不器用な団欒者たち



「これもハズレ、か」
 俺は片手に持った本を乾いた音と一緒に閉じる。投げやりな手つきで本を元の場所に入れ直し、盛大な溜息を吐いた。かれこれ一時間は、この動作の繰り返しだった。いくら探しても探し物は一向に出てこない。
 思い切って隣で俺と同じような動作を繰り返している五日市先生に尋ねた。
「先生、本当に本の中にあるんですか? もしかして本棚の奥とかに隠してあったりするんじゃないですか?」
 先生は無駄のない動作で本を元の場所に戻すと、こちらに一瞥もくれずに言う。
「それは私ももちろん考えた。だが、残念ながらなかったよ。だから考えられる可能性は本の中だけだ」
 俺は「そうですか」と釈然していない口ぶりで答え、再び作業に取り掛かった。五回ほど同じ動作を繰り返したところで、隣から五日市先生の声が聞こえた。
「……まぁ確かに、探しているときは今みたいに明るくなかったから、見過ごしている可能性はあるかもしれない」
 彼女の横顔は難しい表情で覆われていた。
「だったらもう一度探してみましょうよ。本は一部しかなくなりませんけど、本棚は全部新しい物と変わってしまうんですから」
 先生はじっと俺の顔を真剣な眼差しで見つめ、それから小さく嘆息した。
「そうだな。お前の言う通りだ」
 先生は素直に頷くと、目の前にある本をごっそりと取り出し、崩さない様にゆっくりと床に置いた。俺も慌ててその作業に入ろうとしたところで、ふと考える。二人でやるには少しばかり戦力不足な気がするな。俺は一度手を止め、別の本棚で探し物をしている人物の名前を叫んだ。
「漆田―! ちょっとこっちに来い!」
 間を空けずに、漆田が不思議そうな顔と一緒に姿を現した。
「何ですか?」
「今から本棚の奥にある部分を重点的に探していく。お前も手伝え」
「えぇ! 全部ですか!?」
「そうだ。いいからやるぞ」
 有無を言わさぬ態度で俺は漆田を促した。彼は納得していない面持ちで俺と先生の姿を交互に眺めていたが、しばらくして諦めたのか、大人しく手を動かし始めた。
 三人が無言のまま作業に取り組むなかで、俺はもう一人、別の人物の存在を思い出した。
「というか、北沢さんは何やってるんだ?」
 さきほどから姿が全く見えない黒髪の少女のことを、漆田に尋ねる。
 漆田は本棚から本をごっそりと取り出し、床に重ねながら言った。
「北沢さんですか? 彼女ならテーブルに座りながら日記を読んでいます」
「日記を読んでる?」
 もしかして疲れたから休んでいるのだろうか。ま、あまり体力がある方には見えないからな。俺は小さく嘆息して、漆田に告げた。
「ちょっと様子を見てくる」




「北沢さん、もしかして疲れた?」
 テーブルに座りながら日記を読んでいる彼女に、俺は近づきながら声をかける。
 北沢さんは日記から目を離し、わずかに視線を上げた。彼女は俺の存在をみとめると、小さくかぶりを振る。
「いえ、そういうわけではありません。少し気になったことがあって日記を読み直していました」
「気になること?」
 はい、と北沢さんは頷きながら、再び日記に目を落とした。
「さきほどの先生が言った言葉なのですが、ちょっと曖昧過ぎだと思いませんでしたか?」
 曖昧過ぎ?
「そんなこと思わなかったけど……」
 というか、どの言葉を指しているのかさえ俺には分からない。
 北沢さんは日記のページをゆっくりと一枚一枚めくりながら言う。
「先生はこう言いました。ある物を仲直りの証として自分に見せたい、ですが今はケンカをしていて無理だから後で見たいと思う。それまで図書室に隠しておく、と」
「それが曖昧だって言うの?」
 どこも曖昧だとは思わないが。
 しかし北沢さんは毅然とした口調で言い返す。
「確かに、全体的に見ればどこもおかしな部分はありません。ですが私は最後の言葉が気になりました」
 最後の言葉というと……それまで図書室に隠しておく、のことか。
 もし私なら。北沢さんが俺の思考を断ち切るようにつぶやく。
「私が妹さんの立場であるなら、図書室に隠しておく、などという曖昧ですぐにでも忘れてしまいそうな表現は使いません。どんな物を隠したのかは書かなくとも、最低、どこに隠したのかくらいは日記に詳しく書くと思います。どこに隠したのか。忘れたときすぐに思い出せるように」
 ふむ、なるほどね。俺は彼女の言わんとしていることを理解した。
 図書室――本がそれこそ星の数ほど置いてある図書室だ。仮に本の中に隠したとしてもその題名くらいは書いていてもいいのではないか。いざというとき、すぐに思い出せるように。
 だけど……。俺は一つ、気になることがあった。
「仮に本の中に隠したとしてさ。自分でちゃんと覚えておけば別に書かなくてもいいんじゃない?」
 隠した本が彼女にとってお気に入りの本であったのなら、題名などわざわざ書かなくても大丈夫だと彼女は思ったのかもしれない。
 すると北沢さんは、苛立ちを無理やり抑えたような声調で言う。
「仮にそうであったとしても。図書室という漠然とした表現を使った理由にはならないと思います。図書室にある本に隠したとでも書いておけば……」
 するとページをめくっていた彼女の手がピタリと止まる。まるで一時停止したビデオの静止画のように彼女は動かなくなってしまう。
「……どうしたの?」
 日記のあるページを凝視したまま黙り込んでしまった北沢さんに、俺は怖々と尋ねる。
 急に真っ暗な暗闇に放りだされた様な、いわれのない不安に押し潰されそうになったところで、背後から先生の声が届いた。
「おい、お前たち。二人揃ってサボりか」
 投げられかけたその声に、後ろを振り返る。五日市先生、そしてその後に続く漆田の姿を見て、緊張が解けていく。
「いえ、サボりというわけでは……」
 言葉を濁しつつ、俺は気まずそうに北沢さんに視線を持っていく。しかし彼女は未だ一枚の静止画のまま動かない。
 俺は溜息を吐く。一体何があったのかは知らないが、会話ができる状態ではない。諦めて再び五日市先生に向き直ろうとしたとき。
「分かりました」
 横から聞こえた。言ったのは――北沢さんだ。
「何が分かったって?」
 先生がこちらに歩み寄りながら、訝しげな表情で尋ねる。
 北沢さんは日記から視線を外し、顔を上げた。黒色の双眸を俺たちに向け、彼女は告げた。
「妹さんが隠したものですが……残念ながらこの図書室にはないということが分かりました」
 あまりにも衝撃的な発言に、俺は愕然とし言葉を失った。
「ないって……本当ですか?」
 漆田も驚きのあまり二の句が言えないようだった。五日市先生にいたっては、驚きを通り越し、静かに憤っているように見えた。
「何の証拠があってそんなことを言うんだ?」
 そして案の定、怒りの色を滲ませた眼差しで北沢さんを見据える。
 しかし彼女は怯むことなく、端然とした口調で言う。
「証拠はこの日記の中にあります。そしてその隠し物が何なのかも書いてあります」
 五日市先生の目がわずかに見開かれる。
「嘘だ……そんなことは一つも書いてなかった……」
 彼女の眼差しは戸惑った風に揺れ、その声色もひどく不安そうだった。
 皆がその瞳に困惑した色を浮かべているなか、北沢さんだけがその眼差しに穏やかな光を宿しながら言う。
「先生と妹さんは、本当に正反対の性格をしていたんですね。この日記を見て、しみじみと実感しました」
 その声音は胸の奥がつんと痛むほど優しくて、温かいものだった。
「どういう意味だ……お前はその日記を全部読んだのか?」
 北沢さんはその質問に答える代わりに椅子から立ち上がる。彼女は日記を片手に持ち、開かれているページに視線を落とした。そして澄んだ声調で言葉を紡いでいく。
「この日記には正確にはこう書かれています。

