不器用な団欒者たち

 

 疲れた。


 部室の鍵をかけながら、俺は遠目からでも分かるほど、肩を大きく上げて息を吸い、そして吐きだした。何で転校初日に心身共にこんなにも疲れなくてはいけないのか。
 俺の人生――満十六年だが――を思い返しても、それほど悪いことをした記憶はない。どうしてこうなってしまったのだろうか。俺はただ、新聞のネタを探していただけだったのだが。
「僕はこれから図書委員会の仕事があるので……」
 俺は背後から聞こえた漆田の蚊のような細い声に、後ろを振り向いて「そうか」と返事を返す。次いで彼の後ろに立っている部長に何気なしに尋ねた。
「部長はどうするんですか?」
 俺の質問に、部長はなぜかギロリと鋭い眼差しを向けてきた。
「貴様らとは慣れ合わん。俺は一人で帰る」
 俺の言葉を勝手に自己解釈した部長は、くるりと踵を返すと、言うだけ言って本当にさっさと帰ってしまった。
 俺は呆気にとられた表情で、部長の後ろ姿を見送る。俺はただ単に、部長はこれから何か用事でもあるのか、と聞いただけだ。特に一緒に帰ろうと言ったつもりは全くない。それなのに、こっちが振られたようではないか。
 何だか釈然としない気持ちを抱いていた俺の横で、北沢さんが意外な行動を起こした。
「漆田君。私も図書館に着いて行ってもいいですか?」
 突然の申し出に驚いたように、漆田は目をしばたかせる。
「どうしたの優貴。いつもならすぐに帰るのに」
 北沢さんは清水さんの方を向くと、よどみのない口調で答える。
「図書館の本の配置がどんな風に変わっているのか見たいと思ったの」
 清水さんに対してはくだけた口調で話す彼女の姿に、俺はわずかに面を食らう。
「だったら構いません。むしろ北沢さんに興味を持ってもらえて嬉しいです」
 漆田は本当に嬉しいのだろう。彼が目を輝かせている姿を見ているだけで、俺にまでその嬉しさが伝わってきた。
「だったら私も行くわ。私も少し気になるし。それに優貴を待っているのに玄関に突っ立っているのも何か嫌だしね」
 清水さんはそう言うと、俺に視線を向けた。
「あんたはどうすんの?」
 いきなり矛先を向けられ、俺は瞬く。全く考えていなかった。俺は何となく――本当に無意識のうちに、北沢さんに目をやった。彼女は俺の視線を受け止めると、微かに首を横に傾けた……ように見えた。
 しばらく見つめ合っていた俺と北沢さんだが、そんな俺たちの様子から清水さんは勝手に何かを感じ取ったらしい。彼女は怪訝な表情を浮かべた。
「ちょっと……あんた……優貴のことを待っているつもり?」
 もしかして気でもあるの? 清水さんの眼差しは、そう言っているかのように俺の目には映った。
 俺は慌ててかぶりを振って否定する。
「い、いや! そんなことない――」
「そういえば、部活が始まる前に北沢さんに聞きましたが、お二人、家が近所なんでしたよね? だから引っ越しの挨拶に来たとき、新聞部に誘ったとか」
 俺の言葉にかぶさるように、漆田が余計な事実を口にする。
「い、いい加減にしろ! お、俺は一人で帰る! 鍵だって返さないといけないしな!」
 逆上した小学生のような怒り方をした俺は、先ほどの部長のように踵を返すと、それ以上は何も言わず、さっさとその場をあとにした。
 少しなじられたくらいでこんなに感情的になるとは。俺は歩きながら自分に対して落胆する。
 たった今分かったが、俺の恋愛偏差値はかなり低い。



 階段を下り、職員室へ向かう途中の廊下で、俺はピタリと足を止めた。
「これか……」
 目線の先にあったのは、新聞部が毎月作成している校内新聞だった。日付から三月に発行されたものと分かった。
 しかしその新聞の見出しを見た俺の口から、思わずため息がこぼれた。三月といえば卒業シーズン真っ盛り。そして高校の合格発表という他の月では比べ物にならないくらい行事が目白押しの豪華な月だ。
 それなのに。
 こんなに豪華な月なのに。
 我が校の新聞部様は、なぜかその卒業式ひいては合格発表に関して全く触れていなかった。代わりに話題にしていたものといえば、三月には全く――これっぽっちも関係のないものだった。
「……謎の多き女性。新聞部顧問兼数学教師、五日市先生の素顔に迫る……」
 俺は真顔で無言。
 何で三月にこれなのだ。
 卒業式、合格発表はどこへ行った。こんなに華やかな行事は、人生のなかでも中々ないだろうに。
 それに……俺は新聞の端にある五日市先生の写真に目をやる。やる気のない彼女らしい表情に、無理やりとってつけた感じのピースのポーズ。
 明らかに合成写真であった。顔とピースのポーズに温度の差があり過ぎた。
 きっと五日市先生は物凄く拒絶したのだろう。その光景が容易に想像できた。面倒臭いから嫌だ。どうして私がそんなくだらないことをしなければいけないんだ。彼女はこんな感じに拒否したはずだ。
 だが彼らは諦めなかった。
 どうしてそこまでピースにこだわったのかは皆目見当がつかないが、とにかく彼らは先生がピースしている写真がほしかったのだろう。きっと大いに悩んだに違いない。そして導きだした結論が、どこからか引っ張ってきたピースの写真に、先生の顔写真を合成させるという苦肉の策だった。
 俺は思う。なぜその熱意と根性を、新聞部の本来の活動を探すことに使わないのだ、と。それが不思議で仕方がなかった。
 出口の見えないトンネルに迷いこんだ気分だった俺の隣に、突如人影が現れた。
「ここで何してる?」
 俺は驚きに微かに肩を上げ、首を横に回す。すると、すぐ横には最近見知った人物が立っていた。
「五日市先生……」
 噂をすれば本人である。無造作に一つにまとめた髪の毛。そして上はワイシャツ、下は黒のパンツスーツで身を固めた五日市先生は、恐ろしいほど凛々しかった。
彼女は新聞から目を離し、外見とは正反対の気だるそうな表情を俺に向けた。
「どうだった? 新聞部の活動は。なかなかおもしろかっただろう」
 その問いには答えなかった。俺はとりあえず手に持っていた鍵を、視線を前に据えながら先生に手渡した。
「……何だこれは? もしかして、つまらなかったという私に対する皮肉か?」
 先生は言葉とは裏腹に、愉快そうな声色でそう言うと、俺からその鍵を受け取った。
「先生は……どうして新聞部の顧問になろうと思ったんですか?」
 こんな合成写真まで作られて。
 先生は目の前に貼られている新聞をどこか懐かしそうに見つめながら、ふっと微笑を吐いた。
「二年前、初めてこの高校に赴任したときだ。部長――木崎に頼まれたんだよ。新聞部の顧問になってくれないかって。特に担当したい部活もなかったし、それに楽そうだったから。面倒な部活動を押しつけられる前に顧問になった」
 部長の名字はどうやら木崎と言うらしい。初めて耳にした気がする。
「大変ですね。彼らをまとめるのは一苦労でしょう?」
 棘を含んだ俺の言葉に、先生は苦笑する。
「さっそくあいつらに手を焼いたらしいな。私もあいつら……特に木崎にだが、何度も驚かされた。でももう慣れたよ。それがあいつらなんだって」
 それは慣れたというより、諦めたという表現の方が合っているだろう。
 俺の呆れ顔に気づかない先生は、哀愁に満ちた顔で独り言のように話しを始めた。
「ここだけの話。私は教師なんていう職業に興味なかったし、教師に対する熱意なんてこれっぽっちもないまま就職したんだ。それだから、最初は本当に面倒だったよ。生徒と関わるのも、頭の固い年上の教師と話すのも……」
 だけどな、と先生の声が少しだけ弾んだ。
「あいつらのおかげで、少しだけ教師になってよかったと……そう思えるようになったんだ。そこだけは――本当にそこだけだが、あいつらに感謝している」
「……じゃあ、何で教師になったんですか?」
 矛盾している先生の発言に、俺は眉をひそめた。普通、興味のない職業に就職したりするだろうか。
 俺の隣で先生が言葉に迷っているのを感じた。そしてややあってから、彼女は静かに切り出した。
「私がなりたかったんじゃない。私の妹がなりたかった職業だったんだ」
「妹さんが?」
 それは一体どういう意味なのだろう。
 妹さんがなりたかった? 
 俺は少しの間熟考し、そして一つのある考えが頭の隅を過った。まさか、と口にする前に、先生は俺の言葉を制するようにして言った。
「そうだ。私の妹は、もう亡くなっているんだ――七年前に。私が高校三年生のときだった。元々病気持ちで、ほとんど家から出られないほど身体が弱かったんだ。そして彼女の死が、私の進路に影響を与えた。でも教師になりたての頃は、本当にこれで良かったのかと毎日悩んでいた。安易に選択し過ぎたのではないか、ってな」
 先生は一通り話し終えると、俺に視線を据えた。
「だから、私にとってあいつらは心の恩人と言えなくはない。もちろん、こんなことは決して本人たちの前では口が裂けても言わないがな」
 そう言って、彼女は目じりを緩め優しく微笑んだ。
 先生の穏やかな眼差しに俺はぎこちない笑みで応え、次いで目の前に貼られている新聞を見た。
 俺は思う。
 彼女がこんな身の上話しを俺にしてくれたのは、彼ら――新聞部のためなのだろう、と。彼女はきっと、彼らのことを俺に誤解してほしくなかったのだ。だったら素直にそう言えばいいものを。どうしてこんなにも遠まわしに言うのか。こういうの、何ていうんだっけ。
 俺はその行動にしっくりくる言葉を探しながら、新聞の内容を目で追った。途中で意外な事実を見つけ、目を見開く。
「先生って……この学校の卒業生だったんですね」
「え? あぁ……まぁな」
 ずいぶん歯切れが悪いな。俺は怪訝そうに彼女の横顔を見つめていたが、ふとあることを思い出し、とっさに口にした。
「だったら……先生もこの学校にいた図書室の幽霊のこと知っているんじゃありませんか?」
 俺が脈絡も無しにそう質問すると、先生は見るからに不審そうに俺の顔を見つめた。
「何の話だ?」
 知らないのか。てっきり卒業生だから知っているのかと思っていた。
「先生は知りませんか? 何年か前に、この学校の図書室に現れた女の子の幽霊の噂」
「……知らんな。そんな話しは聞いたこともない……だいたい七年前のことなんて覚えていないよ」
 その言い分には俺も同意できる。俺だって小学生の頃の噂話など、ほとんど覚えていない。
「まぁ、そうですよね……」
 俺は特にがっかりするわけでもなく、あっさりと引き下がった。
「何でいきなりそんなことを聞いてくるんだ? 昔の、それも信憑性の薄いただの噂だろ」
「いえいえいえ! ただ聞いてみただけですよ」
 俺は精一杯の作り笑いを浮かべる。もしかしたら、額に滲んだ脂汗のせいで一滴くらい汗が垂れているかもしれないが。
 先生は懐疑に満ちた視線でこちらを見つめていたが、しばらくして肩をすくめた。
「まぁいい。あまり変なことは言い触らすなよ」
 すんなり納得してくれた彼女に、俺はとりあえず一安心する。
 ほっとするのもつかの間。俺の隣で、小さなつぶやきが聞こえてきた。
「口うるさいし、ものすごく面倒な連中だが……悔しいことに、悪い奴らではないんだよな……」
 新聞を見つめながら、先生がぽつりと漏らす。
 困ったような微笑を浮かべる先生の横顔を一瞥してから、俺は新聞の内容を再び目で追った。
 新聞にはどういう訳か。彼女が先生になった理由は一切書かれていなかった。

