耳慣れた声音が届いた。
「あら、目が覚めたようね」
 俺はその声に引きつけられるように視線を伸ばし、自分の横に座る母親の姿を認めた。
「あれ……何で俺……」
 そこで言葉を切った俺は、自分が布団の上で寝ていることに気がついた。
「あんたトイレの前で倒れていたのよ。いきなりあんた叫び声が聞こえたと思ったら、トイレの前で白目剥いて寝てたんだもの。本当に引いたわよ」

 そこは心配した、と言ってほしかった。口に手を当て、うっと顔を歪めている母親の顔が容易に思い浮かぶ。
しかしながら、俺はいつもの調子の母親の態度で、やっと自分の置かれている状況がつかめてきた。
「そう……俺、トイレの前で倒れていたんだ」
 俺はぐったりした顔で反射的に頭を押さえた。しかしまた、とんでもない出来事に遭遇してしまった。やはりこの家には幽霊――トイレに住む少女の幽霊がいるのだ。八年前の出来事は妄想などではなく、本当の出来事だった。
「ちょっと、大丈夫? 顔色悪いわよ。……てゆーか、何であんたはあんなところで倒れていたの?」
 珍しいことに、母親は本気で心配しているらしい。その顔は、なんだか憂いを帯びているように見える。
「いや……大したことはないんだけど……」
 俺は言葉を濁らせる。これは言っていいものか。母親を無駄に心配させるわけにはいかないのではないか。俺があれやこれやと悩んでいると、母親がこれまた珍しく、優しげな調子で話しの先を促した。
「いいから言いなさいよ。一体、あんたの身に何が起こったの?」
 俺はしばらく逡巡してから、思い切って口火を切った。
「実は……いたんだよ」
「何が?」
 母親が、興味津々といった具合に身を乗り出した。
「七年前に見た……女の子の幽霊が」
 傍らに座る母親が、微かに息を呑むのが分かった。そうだろうな。誰だって幽霊が本当にいると分かれば驚くだろうさ。
「やだ……幽霊って本当に?」  
 母親は口元を手で押さえ、さらに表情を曇らせる。その様子から彼女は相当なショックを受けているのだろう。
 俺は心のなかで母親に対し、ざまあみろ、と鼻を鳴らしていた。これはあの夜、恐怖に震えあがる俺を置いてぐっすりと眠ったことへの天罰だ。
 だが俺はもう高校生であり、そこまで子どもではない。だから責めたりはしないさ。誰だって過ちは犯すものだ。俺は少しばかり偉そうな態度で腕を組んだ。
「あんたが気絶したってことは……本当にいるってことよね」
 やっと俺の言葉を信じたか。道のりはとても長かったが、ようやく俺の苦労も分かってくれ――
「ですって、咲ちゃん。この家に幽霊がいるってこの子言ってるわ」
 母親が俺から視線を離し、背後へ目をやった。
 誰に話しかけているのだろうか。
 俺は混乱の極みに達し、さらにはそれを越え、嗚呼この人はとうとう頭がおかしくなったんだな、と現実逃避を起こした。
 しかしながら。
 俺の背後で、これまたどこかで聞いた声音が響き渡る。
「私はこの家に暮らし始めて十年は経ちますが、幽霊などという非科学的な生き物の存在は見たこともなければ、トヨさんから聞いたこともありません」
 俺はこれから先、こんなにも速く首を回すことはないだろうと思われる最大速度で、首を巡らした。
 いつの間にそこに座っていたのだろうか。背後にはついさっき目の当たりしたばかりの少女が、ちょこんと座敷の上に綺麗に正座していたのだ。
 俺が無表情のまま固まっていると、少女は構わずに自己紹介を始めた。
「初めまして。北沢咲といいます。ちなみに高校二年生です」
 そして小さく一礼して見せた。
 俺はしばらくの間、言葉に迷った。何か先の展開が全く見えない。
 無言のまま見つめ合う俺と少女の間に割って入るように、母親が声を上げた。
「紹介するのが遅れたわね。この子は、ずっと昔からこの家に住んでいる女の子よ。高校二年生だから、律志と同い年になるわね。仲良くしなさいよ」
 少女こと北沢さんは、母親の言葉に合わせるように再び一礼して見せた。
 住んでいる?
 ずっと?
 何が何だか分からなかった俺は、頭を押さえ困惑しながら言葉を発した。
「ちょ、ちょっと待って。えっ……君、幽霊じゃないの?」
 北沢さんと母親は顔を見合わせる。その表情から口にしなくても分かった。こいつ何を言っているんだ、といわんばかりの顔つきだったのだ。自分でも分からない対抗心から、次々に沸き上がる疑問を口にした。
「だ、だって、トヨさんって生涯独身で子どもとかいなかったはずじゃ……」
 すると母親は間髪いれず、複雑な事情を彼女の代わりに説明し始めた。
「咲ちゃんは、トヨさんが世話を焼いていた隣のアパート住人さんの子どもで、咲ちゃんの母親が亡くなったとき、トヨさんが引き取ったのよ。咲ちゃんのお母さん、身よりがいなかったらしくてね」
「で、でも、俺が七年前に来た時はいなかったじゃん!」
 この疑問には、母親も答えられなかったらしく。彼女はその答えを求めるように、北沢さんに視線を向けた。
 その視線に気づいた北沢さんは、淡々とした声と表情で七年前のことを語り始めた。
「それは昔、私が極度の人見知りだったためです。当時の私はあなたたち家族が来ると聞き、できれば会いたくないと思いました。上手く話す自信がなかったためです。私がそのことをトヨさんに話すと、だったら無理をしなくていい。納屋に隠れていてもいい、と言ってくれたんです」
「納屋……あれのことか……」
 きっと家の隣にあったあの建物のことだろう。くすんだ赤色をした屋根のプレハブ式の納屋。なるほど。彼女は七年前、ずっとあそこに隠れていたらしい。まぁ、その気になれば人が住めなくもないかもしれないけど、冬になったらさすがに凍死するのではないだろうか。
 どおりで、と俺はあの頃のトヨさんの話しを思い出す。
 七年前、俺がまだまだ幼かったとき。
 その気になれば、某少年漫画のカメハメ波的な物理現象を本当に起すことができるのではないかと心の底で密かに思い込んでいたとき。
 納屋の扉を開けようとした俺に、彼女はこういったのだ。
『その扉を開けたら、たくさんのキョンシーが襲いかかってくる。だから開けてはいかん』
 当時の俺は、本当に臆病で怖がりな性格だった。加えて人が言ったことをすぐに信じる純情少年でもあったため、トヨさんが言った嘘をすぐに信じ込んだ。そして俺は、キョンシーを納屋で飼い慣らしている彼女に畏怖の念さえ覚えたのだった。