 四月二十九日。
 今日、瑛とケンカしてしまった。きっかけは本当に些細なことだった。
 あの子はいつものように、猫みたいにツンと澄ました顔で当然のように私が悪いと責めた。
 もちろん自分が悪いことをしたのは分かっていた。
 だけど私は瑛のその態度が許せなくて、大嫌い、と思わず言ってしまった。
 そしたらあの子、とても傷ついた顔をしていた。
 私は瑛がそんな顔をするとは思わなかったから、とても驚いた。
 いつもはロボットみたいに感情なんてほとんど見せたことないのに、そのときは、今にも泣き出してしまいそうな顔をしていた。
 本当にごめんね。そんなこと言うつもりなんてなかったの。
 だけど私は怖がりで、臆病で、弱虫な性格だから、ごめんねって素直に言えなかった。
 瑛、本当にごめん。ごめんね。ごめんなさい」

 北沢さんが、ひらりとページをめくる。

「四月三十日。
 今日、学校の図書室に行って外の景色を眺めていたら、あることを思いついた。
 そうだ。これを瑛に見せれば、あの子は笑ってくれるんじゃないかなって、そう思った。
 今はごめんねって言うのはちょっと難しいけど、きっとあれを見せれば瑛と仲直りできると思う。きっと目を合わせながら『変なことでケンカしたね』って素直に笑い合うことができると思う。
 だから私は夜に沈む図書室にそっと閉じ込めてきた。
 今度は、瑛と一緒に見るために」

 ぱたん、と日記が閉じられる無機質な音が図書室に反響した。その乾いた響きが耳に触れ、床に視線を落としていた俺はハッとして北沢さんに目を向ける。
「……これが日記の内容です。そして、この日で日記は終わっています」
 その言葉が意味すること――。その日を境に妹さんの病状は悪化したということだ。そして彼女は二度と日記を手にすることなく、そのまま息をひきとった。
 最後の願いも叶えられぬまま。
 北沢さんは痛みを堪えるような眼差しで五日市先生を見つめる。悲しくて、悲しくて、どうしようもない。そんな顔をしていた。
「それが何だって言うんだ。私だって、もちろんその内容には目を通した」
 淡々とした表情で話す五日市先生だったが、瞳の奥には確かに苛立ちの感情を読み取ることができた。彼女は北沢さんの言葉の意味を図りかねているようだった。
 必死にもがいている先生の姿を目に入れてから視線を動かすと、ちょうど漆田と目があった。彼は困ったような、だけど少し物悲しさ交じった微笑を口元に滲ませていた。たぶん、今の俺もそんな表情をしていると思う。
 先生らしい。とても先生らしかった。思わず噴き出して笑ってしまいそうになるほどに。だけど今笑ったら、絶対に泣いてしまう自信が俺にはあった。
 だって、笑ってしまうほど――。思わず泣いてしまいそうになるほど――。
 二人が不器用だったから。
 北沢さんはついと窓の外に視線を伸ばし、そのままゆっくりと歩を進め窓際に歩み寄る。
「妹さんはもうこの世にはいません。なので真実を確かめることは不可能です。ですが私はこの日記を読んで思いました」
 あぁ――俺も同じことを思ったよ、北沢さん。大丈夫、漆田も同じことを思っている。
 だから、迷わないで言ってほしい。
 窓際に立ち俺たちに背を向けたまま、北沢さんは窓に映る景色をじっと眺める。それから彼女はこちらを振り向き、その視線は真っすぐ五日市先生に向けられた。
「先生。先生は、根っからの理系の思考をしていますね。反対に妹さんはとても文系の思考をしています」
 五日市先生はわずかに眉を寄せる。
「……なぜ、そう思う」
 否定はしなかった。否定しない代わりに、五日市先生の眉間が、ますます険しくなる。
「日記はこうでした。『だから私は夜に沈む図書室にそっと閉じ込めてきた』。きっと先生はこの文の意味を直接的に捉えていたのでしょう。だから妹さんが図書室で何か物を見つけ、それをまた二人で見るために、誰にも見つからない様こっそりと図書室にそれを隠してきた、と。もちろん先生と同じように捉える人もいると思います。ですが、この文は別の意味にも捉えることができるんです」
 それはたぶん、俺と漆田、そして北沢さんが同じような意味に捉えたはずだ。俺にはその確信があった。
「別の意味?」
 静まり返った図書室に、五日市先生の訝しんだ声が響く。
「この『そっと閉じ込めてきた』という表現。もし本当に仲直りの証を図書室のどこかに隠してきたのなら『そっと』という表現はあまり使わないような気がしました。使うとしたら『そっと本のなかに挟んできた』や『そっと本棚の奥に隠してきた』。この辺りなら分かりますが、仲直りの証を隠してきた、から意味を繋げると『そっと図書室に閉じ込めてきた』という表現はちょっとおかしいです。なので私は考えました。このそっと閉じ込めてきた、は別の意味に使われているのではないか、と」
 彼女はそこまで言葉を紡ぐと、五日市先生から視線を外し、別の方向を見据えた。俺たちも彼女に倣いその視線の先を追いかける。彼女が見つめる先にあったのは、図書室の奥にある――準備室だった。
「閉じ込めてきた。これはドアなどを閉めて部屋から出られない様にするときに使います。そして妹さんは図書室に忍び込むとき、あの窓を使用していました」
 窓――それは部長のお姉さんが偶然、作ってしまった秘密の出入り口のことだ。
「妹さんはあの夜、図書室で何かを見つけ、それを先生に見せたいと思った。ですがそのときは先生とケンカをしていたからまた今度、一緒に見ようと考えました。今は無理だからもう少し時間が経ってから、と。そして彼女はいつかまた一緒に見て仲直りしたい。その想いを抱きながら、あの窓から出て――窓をそっと閉めました」
 俺は五日市先生の方へ視線を向ける。さきほどまでの疑うような表情は消えていた。彼女は苦しそうにわずかに顔を歪め、何かを訴えかけるように北沢さんを見ていた。普段の彼女からは想像もできない、それはとても感情に溢れた表情だった。
 そんな彼女の表情、想いを真っすぐに受け止め、北沢さんは言う。
「私は推測します。――そっと閉じ込めた。これは仲直りの証を隠したことを表しているのではなく、先生と一緒に見て仲直りしたかったけど、それが叶わなかった妹さんの想いを表現しているのではないでしょうか。私は、そう思いました」
 いつか二人で見て仲直りしたいと願った。だけどあのときは無理だったから、その想いを彼女はそっと図書室に閉じ込めてきた。

