【悪魔の十字架】 - 第三章;水の精霊

「いってきます」

玄関が開き、
水色のランドセルを背負った子供が
元気に廊下を走っていく。

「いってらっしゃい。気を付けてね」

見送る母親の明るい声。
平和で幸せな朝の風景だ。

「おはようございます」

高層マンションの一階、
広いエントランスで、
朝帰りのニックと小学生がすれ違った。

「あ……おはよう、ございます」

自分に言われたと気付き、
慌てて返事をするニック。
徹夜明けで眠たい目をしばたき、
走り去る背中を見送る。

待っていた友達と合流して、
子供達は楽しそうに話しながら歩き去った。

「おはようございます。僕宛の郵便物は、ありますか」

管理人室の小窓を少し屈んで覗き込む、
背の高いニック。

「はいはい、おはようございます。小林さんね、ありますよ」

少しだけ待たされて、封書の束を受け取る。

エレベーターに乗り、ニックは早速目を通した。
契約している会社からの茶封筒や、
派手で不必要なDMの間に、
葉書が一枚挟まっていた。
……誰だろう。
ニックは差出人を確かめる。

「父さんからだ」

宛名書きのお手本みたいな文字が、
離れて暮らす彼を想い、
懐かしがっていた。

通っていた中学校の同窓会があるようで、
参加可否の葉書が届いたという。

「中学校の同窓会か、どうしようかな」

部屋に戻り、ニックは
着替えもしないでベッドへ横になった。
疲れと眠気が限界で、
彼は葉書を眺めたまま眠りにつく。


夢の中で、彼は十二歳だった。
よくある赤いチェック柄のシャツに、
ブルージーンズ。

芝生の間に
クローバーの白い花が群生する小さな丘。
神父の小林が営む、
教会付きのペンション。

そこで暮らす彼は、独りぼっちだった。

お父さんが居ない。
お母さんも、居ない。
言葉が、よく分からない。
生活の習慣や価値観、なにもかもが、今までと違う。

海外生活の間に結婚をして
ニックを産んだ母が、小林の姉だった。
弟のペンションを手伝う為に、
彼女は一家で日本に帰ってこようとしていた。

その飛行機が墜落事故を起こす。

奇跡的に助かった生き残りの中に、
ニックの両親は居なかった。

「ニック、どこだい」

小林の声がする。
優しい声、母親に似た顔立ち、銀縁の眼鏡。

クローバーの陰に寝そべっていた
ニックが身体を起こす。

「ここです、おじさん」
「ご飯ができたよ。一緒に食べないかい」
「はい。すぐ行きます」

嫌われないように、捨てられないように。
ニックは良い子であろうと努力した。

「こんにちは、ニック」
「こんにちは、アキホさん」

教会のオルガンで
賛美歌を弾く秋穂さんは、
若くて明るい、元気な女性だった。
本番以外に、
一日一回はオルガンを弾きに来る。

毎回必ず、一緒にご飯を食べ、
ニックと話をして帰っていく。
彼女に対しても、ニックは
常に優等生であろうと気を張っていた。

「今日も、日本語の練習しよっか」
「はい。お願いします」

まだ何も知らない純真な瞳は、
哀しみでいっぱいだった。
誰が見ても、ニックは、
深く傷付いた可哀想な子供だったのだ。



『オマエも、独りぼっちなのか』



涙が耳に入る感触に、ニックは目を覚ました。
仕事用のスーツを着たまま、ベッドで眠っていた自分。
握り締めたままの葉書がしわくちゃになっていた。

『イヤな臭いだ』

夢で聞いたものと同じ声がした。

『それ、コバヤシだろ』

目線を上げると、
アロンがベッドの背もたれに乗っかって、
逆さまに彼を覗き込んでいた。

「キミには関係ないよ」

目尻を親指で拭い、
ニックは起き上がると浴室に向かう。

『何だよお。行くんダロ、あそこに』

シャワーで髪を洗うニックの肘の先、
壁から顔だけ出す形でアロンが追ってくる。

「まだ決めてないよ」

相手がどこに居ようと
お構いなしの悪魔に呆れながら、
ニックは力なく応えた。

『でも俺様はヨウがあるんだ』

楽しそうに聞こえたその台詞に、
泡を流すニックの腕の動きが止まる。

「何。父さんに何かする気」

警戒心を強めたニックの声色に、
アロンはニヤニヤ笑いを返す。

『さあてな。どうダロな』


週末、ニックは
銀色のレンタカーで高速道路を走っていた。
