【悪魔の十字架】 - 第四章;怪鳥ラリ・ラリ

「ニックほどの〜、人が惑わされるなんて。絶世の美女だったんでしょうねえ」

休暇を終えて帰宅したニックを、
その日のうちに訊ねてきた友人二人。

「でも、信じられない。湖の底に城、なんて」

小さな丸テーブルの上を
酒や肴で山盛りにして、
二つしかない椅子を占領する。

「一目、お会いしたかったです〜」

豊かな想像力でうっとりと目を閉じる亮太。

苦笑するニックは、
対面キッチンの柱に寄りかかり、
立ったまま熱い珈琲を飲んでいる。

「物語の題材になりそうね」

興味津々の亮太を見て、
優子が呆れたように笑った。

「ウンディーネの物語は〜。ヨーロッパ諸国にた〜くさん、あるんですよ〜」

小皿のアーモンドを指先で選びながら亮太が返す。

「それに〜、ジャンルが違いますからねえ。まあ、形を変えていくらでも書けますが」
「金髪碧眼の女神様、か。敵わないよね」

グラスの中身を一気に半分まで減らして、
優子が呟く。

「片岡さんだって、充分〜魅力的ですよ〜」

聞こえていた亮太が気遣った。

「美人〜といっても、人外ですからねえ。人間ですから、男はやはり本物の女性が好きですよ〜」
「まあ、そりゃ。そうだけど」

無意識に、
優子の視線はキッチンに立つニックへ注がれる。

当のご本人は、
柔らかな前髪を揺らしてまな板に向かい、
ご機嫌な様子で何かを作っていた。

「彼は〜本当にいい男ですからね〜。学生時代も〜大変だったんじゃあ、ないですか〜」
「ファンクラブなんてものが存在していたわ」

鬼の形相で憎々しげに吐き捨てる優子。

「な、何か因縁でも」

地雷を踏んだかと慌てる亮太。

「ないわよ」
「ひいい〜」
「楽しそうですね、二人とも」

楕円形の真っ白な平皿に、
よく冷えた赤いトマトが薄い輪切りにされて、
綺麗に並んでいる。

「わあ、美味しそう」

カラフルなトッピングに目を奪われた。

「これは、チーズです。あと、こっちはバジルソースなのですが」

言葉を切ったニックに気付いて
顔を上げる優子。

「下の階でしょうか。騒がしいですね」

いつもは優しいニックの目が、
鋭く細められている。

「あ。救急車」
「近いですねえ」

遅れて二人も気付いた。

サイレンの音が大きくなり、
マンションの敷地内に入ってくる。

「気になるの、ニック」
「なんだか胸騒ぎがします」

その会話を聞きながら、
亮太は既に廊下へ出ていた。

「本当だ。真下の〜、部屋みたいですね〜」

手すりから中庭を見下ろすように
身を乗り出した亮太が、
部屋から出てきた二人に報告した。

「ママあ〜!え〜ん、ママ〜」

子供の泣き声がする。

「……うっ!」

幼い日の自分がフラッシュバックした。

「わあ、ニック。大丈夫ですか〜」

こめかみを抑えて
しゃがみ込んだニックを亮太が支える。

痛むのは頭ではなく、手首の痣だった。
新しい怪我のように、
刻印が脈打ち、熱を持って疼く。

「ママは大丈夫だから。今、救急車呼んだから。泣くな、シンイチ」

玄関を開けたようで、
父親らしき男性の声が
はっきりと聞こえた。

建物の壁に、
赤い光が乱反射している。

静かだった夜に起きた突然の騒ぎに、
廊下から中庭を確かめる住民の姿が
ちらほら見え始めていた。

「部屋に戻ろう、ニック」

優子が促し、亮太が腕を支えた。

部屋のドアが閉まる瞬間、

『アハハハハハハ!』

金切り声のような奇妙な笑い声が、
聞こえた気がした。

部屋に戻っても
気分はもう宴会どころではなく、
早々に亮太が自室へ戻り、
優子は後片付けを手伝い、
騒ぎが収まるのを待って、帰っていった。

「無理しないでね」

エレベーター・ホールで、優子が言った。

「溺れたんだから」
「はい。ありがとうございます、カタオカ」

弱く微笑むニックが、
閉まりかけたエレベーターのドアを押さえた。

端整な顔が優子の間近に迫る。

「また、来てくれますか」

急な接近にどきどきしながら、
優子は急いで頷いた。

「も、もちろんよ。ニックさえ、良ければ」
「大歓迎です」

ブザーが鳴り、ドアが閉まる。

カウントダウンする
7セグ表示器を見つめるニックが、
振り向きもしないで言った。

「何か教えてくれるの」
『聞こえたんダロ』

音もなく現れ、
周囲の空気を真っ黒に染める、
大悪魔アロン。

この契約は無期限。
握り締めた拳に爪が食い込む。

「笑い声のこと」

感情を抑えて、ニックは静かに言った。

『ありゃ、ラリ・ラリだ』
「名前が付いてる、ってことは、強敵なんだね」
『どってことネエ』