 今度は瑛と一緒に見るために。

 そして――二人で仲直りをするために。

 次に図書室へ行き、あの窓を開けるとき。
 その仲直りの証を二人で見るとき。
 その隣には――先生がいるはずだった。
 この想いこそが、彼女が夜の図書室へ閉じ込めてきた正体だったのだ。
「それじゃあ……あいつは私に何を見せようとしていたんだ? この図書室にないのだとしたら……」
 それは一体どこにあるというのか。途切れた先生の言葉を俺は心の中で引き継ぐ。
 俺は思った。先生の時間は七年前で止まっている。後悔という鎖で繋がれた妹さんに対しての想いが、この図書室に先生を縛り付けているのだ。そして先生はその想いに――後悔に――ずっと苛まれ続けている。
 人は前へ歩き続けていかなければいけない生き物だ。容赦なく時間は進み、望まずとも人は年を重ね、知らない内に新しい記憶が積み重なっていく。
 たとえ自分にとって大切な人が亡くなっても、時間は止まってくれない。思い出となり追億となり過去の出来事として人を前へ押しやる。後ろを振り向いても。その思い出に手を伸ばしても。止まったままの過去と進んでいく現在の時間は、どうしようもなく離れている。
 それはもう、悲しいほどに。
 だから人は諦める。そうか、自分たちは前へ進んでいかなくてはならないのだと。後ろを振り向く度にそう思い知らされる。
 だけど先生は、前へ進めることができない。過去を過去の出来事して見ることができないから。
 仲直りしたかった。
 違う。
 先生は仲直りしたいのだ。
 きっと妹さんの日記がその想いを強くさせた。彼女も自分と同じように願っていたことを先生は知ってしまった。だから先生は後ろを振り向き、手を伸ばしている。今と過去が離れていることは知っているけれど、もう本人はいないと分かっているけれど。
 それでも仲直りしたい。過去のものとしてまだ見たくない。
 もしかしたら先生のことを弱い人間だと切り捨てる人もいるかもしれない。先生と同じようにケンカして大切な人に謝ることができなかった人もいるかもしれない。
 そして彼らは口を揃えてこう言うかもしれない。
 お前だけじゃないんだ、と。俺たちだってそうなのだ、と。だからお前も前へ進め、と。彼らは無理やり見せつける。もう戻ることができない過去と今との離れた距離を。
 だけど俺は思うんだ――いいじゃないか、別にってね。
 後ろを見て何が悪い。手を伸ばして何が悪い。少しくらい、弱くなったっていいじゃないかって。
 だって人の悲しみの重さは、その人によって違うのだから。人の価値観はその人によって違うように。その人の悲しみは、その人にしか量ることができない。
 俺の視線はおのずと北沢さんの方へ向かっていた。彼女が止まっていた物語の時間を動かしたのだ。
 北沢さん、君はこの物語の結末を、どのように過去に閉じ込めるのだろう。
 すると俺の視線に彼女が気づいた。北沢さんはその眼差しを淡々とした表情で見つめると、そっと顔を逸らし、窓の外へと目をやった。
「先生は日記の日付を覚えていますか? 日付は四月三十日で最後でした。そしてその日、妹さんは図書室の窓の外を見つめ、先生にある物を見せたいと思いました。偶然ですね。今日の日付と重なっています」
 そう。今日は四月の三十日。七年前のこの日、この場所で、彼女は図書室の窓を眺めていたのだ。
 五日市先生は錆ついた歯車のように、ぎこちない動作で顔を窓の外へと向ける。
俺も彼女のあと追うように、窓の外へ視線をやった。

 そこにあったのは――一本の桜の木だった。

 半月から注がれる淡い月光に照らされ、夜空に向かい伸びている夜桜――。紫かかった薄紅色を木々に溢れさせ、仰ぎ見るものを圧倒させる。風に交じって聞こえる葉擦れの心地よい音が耳に触れる。
 あぁ、何て綺麗なのだろう。そう思わずにはいられなかった。
 そして妹さんも、この光景を目に入れてそう思った――はずだ。
「これが……あいつが私に見せたかったものなのか……」
 五日市先生が窓の外に目をやりながら、呆然とした表情でつぶやく。
「さすがに桜の木は図書室の中には隠せなかったのでしょう」
 おかしそうに話すその声に、五日市先生は顔を向ける。
「でも……本当にこれがそうなのか?」
 信じていいのだろうか。先生の目はそう語っているように見えた。
 すると北沢さんは、おもむろに手に持った日記を開き、あるページで手を止めた。
「先ほども言った通り、真偽は分かりません。ですが一つ一つ言葉の意味を紐を解いていくと自然とこの答えに辿りつくんです。たとえば日記のこのページ。日付は四月の二十九日。先生とケンカする前の日ですね。この日も妹さんは学校に忍び込み、日記にこう書いています。

 今日、図書室に行ったら、中庭にある桜の木が花を咲かせていた。
 月の光に優しく照らされた夜の桜はとても綺麗で、それは自分が物語の一ページに入り込んでしまったのかと錯覚しまうくらいだった。それくらい時間を忘れてその桜に見入ってしまっていた。
 瑛にも見せたいな。
 さすがのあの子も、夜桜の美しさに目を開いて驚くと思う。
 それくらい綺麗な桜だった」