帰郷を告げた電話の先で、
小林の声が嬉しそうに震えていた。

思えば、中学校を卒業後上京してから、
一度も里帰りをしていない。

ニックは高速道路の左車線を
のんびり走っていた。
開けた窓から吹き込む風が、
高度を増すほど清々しくなっていく。

いつもならビル群に遮られる風景が、
今日は果てしない奥行きを見せ、
水色の空の下には
黒々とした山脈が横たわって見えていた。

「懐かしいな」

目を細めて微笑みながら、
ニックは思わず声に出していた。

高速道路を降り、
山に向かってしばらく走り、
銀色の小型車は
緑が美しい小さな丘目指して舗装路を登っていく。

丘の頂上に見えてきた、煉瓦造りの教会。
そこへ続く砂利の小道へ進路をとり、
教会前に車を停めた。

車から降りたニックが、
疲れた腰を伸ばしながら建物を見上げる。
綺麗な赤茶色だった煉瓦が、
風化して渋みを増していた。

「そんなに経ったのかな」

独り言を呟くニックの後方から、
女性の大きな声がした。

「小林さあん」

今日帰郷することは、
小林以外誰にも言っていない。

同窓会へ行くかどうか、
ニックはここへきてまだ決めかねていた。

誰かは判らないが、
元気よく丘を駆け上ってくる姿が見える。
ニックは黙って待った。

「すみません、遅くなっちゃって」

女性は徒競走の後みたいに息を切らし、
膝に手を付いて呼吸を整えようと下を向いている。

「もしかして、アキホさん」
「え」

せっかくお化粧した額に
汗を浮かべた女性が顔を上げる。

「え、小林さん、じゃない。ごめんなさい、人違いで」

慌てて謝る、
大人の女性になった感じがする秋穂さん。

「考えてみたら、彼がこんなに若いわけないわ。でも、背中の感じがそっくりで」

言い訳しながら、
彼女の中で何かが閃いたらしい。
考え込むように細めていた目が、
見ているうちに見開かれていく。

相変わらず、実にわかりやすい人だ。

「まさか。ニック!?」
「お久しぶりです」

少しぎこちないが笑顔を浮かべてみせる。

「嘘!」

まだ荒い呼吸の口元を両手で覆い、
卒倒しそうな勢いだ。

「声だって違うし、あ、声変わりしたのね。それにしてもなんていい男に」

……心の声がそのまま表に出ていますよ、
秋穂姉さん。

「おや、ニックだ。おかえり」

教会の方から小林が姿を現した。

「やあ、秋穂さんも。こんにちは」

まるで昨日の続きみたいに落ち着き払った小林が、
再会の高揚した雰囲気をぶち壊していく。

「ちょうど良かった、新作のパンが焼きあがったところなんです。試食してくれませんか」
「食べます!」

飛びつくように返事をする秋穂さんに頷いて、
小林はニックを見た。

「いい車だね。ペンションの駐車場に回してもらおうかな」
「レンタカーだけど」
「ニック、車運転していいの!」

秋穂さんが驚いている。

「ボクもう、二十四なので」
「ええ!じゃあ、私何歳」
「さあ」

指折り数える秋穂さん、
面白そうに笑いながら歩きだす小林。
変わらない二人の空気が、
ニックの緊張を解していた。

教会から少し丘を下りた場所にあるペンションの、
駐車場に車を停めて顔を上げると、
なるほど焼きたてパンのいい香りが
風に乗って運ばれてきていた。

久しぶりの挨拶を、
新作パンと紅茶でかわす三人。

薄い水色のワイシャツを
ノーネクタイで着こなすニックを、
秋穂さんは間近でじっと見つめ直す。

「ね、背中の感じが小林さんそっくり」
「そうなんですか」

自分の背中なんて見たことがないから、と、
小林が穏やかに微笑む。

「私はずっと見てきたから」

言いかけて黙り込み、
秋穂さんは僅かにほほを染めて紅茶を飲んだ。
見事なまでに鈍感な小林は、
その罪な笑顔をニックに向ける。

「同窓会は明日の夜だったね。どうするか、決めたかい」

申し訳なさそうに、ニックは俯く。

「いえ。まだ」
「そうか、そうか」

微笑む小林が手を延ばし、
ニックの頭を優しく撫でた。

「二階の奥の部屋を空けてあるからね。しばらく泊まっていけるなら、手伝って欲しいことがあるんだよ」
「パソコンさえ繋がれば、仕事はここでも出来ますから」
「ニック、仕事してるの!」
「ええ、まあ」