威張って胸を反らせるアロンをそのままに、
自分の部屋へ帰るニック。

『イヤ。このままほっとくとメンドウになんダヨ』

閉めた扉をすり抜けて、
ユリの香りが残る部屋に
平気で入ってくる悪魔。

背中を丸めないと
トサカの部分が天井を突き抜ける。

「でも、ボクには関係ないよね」

着ていた服を脱ぎ、
シルクのパジャマに着替える。
裸になったその腕を、
アロンの鍵爪が指し示した。

『まあ、俺様にはカンケイないけどよ。イタいんだろ、シルシが』
「キミのせいじゃないか」

さすがに声が上擦った。

悲しみが満杯になって、
怒りへと変化してしまう。

負の感情はアロンの大好物だから、
ニックはいつも全力で
自分をコントロールしてきた。

「あの時、キミが父さんを殺そうとしたから」

震える声を飲み込むニック。

見下ろすアロンが、
牙を剥き出し挑戦的に笑う。

『ニンゲンの記憶ってのは随分曖昧なんだな』
「どういうこと」

意外な返事に、
戸惑いを隠せないニック。

応えないアロンが翼を広げた。

「待って。アロン」

慌てて呼び止めたが、
悪魔の大きな身体は宙に浮き、
窓へ向かう。

『いいか、ニック。ラリ・ラリは昼間、小さな鳥の姿をしてる。ヤツの歌声を聴くな』
「歌。どういうこと」

アロンは姿を消し、
蒸し暑く寝苦しいまま夜が明けた。


「パパの作るご飯、初めて食べたね」

ニックの部屋の真下。

昨夜の騒動から数時間、
眠たい目を擦りながら父子が会話する。

「鍵は持ったか」
「うん。ねえ、パパはママの病院に行くの」
「ああ。仕事帰りに寄ってくるよ」

水色のランドセルを背負い、
一晩中泣いたような顔で
男の子がお願いする。

「僕も行きたい」
「うーん。時間的に難しいなあ」

父親は、
子供の頭に手を載せながら
腕時計を確かめる。

「帰りが遅くなるかもしれないし、シンイチはマニマニの面倒も見なくちゃいけないだろう」
「あ。そうだ」

シンイチ君は慌てて
鳥かごに被せていた布を取り外し、
水のみの中身を取り替える。

「おはよう、マニマニ。昨日はごめんね」

空っぽだった餌箱にも、
いっぱい鳥のご飯を入れた。

「急に大きくなったな。インコじゃなくて、オウムだったのかな」

ネクタイを直しながら、
父親がかごを覗き込む。

鮮やかな黄色の身体を震わせて、
マニマニは優しい声で囀った。

「いってきます」

シンイチ君がかごの隙間から指を入れると、
マニマニは挨拶を返すように、
その爪先をそっとつついた。

「噛まないんだ」

感心する父親。

「仲良しなんだ、僕ら」
「そうか。よかったな」

少しでも淋しさが紛れれば、と、
父親は息子と小鳥の話をしながら
エレベーター・ホールに向かった。

「あの子だったのか」

エントランスで会うと、
必ず挨拶をしてくれる、
水色のランドセルの男の子。

表札を確かめて戻ろうとしたニックの耳に、
楽しそうに囀る小鳥の鳴き声が小さく聞こえた。

「ただいま、マニマニ」

夕方、シンイチ君が帰宅した。

迎える母親の声がしないことが、
こんなにも世界を変えてしまうものなのか、と、
子供なりに胸を痛めながら部屋に上がる。

狭いかごの中を飛び回り、
嬉しそうに囀る小鳥が、
唯一生きて動く物体で、
シンイチ君は表情を和らげた。

「待って。今、出してあげるから」

ランドセルを机に置き、
シンイチ君は鳥かごの前に座ると
小さな扉を開ける。

鳴きながら飛び出してきた黄色い小鳥は、
部屋の中を一周してから
シンイチ君の肩に戻った。

「レタス食べる、マニマニ」

静かな部屋が広すぎて、
シンイチ君はテレビの音を少し大きくした。

お菓子を食べながら、
肩のマニマニにはレタスをあげる。

居間を自由に飛び回る小鳥を見上げて、
シンイチ君はふと、
昨日の出来事を思い出した。


「台所には入れないで、って何度も言ってるでしょう」

母親の苛々は、
積み上げた不満のひとかけら。

「フライパンの上に落ちたらどうするの」
「焼き鳥になっちゃうね」

冗談めかして言ってみたが、
母親の目は三角に尖って
受け入れてはくれない。

「放すのは子供部屋だけにしてよ、居間がフンだらけになっちゃうわ」
「僕、ちゃんと掃除してるよ」
「見落とすのよ。もう何回踏んだと思う」
「え。十回くらい」
「とにかく」

母親は、
シンイチ君の肩で誇らしげに胸を張る、
黄色い小鳥に向かって言った。

「パパが帰る前までには、かごに戻してね。あと、宿題。ちゃんと終わらせること」
「はあい」
「明日、三者面談でしょ」
「うん」
「私立の話、先生にもお話しなきゃね」
「……うん。おいで、マニマニ」