 北沢さんはそう言い終えると、穏やかな眼差しを先生に送った。
「妹さんは、先生にこの桜の木を見せたかった、とはっきりとそう書いています。そしてこの日記の文体からも分かるように、妹さんは文学的な言い回しをする方だったように思えます。なので『そっと図書室に閉じ込めてきた』という表現も、文学的な言い回し……つまり比喩であったという推測も間違いではないような気がするんです」
 五日市先生は静かな目でじっと北沢さんを見つめる。そして張りつめていた糸が急に緩むように、目元をほころばせた。
「妹は……確かにそういう奴だった。本が好きで感受性が豊かで、どんなものにもすぐ感動していた。泣き虫でちょっとしたことで傷つく繊細な子だった」
 先生は北沢さんから視線を外し、窓の外へ――桜へと目をやった。
 七年前の四月三十日。この場所で、妹さんが眺めた風景を彼女はその瞳に映す。
「忘れていたよ。あいつが、そういう奴だったってことを」
 切なそうに目をすぼめ、痛みを堪える表情で彼女はポツリとつぶやいた。そして俺たちに視線をくれぬまま、彼女は窓の向こうにある夜桜を見つめながら続ける。
「薄れていくんだ、記憶が。日に日に記憶が無くなっていく。ふとしたとき妹のことを思い出そうとしても思い出せなくなる時もある。だから私は……焦っていたのかもしれないな。理由は自分でもよく分からないが、早くしなければ、と自分のなかでそう思っていたことは確かだ」
 思い出が消える。忘れたくないけど忘れてしまう。自分では忘れたくないと思っていても、こればかりは人間の力では、どうすることもできない。
 俺は口を閉ざす。漆田も。
 図書室がひっそりしとした静寂に包まれる。外にある桜が風に吹かれ、代わりに葉擦れの音が耳に流れ込んでくる。
 するとそのときだった。
「忘れることはいけないことでしょうか」
 ふいに、北沢さんが淡々とした小さな声で囁いた。振り向かずにはいられない、澄んだ不思議な声。
 三人の視線が、北沢さんに集う。彼女の言葉がしんと静まった夜の図書室に響き渡る。
「私は、忘れることは悪い事だとは思いません。人は忘れたくないと思っていても忘れてしまう生き物です。毎日を生きている以上、それは仕方がないことだと思うんです」
 時間を止めることはできない。過去に戻ることもできない。生きている以上、人は前に進まなければいけない。そして日々を生きていく中で、当然のように記憶も積み重なり、過去の記憶は隅に追いやられてしまう。
 だったら。
 だとしたら。
 北沢さんは言う。
「忘れてしまうことには、きっと意味があるのだと思います。その意味を見つけることは至難の技だとは思いますが」
 そう言って、彼女は小さく笑う。真っすぐ伸びた細い黒髪が、わずかに揺れ動いた。
 根拠なんてない。ただの憶測だ。
 いや、少し違うかな。
 きっと――きっと彼女はそうであったらいい。そうであってほしい。そう願っているのだ。だって忘れたことに意味がないなんて、悲し過ぎるではないか。
 でも、そう思うことは悪いことではない。
 人が記憶を忘れてしまうことが、決して悪いことではないように。
 五日市先生は北沢さんの微笑につられるように、微かに笑んだ。
「お前らしいな。いや、お前たち新聞部らしいと言えばいいのか」
 彼女は静かな口調でそう告げると、くるりと踵を返し、図書室の奥に向かって歩き始めた。
「どこに行くんですか?」
 焦ったように俺は先生の背中に声をかける。
 彼女は振り向き、そしてもう一度――小さく笑った。
「悪いな、新谷。あと北沢と漆田も。十分だけ外に行って来る」
 そう言った先生の顔には、触れたら壊れてしまいそうになるほど繊細な笑みが広がっていた。




「ねぇ、一つ聞いていい?」
 夜の図書室。窓に外には一本の桜の木が見える。
 そしてその桜の木を見上げるように、五日市先生が木の下に立っている。彼女はこちらに背中を見せているので、どんな顔をしているのかは分からない。
「何でしょうか」
 北沢さんが俺と同じように窓の向こうにいる先生の背中を見つめながら返事をする。
「何でさ、今月の新聞の内容、先生の特集にしたの?」
 俺の問いに、北沢さんが少し考えるように間を置く。彼女は隣で窓の外にある桜の木を写真に収めている漆田の姿を一瞥してから語り始めた。
「五日市先生はとても良い先生です。ですが、あのようなぶっきらぼうな態度のせいで誤解を受けやすいんです。ですから、少しでも先生のことを知ってもらえばきっと先生のよさを分かってもらえるのではないかと思い、記事にしました」
 もちろん、新聞部全員で話し合った結果ですが。彼女はそう言葉を付け足した。
 俺は感慨深く、つぶやいた。
「なるほどねぇ……」
 それであの写真ができあがったということか。普段の彼女は無愛想で笑うことはほとんどない。ましてや笑って、とこっちがお願いして素直に笑うような性格ではない。だから無理やり取ってつけた様な、あんなピース写真を作ったのだろう。ま、他に方法はいくらでもあったと思うがな。
 俺が胸の奥で苦笑していると、今度は傍らに立つ北沢さんが質問を投げかける。
「新谷さん、良い先生ってどんな先生だと思いますか?」
 俺は眉間にしわを寄せつつ、顔を横に向ける。彼女はまだ窓の外に視線を据えたままだ。
「……あまり考えたことないな。強いていえば、生徒のことを第一に考えてくれる先生、とかかな」
 咄嗟の質問に、俺はどこにでも落ちていそうな言葉を拾い、無難な答えを返した。
「そうですね。それも一つの要素でしょう。ですが私はこうも思うんです。良い大人が、良い先生になれるのではないか、と」
 よく分からないな。彼女は時どき遠まわしな言い方をするため、頭が混乱してしまう。
 北沢さんは俺が窮している様子に気がついたのか。俺の困惑した眼差しをみとめると、言葉を添えた。
「先生になったからといって、良い大人になれるわけではありません。人として思いやりのある人が、良い先生になることができると私は思うんです。ですが、先生のなかには教師という身分を得ると勘違いしてしまう人もいるのも確かです。自分は子どもたちの上に立っていると、そう勘違いしてしまう人が」
 そういうことか。俺はようやく彼女の言わんとしていることを理解した。
 そういや俺が通っていた学校にもそんな教師がいたな。やけに偉そうで、上から目線の教師が。そういう人間に限って生徒の話も聞かず、自分の我ばかりを押しつけようとする。それはたぶん、生徒を下に見ているからだ。
「ですが五日市先生は、とても良い先生だと思うんです。確かにドラマのような熱血さもありませんし、生徒のために何かしようと積極的に動くこともほとんどありません。ですが良い先生だと、私は心の底からそう思うんです」
 北沢さんが、何度も何度も繰り返して言う。分かったよ、とこっちが苦笑して折れてしまうくらいに。
 そして俺は思う。北沢さんがそう言うのは、五日市先生が良い人だからだ、と。教師という肩書を抜きにして、彼女自身が優しく、思いやりのある人柄だから。
 だけどさ、北沢さん。
 俺は彼女の淡々とした、感情の起伏の少ない横顔を見つめ、唇を緩める。
 遠まわし過ぎるよ。これじゃあ先生に伝わらない。
 君たちが新聞部が五日市先生のことを大好きだという想いが――さ。
 そこまで考えて、俺はハッとする。胸中を右往左往していた霧のようにモヤモヤした感情が、澄みきり、晴れ渡っていった。
 そっか――こういうのを不器用というのか。
「どうしました? ニヤニヤして」
 北沢さんが怪訝そうに眉根を寄せ、俺の顔を見上げてくる。
 俺は彼女の丸々とした黒い瞳を見返し、かぶりを振った。
「いや、何でもないよ。なんというか、なんだか笑っちゃうなぁと思ってさ」
 どうしてこう、彼らは上手く世渡りできないのだろうか。
 言葉にすればすぐに伝わるものなのに。面と向かってありがとう、大好きだよ、と言えば想いは伝わるのにもかかわらず。
 だけどまぁ――俺は北沢さんのキョトンとした顔から視線を外し、窓の外を眺める。
 清水さんが言った言葉。
 器用に世渡りしていく人間より、人間臭くてずっと良い。
 この言葉の意味を俺はようやく悟った。
 つまりは、こういうことなのだと。
 精一杯やっても上手くいかない時があって。ほとんどの人は、上手くいくように物事を運んでいくが、そういう風に器用にできない人もいる。
 たとえば、五日市先生と妹さんのように。
 謝りたいと思っていても、上手く言えなくて。だから妹さんは桜の木を通して謝ろうとした。面と向かってごめんね、と言えなくとも、桜の木を通してなら謝れると思った。
 がむしゃらで、馬鹿みたいに一生懸命で、こっちが思わず目を背けてしまいそうになるほど真っすぐで。
 なんて人間臭いのだろう。
 だけど俺は思う。こういう人間がいても――別にいいんじゃないかって。
「ちなみに新谷さん。一つ質問があります」
 ほう。なんでしょうか。
 俺はわずかに片眉を上げ、視線を下げる。
「新谷さんは満開の桜と散っていく桜。どちらが綺麗だと思いますか?」
 それはもちろん。
「満開の桜でしょう」
 俺はさも当然のように言った。
 しかしながら、北沢さんもさも当然のように返してくる。
「私は散っていく桜の方が綺麗だと思います」
 そして彼女は穏やかな眼差しで俺の顔を見上げてきた。
 そうかい。俺は口元に微笑を浮かべる。
 だけどね、北沢さん。
 俺は滅多に拝めない彼女の微笑を胸に焼き付け、桜の木にそっと視線をやる。鮮やかな薄紅色の花の下には、五日市先生のピンと張った背筋が見える。
 俺はね、北沢さんの笑顔の方が――綺麗だと思うんだ。きっと満開の桜にも勝るだろう。俺にはその確信があった。
 なぜそう思うのかって? 決まっているだろう。
 人の価値観は、人それぞれなのだから。
「言われてみれば、満開の桜も美しいですね」
 北沢さんが隣であの夜、半月を見上げながら言ったように、しみじみとつぶやく。
 俺がその言葉に図らずも苦笑しかけたところで、漆田がカメラのシャッターを切る音が図書室に反響した。
 彼が何を撮っていたのか。
 これは、あとになってからのお楽しみにしておこう。




