【悪魔の十字架】 - 第一章;再会

ニックの朝は遅い。
窓から差し込む陽光が、
フローリングを充分温めた頃に目を覚ます。

「……誰」

視界の先に、二つの目を持つ何かが居た。

それは、ベッドの背もたれを止まり木のように使って、
彼の顔を逆さまに覗き込んでいた。

『ここはクセエな』

錆びた歯車が砂鉄を噛むと
こんな音になるかもしれない。

『俺様のキライな臭いだ』

音がしない翼を広げるそれは、
重さのない存在感でニックの視界を真っ黒に染めた。

「キミは……まさか」

名前を呼ぼうとして、ニックは口を閉じる。
放置された生塵みたいな酷い悪臭が、
その大きな身体を取り囲んでいて、
ニックは急いで起き上がると、
息を詰めたまま香炉のスイッチを入れに走った。

この部屋でユリの香を焚き続けるのは、
必須の日課だった。

指に嵌める銀の指輪がそれぞれ意味を持つように、
ユリの香にも確かな理由がある。

『ヤメロよお。せっかく弱まってたのに』

背もたれから床に降り立つ頭部が、
天井に届こうとしていた。

蝙蝠に似た黒い羽、三本の指、
その先に尖る、湾曲した鍵爪。

骨と皮だけに見える細長い手足だが、
そこに信じられない怪力が宿っていることを
ニックは知っている。

『なあなあ』

それは甘えた声を出す。

『また呼んでクレよお。俺様のナマエを』
「嫌だ」

端整な顔を歪め、
ニックははっきりとした口調で言った。

「ボクのせいで、キミはそんなに大きくなってしまったのだろう」
『そうだケド、少し違うぞ』

風のない部屋で、羽の先が揺れて見える。

『半分だけだ、オマエの力なんか』
「じゃあ、なぜボクの前に現れた」

ユリの香が広がり始めていた。
ニックは瞳に強い力を宿して睨みつける。

「もっと力が欲しくなったからじゃないの」
『それだ』

嬉しそうに身を縮め、翼を揺さぶる。

『俺様とマトモに目を合わせるなんて』

可笑しそうに笑う音声が耳に痛い。

『やっぱスゲエよニック。オマエ本当にニンゲンか』
「……消え去れ」

ニックの両手が神に祈る形をとった。
交差した銀の指輪が陽炎を起こす。

『ワワワ!ちょっと待て!待ってクレって』

細長く凶悪な腕を振り回し、
それは慌てた仕草で懇願した。

『イバったりして悪かったよお。そうそう、オマエのオカゲなんだ、今の俺様があるのは』

加虐心を煽る情けない声、弱い物腰。

「ボクは騙されないよ」

目を逸らさず、破邪の構えも解かずに、ニックは言った。

「本当のことを言って」

断ることを許さない力を持った言葉。
黒いそれは、
観念したように床に胡坐で座り込んだ。

「どうして、今になってまたボクの前に現れたの」

湾曲した大きな鍵爪の一本がニックを指す。

『契約が切れてないダロ』

はっと表情を引き締め、
自分の手首を見下ろすニック。

『その刻印(しるし)が俺様を縛ってんダヨ』

ニックが夏でも長袖の理由。
手首には、
悪魔と契約した印が刻まれていた。

「それにしては随分長い間、好き勝手飛び回っていたみたいだけど」

ニックは思い出し数える。

「キミが消えてから、もうすぐ十年だ」
『ニンゲンに十年は長いのか』
「まあ、いいよ。それで」

ニックはのらりくらりと脱線する話を元に戻した。

「そんなに強くなったキミが更に力を欲しがる、ってことは、強敵でも現れた」
