不器用な団欒者たち


 いつになく豪華だった夕ご飯を食べ終わると、俺はお風呂に入り、一日の疲れをお湯と一緒に流した。前に住んでいた家では女性……主に母親が主導権を握っていたため、俺は必然的にお風呂も最後に入っていた。
 しかしながら。
 引っ越したからといってその仕来たりが変わるわけもなく、やはりこの家でも、ほしい物を目の前にした四歳児が母親と対峙するときの眼差しのように、その仕来たりは決して揺らぐことはなかった。そのため、結局俺は北沢さんが入ったあとのお風呂に浸かることになってしまい、できるだけ余計なことを考えないようにしながらお湯に浸かるのに苦労したのだ。
 火照った身体で家の廊下を歩いていると、通りかかった部屋のドアの隙間から心地よい風が吹き込んでいるのを発見した。手を伸ばし、引き戸をさらに開ける。その部屋は縁側に続いている部屋で、覗いてみると一人の少女が板敷き状の通路にぽつんと座っていた。
 北沢さんである。
 俺はこのまま見なかったことにするか迷う。昨日の夜、彼女と色々話したが分かったことは北沢さんとの離れた距離間だけだった。その事実も頭の隅にあるのか、彼女に話しかけるのにどうしても躊躇してしまう。
 俺はドアの前で立ち尽くしながらあれやこれやと逡巡し――思い切って、話しかけることにした
「そこで何しているの?」。
 すると北沢さんは首だけを横に回す。彼女は俺の姿をみとめ、少し驚いたように目をしばたかせた。
「……新谷さんこそ、どうかしましたか? 私に何か用ですか?」
「いや……用ってこともないんだけど……」
 俺は困ったような小さな笑みを曖昧に浮かべる。たぶん、そう返されるだろうとは思っていたよ。
「あのさ……俺も……」
 隣に座ってもいいですか。
 そう言いたいのだが、なかなか口から出てこない。恥ずかしさ、断られてしまうかもしれないという恐怖。様々な感情が入り混じり、たった一言さえ言葉にすることができない。
 その間にも、北沢さんはじっとこちらを見つめている。彼女はなにも言わずに、俺の言葉を待ってくれていた。
「俺、も……」そして喉の奥から無理やり言葉を引っ張るようにして、敢然と言い切った。
「俺も! ……俺も、縁側に座ってみたいんだけどいいかな……」
 穴を空けたように風船のように声がしぼんでいくのが分かった。こういうとき、自分は臆病な怖がりなのだと思い知らされる。
「いいですよ。ぜひ座ってみてください」
 青い水玉模様のパジャマに、薄地のカーディガンが羽織った北沢さんが、隣にあるからっぽの空間に手を差し向ける。
「……ありがとうございます」
 力ない足取りで歩を進め、北沢さんの隣にゆっくりと腰を下ろした。
 肩を並べ、二人で広大な夜空を仰ぐ。小粒の宝石を散りばめたような夜の空はやっぱり綺麗で、息を吸い込むたびに四月の冷えた夜の空気が肺に溶け込んでくる感じは、どこか新鮮だった。
「なんか珍しいね。いつもならご飯食べて、お風呂に入ったらすぐに納屋に行くのに」
 俺はそこで話を切る。三秒間の沈黙を置いて、俺は慌てて言葉を付け足した。
「それが悪いと言っているわけじゃなくて、全然、良いんだけどね」
 危なかった。言葉の捉え方によっては、嫌な感じに聞こえてしまっただろう。
「今日は月が綺麗なので、観賞しようと思いまして」
 北沢さんが顔を上げ、喉ぼとけを夜空に向けながら、どこかうっとりした声音でつぶやく。
 俺は心の中で頷きながら夜空に浮かぶ半月に目を止める。確かに淡い月光を周囲放つ半月は、なんだか周りにいる小さな星たちからは浮世離れしているようにも見えた。
 夜の静寂にそっと割り込むように、北沢さんが口を開いた。
「新谷さんは、満月と半月。どちらが綺麗だと思いますか?」
 うーん、藪から棒だな。もしかして月をずっと眺めていると、自然とそんなことを思ってしまうものなのだろうか。
「そうだな……俺は満月の方が綺麗だと思う、かな。やっぱり完璧な丸ってすごいよね」
 俺はなにを訳の分からないことを口走っているのだろう。羞恥心が身体中から押し寄せる。後悔先に立たずとはよく言ったものだ。
 しかし彼女は俺の意味不明な言葉にも不可解な顔をすることなく応えた。
「私は半月の方が綺麗だと思います。個人的には満月にも勝っていると思いますね」
 おお、めずらしく北沢さんが自分の意見を押してくる。
「強気だね。理由は?」
 月の話題でここまで盛り上がるとは。今日ばかりは、太陽系に最も近い地球外天体に感謝を捧げなければいけないな。
 傍らに座る北沢さんが静かに考え込む。しばらくして考えがまとまったのか、彼女はおもむろに語り始めた。
「そうですね……半月は完璧ではないところが逆に美しいと思います。どこか初々しくて、頼りない感じが好感を持てますね。満月はちょっと完璧すぎるといいますか、非の打ちどころがなさ過ぎて……。面白味……いえ、少し温かさに欠ける気がします」
 温かさ、か。
 なるほどかな。おぼろげながら、彼女の言っている意味が分かった。
 例えばだ。あるお城に二人のメイドが働いていたとしよう。そのメイドたちはどちらも仕事は完璧で、主人からの信頼も厚い。
 しかしながら。完璧に見える二人のメイドたちだったが、片方は気真面目で隙がなく、ニコリとも笑わないお高くとまったメイド。そしてもう片方は、仕事は完璧だけど、時どきうっかりミスを仕出かし、それに対して恥ずかしそうに頬を赤らめるようなメイド。
 同じ服装で仕事も完璧だけど、後者の方がなんだか人間味があって好感が持てるのではないだろうか。たぶん彼女の言いたいことはこんな感じの意味合いだと思う。
 ちなみに前者が満月で、後者が半月である。
 ただのドジっ子好きだろうと指摘されれば、それまでだが。
「中々おもしろい意見だね。でも……それに対する俺からの反論はないよ」
「……ないんですか?」
 北沢さんが訝しげな声調で問いかける。
 まるで反対意見を待っていたような口ぶりだな。『満月と半月!あなたはどっち派?』というような議題で俺とディベートでもする気だったのだろうか。
 俺は唇を緩め、北沢さんの黒い瞳を見つめた。
「だって、これこそ価値観の違いでしょ?」
 半月が綺麗だと思う人がいれば、満月の方が美しいと思う人もいるように、一つの物事の捉え方は、百人いれば百通りの見方がある。それが良いか悪いかなどという区別はないはずだ。
 北沢さんは怪訝そうな表情を崩し、口元にわずかな微笑を浮かべた。
「……新谷さんの言う通りです。このことに関して争うことは、不毛ですね」
 俺の意見に賛成してくれたようでなによりである。本音を言えば、彼女と議論して勝つ自信がなかったのだ。負ける自信ならあったけど。
「今度は俺から質問してもいい?」
「何でしょうか?」
 北沢さんは依然、飽きずに夜空に浮かぶ半月を見上げている。よほど月が好きなのだろう。俺は一日一回、目にすることができれば、それだけでお腹一杯になるのだが。
「あのさ……トヨさんって、どんな人だったの?」
 月の淡い輝きから視線を外し、彼女は俺の横顔に目をやる。
「そうですね……一言で表すと、とても静かな人でした」
「静かな人?」
 北沢さんはこくんと頷いた。
 俺はトヨさんと北沢さん、二人の暮らしを頭の中で想像してみる。
 北沢さんは、どちらかというと口数は少ない方だ。そしてトヨさんもとても静かな人だったらしい。そうなると家の中での会話はほとんどなくて、夜の静寂のようなひっそりとした空気が家の中に流れていたのではないだろうか。
 北沢さんは、そして再び月を見上げた。
「私たちは好んで会話をすることはありませんでしたから、ご想像通り、家の中はいつも静かでした。でもさすがのトヨさんもその状況に危惧を抱いたのでしょう。夕ご飯を食べるとき、私に対して一日の報告をするように言ってきたんです。それからは、夕食のときは少しだけ会話をするようになりました」
 俺は彼女の話を聞きながら、つい苦笑してしまっていた。