自分の部屋に戻り、
シンイチ君は宿題のプリントを広げた。

マニマニは机へ飛び下り、
小さな瞳でシンイチ君を見上げる。

「僕は、みんなと同じ中学へ行きたいんだけどな」

指先で、
マニマニの小さな頭を撫でながら、
シンイチ君が呟く。

「明日の面談、ナシになっちゃえばいいのに」

目を閉じ、
黄色い羽毛を気持ち良さそうに膨らませて、
シンイチ君に撫でてもらっていたマニマニが、
ぴい、と一声鳴いた。

それは、
大丈夫、と励ましているようにも聞こえ、
少年は微笑む。

「ありがと、マニマニ」

宿題を終わらせてご飯を食べたあと、
帰宅した父親と一緒にお風呂に入った。

そこまでは、いつも通りだった。

「珍しいね。ママがソファで寝ちゃってるよ」
「本当だ。疲れたのかな」

エプロンも外さずに、
居間のソファに崩れるようにもたれ、
昏々と眠る母親の異変に気付いたのは
父親だった。

「おい。ユカ、起きろ。ユカ」

シンイチ君がうとうと
眠りかけた時刻だったと思う。

父親が、
ママではなく名前で呼ぶ声色に、
シンイチ君の眠気が吹き飛んだ。

「どうしたの、パパ」
「ママが呼んでも起きないんだ……眠っているんじゃなくて、気を失っているのかも」

そして、夜中の救急車だ。

救急車のサイレンや赤い光が、
心の底から恐いと思った。

「何ですか、あなたは!」

父親の怒鳴る声がして、
シンイチ君ははっと目を覚ました。

どうやら眠っていたらしい。
台所からいい匂いが漂ってきていた。

「パパ……どうしたの。お客さん」

目をこすり、玄関に向かう。

「こんばんは。シンイチ君」
「あ。おじさん。こんばんは」
「お、おじ……」

マンションの入口で時々会う、
いつも黒っぽいスーツを着た外国の人。

「知り合いなのか、シンイチ」
「このマンションの人だよ」
「コバヤシといいます」
「え。日本人なの」
「半分だけ」
「へえ〜」

息子は何の警戒心も抱かずに、
見知らぬ青年と笑顔を交わしている。

「いや。身元がはっきりしたからといって、あなたの話はとてもじゃないが信じられない」

子供を背中に押し戻し、
父親は警戒心を剥き出しにする。

「はい。すぐに信じてもらおうとは思っていません」

穏やかに、誠実に、ニックは話を続けた。

「でも、もし、シンイチ君がお母さんと同じ症状になったら、医者ではなく、ボクを思い出してください。ボクは真上の部屋に住んでいます」

名刺を差し出し、
戸惑う父親の手に握らせる。

「シンイチ君」
「なあに、おじさん」

無邪気な笑顔だが、
たくさん泣いたような目尻が
痛々しかった。

「可愛い小鳥だね、なんて名前なの」
「マニマニ!」

呼ばれたのかと
テレビの上から返事をする小鳥は、
玄関が開いているのに飛び出たりはしない。

「とても賢い子なんだね」