 エピローグ


 次の日の放課後。
 正確にいえば、四月三十一日の金曜日の放課後の新聞部部室にて。
「――なぜ――なぜ、俺をその場に呼ばなかったんだ!」
 ただでさえ小さな部室に部長の怒鳴り声が反響する。もしかしたらその怒号のせいで窓が小刻みに振動しているのではないかと思うほどの声量を吐き出した部長は、腕組みをしながら端正な顔を怒りで歪めていた。
「なぜって、なぜでしょう」
 俺は乾いた笑い声を上げる。
「本当です。なぜでしょうか」
 そして隣に座る漆田も笑っているが、同じように弱弱しい、
「俺も呼ぶのが筋だろう! なんせ部長なんだ! なのに貴様らは俺を無視し、あまつさえ事件を解決して……!」
 キッと部長が鋭い眼差しを俺、漆田、最後に北沢さんへと順に突き立てていく。
 しかし俺は、部長の怒りの叫びを耳に入れながら、盛大な溜息を吐いていた。身体的にも精神的にも疲れているため、彼の怒りを受け止める気力もなかったのだ。 それは漆田も北沢さんも同じようで、いつもなら部長に対して小言の一つや二つ進呈する彼女も、今日ばかりは今にも枕と布団を持って来て、そのまま倒れて寝てしまってもおかしくない顔をしていた。
 北沢さんの目の下。そこには浮き出るくらいの隈があった。
 チラリと俺は漆田の顔を盗み見る。当然、彼の目の下にも隈が浮き出ている。
 そして俺の顔にも。
 理由は昨夜の図書室での出来事まで遡る。