 無口な北沢さん。そして自分も誰かと会話することが苦手なトヨさん。だけどどうにかして彼女と会話をしたかったトヨさんは、苦肉ともいえる提案で、北沢さんとの関係を保とうと必死に努力していたのだ。
 母親が亡くなり、天涯孤独となってしまった北沢さんをトヨさんは引き取った。近所の知り合いという垣根を超え、彼女は北沢さんに対して、有り余るくらいの愛情を注いでいたのだろう。
 それが、今ここに座る俺にも伝わってくるくらいに。
「良い人だったんだね、トヨさんは」
 知らず知らずのうちに、そんな言葉が口からこぼれていた。
 北沢さんは沈黙を挟み、ゆっくりと口を開いた。
「良い人……だったんだと思います。赤の他人の私を引き取ってくれたくらいですから。そして私に、この家も残してくれました」
 だけど、その彼女はすでにこの世にいない。
 人との関わりが極端に苦手な少女を残してこの世を去ってしまった。
 俺はふと思った。トヨさんはきっと――。
 そこまで考え、四月の夜の冷えた空気を吸い込み、思い切って告げた。
「納屋は寒いでしょ? やっぱりこの家に寝泊まりしたら?」
 四月の下旬でも、吐息が白い水蒸気となって口からこぼれるくらいだ。夜の冷え込みは暖かい暖炉が必要になるだろう。
 北沢さんは小さく息を吐いてから、冷え切った空気に溶け込んでしまいそうな、小さな声色で言った。
「寒くはありませんよ。納屋は意外としっかりとした構造をしていますから隙間風とかもありません。それに一応、電気も引いてありますから、電気ストーブも点けていますし」
 思わず苦笑がこぼれる。俺が伝えたかった気持ちは彼女の心に届かなかったようだ。俺の言葉が足りなかったのもあるかもしれないが。
 でも――。
 わずかに顔を俯かせ、その口元に笑みを含んだ。
「そっか」
 これから少しずつ、変わっていけばいいのかもしれない。そう願うことは、きっと物事をいい方向へと導いてくれるはずだ。
 そう。今は伝わらなくても、それでもいつか。
 顔を上げ、俺は夜空を仰いだ。こうして改めて半月を眺めると、満月を半分に割った月もそう悪くはないなとしみじみ思う。
「……そういえばさ、今日も図書室に行ったんだって?」
 穏やかな口調で、俺は話題を切り変えた。
「はい、行きました。部長と漆田君と三人で」
「何か見つかった?」
 北沢さんの横顔に、わずかに憂慮の色が浮かぶ。
「見つかったといいますか……そうですね、本の配置が変わっていた場所は、五つに増えていました」
 うむむ。この前は二か所で、今日は五か所か。一体全体どういうことなんだ。増えたことに何らかの意味が隠されているのだろうか。
「今日も現れているのかな、その犯人……」
 俺が何気なしにぽつりとつぶやくと、横にいる北沢さんが、毅然として、それでいて力強い声ではっきりと言い切った。
「今日も必ず来ていると思います、絶対に」
 俺は怪訝そうな表情を浮かべながら、暗闇を背景にした北沢さんの横顔をまじまじと見つめる。やけに自信に溢れた言い方だな。
「どうして分かるの?」
 なぜ。その根拠は。
 すると北沢さんは口元に緩く握った拳を当て、難しい表情で考え込み始めた。それから彼女はおもむろに顔を上げると、真っすぐに俺の瞳を捉えた。
 彼女は冴え冴えとした瞳の奥に、どこか憂いを含んだ眼差しで尋ねる。
「新谷さんは……この事件の真相を知りたいと思いますか?」
 一瞬、俺は眉をひそめた。だがすぐに、真剣な面持ちを作る。
「できれば……知りたいと思う。犯人が誰か、とかじゃなくて、どうして犯人はこんなことをしたのか。その理由を知りたい」
 北沢さんの目が、わずかにすぼめられる。瞳の奥底で彼女の深慮が音を立てずに蠢いているのが分かる。
 数瞬の間のあと、彼女は緊張を解くように小さく息を吐き出した。
「分かりました」
 そして彼女は前に向き直る。
「実は迷っていたんです。事件の謎を解き明かすべきかどうか。ですが、あなたの言葉で決心がつきました」
 驚くべきカミングアウトに、俺は満月のように目を丸くする。
「えっ、誰がやったのか分かったの?」
「あくまで推論ですが」
 だが、はっきりとそう述べるからには、ある程度の証拠や確証が彼女の中にはあるのだろう。
 俺はおずおずと彼女の横顔から視線を外すと、どこを見据えるわけでもなく、暗闇の空間をぼんやりと見つめた。
「何で事件の謎を解くのを迷ってたの?」
 これはあくまで俺の予想であるが、彼女はもっと前にこの事件の真相に近づいていたのではないだろうか。
 本当に想像に過ぎないのだけど。
 北沢さんは、どこか躊躇うようにしてその理由を語り始めた。
「自分でも分かりませんが、事件の謎を解くということは、イコール、その人の中に踏み込んでいく行為であると私は解釈しています。なので警察官でもない私が、簡単に他人の中に土足で踏み込んでしまってもいいのか。私は……それをずっと悩んでいました」
 俺は事件の真相について彼女に何度か尋ねた。だけど彼女はその度に首を横に振ったのを俺は確かに記憶している。
 それは自分の胸の中でひしめき合っている感情と葛藤していたから。だから彼女はあえて頷かなかったのだろう。
 ですが。彼女は冷たい夜の風を吹き払うような凛とした声で言った。
「謎を明かしましょう。そうすることで……夜な夜な図書室に忍び込んでいる人物に、私たちが何かしてあげるかもしれません」
 それは一体、どういう……。
 聞き返そうとした俺の言葉を、北沢さんの穏やかな眼差しがそれを遮った。
「新谷さんは、漆田君と正反対な性格をしていますね」
 今度は正反対の話か。さっきは、清水さんに俺が北沢さんと似ているような話を聞いたな。
「漆田君は、とにかく事件の犯人を知りたがるタイプです。ですから彼にとって、その動機は二の次なんです。ですが新谷さんの場合、誰が犯人かは二の次で、その動機が知りたい。まるっきり正反対です」
 そう言って、彼女は俺から顔を背け、前に視線を戻した。
「良いコンビです、あなたたちは」
 その言葉に、俺は苦い笑みを漏らす。
 まぁ……悪くはないかもしれないな。ああ見えて、漆田は結構おもしろい人間だと思うから。
 あとは、あのもっさりヘアーさえ何とかしてもらえれば十分だ。顔を合わせるたび、理容室のチラシをあげたくなるから困ったものだ。
 くいっと顔を上げ、半月をその黒い瞳に映している俺の横で、彼女は温かい茶を啜ったあとのような、しみじみとした声音で囁くようにつぶやいた。
「綺麗な半月です」
 そして俺も、しみじみとつぶやく。
「そうだね」
 夜空に浮かぶ半分の月は、その淡い月光で周囲の星たちを優しく見守っている。そんな印象を俺はこの夜に抱いたのだった。


 新しい街に新参者としてやって来て三日が経過した。
 高校に続く急な坂道にもようやく身体が慣れてきて、気がつくと通学路の景色も自然と目に入るようになっていた。
 急な勾配の坂道を歩きながら俺は視線をやや上へと向ける。坂の脇道に植えられている桜が見事な蕾を咲かせており、鮮やかにピンク色が瞳に映り込む。俺は引っ越してきたおかげで二度、桜の季節を経験することになったのだ。
 登校時の生徒が作り出す雑踏に紛れ込み、俺は玄関、次いで廊下を渡り、とある場所へと辿りついた。
 目的地である教室で足を止め、俺は顔を上げる。視線の先には図書室と書かれたプレートがドアの上に掲げられていた。

 図書室の中へと足を踏み入れ、入り口付近のカウンターまで進むと見覚えのある人物がその中にある椅子に座っていた。
「よ、漆田」
 軽い調子で挨拶をすると、俯いていた漆田が弾けるように顔を上げた。
「新谷君……どうしてここに?」
 漆田は俺の姿をみとめると目をしばたかせ、黒い瞳をさらに丸くさせた。
 視界の隅に漆田の姿を入れながら、俺は周囲をぐるりと見渡す。図書室は漆田と俺以外、誰一人としておらず部屋の中は閑散としていた。
「ちょっと用があってな」
「用、ですか?」
 漆田が訝しげな声色で俺の言葉を復唱する。