秋穂さんの質問攻めにちょっと困り始めたニック。
小林が助け舟を出した。

「荷物は自分で運べるね。秋穂さん、新作パンの味はどうだったかな」
「あ。すごく美味しかったです!」
「秋穂さんは美味しいしか言わないねえ」
「だって、本当に美味しくて。中に入っていた木の実、ですか。あれがまた焦げた感じで、香ばしくて」
「……失敗だったか」

小林の目配せに、
ニックは小さく頷いてそっと席を立った。

車から荷物を降ろし、
ペンション二階への螺旋階段を昇る。

快適な一人用の小部屋で、
慣れない車の運転疲れを取ろうとベッドに横たわった。
少し開いた窓から高原の空気が流れ込み、
ニックはいつの間にか眠っていたようだった。

「……ニック」

呼び声に目を開ける。
部屋は薄暗く、
月明かりとベランダのライトが
室内に交差した影を作っていた。

「父さん」

目を開けて微笑むニック。

「よく眠っていたね」

小さな子供にするように、
額にかかった髪を撫で上げる小林。
その肉厚で温かい手のひらに、
ニックは一瞬泣きそうになった。

「夕飯が出来たんだ。一緒に食べないかい」

昔と同じ言い方、変わらない眼差し。

「うん。起きるよ」
「じゃ、下で待ってるからね」

身支度を整えて、
ニックは建物の中央に陣取る
大きな螺旋階段を下りる。

階段の真下に広い食堂があり、
テーブルには数組の宿泊客が席についていた。
ジャズ風の音楽が静かに流れ、
高い天井に吸い込まれて消える。

客の中には小学生くらいの子供もいたが、
食事は静かに終わった。

いつもなら、
底抜けに明るく騒がしい、
異国の歌と言葉と笑いに包まれている時間だ。
食後の珈琲を堪能しながら、
ニックは無意識にため息をついていた。

「ニック」

紅茶のカップを手に、小林が近付く。

「外に出ないかい。今夜は流星群が見えるんだよ」
「流星群か。うん、行くよ」

立ち上がると、
ニックの身長は既に小林を抜いていた。
同じように白いカップを持ち、
広いバルコニーに出ようとした二人に、
客の一人が声をかける。

「もしかして、オーナーの息子さんですか」
「分かりますか」

足を止め、穏やかに微笑を返す小林。

「だって、後ろ姿がそっくりですよ。双子かと思っちゃった」
「ははは。それは嬉しいなあ」

照れて笑い、
小林はバルコニーへの扉を押す。
少し冷たい夜風が吹いていた。

「今夜のお客さんは、流星群観測も兼ねて泊まりに来ているんだよ」
「へえ、そうなんだ」

準備を終えた客達が、
庭に出てそれぞれの場所に陣取る。
小林が合図をして、
ペンションの明かりが一旦全部消された。

わあ、とか、きゃあ、とか。

真っ暗になった外の世界に声をあげ、
しかし目は徐々に闇に慣れていく。

「おお」
「きれ〜い」
「すごい、星がいっぱい!」

降るような星空。
遠近感が狂い、
手を伸ばせば届きそうなところに星が瞬き、
半分欠けた月が、蒼白く地上を照らす。

バルコニーの手すりに並んでもたれ、
ニックと小林は無言で空を見上げていた。

タオルケットに包まる子供に、
双眼鏡や望遠鏡を使って星座の話をする親。
黙って寄り添い、
手を繋いで空を見上げる恋人達。

「あっ!流れ星!」
「始まったぞ」
「今夜の流星群は、一時間に数十個は見られるらしいからな」

わあわあと賑やかになる庭を、
少し離れた位置から見守りながら、
小林が囁くように言った。

「元気そうで良かったよ」

少しの沈黙。

「連絡もしないで、ごめんなさい」

小さな声でニックが返す。

「謝ることではないよ」

紅茶を飲み、小林が続ける。

「ここには、忘れてしまいたい想い出がたくさんあるだろうからね」
「なにひとつ、忘れられなかったけど」

自嘲気味な笑みを零し、
ニックは珈琲カップを包むように持った。

「まだ」

小林が、
ニックの指に光る銀の指輪を見ながら呟いた。