「うん。すごい仲良しなんだ、僕ら」
「そうみたいだ」

ニックの視線が、数秒、
居間からまっすぐこちらを見ている小鳥と
絡みあった。

「とにかく。もう、お帰りください。うちはこれから食事なので」

苛々しながら父親が割って入る。

「はい。ごめんなさい」

玄関を閉め、父親は息子に言い聞かせた。

「いいか、シンイチ。あの人と仲良くしちゃ駄目だ」
「ええ。何で」
「怪しすぎる」
「ガイジンだから」
「そういうことじゃない」

お腹空いた、と
先に居間へ向かう息子の
小さな背中を見つめながら、
父親は表現できない不安に
押し潰されそうになっていた。

あの青年は、なぜ
あんなにいろんなことを知っていたのだろう。

妻の容態について。
医者が早々にさじを投げたこと。
家で鳥を飼っていること。

上の空で作った味噌汁は少し辛かった。

週末、
やっとお見舞いに行けたシンイチ君は
がっくりと肩を落として帰宅した。

母親は昏睡状態のままで、
一度も目覚めていないという。

「もう、一週間だよ」

泣き腫らした目で、
シンイチ君は父親に当り散らす。

「すぐ帰ってくるって。心配ないって、言ったじゃん」
「仕方ないだろう。原因が判らないんじゃ、治療のしようがないんだから」
「すごいお医者さんじゃないの、あの人。すごくおっきな病院だったじゃん」
「そうだけど。待つしかないんだ」

やりきれない思いのまま、
父親は台所に向かう。

「……ママのご飯が食べたいよ」

そう呟いて、シンイチ君は
子供部屋に閉じこもってしまった。

布を被せた鳥かごの中で、
マニマニが小さく鳴いていた。

「マニマニ……起きてるの」

ぴい、と返事が聞こえる。

シンイチ君は布を除けると、
扉を開けた。

首をかしげ、黄色い小鳥は
嬉しそうにシンイチ君の指に乗ると、
痛くないように突っついた。

『ナカナイデ……ワタシがツイテルジャナイ』

マニマニの優しい仕草に、
シンイチ君の目からはまた
新しい涙が流れた。

「ああ、あ。ママのところに行きたいな」

ベッドに横たわり、
シンイチ君は涙を枕に吸わせる。

「ママの傍にいたいよ……」

優しい歌声が聞こえた。

マニマニの囀りは、
母親の子守唄のように心地好く、
シンイチ君の耳から脳へ
じんわりと溶け込んでいく。

「どういうことなんですか!原因は、まだ判らないんですか!」

母親の隣で
昏々と眠り続けるシンイチ君。

父親の不安は怒りに変わる。

「ええ。脳波も身体のどこにも、異常が見当たらないのです」

カルテを見ながら、
白衣の医者は目を伏せた。

「息子も同じ症状じゃないですか!伝染病とかの可能性は」
「そうですね、可能性はあります」
「じゃあ、私もある日突然倒れるかもしれないって事ですよね」
「ええ、まあ」
「それが、通勤途中だったら」