 今になって思えば、何であんな嘘を信じ込んだのだろうか。それによくよく思い出してみればその出来事の少し前、居間でテレビを眺めていたときトヨさんにあの変な生き物は何なのか、と尋ねられ、丁寧に教えていたではないか。恥ずかしさのあまり、悶え死にそうになる。
 俺は薄々感じていた事実をはっきりさせるため、彼女に質問を投げかけた。
「あのさ、一つ聞いてもいい?」
「何ですか?」
 俺の問いかけに、北沢さんは無機質な視線をよこす。
「七年前、トイレで俺と会った?」
 北沢さんは目をぱちくりとさせたあと、ややあってから、おずおずと首を縦に振った。
「ええ、会いました。まさかあんな夜中に鉢合わせするとは思いませんでした」
 なんてこった。
 無表情の裏側で、羞恥心が沸々と沸き上がってきた。脳内に住むもう一人の俺が、頭を抱えながら真っ赤な顔で悶える。
 疑う余地はない。七年前に俺が幽霊だと勘違いした少女は、紛れもなくこの北沢さんという女の子だったのだ。
「やだ……あんたまさか……七年前に幽霊を見たとか騒いでいたのって……」
 そして母親が、タイミング良く七年前に事実に勘づいた。
 頼むからそれ以上、言わないでくれ。
 頼むからそんな蔑むような目で自分の息子を見ないでほしい。だって人間なんだもの。間違いだってするじゃない。 こっちだって、ものすごく恥ずかしいのだから責めないでくれ。
「電気を点けてトイレをする幽霊なんて、聞いたことがありませんよ」
 その言葉に、胸中でほうと感心しながら北沢さんを見つめた。察しの良い女の子ではないか。特に説明はしなかったのだが、自分が七年前に幽霊と勘違いされていたことに彼女は気がついたらしい。
「まぁ、お気持ちは分かります。誰だって夜中にいきなり知らない人を見たら驚くし、幽霊だと勘違いすることもあると思います。それなので別に私は気にしません」
 そう言ってくれると気持ちが楽になる。生きているのに、自分が幽霊だと勘違いされたら、やはり気分の良いものではないはずだ。
「悪かったな。勘違いして」
 俺が素直に謝ると、北沢さんは眉一本動かさずに言った。
「いいえ。こちらこそ驚かせてすいませんでした。えーっと……」  
 そこで俺は、まだ自分が自己紹介していないことに気づき、急いで言葉を付け足す。
「新谷律志だ」
「新谷律志さん」
 ようやっと心の余裕ができてきた俺は、北沢さんの容姿をじっと眺めた。腰までかかった漆黒の髪の毛は、濡れ鳥の羽色のように美しいものであった。それに加えて、透き通るような白い肌は絵になるほど、その黒髪と合わさっている。
 三人の間に落ち着いた空気が流れ始めたとき。俺の母親こと新谷里美は、さらっと、とんでもない言葉を放った。
「ちなみにね、咲ちゃんは私たちと一緒に住むから」
「……今、何て言った?」
「だから一緒に住むのよ」
 なんてこった。
 そういう大事なことは、この家に引っ越す前に言うべきだろう。今に始まったことはない母親の突飛な行動は、俺だからいいものの、第三者にまで迷惑をかけるのは非常に気が引けるものだ。それに思春期真っ最中の男女が一つ屋根の下に暮らすのはいかがなものだろう。うっかり恋に落ちて間違いが起きたらどうするのだ……と思ったものの、この無口で無感動そうな女の子が、うっかり恋に落ちることはないだろうと心の中で密かに確信し、そして俺自身もその可能性を否定する。
 しかしながら、やはり北沢さんの気持ちもあるだろう。本当にいいのだろうか。俺は確認のため、北沢さんの方を向いた。
 彼女は俺の瞳から放たれる「あなたはそれでいいんですか」と訴えかける視線を感じ取り、淡々とした眼差しで頷いた。
「私は構いません。トヨさんも、里美さんが住んでくれてとても喜んでいると思います」
 そうかい。
 胸の底で、俺はこっそりとため息を吐いた。問題は彼女ではなく、諸悪の根源である俺の母親である。俺は憮然として横にいる母親に尋ねた。
「何で引っ越す前にあらかじめ言わなかったんだ?」
 少しばかり冷めた眼差しで母親を見つめた。はっきり言って、伝えるのを忘れましたなんて通用しない。こっちは気絶するほど驚いたんだ。
 すると母親は微塵も悪びれた様子なく平然と言い放った。
「驚かせようと思ったのよ」
 本日三度目。
 なんてこった。
 そのたった一言のために、俺は気絶という大きな代償を払ったのか。恐ろしきかな、我が母である。
「心配には及びません。私は昔からあの納屋に住んでいます。トイレやお風呂、食事の時以外は、ずっと納屋にいますから」
「あら、いいのよ私たちのことなんで気にしなくて。なんだったら、この機会に納屋からこの家に引っ越したら?」
 北沢さんはわずかにだが表情を緩めた。
「いいえ。本当に大丈夫です。私のことは気にしないでください。私はこの家にとって、ただの居候に過ぎないのですから」
 俺は眉根をきゅっと寄せた。何だか悲しくなる言い方である。押しかけたのはこっちであり、彼女には何の非もないのだ。それなのに、彼女は自分が俺たちにとって邪魔な存在であると思っているのだろうか。
 母親も俺と同じことを感じたのか。母親は彼女の両手を取り、悲しげな相貌で切実に訴えるようにして言った。
「そんなこと言っちゃだめ。私たちはこれから家族同然の関係になるんだから。遠慮なんてしないで。いい? 今日からあなたは私の娘よ!」
 ちょっと待て。
 俺は心の中であえて突っ込みを入れる。
 そこまで彼女を追い詰めてどうするのだ。見てみろ。北沢さん、困惑を通り越して、軽く引いているではないか。彼女にはまだ俺の母親の突飛な発言は荷が重すぎたらしい。
 そろそろ彼女を開放してやるべきだろう。そう思った矢先、俺の腹の虫が切なく鳴った。
「……なぁ、とにかくご飯食べない? お腹すいた」
 俺が疲れた顔でそう告げると、母親もそれもそうね、と納得したようにつぶやく。そして彼女は北沢さんの手を離すかと思いきや、そのまま彼女の手を引っ張った。
「そうだ、咲ちゃん。一緒にご飯でも作りましょうか?」
「あの……え、ええ……いいですよ」
 北沢さんは、わずかにおののきながらも肯定の意を示し、彼女は俺の母親にされるがままに部屋を出て行った。
二人の背中姿を見届ける。誰もいない部屋に残された俺は、ふぅと小さく息を吐いた。まだこの家に来て間もないが、なぜ母親が急に引っ越しするなんて言いだしたのか分かったような気がしたのだ。