 学校をあとにし家に着いた俺は、自分の部屋には戻らず、真っ先に台所へと向かった。冷蔵庫を開け中身を確認し、思わず苦い物を含んだ顔になる。
「何にもないな……」
 冷蔵庫にある物といえば、最低限の調味料に大根の漬物しかなかった。冷蔵庫のドアを掴みながら俺は小さく嘆息する。
「何か買ってくればよかったな」
 これでは大した料理は作れない。昨夜の夕食と今朝の朝食は母親に全てを任せてしまったため、冷蔵庫に何があるのか詳しく確認する機会がなかった――が、そこまで考えて俺はかぶりを振った。
「いや……これはただの言い訳だな」
 自らの行いを反省し、冷蔵庫のドアを閉めた。そこでふと人の気配を感じた俺は、恐る恐る横を向ける。
「何が言い訳なんですか?」
 言わずもがな。北沢さんであった。
 俺は彼女の姿を目に入れるや、「うわぁっっ!」と驚きの声を張り上げ、その拍子に思わず咳き込んでしまった。
「大丈夫ですか?」
 北沢さんが、乏しい表情で俺の顔を覗き込む。
「だ、大丈夫……ってか早かったね」
 ついさっき帰って来たばかりの俺と、ほとんど時間を開けずに彼女は帰ってきたようだ。
「ええ。そんなに時間のかかる用事ではなかったので」
「……そうなんだ」俺は彼女から視線を外す。
 つかの間の沈黙があってから、俺は口を開いた。
「訊いていい?」
「何をですか?」
 彼女、北沢さんは真っすぐに俺を見つめて聞き返す。
「……図書室に何の用があったの?」
 ためらいがちに尋ねると、しかし彼女はあっさりとその理由を話してくれた。
「そのことですか。別に特別なことではありません。ただ単に、図書館の本の配置がどのように移動しているのか正確に把握するため、あらかじめ本棚に並べられている本の配置を写真に収めてきただけです」
 あぁ、なるほどね。
 目で見て覚えておくよりも、写真に残しておく方が確実に調べることができるわけか。何事にも無頓着な女の子だと思っていたが、意外ときちんと考えているようだ。
 俺は何か飲み物でも口に入れようと、再び冷蔵庫を開けてなかを覗き込んだ。
「でも、よくよく考えてみると変な事件だよな。五日市先生は幽霊の話とか知らないとか言っていたし。そうかと思えば漆田は昔の話なのに詳しく知ってたり……それに図書室の配置が一定の区間だけ変わるのもおかしいよな。もしかすると、本当に図書室の幽霊がやっているんじゃないかって思っちゃうよ」
 北沢さんが視線をこちらに向ける。その無機質な瞳の奥底で何かが微かに揺れ動いたような気がした。
「……ところで話は少し戻りますが、新谷さんは冷蔵庫の前で何をしているんですか?」
 彼女の言葉で、俺は自分が冷蔵庫の前に来た理由を思い出す。
「あぁー、夕食を作ろうと思ったんだけど、食材がなくてね。買い物でも行こうと思っていたんだけど……」
 俺はそこまで言って話を切り、冷蔵庫の扉に目を戻す。
「……まぁ朝は母親が何か買ってきてくれるだろうし、夕食も何とかなるだろう」
 我ながら楽観的だなと思いつつも、俺は彼女を心配させないようにそう言った。
 すると北沢さんは、何やらじっと考え込む仕草を見せたかと思いきや、突然ある提案を切り出した。
「……それなら、今から食材を調達しに行きましょう」
 俺は目をぱちくりさせる。
「スーパーにでも行くの?」
 この家から比較的大きなスーパーまで行くとなると、往復一時間はかかる。それもそれで億劫である。
 だが彼女は次の瞬間、驚くべき言葉を発した。
「いいえ。すぐそこ――裏山です」