顔色を変えて、父親は身震いした。
いつだったか、駅のホームで女性が……。

「冗談じゃない」

父親は白衣の腕を掴んで懇願する。

「何とかしてください。あなた、医者でしょう」
「全力を尽くします」


誰もいないマンションの部屋。
ただ広すぎて、寒い。

煩いと感じていたアニメーションの主題歌も、
妻と息子のちょっとした小競り合いも、
失ってみるとすべてが温かく懐かしい。

背広のまま深酒をして、
父親は台所で顔を洗う。

思い出せという感じに、
目の前の棚から名刺がひらりと落ちた。

「これは」

……医者ではなく、ボクを思い出してください。

酔った勢い、という言い訳を携えて、
父親は目指す部屋のインターフォンを押していた。

「はい。どちらさまですか」

穏やかな声が返る。

「あ、あの。山根です。一階下の」

一瞬の沈黙。

「鍵は開いています。どうぞ」
「は、はい」

もう、酔いは醒めていた。

緊張したまま部屋に上がる山根さん。

胡散臭い霊媒師みたいな装飾を
勝手に思い描いていたが、
むしろシンプルで合理的、
機能的に整えられた室内だった。

「すみません、夜分遅く」

白い丸テーブルに添えられた、
小さめの椅子に座り、
山根さんは申し訳なさそうにうなだれる。

「気にしないでください」

ニックの、
淡々とした態度の中にある優しさに
気付いた山根さんは、
心細さも手伝って泣きそうな顔になる。

「息子が同じ症状になってしまいました。医者は、原因が判らないとしか言わないし、もう、どうしていいか」

一気に話し、
両手で頭を抱える山根さんの前に、
湯気の立つカップがそっと置かれた。

「濃い緑茶です。お酒のあとによく効きます」

顔を上げ、
無言でカップと青年の顔を見比べる山根さん。

「どうぞ」
「い。いただきます」
「シンイチ君が倒れたのはいつですか」

傷付いた箇所をえぐらないように、
静かに座ったニックがそっと訊ねる。

「三日前です。日曜日に妻の見舞いに行ったあとでした」

伝染病なのではないかと、
恐ろしくて眠れない、と、
山根さんはカップを両手で持ったまま、
青い顔で話した。

「奥様は、もう長いですよね」
「そろそろ一ヶ月になります」
「間に合うかな……」

呟くニックの
涼しげな目元に鋭い光が走る。

「奥様に変化はありませんか」
「ありました。シンイチが入院した日でしたか、彼女の体重が突然半減したと、連絡がありまして」
「急がなきゃ」

ニックは急にはっきりした口調で言った。

「マニマニですが」
「はい」

不思議そうな山根さん。

「あれが元凶です。あの鳥はラリ・ラリという吸血鬼なのです」
「……は」

やっぱり少しおかしい人なのか。

理解し難い単語の羅列に、
山根さんの顔が曇った。

「明日の朝、証明しますから」

詳しい説明をせず、
ニックは翌朝早く山根宅を訪れた。

「少し騒がしくします。でも、ボクが開けるまでドアには触らないでください」
「分かりました」

本当は少しも納得していないのだが、
今は他にすがるものがない。

困惑気味の山根さんを廊下に待機させて、
ニックは独りで部屋に入っていく。

子供部屋から
マニマニの囀りが聞こえていた。

鳥の鳴き声の隙間に、
人語が混じっていた。

「パパ……アケテ。オナカスイタノ。パパ」

インコやオウムが、
人の言葉を真似することはよくある。

歌も童話も、丸暗記出来る。

でもそれは音楽に近い認識で、
意味を理解して話しているわけではない。

「ネエ。モウ、コノオウチセマイノ……アケテ、パパ」

ニックが布を除けると、
鳥かごには黄色い生き物が、
翼を広げることも出来ずに詰まっていた。

「キミが、ラリ・ラリ」

黄色い鳥がもがく演技をやめた。

顔を斜めに傾け、