「あれは、いるんだね。君の傍に」

返事はしないで、
片手でそっとワイシャツの袖を引き上げるニック。


アロンの刻印―しるし―


多分生きている間は絶対に消えない、
呪われた醜い痣のような、
青黒い三本の線が、
月明かりにはっきりと浮かぶ。

「ああ」

後悔のため息。

「なぜあの時……」
「でも、あの事件があったから」

そっと袖を戻し、
ニックは小林によく似た穏やかな笑顔を見せた。

「ボクはあなたを、父さんと呼べるようになった」
「君は本当にいい子だよ、ニック」

銀色眼鏡の奥で、小林の瞳が僅かに潤む。

「そんなこと」

言いかけたニックが、小林の視線を追う。
黒い影が、半分の月を隠すように横切った。

「あっ!また流れた!」
「願い事、もうないよ」

誰も気付かなかった、一瞬の出来事。

「今のは……ニック」

久しく感じていなかった激痛に、
ニックは額から脂汗を流す。

緩んだ握力がカップを落とし、
派手な音を立てて割れた。

「きゃあ」
「何か割れた」

疼くように激しく痛みだした手首を抑えて、
バルコニーに膝をつくニック。

「大丈夫ですか」
「びっくりしたー」

庭がちょっとした騒ぎになっている。

「すみません、暗くて手が滑りました」

小林が大きな声で明るく言い、
ニックを支えて立たせた。

「部屋まで歩けるかい」
「ごめ……大丈夫」

ニックを担いだ小林が、
厨房に残っていた古株の料理人に声をかけ、
カップの後始末を頼む。

建物内はスポットライトが点々と灯されていて、
足元は明るい。
慎重に階段を昇り、
小林はニックをベッドに座らせた。

痛みで目を閉じたまま、
倒れるように横になるニック。
意識をなくすように眠ってしまった彼を見下ろして、
小林は不安な声で呟いていた。

「君をここへ呼び戻したのは、本当は、誰なんだろうね」

目を覚ますと、
明るい陽光が白いカーテン越しに部屋へ射していた。
何度か小林が様子を見に来ていたようで、
昨夜閉めた窓が少し開けられて、
爽やかな風が入ってきている。

徹夜明けのようにぼんやりする頭を振りながら、
ニックはベッドから椅子へ移動すると、
改めて手首の痣を確認した。

表面的な変化は、まったくない。
痛みも、今はまったくない。

「ニック。起きたかい」

ノックと同時に、そんな声がした。

「はい。起きてます」

立ち上がり、ニックはドアを開けた。

「うん。元気そうだね」

にっこり笑って、
小林はニックを教会へ連れ出した。

「昨日も言ったけど、手伝って欲しいことがあるんだよ」

昼近い太陽が真上から照らし、
少し汗ばむ陽気だった。

「こんにちは、ニック」

元気な秋穂さんと、変わらない挨拶をする。

「こんにちは、アキホさん」
「じゃあ、はい。これ」

太陽みたいな笑顔で渡されたのは、刷毛と、

「ペンキ……」
「あちこち剥げてきちゃってて。意外と体力使うから、若い人探してたのよ」

そう言いながら、
けっこう長い脚立を平気な顔で担ぐ秋穂さんが、
体力不足とは思えない。

「じゃ、この辺。よろしくね」

背中を押されながら教会に入るのも、
久しぶりだった。
クリーム色の内壁が、
確かにところどころ剥げて落ちている。

脚立を組み、
ペンキの缶と刷毛を持って、
軽くてっぺんまで昇っていくニック。

「やっぱり。若いって、いいわあ」

そんなことを言う秋穂さんが、
一回りは違うであろう小林に
べた惚れなのをニックは知っている。

一日で終わりそうにない壁を見渡して、
とりあえず目の前からやっつけていくことにした。

どのくらい経ったのか、
作業に集中し始めたニックの耳に、
オルガンの音が聞こえてきた。
目線を落とすと、
秋穂さんが練習を始めたようで、
荘厳な賛美歌が
教会内に美しく反響するのを心地好く思いながら、
彼の仕事もまたテンポが良くなる。