 足元に広がる枯葉と枝を踏みつけながら、俺は目の前にいる北沢さんに聞こえるように声を張り上げる。
「ねぇ、どこまで行くの?」
「もう少しです」
 前方から返ってきた言葉に、俺は小さく息を吐く。
 北沢さんに連れられたところは、家のすぐ裏にある山だった。薄暗い周囲にはたくさんの木々が生い茂り、全体的に何だか湿っぽい感じがした。
 彼女の話によると、何でもこの裏山はトヨさんの所有している山らしい。さすが小金持ちといったところだろうか。
「何か……変な虫とかがいそうで気持ち悪いんだけど……」
 辺りをきょろきょろと見渡しながら、俺が不満気につぶやいていると、いつの間にか木々が溢れていた山を抜け、日が当たる場所へと辿りついた。
 前を歩いていた北沢さんが急に立ち止った。大きな背負いかごをしょい込んだ彼女はこちらを振り向き、心なしか声を弾ませながら高々に告げる。
「この辺りは山菜が結構採れるんです。トヨさんもよくここで山菜を採っては色々私に食べさせてくれました。彼女の意思を継ぐためにも、今日は山菜を採り、三人で食べましょう」
 意思って……。
 俺は背負いかごをしょい込み、赤いバンダナを頬かぶりしている彼女の姿を眺めた。かっこいい言葉を放ったはいいが、その格好のせいで何だか間の抜けたように聞こえてしまう。もしかしてその格好もトヨさんの意思を引き継ぐことに含まれているのだろうか。ただはっきりと言えることは、トヨさんはそんな大層な意思を持って山菜を採っていなかったことは確かなはずだ。きっと彼女は、もっと軽い気持ちで山菜を採っていただろう。
「で? 一体何を採るんだ?」
 俺は山菜に関する知識など持ち合わせてはいないし、ましてや食べたこともない。
 北沢さんは自分の足元を指差す。
「ワラビです。今の時期はこれがおいしいんですよ」
 俺は彼女の指先に視線を転じる。彼女の足元には、茎の先に変な丸っこいものがついている植物が生えていた。
「これ? これを採るの? 他には?」
 俺が驚きの声を上げると、今度は彼女がきょとんとした表情になる。
「ワラビだけですよ? 他の山菜のことは、私はよく知りません」
 あっけらかんと言い放った北沢さんを、俺は生温かい眼差しで見つめた。ワラビだけの知識で、よくもまぁトヨさんの意思を引き継ぐなど大層なことを言えたものである。
 彼女は中腰になり視線を落とすと、さっそくワラビを探し始めた。俺も彼女に倣い、しぶしぶワラビとやらを探し始める。
 しばらくして。ワラビを探すのが徐々に面倒臭くなっていた俺の耳に、衝撃の事実が突き刺さった。
「もうすぐ日が暮れますから早く採りましょう。私も久しぶりに来たので、帰りの道が曖昧なんです。下手したら遭難するかもしれません」
 それを早く言ってほしかった。
 俺はさきほどまでのやる気のない態度から豹変。血眼になって必死にワラビを探した。遭難など冗談ではない。
 ワラビを採りながら、俺はテレビで俺と彼女の名前のテロップが流れないよう、何度も神様に祈った


「何これ?」
「ワラビだ」
 お皿にてんこ盛りになっているワラビの天ぷらを見るや、そうつぶやいた母親に俺は間髪いれずに言い返した。
 母親は目をしばたかせながらテーブルに座る。
「でもこれ……作り過ぎじゃない?」
 それは採りすぎじゃない、の間違いだろう。
「だ、大丈夫だ。全部食べるから」
 強がった言葉を口にしながらも彼女に死刑宣告を受け、何も考えずにひたすらにワラビを採りまくったことに後悔の念を抱いていた。何でこんなに採ってしまったのだろうか。
「里美さん、心配しないでください。きっと新谷さんは私がたくさん食べると思って、こんなにワラビを採ってくれたんだと思います」
 隣に座る北沢さんが、箸を手に持ちながら言う。
 俺はその言葉に小さく目を伏せた。
 ごめんなさい、違うんです。
 あなたがあんな風な言い方をしたから、何にも考えず、ただがむしゃらに採っただけなんです。そう言われると、反対に罪悪感が沸いてきてしまう。
「まぁいいんじゃない。私も好きだし。ないよりもある方が得よね。冷めない内に食べましょう」
 母親の持ち前のポジティブさに、今回ばかりは救われた。俺は母親が嬉しそうにワラビを食べる姿を見ながら、心底そう思った。




「何これ?」
「ワラビだ」
 この会話は何度目だろうか。
 しげしげとワラビ弁当を見つめる金田一を目に入れ溜息を吐く。昨夜のワラビの天ぷらは、何と驚くことにあの北沢さんでさえ食べきれなかった。そのためワラビの天ぷらは朝食を越え、昼食にまで持ち越される羽目になってしまったのだ。
「お前、都会育ちなのにこんなの食べるんだな」
 金田一が自分の弁当を箸でつつきながら、物珍しそうに言う。
 それ以上、ワラビについては触れてほしくなかったため、俺は話の話題を変えた。
「というか……何でお前、俺が新聞部に入部するって言ったとき、新聞部の噂をちゃんと教えてくれなかったんだ」
 別に新聞部が嫌だと言っている訳ではない。ただ、もし金田一が話してくれていたら、もう少し心の準備ができたはずだった。いきなりあんな修羅場を目のあたりにしたこっちの身にもなってほしい。
 金田一は口元をにやりと上げると、愉快そうに鼻を鳴らした。
「だってもし俺が本当のことを話したら、お前、入部するのを躊躇っただろ? だからだよ」
「答えになっていないぞ」
 俺は憮然とした口調で言い返す。いまの説明では肝心な部分が抜けている。
 金田一は俺の不満に満ちた表情を確認すると、苦笑しながら箸を置き、おもむろに話を始めた。
「俺はさ、お前が新聞部に入りたいと思ったんなら、何も気にせずに入ってほしかっただけ。噂とかそんなのものを気にせずにね」
 それは一体どういう意味なのだろう。俺がさらに問いただそうとしたときだった。
「新谷。今すぐ箸を置いて図書室に行くわよ」
 頭上から届いた聞き覚えのある声に、俺は半信半疑のまま視線を上げた。そこに立っていたのは、すらりとした長い手足に、つり上がった大きな目。そして雀色の瞳が印象的な――清水さんであった。
「えっ……ちょっと何でここにいるの?」
 俺はできるだけ声を落として清水さんに尋ねる。教室中から集まる好奇心に溢れた視線が痛かった。
 清水さんは俺の疑問には答えず、端的に用件だけ告げた。
「部長から緊急招集がかかったわよ。新聞部全員、図書室に来いってね」
「い、今?」
「今」
「でも……今は弁当を食べてるし……放課後じゃだめなの?」
「今ったら今よ」
「じゃあせめて、ご飯を食べ終わってからとか……」
「だから今だって言ってるでしょうが」
 彼女は相手の言葉に耳を傾けるということを知らないようだ。
 俺は助けを求めるように、隣の席に座る金田一に目をやった。だが彼は、俺を擁護するどころか清水さんに親しげに話かける。
「やぁ清水。最近話してなかったけど、元気にしてた?」
 その言葉に俺は驚いて金田一を見つめた。この二人は友達なのか。
 清水さんは視線を動かし、そこでやっと金田一の存在に気づいたらしい。彼女は金田一の姿をみとめると、露骨に顔をしかめた。
「何であなたがここに座ってるの?」
「何でって、ここは俺のクラスだからだよ。知らなかったか?」
 清水さんが形のいい眉を微かにひそめる。
「……あなたのことなんて名前以外知らないし、第一、興味もないわ」
「あっ、でも俺の名前は知ってくれていんだ?」
 俺は二人のやりとりを、息を潜めて眺める。友達というには何だか剣の含んだように映るのは、きっと俺の気のせいではないはずだ。
 清水さんはお得意の鋭い眼差しを金田一に送りつけていたが、彼女はぷいと顔を背けると、俺の弁当箱に目を止めた。
「……あれ? この弁当の中身、咲の弁当と全く同じ気がする……」
 その指摘に肩をギクリとこわばらせる。それは気のせいではなく、まごうことなき正真正銘の事実である。なにしろ彼女の弁当は俺が作ったのだ。
 俺は額に汗を滲ませながら、わざとらしい咳払いをする。
「あーあー。やっぱり俺、図書室に行こうかな。ほら清水さんも早く行こう」
 椅子から立ち上がった俺は、まじまじと弁当を見つめていた清水さんの背を無理やり押しながら、教室をあとにした。
 教師から出る際、金田一が爽やかな笑顔で手を振っている姿を見た俺は、何だか妙な気分になったのだった。

 図書室に到着すると、先に集まっていた三人が俺たちを出迎えた。五人揃ったのを確認した部長は、さっそく口火を切った。
「これから行うのは間違い探しだ。昨日、北沢が撮った写真と比べながらどこの本の配置が移動しているのか探してもらう」
 部長は手に持っていた写真をおのおのに配分しながら手渡す。
「あの……もしかしてこのために俺たちを呼び出したんですか?」
 俺は渡された写真を受け取りながら、低い声で尋ねた。
「そうだ。当り前だろう」
 なんて自分勝手な人だろう。
 ひとまず怒りを鎮め冷静に指摘する。
「放課後とかでも良かったんじゃありません? わざわざお昼じゃなくても……その方がもっとゆっくり調べることもできたと思いますよ」
 すると部長は驚いたように、目を丸くした。
「確かに……それもそうだな……」
 ただのバ……間の抜けた人か。怒る気も失せてしまった。
「いいじゃないですか! せっかくですから、もう調べてしまいましょう!」
 意気揚々と声を上げた漆田が、一番手に図書室の書架へと向かう。
「そうですね。せっかくですから調べてしまいましょう。早くしないと時間も無くなりますし」
 そしてそのあとを北沢さんが続く。他の二人も先に行った二人を追いかけるように奥へと進んだ。
 俺は写真に目を落とす。実を言うと少し気になっていたことだ。文句は言わずに、さっさと終わらせてしまおう。
 ワラビ弁当が待っている。