大きな目玉でニックを確認する。

『あ、アンタ。悪魔祓いのニックだわ』
「ボクを知っているの」
『アンタ、有名人だわよ』
「じゃあ、話は早いね。その小鳥から出てあげて」

言いながら十字を切り、
ニックは指輪のついた手を組み合わせると
聖書の暗誦を開始した。

『ちょっ、ちょっと。猶予なしだわ』
「……」

黄色い鳥から目を離すことなく、
ニックは言葉の力を強めていく。

苦しそうに呻く声が嘴から漏れ、
黄色い鳥は激しく暴れだした。

羽毛が飛び散り、
華奢な鳥かごが平行四辺形に歪んで、
壊れた。

『イタイ。イタイ!』

飛び出した大きな鳥は、
翼を中途半端に広げて床に転がり続ける。

それは
雛を護る親鳥の擬態のように
痛々しい姿だったが、
やがて悪臭とともに本来の姿を晒し始めた。

黄色い羽毛の翼が、灰色をした蝙蝠の羽に。

愛らしいオウムの顔や胴体は、
人間に近い異形の顔面に。

直径で一メートルはありそうな生首が、
耳の部分をコウモリの羽に変えて、
床を転げ回る。

口の部分から泡を吹き、
遠慮なく周囲の家具にぶつかる音と振動は、
外にまで響いたようだった。

「大丈夫ですか、小林さん」

たまりかねた山根さんが玄関のドアを開く。

「あっ、いけない!」

山根さんの胸に体当たりする形で、
ラリ・ラリが外へ飛び出した。

『ヤクソクも守れネエのかよ』

不意に聞こえたアロンの声に、
ニックは急いで振り返る。

『愚かなニンゲンだな』
「どうしよう。二人の魂が」
『どうせタイヨウには弱いんだ、その辺に墜ちてるダロ』

ものすごく偉そうに、
アロンは鍵爪であごの下をぽりぽり掻きながら、
ふんぞり返った。

『俺様はヘイキだけどな』
「やっつけてくれるの」

期待に満ちたニックの顔。

『バッカ、オマエ。それが出来てりゃ、とっくに喰ってるダロ』

仰け反ったまま
不甲斐ないことを言うアロン。

少しの沈黙のあと、
ニックは小さく肩をすくめた。

「キミがよく解らないよ」
『俺様は大悪魔だからな』

ますます威張る大悪魔。

「じゃあ、何しに来たの」

若干の苛々を抑えずに、ニックが見上げた。

『いいか、ニック』

悪魔の気紛れが良い方向に動いた。

『アイツはもの凄くすばしこいんだ。おまえの指輪で動かないようにしといて、俺様が喰う』
「わかった」
『じゃあ、今すぐ下へ行け』

アロンは大きな翼を音もなく広げると、
手すりを越えて中庭へふわりと降りていく。

突き飛ばされて
尻餅をついた山根さんを助け起こし、
ニックは早口に伝えた。

「悪魔と小鳥は切り離しました。ボクは二人の魂を取り返してきます」

山根さんは痛む胸の辺りを擦りながら、
何が起きたのか分かっていない様子だ。

「部屋を散らかしてごめんなさい」

そう言い捨てて、ニックは走り出した。

エントランスを抜け、
中庭へ出た彼をアロンが呼ぶ。

『こっちだ、ニック』

屋根付きの自転車置き場。

片側がコンクリートの壁になっていて、
確かに昼間でも薄暗い。

急いで駆け寄ると、ラリ・ラリは
太陽の光に目を回したのか、
地面にぐったりと横たわっていた。

『あああ。タスケテだわ』

長すぎる牙が裂けた口からはみ出して、
弱っていながらその目は邪悪そのものだ。

「じゃあ、二人の魂を返してよ」

油断なく近付きながらニックが言う。

『それはイヤだわ』
『そんな交渉が出来るほど賢くねえダロ』

大きな悪魔が威嚇するように牙を剥き、
黒い羽を広げると、
ラリ・ラリは急に耳をばたつかせ
宙へ飛び出そうとした。

「逃がさないよ」

すかさずニックが破邪の構えをとり、
暗誦を始める。

『あ、イタタタタ!』

硬直したラリ・ラリが、
重たい音を立てて再び落下した。

アロンの凶悪な鍵爪が、
ラリ・ラリを鷲掴みにする。

