紅い花 - 紅い花

 ・紅い花

 音もなく雪の降っていたその日、真っ赤なワンピースを着た女の子が僕に一輪の花を手渡した。

 紅い色をした一輪の花。この花の名前は何というのだろうか。

「この花の名前はなんていうの?」

その女の子は僕を真っ直ぐに見つめたまま、静かに答えた。

「この花に名前はないの。これは、あなたなの」

僕にはその女の子の言っている言葉の意味が理解できなかった。この花があなた?右手に持った花を見つめながら考えを巡らせていると、女の子はそそくさと駆けていってしまった。

 雪の降る道に取り残されたまま、僕はその紅い花を持って立ち尽くした。寒さが体中を支配して、吐く息は白い水蒸気となり、やがて外の冷たい空気と同化していった。女の子の走り去る後ろ姿は、その真っ白な雪の積もった世界の中では随分と目立っている。女の子が着ていた、赤色のワンピースのせいだろうか。



 家に着き、さっき貰ったばかりの紅い花を挿すために花瓶を探した。うちに花瓶なんてあるだろうかと、半ば半信半疑でいくつかの戸棚を探していると、一番奥の方から透明な一輪挿しの花瓶を見つけた。もうすっかり忘れ去られてしまった記憶の中で、いつか僕の大切な人がプレゼントしてくれた花瓶だった。あの時、なぜ彼女は僕に花瓶なんてプレゼントしたのだろう。花なんて興味を示した事はなかったはずなのに。それでも彼女は僕にその花瓶を贈ったのだ。

「花は心を落ち着かせてくれるから」

僕に手渡す時にそう言った彼女の言葉は、まだ花瓶の底に残っているかのように、僕の頭の中で鮮明に蘇った。

 僕と一緒で、すっかり凍えてしまったその紅い花を花瓶に挿した。とても奇麗な紅い色だ。彼女が言ったように、それはたった一輪の花なのに、部屋全体を明るく灯してくれているように感じられる。それまでほとんど何もない殺風景な部屋が紅い色に染まった。

 ”赤”ではなく”紅”だと、僕はこの花を一目見た時から直感的に感じていた。そして、さっき僕に花を手渡した女の子の赤色のワンピースが思い出される。

 あの女の子が着ていたワンピースも、この花の色に近い。”赤”ではなく”紅”であった事を思い出し、その子が言った「これは、あなたなの」という言葉が僕の頭の中で繰り返されている。

 あなた?

 不思議だった。この花が僕であるという事も、女の子が突然僕に花を差し出した事も。



 紅い花は、何日も僕の部屋を灯し続けてはくれなかった。たった数日で老いてしまった花は、色が掠れ、ぐったりとうなだれている。そして、僕を恨むような目つきで見ているような気もした。女の子に差し出された時の生き生きした風は既に感じることはできず、辛うじて息を繋いでいる老人のように見える。大切にしていたはずなのに、あっけなく生を終えてしまった。

 花の命は短い。

 僕の扱いが良くなかったせいなのかもしれないと反省の念に捕われたけれど、そんな事をしてみたところで、目の前の花が息を吹き返すなんて考えられもしなかった。

 僕は花瓶からその花を優しく持ち上げて、ゴミ箱の中に放った。



 それから数日が経ち、僕は花瓶を片付けていないことに気付いた。この部屋で毎日暮らしているにも関わらず、その花瓶が出しっぱなしになっている事に僕は全然気付いていなかったのだ。花の挿していないその透明な花瓶は、それ自体では酷く存在感の薄いものに感じられ、そしてなぜだか僕はとても悲しくなった。もう全て忘れてしまったはずなのに、僕の心が痛む事をどうにも隠す事ができない。

 紅い花が抜かれた、あの日のままそこに放置されていた花瓶は生きる糧を失くしてしまっているように見え、そして孤独にも見える。中に入ったままになっていた水はまだ透明のままなのに、それでは足りないみたいで、そしてその水もまた、自分の仕事を失ってしまった悲しみにくれているようだった。

 また別の花を買って、この花瓶に挿してあげよう。花瓶を見ていると、そう思わずにはいられない。そうすれば、この殺風景な部屋もまた少しは明るくなるような気がした。




 ・純白の花

 花瓶の悲しさに気付いた次の日、僕は花屋へと向かった。まだ同じ場所に置かれている寂しい花瓶に、何か一輪の花を挿してあげるためだった。花瓶は今もなお、表情と生きがいをなくしてしまったまま、僕の部屋で静かに息をしている。

 仕事を終え、花屋へ向かう途中僕はまたあの女の子と出会った。あの時と同じ紅いワンピースを着た女の子に僕はすぐに気付いた。女の子の目と僕の目が合うと僕に駆けて寄ってきて、そして何も言わないまま一輪の紅い花を差し出した。

 また、この女の子に会えるなんて思ってもいなかった。差し出された紅い花を受け取り、素直に「ありがとう」と言った。

「忘れないでほしいの」

女の子はとても小さな声で、でも強い言葉で僕にそう言って、また駆けて行ってしまった。”忘れないでほしい?”