「……あの子のためなのか」
 トヨさんが亡くなり、この家に一人っきりになってしまった彼女。
 そして誰一人身よりがいない彼女。
 母親はそんな彼女の状況に耐えきれなくなったのかもしれない。だからといって、東京に連れてくるわけにもいかない。だったらこっちが押しかければいい。俺の母親はそう思い至ったに違いない。
「全く……」
 俺は嘆息した。何と言えばいいのやら。いつもの事ではあるが、自分の都合だけで突っ走るのを恐れない人だ。
しかし心の中では、新しい生活に胸を躍らせているのも事実であった。


 夕ご飯というのは腹八分目に抑えるべきである。昔の偉人は良く言ったものだ。

 嘘である。今の言葉は俺がたった今、適当に考えたついたものだ。
 しかしながら、この言葉があながち間違っているとは思わない。というか、健康のためには夕食はそんなにたくさん食べるべきではないはずだ。根拠は分からないが。
 俺は箸を持ち、あり合わせの食材で作ったであろう野菜炒めを口に運びながら、そんなことを考えていた。
 それはなぜか。
 俺の目の前で、野菜炒めを思春期の青年顔負けの食欲でむさぼり食っている北沢さんの身を案じているからである。
 彼女――北沢さんは、かなりの大飯ぐらいらしい。
 すでに俺が食した量の三倍は腹の中に仕舞い込んだだろうか。さすがの俺も唖然とした。
 最初、テーブルに食事が並べられたときは何でこんな量の野菜炒めがあるのだろう。俺は疑問に思った。そしてある考えに辿りついた。
 そうか。
 俺が思春期真っ盛りの男子だから、たくさん食べると思ったのか。でも残念なことに俺は小食なんだ。身体の線も細く、高校二年生の男の身体付きには到底見えない。それがコンプレックスでもあるのだが、それでもこの心遣いは嬉しかった。お腹が一杯になるまでたくさん食べて。そう言われているように思えた。
 だが現実は違った。
 さぁ食べ始めるぞ、と箸を掴んだとき、俺はその事実に悟った。
 あぁ、自分のためだったのね。ごめん勘違いしていたよ。てっきり俺のためにこんな量の食事を作ってくれたと思っていたけれど、北沢さんは大食いなんだね。だけどいくらなんでも食べすぎだと思う。
 箸を休む間もなく動かし続ける北沢さんに、俺は少しだけ忠告することにした。彼女の胃だって少しペースを落としてほしいと思っているはずだ。
「ちょっと食べ過ぎじゃないか? 夜にそんなに食べたら身体に悪い気がするけど」
 北沢さんは箸を止め、黒い双眸を俺に向けた。
「野菜ですから大丈夫だと思います」
 確かにな。俺はとっさに言い返せなかった。野菜だし、別に悪い食べ物ではない。むしろ身体に良いのではないか。緑黄色野菜という名の鉄壁の守りの強さを初めて目の当たりにした気分だった。
 だが俺は、なおも言い続けた。
「……いや、でもそれは少し食べ過ぎな気がするぞ」
 すると北沢さんはゆっくりと箸を止め、しばらく考え込んだ。野菜炒めはすで冷めきり、あまりおいしそうには見えなくなっていた。
「まぁ、他人から見れば私の食事の量は違うのでしょうね……でもこれが私の普通の食事量なので大丈夫です」
 そう言われると、反論できない。彼女の言うとおり、食事の量など人それぞれだ。これだけ、と決めつける方がおかしいのかもしれない。
「そうよ。人がどれだけ食べようがその人の勝手。あんたこそ、食べなさすぎよ」
 母親がこれみよがしに俺の食事量に文句をつけてきた。日頃から俺にもっと食べなさいとしつこい位に言い続けている彼女である。厄介な話題を振ってしまったらしい。俺は面倒な展開になる前に逃げるようにして話しの矛先を変えた。
「そういえば、北沢さんも、俺が明日から通う高校に通っているんだよね?」
 彼女は口に食べ物を頬張りながら頷いた。
「どんな部活動があるんだ? できれば俺、部活とかやりたくないんだけど」
 前に通っていた高校では、部活動に入っていなかった。面倒だ、というよりも興味を引かれる部活動がなかったというのが正直なところであった。
 北沢さんはごくりと飲み込むと、抑揚のない調子で答えた。
「残念ながら、私たちの高校は、必ずどこかの部活動に所属しなければならない決まりです」
「マジでか。それはかなり面倒だな」
 俺は箸で脂ぎったニンジンを挟みながら、険しい顔で考える。どこの部活動に入ろうか。一つだけ決めていることは、運動部だけは絶対に入らないということだけだ。理由は単純で、運動が嫌いだから。どうしてわざわざ自分から疲れるようなことをしなければならないのか。俺にはさっぱり理解できない。
 そうなると、残るは当然、文化系の部活動ということになる。だが毎日は嫌だ。せめて週に二、三回ぐらいの部活動がいい。
 俺は箸を置き、試しに彼女に訊いてみた。
「なぁ、週に二、三回程度の活動で、なおかつ面倒ではない文化系の部活はないのか?」
「ありますよ」
 即答である。もしかして、と俺が思うより先に、北沢さんが話し始めた。
「私が所属する新聞部は、月、火、金の週に三回の活動で、なおかつ毎月一枚だけ新聞を作ればいいだけの部活です。実際、新聞なんて三時間もあればできてしまいますから。とても楽な部活動だと思います」
 よし、入ろう。
 俺は躊躇なく新聞部に入ることを決断した。週に三回だけの活動で、しかも毎月一枚だけ新聞を作ればいいなんて、俺にピッタリ過ぎるほど緩い部活である。
「……ちょっと律志。まさかもう新聞部に入ることを決めたんじゃないわよね?」
 テーブルの向かいに座る母親が、呆気にとられたような顔になる。
 俺は内心むっとした。先ほどの話しではないが、それこそ何の部活動に入ろうが俺の勝手だろう。こればかりは小言を言われる筋合いはない。
 母親はそんな俺の気持ちを察したのか。やれやれと肩をすくめると、偉そうな口調で語り始めた。
「まぁ、あんたの好きにすればいいわ。でもね、律志。昔の偉人はよく言ったものよ。ディズニーランドに行ったら、買い物は最後にすべきであるって」

 それはあれか。最初の方に買い物をしてしまうと、後から次々と欲しい物がたくさん出てきても金がなくなっているため本当に欲しい物が買えなくなるから、ディズニーランドを一通り回ってから、最後の入り口付近にあるディズニーランドの品物がほとんど揃った店で買った方が後悔は少なくなるとかそういう意味なのか。
 長い。
 というか、何で俺がそこまで代わりに解説しないといけないんだ。