夕暮れが近付き、
ステンドグラスから差し込む光が
オレンジ色に染まり始めた頃、
秋穂さんが急に何かを思い出したようだった。

「ねえ!今日って、ニックの同窓会じゃなかった」

……ああ、思い出してしまいましたね。
脚立の上で静かに頷くニック。

「ごめんね。どうしよう、今から行って間に合うのかな」

少し考えて、ニックは控えめに言ってみた。

「同窓会の代りに、アキホさんどこかいい店知りませんか」
「えっ!ニックお酒呑んでいいの!」
「ええ。ボクもう二十四なので」
「ああ。どうりで最近、足腰が弱くなったと思ったのよ」

後片付けをして教会の鍵を閉める頃、
夕陽はとっくに山の向こうに姿を消して、
薄暗くなった小道を
明るいペンションに向けて歩いた。

ペンキで汚してしまった服を着替え、
宿泊客と話す小林に声をかけて、
待っていた秋穂さんと一緒に
呼んでおいたタクシーに乗る。

「実は今って、微妙に時期外れなのよ」

山を降りて辿り着いた駅前の繁華街は、
有名観光地と呼ばれながら若干閑散としていた。
それでも旅行客はいるので、
数軒の頑張る飲食店や土産物屋が、
明るいネオンと音楽で客引きをしている。

「同窓会はどこでやるか、聞いた」

歩きながら秋穂さんが尋ねた。

「駅近くの‘唐傘亭’という店らしいですけど」
「そっか。途中から入るのは嫌だよね」
「というより、ボクは遠慮したいので」

そう言うニックの視線が、
通りの向こうに釘付けになっていた。

「どうしたの。誰か知り合いでもいた」

それには応えずに、
ふらりと一歩前へ出るニック。

まるで何かに呼び寄せられるように、
熱に浮かされたように。

「あれ」

目を離したつもりはないのに、
秋穂さんは
それほどでもない人混みに彼を見失った。

真っ白なワンピース、
豊かに渦を巻く金色の髪、
その瞳は美しい青色で。

「すみません」

道行く誰もが振り返りそうな、
絶世の美女なのに。

「ちょっと、どいてください」

追いかけるニックの歩きが、
徐々に駆け足になっていく。

時間的に、
酔った人が多く歩く繁華街。
身体や肩をあちこちにぶつけながら
彼女を追うニック。
先を行く金髪の女性は、
まるで泳ぐように人混みを器用にすり抜けていく。

