【悪魔の十字架】 - 序章;死神の指輪

「もしもこの指輪に、本当に悪魔が憑いているのなら」

ニックは言いながら、
赤黒く変色した指輪を水の上に持っていく。

「飛び出して姿を現すでしょう」

緊張した面持ちで、
田中倫子(たなかみちこ)は
両手を組むと膝の上で力を込めた。

「……」
異国の言葉を呟くニックの手から、
指輪が水の中へ落とされる。

喘ぐような呼吸で、倫子は指輪を見守った。


夜になり、ニックは
黒っぽいスーツに着替えて部屋から出て行く。
薄い青のシャツ、
それに合わせた濃い青のネクタイと
胸ポケットのチーフ。

独り暮らしの気楽さで、
毎晩夕食を外ですませるニックのお気に入りは、
歩いて行ける繁華街にあるバーだ。

陽気でふとっちょの米国人バーバラが営む、
西部劇に出てきそうな雰囲気の、
外国人が多く集まる店だった。

「こんばんは、ニック」

アルバイトのレベッカが、
嬉しさを隠さずに抱きついてくるのも、
毎夜のことだった。

「奥の席が空いているわ」
「うん。ありがとう」

人生の半分を日本で過ごしたニックには
少し恥ずかしい習慣。
音を立てた軽いキスを頬に受け、
照れながら奥へ向かう。

サラダを肴に軽い酒を嗜んでいると、
約束した人が店に入ってくるのが見えた。

「カタオカ。こちらです」

不安そうに店内を見回す彼女に向かって、
ニックは手を振って居場所を知らせた。

知った顔を見つけた片岡優子が、
ほっと息を吐くのが遠目にも分かる。

「こんばんは」
「どうぞ座ってください」

ニックが片手で椅子を引く。

「お待たせしちゃったかしら」

優子は座りながら恐縮していた。

「いえ。ぜんぜん」

控えめに微笑むニック。

「カタオカは何を呑みますか」
「ここって」

異国語しか耳に入ってこない
周囲の喧騒に当惑しながら、優子が言った。

「メニューも外国語なの」
「カタオカ。大学では英語を専攻していましたよね」
「う。それは、まあ、そうだけど」

言いながらニックの手元を見た優子。

「それは、何」
「ジンライムです。ボク用に薄く作ってもらっています。同じものにしますか」
「お願いするわ」

様子を見ていたレベッカが、
ニックの合図に応える。

「コレと同じドリンクが欲しいのだけれど」

頷きながら、レベッカは
大げさな笑顔を優子に向けた。

「彼女はニックのお友達なの。紹介してよ」

困った表情でニックは肩をすくめた。

「仕事の依頼人です」

頭上で飛び交う早口の異国語に、
優子は必死で耳を傾ける。

「ああ。仕事関係なのね」

機嫌を直したレベッカが運んできたグラスを
優子が手にすると、
ニックは自分のグラスを軽く当てた。

涼しげな音は喧しい店内に掻き消される。

「再会を祝って」

優しい仕草と、静かな話し方。

「本当ね。お久しぶりです」

優子も笑顔で乾杯に応えた。

「早速だけど、どうだったかしら」

一口呑んで、優子はすぐ本題に入る。

「倫子の指輪」

グラスに唇をつけたままの姿勢で、
ニックは眉毛だけを動かしてみせた。

「あの子と会うのは久しぶりだったけれど、あんなに憔悴しきった顔には驚いたわ」
「ミチコサンはもう大丈夫です」

ニックは静かに言った。

「指輪に異常はありませんでした」
「そうなの」

勧められるまま人参スティックに手を伸ばす、
優子の笑顔がぎこちない。

大学時代に知り合ったニックを探して連絡を取り、
倫子に紹介したのは優子なのだが。

優子自身は、
彼のいわゆる『副業』を
心から信じてはいなかった。

翻訳を生業とするニックの副業『悪魔祓い』は、
彼が学生だった頃から秘密裏に行われていた。

噂で聞くだけの優子は、
彼の異国情緒たっぷりな外見と
神秘的な雰囲気が既に胡散臭い、と
常に思っていたのだ。

「何でもないなら、良かったわ」

ぼりぼりと元気な音を立てて
人参に食らいつく優子を、
ニックは嬉しそうに眺める。

「相変わらずカタオカは、美味しそうに食べますね」
「豪快って言いたいんじゃない」
「そして、相変わらず、ボクを胡散臭いヤツと思っていますね」
「うっ!」

オレンジ色の欠片が気管に引っかかり、
むせる優子。

「悪いとは思うのだけれど」