意識的に目を伏せるニック。

ラリ・ラリが放つ断末魔の悲鳴と、
骨を砕くような音は嫌でも耳に入ってきた。

『見た目通りだな。すげえ、マジイ』

食べ残しの羽根が、
地面に吐き出されると同時に
泡状になって消える。

「これで、二人は元に戻るの」

見上げた朝の光の中で、
アロンの真っ黒な翼が
宝石みたいに輝いて見えた。

「あれ」

唐突に、ニックは無関係な何かに気付く。

「アロン。片方の目が碧いよ」

冷たく嗜虐的な悪魔の顔が、
以前ほど醜悪ではない。

ゴブリン系の獣だった頃より、
人間に近づいているような。

『そんなことより、あのニンゲンはどうすんだ』

聞こえないふりで、
アロンは階上の廊下から
中庭を見下ろしている父親をあごで示す。

「そうだ。ヤマネさん」

急いで戻っていくニックの背中を見つめて、
アロンは首を捻った。

『何やってんだ、俺様は』

呟きは微風に消え、
深く考えないアロンもまた、
風に乗ってどこかへ消えた。


「本当に。ありがとうございました」
「主人から聞きました。もう、本当に、なんてお礼を言っていいものか」

ラリ・ラリが消えた瞬間、
二人の患者が同時に目を覚まし、
山根宅の電話が鳴った。

その日のうちに退院した奥さんとシンイチ君は、
父親と一緒にニックの部屋まで礼を言いに来てくれた。

「ねえ、パパ。これからはニックと仲良くしてもいいんでしょ」

握手した手を離さず、
シンイチ君が無邪気に大人達の顔を見比べる。

「も、もちろんだ。あれは、パパが悪かった」
「そういえば、シンイチ君」

微笑むニックが足元の少年を見下ろす。

「なあに」
「あの子の名前。出来たら違う名前に変えてくれませんか」
「別にいいけど。どうして」
「うーん」

困ったように、ニックは言葉を探す。

「あまりいい名前ではないのです。またキミのママが倒れちゃったら嫌ですよね」
「わかった。変えるよ」
「よかった。ありがとう」

黄色い鳥は
セキセイインコ程度の大きさまで縮んで、
新調した鳥かごの中で
元気に餌をついばんでいる。

シンイチ君は放し飼いを止め、
交換条件みたいに
友達と同じ中学に行きたいと母親に申し出た。

「あ。ニック!おはよう!」

数週間後、
久しぶりにエントランスで二人は再会した。

「おはようございます、シンイチ君」

元気いっぱいの小学生と、
徹夜明けでよれよれの社会人。

友達に呼ばれ、
返事をしながら、
シンイチ君が笑顔を向けた。

「あのね。インコの名前、コバにしたよ」
「コバ……」
「そ。ニックの苗字」
「あ、ああ。そうですか」
「じゃあね」
「いってらっしゃい」

手を振り合い、左右に分かれる。

いつも通り管理人さんに手紙の有無を聞きながら、
ニックの口元が優しく微笑んでいた。

後書き

昔、迷子の白文鳥が窓から飛び込んできました。
艶のある美しい羽毛と、宝石みたいに真っ赤な嘴。
『蘭ーランー』と名付けて私が世話をしました。
私たちはとても仲良しになりました。
迷子の張り紙効果で、本当の飼い主が迎えに来た日。
淋しくて泣きそうだったけど、
飼い主さんも泣いていたので我慢しました。
その女性が本当の名を呼びました。
『トンちゃん!』
……ええ〜〜……一気に萎えました。←実話

この小説について

タイトル 第四章;怪鳥ラリ・ラリ
初版 2016年2月8日
改訂 2016年2月8日
小説ID 4755
閲覧数 480
合計★ 0
アクアビットの写真
ぬし
作家名 ★アクアビット
作家ID 666
投稿数 30
★の数 67
活動度 7999
アクアビットの小説は『PCにて見開き表示』が読みやすいかと。お試しあれ〜

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