「ま、待ってください」

胸が苦しい。

走る息切れではなく、
これは明らかに恋の動悸。

自分がこんなにも衝動的な
一目惚れをするタイプだとは知らなかったが、
追いかけて、捕まえて、彼女に触れないと
身体が燃え尽きてしまいそうな熱を帯びている。

苦しくて、
そこから逃げたい一心で、
ニックは前を行く長い髪だけを見つめて走り続ける。

気が付くと、
繁華街の外れまで来ていた。

「ニック」

物陰から呼ばれて足を止める。
甘く湿ったその声こそ、青い瞳の彼女のものだ。

見下ろす胸の位置に、
白く透き通るような肌の、
美しい顔があった。

「来て。……こっちよ」

その声は深く、心の奥へと染みこんでいく。
濡れて光る瞳に吸い込まれ、目が離せない。
差し出された手をしっかり繋ぐと、
苦しかった胸のうちが歓喜に震えた。


『喰いついたな』

夜の闇に腕組みをして浮かぶ真っ黒なアロン。
ニックは森へ向かっていた。

『あとは、アイツが自力で帰ってこれるかどうか』

地上を滑るように歩く彼女についていきながら、
ニックの靴が脱げた。

雑草が生い茂る森の中で、
やがて靴下も脱げてしまった。
それでも構わずに、
獣道のような細い筋を歩き続ける。

向かう先に、
小さいが美しい、碧色の湖が待っていた。

「見て。ここが私のおうち」
「すごいね……お城みたいだ」

高熱でぼやける視界の先に、
白く浮かぶ西洋建築の城が見えていた。

早足で歩き続けたせいで、身体が熱い。

「来て、ニック」

細い両腕を差し伸べ、
金髪碧眼の美女はニックを全身で招いた。

上着を脱ぎ捨て、
裸足のニックが彼女を抱きしめようと前へ出る。

その足先が湖岸を舐める小波(さざなみ)に濡れたのだが
気付かない。

「こっちよ」

また一歩、彼女が後ろへ下がる。

追いかけて、
湖に一歩、また一歩と入っていくニック。

だんだん深くなっていく湖の中心に向かって、
ニックはゆっくりと歩いていく。

膝、腰……胸、やがて肩まで。

「キスして。ニック」

やっと捕まえた彼女が顔を上向かせ、
目を閉じた。
その柔らかな唇に自分の唇を重ね、
ニックも自然に目を閉じる。

次の瞬間、湖面からニックの姿が消えた。

誰もいない静かな森の、夜の出来事。

情熱的に長いキスから開放され、
目を開けて呼吸を整えたニックは、
自分が城の中にいることに気付いた。

「さあ、こっちよ」

手を引かれるまま広く長い廊下を歩き、
美しい花が咲き乱れる庭園へと案内される。

世界中の花が一斉に咲いているような鮮やかさと、
喉が痛くなるほどの芳香。

彼女は、
大理石で出来たドーム型の東屋に
ニックを座らせる。
恋人のようにぴったりと寄り添い、
両手を重ね、
潤んだ瞳で下から見上げる彼女に、
ニックはようやく聞くことが出来た。