 俺はすでにぬるくなったお茶をすすり、静かに湯のみをテーブルに置く。
「ならこれでどうだ。運命は必然である。手にした物に意味があり、そして買えなかったことにも意味がある」
 これなら反論はできまい。俺は得意げに鼻を鳴らす。
「極端なことを言って話しの論点をずらすなんて、やり方が汚いわよ」
 母親が不愉快そうに眉をよせる。
 何とでも言ったらいいさ。俺は新聞部に入ることに決めたのだ。いくらあの母でも、邪魔はさせない。
しかしながら。やはり母親というべきなのだろうか。俺は彼女の言葉をもっと胸に刻んでおけばよかったと、心の底から後悔する羽目になるのだった。
 


新しい街に引っ越して来てから翌日のこと。
 新たに通う高校は街のはずれに建てられている。地元で有名な進学校で、街の内外から生徒が集まっており全校生徒は約六百人ほど――らしい。
 高校は長く急な坂の先にその建物を構えていた。建物に続く長い坂には見事な桜が立ち並んでおり、何本かの桜の木はちらほらと芽吹いていた。現在は四月の下旬。この辺りだと今の季節が桜のシーズンらしい。以前住んでいた東京は、とっくに桜は散り、桜の木はピンク色から見事な青々しい緑色に変わっている。俺は今年、二度桜の季節を満喫できるのだ。
 俺は急な坂道を一人で登りながら、そそくさと横を通り過ぎていく生徒たちに感服した。それにしてもよくこんな坂を登るものだ。冬になったら、どうなるものやら。これで一つ楽しみが増えた。


「えー……こんな中途半端な季節ですが、転校生を紹介します。名前は新谷律志君です。東京から来たそうです。仲良くしてください」
 傍らに立つ担任の先生が、抑揚の乏しい気だるそうな口調で俺の紹介文をクラスメイトに向けて発信する。もう少し元気よく言いましょうよ。俺の心象にも影響するんですから。俺は比較的若いといえる女性教師に訴えるような眼差しを送る。しかし気だるげな表情は引き締しまるどころか、俺の視線にも気づいていなかった。
 俺は心の底で溜息をつくと、自分に注がれる好奇心の目に応えるように、名前が書かれた黒板を背景にして頭を下げた。
「新谷律志です。東京の高校から来ました。よ、よろしくお願いします」
 たどたどしい俺の自己紹介は、クラスメイトの温かい拍手で幕を閉じた。

 一限目が終わり、教科書を机の中に仕舞い込む。転校生という存在はやはりクラスの空気を変える様で、自分に意識が注がれているのが容易に分かった。隠れた好奇心を周りから感じるなか、物怖じしないクラスメイトの一人が、俺に話しかけてきた。
「よお。転校生」
 俺は平静を装いつつ、それでいて人の良さそうな笑みを浮かべながら顔を上げた。
「や、やぁ。こんにちは」
 視線を上げた先にいたのは、爽やかな風が周囲に流れている青年の姿だった。額にかかる色素の薄い髪の毛は、彼をより一層魅力的に見せていると言ってもいい。
 彼はちょうど持ち主が不在の目の前の席の椅子を引き、そのまま腰を下ろすと、ニッと口端を上げた。
「東京から来たんだってな。何でこんな半端な時期に転校したんだ?」
 来ると思った。俺は前もって準備しておいた嘘の理由を滑らかに述べる。
「母親が急にこの街に転勤になったんだ。だからだよ」
 なるほどねぇ、と彼は俺の言葉を疑うことなく納得したように頷いた。
「ちなみに俺は金田一功。生まれも育ちもこの街なんだ。よろしくな」
 金田一か。かっこいい名字だな。
 俺は彼――金田一に感謝しなければいけないだろう。こうして突破口になってくれる人間がいなければ、クラスに馴染むのにも一苦労するのは目に見えている。
「そういえば新谷は何の部活に入るか決めたか? この高校は、必ずそこかの部に所属しなくちゃいけない決まりがあるんだ」
 それは知っている。昨日北沢さんに聞いていたからだ。もちろんそんなことは、口が裂けても言えないが。
「そうなのか。でも俺、部活動はもう決めているんだ」
「へぇー。どこにするんだ?」
 興味を引かれたように、金田一が瞼を三ミリほど見開いた。俺は昨日、入ることを即決した部の名前を何気なしに口にする。
「新聞部に入ろうと思ってる」
 言ってから、俺の周囲の空気が二、三秒ほど固まった。そしてなぜかおかしな雰囲気が漂い始め、周りにいるクラスメイトが俺にチラチラと視線を送る。何か変なことでも言ったのだろうか。
 金田一はしばらく目をぱちくりさせていたが、急にぷっと息を漏らすと、声を上げて笑いだした。
「ハハハ! そうか! お前新聞部に入んのか!」
 彼は俺の肩をバンバン叩きながら、嬉しそうな声音を上げる。俺は何がなんなのかさっぱり分からず、訝しげな視線で金田一を見つめた。
「な、何で俺が新聞部に入るくらいでそんなに嬉しそうなんだ?」
 ひどく困惑した顔で俺は金田一に尋ねたが、しかし彼は俺の疑問には答えずに、いたずらっぽい笑みを口元に浮かべた。
「自分の目で見て確かめればいいさ。大丈夫、きっと楽しいから。それに俺もお前が新聞部に入ってくれて、すっげぇ嬉しいよ」
 何で彼が嬉しがるのだろう。俺のもやもやした感情は一層濃くなるばかりで晴れないままだった。
 金田一は時計に目をやると「そろそろだな」とつぶやき、椅子から立ち上がった。話しはまだ終わっていないぞ。しかしながら、もうすぐ二時限目が始まる頃だ。俺は腑に落ちなかったが、何も言わずに彼を見送る。
 彼は自分の席に戻る間際、振り返り俺にこう告げた。
「俺、お前のことが気にいったよ。これからも仲良くしような」
 そう言って、彼は背を向けて去っていく。
 俺は今、どんな顔をしていたのだろうか。きっと解けない計算問題を前にした小学生のような顔だったに違いない。




 今日一日分の授業を消費した俺は、入部届を提出するため職員室に向かっていた。この入部届はその部の顧問に提出しなくてはならないらしいのだが、俺は新聞部の顧問の先生の名前と顔も知らなかった。昨日、北沢さんにでも聞いておけばよかった。そんなことを思いながら俺が入部届の紙切れと睨みあっていると、俺の新聞部への入部を一番に祝ってくれた金田一が現れ、親切にも顧問の先生の名前を教えてくれた。
 俺は職員室のドアを開け、例の先生の元へと向かった。どこにいるのかは、当然知っている。なぜならその顧問の先生というのは、偶然なことに俺の担任の先生でもあったからだ。
「すいません。五日市先生。これを提出したいんですが」