 俺は彼の困惑顔を受け流して、さっそく本題に入った。
「お前って、新聞部でインタビュー係らしいな」
 漆田は面を食らった顔をしながら、戸惑った風情で頷いた。
「え、えぇ……まぁ、そうですね」
 話の意図が掴めないのか。彼は訝しんだ表情を緩めない。
 しかしながら今はそんなことを気にしている暇はない。俺は淡々と、そして悠然と話を進める。
「あと、機材も管理しているとか」
 俺は昨夜、北沢さんから知り得た情報を漆田の前で惜しげもなく披露していく。
「そう……ですね。主に僕が管理しています」
 うむ。ここまでは順調に事が進んでいる。
 これで最後だ。
「じゃあ、今までインタビューした記録はどうしている?」
 この質問に、漆田はゆっくりと口を開いてその答えを返した。




 夜の空に浮かぶのは相変わらず弦を張った弓のような形を成した半月だった。しかし目を凝らしてよく見てみると、昨日よりどこかふっくらした感じがしなくもない。
 真夜中の学校の敷地内。木曜日の授業が終わり、一度家に帰って夕食をお腹の中におさめてから俺は再び学校へとやって来ていた。ここで話が終わってしまうと、お前はそこまで学校が好きなのか、と勘違いされそうなのだが、もちろんそうではない。
「遅いですね、漆田君」
 隣には北沢さんも立っている。彼女も俺と同じように学校が終わり一度、家に帰宅して夕ご飯を鱈の腹のようにお腹におさめてから夜の学校に来ていた。
 俺はチラリと北沢さんの姿を見つめる。傍らに立つ北沢さんはなぜか制服を着ていた。俺はあえてそのことには突っ込まないようにしていたのだが、
「何で制服着ているの?」やはり少し気になったので尋ねてみた。
 北沢さんは顔をこちらに向けると、不審そうな表情でその理由を答えた。
「学校に来ているからに決まっています」
 うーん、ちょっとよく分からない。
 別に真夜中の学校だから誰が見ているわけでもなく、ましてや先生もいないのだから無理して制服を着てこなくてもいいはずなのだが……なんというか、変に律儀だな。もしかして学校=制服姿、という強迫観念でもあるのだろうか。
 さらに突っ込んでみようか迷っていると、背後から聞き慣れた声が聞こえた。
「お待たせしました!」
 朝一の魚市場から届いたような威勢の良い声に、二人同時に振り返る。気分が下降気味の時間帯に、ここまで元気な声を出せるのは彼しかいないだろう。
「こんばんは。漆田君」
 北沢さんが小さく頭を下げた相手は、言わずもがな。漆田であった。
 彼は……いや、彼もなぜか制服姿だった。真黒い詰襟タイプの学生服は、夜の闇と見事に同化していて、なんだか目がおかしくなりそうだ。
「何で制服なんだ?」
 白いポロシャツに真新しいジーンズを履いた俺の方が少し浮いて見えてしまうではないか。
 漆田は俺の質問に怪訝そうに眉を寄せ、不審そうな声色で言った。
「なんでって……部活動だからに決まっています」
 こっちもよく分からん理由だ。
 というか、一昨日の夜は普通に私服で着ていただろう。この前は本当に幽霊退治気分で夜の学校に来ていたんだな。
 二人の制服と私服の境界線はどこにあるのか。俺がその謎に挑んでいる傍らで、北沢さんがさっそく話を切り出した。
「漆田君、頼んでおいた例のアレは持ってきましたか?」
 ま、それを漆田に直接頼んだのは俺なのだが。
 漆田は今にも敬礼しそうな勢いで頷いた。
「もちろん! ちゃんと持ってきましたよ!」
 そう言って、漆田は制服のポケットに軽く手を触れた。
 彼も俺と同じように詳しい事情はほとんど聞かされていないはずなのだが、それでも嫌な顔一つせずに彼女の言う通りに行動するところから鑑みるに、よほど北沢さんのことを信頼しているのだろう。
「何で俺と漆田と北沢さんの三人だけなの?」
 俺は真夜中の学校に忍び込んでからずっと疑問に思っていたことを北沢さんに尋ねる。
「今回の事件を解決するためには、漆田君の存在は必要ですから呼びました。それとあとの二人ですが、清水は呼んでも面倒臭がって来ないと思いましたからあえて言いませんでした。部長は呼んだら来ると思ったのであえて言いませんでした。部長が来たら色々面倒だと思ったので」
 確かに。あの部長なら、不機嫌でどこか怒ったような顔をしながらも来るだろうな。何だかんだいって、漆田の次にこの事件に入れ込んでいたからな。でも来たら来たらでちょっと面倒臭いな。
 あれ? でもそうなると……。
「……じゃあ、俺は何で呼んだの?」
 俺は怪訝そうに眉根を寄せて、彼女を見やる。
 すると北沢さんは俺の顔から視線を外し、逃げるようにこちらに背を向けて「……特に、これといって理由はありません」耳を澄まさないと聞こえない声量でつぶやいた。
「そう……ですか」
 首を捻り、俺は彼女の後頭部を黙って見つめる。この一連の行動にはどんな意味合いが込められているのだろうか。訊いてみたいと思ったが、こんな風に背を向けられたら、尋ねようにも尋ねられない。
 俺が心の中で首を捻っていると、前にいる漆田が俺と北沢さんの姿を交互に見やりながら言った。
「あの……それで、これからどうしますか」
 そうだった。俺はようやく我に返り、現在の状況を思い出した。
 木曜日の夜。
 真夜中の学校。
 そしてもう少し歩いた先には――あの秘密の出入り口がある。
 北沢さんは顔をわずかに後ろに動かす。腰まで流れる漆黒の髪の毛から覗く薄紅色の唇。その口元に小さな笑みが含まれた。
「さて、そろそろ行きましょうか――期間限定の幽霊に会いに」

 深い深い闇の中に白い光が浮かび上がる。
底しれぬ夜陰の中を、息を殺しながら、一歩、また一歩と彼女は歩を進めていく。その顔は焦燥感に歪み、額にはうっすらと汗が滲んでいた。
 どこにある。
 あれは一体、どこに隠されている。
 小さな子どもが怖いお化けに怯える様に、白い光を打ち震えながら周囲に走らせる。
 彼女はごくりと固くなった唾を飲み込む。心臓の鼓動が何度も激しく胸を叩きつけている。足は竦み上がり、彼女の感情は徐々に恐怖へと追い詰められていく。
 どうしよう。どうしよう。
 もしあれが見つからなかったら、きっと私は――。
 交じり合った負の感情が、蟲が這うように全身に駆けずりまわる。
 焦りにまみれ、下唇を噛みしめたそのとき。とん、と床を蹴る音が聞こえた。
 驚きに見開かれた目で、彼女は猛然と後ろを振り返る。平静を失い、狼狽した彼女の手から懐中電灯が抜けるように滑り落ちた。
 口の隙間から掠れた声が漏れる。そして気を取られたその刹那。
「探し物は見つかりましたか?」
 聞き覚えのある、それでいて濁りのない澄み切った声が暗闇の中に響き渡った。
 彼女はピタリと動きを止める。わずかな沈黙のあと、大きな息の塊を吐き出した彼女は諦めたような、弱弱しい笑みを唇に浮かべた。
 観念した様子でドアの近くまで行った彼女は、躊躇なく壁にあった蛍光管のスイッチを入れる。
 蛍光灯の光に溢れた部屋の中。視線の先には一人の少女が立っていた。その少女は闇に溶けそうなほどの黒髪を腰まで垂らし、澄んだ瞳で真っすぐにこちらを見据えている。
そしてなぜか……学校の制服を身に纏っていた。
「夜に会うのは初めてですね――五日市先生」
 少女、北沢咲が凛とした声で言う。
「……そういえば、そうだな」
 彼女、五日市瑛は苦笑交じりにその言葉に頷いた。




 北沢さんと対峙するようにして立っていた五日市先生が、ふと顔を横に向けた。
「何だ、漆田と新谷も来ていたのか」
 その顔はどこかおかしそうで、少し疲れたような色を浮かべている。
「こんばんは」
 俺は一応、夜の挨拶を返す。先生は返事を返す代わりに、ふっと微笑を漏らした。
 真夜中の図書室に忍び込んでいた五日市先生。
 彼女こそ、今回の幽霊騒動の犯人だ。人目を盗んでは夜な夜な図書室に侵入し、本の配置を何度も入れ替えていた。
「で? 何でお前らがここにいる?」