飲み物で呼吸を落ち着けて、
優子は悪びれることなく言い切った。

「私は、自分の目に見える事象しか信じないの」
「そうでしたね」

ニックの瞳は楽しそうだった。

アイドルのような扱いを受けていた学生時代、
彼女だけは普通かそれ以下の反応しか示さなかった。
だから、
卒業しても忘れなかったのかもしれない。

「でも、そういう物品にすがる人の気持ちが全く理解できないわけじゃないし。とにかく倫子には、あなたが必要と判断したのよ」

言い訳みたい、と
優子は話しながら思っていた。

「それで、あの子。どんな様子だったの」

ニックは頷くと、
穏やかな口調で昼間の出来事を話し始めた。


玄関を開けると、彼女は
青白く病的な顔色で立っていた。

「タナカサン、でしたね」

部屋に上げてからもその緊張は高まる一方で、
あと少しでも強い刺激を受けたら
倒れてしまうのではないかと思われた。

「は、はい。田中倫子といいます」
「ミチコサンは、珈琲と紅茶、どちらがお好きですか」

優しく穏やかに、
拙い日本語で話すニック。

「え、と」

倫子が顔を上げると、
ニックは対面キッチンの向こう側で
お湯のポットを掲げ、にこやかに待っていた。

「こ、紅茶を、お願いします」
「お砂糖とミルクは」

傷付いた小鳥を労る声色に、
倫子の硬い表情が溶けていく。

「ミルクだけで」

ほとんど何も置かないフローリングの広い部屋。

「はい。どうぞ」
「ありがとうございます」

キッチンの、すぐ側に置かれた
白くて小さな丸テーブル。

「まだ熱いですから、気を付けて」

カップに口をつけながら倫子は、
モデル・ルームのような室内を見回す余裕を、
徐々に取り戻していた。

カーテンのない広々としたガラス窓の両脇に、
天井まで届く大きなパキラの植木鉢が置かれている。

窓からの陽光が射す位置に、
皺一つないシーツ・カバーが掛けられた、
おそらくゲスト用だろう、
使用感のないキング・サイズのベッド。

壁に沿って設置された大きな本棚には、
異国の文字で書かれた書物が
びっしり詰め込まれ、
その前にあるのも、どうやってこの階まで運んだのか聞いてみたい、重厚な仕事机だった。

机の中央に据えられたパソコンのモニター画面は、
本棚の方を向いている。

「ミチコサンの依頼は」

ニックはモニターに向かい、
立ったまま軽くマウスを操った。

「指輪を浄化して憑物を落とす、という事ですが」

反対の手に持った珈琲を飲み、
やや離れた位置から倫子を見る。

「はい」

倫子はその視線から逃れるように下を向き、
持ってきたバッグから、
ハンカチに包んだ小さな塊を取り出した。

「拝見します」

珈琲カップをデスクに置き、
ニックは長い足をゆったり動かして
彼女の傍まで行くと、ハンカチを受け取った。

「大切な指輪なのですね」

包みを開きながらニックが静かに言う。
倫子は小さく頷き、
また、泣きそうな顔になる。

「今はもう、別れてしまったけど。恋人から」

包みの中からニックの手のひらに、
銀製の指輪が転がり落ちた。

「でも、なぜ」

倫子は不思議そうに訊ねる。

「まだ何もお話していないのに」

ニックは曖昧な微笑を浮かべて、
僅かに肩をすくめた。

「最近の若い方は」

あなただって充分若いのに、と
倫子は心の中で呟く。

「形が旧いとか飽きたとか、割と簡単にアクセサリーを捨ててしまうので。こんな風にボクの処へ来る子は少ないのです」
「そうだったんですか」

指輪は、
二匹の蛇が互いに絡み合うような
デザインになっていた。
女性が身に付ける装飾品にしては
やや大きめだ。

今は赤黒く汚れてしまった指輪を、
広げた手のひらに載せて
横から眺めるニック。

彼の指にも大きな指輪が幾つか
嵌められていたので、
ぶつかり合わないための配慮かもしれなかった。

「ミチコサンは、なぜ、これに悪魔が憑いていると思ったのですか」

テーブルの脇に立ったまま聞く彼に、
倫子は躊躇いながら話し始める。

「それを着けるようになってから、何度も怖い思いをしたんです」
「どんな」
「……黒い影を見たり、不幸が続いたり」
「ミチコサンのご家族に、ですか」
「いえ。全部会社での出来事です」
「そうでしょうね」
「え」