「仕方がない。一度家まで戻ってから、お前たちを車で送っていく」
 外から戻ってきた五日市先生は、俺たちの顔を見るや、そう切り出した。彼女の顔はどこか吹っ切れた様子で、出ていく前と少し面持ちが違って見えた。もちろん、俺の気のせいかもしれないが。
「その前に、本棚から取り出した本を片付けないといけませんよ。こんなに散らかしていたら何だと思われます」
 漆田が、一体どこに隠していたのかと突っ込みたくなるカメラを、黒いストラップで首に吊るしながら言った。
「そうだったな。全く、面倒だ」
 五日市先生はチッと舌打ちでもしたそうな顔で吐き捨てた。だけど俺は、そんな彼女の態度にどこかほっとする。いつも通りの五日市瑛の姿がそこにはあったからだ。
 俺はその事実が少しばかり嬉しくて、足取りを軽くしながらその積み重なった本
の束へと向かった。
「まぁまぁいいじゃないですか。ただそのまま戻せばいいだけなんですから」
 そう軽い調子で俺がつぶやいたとき。背後から重い鉄の塊を床に叩きつけたような、耳をつんざく音が届いた。突然の出来事に心臓は跳ね上がり、臆病な器質を持つ俺の身体から血の気が一気に引いていった。
「あっ、僕のカメラが!」
 漆田が血相を変えて膝をつき、自分のカメラを両手で包むように持ち上げる。
「大丈夫ですか? もしかして壊れて……」
 北沢さんも腰をかがみ、心配そうにカメラを覗きこんだ。
「いえ、大丈夫みたいです。見たところ、どこも壊れていません」
 明らかに安堵した様子で、漆田がつぶやく。
「でもおかしいですね。どうして急にヒモが切れてしまったんでしょうか」
 北沢さんが不可解な生き物でも見るように、切れた黒地のストラップを片手で持ち上げる。突然、それも前触れもなく切れたストラップ。誰もがその現象に首を捻る。
 漆田が閃いたように声を上げた。
「もしかして! 本当にゆうれ……」
 彼が何を言わんとしているのかを察した俺は、慌てて制する。
「ストップ! 漆田! それ以上は言うなよ!」
 何でもかんでも非科学的な方向へ持っていくな。俺は胸中で憤りにも似た溜息を吐きだして再び歩を進めた――。
「新谷! 足元!」
 すると今度は五日市先生が慌てた声を上げる。
 先生が何のことを言っているのか理解する前に、足元に固い物がこつん、と当たった。俺がふいと視線を下ろすと同時に、積み重なった本がバランスを失い大きな音を立てて崩れていった。そしてまるでドミノ倒しのように、周囲に積み重なった本の山もその雪崩に巻き込まれ、見事に崩れざる。
「………」
 足元に残った残骸。それは本。俺の足元の周りが本で埋め尽くされる。もはや言葉も出てこなかった。
 部屋に訪れる、無力感が交じった沈黙。
 しばらくして、その沈黙の嵐を五日市先生が破った。
「……この場に刃物があったら、真っ先にお前に切りかかっているぞ」
 五日市先生は無表情でそんな危ない台詞を吐き出した。その目から放たれる眼差しは、目があったものを凍らせることがきるのではないか。俺は、そんなどうでもいいことを思ったのだった。
 それにしても殺意か。自分で言うのもあれだが、その気持ちは分からなくはない。
「だ、だだだだ大丈夫ですよ! みんなでやれば怖くない! さぁ、さっさと片付けてしまいましょう!」
 いつになく声を張り上げて漆田が叫ぶ。しかし言葉とは裏腹に額には汗がにじんでいる。
 漆田の興奮気味の様子を目に入れたせいか。俺の心は、彼とは反対に落ち着きを取り戻していた。
 さて、北沢さんはどうなのだろうか。勝手な予想だが、五日市先生と同じように怖い位の無表情をしているに違いない。あの夜の図書室のように。
 諦めと期待が入り混じった、複雑な感情を抱きながら北沢さんへと視線をやった。そこで俺は目を見開くこととなる。
 なんとまぁ。
 北沢さんはというと。彼女はポカンと口を開け、目をしばたかせながら本の残骸を凝視していたのだ。驚きのあまり、現実を見つめることができていないのだろう。いつも無感動な表情で感情の起伏が小さい彼女からは想像できない反応だった。
 このとき悟った。もしかして、俺はとんでもないことを仕出かしてしまったのではないかということを――。

 そしてその予感は見事に的中した。
 あれから床に散らばった本を本棚に並べ直すまで、軽く三時間はかかったのだ。 適当に入れ直すわけにもいかなかったため、漆田の指示のもと、背表紙にある分類番号を番号順に並べ直していくと、そんな時間が経過していた。正確な時間は正直に言って分からないが、作業が終わった頃には日付がとっくに変わっていた事実から、その作業量たるや膨大だったということは想像に難くないだろう。
 各々が帰る頃には、真っ暗な暗闇が徐々に青みを帯びており、夜が明けかけていた。そしてつまり俺たち……俺と北沢さんは、夜が明けるまで出かけていたということになる。家に帰ってから母親の鬼の様な顔で迎えられた俺たちに待っていたのは、なんてことはない。長い長い説教であった。
 電話しておくべきだったと気づいた時にはすでに夜が明け、母親の怒号が吹き荒れる嵐も徐々に終わりを迎えていた。


 消し去ってしまいたい回想を終え、俺は目の前にいる北沢さんに再度、視線をやる。
 なんとまぁ。
 彼女は綺麗に背筋を張りながら、瞼を閉じていた。要するに眠っていたのだ。この短時間の間に彼女は眠気に負けてしまったのだろう。そして何故か隣に座る清水さんもテーブルに突っ伏し寝息を立てていた。どうして彼女まで眠っているのか。 あれ、何かしたっけ、彼女。
 眠気で思考がまともに働かないなか、部長の不満を隠しもしない声音が耳に届いた。
「おい。こうなったら洗いざらい事の顛末を話してもらうからな」
 俺は閉じかけている瞼を必死にこじ開け、わずかに覗く瞳で部長の整った顔を捉える。
「……いいですよ。何でも話します」
 そして重い息を吐き出しながらそうつぶやいた俺は、隣に座る漆田に協力を求めようと顔を横に向けた。
 しかしながら。
 やはり、というべきか。漆田も首を後ろに反らし、口を開けながら気持ちよさそうに眠っていた。ここまで自分をさらけ出せる彼の神経の太さは、天晴れとしか言いようがない。
 俺はすぐれない顔色で溜息を吐き出すと、部長の仏頂面を見つめた。
「さて、どこから話しましょうかね」
 三人の寝息をBGMにして、俺は昨夜の出来事を語り始めた。

 どこまで、そして、どのように話したのかはっきり言ってあまり覚えていない。 俺自身、眠気と闘いながらの説明だったため、もしかしたら全く訳の分からぬ言葉を並べていたかもしれない。
 覚えていることは、これだけだ。
 夜な夜な学校の図書室に忍び込み、本の配置を動かしていた犯人は五日市先生だったこと。なぜ、彼女が本の位置を変えていたのか。その理由。そして七年前に噂になった幽霊の正体が先生の妹さんだったこと。北沢さんが名付けた幽霊の条件についても少しだけ触れたかもしれない。
 表面的に、なおかつ言葉を選びながら慎重に話した。先生はあの夜、教師という垣根を超えて生徒の俺たちに胸の内を打ち明けた。
 本来であれば、俺たちが踏みこんではいけない先生の過去に、俺たちはあえて足を踏み入れたのだ。それは決して口にしてはいけないことなのだが、正直に言ってその秘密が守られたかどうか、情けないことに確信が持てなかった。
 そして最後に記憶に残っていることはこれだけ。
 「そうか」という、部長のやけに優しい声色だけだった。
 その言葉を最後に、俺の眠気は極限を迎え、それから先は記憶にない。