 夜な夜な図書室に忍び込むという、思わず顔をしかめたくなる行為を繰り返していたのにもかかわらず、彼女は悠然とした態度で構えている。
「せ、先生こそ。ここで何をしているんですか?」
 隣に立つ漆田が、恐る恐る前にいる五日市先生に聞き返した。
「さぁな。ただの夜の散歩だよ」
 しかしながら。五日市先生はその質問をさらりとかわして見せた。明らかに嘘だと分かる言葉。真剣に答える気がないのが一目瞭然だ。
「そ、そうですか……」
 漆田君。君もそこで納得して引きさがるなよ。
 五日市先生は三人の顔を一人一人ゆっくりと眺めてから小さく肩をすくめた。
「でもまぁ、夜の散歩でも図書室に忍び込むことはよくないな。今後は気をつけるよ」
 ここまできて、そんな嘘で白を切りとおせると思っているのだろうか。完全に舐められているな。
「校長先生に告げ口すると言ったらどうします?」
 やけに子供じみた挑発的な態度で北沢さんが五日市先生に向かって行く。詳しくは知らされていないが、彼女の目的はたぶんそこではないはずなのだが。
「あの男が、私に刃向かえると本気で思ってるのか?」
 だが彼女も負けない。切れ長の目をさっと細めた彼女は、世紀の大魔王のような口ぶりで言い返す。というか、彼女は校長先生に一体何をしたのだろうか。俺はそこが気になった。
 北沢さんは一息をこぼすと、さきほどまでの好戦的な態度を綺麗さっぱり流して穏やかな口調で言った。
「別に告げ口するつもりなんてありません。ただ私は、先生のお手伝いをしようと思っただけです」
「手伝いですか?」
 五日市先生の代わりに漆田がおずおずと聞き返した。
 北沢さんは漆田に向き直ると、肯定の意味を込め頷いた。そして彼女は再び五日市先生と対峙する。
「先生、今から今回の幽霊騒動に関する私の推論を述べたいと思います。その話を聞いてから、私たちの手伝いを許すかどうかを決めてください」
 五日市先生は推し量る様な目つきで北沢さんを見つめたあと、静かに告げた。
「……お前の好きにしろ。私はお前の話は終わるまで、ただ突っ立っているだけだがな」
 つまり端から北沢さんの話の内容を認めるつもりはない。だがその話くらいは聞いてやる。そういう意味なのだろう。
「ありがとうございます」
 北沢さんは礼を述べると、構わずに今回の事件の真相を語り始めた。


 彼女は言う。
「今回の事件の発端ですが、夜な夜な図書室に忍び込んでいたのは五日市先生ですね?」
 いきなり北沢さんは切り込んでいく。隣にいる漆田も冷や冷やした面持ちで二人のやり取りを眺めていた。
「さっきも言ったと思うが、私はたまたま図書室に散歩しに来ていただけだ。私がやっていたという証拠はどこにもない」
 どうやら彼女は、そこの一線さえ超すつもりはない様だ。
 北沢さんは小さく嘆息する。
「分かりました」そして彼女は再び真剣な眼差しで先生を見据えた。
「それでは別の質問をします。先生は昔、この図書室に現れていたという幽霊の話を知っていますか?」
 その問いに、先生の眉間にわずかなしわが刻まれる。
「……知らないな」
「本当に知りませんか? 先生が在籍していた頃、とても有名な話だったと聞いていましたが」
 強気な口調で確認するように尋ねる北沢さんにも五日市先生は肩をすくめ、さらりとかわす。
「そんな昔のことはよく覚えていない。もしかしたら聞いたかもしれないが、幽霊の話は覚えていない」
 俺と廊下で会話したときも、確かそんなことを言っていたな。
「そうですか」
 しかしあっさり引き下がった北沢さんは、なぜか顔をこちらに向けた。
「漆田君、幽霊が現れたのは何年前でしたっけ?」
 今度は俺の眉間にしわが刻まれる。どうして今、しかも彼に尋ねるのか。
「えーっと、確か七年前です」
「どうして七年前だと、そう言い切れますか?」
 漆田はその質問に目をしばたかせる。
「何でって……あれ? 何でだろう?」
 必死に顎を捻る漆田を横目で見ながら、俺はあることを思い出した。
そういえば当時、この学校で教師をしていた山田先生でさえ何年前に聞いた話なのか覚えていなかったはずだ。それなのに、漆田は一体どこでその話を聞いたんだ。
 北沢さんは未だ悩ましげに唸っている漆田の姿に目をやってから、五日市先生に向き直った。
「たぶんですが……きっと五日市先生に聞いたのではないですか?」
 その指摘に漆田ははっと顔を上げ、うわ言のようにつぶやいた。
「そういえば……そうかもしれません」
「どういう意味だ?」
 いつ。それもどこで。
話に全くついていけない。俺の戸惑った様子に気がついた北沢さんが、丁寧に教えてくれた。
「新谷さんもご存じの通り、先月の壁新聞の記事は五日市先生に関するものでした。その記事を書く際、漆田君はインタビュー係だったんです。私はそのインタビューの内容をパソコンで打つ係だったので、少し覚えていました」
 俺はすぐに五日市先生に視線を移す。彼女は淡々とした表情で北沢さんを見つめていた。
「新谷さんは知らないかもしれませんが、以前から漆田君は部活動の中で図書室の幽霊話をよくしていたんです。そのときは七年前の幽霊なんて言っていませんでした」
 ですが、と北沢さんの声調が急に引き締まる。
「ある日を境に、急に七年前と言うようになったんです。ちょうどその時期、漆田君は五日市先生にインタビューをしていた頃でした」
 その些細な言葉の変化に気がつくとは。どれほど鋭利な刃物でも、彼女の洞察力の鋭さには敵わないのではないだろうか。
 すると、ただひたすらに傍観者に徹していた五日市先生が微笑を吐いた。
「仮にそうだとして。私がそれを言った証拠はないだろう。パソコンだと好きなように書き換えられるからな」
 そこを突かれたら身も蓋もない。何しろ言われた本人でさえ、今の今まで気がついていなかったのだから。
 しかし。
「ありますよ」北沢さんは、あっさりとその壁を崩した。
 俺は驚きに見開かれた目で北沢さんの横顔を凝視し、彼女に問いかけた。
「どこにあるの?」
 五日市先生も懐疑に満ちた眼差しで彼女を見据えている。
 北沢さんは一同の視線を受けながら、ゆっくりとこちらを振り向き、そのまま目線を下に落とした。その視線の先にあったのは……漆田のポケットだった。
 皆の視線に少し遅れて気がついた漆田が、慌ててズボンのポッケに目を落とす。
「えっ? 僕のポッケ……あっ!」
 そっか、と何やら思いだした様子の声を上げながら、漆田は制服のポケットからある機器を取り出した。
「これですね!」
 そして嬉々とした声色とともに漆田が掲げたのは、一台のボイスレコーダーだった。
 俺は漆田が高々と掲げているボイスレコーダーから視線を外し、五日市先生の方へと顔を向けた。
「……」
 冷静な顔つきは変わっていなかったが、その瞳の奥には焦りの色がはっきりと浮かんでいるのが分かる。
「漆田君、それを少し拝借してもいいですか」
「はい!」
 漆田は嬉しそうに返事をすると、北沢さんの元へ駆け寄り、シルバーの小型録音機器を彼女に手渡した。
 不慣れな動作でそのボイスレコーダーを操作しながら、北沢さんは一人言のようにつぶやいた。
「……そういえば、先生は新谷さんに幽霊の話は聞いたことがないと言っていたようですが……」
 北沢さんは、そこで話を区切るとボイスレコーダーを耳に近付けた。そしてそれを離しては操作して、また耳に近付ける動作を繰り返して数回。静寂が図書室の部屋に包み込むなか、ボイスレコーダーから男女二人の会話が流れてきた。
『――えっ、先生ってこの学校の卒業生だったんですか?』
 少し聞こえずらかったが、たぶんこの声は漆田のものだ。
『……そうだ。言ったことなかったか?』
 このけだるそうな口調は間違いなく先生のものである。
『ありませんよー。そうだ、先生! 一つ聞きたいことがあります』
 俺はその会話を耳に入れながら、自然と笑みをこぼしていた。これは俺が知らない新聞部だ。まだ俺が東京の高校に通っていた頃の彼らの姿――。
