【悪魔の十字架】 - 第六章;女神アダンダ

「いや、助かりました」

懇意にしている翻訳会社に呼び出され、
革風のソファに担当と向き合って座るニック。

「急な依頼で、初めは明日までに仕上げろとか言ってきたんですよ」

彼の背後に見えている狭い事務所は、
電話の呼び出し音と応対の会話で
忙しい感じ満載だった。

「ちょうど良かったです。こちらが仕上がっていましたので、ついでに持って来ました」

ニックがA4のビジネスバッグから、
書類の束を出して机に置く。

「ああ。ありがとうございます」

廊下で買った缶コーヒーの一本をニックに渡して、
担当はほっとした様子で更に愚痴った。

「これから担当者を決めて仕事を依頼しなきゃならないのに、一日なんて無理です、ってね。それくらいは言わせて貰いましたよ」
「大変ですね」

頷きながら穏やかに微笑むニックの周囲だけ、
時間の流れが違う気がして、
担当は背中を伸ばすと、壁の時計を見た。

白い文字盤に赤い秒針が、忙しなく動いている。

「じゃあ、これ。明後日までにお願いしますね」
「わかりました」

空になったケースに書類を入れて、
立ち上がるニック。

「これはバイク便でお届けして、よろしいでしょうか」
「そうですね、明後日の夕方に間に合えば」
「夕方ですね、わかりました」
「よろしくお願いします」

軽く会釈して、向きを変えた
ニックの顔が僅かに歪んだ。

手首の古傷が痛い。
アロンの刻印―しるし―が急に疼いたのだ。

平静を装って、
ニックは出口に向かって歩き出した。

「小林くん?」

事務所の奥から声がして、
女性が椅子から立ち上がる。

「あ、やっぱりそうだわ。小林くん……ニック!」

狭い事務所内、
人や書類の隙間を縫うように急いで追いかけ、
ガラスの扉を押したニックの手に
自分の手を重ねる。

「あ、失礼」

思わず英語で謝る彼に、女性が笑った。

「やっぱり。聞こえてなかったのね」
「え」

ようやく自分を見下ろしたニックに、
彼女は笑顔のまま名乗った。

「あなたと同じ大学だった中山美幸です。私の方は覚えているわよ、ニック」

派手過ぎない会社の制服に合わせて
地味な化粧をしているが、
きらきらする目元や口紅の選色に、
彼女のプライベートが見えていた。

綺麗に染めた栗色の長い髪を、
首の後ろで上手に纏めている。

計算された後れ毛が、
彼女の色香を際立たせていた。

「え……ええと」

正直にニックは頭を下げる。

「ごめんなさい。覚えていないです」
「でしょうね。あの時のファンクラブのメンバーが、最終的に何人になったかなんて、本人は知らないんでしょう?」
「ああ。はい……ごめんなさい」