思い出そうとするだけで鳥肌が立つほど
恐ろしい彼女の記憶に、
ニックの相槌は意外にも軽かった。

「でも。本当に、嫌なことが続いて」
「その会社には今でもお勤めですか」
「いえ。辞めました……」

下を向く倫子の顔が歪む。

「……私のせいで、みんなが不幸になるから」

それには応えずに、
ニックは黙って指輪を見つめる。

「思い出すのは辛いでしょうけど」

短い沈黙のあと、
ニックが倫子に向かった。

「出来るだけ正確な順番で、起きた事件を、詳しく教えてくださいませんか」

唇を噛みしめた倫子の顔をそっと覗き込み、
ニックは励ますような優しい微笑を浮かべて、
彼女の向かい側に座った。

「一番初めは、倉庫の中で見た黒い影でした」

倫子が勤めていたのは文房具を扱う会社で、
事務職ではあったが、
サンプルなどを取りに行く為に、
隣接された倉庫に入ることは日常だった。

倉庫は埃っぽくて薄暗く、
彼女はいつも早足で
用事を済ませようとしていた。

その当時付き合っていた恋人から貰った指輪を、
倫子はネックレスにして胸にしまっていた。

「何か、気持ち悪いんだよねえ」

周囲を見回し、
倫子は無意識に服の上から胸元の指輪を掴む。

「でも、今日からはこの御守りがあるし」

手元の伝票を見下ろして、
必要な品物をピックアップしていく。

作業に意識が集中した、その時だった。

窓に石が当たるような、硬いが軽い音を聞き、
倫子は音のした方へ顔を向ける。
見上げる高さに設置された、採光用の窓。
その窓の下を、
黒い影のようなものが通ったのだ。