 漆田が興奮を抑えた声音で問う。
『先生は、昔この学校の図書室に現れていた幽霊の噂、聞いたことありませんか?』
 三秒ほどの沈黙のあと。
『……知らないな、そんな話。……第一、そんな七年前のことなんて覚えていないよ』
 七年前。彼女ははっきりとそう言っていた。
 北沢さんが静かにボタンを押してスイッチを切ると、再び図書室に静寂が訪れた。
「……先生は確かに七年前だと。そう言っています。そしてこの時、幽霊の話を聞いているにも関わらず、新谷さんにはそんな話は聞いたことがないと言っています」
 つまり五日市先生は……本当は知っていた話を、わざと知らない振りをして、その事実を隠していたということになる。ということはもしかして……。俺の胸裏に、一つの考えが浮かび上がった。
固くなった唾を呑みこみ、俺は今さっき思い浮かんだ考えを恐る恐る口にした。
「もしかして先生は、幽霊の正体を知っていた……?」
 それもつい最近ではなく、ずっと昔から。
 そう、彼女は幽霊が現れた七年前の時点で、すでにその正体を知っていたのだ。
「たぶんそうでしょう。先生は幽霊の本当の正体を知っていました。だからこそ、あえてその幽霊の噂を知らないふりをしていたんです」
「でも、何でそこまでして知らないふりにこだわったんですか? 別に無理して知らないふりをする必要なんてないと思いますけど……」
 漆田が腑に落ちない声色でつぶやいた。
 彼の疑問も分かる。たとえ幽霊の正体を知っていたとしても、その事実を隠しながら適当に周りに合わせていれば良いだけの話だ。徹底して知らないふりをする必要もないだろう。無理して突き通すから、このように辻妻が合わなくなり話が破綻してしまったのだ。
「これはあくまで予想ですが……先生は嘘を吐くことに耐えられなくなったのではないでしょうか」
「……と、いいますと?」
 北沢さんはこちらに顔を向け、苦笑交じりに言った。
「上手に嘘を吐けるほど、先生は器用な性格ではなかったということです」
 ほう、なるほどね。俺は北沢さんが言った言葉の意味を、漠然と理解した。
 幽霊の正体を知っている彼女。
聞いたことがあるけど一体何なのだろうね、と話すのと。
 そんな話は聞いたこともない、と端から突っぱねるのと。
 器用な人間なら確実に前者を選ぶだろう。だけど嘘が下手な人間は、最初は前者を選んでいても徐々に後者のようになってしまうのではないだろうか。
 ずっと嘘を吐き続けることは思っている以上に心が疲弊していくものだ。器用な人間はその感情さえコントロールできるが、不器用な人間の心は疲弊していくばかり。そしていつしか嘘と真実の境界線が曖昧になり、彼女……五日市先生のように綻びが出始める。
 七年前。
 彼女も意識していなかった真実が、知らず知らずの内に口に出てしまっていたように。
「じゃあ……先生が七年前の幽霊の正体なんですか?」
 漆田がまるで幽霊でも目の当たりにして様な表情で五日市先生の姿を見つめる。
「ま、それしか考えられないだろうな」
他に誰がいるのだ。別の角度から事実を見れば、当時この学校に通っていた五日市先生だからこそ、あの秘密の出入り口を発見することができたのだとも言える。
「お前たちが……新聞部だということをすっかり忘れていたよ。してやられたな」
 ふいに、五日市先生がつぶやいた。彼女は反抗する気力をすっかりなくしたように息を吐き出す。
 これは認めた、ということでいいのか。
 だが北沢さんは――それを真っ向から否定した。
「いえ、幽霊の正体は五日市先生ではありません」
 俺と漆田はその発言に目を瞬く。五日市先生も不審そうな眼差しで彼女を凝視する。
「でも、他に誰がいるの?」
 北沢さんはチラリとこちらを一瞥してから、迷いのない力強い瞳で語り始める。
「もし仮に、五日市先生が幽霊の正体だとしたらいくつか矛盾する点があります」
「矛盾……ですか?」
 彼女は真剣な眼差しをこちらに向け「はい」とわずかに首を縦に動かす。
「七年前、あまりに多くの生徒が幽霊を目撃したため校長先生が近所の神社にお祓いを頼んだといっていました。ですが、先生が幽霊の正体であったらそこまで話が大きくなるでしょうか。私はとても疑問に思ってしまいます」
 あぁ――確かに。彼女の指摘はその通りで、思いこんでた俺の真っ向から結論を貫いた。
「先生は当時、この学校の生徒でした。幽霊を目撃した人の中にはもちろん、先生の顔を知っていた人もいたでしょう。もし彼らが先生の姿を目撃したら……果たして幽霊だと思うでしょうか?」
 北沢さんは顔を横に向け、俺の視線をしっかりと捉えた。
「新谷さん。七年前、私たちが初めて出会ったときのことを思い出してください。どうしてあなたは私のことを幽霊だと愚かな勘違いをしましたか?」
 一言余計だとは思ったが、そのことにはあえて突っ込まず。俺は大人しく七年前のトラウマを記憶の中から掘り起こすことにした。
 初めてトイレで北沢さんと遭遇したとき。どうして俺はあんなにも驚いたのか。
 それはもちろん彼女を幽霊だと思ったから。しかし彼女が指摘している部分は、それ以前のことだと思われる。
 そう、どうして俺は彼女を幽霊だと思い込んだのか。
 もやもやとした霧が立ち込めていた俺の頭の中が、徐々に晴れていく。
 つかの間の沈黙を経て、北沢さんが尋ねる。
「突然だったから」
「うん」
「初めて見る顔だったから」
「うん」
「そして……夜だったから」
 俺はごくりと唾を飲み込みながら頷く。あのときの状況が全て当てはまる。
 強張った俺の顔を静かな眼差しで見据えてから、北沢さんがゆっくりと口を開く。
「そうですね……幽霊の条件とでも言っておきましょうか。夜中に知らない人に、しかも夜の学校という状況下でいきなり遭遇したら幽霊と思ってしまっても仕方がないと思います。ですがこの場合、本当に先生が七年前に夜な夜な図書室に忍び込んでいた犯人だったら、先生を幽霊だと勘違いした人は多くはなかったはずです。仮に勘違いした人がいたとしても、どこかで先生が幽霊の正体であるという噂が流れたはずですから」
 その事実を丁寧に辿っていけば、やはり神社にお祓いを頼むところまではさすがにならないだろう。生徒たちの間でもかなり大きな話題になっていたらしいからな。
「あっ……もしかして」
 漆田が急に何かを察したような声を上げる。
「何だ、いきなり」
 訝しんだ表情で、俺は漆田の横顔に目をやる。彼はこちらに顔を向けると、次いで北沢さんに視線を移す。
「そういえば、中学生がこの学校の図書室で幽霊を見た、という噂がありました。それって、もしかして五日市先生のことを全く知らない中学生が夜に先生を見て勘違いをしたということですか?」
 確かに、そんな話を月曜日かその辺りに聞いた気がする。
「たぶんそうでしょう。五日市先生が夜中に学校をうろついていても、この学校の生徒なら幽霊とは勘違いしないでしょうが、その中学生たちなら勘違いをしても仕方がありません。なにしろ彼らは先生のことを全く知らないんですから」
 そう言って、北沢さんは淡々とした眼差しでその張本人を見やる。
「そしてもう一つ、矛盾する点があります」
「まだあるのか」
 五日市先生がおかしそうに唇を歪める。この状況をどこか楽しんでいるようにも見えた。
「確か先生は帰宅部で委員会にも所属していなかったはずです。なのに、どうやってあの出入り口を見つけたのでしょうか。部長のお姉様は、真夜中にあの出入り口を使っていました。先生がそんな夜遅くに学校に来る機会があったとは思えません」
 ……そんなところにも矛盾点があったとは。指摘されて初めて気がついた。
「そこまで言うのなら、北沢はその幽霊の正体か分かっているのか?」
 北沢さんはわずかに視線をずらし、じっと五日市先生の表情を見つめた。彼女の静かな眼差しが五日市先生を捉える。
「先生には確か、身体が弱かった妹さんがいらっしゃいましたね? それも私の記憶が正しければ双子の妹さんです」
 双子?