 そういえば、もしまた女の子に会える事があったら僕はこの花の名を聞こうと思っていたのだ。僕は最初に花を貰ったあの日以降、いくつかの本を開きこの花の名を調べたのだけれど、それらの本にはこれと同じ花は載っていなかった。別に特殊な形の花ではないのに、その花はあえて誰かに隠されているように、すっぽりとそれらの本からは抜かれてしまっていた。だから僕は、結局この花の名を未だに知らない。



「これはあなたなの」

その言葉をまた思い出したのは、貰って帰った紅い花を花瓶に挿した時だ。置かれっぱなしになっていた花瓶の水を入れ替えてから、花を挿すと、殺風景だったこの部屋も一瞬にして明るく灯された。

 女の子が言っていたその言葉を大して気にしてもいなかったけど、冷静に考えれば可笑しな話だった。見ず知らずの女の子に突然花を差し出され、「これはあなた」などと言うのだ。そのまま受け取ってしまう僕も僕だけど、可笑しいのは僕だけではないような気もする。

 しかし、子供がいう事を一々真に受ける必要があるだろうか。僕はただ奇麗な花を受け取り、それを部屋に飾った。そして部屋がほんの少しだけ華やかになった、というその事実だけでもいいのではないだろうか。女の子だって、特に意味があって言っている訳じゃないかもしれない。考えれば考える程思考は一人歩きして、主軸とは違う思いも寄らぬ方向に行ってしまうのは、人間の悪い癖だと思う。

 一輪の紅い花は部屋を明るく灯す。何度見ても、その紅はとても美しかった。

 ただ、それだけでいいじゃないか。



 二回目に貰ったその紅い花が枯れた頃。僕はまたあの女の子と会う事ができた。

 女の子が真っ白なワンピースを着ていたためか、僕はその女の子があの時紅い花をくれた女の子とすぐに重なる事はなかったのだけれど、一輪の花を持ち、まるで僕を待っているかのように道ばたに佇むその姿は、紅いワンピースを着ていたあの女の子の風貌と何一つ変わらない。

 その風貌はたしかにあの時の女の子とまるっきり同じなのに、それでも服の表情が違うだけで、女の子の雰囲気は随分と異なって見えた。

 女の子はまだ僕に気付いてないようだったから、今度は僕から女の子に声をかけた。

「あの。前に貰った花が枯れちゃったんだけど……」

僕の声に反応してぴくりと体を震わせた。そして女の子は僕を見てから、無言のまま一輪の花を差し出した。

「あれ?……紅い花じゃないんだね?」

女の子が持っていたその花は、奇麗な白い花だった。

「これでいいの……」

女の子は小さな声でそう言ってから、また駆けていってしまった。

 もし今、女の子と出会った日のように一面に雪景色の広がるような日だったら、僕はすぐに女の子の姿を見失っていたに違いない。その着ている真っ白なワンピースと雪が同化して、雪に溶け込んでいってしまうように女の子は僕の視界からすぐに姿を消しただろう。

 でも今日は雪なんて降っていなかった。雨でもない、空には雲すらかかっていない。大きな月が煌々と夜空に浮かんでいるような日だった。

 走り去る女の子の後ろ姿は、そんな夜の中でとてもよく目立つ。真っ白なワンピースが、真っ暗闇の中に吸い込まれていっていくようで、僕は少し不安な気持ちを隠せずにいた。

 やがて僕の視界から消えてしまったその女の子はどこに行ってしまったのだろうか。



 そんな思いを残しつつ家路に着いた。家に着くなり、貰ったばかりの白い花を花瓶に挿した。

 こういう色を純白というのだろうか。僕は白い花を見つめながらぼんやりとそんな事を考えていた。純真無垢なその花は紅い花とはまた別の美しさを持っている。何も知らない清楚なその白い花は、以前飾られていた紅い花と同じで、僕の殺風景な部屋をとても明るく灯してくれた。

 白い花の美しさに魅了される。その花に心を奪われたままぼんやりと眺めていると、家のベルが珍しく僕を呼んだ。



 ・斑模様
 
 もしあの時、ベルが僕を呼ばなかったら。

 僕の頭の中には、あいつが押して鳴ったそのベルの音が繰り返し鳴り響いていた。

 あいつ……。僕の友人であるその人が僕を訪ねて押した家のベルに過ぎないのに、なぜこう何度も頭の中で鳴り響いているんだ。訪ねてきたあいつを僕は家の中に招き入れた。それは大した事じゃない。いつも当たり前のように行われる事だし、あいつが僕の家を訪ねてくる事も、なんら不思議な事ではないのだ。

 じゃあ、なぜ僕の息は今こんなにも荒くなっているのだ。右手に強く握られている花瓶、辺りに散らばった水、床に落ちた花、そして頭から血を流して倒れているあいつ以外には、僕の部屋に異常な事などないのだ。