『ナンだ、わかってんならハナシは早いな』
「憶測だよ」

ユリの香が、
白く煙るほど部屋に充満していた。

胸焼けでもしたように腹の辺りを抑えて、
決めたらしい。

『どっかのバカが門を開けちまったんだ』

黒いそれが話し始めた。

「門」
『俺様がうまれたセカイに繋がる出入口と思ってクレ』
「開けちゃいけなかったの」

興味を示し、ニックは椅子を引っ張ってくると
それの前に座った。

『そんなのは、俺様が知ったこっちゃねえ。ちょっと面倒クセエのが、ヒマ潰し、って出てきやがって』

くすんだ灰色の肌に埋もれた黒い瞳。
表情がはっきり見えるはずもないのに、
ニックは小さく笑った。

「苦手な誰かが出てきちゃったんだね」
『俺様は大、悪魔だぜ』

丸まっていた大きな背中を逸らして
威張ってみせるそれに、軽く頷くニック。

「元は小さなゴブリンだったじゃないか」
『オマエ……喰いコロスぞ』

延ばされた腕の先にある三本の鍵爪が、
人間の細い首を掴んで余る。

「……」
すかさず異国の言葉で紡ぐ聖書の一文。
『うわっ!あちっ!イテエ!』

延ばされた時よりも速く、
火傷をした指が離れていった。

「この十年で強くなったのは、別にキミだけじゃないよ」

銀の指輪が眩しいほどに輝いて見え、
充満する白い煙がこの場での優劣を決めていた。

『悪かったよお。冗談だ、ちょっとイラっとしただけだ。で、俺様のナマエは思い出したか、一回呼んでみてクレないか』
「少し考えさせて」

ニックは椅子に座った足を組み、
膝に肘を載せると窓の外を見た。

快晴の青い空だった。

『まあ、俺様は急がナイけど』

含んだ言い方に、ニックは室内へ視線を戻す。

『困るのはオマエのほうだと思うぞ』
「どういう」

言いかけたニックの耳に、
来訪者が押すインターフォンのチャイム音が聞こえた。

「お願いだから、起きたら携帯のマナーモードは外して」

玄関のドアを開けて迎えたニックに、
来訪者は先ず、そう頼み込んだ。

隙間からユリの香が、外へと吸い出されていく。

「ごめんなさい。カタオカ」
「もちろん朝のニュースなんて見てないわよね」

玄関に立ったまま、優子が話を始める。

「これからチェックするところですが」

ニックは客用のスリッパを出しながら誘った。

「中で話しますか」

黒いそれは部屋のど真ん中に立っていて、
悪戯を仕掛けるワルガキみたいな雰囲気で
優子を見下ろしている。

大丈夫、彼女には見えない。

「そうね、玄関先で話すような内容じゃないか」
「お茶を用意しますから、カタオカは座ってください」
「ありがとう。おじゃまします」

脱いだ靴を揃え、スリッパに履き替えて、
優子は部屋の真ん中を横切るように、
キッチン前の白い丸テーブルに向かってくる。

ポットに水を入れながら、ニックは
彼女の身体が
黒い物体をすり抜けるのを確認していた。

「あのね、ニック」

エレベーターの中でも走ったのか、
優子の息は少し荒い。

「倫子が、亡くなったの」
「え」

優子の肩越しに、
黒いそれがニヤニヤ笑うのが見えていた。

「亡くなった、って……どうして」
「事故よ。今朝のニュースで私も知ったの」

駅に入ってきた電車が起こす風にあおられ、
女性がホームから転落、
車体に接触した。

ほぼ即死だったらしい。

過労で貧血を起こしたのでは、と、