 それは初めて耳にする事実だ。
 俺が面を食らっている目の先で、柔らかな微笑を口元に漂わせながら先生は頷く。
「お前の記憶は正しい、間違っていない。私には双子の妹がいた」
 だけど俺の記憶が正しければ妹さんはもう……。どういう思惑で彼女はこの話を持ち出したのだろう。俺は懸念を含ませた視線を北沢さんに送った。
「ここからは、本当に私の推論に過ぎません」
 北沢さんは端然と、だけど丁寧に言葉を繋いでいく。
「七年前にこの場所に現れた噂の幽霊。その幽霊はこの学校の制服を着ていたそうです。そしてこの学校の生徒が誰一人として知らなかったという幽霊の条件に当てはめることができ、なおかつ先生がその正体を知り得ることができた人物――」
 そして北沢さんの黒い双眸が五日市先生に向けられる。
「――私は、その人物が先生の妹さんであったのではないかと推測します」




「先生の……妹?」
 困惑の色を交えた漆田の声が、静まり返った図書室に響き渡る。かくゆう俺も戸惑いの表情を隠せていなかった。
 だが北沢さんは冷静な面持ちで頷いた。
「はい。先生の妹さんは病弱で学校に通うことができなかったそうです。ですが夜中に家を飛び出し図書室に忍び込むことくらいはできていたのではないでしょうか。ですが当然彼女の顔を知っている人はいなかった。そんな彼女が真夜中の図書室をうろうろしているところをこの学校の生徒に目撃されたら……幽霊だと勘違いする人がいてもおかしくありません」
 これもあくまで推論ですが。彼女はそう前置きしてから言う。
「先生の妹さんは夜中に家を抜けだしてこの学校に訪れていたとき、たまたま部長のお姉様が秘密の出入り口を使っていたところを目撃した可能性はあります。いえ……たぶんそうだったのでしょう。だからこそ彼女は図書室に忍び込むことができたのだと思います」
 それはきっと、五日市先生にはできなかったこと。だけど夜中に家を抜けだし、この学校に遊びに来ていた妹さんなら、部長のお姉さんが秘密の出入り口をこっそり使っていた場面も目撃することもできた。そして、その話を聞いていたから、先生もこの秘密の出入り口を知ることができた。
「ということは……先生は双子だけど二人とも顔は似ていなかったってことですか?」
 漆田が小首を傾げながら北沢さんに尋ねた。
「はい。一卵性ではなくて二卵性の双子だったのでしょう」
 だったのでしょう。
ということは、北沢さんもそこまで詳しい事実は知らないのか。
「先生。ここまでが私の推論です。どうですか?」
 北沢さんが確認するように問う。 ややあってから、五日市先生の溜息が沈黙を破った。
「……やっぱり北沢は北沢だな」
 先生は顔を上げる。そこには呆れるような微笑があった。
その顔を見て、彼女がようやく観念するのかと俺は思った。しかし予想に反し、先生はその唇にいたずらっぽい笑みを浮かべた。
「だが――まだ足りないな。今の話だと、私の幽霊の正体が私の妹だったことを解き明かしただけだ。私が夜な夜なこの図書室に忍び込んでいたという証拠はない。それを証明できなければ私は何も言わずに立ち去るかもしれないぞ」
 ここまで来ると、彼女が北沢さんで遊んでいるようにしかみえない。その様子から先生も半分以上は観念していると思うのだが。
「そうですね……まず、先生が夜な夜な図書室に忍び込んでいた証拠ですが……」
北沢さんは小さく一息吐き出すと、変わらぬ真剣な瞳で先生を見つめた。
「昨日、新聞部が掃除を頼まれてみんなで西校舎の端にある部屋を掃除していましたよね。そのとき、清水がいきなり推理ゲームを始めたことを覚えていますか?」
 あぁ、あの火曜サスペンスドラマの犯人をみんなで考えていたときのことか。
「そのとき、先生は私に犯人は誰だと思うか聞きましたね?」
「そういえば……確かに聞いたな」
 それは俺も覚えている。先生は早く掃除を終わらせたくて彼女に話を振ったはずだ。
「でも、それは少しおかしいんです」
「おかしい? どこが?」
 俺は怪訝そうに眉を寄せ、北沢さんに訊き返す。今の話の中に、どこかにおかしな点があっただろうか。
 ふいに北沢さんが鋭い視線を俺に投げかける。
「それはたぶん、新谷さんだからそう思うんです。よく思い出してください。一昨日の夜に何があったのかを」
 ……一昨日といえば火曜日か。火曜日の夜は確か漆田と二人で夜の図書室に行って――。
 俺はそこまで考えて、ハッとする。
そうだ――あのとき彼女も図書室に途中からやって来た。そして俺たちは一緒に家まで帰ったのだ。
「思い出したみたいですね」
 北沢さんは心なしか満足そうに頷いてから、もう一度、五日市先生に視線を移した。
「そうです。私も途中から図書室に行きました。そして三人で一緒に図書室を出たはずです。漆田君、新谷さんは見ていないとあの場ではっきり言っていましたが、私は一言もそんなことは言っていません。それなのに、どうして先生は私に犯人が誰なのか聞いたんですか? 私が推理物好きだということを知っていたにも関わらず、まるで私が見ていないことを前提に」
 そうだ。あのとき北沢さんは自分が推理物好きだということを言っていた。
なのに先生はどうして北沢さんがドラマの犯人を知らないと思ったのか。
いや、違うな。そのドラマ自体を見ていないだろうと勝手に思い込んだのか、と言った方が正しいな。
 頭の中に散らばっていた憶測が一つに重なろうとしたところで、北沢さんが言う。
「先生は私たちがあの窓から出るところをこっそりと見ていたんです、だから私があの時間帯のドラマは見ていないだろう、と思い込んでしまっていた」
 これまでの話から繋げると、それは一昨日の夜に先生が図書室に忍び込んでいた証明に他ならない。物的証拠はなくても、これは言い訳できない事実だ。
「……無意識だったよ。そこに気がつくとはな」
 そう言って五日市先生は小さく笑う。そして彼女は、今度こそお手上げというように話を締めた。
「認めるよ。お前の言う通り、私が真夜中の図書室に忍び込んでいた犯人だ」
 俺は漆田と一度、視線を交わし、それから北沢さんの横顔を見やった。先生が事実を認めたのでようやく話が進みそうだが、さて、どうやって進めていくつもりだろう。
 五日市先生は口端をニッと上げ、北沢さんに問う。
「それで北沢。私の手伝いがしたいと言っていたが、私が何のために夜な夜な図書室に忍び込んでいたのか分かるのか?」
 どこか挑発的にも見える先生の態度に、俺の胸中に少しの懸念が生まれる。
 ――いや、大丈夫だ。俺はかぶりを振る。彼女……北沢さんなら絶対に分かっている。その事実まで必ず辿り着いているはずだ。そう思った途端、緊張の糸が解けていった。
 そして北沢さんは揺らぎのない眼差しで五日市先生を見つめる。
「はい、分かっています」
 彼女はそう告げると、おもむろにポッケの中に手を入れ、一枚の写真を取り出した。俺は目を凝らして注視する。その写真には綺麗に本棚に並べられた本の背表紙が映っていた。確かあれは、本の配置がどのように変わっているのか確認するために北沢さん、そして漆田が撮った写真のはずだ。
「その写真、僕が撮った……」
 漆田も気がついた様で、目をぱちくりさせながら写真に目をやる。
「それは一体なんだ?」
 五日市先生が怪訝そうな顔つきで北沢さんに質問する。そうだった。彼女は新聞部の顧問だが、俺たちの活動の内容を全て把握しているわけではないのだ。
「五日市先生は知らないと思いますが、今私たちがここにいるのは漆田君が本の配置が不自然に変わっていることの気がついたのが事の発端です。その本の配置がどのように変わっているのか、それを確かめるために撮ったものがこれなんです」
 北沢さんが丁寧に五日市先生に説明する。
 すると五日市先生は……なぜか困惑しきった色を浮かべた。
「……本の配置が変わってる? なんのことだ?」
 俺はその言葉に違和感を覚える。もしかして五日市先生は本の配置が変わっていることに気がついていないのだろうか。となれば、彼女はわざと本を移動させたわけではないということになる。
「先生が本をわざと移動させていたんじゃないんですか?」
 傍らに立つ漆田も戸惑い気味に言葉を募った。
 しかし五日市先生はきっぱりと否定する。
「本をわざと移動させる? 私はそんなことはしていない」
「えっ? そんなっ――!」
 思いもよらぬ言葉に、漆田が驚きを隠しきれない顔になる。
 しかしながら俺は先生の言葉を聞き、どこか腑に落ちるものがあった。先生は本の配置をわざと移動させるという幼稚ないたずらは絶対にしないだろう。まだ短い付き合いだが、それは確信を持って言える。