「え。何、今の」

思わず声が出た。

カラスみたいな鳥が窓の外を飛んでいった。
その影が映ったのだ、と
倫子は自分に言い聞かせ、急いで倉庫を出た。

「うわ。眩し……」

薄暗い倉庫のせいで夕方を連想していたようで、
昼間の太陽が真上から照らす外の景色に
一瞬目が眩む。

それが、初日の出来事だった。

仕事柄、倉庫には毎日用事があった。
気にしないように、と、
採光用の窓をちらちら見上げる自分がいた。
黒い影は、
倫子が作業に没頭すると視界の淵に現れる。

「もうっ!いいかげんにしてよね!」

数週間の我慢が、昼休みに爆発した。

「どうしたの。何かあった」

同僚が訊ねてくれたので、
倫子は倉庫の出来事を話して聞かせる。

「ああ。それ、聞いたことあるよ」

同僚の返事は意外な方向に進み、
倫子の体験は気のせいなんかではなく、
会社の七不思議みたいに噂されているものだと
判明する。

「黒いマントに骸骨の顔だって。漫画の死神みたいだよね」

翌日、噂を調べてきた同僚が
更に情報を追加して。

「倫子ちゃんが見たのも、そんなのだった」
「そこまではっきり見てないよ」
「悪霊退散〜!とか叫んでみる」
「嫌だわ、そんなの」

興味津々の同僚と立場を入れ替えたい、
などと、
半分笑って話しながら昼休みが終わった。

次の日にはもう、
噂を聞きつけた年配の社員が、
昼休みを待って倫子のところへやってきた。

「あんたねえ、気を付けなさいよ」
「何がですか」
「ええ。だって、見たんでしょ」
「はっきりと見たわけじゃないん」

先輩社員は倫子の言葉をぶった切る。

「見ちゃった人には不幸が起きる、って、言われてるのよ。昔から」
「は、はあ」

どんな昔からこの会社が存在していたのか、
倫子は笑いを堪えながら、
真面目な顔で話す先輩社員を見ていた。

しかし、その週末。

「集金でえす」

経理の男性社員が事務所内を巡回してきた。

彼は倫子の机にもやって来て、
トレイを差し出す。

「何かあったんですか」

財布を開けながら訊ねる倫子。

「総務の吉田さんに不幸がありまして。明日通夜で日曜日が告別式なんですけどお、来られない人は香典だけ」

紙幣を取り出す倫子の指先が僅かに震える。

「ご、ご愁傷様です」
「はい、一応これ領収書。後で会社から返金あると思うんで」

男性社員は事務的に用事を済ませ、
次へ移動していった。

「嘘でしょ」

昼休み、
倫子は同僚に青ざめた顔を向けていた。

「偶然だって、こんなの」

パックの牛乳を飲みながら、
同僚はあっけらかんとしている。

「あの人けっこう年だし、亡くなった旦那さんだって年上で、持病あったらしいじゃん」
「そ、そうだよね」

ところが、
気分の悪い偶然はそれきりで終わらず、
倫子が黒い影を見ると
必ず社内で何か事故や事件が
起こるようになっていったのだ。

不安が募り、よく眠れない夜が続き、
そのせいで悪夢ばかり見るようになる
悪循環。

指輪を贈ってくれた恋人とも関係が遠のき、
決定打は同僚の事故だった。

「ねえ、倫子ちゃん」

見舞いに行った病院のベッドで、
同僚は恨めしい声を出した。

「本当は昨日も、倉庫で見たんでしょ」

これ以上会社での居心地が悪くならないように、
倫子は聞かれても応えない姿勢を貫いていた。

「ど、どうして、そんな事聞くの」
「だっておかしいんだもん」

彼女が巻き込まれた不幸な事故は、
確かにありえない状況だった。

いつも通り、倉庫に
用事を足しに歩いて入っていった彼女に、
充電コードを繋いでいたリーチフォークが
突然突っ込んだのだ。

作業員は休憩中で
側には誰もいなかった。

コードはしっかりロックされていたし、
車輪止めもちゃんとセットしてあった、
にも関わらず、
その機械は音も静かに彼女を轢いたのだ。

「前例がないって、社長も言ってた」
「……ごめんなさい」

彼女が謝る必要は全くない。

筋違いなのだが、
言わずに去れない空気に圧され、
倫子はそう言い残して足早に病室を出た。

これ以上迷惑はかけられない。

揺らいでいた気持ちが決心に変わり、
彼女の辞表はあっさりと受理される。

「悪いのは指輪ではなく、その倉庫に棲む何かだと思うのですが」

静かに聞いていたニックは、
彼女が肩で息をするのを見ながら、
ゆっくりと言った。

「でも、それ、見たでしょう」

倫子が指輪を示す。

「少しずつ染まったんです、それ」

銀色だったはずの指輪。
絡む蛇の部分が血を浴びたように赤黒い。

「他人の不幸を吸ったんです、きっと」
「なるほど」

方向が違えば素晴らしい想像力なのだが。

ニックは、
灰皿くらいの四角いガラス容器を、
キッチンから白いテーブルへ移動させた。

指輪を摘み、
興味を示す倫子の目の前にかざして言う。

「ボクは子供の頃、正式に洗礼を受けました」

ガラス容器には、
祝別された塩水が縁まで満たされている。
倫子は黙って頷いた。


「それで、倫子はこれからどうするって」
「あれ。カタオカに連絡いってませんか」

フォークでレタスを大量に拾った優子が、
目を上げる。

「まだ、電話もメールもないわよ」
「おかしいですね」

首を傾けるニック。

「疲れたから明日にしよう。とか思ったかしら」
「それはアリです。彼女、相当緊張していました」

店内に響き渡る陽気な音楽と大きな笑い声。

深刻な空気が持続するはずもなく、
優子は自分のお腹を押さえた。

「ニックはもう夕飯食べた。私、仕事帰りでそのまま来ちゃったから。お腹空いたわ」
「ボクもこれからです」

久しぶりに誰かと食べる夕食。

遠慮しない優子の元気な食事風景に、
ニックはただ穏やかな笑みを浮かべていた。

「ああ、美味しかった!」

外に出ると、
夜風がまだ少し冷たかった。

「ボクはほとんど毎日ここに居ます」

ニックは満足そうに伸びをする優子に言う。

「気が向いたらまた来てください」
「そうね。食べてみたいメニューがまだまだいっぱいあったし、しばらくは楽しめそうだわ」

じゃあ、と
元気に去っていく優子の後ろ姿を、
少しの間見送るニック。

小さなため息を夜道に落として、
彼も帰路についた。

後書き

一人暮らしは自由だけど、
時には誰かと談笑しながらご飯が食べたい。
そんなボクって我儘ですか?

この小説について

タイトル 序章;死神の指輪
初版 2016年1月14日
改訂 2016年1月14日
小説ID 4748
閲覧数 423
合計★ 3
アクアビットの写真
ぬし
作家名 ★アクアビット
作家ID 666
投稿数 29
★の数 67
活動度 7901
継続の大切さと恐ろしさを実感する今日この頃

コメント (2)

★そら てんご 2016年1月14日 16時25分28秒
我儘じゃあないよ。みんなあそうじゃ。
見たぜよニックさん、なつかしいじゃありませんか。最近はスマホバージョンでの出演が多いがかよ。慣れてないのと似ちゅう字やから、倫子と優子の見分けが上手くいかんかった。そんで何度か読み返しになったがねえ。けんど不思議な世界観やね。この先の展開を楽しみにしちゅうがです。
★アクアビット コメントのみ 2016年2月8日 22時39分31秒
そらさんへ>>
コメントありがとうございます!
ファンタジーの世界観は表現が難しいです。
自己満足にならないように、気を付けて書いたつもりですが、
どうかな〜。
毎週一品、載せていこうと思っています。
お楽しみに〜^^♪
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