ベートーヴェン ヴァイオリンソナタ第5番『春』

 江里香はピアノの前に座りある男のことを考えてた。凛として背筋を伸ばし、鍵盤を通して聴衆を惹きつけるいかにも権威的なピアニストのように振舞いながら、心は昨日出会ったハンスに向けて飛んでいた。
 鍵盤を撫でる指はそそくさと何度も何度も引き続けたベートヴェンの『春』を、まるで違う生き物のように機械的に流れていく。身体はわかっていた。どのように弾きこなせば母から糸目をつけられずにつまらない時間から逃れられるのか。
 可哀そうな江里香には幼い時から母からの教育があり、将来へ向けての訓練があり、規律があり、華々しい舞台が待っていた。人々からの羨望の的となり、ドレスを着て舞台をハイヒールで歩き、あなたは凡人とは違う人生を歩むのだと毎晩のように聞かされていた。まるで子守唄のように、鍵盤の弾きすぎでヒリヒリと痛む節くれだった関節を撫でられながら江里香は瞼を瞑っていた。

 ある時夢うつつの中で江里香は母が嘆いているのを聞いた。「なぜ指が長くならないの!?」江里香の中に流れる血を彼女は嫌っていた。できることなら江里香の中に脈々と流れ続ける血液をすべて一度取り去って不純なものを取り去りたいと思っていた。幼い江里香にはそれが何のことかわからなかったが、その影にはいつも男の姿があることをいつしか気づいていた。
 江里香の母倫子は若くして妊娠した。まるでオオカミの巣窟に迷い込んでいく子羊のように、倫子は男の家に上がりこむようになりそしてアダムとイヴのように振舞った。喜びが全身を駆け上がるとそれが倫子の待ち望んだ未来への道筋となっているのだと思ったが、それは三ヶ月で終わりを迎えた。『ちっとも幸せじゃなかった』とポストに乱暴なメモ書きと、そして胎に江里香を残しながら男は去っていた。

 第二楽章に差し掛かるといても立ってもいられなくなり、ピアノを途中で放り出しこの場から逃げ出してしまおうかとさえ江里香は思った。このスポットライトの最中聴衆の戸惑う顔とざわめきを残しながら車に乗り込み走り去り、宛てもなくハンスを探す。母の監視から逃れ、居場所を見つけ、そして互いに愛し合うことができるために。
 ミスタッチをする。母の歪んだ顔が浮かぶ。あまりに感情的になりすぎリズムが乱れる。江里香は深呼吸をするようにゆっくりと目を瞑り再びピアノに集中する。
「あなたには同じ過ちを踏んで欲しくないの。女が過ちを犯すとしたらそれはすべて男のためなのよ」
母はドアの鍵を注意深くかけながら江里香に語った。好きになった人がいるとはじめて打ち明けた夜、母は慎重に江里香を諭すようにゆっくりと物事を語っていく。女はいつも夢見る生き物であること。そしてそのために不幸になるということ。男は決して信用してはならず、信用すべきはただ運命だけであるということ。
 いつのまにか聴衆の心は江里香のもとに戻っていた。江里香の身体―――節くれだった指、明晰な顔立ち、露わになった肩、ドレスの裾を巻き込みそうになりながらもペダルを踏み続ける足―――すべてに観客の視線が集まっている。ホールの一番後ろに佇んでいる倫子は腕組みをしながら目を瞑り、愛する娘の音色と人生を見守っている。彼女に言わせれば江里香の音色はあまりにも幼すぎ、まだ人生を知らない子供のようであり、それでいながら人を惹きつける魅力を持っていた。もう少し彼女は苦しみを知らなければならない。世の中のことを知り、そして独り立ちできるようになければならない。

「春はいつ訪れるのだろうか?」江里香ははじめて、練習で何度も何度も弾いてきたのにも関わらずはじめて『春』について思いを馳せた。冬の季節が、死の季節が終わりを告げて大地は暖かく上気しはじめ、あらゆる花という花の芽が喜びの前触れの顔をのぞかせる。
 第四楽章に入ると不思議と心に理由もなく喜びが湧き上がるのを感じた。滑らかになだれていく連弾は、まるで江里香が弾いているのではなく、『春』が彼女を弾かせているかのように自然に一体感を持ったものになっていた。今まで感じたことのない恍惚が彼女を包んだ。それはきっと広大な運命がその大きな手を差し伸ばし、そっと彼女の肩に触れ江里香を祝福したからに違いなかった。母倫子ははじめて娘の音色に深い感動を覚えていたが厳しい表情を崩すことはなかった。
「ジュリエッタはガルレンベルグ伯爵と結婚してしまうのよ」倫子は呟いた。
しかし彼女の声が江里香に届くことはなかった。なぜなら江里香は激しい拍手の嵐で観客に迎えられていたからだった。


(※ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェンはブルンスヴィック伯爵家の姉妹たちのいとこジュリエッタ・グィチャルディに恋をする。しかし結局身分の違いから失恋してしまいジュリエッタはガルレンベルグ伯爵と結婚した。)

後書き

小説らしく

この小説について

タイトル ベートーヴェン ヴァイオリンソナタ第5番『春』
初版 2015年1月28日
改訂 2015年1月28日
小説ID 4634
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作家名 ★堀田 実
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