「お前らは、その本の配置をわざと移動させていたのは誰なのかを調べていたのか?」
 五日市先生が心底呆れ果てた様子で言う。
 そして。
「暇だな」
 きっと本心から出たであろう言葉を続けて口にする。あえて否定はしないが、その言葉を顧問の先生から聞くことになるとは思わなかった。
「でもだったら! 先生じゃなかったら一体誰が本の配置を……」
 漆田の声が除々にしぼみ、口の中で消えていく。
 ここで行き詰まるのか。漆田も俺と同じ思いを抱いたのだろう。人一倍この事件に興味を抱いていた彼だ。俺以上に落胆したはずだ。
 だが、停滞した空気を彼女――北沢さんが動かし始める。
「いえ、本の配置を移動させていたのは紛れもなく五日市先生です」
 その発言に、三人の視線が一斉に彼女の顔に注がれる。
「何を言っているんだ? 当の本人がやっていないといっているんだぞ」
 先生はどこか心外そうに顔をしかめる。自分の言葉を信用していないのか。もしかしたら彼女は北沢さんに対してそう思ったのかもしれない。
 北沢さんは、しかし落ち着き払った態度で続ける。
「言葉が足りませんでしたね。やったのは先生です。けど先生は気がついていなかったんです」
「……気がついていない?」
 当惑した声色で聞き返す先生に、北沢さんは「はい」と小さく頷いた。
「まずこの写真から分かったことは三つです。本の配置が変わっていたのは真ん中と下の方だけということ。一定の区間だけということ。そしてもう一つは、本の配置が綺麗に反転していたこと」
「反転?」
 どういう意味だ。五日市先生の表情はそう訴えていた。
「そうですね。例えば一定の区間、十冊の本の配置が変わっていたとしましょう。でもそれはランダムに変わっていたわけではなく、後ろから前へ一冊ずつ入れ直していったように綺麗に反転していたんです」
 今まで戸惑いの表情を浮かべていた五日市先生の顔が、その説明を受けた瞬間、ハッとする。
 北沢さんがその反応を静かな視線で眺めているなか、俺は彼女に向かって思い切って話しかけた。
「北沢さんは、どうして反転になっていたのか分かるの?」
 すると彼女はゆっくりとこちらに顔を向ける。
「どうして反転になった……というよりは、どうすれば反転になるのか、と言った方がいいでしょうね」
 どうすれば反転になる? 何だかますます訳が分からなくなってきた。
「もしかして……もしかすると!」
 すると隣に立っていた漆田が何やら一人でつぶやいたかと思いきや、急に早足で本棚へ向かって歩いて行った。彼はこちらに背を向けて膝をつき、一定の区間……八冊の本を一気に取り出す。そしてその本の束を床に一冊一冊、重ねていくように置いた。
 綺麗に本を積み重ねた漆田は、がっと顔を勢いよく振り返る。
「新谷君、見ててください!」
 そう言って、彼は瞳を輝かせながら俺を見つめる。その姿はまるで小学生が授業参観日に教室の後ろに立っている親の姿をそわそわしながら確認している姿に酷似していた。
 見てる見てる。だから口ではなく手を動かせ。
 俺の無言のメッセージが届いたのかどうか分からないが、漆田は一人満足そうに頷くと、一番上にある本から一冊ずつ本棚に戻し始めた。そして彼は最後まで本を入れ直してから、おもむろにその場に立ちあがる。
 入れ直した本の並びを見つめ、俺はあることに気がついた。
「……本の配置が変わってる」
 そう、見事に反転していたのだ。
 俺は視線を漆田の達成感に溢れた顔に移す。彼は俺の視線を受け止めると、意気揚々と説明しだした。
「そうです。一番前にある本から床に一冊ずつ重ねていく。そして戻すときは一番上にある本からまた入れ直せば反転するんですよ。どういう意味だか分かりますか?」
「分からん」
 俺は正直にはっきり答える。ここで虚勢を張っても仕方がなかろう。
「つまりですね、先生は床に座って一定区間の本を取り出し床に重ねた。そして気づかない内に反転してしまうように本を入れ直していたんです」
 俺は頭を捻る。たぶんこの場で真実に辿りついていないのは俺だけだ。
 そうだな、もし俺が床に座り、一定区間の本を取り出して床に重ねたとしよう。そして上から一冊ずつ入れ直していく。その過程で俺がすることといえば……。
「一冊一冊、本の中身を見ていたのか……?」
 俺は確信が持てず、北沢さんに視線を向ける。
 彼女は俺の眼差しを受け止め、こくんと小さく首を折る。
「私もそのように推理しました。真ん中より上の本の配置が変わっていなかったのは、一気に何冊もの本を取り出して床に置けなかったから。それ以外、考えられません」
「でも何で本の内容を一冊一冊確認するなんて面倒なことを」
 漆田が悩ましげに首を傾げる。さすがにそこまでは考えが至らなかったようだ。
 俺は思い出す。そういえば、北沢さんはさっき先生に対して「探し物は見つかりましたか」と話していた。
「探し物をしていた、のか」
 たぶん、その探し物は本の中にあるのだ。だから先生は図書室にある本の内容を一冊一冊確かめていた。
「それもきっと、妹さんがこの図書室に隠したものでしょう」
「妹さん? どうしてそう思うんですか?」
 漆田がこちらに歩み寄りながら北沢さんに向かって疑問をぶつける。
「それは私も聞きたいな。なぜ私の妹が図書室に何か隠したのだと言い切れる?」
 五日市先生も漆田に便乗するように質問を投げかける。
「本の配置が変わるようになったのは、およそ二週間前です。ですが、きっと先生はその前から時間を見つけては本の内容を確かめていたのでしょう。そのときは夜に忍び込むなんてことはせず、普通に図書室へ行っていたのだと思います」
ですが、北沢さんの声音が急に厳しくなる。
「ある日を境に、その頻度は増して行き、そして最終的にはそんな悠長なことをいっていることはできなくなりました」
「ある日を境に、ですか?」
 漆田が不審そうな視線を北沢さんに送る。
「はい、ですがそれは漆田君がよく知っているはずです」
 思わぬ指摘に、漆田がわずかに狼狽する。
「ぼ、僕が知ってるんですか? えっ、一体なんだろう……」
 難しい顔で唸っていた漆田だったが、突然「あっ!」と思い出したように声を張りあげた。
「もしかして、図書室の改修工事のことですか?」
 彼はそう言うと、嬉々とした顔を北沢さんに向けた。
「そうです。図書室の改修工事には、本棚の新しく替えるほかに、古くなった一部の本を市の図書館に寄付する、というものも含まれているそうです。ですがその事実はほとんどの生徒が知らないと思います。現に私も担任の先生からは図書室の改修をして本棚を新しい物に替える、ということくらいしか知らされていません。だから古くなった一部の本を寄付することは全く知りませんでした」
 そして漆田がその事実を知っていたのは、彼が熱心な図書委員会だったからだろう。彼のようにその事実を知っていた図書委員はごく少数だと思われる。
「彼は図書委員会ですからそのことを知っているのも頷けます。ですがほとんどの生徒はその事実を知りません。他にその事実を知ることができる人物は……たぶんこの学校の先生だけです」
 きっと朝の職員会議でその事実が話されたはずだ。だからこそ、北沢さん、そして清水さんもその図書室の改修工事について担任の先生から聞かされた。だがその先生は、本の寄贈については特に重要ではないと思い、あるいは面倒だったため話さなかったのだろう。
 北沢さんは続ける。
「仮に図書室の本の中にその探し物があるとして。その事実を職員会議で知った先生は、とても焦った。何しろ急いで見つけなければ、寄付する本の中に探し物があったら大変ですからね。だからこそ先生は合間をぬって昼間に見つけるのではなく、誰もいない夜の図書室に忍び込み一気に探そうと思った。ですがその過程で少し疲れてしまった先生は床に座り込み、一定の区間の本を取り出して床の上に置いた。そして知らず知らずの内に本の並びを反転させるよう入れ直していたんです」
 懐中電灯の灯りだけでは、暗闇にまぎれている本の配置なんてよく見えていなかっただろう。それにそんなに焦っていたのなら本の配置をいちいち気にも留めないはずだ。
 だが……そんな中、一つだけ釈然としない思いを抱く。
「先生の探し物が、妹さんが隠した物だっていう理由は?」
 今の説明では、そこの部分が抜けている。
 北沢さんは俺に視線をやると、めったに見せない……というか初めて見せる小さな微笑を浮かべた。
「理由はありません。そうですね……ただの勘です」
 勘?