「新谷、起きろ」
 乱暴な手つきで身体を揺すられ、俺は眠りの淵から目を覚ました。ハッとして慌ててテーブルから上半身を起こすと、窓に映る真っ暗な光景が目に入った。
「あれ……今何時」
 俺は忙しなく首を回し、時計を探した。ぼんやりした顔で時計を探すさまは、傍から冷静に見ると滑稽極まりなかったと思う。
 すると、そんな俺の間の抜けた行動を憐れに思ったのか、誰かが親切に教えてくれた。
「夜の七時だ。他はとっくの昔に帰った」
 その声は……俺は寝ぼけた顔を上げた。目に飛び込んできたのは、恐ろしく整った顔立ちをした男性――部長だった。その顔は相変わらずのふくれ面で、この人はいつもこんなに不機嫌そうな顔をしているのかと心配になるくらいだった。
「いつまで寝ている。俺はもう帰るぞ」
 部長がテーブルに置いてあったカバンを手に持ちながら、ぶっきらぼうにそう言った。
「えっ、あの……じゃあ俺も帰ります」
 行き着いた先は、自分も帰るという選択だった。他に選択肢もなかったのだが。
 立ち上がり、床に置いてあったカバンを取ろうと視線を下ろすと、部長の手に握られた丸まった模造紙が目に止まる。
「部長、それは何ですか?」
 怪訝そうに俺が尋ねると、部長のつっけんどんな声が頭上から降ってきた。
「今月号の新聞だ。さっき俺が一人で書いた」
 その驚くべき発言に、俺は猛然と顔を上げた。
「部長が一人で書いたんですか!?」
 まさかの展開である。この傍若無人で独りよがりな男が、誰の手も借りずに一人で書きあげたというのか。
「仕方がないだろう、お前も含めてみんな寝ていたんだ。起こすわけにもいくまい」
 俺は目をしばたかせ、部長の顔を凝視する。まさかそんな思いやりのある言葉をこの人口から聞くことになろうとは。
「ありがとう……ございます」
 俺は目の前にいるのがあの部長であることも忘れ、知らず知らずの内にお礼の言葉を口から出していた。
 部長は俺からの謝意もふん、と鼻を鳴らして吹き飛ばした。
「今回は特別だ。このようなことが今後もあると思うな。お前も新聞部の一員なら、もっと自覚と誇りを持って行動しろ。分かったな」
 新聞部の一員――。
 自覚と誇りを持って行動――。
 最後の言葉の意味は正直よく分からなかったが、彼の真剣な想いに押されるような形で、俺はこくこくと頷いていた。
 部長は不機嫌そうな瞳の奥に、どこか満足そうな色を覗かせながら言う。
「それじゃあ、後はお前に任せる」
 そう言って、部長は手に持った模造紙を俺に押しつける。
「ついでに鍵もお前が返せ」
 そして彼はポッケから鍵を取り出し、続けざまに押しつけた。
「じゃあな、新谷」
 彼は凛々しく端整な顔で、押しつけるだけ俺に押しつけ、ドアを開けてさっさと帰っていく。
 というか、最後の鍵は絶対にただ単に面倒臭かっただけだと思うのだが。

 七時を過ぎた夜の校舎は当然のように薄暗く、最低限の灯りしか点いていなかった。俺は神経を極限まで研ぎ澄ませながら、慎重に静まり返った廊下を歩き、職員室前にある掲示板まで辿りつく。
「何で俺ばっかりこんな怖い目に……」
 今更ながら部長に着いて来てほしいと頼むべきだったと後悔する。今なら土下座の一つや二つ彼にくれてやるのに。
 苦い想いを抱きながら先月号の新聞を剥がし、今月号の新聞を画鋲で張りつける。一つずつ隅から丁寧に、しわのつかない様に画鋲で挿していく。それから全体のバランスを確かめるように一歩後退して眺めた。
「よし、大丈夫だな」
 満足のゆく仕上がりだ。俺は得意げに鼻を鳴らすと、ふと新聞の内容に目をやった。
 今月の新聞の見出しは『夜桜と幽霊』だった。俺はその内容に目を通す。一通り目で追ってから、俺は苦笑を漏らした。
 その中身は大ざっぱに説明するとこのような感じであった。
 七年前に現れた図書室の幽霊の正体。それは悪霊の類ではなく、夜の桜を見に来た一人の少女の幽霊であったのではないか。そして彼女は花見に満足して天国へ旅立っているだろう、と。
 全く。
「入学式とかじゃないんだもんな」
 このような内容の新聞がこれからもずっと続くのか。この調子だと胸を張って新聞部です、と名乗るのは、まだまだ先になりそうだ。
 苦い笑みを唇に浮かべ、踵を返そうとしたとき。その声はかかった。
「なんだ、まだ帰っていなかったのか――新谷」
 声が聞こえた方へ顔を向ける。急に声がかかったのに俺は驚かなかった。それはなぜか。その声はもはや俺の日常の一部といっていいほど、聞き慣れた声だったからだ。
「それはこっちの台詞ですよ、五日市先生」
 髪を無造作に一つにまとめ、白いワイシャツに黒のパンツスーツで身を固めた五日市先生が、こちらへ歩み寄る。
「残業だよ。こう見えても、先生は忙しいんだ」
 それは初めて聞く言葉ですね。そんな素振り、今まで見せたことありましたっけ。
 五日市先生は隣に来ると、ついさきほど張ったばかりの今月号の新聞に目をやった。
「これが今月号か……全く、こんな内容の新聞、誰が読むのだろうな」
 全く、と先生は溜息交じりにつぶやく。しかし言葉とは反対にその声色ひどく優しい。
「本当ですね、誰が読むんでしょう」
 俺も先生の意見に同調する。だけど思う。きっと先生だって、俺と同じことを思っているくせに、と。
 二人の間にひっそりとした沈黙が落ちる。明日には月が五に変わるのに、身震いしてしまいそうになるほど空気は冷たかった。
「そういえば新谷、どうする?」
 前触れもへったくりもなかったその問いに、しかし俺は新聞を眺めながら答えた。
「そのまま受け取ってください」
 これだけ言えば十分伝わるだろう。そして予想通り、五日市先生には伝わったようだった。
「いいのか?」
 言いも悪いも――。俺は苦笑交じりにその答えを返す。
「いいですよ、もちろん」
 先生はまじまじと俺の横顔を見つめてから、微笑を吐きだした。
「そうか」
 そして彼女も目の前に貼られている新聞を見つめる。余計な言葉は一切言わなかったが、これで通じたのなら、やはり彼女は新聞部の顧問だ。
「ありがとう」
 不意に、先生がそんな言葉を漏らした。俺は半信半疑の表情で先生の横顔を見つめる。
 今、彼女は何て言った?
 五日市先生は横目でチラリと俺の顔を眺めてから、何事もなかったかのように、その場を立ち去った。
 そして。
「二度は言わないからな」
 彼女はそんな二枚目な言葉を放ち、暗闇の中へと姿を消した。
 気づかぬうちに、唇がどんどん緩んでいく。
そういうことか。俺は心の中でそう呟き、再び目の前の新聞に向き直った。
 そう。俺はこの日、今の会話をもって、新聞部の正式な部員となったのだった。