 俺は今朝、気だるそうに紹介をしてくれた女性教師こと五日市先生のもとへ趣き、入部届を手渡した。五日市先生は一度さっと目を眇めたが、すぐにその紙切れが何なのかを察し、受け取った。彼女はじっと俺の入部届けを見つめ、ポツリと言った。
「……お前、新聞部に入るのか?」
 俺は彼女の無造作に一つにまとめられた髪の毛から目を離し、おずおずと頷いた。
「はい……何かまずいですか?」
 そんな風に言われると、何か間違ったことをしている気分になる。
「どうして新聞部に入ろうと思ったんだ?」
「どうしてって……前に高校でも新聞部だったからです」
 本当のことを話すか迷い、結局嘘を吐くことにした。本当のことを話したら、面倒な展開になりそうな気がしたのだ。
 五日市先生は見定めするように俺のことを眺めていたが、しばらくして机の引き出しを開け、俺の入部届を仕舞った。
「まぁいい。私が心配だったのは、新聞部の評判だ。それを知ってなお、お前が入りたいと思ったのなら私は別に構わない」
 先生はコーヒーが半分ほど入ったカップを持ち、口に運んだ。
「ちょ、ちょっと待ってください。評判ってなんですか?」
 勝手に話しを終わらせてしまった先生を引き止めるように、俺は焦りながら言った。
 カップを机の上に置くと、先生は俺の顔を見上げ意外そうに眉を動かした。
「何だ。知らないのか?」
 俺はこくこくと頷く。もしかしたら金田一がやけにおもしろがっていた原因は、その評判とやらにあるのかもしれない。
 先生はなぜか小さく溜息を吐くと、これまた気だるそうな口調でつぶやいた。
「新聞部は、学校中の変わった人間が集まった部活として有名なんだ。特に部長が変わった奴でな。他の部員も負けず劣らず、癖のある奴が多い」
 えっ……そうなの? 俺は初めて耳にした事実に面を食らった。初めて聞いたから、当り前と言われればそうなのだが。
 彼女は俺の表情に気づかないまま、呑気に話しを続けた。
「そんな部活だから、周りから多少浮いているんだ。学校の連中からは少しばかり敬遠されているのも事実だ。しかも新聞部はその名前をもじって、変人部なんて言われている始末だしな」
「変人部……」
 あまり響きの良い言葉ではない。というか、完全に馬鹿にされているではないか。
「でも……北沢さんはそんなに変わった人には見えなかったけど」
 俺が知らず知らずに内に漏らしていた名前に、先生は反応を示した。
「何だ。お前北沢を知っているのか?」
 俺はハッとし、慌てて言葉を添える。
「ひ、引っ越した先の近所が、たまたま彼女の家の近くだったんですよ。昨日も挨拶に行ったとき少し話しをしただけです」
 先生は「そうか」とつぶやき、あっさり納得した様子だった。
「お前の言うとおり、あいつはそんなに変わった奴ではないが、やはり遠目から見れば浮いてみえる。他にも三人ばかり部員がいるが、そいつらも学校の中では浮いている」
 俺は先生の話しを耳に入れながら、彼女――北沢さんのことを思い出す。確かに彼女はかなり堅い話し方をしているし、独特な雰囲気を持ち合わせていることも否めない。傍目から見れば、変わっている人間の中に入るのかもしれない。だが俺はほとんど――というか、はっきり言って全く気にならなかった。さすがあの母親の息子といったところか。ちょっとやそっとのことでは動じないのが強みだ。
 だがしかし。
 母親が指摘していた通り、もう少し色々な部活動を見てから判断をすればよかったのかもしれない。変人部なんぞと呼ばれている部活動に入部するのは、ちょっとばかり気が引ける。
「あの……その入部届、一回返してもらえますか? もう少し考えてから提出したいと思います」
 俺が躊躇いがちにそう頼み込むと、感情の色がほとんど見えない先生の目が、わずかに凄みを帯びた。
「何だ……変人部に入るのが嫌か? あいつらと同括りにされるのは我慢できないか? あいつらのことを何も知らないのに?」
 俺は自分でも気づいていなかった痛い部分を抉られ、言葉に窮した。とっさに言い返せなかったということは、少なからずそういう気持ちがあったということだろう。
 自分はそんな人間じゃない。他人を差別したりはしない。口ではそう言っていても、実際に態度で表わしたら同じことだ。
 何か小さい人間だな、俺は。
 先生は俺のばつが悪そうな表情を一瞥したあと、再びカップを手に握った。
「心配しなくても、この入部届はすぐに受理しない。どこの部活にも必ず一週間の仮入部期間があって、その間に自分がその部活に入部するかどうするのかを決める。だからお前もとにかく一週間活動してみろ。それから決めても遅くはないさ」
「そう、なんですか……」
 どんな感情で返したらいいのか分からず、俺は当たり障りのない言葉を口にした。
「それに今日は月曜日で新聞部の活動日だ。顔を出すだけでも出してみたらどうだ?」
 うむ。その提案は悪くはないな。彼女の言う通り、まずはどんな部活か見てから決めよう。
「そうですね。せっかくなんで、行ってみます」
 俺が微かに表情を緩めると、先生もそれにつられるかのように、目じりを下げた。
「悪い奴らじゃない。変わっているかもしれないが、言いかえれば個性的なだけだ」
 ものは言いよう、か。それでも彼女の言い分は遠からずも当たっているのかもしれない。
 とにかく行ってみるべしだ。俺は先生に小さく頭を下げると、踵を返し職員室のドアへ向かった。


新聞部の部室は二階校舎の東側の一番端にある。元々は物置きの場として使われていた教室だったが、新聞部の新たな創設にあたり、急きょ用意された教室らしい。これももちろん金田一情報だ。彼が新聞部の情報をくれる度に疑問に思ったのだが、なぜ彼は新聞部でもないのにこんなに詳しいのだろう。しかも一番重要な情報はくれず、ほとんど……こう言ってはあれだが、はっきり言ってどうでもいいものばかりだった。彼は一体、新聞部とどういう繋がりがあるのだろうか。
 一階から階段を上り二階に昇った俺は、金田一から得た情報を頼りに目的の教室へと歩みを進める。東側校舎の端に来た俺は、目の前にあるドアを上から下まで舐めるように見つめた。
「ここでいいのか……」
 ドアには特に何も書いていない。新聞部のブの字も見当たらなかった。俺は一瞬迷ったが、躊躇いがちに二度、軽くドアを小突いた。するとドアの奥から野郎の声が聞こえた気がした。俺はゆっくりと静かにドアを横に引く。
「……失礼します」