 俺は写真と書架に並べられている本を交互に見比べながら、どこかおかしなところはないか丁寧に確認していく。これが思っていたよりずっと面倒くさい作業であった。首は痛くなるし、なにしろ目が疲れる。
 写真に気を取られていた俺は人が近づいていることに気づかなかった。身体が何かに衝突してやっと我に返る。
「わ、悪い。大丈夫か」
 慌てて視線を下げる。ぶつかった相手は北沢さんであった。
「はい。大丈夫です」
 彼女は俺を見上げ、小さく首を縦に振る。
「……それで、何か見つかった?」
 俺が尋ねると、北沢さんは写真の絵に目を戻し、ゆっくり本棚と交互に見比べていった。
「ここで最後です…………あっ――もしかしたら、これかもしれません」
 俺はすぐさま腰をかがめ、彼女が指で指し示す場所へと視線をやった。そして写真に映っている絵と交互に見比べる。
「……確かに、本の並びがここだけ全部変わっているな……」
 漆田が話していた通り、書架のある一定の区間だけ本の並びが全て変わっていた。冊数で言うとちょうど十冊。他の本は並びが変わっていないのに、ここの十冊だけ見事に本の並びが変わっている。耳で聞くよりも、実際に目で見てみる方が違和感がある。
「それだけではありませんよ。本の配置をよく見てください。この十冊、写真に映る並びと綺麗に反転しています」
 その指摘を受けて、写真の絵と本棚を改めて交互に見比べる。一見してみると彼女が何を言っているのか分からなかったが、意識して注視するとよく分かった。
 写真に映る本の配置と現在の本の配置は、例えるなら一番後ろの本を前にどんどん入れ直していったように変わっていた。これはわざとそうしないと決してならない本の移動である。
「偶然ではない、ということだな……」
 本を二、三冊手に取り、間違って戻したくらいではありえない。
 北沢さんはどうのように考えているだろう。そう思った俺は北沢さんに目をやる。彼女はしゃがみこみ、難しい顔をしながら目と鼻の先で本棚に並べられている本をじっと見つめていた。
 声をかけづらい雰囲気を漂わせている彼女に何と話しかけるべきか迷っていると、遠くで漆田の興奮した声が響いた。
「――あ、ありました! ここです!」
 身を上げた北沢さんと顔を見合わせ、漆田の声が聞こえた方へと歩を進める。漆田が立っていたのは図書室の一番奥にある書架で、俺たちより先に来ていた部長と清水さんが漆田の写真を覗きこみ、書架に並べられている本と交互に見比べていた。
「本当だ……本の並びがここだけ全て変わってる……」
 清水さんが驚いたような、それでいて感心したようにつぶやいた。俺も二人に加わり漆田が手にしている写真を後ろから覗きこむ。次いで書架に並べられている本に視線を移す。そこで俺は奇妙な事実を発見した。
「ここも写真の並びと綺麗に逆になっているな」
 さきほど北沢さんが指摘したのと同じように、ここでも本の配置が写真に映る並びと反転していた。
 俺の言葉に同調するように、部長が言う。
「確かに……これはわざとやらないとならないな」
 はてさて。これは一体どういうことだろうか。四人全員が頭を捻っていると、あとからやって来た北沢さんが俺の横で静かに問いかける。
「漆田君。並びが変わっている本は全部で何冊でしたか?」
 その場にいる誰もが彼女の質問を不審に思っただろう。言葉にするときっとこうだ。並びが変わった本の冊数など確認して何が分かるのか――。
「は、はい。ちょっと待ってください」
 漆田は戸惑いながらも、さっそく本の冊数を数え始めた。彼は目で数え終わると、北沢さんに向き直り恐る恐る告げた。
「……全部で九冊です」
「九冊、ですか……」
 復唱した彼女は眉を寄せ、目を細めた。さっきは十冊だったはずだが、一冊減ったのには何か理由があるのか。
「他にはなかったんですよね?」
 北沢さんは俺を除いた三人の顔を一人ずつ眺めていく。
「探したけどなかったわ。ちゃんと一番上の本棚も確認したけど見つからなかった」
 清水さんが肩をすくめる。そして北沢さんの視線が来る前に、漆田が先にかぶりを振った。
 最後に視線を送られた部長は、端正な顔を曇らせた。
「――残念ながら、俺の目には怪しいものなど映らなかった」
 怪しい物ではなく、本の並びを確認してほしいのだが。というか、この人はちゃんと確認したのだろうか。ちょっと怪しいな。
 北沢さんの眉間にさらにしわが作られる。
「……そうですか」
 彼女は顔を上げると、はっきりと告げた。
「今の段階では何とも言えません。もっと情報が必要です」
「情報ですか……」
 漆田の顔に困惑の色が浮かぶ。現時点では打つ手なしといったところか。
 八方ふさがりになってしまったところで、ちょうどお昼休憩の終了を知らせる鐘が図書室に鳴り響いた。
「今日のところはここまでですね。また明日の部活で話し合いましょう」
 北沢さんがそのように提案すると、部長が腕を組みながらうんうんと頷いた。
「そうだな」
 ここはあなたが仕切らなくてどうするんですか。完全に彼女中心に回っているような気がする。俺としてはそっち方がありがたいが。
「今日のところはこれで終わりです――」
 彼女の一言で、急きょ行うことになった本日の新聞部の活動は幕を閉じた。


 その日の授業が終わり、教室では箒や黒板消しを持ったクラスメイトたちがさっそく掃除を始めていた。
 掃除当番ではない俺は、彼らの横を通り過ぎ教室を出る。今日は部活の活動日ではない。さっさと家に帰ろうと下駄箱に向かっていた俺の腕を、後ろから誰かが引っ張った。俺は訝しげな眼差しとともに後ろを振り返る。ぱちりと目が合った相手は漆田であった。
「間に合って良かったです。もう帰ったかと思いました」
 漆田は俺の腕から手を離し、ほっとしたようにつぶやいた。
「何だ? 今日は……部活ないよな?」
 念のために俺が尋ねると、漆田は否定するように慌てて首を振った。
「ち、違いますよ! そういうのではなくですね……その……」
 バツの悪そうな顔で口をもごもご動かす彼を、俺は不審そうに眺める。何か嫌な予感がした。
 俺の一抹の不安など露ほども知らない漆田は、しばらくして躊躇いがちに切り出した。
「あの……今日の夜、僕と一緒に図書室の侵入者が誰なのかを調べてほしいんですよ」
「……俺と?」
「はい。北沢さんや清水さんは女の子ですし、こういうのを頼むのはちょっとどうかと思いまして」
「……ぶ、部長は――」
「部長に頼んだら、その時間帯はもう寝ているそうです」
 それで残ったのが俺というわけか。
「ちなみに……何時くらいなんだ?」
「学校が閉まるのが七時半くらいですから……そうですね、八時過ぎくらいがいいでしょうね」
 漆田の頼みに俺は大いに頭を悩ます。
 ここで断ったら夜の学校が怖いのかと勘違いされかねないのではないだろうか。だからといって夜の八時に学校の敷地内を歩きたくもない。怖がりでビビり性の自分である。ことさら暗い所では、己の意に反して少しの物音でも身体は竦み大声を上げてしまう。そんな失態を他の人間には見られたくない。
 どうしたらいいものか……。
 ごくりと唾を呑みこむ。まだどうするべきか決めかねているなか、知らず知らずのうちに口が勝手に動いてしまっていた。
「い、いいぞ……」
 そしてこの憎き口は、俺をさらに窮地に追い込む。
「俺に任せろ……その侵入者をつ、捕まえてやるから」
 本当に俺は何を言っているのだろう。言い直せるなら言い直したい。しかし放ってしまった言葉は口の中に引き戻すことはもう不可能だ。
 声が裏返ってしまったことに漆田は気にも止めず、彼は嬉しそうに目じりを緩めた。「よかったぁ。一人じゃ不安だったんですよ。もし幽霊が出たら僕、失神するかもしれませんし」
 ハハハ、と漆田は白い歯を見せ笑う。
 全く笑えない。俺にとっては、あまりにも現実味があり過ぎる。
「じゃ、じゃあ夜の八時に学校で」
 すぐさま踵を返した俺は、激しい後悔に見舞われながら、学校をあとにした。