 学校の敷地を離れ、帰路に着いた俺は、家まで後数十メートルという距離で意外な人物の姿を見つけた。暗い道端。目を凝らさなければ顔も判別できない場所で彼女は待っていた。
「遅かったですね、新谷さん」
 北沢さんだった。
 制服姿のまま、彼女は教科書で膨れ上がったカバンを肩にかけ俺を待っていたのだ。

「あの……なんでこんなところにいるの?」
 俺は戸惑いを隠しきれない表情で、ゆっくりと歩を進め、彼女に近づいた。
 北沢さんは目じりを細め、穏やかな眼差しを俺に向ける。
「なぜでしょう。自分でもよく分かりません」
 俺は驚きのあまり、目をしばたかせる。なんというか、彼女らしからぬ行動のような気がしたのだ。意味もなく俺の帰りを待っていたとは。なんだろう、何かあったのか、という懐疑の方が強くなる。
「部長、新聞を書き終えていましたか?」
 ポカンと間の抜けた顔で口を開けていた俺は、ハッとして我にかえる。
「う、うん。ちゃんと書き終わっていたよ。ついでに今月号の新聞も張ってきた」
「そうですか。それは良かったです」
 彼女はそう言うと顔を逸らし、別の方向を見据えた。きっとどこを見ているわけでもない。ただぼんやりと景色を眺めているだけ。
 俺はそんな彼女の横顔をしばらくの間見つめてから、思い切って尋ねた。
「ねぇ、もしかして後悔してる?」
 彼女はこちらに向き直り、推し量るような視線で俺を見つめる。
「……なぜ、そう思いますか?」
 それはとても静かな声だった。静かで、だけど少しだけ相手を突き放すような冷たい声調。
「なんか……北沢さんのことを見ていたら、そんな気がして」
 俺は正直に答える。今だけは彼女に敬遠されてもいいから、彼女の本音をどうしても知りたかった。
 北沢さんはさらに目をすぼめた。そして小さく息を吐きだすと、次の瞬間、ふっと微笑を浮かべた。
「分かりません。ですが後悔をしていないか、と問われれば私は一切の迷いなく頷くことはできないと思います」
 その言葉は、俺の胸にぐっと圧し掛かった。なにしろ今回の事件の謎解きは俺はけしかけたようなものだ。
 沈んだ表情で俺が視線をわずかに伏せていると、北沢さんが「新谷さん」と、俺の名を呼んだ。
 俺はぎこちない動作で顔を上げる。そこには北沢さんの澄んだ黒い瞳があった。いつの間にか、彼女は俺の目の前まで来ていたのだ。
「新谷さん。私は決してあなたのこと責めているわけではありません。それを絶対に誤解しないでください。最後の最後に決めたのは私自身ですから」
 真っすぐに彼女は俺を見据えてくる。こんなに力強い視線で見つめられたのは初めてのような気がした。
「……でも北沢さんは、後悔している……んだよね」
 それは否定できないはずだ。たとえ君が俺のせいではないと言っていても。
 すると北沢さんは苦い笑みを口元に浮かべてみせた。
「言葉が足りませんでしたね。私の悪い癖なんです」
 俺は怪訝そうに眉をよせる。彼女はそんな俺の表情をみとめ、さらに苦笑を強めた。
「私が言いたかったことは、後悔している自分に罪悪感を抱いている、ということです。他人の心の中に踏み込んでから、やっぱり踏みこんでよかったのかと私は迷ってしまいました。ですが私は思うんです。それは相手に対してとても失礼なことではないかと」
 だから私は後悔しているんです。罪悪感を抱いてしまった自分に対して。
 彼女はそう続けた。
 真っすぐで。とても彼女らしい考えだった。一点の曇りもない、前だけしか見ていない彼女の言葉――。
 だったら俺も、逃げずに彼女と向い合うべきだ。彼女はきちんと胸の内を言葉にして伝えてくれているのだから。
 俺は彼女の視線を真っすぐ受け止め、そして伝える。
「ありがとう。先生、そう言ってたよ」
 たとえ君が本当に良かったのかと、そう悩んでいたとしても。先生は感謝していた。それが事実だ。
 北沢さんは少しだけ驚いたように目を見開いてから、緊張がほどけたように表情を緩めていく。

 そうですか。

 そして風に吹かれれば飛んでいってしまいそうな、だけど優しい声で北沢さんはつぶやいた。それから顔を上げ、彼女はどこを見るわけでもなく遠くを見据えた。
「……私、先生のことを知ることができて良かったです。本当に、それは良かったと思います」
 その横顔は雲のない青空のように、とても清々しいものだった。その表情を見ていると、彼女が五日市先生の心に触れたことが決して無駄ではなかったのだと、そう思わずにはいられなかった。
 そして同時に、今まで人との関わりを避けていた彼女が、少しだけ変わった様な気がした。
 もしかしたら、俺の気のせいかもしれないけど。そう、なんてことのない。ただの推測。だけどそうだといいな、と俺は思うんだ。
 北沢さんからそっと視線を外すと、その動作と重なるようにして心地良い風が肌を包んだ。それはこれまで感じていた肌寒い風ではなく、春の終わりを告げる穏やかで暖かい風だった。
「……あのさ。俺、そろそろ靴を買い替えようと思っているんだけど、この辺りの店とか全然分からないから、今度暇なときにでも良い店を紹介してくれない?」
 ふと胸に浮かび上がった言葉を、俺は知らず知らずの内に口にしていた。
「靴屋さんですか?」
 突然の頼みごとに、案の定、北沢さんはきょとんとした顔を作る。
「そう、靴屋さん」
 彼女は三回ほど目を瞬かせてから、落ち着いた表情と声調で言った。
「いいですよ。良い店を知っています。どこにあるのか今度、紙に書いて渡しますよ」
 紙に書いて、か。
 それもいいけど、俺はあえて別の提案を申し出る。
「良かったら一緒に買いに行かない? 俺さ、服とか選ぶのセンスないから」
 北沢さんはさらに驚いたように、今度は五回ほど目を瞬かせる。
「一緒にですか?」
 青天の霹靂とまではいかなくとも、彼女はキツネにつままれたような顔をしていた。そんな彼女の反応がおもしろくて、思わず笑いがこぼれる。
「そう、一緒に」
 一人じゃ意味がないんだよな、これが。
 北沢さんは俺の言葉、表情をどのような意味に捉えたのか分からないが、彼女は唇をわずかにほころばせると、こう答えた。
「いいですよ。私なんかでよければ」
 それはこっちの台詞だな。
 俺なんかでよければ、いつでも、どこへでも一緒に行きますよ。

この小説について

タイトル 不器用な団欒者たち
初版 2014年12月30日
改訂 2014年12月30日
小説ID 4623
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雪奈の写真
駆け出し
作家名 ★雪奈
作家ID 899
投稿数 5
★の数 0
活動度 475

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