 恐る恐る部屋を覗くと、狭い一室の真ん中にテーブルを置き、四人の生徒がそれを囲むようにして座っていた。その中には、もちろん北沢さんの姿もあった。
「来ましたね」
 テーブルの向こう側に座っていた北沢さんが、俺の姿を認めるや、椅子からすっと腰を上げて迎えてくれた。
 後ろ手にドアを閉め、俺はその場に立ち尽くす。四人の視線が一斉に俺に集まった。男が二人。女は北沢さんを含めた二人。実にバランスの良い人数である。
「あの……どうも。二年に転校してきた……新谷律志です」
 深々とはいかずとも丁寧に頭を下げる。顔を上げ、初めての空間に落ち着かない俺は、助けを求めるように北沢さんと視線を送る。
 彼女は俺の気持ちを察したのか。俺から視線を外すと、部屋の前面側に座る一人に青年に話しかけた。
「部長、彼がさっき話した新しい部員です」
 まだ正式に入部すると決まったわけではないけどな。しかしながら俺は余計なことは一切言わず、その部長とやらをまじまじと見つめた。
 俺は他人の容姿には、あまり関心のあるほうではない。だがその部長とやらの外見には思わず目を奪われた。
 悔しいくらい、かっこいいのだ。
都会でモデルをしています、と自慢されても全く嫌みがないほどだ。切れ長の目に、ほどほどに高い鼻をした端正な顔立ち。一見、骨が細そうに見えるのだが貧相な感じは微塵もない。女性のように艶やかな黒髪は額にまで流れ、その髪間から覗く黒い双眸は宝石のように綺麗だった。眉目秀麗とはこういうことをいうのか。まったく羨ましい限りだ。
 嫉妬心など呆気なく吹っ飛び、部長の顔にうっとりしていると、そんな俺を非難するような声が飛んできた。
「どんだけ見とれてんのよ、あんた。見過ぎよ」
 俺は北沢さんの横に目を向ける。一人の女子生徒が俺に挑むかのような鋭い眼差しを送っていた。
 心の中で俺はこっそりと呻る。ほう。こちらも中々の美人さんではないか。キリっとした形の良い眉毛に、猫のようにつり上がった大きな目。そしてそこから覗く雀色の瞳が印象的だ。
「彼女は新聞部の副部長で、名前を清水美和と言います。学年は私たちと同じです」
 次いで俺は、北沢さんはテーブルの向いに視線を移した。俺から見れば真横である。
 首を横に向けると、一人の男子生徒とバッチリと目が合った。もっさりした黒い髪の毛は額だけではなく頬まで垂れさがり、上手い具合に彼の表情を隠していた。お前少し髪切れよ、と思わず言ってしまいそうになった。
「彼は漆田努君です。彼も同じ学年です」
 俺は人の良さそうな笑みを作り、漆田に挨拶をした。
「よろしくな」
 きっとこの新聞部の中で一番、話す機会が多くなるだろう。咄嗟にそのような考えに至り、愛装の良い笑顔で挨拶する。
 漆田は「よ、よろしくお願いします」とまごつきながら、小さな声でつぶやく。その挙動不審な振舞いから、彼は人と話すのがあまり得意ではないのかもしれない。
「で、何でお前は新聞部に入部しようと思ったんだ?」
 奥にいる部長が、腕を組みながら無愛想な顔で尋ねてきた。俺は喉の奥で唸り声を上げる。もしやこれは入部試験というものだろうか。
 俺は少し迷う。正直に言うべきか。しかしあまりはっきり本当のことを言うと、印象が悪くなってしまい、入部を拒否されてしまう可能性もある。
 どんな返答がベストか眉根を寄せながら真面目に考えていると、北沢さんが余計なお世話を焼いてくれた。
「彼が部活は面倒だから、できればやりたくないと言うので、この新聞部を紹介しました」
 もう。言っちゃたよ、この子。
 俺が無表情のずっと奥で頭を抱えていると、予想外の反応が返ってきた。
「まぁ、妥当な選択だな。部活を真面目にやりたくない人間は、この部活に入部するのが賢い選択だ」
 まぁなんと。意外なことに、部長の中での俺の好感度は上がったようだった。思わぬ場外ホームランである。普通なら文章を書くのが好きだからです、とか耳触りの良い理由を答えるものを。サボりたいから新聞部に入部したいです、と言って好印象を与えるとは誰も考えつかないだろう。非常に難易度も高い選択肢である。
「あの……俺、新聞部って初めてなんで、正直何をするのか分からないんですが」
 北沢さんは三時間もあればできる、とか何とか言っていたが、実際そんな短時間で仕上がるものなのだろうか。いまいちピンとこない。
 すると北沢さん、他三名は俺の質問に互いに顔を見合わせる。何なのだろう。どうしてそんな自信なさげな目で会話するんだ。こっちが不安になるではないか。
 しばらくしてから、部長が代表して威厳のある態度でこう告げた。
「俺たちもよく知らん」
 嘘でしょ。
 俺は驚愕に揺れた瞳で、新聞部一同を見つめた。しかし。彼らの表情を読み取るに、嘘を言っているようには見えなかった。冗談を抜いて、彼らは新聞部の活動がどんなものなのか分かっていないようだ。
 ちょっとばかり動揺した俺は、目の前に座る部長に言い募る。
「で、でも、今までずっと活動してきたんでしょ?」
 その疑問には、北沢さんが部長の代わりに答えた。
「ええ。毎月模造紙一枚にその月にあった出来事を書いて、廊下に貼っています」
「えっ? そ、それだけ?」
 俺が怪訝な口調で確認をすると、北沢さんは戸惑った顔で俺の顔を見据えてくる。その顔はまるで私、何か変なこと言いました?とでも言いたげな眼差しであった。実際そうなのだろうが。
 新聞部と高々と名乗るからには、もっと本格的なのかとばかり俺は思っていたし、少なくとも数枚は折り重ねてある新聞だと思い込んでいた。しかしこの学校では、毎月模造紙一枚を書いてそれを廊下に張り出すだけの部活動らしい。何ともおぼつかない、綿あめのようにふわふわした活動である。
「そんなに言うなら、貴様には何かいい案でもあるのか?」
 唐突な部長の質問に、俺は閉口する。いきなりそんな風に言われても困る。
 困惑気味に押し黙っていると、清水さんが頬杖をつきながら言った。
「あんたの言いたいことも分かるけど、何年か前にこの部活ができてから、ずっとこんな感じだったのよ。そりゃあ、私たちも色々調べたわよ。でも図書館に行っても、高校の新聞部の活動が載っている本なんてなかったわ」
「ネットとかで調べたらよかったんじゃないの?」
 ネットワーク社会を逞しく生きる現代の若者なら真っ先に思い浮かべる、ごくごく単純な指摘をすると、しかし清水さん他三名は胸を衝かれたように目を見張った。