「やぁ、お帰り」
 学校から家に戻った俺は早々と着替えを済ませると、帰宅した北沢さんを玄関で出迎えた。
 玄関のドアを開け、俺の姿を見つけた北沢さんは微かに驚いた顔になる。
「ただいま帰りました……そこで何を?」
 彼女は俺を怪訝そうに見つめながら、玄関のドアを後ろ手に閉めた。
「一つ聞きたいことがあるんだ。この辺りコンビニとかあるか?」
 漆田の頼みごとを引き受けたのは良いものの、やはり手ぶらで行くのは心もとない。さすがに懐中電灯くらいは持っていかなければ。そう思い至った俺は、街中に行くのも面倒だったため、コンビニで懐中電灯を調達しようと考えた次第だった。
「ありますよ。坂道を下って大きな道路に出てから真っすぐ右に歩いたところに」
「そうか! ありがとう。ちょっと行って来る」
 俺は生き生きとした表情で北沢さんにお礼を述べ、彼女の横を通り過ぎた。玄関のドアを開け外に出てようとしたとき、北沢さんが不思議そうな声音で俺に尋ねた。
「歩いて行くんですか?」
 俺はピタリと足を止め、ゆっくりと振り返る。
「うん……そうだけど」
 歩いて行く以外にどうやって行くというのだ。
 彼女は何度か目を瞬いたあと、しぶしぶ納得したように言った。
「そうですか……分かりました。お気をつけて」
 俺は小さく首を傾げ、彼女の質問の意図が分からぬままコンビニへと向かった。

 しばらくして当然のごとく家に帰って来た俺は、玄関を上がると無言で廊下を歩き居間の引き戸を両手で盛大に開け放った。視線を下げると、北沢さんがテーブルに座りながら、のんびりとお茶をすすっているところだった。
 俺は家を出てから帰宅するまでの出来事を静かに告げる。
「……コンビニに行って帰ってくるのに、二時間近くかかったんだけど……」
 げんなりした表情でそう言うと、北沢さんはお茶が入った湯のみをことん、と音を立てながらテーブルに置き、顔を上げた。
「知っています。私もたまに行きますから」
 そうじゃなくて、そうではなくてだな……。
「……一時間もかかるなら、何で言ってくれなかったの……」
 まさかコンビニに行って帰って来るまで二時間もかかるとは思っていなかった。歩いても歩いても一向に辿り着く気配がないコンビニに何度心が折れかけたことか。そして着いたときには一時間近く経過しており、俺は自分の目を疑った。帰りはバスで帰ろうと近くにあった時刻表を見たが、なんと次のバスが来るまで一時間もの間があり、だったら歩いて帰った方が早いのではなか――と、なぜか怒りを覚えながら考え、仕方がなく歩いて帰って来たのだった。
「この辺りではコンビニまで一時間くらいかかるのは普通ですよ」
 北沢さんが淡々とした表情で言う。俺は無意味だとは分かっていたが反論した。
「俺が前住んでいたところは歩いて十分もあれば余裕で着いたぞ」
 だが北沢さんも負けじと言い返す。
「それは比較的都会の方だからでしょう。ここでは子どもたちは自転車を使います。私もです」
「えっ――じゃあ何で言わなかったの?」
 それならそうと言ってくれれば、俺だって自転車で行きましたとも。それはもう喜んでペダルを漕ぎましたとも。
 すると北沢さんは訝しげに俺を見上げた。
「てっきり私は、新谷さんが田舎の雰囲気を全身で感じ取りながらコンビニに行きたいのかと思って……だからわざわざ徒歩で行ったんじゃなかったんですか?」
 彼女は一体、俺のことをどんな目で見ているのか。というか、そもそも俺がそんなにロマンチストに見えるのか。新聞部に入部をすることを即決する時点で、現実的な思考の持ち主であることは分かるだろう。
「これも価値観の相違というやつですね」
 北沢さんが湯のみを両手で持ちながら、マイペースにつぶやく。
 何を一人で納得して上手くまとめているんだ、この少女は。
 全身の力が一気に抜けたように溜息を吐く。そのとき、手に持っていた買い物袋が、がさっと乾いた音を立てた。



 夕食を食べ終わった俺は母親に学校に行く旨を一言告げてから、自転車にまたがり学校へと向かっていた。母親は俺がこんな時間帯に学校へ行く理由については深く突っ込まず、彼女は「あっそう」とだけ返事をすると、鼻歌を歌いながら自分の部屋に戻って行った。
 もう少し何かないのか。
 母親の放任主義など今に始まったことではないため、すぐに気を取り直した俺は、自転車の速度をぐんぐんと上げ、待ち合わせの時間よりも少し早く学校に到着した。
 自転車から降りた俺は、さすがに堂々と校門の前に置いておくのはまずいと思い、どこか都合のよい場所はないか探す。首をしきりに動かしていると、ふと校門の横にある草むらに目が止まった。
「……とりあえず、あそこに隠しておくか」
 ハンドルを握り、草むらまで自転車を押していく。何とかして上手く隠そうと試行錯誤を繰り返しているときだった。突如背中に声がかかった。
「すいません、お待たせしました!」
 不意にかかった声に驚愕の声を叫びながら飛び上がる。驚いて後ろを振り向くと、俺より少し遅れて到着した漆田がポカンとしながら立っていた。
「……大丈夫ですか?」
 漆田は俺の過剰ともいえる反応に目を丸くする。
「違う、違うぞ……あれだ……足元にヘビがいたんだ。そ、それで驚いただけなんだよ。マジで……」
「本当ですか!? 僕も見たいです」
 嬉々とした表情を浮かべながら近づいて来る漆田の前に立ち塞がり、俺は彼の行く手を遮った。
「そ、それよりも。ここに来る途中に思ったんだけどさ。俺の前の高校とかは校内にセンサーとかがあって勝手に入るとそれが反応して警備員会社に通報される仕組みになっていたんだが、この学校は大丈夫なのか?」
 漆田は顔を上げると、得意げな笑みを見せた。
「大丈夫です。この高校は警備員が深夜に巡回するだけなので心配ないですよ。ちなみにその時間帯もだいたい分かっています」
「よく知っているな……そんなこと」
 俺は漆田の情報量の豊かさに半ば唖然、半ば感心といった眼差しでもっさり頭の青年を見つめる。
「どうやってそんな情報を手に入れるんだ? 簡単に手に入る情報ではないだろ。昨日の幽霊の話といい警備員の話といい……」
 漆田はなぜか照れたようにはにかんだ。
「僕、教室では一人でいることが多いから、周りのクラスメイトの話が嫌でも耳に入って来るんですよ。だからです」
「………」
 どう反応を返したらよいか分からず、俺はただただ押し黙る。というか、そこは照れるところでは絶対にない。
「……そうか。い、いいよな。いやっ全然よくないけど、そういう風に自分を活用できるってさ、なんだかうらやまし……くもなくもないけど……あれだ……ようするに前向きなのはいいことだよな!」
 途中から自分でも何を言っているのか分からなかったが、無理やり話しをまとめた俺はやけくそ気味に漆田の肩を何度も叩いた。
 漆田は困惑した眼差しで俺を見つめていたが、しばらくして、意気揚々と言葉を発した。
「そろそろ行きましょうか」
 俺はギクッと肩を上げ、顔を引きつらせる。その言葉は俺にとって、死刑宣告と同等の意味を持っていたからだ。