「ねえ。キミの名前は」
「マリアよ」
「素敵な名前だ」
「嬉しいわ。大好きよニック」

自然なキスを交わし、マリアは
片手をニックの手の甲に乗せたまま、
テーブルの上にあった小さな呼び鈴を振る。

メイド服の少女が、
音もなく花の隙間から現れた。

「喉が渇いたわ。何か持ってきてくださる」

優しい物言いのマリア、会釈して消える女中。

世間をあまり知らないからと、
マリアはニックの話を聞きたがった。

学生時代の笑い話、
仕事での失敗談、
最近気になっていること。

誰かに自分のことを、
こんなに話した経験がニックにあっただろうか。

「すごいわ」

マリアは素直に感心している。

「あなたは何でも出来る人なのね」
「そんなことないです」

謙遜の単語を探すニック。
彼女の柔らかな身体を布越しに感じ、
見つめる青い瞳に心を奪われていく。

「もっと、聞かせて」

奪われた心はまず、時間の流れを、忘れた。

「大好きよ、ニック」

交わす口付けに、
身体の自由も奪われていくようだった。

美しく咲き乱れる花達、
漂う甘い芳香、
花びらの落ちる音が聞こえそうな静寂の空間で、
ニックは幸福な倦怠感を満喫していた。

微笑んだまま眠る彼を膝枕しながら、
形のいい唇を指先でなぞるマリアの青い瞳は、
アロンと同じ様に感情を表現しない。

宝石のように、それは美しく、
水底のように冷たかった。


「ニックは帰ってきた、小林さん」
翌日、
日課通りオルガンの練習に来た秋穂さんは、
まず聞いた。

「いやあ。それが、まだなんです」
「仲の良いお友達に再会して、泊まっちゃったかしらね」

大人なんだし、
そんなに心配しなくてもいいかな、と、
秋穂さんは自分の台詞に
違和感を覚えながら呟いている。

「もう、大人なんだものね」
「そうですねえ」

曖昧に微笑みながら、
小林は別の不安を拭えないでいた。

「どこへ行っちゃったんだか」

何にせよ、
連絡を寄越さないような子ではない。

「秋穂さん、夕飯はまだですよね」
「あっ、はいっ!いただきます!」

先になってペンションへ戻っていく
秋穂さんの後ろから歩きながら、
小林は暮れていく空を見上げた。

「うん。美味しいです」

たった二人で使うには
広すぎる食堂に置かれた長すぎるテーブル。

豪華な椅子と銀食器がずらりと並び、
活花と蝋燭が飾られた、
少し旧いイメージの食卓風景。

マリアはニックの隣に座り、
常に身体のどこかに触れて離れない。

泳ぐように給仕をして回る
女中の動きに感心しながら、
ニックが聞いた。

「きみ、ご家族は」
「いないわ」

なぜか嬉しそうなマリアの声。

「ごめんなさい。変なこと聞いたかな」
「ううん、いいの。あなたが家族になるのだから」
「え……ボクが」
「そうよ、ニック」

一瞬、誰かの顔が浮かんだ。
誰かも判らないうちに、
マリアが次の料理を勧めてくる。

「これも食べてみて。元気が出るわ」
「ありがとう」
「大好き」

マリアは素早く彼のほほにキスを送り、
空いた手を握る。
身体を寄せ、
うっとりとした微笑を向けながら

「キスして」
とせがむ。
「でも、みんなが見ているよ」
「お手伝いさんしかいないわ」

躊躇うニックと積極的なマリアの隙間に、
少女が割って入った。

「デザートでございます」

白いレースのヘッドドレスが目の前で揺れ、
我に返ったニックが
慌ててマリアから身体を離した。

「あ、ありがとう」

控えめに礼を言ったニックを
ちらりと一瞥する少女が、
蔑むような鋭い視線を送っているが
気付かない。

食事が終わると庭園を散歩するのが
二人の日課になっていた。

凛と澄んで少し冷たい空気の中、
咲き乱れる世界中の花達。
歩きやすく整備された石畳を寄り添って歩く。

「今日は、こっちへ行ってみようかな」

緑の生垣で作られた迷路には、
通るたびに違う曲がり角があった。

「えっ……ほんとうに」

ほんのりほほを染めたマリアが、
珍しく戸惑い足を止める。

「行ってはいけない道でしたか」
「そういうわけじゃ」

組んでいた腕がじんわりと体温を上げ、
ニックは彼女の顔を確かめた。

「嫌なら別の道を」
「違うの。あの、この先は私の寝室で」

顔を赤くした意味が判り、
ニックは慌てて身体の向きを変えた。

「ご、ごめんなさい。知らないとはいえ、ご婦人に失礼なことを」
「ううん。いいのよ」

元の道に戻ろうとしたニックの腕を、
マリアの細い指先が掴む。

「あなたの意思がこの道を選んでくださるのを、待っていたのだから」

寄り添うマリアの身体が、
いつもより熱く感じる。
強く香る花の匂いにめまいを感じて、
ニックは一瞬目を閉じた。

「行きましょう」

誘われるまま、ふらりと歩き出すニック。

「私の家族になって、ニック」

私はずっと一人ぼっちだったのよ。
一人で淋しかったの。
何年も、何十年も……何百年も。

『チッ。しっかたネエなあ』

メイド服を着た目つきの鋭い少女が、
他の女中に声をかけた。

『おい。二人はドコ行ったんだ』

首を掴まれた少女が口をぱくぱく動かすが、
言葉にはならない。
他の女中も同じだ。

『おまえら、口が利けネエのか』

目つきの鋭い少女は
一人の女中に道案内をさせた。

石畳の小道、咲き乱れる花のトンネル。

迷路になっている生垣を何度か曲がった時、
艶めかしく誘うマリアの声が聞こえてきた。

『案内はここまででいいぞ』

少女の手が真っ黒な鍵爪に変わる。
怯えて固まる女中の頭を掴み、
開けた口は顔よりも大きい。

『サカナだったのな』

砂金のように光る、
小さな鱗を口から地面へ吐き出し、
目つきの鋭い少女は足音を立てずに生垣の先、
花のアーチをくぐり抜けた。

「大好きよニック」

花に囲まれた天蓋付の大きなベッドで、
神話に出てくるような美しい男女が戯れている。