「……なるほど。その手があったわね」
「盲点でした」
「そうか……気づかなかったな」
「僕も……その発想は思いつきませんでした」
 俺はまたしても閉口する。
 この人たち、本当に大丈夫なのだろうか。
 三人寄れば文殊のなんとか、とはよく言うが、四人揃ってもこの様子だと反対に清々しいな。
「新谷さんは頭が良いんですね。尊敬します」
 この程度で尊敬なんて言葉を口にされてもな。自分でもびっくりするほど全然嬉しくない。
「今気づいた。この新聞部には新しい風が必要なんだ。いうなれば、転換期だな」
 突然、部長がよく分からないなことを口走り始めた。もしかして、俺がその新しい風なのだろうか。
「あ、あの。どうぞ座ってください。あらかじめ新谷君が来ると聞いていたので、椅子を用意していたんです」
 漆田の言葉に促されるように視線を下げると、今まで気づかなかった椅子が彼の隣に確かに用意されていた。
「座れ。話しはそれからだ」
 部長が威厳にあふれた口調でおっしゃった。なんか無駄にかっこいい言い方だな。
「……失礼します」
 俺はおずおずと近くにあった椅子を引き、腰を下ろした。テーブルの片方には俺と漆田が並び、その向かいには北沢さん、清水さん。そして俺たちを前から偉そうに眺めるようにして部長、という配置になった。
 俺が座ったのを確認してから、部長は厳かに告げた。
「それじゃあ、始めるか」

 ごほん、と咳払いをしたあと、部長様が話を切り出した。
「それじゃあ、まず初めに。今月の新聞の話題はどうする」
 話題か。俺は少し考え、すぐに思い浮かんだことを口にした。
「入学式とかでいいんじゃないですか?」
 そこは無難にいくべきではないだろうか。俺はどんな入学式だったのかは知らないが、四月といったら、やはり入学式、もしくは新入生歓迎会だろう。
 しかし俺の提案は、すぐ泡となって消え去った。
「却下だ。入学式なんてありきたり過ぎる。つまらない」
 俺は怪訝に満ちた表情で部長の整った顔立ちを見つめる。おもしろさを求める気持ちはよく分かるが、どこの新聞もこの季節は入学式を取り上げるはずだ。新聞というのは、そのとき話題になる事を取り上げるのが一般的ではないのか。
「それじゃあ、この部活では毎月どんなことを載せているんですか?」
 俺の至極、当り前の質問に答えたのは北沢さんだった。
「いつも載せているのは……最近だと、学校の屋根の裏側にできた鳥の巣とか、五日市先生の生い立ちとか……ですかね」
 小学生が書く新聞か。俺は図らずも、そう突っ込みを入れてしまいそうになった。思っていたよりもこの新聞部は活動内容の水準が低い。
「でも良かったですね。新谷さんが入部してくれたおかげで、部費も増えます」
 俺は北沢さんの言葉に、胸中でこっそりと溜息を吐いた。ますます仮入部期間です、とは言い出しにくくなってしまった。
「じゃあこんなのはどう? 新聞部に新しい部員が入部! その名も新谷律志。我が部にどんな風を吹かせるのか!」
 本当に止めてください。
 俺は目を生き生きと輝かせ、楽しそうに話す清水さんに無言で訴えかけた。そんな話題を新聞に書いたら、必然的に俺の顔写真が載ってしまうではないか。俺の写真を新聞に載せて一体誰が得をするんだ。俺は絶対、ピースなんかしないぞ。
 早くも話しが詰まってしまった。向かいに座る北沢さんが困ったように唸る。
「何かいい話題はありませんかね……ありきたりではく、それでいて斬新な話題が……」
 だから普通に入学式とかでいいではないか。斬新なものを求めすぎると、ただの痛々しい人になるのと同じだ。例えば、ファッションなんかでもよくあるだろう。人とは違う斬新さを求め過ぎて反対におかしな格好になる人。
 何か違くない? こんな感じだ。
 テレビでそういう人を見る度、俺は胸が痛む。いいじゃないか普通で。普通の何が悪いんだ。物事には限度というものがあるということを、今回を機会に彼らは学ぶべきではないだろうか。
 俺ができるだけ優しく新聞部のみんなを諭そうとしたときだった。
「あ、あの……いいですか?」
 隣に座る漆田が、びくびくしながら手を挙げた。
「珍しいわね。あんたが自分の意見を言うなんて」
 清水さんが驚いたように向かいにいる漆田を見つめる。
 漆田は焦ったように、ぶんぶんと首を横に振った。
「い、いえ。意見と言うわけではなくて……少し、気になっていることがありまして」
「気になること? 何ですか?」
 好奇に色を染められた北沢さんの眼差しが、漆田に注がれる。
「ぼ、僕、図書委員会に所属しているんですけど、最近、図書室で奇妙なことが起きていまして……」
「ほう……奇妙とな」
 部長も興味を引かれたように顔を向ける。それは俺も例外ではなく、漆田の話しを耳を大きくして待つ。
 漆田は周囲に漂う暗い雰囲気をますます黒に染めながら、おずおずと話し始めた。
「これは……ここ最近になってから始まったことなんですけど、図書室の本の配置がほぼ毎日変わっているんです」
 俺は首を傾げる。本の配置が変わるなんて、よくあることだろう。俺も図書館で本を読むとき、元の配置を忘れて適当にだいたいこの辺りだろうな、と思ったところに返すなんてことは日常茶飯事だ。
 他の三人も俺と同じことを考えたのか。それのどこが奇妙な出来事なんだ、という表情を浮かべている。
 漆田は俺たちの疑問を予想していたように「まだ続きがあります」と告げてから、話しを先に進めた。
「問題はここからです。図書館で本の配置が変わるなんて普通です。ですが最近起こっている出来事は少し変わっているんです。ある一定の区間だけ本の配置がごっそりと変わっているんですよ」
「どういう意味だ?」
 漆田は俺を一瞥。そして他の部員の顔も一通り眺めてから、重たそうに口を開いた。
「僕も最初は特に気になりませんでした。ですが、それが何日か続き、一定の区間の本の配置が変わる場所が、日によって全く違うことに気づいてから、何かおかしいと感じ始めたんです」
「日によって変わるんですか?」
 北沢さんが話しの内容を確認するように、漆田に尋ねた。
「はい。僕の当番は火、水、木の週三日なんですが、僕が放課後に当番をして帰り際に本の整備をした日は必ず、翌日に本の配置が一定の区間だけごっそりと変わり、しかもその場所が日によって違うんですよ」
「分かるもんなの? たかが本の配置が変わったことなんて」