「あの……大丈夫ですか? なんだか顔色がすぐれないような気がしますよ」
 学校の敷地内に足を踏み入れ図書室へ向かう途中。様子をうかがうため後ろを振り返った漆田が、俺の顔を見るや恐る恐る指摘した。
 きっと彼が指摘したように俺の顔は暗闇に浮かび上がる程に青白くなっているのだろう。何しろ少し気を緩めただけで、腰が抜けそうになるほど神経が高ぶっている。
 だが臆病なくせに強がりな俺は、その事実を認めなかった。
「大丈夫だ、問題ない。暗いからそう映るだけだって。お前の顔だってめちゃくちゃ青白いぞ」
 嘘であった。漆田の顔は別に青白いわけでもなく、いたって普通の顔色である。
しかし漆田は俺のでまかせに、いとも簡単に引っかかった。
「えっ? 本当ですか?」そう言って立ち止り、横にあった窓を覗きこむ。「……本当だ。何だか顔が青白いような気が……」
 俺が無表情のまま漆田の純粋さに少しばかり罪悪感を抱いていると、目の前で窓を覗きこんでいた彼が唐突に大きな声を張り上げた。
「あれ……ちょっと見てください!」
 ビクリと肩を張り上げた俺は、漆田が向ける視線の先に目をやった。目を凝らして見ると、ある教室のなかで白い光が浮かび上がっていた。あれは懐中電灯の灯りかなにかだろう。
「あそこは……図書室ですよ」
 そして漆田は怪訝そうに眉を寄せつつ、俺の顔を見やる。
「本当に誰かが夜中に図書館で……」
 そこで話を切った漆田は、次の瞬間、驚くべき提案を発した。
「そうだ……良いことを思いつきました! 二人であの幽霊を挟み打ちしましょう! 僕は図書室のドアの正面付近にある窓に行きます。新谷君は図書館準備室の窓から入って幽霊を捕まえてください!」
「ちょちょちょちょっと待てよ! 幽霊を挟み打ちなんて聞いたことない……」
「それじゃあ! 後で会いましょう!」
 俺の意見には全く耳を傾けてくれず。瞳を好奇心に爛々と輝かせた漆田は腰を浮かせ、勢いよく走り去って行った。
 俺は夜の学校に一人残される。漆田がいなくなった途端、やけに夜の校舎が不気味に映える。それに何だか肌寒くなった様な気がして無意識に身体を抱える。
「と、とにかく、図書館準備室に行けばいいんだよな……っていうか幽霊なんていないし……非科学的にもほどがあるっていうかさ……」
 俺は自分に言い聞かせるようにぶつぶつと一人言をつぶやきながら、ゆっくりと図書館準備室に向かって歩を進めた。



 目的の場所に到着した俺は、あの秘密の出入り口の窓をじっと見つめていた。時折、周囲に視線を配りながら俺は少しづつ心の準備を整えていた。
「よし……行くか」
 漆田の方もそろそろ到着した頃だろう。俺は意を決して窓の縁へ手をかける。そして窓ガラスをスライドさせ右足を乗せた。
「よいしょっ……」
 小さな掛け声とともに俺は右足に体重をかけ身体を押し上げ、もう片方の足も窓の縁へ乗せる。そのまま図書館準備室の床に飛び降りた。
 忍び足でドアの近くまで歩み寄り、そっと耳を立てる。しかし何も聞こえない。聞こえるのは夜の静寂だけだった。本当に漆田が侵入者を目撃したのは図書室だったのだろうか。何だか嫌な予感がする。
 俺はごくりと唾を飲み込んだ。さっきから心臓の鼓動が生々しく荒れている。手のひらにはじわりと汗が滲み、身体も思うように動かない。
「やっぱり無理して来るんじゃなかったかも……」
 変に格好をつけようとした結果がこれだ。やはり人間という生き物は、自分の分に合った生き方をした方が楽に生きられるのかもしれない。
 俺は嘆きにも似た溜息を吐く。ここでぐだぐだ考えていても時間だけが流れていくだけだ。抵抗するのを諦めた俺は、ドアノブに手をかけ、ゆっくりと回す。ガチャリと音が鳴りドアが開かれる。
 わずかに開いた隙間から図書館の様子を確認する。しかし案の定真っ暗で何も見えなかった。俺は静かに一歩を前に踏み出す。そして続けて足を動かし、図書館の奥へ進んで行った。本棚が並べられている空間を通り過ぎると、長方形のテーブルが見えてきた。闇に埋れていた図書館だったが、窓から流れ込む月光のおかげで部屋の内装がうっすら見えてきた。俺は目を周囲に配り、人がいないかを確かめる。
「……誰もいない、か」
 人の気配を感じるどころか、物音ひとつ聞こえてこない。
 良かったのか、それとも残念だったと肩を落とすべきか。俺としては前者を選びたいと思うところである。
 まぁでも、これでやっと家に帰れる。俺が少しだけ気を緩めたとき、突如肩に重みを感じた。一瞬何が起こったのか分からなかったが、すぐに全身の血の気が引いていく。
 嘘だろ。
 もしかして。
 心臓がさらに強く脈を打つ。思考がまともに働かないなか、無意識の内に首を後ろに動かした。俺の間後ろに立っていたのは同い年くらいの一人の少女であった。目に入ってきた光景に俺は何も考えないまま反射的に絶叫した。
「いやぁぁぁぁぁぁぁぁ!」
 悲鳴を上げながら、俺はその場にへたり込む。
「……大丈夫ですか?」
 その少女は心配そうに俺の顔を覗きこんできた。その声でようやく我に返る。俺はその少女の姿をあらためて見つめた。
「き、北沢さん……?」
 なんてことはない。少女の正体は北沢さんであった。恐怖のあまり頭が混乱し過ぎていたようだ。
「本当に大丈夫ですか? 尋常ではない声で叫んでいたようですが」
 北沢さんは腰を下げて俺と視線を合わせると、再度心配そうな眼差し送ってきた。
「だ、大丈夫。ちょっと驚いただけだから……」
 恥ずかしいやら怖かったやらで自分でも感情の整理がついていなかった。俺は深呼吸するとぐったりした顔で北沢さんに尋ねた。
「……何でここにいるの?」
 北沢さんは俺の問いに口で応える代わりに、手に持っていた物を俺に見せつけた。乾いた音と一緒に北沢さんが見せたのは白いコンビニ袋だった。
「これって……俺が買った」
 そこではっとし、俺は慌てて自分の両手を見つめた。しばらくしてから両手を静かに下ろす。
そういうことかぁ。
 俺は鼻先から呆れた笑いを漏らした。もちろん自分自身に対してだ。この時のために自分で懐中電灯を買っておきながら、俺はあろうことかそれを家に置いてきたらしい。何だかいたたまれない面持ちになる。
 気まずい沈黙が落ちるなか、それを破ってくれたのは北沢さんであった。
「里美さんがあなたの部屋に入ったとき、偶然この袋を見つけましてね。『なんでこんなものを買ったのかしら』って私に見せてくれたんです」
「それで俺に届けてくれたのか……」 
 いや、待てよ。どうして俺がここにいるって分かったのだろうか。俺が疑念に満ちた目で北沢さんを見つめると、彼女はそれに気づいたように事の次第を語り始めた。
「別に深く考える必要はありません。図書室の侵入者について調べていた昨日の今日です。きっとその侵入者を見つけるために学校に忍び込もうとでも思ったのだろうと考えました。そしてきっとあの窓から侵入するだろうことも」
 それに、と北沢さんは淡々とした口調で続ける。
「あの漆田君が調べずにいられない性格であることは知っています。ああ見えて、彼は好奇心の塊のような人間ですからね。絶対に何かしらのアクションを起こすだろうとは予想していました。その相手に私や清水ではなくあなたを指名することも」
 推理なんていう大層なものではなく、漆田の性格を知っていたからこそ分かったことだったのか。
 北沢さんはそこまで説明すると、おもむろに腰を上げた。
「さぁ、帰りしょうか。里美さんが心配していますよ」
 それは俺ではなく、きっと北沢さんの方だろう。
「そうだな。だがその前に漆田を探さないと。きっとまだ侵入者を……」
 言いながら腰を浮かそうとした俺は、ある異変に気がつく。
「どうしました……?」
 急に黙り込んでしまった俺を、北沢さんが訝しげな視線を向けた。
「……あのさ。すごく言いにくいことなんだけど……」
「はい」
 俺は顔を上げ、あまりにも情けない顔で北沢さんに告げる。
「あの……腰が抜けちゃったみたいなんだ……」
 北沢さんが――無表情のまま俺を見下ろす。暗闇の中、月の明りがちょうど横顔に当たり、くっきりと浮かび上がる陰影のせいで無表情が怖い位に強調される。
「あの……薄々感じていたことなんですけど……」
 ふいに北沢さんが言いにくそうに口を開いた。
「新谷さんって……」
「なんだ?」
「ヘタ……かなりのチキンハートの持ち主ですよね」
 チキンハートってなんだ。もしかしてオブラートに包み込んだつもりなのだろうか。全くもって真逆の効果だ。気を遣われても逆に心が沈む。
 北沢さんは小さく嘆息すると、腰をかがませ俺に手を差し伸べた。
その差し出された手に俺は驚いて、彼女を見上げた。
「これって……」
「携帯電話を貸してください。私、持っていないんです」
 俺はその手を掴もうとしていたとっさに右手を引っ込める。
「漆田君に電話して来てもらいます。私一人ではあなたを運べません」
「だ、だよねー。ちょっと待っててね」
 努めて明るく振舞いながら、俺は自分のポッケを探り始めた。あのまま手を出していたら恥じの上塗りだった。
 携帯電話を手に持ち、それを北沢さんに差し出そうしたときだった。部屋の奥でドアが開く音がした。
「新谷君、大丈夫ですか!?」
 焦った声色とともに暗闇の中から現れたのは、もちろん幽霊などではなく漆田だった。彼は俺に目を止めほっと安堵すると、次いで視線を北沢さんに転じ、驚愕の声を上げた。
「えっ!? どうしてここに北沢さんがいるんですか!?」
 北沢さんは、淡々とした眼差しを漆田に送る。
「学校に忘れ物をしたんです。そしたらたまたま懐中電灯の灯りを見つけて……でも、ちょうど良かった。できれば力を貸してください」
「力……ですか?」
 戸惑ったように北沢さんの言葉を復唱した漆田は、いまいち状況が飲み込めていない様子だった。確かに今の説明では不足な点が多々あるだろう。
「新谷さんが驚いた拍子に腰を抜かしてしまったらしくて。私一人では運べないので手を貸してください」
 北沢さんが言葉を付け足すと、漆田はなぜか暗闇でも分かるほど瞳を輝かせた。
「何でそんなに嬉しそうなんだ」
 俺が憮然と尋ねると、漆田はやはり、といったところを突いてきた。
「もしかして新谷君、幽霊を見たんですか!? だから驚いて腰を抜かしたんじゃないんですか!?」
 なるほどな。このとき初めて俺は漆田が好奇心の塊と揶揄される理由を目の当たりにした気がした。俺の身を案ずるより、幽霊の方が気になるのかい。
「残念ながら彼が腰を抜かしたのは、私が後ろから急に話しかけてしまったせいです。侵入者を目撃したから……というわけではないですよね?」
 話しの途中で自分の言葉に自信がなくなったのか。北沢さんが念ために俺に確認をとる。
「ああ。俺が驚いたのは北沢さんがいきなり話しかけたから。俺は侵入者の姿なんてみてないぞ……そういうお前はどうだったんだ?」
 話しの矛先をいきなり向けられた漆田だったが、彼は普段のおどおどした態度は見せず、明瞭な口調で受け答えをする。
「いいえ。僕も侵入者の姿は目撃しませんでした。なので、てっきり新谷君が目撃しているのかとばかり思ってました……」
「そうか……」
 ということは、一体どういうことになるんだ。一応俺たちは侵入者を挟み打ち……にした。だが二人とも侵入者の姿を見なかった。それはつまり――
「二人にいくつか質問します」
 俺の思考に割って入るように、北沢さんが口を挟んだ。
「何ですか?」
 北沢さんは漆田を真っすぐに見据えた。
「あなたたち二人はどういう経緯でふた手に分かれたんですか?」
 そうか。そういえば彼女は、俺たちが侵入者を挟み打ちにしようとしていた事実を全く知らないのだ。
 質問に答えたのは漆田だった。
「えーっと……門の前で待ち合わせてから二人で図書室へ向かったんです。その途中で図書室から白い光が見えて……確か、職員室の窓からだったと思います。そこでふた手に分かれて挟み打ちをしよう、という話しになって、今に至ります」
 話になったというか、それは漆田が勝手に言い出しただけだ。
「そうですか……ってことは、新谷さんが図書館準備室に行くまで数分のタイムラグがありますね。きっと……これは推測ですが、二人が侵入者の存在に気づいたとき、その侵入者も二人の存在に気付いたのでしょう。そして慌てて逃げ出した。漆田君が見なかったということはたぶん……」
 北沢さんはそこで話しを一旦切り、背後にある図書館準備室の方を振り向いた。
「侵入者は秘密の出入り口から逃げた可能性が非常に高いですね」
「つまり……侵入者はあの出入り口の存在を知っているってことか」
「そういうことになります」
 単純な推理だったが、それが一番無難な答えだろう。
「幽霊じゃないんですね……」
「当り前だ。いいから早く手を貸せ」
 自分でも何様だとは思いつつも、俺はがっくり肩を落としている漆田に上から目線で頼み込んだ。漆田はしぶしぶ腰を下げて俺の腕を自分の肩に回すと、一気に俺の身体を引き起こす。
 何とかその場に立ちあがったとき、傍らに立つ北沢さんが小声でぼそっとつぶやいた。
「幽霊、ですか……」
 目をすがめ。思慮をのぞかせるその横顔は、彼女なりに何かしらの真実に辿りついているのかもしれない。
 俺は直感的にそう思った。