半裸で甘く微笑むマリアがニックに覆い被さり、
服の中に手を入れて囁いていた。

「それなのになぜ。私の名前は呼んでくださらないの」

マリアの優しい口付けに酔いながら、
ニックはうっとりと目を閉じている。

「呼んで。私の名前を」

感情を表してくれない宝石で出来た青い瞳。
そこに映るのは、覗き込んだ自分自身の気持ち。

「私を愛して。私とひとつになって、ニック」
『そして魂を寄越せ、ってか』

ありえない第三者の侵入に、
マリアは驚いて飛び起きた。

「まあ」

メイド服を着た少女が見えて、
マリアは怒った声を出す。

「ここに入ってはいけないと決めてあったでしょう」

薄笑いを浮かべる少女が、
無遠慮に二人に近付く。

「いけない子ね」

白く滑らかな美しい素肌を
惜しげもなくさらけ出したまま、
マリアは叱った。

「元の姿に戻してしまうわよ」
『やってもらおうじゃないの』

少女の可愛らしい唇から漏れ出る言葉とは思えない迫力に、
ようやく異変に気付いたマリア。

「あなた……誰」

既に乱れたベッドの淵まで来ていた
メイド服の少女が、
マリアの細い手首を掴んだ。

小さな手は真っ黒で大きな鍵爪に、
覗き込む瞳が石のように冷たい。

『オマエこそ、正体を見せてやれよ。ウンディーネ』

少女がそう呟くと同時に、ベッドが大きく沈んだ。

「あ、なたは……」
「あれ。アロン」

うたた寝から覚醒した表情のニックが、
はっきりとした声を出す。

『よお。迎えに来たぜ』

マリアから目を離さず、
アロンは本来の姿で戦闘態勢に入っている。

「なに。どういうこと」
『今は考えるな、ニック。オマエは上だけ見てろ』
「上……」

見上げた景色がぐらりと歪んだ。

全身を急激に襲う圧迫感。
僅かに開けていた口に、水が流れ込む。

反射的に息を止め、
振り向いたベッドの上に、
アロンと同じくらいの大きさをした美しい女性がいて、
ニックを捕まえようと
髪を振り乱しながら泳ぎ出していた。

『光の射す方に向かえニック。コイツは俺様が喰ってやるからよ』

アロンの声が頭の中で響いた。
もう一度上を見るニック。

『待って、ニック』

哀しい声が呼んだ。

『私を独りにしないで』

魚のように泳ぎだしたマリアの足を、
アロンの鍵爪が捕らえる。

『おい、待てよ』
『邪魔しないで。ニックは私と結ばれるの』

美しいが大きな腕を振り、
アロンを解こうとするマリア。
暴れる身体が渦を起こし、
湖水を激しくかき混ぜる。

『溺れる前に早く行け!ニック!』

小林が、
暗い森の中を独りで歩いていた。

山歩き用の強力な懐中電灯で周囲を照らし、
ニックの持ち物を拾い集めながら足跡を辿る先に、
小さな湖が見えてくる。

「こんなところに」

地図にも載らないような水溜りだが、
水深は結構あるのか、
鏡のような湖面がどんよりと月を映している。

「これも、あの子の」

湖岸に脱ぎ捨てられたニックの上着、
湖に向かう裸足の跡。

「まさか……」

激しい動悸に汗がどっと噴き出す。

小林が薄暗い湖面を凝視したその時、
静かだった湖がざわざわと揺れ始めた。

大きなスプーンでかき回すような、
水底から何かが噴き出す前兆のような、
周囲の森は風もなく至って穏やかなのに、
湖の中央だけが激しく暴れている。

揺れる水面は波紋になって、
やがて湖岸にたたずむ小林の靴の先を濡らした。

「あっ!ニック!」

小林の足元に、
びしょ濡れのニックがうつ伏せで倒れていた。
腰から下がまだ水の中で、
小林は持っていた物を放り出すと膝をつき、
全力で彼を引きずり上げる。

「ニック!しっかり!」

触れた身体は相当冷えているが、
生きている。

励ますように声を荒げ、
小林は何度も滑り、
泥だらけになりながら
ニックを乾いた陸まで引っ張り続けた。

「ニック……ニック!」

名前を呼びながら必死で水を吐かせる彼の耳に、
一際大きな水しぶきの音が聞こえ、
驚いて顔を向けた小林は、
湖面から飛び出す大きな黒い悪魔の姿を認めた。

濡れた翼が月の光を浴びて艶やかに輝く。
ニックの無事を確かめるように
音もなく近付いたそれの顔を、
小林は初めて間近で見た気がした。

思いがけなく澄んできれいな青い瞳が、
感情のないまま小林を一瞥し、
ふと逸らされる。

「君はいったい」

心配する小林の部屋まで来て、
窓を叩きその姿を晒し、
影となってここまで導いてくれた。

「うう……ん」

意識を取り戻したニックが、
小林の腕の中で目を開ける。

「ニック!よかった」
「……父さん」

大切な息子を抱きしめ、
見上げた夜空に黒いその姿はない。





後書き

アロンは何でも食べます。
好き嫌いはありません。

この小説について

タイトル 第三章;水の精霊
初版 2016年2月1日
改訂 2016年2月16日
小説ID 4752
閲覧数 772
合計★ 3
アクアビットの写真
ぬし
作家名 ★アクアビット
作家ID 666
投稿数 27
★の数 63
活動度 8017
長期休暇を貰っても𠮟られなかったのは、ぱろしょだけでしたね〜。ありがとう、またいつか、どこかで・・・

コメント (2)

そら てんご 2016年2月16日 19時36分40秒
ファンタジーというオブラートに潜むエロティズムって感じ、
初めて堪能しました。(笑)
快調ですね。
★アクアビット コメントのみ 2016年2月16日 21時05分32秒
そらさんへ >>
コメントありがとうございます。
励みになります。

投稿した後に、ぱろしょではNGかもと
思いつきました、が、連載を始めてしまったのと
直接的な表現は避けているので、
自分でOK出しちゃいました。

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