中山慧悟

「ここが渋谷なのか」
世田谷公園からあてもなく歩いてきたホームレスの山中慧悟はボロボロになったジーンズの裾を引きずりながら、道玄坂の丘陵から見晴らす渋谷の街並みに見入っていた。
「電車で通っていた頃にはこんなにも近くにあるとは気づかなかったのにな」
慧悟はかつて自分自身があの歩行者たちのように街の一部に溶け込んでいたことを意外に思った。職業をなくして路上生活者となった今ではそうした過去もまるで夢の一部のようだった。
 髪を金色に染め鼻と唇にピアスをつけた若者のカップルが彼の横を横切る。女は慧悟の姿を見て鼻をつまみ男の袖を何度もつまむ。それに気づいた男は慧悟を一瞥すると耐え切れず顔を背ける。
「うわ、くっせ――――っ!!!」
男は酔ったように大声をあげて叫び、女はそれを見て笑う。二人が通り過ぎていくのを眺めながら今さらながら侮蔑されたことにショックを受けている自分の心を恥じた。慧悟はまるで芋虫になったのだと思った。悪臭を放ち、人間に指をさされながら笑われ、それでいて何をする手段を持たない生き物。そんな事実は既に受け入れていると思っていたのに、今もなお慧悟は自身の醜さに苦しんでいる。
 リヤカーに詰まれた寝袋や寝床の作成に必要なダンボールとブルーシートをひっさげながら慎重に坂を下っていく。まだ10代の頃には友人たちと馬鹿のようにはしゃぎながら走り下ったこの下り坂も、今となってはまるで別人のようによそよそしい。
「あぁ、腹が減った。渋谷にはこんなに食べ物が溢れているのに、なぜ俺は食べることができないんだろう。俺と渋谷との間にあるこの見えない壁は何なんだ」
 一昨日から慧悟は何も食べていなかった。空き缶集めの仕事もやったし、使えそうなゴミ拾いもやった。ヤクザに連れられて建設現場の仕事もやったことがあるが、つい先日逃げ出したのだ。真っ暗闇に紛れ込んで寮の裏のコンクリート壁を登り一目散に走ったが追っ手のような人間は誰一人として来なかった。
 ホームレスも仕事をしていなければ何も食べることができないのは変わりない。リヤカーの重みが腕の筋を引っ張っているのがわかる。空腹のために全身の力が引き、朦朧として頭に白い電気のようなものが走った。もし力を抜けばボールのように転げ落ちてしまいそうになる。
「あのじいさん死んじまったのかなぁ。80歳ぐらいだったしなぁ。寒いもんなぁ」
 何の持ち物もなく逃げ出した彼の前に救急車が止まっていたのは幸運だった。死んだように横たわった浮浪者を救急隊員が運び出しているところだった。しばらくの間生け垣の下に隠れながら遠くで眺め、救急車が走り去るとリヤカーだけを持ち去った。
 前面がガラス張りになり間接照明のついた高級そうなカフェがある。窓際のカウンターにはOLが一人でクロワッサンを片手にコーヒーを飲んでいた。何か考え事をしているようにしばらくの間宙を眺めていたが、慧悟と視線が合うと目をそむける。
 不思議と過去のことが思い浮かんでくる。両親にはよく東横デパートに連れて行ってもらったものだった。大食堂で食べたお子様ランチの上に乗っかった日の丸の旗が妙に懐かしく思えてくる。生まれた時にはもう少し恵まれた境遇にあったもんだと慧悟は思った。当時俺を引き連れてくれた両親はどんな気持ちだったんだろう。
 誕生時、産みの苦しみに耐えながら数時間の格闘の末にやっとの思いでこの世に送り出した身体を、母は喜びをもって迎えたのだ。その時にはもっと幸せな未来を思い描いていたに違いない。理由のない歓喜に頬をほころばせながら、泣き叫ぶ俺に『慧悟』という名前をつけたのだ。智慧を持ち正しく悟れるように。
 まるで人生と同じようだと慧悟は思った。ただ道玄坂を下っているだけなのだ。そのためだけにこんなにも力はいる。脚と腕の筋はガタガタと震えるし、頭は貧血のように真っ白になる。下降に向かっていくだけの人生でも労力はいるが、その中にも何かを見出さなければならない。
 道幅は徐々に広がっていき、ビルの隙間から日の光が差し込んでくる。まぶしさに思わず立ち止まると、何台もの車が邪魔そうに、時にはクラクションを鳴らしながら追い越していった。それでも不思議と動揺するようなことはなかった。悪気すら起きない。
「俺は悪人になったのか?」慧悟は思った。「俺は人の役に立つどころか迷惑をかける側に立っている」
 コンビニのゴミ箱を漁るうちに人の目にはいつしか頓着しなくなっていた。以前は見下していたような人間に自分がなっているにも関わらずそんなことは考えなくなった。まるで存在しないかのように振舞うのだ。それが実際に社会から切り離されてしまった人間になった時、自然に身につく生き方だった。他の奴らだって俺の汚い姿を見たくないはずだ。『渋谷』という街だってもう俺の人生を望んではいない。

後書き

「渋谷」をテーマに書きました。

この小説について

タイトル 中山慧悟
初版 2015年3月7日
改訂 2015年3月7日
小説ID 4651
閲覧数 409
合計★ 2
堀田 実の写真
ぬし
作家名 ★堀田 実
作家ID 778
投稿数 46
★の数 73
活動度 5764

コメント (1)

霜月天 2015年4月19日 17時11分59秒
渋谷の日常や主人公の事がよく書かれていると感じました。
名前 全角10文字以内
コメント 全角3000文字以内 書式タグは利用できません
[必須]

※このボタンを押すと確認画面へ進みます。