 僕の持っている花瓶に付着したあいつの血が溢れて床に落ちた。僕はあいつをこの花瓶で殴り殺してしまった……?まだ息はあるのか……?僕の脳は物事を最初から整理して、ようやく僕が、今床に倒れているこの人間の事を殴ったのだと確信した。

 しかしそれに気付いたのは、十分に遅過ぎた。床に倒れている人はもう倒れたままで、これ以上僕にはどうする事もできなかった。

 僕が悪いのだろうか?……いや、それは違う。あいつが、この部屋になかった匂いを蘇らせようとしてしまった事がいけないのだ。僕はただ、この部屋を占拠している殺風景な風貌を守ろうとしていただけで、この部屋には花瓶に添えられた花の色以外は何一つあってはいけないんだ。

 それなのに、あいつは言ったんだ。

「最近、みゆきと付き合い始めたんだよ」

あいつはただそう言っただけだ。でも、それはとてもいけない事なのだ。”みゆき”という人間の匂いをこの空間に落としてはいけない。二年間、この部屋に匂いだけを残して突然姿を眩ましてしまったあの日以降、ここにはみゆきを存在させてはいけないんだ。だから僕は、それまでに使っていた全ての家具を捨てた。少しでも匂いのついているものは全て捨てた。部屋中に消毒を撒き、持っていた洋服も全て燃やした。

 それなのに……。それなのにあいつは意図も簡単にこの部屋に”みゆき”の存在を落とした。それは、本当にいけない事なのだ。

「みゆきな、言ってたよ。今はお前に謝りたいって、でもどういう顔をして会いに行ったらいいのか分からないって」

あいつの言葉を聞きながら、僕の血が急速に体中を巡る感覚を抑える事ができなかった。熱はどんどんと上がっていって、頭はすぐにでも内部から破裂してしまうのではないかと思う程の痛みを感じていた。

「あの時は、本当に我慢ができなくて、息が詰まりそうだったけど、今では本当に悪い事をしたって……。みゆき今外に」

あいつがそう言いかけたいるその時に、僕は右手に持ったその花瓶であいつの頭を思いっきり強打した。脆い音と共にあいつは床に倒れこみ、花瓶から溢れた水で僕の腕が濡れた。頭を抑えながら、低い声を出しているあいつを更に叩く。あいつの鈍い動きが完全になくなってしまうまで、何度も殴り続けた。



 部屋は驚く程に静かで、この世界から音がなくなってしまったのではないかと錯覚してしまう。あいつはもうピクリとも動かない。

 音のない世界は、異常なまでに僕の心を不安に晒した。

 ”どうしたらいい”

 ベルの音がなくなったと思えた頃、今度はそんな声が頭の中で繰り返された。

 ”どうしたらいい”

 その声を聞く度に、僕の息はみるみる上がっていった。息の吸い方と吐き方を忘れてしまい、それらのコントロールができなくなる。呼吸の動作は壊れた体が、壊れた速度で勝手に繰り返した。頭がぼーっとして、目眩が続く。

 僕はフラフラする体のまま外に出た。何の理由があった訳でもないが、ただこの場所にはいたくなかった。今すぐにでも逃げ出してしまいたかった。

 朦朧とする意識の中、道に出る。真っ暗闇の広がる空に、冷たい風が吹いていた。息は荒いままで、視界もはっきりとしないままだった。

 ふと顔を上げると、そこには一輪の花を持った女の子がいた。何度も僕に花をくれたその女の子だった。辺りが暗いせいか、それとも僕の視界が曖昧なせいか、女の子が着ているワンピースの色がうまく判別できない。それなのに、その子が持っている花の色はとてもよく見える。……どこかで見たような花だった。それはたしかに僕の記憶の中のどこかにしまわれている花なのだ。紅でもなければ、白でもない。紅い斑の花。

 ……そうだ。さっきだ。僕は今さっきその花を見た。あいつが倒れているその床に落ちた真っ白な花に、あいつの血が飛び散った。そしてそれは奇麗な紅い斑の花だったのだ。なんで女の子がそんな花を持ってる?それよりも、なんで女の子がここにいるんだ?……君は、誰なんだ?

 女の子は僕を見て、ニヤニヤと笑っていた。体の真ん中で紅い斑の花を一輪持ったまま。

「これはあなた」

女の子は僕を指差している。突然息が荒くなり、熱が異常な程に上がっていくのを感じる。女の子の先にみゆきの姿を見た。二年前とほとんど変わっていないその姿は随分と懐かしさを感じさせたけど、僕は今何よりも、ただ紅い花を求めているんだ。もう一度見たい。僕はもう一度紅い花を見たい。斑でもない、白でもない、真っ赤に染まった紅い花。

 僕は朦朧とする意識の中女の子に近づいていき、斑模様の紅い花をその手からむしり取った。そして、右手に持った花瓶を強く握り閉め、みゆきへと歩を進めた。

 ただ、この花が紅く染まるようにと。



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この小説について

タイトル 紅い花
初版 2015年5月29日
改訂 2015年5月29日
小説ID 4674
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浜川 悠の写真
熟練
作家名 ★浜川 悠
作家ID 886
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