 北沢さんは最終時刻のバスに乗り高校まで訪れたということもあって、帰りは二人で自転車に乗ることになった。
 夜の自動車道。その脇にある歩道を、学生二人を乗せた一台の自転車が颯爽と駆け抜ける。今は夜の九時過ぎということもあり、車道を走る車は時折、横を通り過ぎる程度だった。
 年頃の男女の高校生が一台の自転車を二人乗りして帰る。何とも甘酸っぱいシチュエーションである。テレビで憧れた光景が今、現実になっているのだ。
 だがしかし、それは男が自転車をこぎ、その後ろに女の子が乗っている場合である。
「なぜ私が……」
 北沢さんの疲れ切った嘆きの声を聞くのはこれで何度目だろうか。
 俺は今、自転車の荷台につかまっていた。もちろん自転車をこいでいるのは男の俺ではなく、女の北沢さんである。
 両下肢に力を込めながら自転車のペダルを漕ぎ続ける北沢さんの背に向かって、俺は申し訳なさそうに言う。
「本当にすいません。……あとで何か奢ります」
 腰に腕を回すのはさすがにはばかれたため、荷台につかまりながら何とかバランスを保っていた。
「別にいいですよ……元はと言えば私が驚かしたのが要因ですから。そしてもっと辿っていけば、幽霊を怖がるようになったのも七年前に私が驚かしたことも大きな原因の一つでしょうから」
「それは……」
 何と返したらよいのか分からず口ごもる。俺からしてみれば、彼女がそんな負い目を感じる必要はない。なにしろ彼女は悪気があってやったわけではないのだ。だが完全にそうではないと言い切れない……いや、言い切ってあげることができない自分がいるのも事実だった。
 すると、おもむろに北沢さんが口火を切った。
「……申し訳ないと思っています。今考えれば、一言言っておけばよかったんですよね。ですがあのときの私は人との関わり方が上手くはなかったといいますか……話さなくてもいいなら最初から人と関わらなくてもいいと思っていた時期でもありました。人との接触を避けていたんです」
 俺は黙って耳を澄ます。夜風に流されてしまいそうな声量で話す彼女の声を聞き漏らすまいと必死だった。
「私……人と関わるのが苦手なんです。どんな風に他人と距離をとったらいいのか分かりませんし、おもしろい話しも言えません。同年代の子がおもしろいと思えることが、私はおもしろいと思えません。それなので……子どもの頃から友達はいませんでした。だからその……私が言いたいことはですね……」
 彼女の話しを耳に入れながら、俺は思わず苦笑をこぼしていた。彼女の話しの内容をまとめると、こんな感じだろうか。
 自分は昔から人と関わるのが苦手だった。だから俺が自分の家に遊びに来ると知ったとき、できれば話したくないと思った。でもそのせいで俺に迷惑をかけてしまい、すまないと思っている。
 懸命に言葉を繋げようと頑張る北沢さんの姿を見ていると、自分の弱さを恥ずかしがっていることが、何だかあほらしくなってきた。
「もともと俺がヘタレ気質だっただけだよ。北沢さんのせいであんなビビり性になったわけではないから。だから気にしないで」
 なんだ、言えたじゃないか。口にしただけで少しだけ気分が軽くなった気がする。
 北沢さんはややあってから、そっと告げた。
「あなたがそういうなら、私は気にしないことにします」
 そして彼女はそれ以上、特に言葉を返してこなかった。
 北沢さんはひたすら自転車をこぎ続ける。夜の静寂が二人を包むなか、俺はその沈黙にとうとう耐えきれなくなり、話題を振ることにした。
「そういえば……あの秘密の出入り口。もう使えなくなるかもしれないらしいよ」
 二人が共有できる話題といったら、これくらいしか思いつかなかった。どれだけ気が利かない男なのだろう、俺は。
 北沢さんは一呼吸置いてから、静かに口を開いた。
「……本当ですか? 誰から聞いたんですか?」
 俺は彼女の反応に面を食らう。思っていた以上に食い付きがよかった。そうなんですか、とあっさり流されるかと予想していたのに。
「聞いたっていうか……来週の月曜日、図書室を改修工事するらしくてさ。本棚を新しく取り換えたり、古い本は市の図書館に寄付するから、そのときにもしかしたら準備室にも手が入るかもしれないって、漆田が言っていたんだ」
 俺の話が終わるや、北沢さんが急にブレーキをかけた。唐突の出来事に身体が前のめりになる。俺は「おわっ!」と驚きの声を上げ、とっさに片足を地面に下ろしバランスを保った。
「ちょっ――いきなりどうしたの?」
 俺が困惑した表情で後ろから尋ねると、北沢さんはゆっくりとした動作でこちらに首を回した。その真剣な目つきから、彼女がふざけている様子は微塵も感じなかった。
「その話、本当に漆田君が言っていたんですか?」
 そこが気になったのか。
「あぁ……」
 俺は彼女から真剣な眼差しに尻込みするように、おずおずと頷いた。
「……来週の月曜日」
 北沢さんは緩く握ったこぶしを口に当て、めずらしくその眼差しに眼光を宿らせる。彼女の淡々とした表情しか見たことがなかったため、驚くというよりも自然と目を奪われた。
「何か分かったことでもあったの?」
 確認するように問いかけると、彼女は小さく息を吐きながら首を横に振った。
「いいえ。特にこれといっては」
 彼女はきっぱりと否定する。
「……そう」
 心の奥底では、彼女が何か気付くことがあったのではないかと勘繰ったが、俺は深くは追求しなかった。彼女がいいえ、と答えるのを拒んでいるのであれば、それ以上は踏み込めない。
 気付くと、北沢さんはすでに普段の様子に戻っていた。何を考えているのか分からず、感情の起伏が驚くほど少ない彼女がそこにいた。
 北沢さんは前に向き直る。
「変なことを訊いてしまってすいません。行きましょう」
 そして彼女は、再び自転車を漕ぎ始めた。