ニュースキャスターが補足していた。

「すぐにあなたに電話したのだけれど、繋がらなくて」
「そうだったのですか」

ニックは飲み頃の温度まで下げた紅茶を
優子の前に差し出す。

「とりあえず、息を落ち着けましょう」
「うん」

カップに口をつけようとして、
優子はそのままニックを見た。

彼は珈琲カップを持って
パソコンのあるデスクに向かい、
立ったままマウスを動かしている。

「ねえ、ニック」

小さく優子が呼んだ。

「はい」

顔を上げずに応えるニック。

「あの指輪、本当に何でもなかったの」
「そうですが、どうして」

一瞬返事が遅れた。
優子は気付かないふりで続ける。

「昨日の夜中にメールが来ていたみたいで。私、今朝になって気付いたのよ」
「そこに指輪のことが」
「ううん、明記されていたわけじゃないのだけれど」

優子の歯切れが悪い。

「やっぱり怖い、で終わっていたの」
「やっぱり、の部分がカタオカには気になるのですね」
「そうね」

小さく肩をすぼめて、認める優子。

「解決したはずの問題点だから」

事故の記事を発見したのか、
ニックの視線が
モニター画面を斜めに走っていく。

「彼女、会社のことは何か言っていませんでしたか」

そのままの姿勢でニックが訊いた。

記憶を辿る優子。

「私が居ると不幸が起きるって話。ありえないって否定したけど」
『次のエモノにその女が選ばれたぞ』

楽しそうに黒いそれが発声した。

「何。頭が痛い……風邪かしら」

同時に優子がこめかみを抑える。

「そうかもしれません、カタオカ。今日は家でゆっくり休んだほうがいいです」

ニックは優子に近付くと額に手のひらを当てた。

「ああ。少し熱いです」
「そ、それは!急に触ったから」
「え」

慌てて立ち上がる優子。

「何でもないわ。でも本当に帰ったほうがよさそう」
「ミチコサンのことはボクがもう一度調べ直してみます」
「うん。お願いね」

下まで送るという申し出を断って、
優子は一人でエレベーターに乗った。

「はあ。びっくりした」

ニックの温かくて繊細な指の感触が、
まだ額に残っている。
とにかく一旦帰って心を落ち着けよう。

「今日が休みでよかったわ」

玄関のドアが閉まると同時に、
ニックは後ろを振り返り、
嫌な薄笑いを消さないそれを見上げた。

「彼女が獲物って、何。誰が狙っているの。ミチコサンもそいつのせいで亡くなったの」

矢継ぎ早な質問に、
そっぽを向いて聞こえないふりをする。

「教えないつもり」

ニックの唇から、邪悪を消し去る言葉が漏れ始め、
黒いそれは慌てて両腕を振った。

『焦るな、ニック。俺様とトリヒキしよう』
「これ以上、悪魔と取引なんかしたくない」
『お互いのタメになるハナシだ。本当に聞かなくてイイのか』

下ろしたニックの両手が固く握られた。

「……ボクはキミに何をすればいいの」
『ナマエを呼んでくれるだけでいい、ってさっきから言ってるダロ。俺様はそのタメにココへ来たんだぞ』
「呼ぶと、どうなるの」

目の端が笑ったように感じた。

『あの女を狙ってるのが、門から出てきたメンドウなヤツだ。このままだと逆に俺様が喰われて、ヤツは更にチカラをつける。そんで、女もオマエも全部丸呑みだ』
「キミはボクの味方、みたいな言い方だね」
『おお、そうだ。それだ。ミカタってヤツだ』