 その清水さんの疑問には俺も賛成だ。こいつが百歩譲って真面目で几帳面な性格だとしても、本の配置が変わったことに普通、気づくのだろうか。
 しかし漆田は、その気の弱そうな雰囲気に似合わず、確信に満ちた顔で頷いた。
「分かります。僕は当番の日、必ず本棚の整備をしますから。何度か変わっていればいやでも目につきますし、それに本の背中に貼らさっている番号を見れば移動したのかはすぐに分かります」
 なるほどな。
 こいつ――漆田はきちんと真面目に図書委員会の業務をこなしていた。そんな彼だからこそ、立て続けに起こる奇妙な本の移動も分かったわけだ。
「確かに……それは不思議な出来事だな。ほぼ毎日起こる本の移動、か。それもある一定の区間で……しかも場所もそれぞれ異なる」
 部長が少しばかり声を弾ませながら言う。まさかこれを新聞のネタにするわけではないだろうな。
 俺が部長に懸念を抱いていると、再び漆田が俺の隣で、か細い声を発した。
「あの……この話しにはまだ続きがあるんです」
 まだあるのか。俺を含めた四人は、静かに漆田の言葉を待った。
 漆田は今までの饒舌な調子から一変。何やら深刻な表情で、言いにくそうに口を開いた。
「この噂はこの学校の生徒なら知っているかもしれませんが……この高校には図書室の幽霊がいるんですよ」
 俺はその単語にビクッと肩を上げた。おいおいおい。本当に止めてくれ。俺は表面では平静を保っていたが、胸の奥では嫌な予感をひしひしと感じていた。
「その噂は、俺も姉から聞いたことがある。何でもあまりに多くの生徒が目撃し過ぎて、校長がこっそりと近くの神社に除霊を頼んだとか」
 噂だけどな、と部長は付け足した。
 そんなに深刻な事態にまで発展したのか。軽い感じの幽霊話だと思っていたが、それなりに大事になっていたらしい。
 俺は軽く咳払いをすると、震えを抑えに抑え込んだ声で漆田に質問する。
「ど、どんな幽霊なんだ? 別に怖いとかそういうんじゃないぞ。参考までに聞いておこうと思っただけだ」
 そうだ。本当にそれだけだ。
 漆田は俺の言葉に「はぁ」と間の抜けた声を出すと、おずおずとその幽霊について詳しく話してくれた。
「確か……年は僕たちと同じくらいで、女の子の幽霊だったって聞いたことがあります。何でもこの高校の制服を着ていたとか……」
 うわー……。
 俺は心の中でうんざりしながら、彼の話しに耳を傾けていた。制服を着ていたなんて、あまりにも現実的過ぎやしないか。幽霊を目撃した生徒も、よくもまぁ覚えていたものだな。俺なら速効でその記憶を消去するというのに。
「でも、幽霊と謎の本の移動事件が何の関係があるの?」
 さっそくその事件の名付け親になった清水さんは、大して興味がなそうに頬杖をつきながら尋ねた。
「その幽霊が現れたのが七年前。そしてそのあと、幽霊を目撃したと言う人は現れなくなりました。ですが最近になってまた幽霊がでた、という噂が流れ始めたんです」
 俺は傍らに座る漆田の横顔を渋い顔で見つめた。冗談だよな。冗談だと言ってくれ。幽霊と同じ部屋にいることさえ我慢できない性格なんだ。
 俺にトラウマを植え付けた張本人の北沢さんが、しかし漆田の話しに首を横に振った。
「私はそんな噂は聞いたことがありません」
 北沢さんが疑うような眼差しで漆田を見やる。そしてそれ清水さんも同意する。
「私もよ。初耳だわ」
「俺もだ」
 ついでに部長も。
 俺はほっと胸を撫で下ろす。良かった。この様子だと、本当にただの噂のようだ。
 漆田は俺たちの態度にむきになるわけでもなく、淡々と話しの続きを述べた。
「噂といっても、近所の中学生が高校の敷地にふざけて忍び込んだ際に図書室に誰かがいるのを見かけたらしい、という程度ですからね」
 感情の乏しい北沢さんが、めずらしく難しい顔で言う。
「だとしたら……先生か誰かが夜中に忍び込んで、図書室で何かしているのではないですか? 先生なら図書室の鍵がかかっていても職員室から鍵を簡単に持ち出せますからね」
 話しをまとめると、それが一番の納得できる結論だろう。幽霊なんていないのだ。
「もしそうだとしたら、どうしてわざわざ夜中に図書室に忍び込んで、本の配置を変えるなんてことをしているんでしょうか?」
 漆田の指摘に俺は唸る。本の配置をこいつがわざわざ整備しているのに、それを移動させるなんて、いじわるが過ぎる。いい大人がそんなことするのだろうか。
「夜中にこそこそするなんて、何かやましいことでもしているみたいね」
 清水さんに、四人の視線が集中する。もちろん、俺も含めて。
 北沢さんは清水さんから視線を外すと、小さな声で独りごちるようにしてつぶやく。
「その推理は当たっているかもしれませんね……その人は、本の配置を変えるなんていう人前ではなかなかできない、いたずらをしているから、夜中にこっそり図書館に忍び込んでいると」
 まぁ、本の配置をわざわざ変えるなんてことは人前ではできないな。どう見ても、ただのいたずらだ。だがそうなると、この学校の教師だという線は薄くなってくる。
「しかし、何で教師が小学生みたいな真似をするんだ? そのいたずらは、もしかしたら教師ではないんじゃないか?」
 俺の考えを、部長が代弁してくれた。
「でも……夜中に鍵を持ち出せるのは教師だけです。生徒にはできません……」
 漆田のもっともな指摘で、話しが振り出しに戻る。これでは同じ場所をぐるぐると回るだけだ。
 俺の頭が痒くなりそうになったとき、部長が驚くべき事実を一同に告げた。
「生徒でも、夜中に図書館に忍び込むことはできるぞ」
 マジで。
 俺は少し訝しんだ眼差しで部長の顔を見た。
「ほ、本当ですか? どどどどうやって?」
 図書委員の漆田が、一段と声を大きく張り上げて尋ねた。
 部長は無愛想な顔のまま椅子から立ち上がると、腕を組み、堂々たる立ち振る舞いで毅然と言い放った。
「俺に着いてこい。話はそれからだ」
 部長の言い方は、やはり無駄にかっこよかった。


この小説について

タイトル 不器用な団欒者たち
初版 2014年12月30日
改訂 2014年12月30日
小説ID 4619
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駆け出し
作家名 ★雪奈
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