 帰宅した俺たちは駐車場で自転車を降りた。このときには、俺の腰もなんとか治っていたためゆっくりと地面に降り立った。
「治ったようですね。良かったです」
 身軽な動作で彼女も自転車から降りる。俺は言いにくそうに言葉を溜めてから、思い切ってお礼を述べた。
「その……ありがとう。重かったでしょう?」
 これも本来であれば女の子側の台詞だ。
「重くないと言ったら嘘になりますが……まぁ、久々にいい運動になりました。普段は体育以外では身体を動かしませんからね」
 その言葉に、つい苦笑してしまった。たぶんそれが彼女の本心なのだろう。あまりにも分かりやすくて、そして同時に胸が温かい気持ちで満たされた。もしかしたら、これが彼女の良いところなのかもしれない。
「そうか。それは良かった。これならまた、腰を抜かしても大丈夫そうだな」
 そう言って、俺はいたずらっぽい笑みを浮かべる。
 ところが彼女は、やはり北沢さんだった。
「それはとても困りますね」
 北沢さんは俺とは違って、いたって真剣な顔で告げる。たぶん本当に困るのだろう。その気持ちが悲しいくらい、それも痛いほど伝わってきた。
「それでは、おやすみなさい」
 北沢さんは小さく頭を下げると、自転車を押して駐車場の横に建ててある納屋に向かって行った。
 彼女の背中がどんどん離れていく。俺は何気なしに、その背に向かって叫んでいた。
「あのさ!」
 北沢さんはぴたりと歩みを止め、こちらを振り返る。
「……なんでしょう?」
 少し言葉を溜めてから彼女は応えた。この声色はどこかよそよそしかった。
 俺はいままで密かに抱いていた想いを、意を決して口にする。
「家に住んでいいんだよ? 俺たちに気にしないで」
 だって元々は君が暮らしていた場所なんだから。俺たち親子が勝手に土足で入ってきたようなものだ。
 暗闇にまぎれた北沢さんはどんな表情をしているのかよく見えなかった。ただでさえ読み取ることが難しい彼女の表情を、夜という夜陰がますます覆ってしまっている。
 ややあってから、北沢さんが静かな口調で言葉を発した。
「……私はここで十分です。あなたたち親子の関係に、割って入るつもりはありませんので」
 その言葉に俺はわずかに眉根をよせた。思っていた以上に、彼女は俺たちと距離を開けているのが分かったからだ。いや、俺たちに気を遣ってあえて開けている、と言った方が正しいか。
「……俺たちは全然気にしないって。むしろ母さんは、君……北沢さんが一緒に暮らした方が喜ぶと思うんだ」
 一呼吸置いてから、北沢さんは躊躇いがちに尋ねた。
「……どうしてですか?」
 どうしてと言われましても。
 彼女の質問に俺は弱り果てる。なにしろ特に理由はないからだ。だけど彼女にとっては、その理由が大事であり、そして必要なものなのだろう。
 そうだな。強いて挙げる理由としたら、これだろうか。
「母さんは、北沢さんのことが好きだからだよ。だから一緒に住みたいんだと思う」
 まぁ、ついでに俺も。
 だって君はいい人だから。頭が悪くて、基本ラインが馬鹿な俺には、その理由だけで十分なんだ。
 北沢さんは何やら考えるように、しばしの間、口を閉ざす。そして彼女は口を開き夜の静寂を破った。
「好きだから、私と一緒に住みたいんですか?」
 訝しげな声色で、彼女は確かめるように尋ねる。
「そうだよ……いやっ、母さんがね。北沢のことが好きだから」
 何度も好きを連呼すると、何だか気恥ずかしい。別に意識しなければいい話なのだが。
 すると彼女は俺から顔をそっと背け、まるで逃げるように視線を逸らした。
「よく……分かりません。好きだから一緒に住みたいとか……そう言ってしまう新谷さ
たちの気持ちが……」
 彼女は顔を上げ、夜風に消え入りそうなか細い声で言う。
「私には、よく分からないんです……」
 そのとき彼女の髪を優しくなびかせる風が吹きすさび、辺りに葉擦れの音が静かに響き渡った。季節は四月の下旬だというのに、その風はひんやりしていて、俺ははからずも身震るいしてしまった。
「この話はまた今度にしましょう」
 どこを見るわけでもなく、ただぼんやりと顔を上げていた俺は、北沢さんに視線をやる。すると彼女はちょうど下げた頭を上げていたところだった。
「……あぁ、分かった」
 無難な言葉を返すと、彼女は背を向けて自転車を押していった。ずっと立っていても寒いだけなため、俺も彼女に倣い玄関へと向かった。
 玄関のドアに手を掛けた俺は、何気なしに後ろを振り返る。彼女はすでに自転車を納屋の横に置き終え、俺の視線に気がつかぬまま、自分のねぐらに入ろうとしていた。
 北沢さんが納屋に入ったことを確認してから、俺は空を振り仰ぐ。澄んだ夜空に瞬く星が散りばめられた光景は圧巻の一言で、かすかに開かれた口から思わず吐息が漏れる。こんなにも星空って綺麗だったのか。東京に住んでいたら絶対に気づかなかっただろう。その景色に何だか俺は意味もなく泣きそうになってしまった。
 ふと、さきほどの北沢さんの言葉を頭の中で反芻する。彼女の言葉を聞いたとき、俺はさして驚きはしなかった。きっと彼女はすぐに頷いてはくれないだろうと思っていたからだ。そしてすぐに頷いてくれるほど、自分たちの距離は近づいてもいないことも。彼女にとって俺たちは他人であり、勝手に押しかけた居候に過ぎない。彼女なりに優しく接してくれているが、きっと彼女は誰にでも同じような態度をとるだろう。
 再び背筋がぶるっと震えた。そういえば三日前までいた東京はこんなに寒くなかった。俺はこのとき、ようやく自分が北国にいるのだと実感したのだった。

この小説について

タイトル 不器用な団欒者たち
初版 2014年12月30日
改訂 2014年12月30日
小説ID 4620
閲覧数 370
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雪奈の写真
駆け出し
作家名 ★雪奈
作家ID 899
投稿数 5
★の数 0
活動度 475

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