黒い悪魔が全身を揺らして大きく頷くと、
蝙蝠みたいな背中の羽が、
傘を畳むような音を立てた。

「……呼ぶだけでいいの」

躊躇うニックの間近ににじり寄り、
黒くて大きな悪魔は
足踏みをしながら何度も頷く。

『イイんだ。それがホシイんだ、俺様は』

心が揺れる。

唇を噛みしめたニックは一度、
目を強く閉じた。
拳に入った力を、
肩の力と一緒に抜いて深呼吸する。

せかせかと揺れながら待つ悪魔を見上げ、
視線を合わせた。

『ウ〜!その目!』

剥き出した歯はどれもみな
犬の牙みたいに鋭く尖っていた。

「……アロン……」

ガラスが割れる音がした。
驚いて振り向き窓を見たが、割れてはいない。

白い丸テーブルが、細かく震えて音を立てている。
地震かとキッチンの小物を見るが、
そちらは全く揺れていない。

早くも後悔の気持ちでいっぱいになって見上げると、
アロンの両眼から血のような赤い液体が流れていた。

「アロン」

湾曲した手足を限界まで突っ張って、
硬直したまま動かない自称「大」悪魔を、
ニックは心配そうに見守る。

「どうしたの、アロン」
『ヒイイ』

三度目の呼び声に、
アロンは全身の産毛を逆立て、
細長い手足をわななかせ、
血の涙を流し続けた。

「アロン大丈夫なの」
『ヤバイ、ヤバイって。ちょっと待てって』

どこから生まれ湧き上がってくるのか、
この大きな器にも収まりきらない力が、
アロンを壊す勢いで膨れ上がっていた。

『イテテ、イテテ』

痛がりながら嬉しそうだ。
黙って待つニック。

ようやく落ち着いたアロンが、
苦しげに捩っていた身体を起こすと、
とさかに見える頭の部分が
天井に刺さっていた。

「アロン、少し大きくなった」
『入りきらないホド貰っちまったからな』

錆びた歯車だったギザギザの高音の声までもが
少し低く、威厳すら伴うものに変わっている。

相変わらず不快感は消えないが、
聞き取りやすくなったアロンの声質に
ニックの耳がほっとした。

「さあ。約束だよ」
『何のハナシだ』

牙を剥き出し、アロンは
天井の高さから大いにしらばっくれた。

「キミがそう言うのは想定内だったよ」

哀しい表情になったニックは、
ため息ひとつ、
その場に片膝をついて手を組むと
静かに俯く。

神の前に畏まる正式なその姿勢に、
アロンは一瞬怯えて羽を広げたが、
何を思い直したのかニヤニヤ笑いながら
その場に留まる。

「ボクは、キミの契約者でもあるんだぞ」

美しい彼の唇から漏れ出た言葉が、
空中で金の糸に変わる様は、
真に宗教画のようだった。

『スゲエ』

驚嘆するアロンの声が震えている。
己の存在が端から消えていく感覚。

最期まで残るのはどの部分なのか、
興味深い実験ではあったが。

『冗談だ。悪かったよニック』

本当に消される前に、アロンは降参した。
これだけ力を増してもニックには勝てないのだ。

ああ、この人間だけは、誰にも渡したくない。
執着心なんてないはずの悪魔に芽生える独占欲。

「カタオカを狙っているのは誰」
『カタオカってのかあの女は』
「話を逸らさないで」

珍しく、
苛々した様子を顕にするニック。

早くしないと、今この瞬間にも
彼女が倫子と同じ目にあってしまう。

『誰でもイイダロ。今から俺様が喰ってきてやるんだからよ』

大きいのに重さを感じさせない真っ黒な翼が、
ニックの目前に広がる。

『あそこを開けてクレよニック。香のせいで抜けられないぞ』
「アロン。本当に約束してくれるの」

ドアノブに手をかけたニックが、
背中越しに浮かぶ大悪魔に確かめる。

何かの果実みたい
に小さく見える人間の後頭部に、
アロンはうっすらと笑ったまま声を投げた。

『ああダイジョブだ。ヤクソクだ、ニック』

玄関のドアが開き、
アロンは快晴の空へ向かって飛び去っていく。

すぐに消えてしまったその姿を空に探しながら、
ニックは信じる気持ちと疑う気持ちで
渦を巻く自分の心を、何とかなだめようとしていた。

後書き

厄介な奴。次回、登場します。

この小説について

タイトル 第一章;再会
初版 2016年1月18日
改訂 2016年1月18日
小説ID 4750
閲覧数 449
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アクアビットの写真
ぬし
作家名 ★アクアビット
作家ID 666
投稿数 27
★の数 63
活動度 8017
長期休暇を貰っても𠮟られなかったのは、ぱろしょだけでしたね〜。ありがとう、またいつか、どこかで・・・

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