 俺の顔がみるみる内に間の抜けたものへと変わっていく。
「最後の最後に落としてきたな。ここに来て勘、か」
 五日市先生が溜息交じりにつぶやく。呆れてものも言えないという風情だ。
 しかし北沢さんは、微笑を崩すことなく続けた。
「しいて言うなら、先生がそんなに一生懸命になるのは妹さんのことくらいなのではないかと思いました」
 その指摘に、俺はどこか納得した想いを抱く。確かに五日市先生は自分がそこまで就きたくなかったにもかかわらず、妹さんがなりたかった職業というだけで教師になったのだ。どこかズレているように見えても、そこにあるのは紛れもなく強い想いだ。
 彼女はそれに、とおかしそうな声色で言った。
「夜中に家から抜け出して先生の制服を着ながら学校に忍び込むくらいです。私の仮説が正しければ、きっと妹さんは茶目っけがあり、いたずら好きの方だったのでしょう。なのでもしかしたら、と思ったんですよ」
 だとすれば、先生とは正反対の性格をしていたのか。もし五日市先生がその妹さんの立場であったら、決してそんなことはしないはずだ。
 俺は北沢さん、そして五日市先生へと視線をくれた。彼女は息を小さく吐き出すと―わずかに微笑んだ。
「呆れた推論だな。だが……妹が昔、図書室に隠した物を私が探している。それは間違っていないよ」
 そして先生はついに認めたのだった。


「それじゃあ、私たちがそのお手伝いをすることに関しては許してくれますね?」
 北沢さんがさっそく五日市先生に向かって切り出した。
「好きにしろ。とはいっても、こんなことをするのも今日で最後だがな」
 明日には改修工事が始まってしまう。それを区切りにして、彼女は妹さんが隠した物を探す行為を止めようとしているのだろう。
「先生、一つ聞いていいですか?」
 五日市先生が淡々とした表情を漆田に向ける。
「その隠し物って一体何ですか? いえっ、それを今、探していることは分かっているんですけど……つまりですね……その探し物は本の中に挟まっているんですか? それとも本の中に書かれているメッセージか何かですか?」
 そりゃそうだ。それがどのような物なのかがはっきりと分からなければ、こっちとしても探し様がない。
 先生はドアの近くにあるカウンターに歩み寄ると、その上に乗せられていた黒いバックから一冊のノートを取り出した。
「何ですか、それ」
 俺が尋ねると、先生は少しだけ躊躇うようにして答える。
「これは……妹の日記だ。あいつが亡くなった後、部屋の中で偶然見つけたんだ。見てはいけないと思ったが、色々事情があったものだから、つい見てしまった」
「事情?」
 北沢さんが、訝しげに眉を寄せる。
「あぁ」先生は憂いを帯びた表情でそう頷いてから、ゆっくりと語り始めた。
「あいつが亡くなる一週間前、私は彼女とケンカをしたんだ。私たちは生まれたときから喧嘩なんてほとんどしたことなかった。だけどその日はどうしたことか、ちょっとしたことで大喧嘩をしたんだ……だからかな。互いに謝ることもできず、口も一切聞かなかった……」
 先生の顔が少しずつ苦悶に歪んでいく。
「謝ればよかったんだ。だけど私も彼女も意地を張って、その一言が言いだせなかった。そうしている間にも彼女の容体は急に悪化して……そのまま亡くなった」
 先生はぎゅっと握っていた拳を突然緩め、どこか寂しげに俺たちに微笑みかけた。
「世の中って本当に上手くいかないものだな。それに神様も意地悪だ。こんな風に悲しいことばかりを私たちに押しつける」
 ――あぁ、そうか。
 俺は彼女の話を聞きながら思った。
 五日市先生は、ずっと悲しい想いを密かに抱きながら――そして後悔に苛まれながら毎日を過ごしてきたのだ。
 ごめんね、と謝ることは彼女のなかでは簡単なことだった。ただほんの些細な意地が邪魔していただけ。
だからこそ。
彼女の後悔はとても重い。
 簡単だったからこそ、その分心を強く蝕む。自分が悪いと分かっているのに、思わず神様に八つ当たりしてしまうくらいに。先生はその後悔にずっと傷ついてきた。
 俺には先生と妹さんがどのような関係だったのかなんて知らない。どんな風に互いを呼びあっていたのかも分からない。だが、亡くなった人の姿を追いかけ続けることは、きっと悲しいことなのは分かる。
 だってもう、その人に触れることすらできないのだから。
 先生は言う。
「そんなこともあって、私は彼女が生前書いていた日記の中身を見てしまった。その中で知ったんだ、あの図書室の出入り口のことを。ある日、たまたま女の生徒を目撃し着いていったらあの窓を使っているところを見たんだとさ。その人はとても綺麗な人だと書いていたよ。だからきっとお前たちの言う通り、その人は木崎の姉だったのかもしれないな」
 木崎……聞き慣れない名前に俺は首を傾げようとして、そこでその名前が部長のことを指していることに思い付いた。
「それじゃあ、その日記の中にこの学校の図書室に隠した、ってそう書かれていたんですか?」
 漆田が恐る恐る五日市先生に尋ねる。
 彼女はふいと視線を横に移すと、悲痛が入り混じった視線で図書室の光景を眺めた。
「あぁ、そうだ。私と喧嘩をした次の日。この図書室である物を見つけた。そして、そのある物を仲直りの証として私に見せたい、だが今はケンカして無理だから後で見たいと思う。それまで図書室に隠しておく、と……そう日記に書かれていた」
 だけど――それを先生に見せて仲直りする前に、彼女は亡くなってしまった。
 最後に願った、小さな望みも叶えられぬまま。
 仲直りくらい、させてあげてもよかったのに。ごめんね、と一言くらい言わせてあげてもよかったのに。
 本当に悲しくて。本当に神様は――いじわるだ。
 先生はこちらに視線を戻し、苦しそうに眉を寄せた。
「その日記の内容を読んでから、私はずっと探し続けている。だがいくら探しても見つからないんだ。きっと見ればすぐに分かる。絶対に」
 そうか。俺は切実な彼女の想いの形をやっと理解した。
 彼女は――五日市先生は――妹さんとどうしても仲直りがしたいのだ。その妹さんがこの世を去ってからもなお、先生はそれだけを望んでいた。
 本当はごめんね、と謝れば済むことだ。だがそれでは納得できない。その仲直りの証を自分の目で確かめなければ、彼女は自分を許すことができないのだ。
「だから――」
 ふいに北沢さんの澄みきった声が夜の図書室に響く。
 俺は、そして漆田、五日市先生もまるで惹きつけられるように自然と彼女の方へ顔を向けていた。
 北沢さんは黒い瞳で三人の視線を受け止め、告げた。
「だから私たちは手伝いに来たんです。一緒にその隠し物を探しましょう」
 優しく、だけどとても力強いその声に、五日市先生は静かな微笑を頬に浮かべた。

この小説について

タイトル 不器用な団欒者たち
初版 2014年12月30日
改訂 2014年12月30日
小説ID 4622
閲覧数 394
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雪奈の写真
駆け出し
作家名 ★雪奈
作家ID 899
投稿数 5
★の数 0
活動度 475

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