困惑して畏まるニックに、
中山美幸は魅惑的な笑顔を向けた。

「じゃあ、お詫びに今度、私をどこかに連れて行ってね」

その時、表の通りから、
誰かがこの会社に入ろうと向かってくるのが見えて、
ニックは急いでガラスの扉を押し開けると、
擦れ違うようにして外に出た。

閉まる扉の向こうで、
客人を迎えながら美幸が小さく手を振っている。

ニックは軽く頭を下げ、背中を向けた。

『なあ、ニック』

歩き出したニックの頭の上で、唐突に声がした。

「アロン」

独り言を怪しまれないように、
ニックは直ぐ側の公園に入る。

黄色く染まり始めた銀杏の下に、
石造りのベンチがあった。

「昼間の外で会うなんて、珍しいね」

木陰に座り、ニックは長い足を組むと、
今貰ったばかりの書類を一つ、広げた。

小さな公園に、他に人はいない。

背の高いビルに囲まれて、
公園の木々は息苦しそうだった。

『シルシが痛んだろ』

身を屈めるようにしてニックを覗き込むアロン。

「分かるの?」

驚いたニックが書類から顔を上げた。

『俺様のココが』

言いながら、アロンは
三本ある凶悪な鍵爪の一本で、
自身の胸辺りを示した。

『イタくなるんだ』
「悪魔の心臓は、そこじゃないよね」
『そんなコトより』

聞き流すアロンが訊ねる。

『あのオンナは知り合いなのか』
「さっきの会社の……中山さんだっけ」

既に記憶から消されかけていた名前を思い出し、
ニックは頷きながらアロンを見上げる。

「彼女がどうかしたの」
『アイツのせいなんだよ』

げっぷを繰り返し、
アロンは悪いものでも食べた後のように
腹の辺りを何度も擦る。

『あのオンナが、契約の鎖をムリに外そうとしてるんだ』
「そんなこと」

ニックの顔が青ざめた。

「普通の人間には不可能だよ?……キミは、何者なの」

ほとんど誰も来ない小さな公園の入口に、
彼女が立っていた。

「良かった、間に合って。忘れ物よ、ニック」

妖艶な微笑みで、
美幸が大きめの茶封筒を片手に近付いてくる。

本能的に怯えた身体が、腰を浮かした。

「嫌だわ。そんなに恐がらないでよ」
『おい、オンナ。オマエ、何だ』

ニックの前に、アロンが立ちはだかった。

大きなアロンの前で、
彼女の身長はその半分にも満たない。

「煩いわね。小者は引っ込んでいなさいよ」

平然と言い放ち、
美幸は手を伸ばすとアロンの身体をどかした。

『オエッ……!?』

彼女が触れた場所に穴が開く。

よろけたアロンの向こうで、
ニックが指輪を構えていた。

「悪魔に触れることが出来る存在は、修練を積んだ聖職者か、または」

言いながらニックは、
アロンを背中に庇うように場所を入れ替わった。

「……同じ、悪魔しかいない」

返事をせず、美幸は
小さく肩をすくめて口元で笑う。

「もう一度聞くよ。キミは、誰」

今度は流れるように、ぺらぺらと喋りだす美幸。

「大学の同期で、中山美幸っていうの。あなたのファンクラブに入っていたわ。同じ講義も選択した、食堂ではあなたが見える位置を勝ち取った。片岡さんとも仲良くして、何回か呑みに行ったりしたわ。そうよ、あなたも居たじゃない」

ニックから怯えが消えた。

「カタオカ……彼女は関係ない」
「そうやってムキになるから、すぐバレちゃうのよ。可愛いわね」

鼻で笑い、
美幸は茶封筒を差し出した。

「これは受け取ってよね。仕事なんだから」

黙って手を伸ばすニック。

警戒していたのに、
美幸は素早く彼の手首を掴むと、
反対の手で袖を捲り上げた。

「可哀想に……辛かったでしょう。こんな傷、つけられて」

外気に晒されたアロンの刻印―しるし―が、
火傷のように激しく痛みだす。

力を込めて腕を引き抜き、
ニックは額から脂汗を流しながらも、
彼女から距離をとった。

「そんなに警戒しないで。私は、あなたを楽にしてあげたいの」
「キミが聖職者には、見えないよ」

痛む手首を硬く握り締め、ニックが言う。

蔑む眼つきで、美幸が言い返した。

「あなたもね」

そして、うっすら笑った顔で続ける。

「明日、片岡さんを夕飯に誘うわ」

声が出なかった。

「バーバラの店に行くの。勿論、あなたも来るわよね、ニック?」

身体を再生したアロンが戻ってくる。

『このオンナ、喰ってやる』

怒りに満ちた残忍な牙が、剥き出しになっている。

「駄目だよ」

ニックが制した。

「彼女は人間だもの。人間を食べたらどうなるのか」

悲痛に聞こえる声で、ニックが呟く。

「契約を忘れちゃ駄目だよ……キミが消えちゃうよ、アロン」
『クッソ!』

アロンの翼が震えて音を立てた。

『オマエ、覚えテロよ!ゼッタイ、喰ってやるカラな!』

怒りで言葉を曖昧にしながら、
アロンが飛び去っていく。

「人間臭いわね、あの悪魔」

美幸が笑った。

「あなたが育てたから?それにしても、近くに居過ぎたんじゃないかしら、あなた達」
「キミは、いったい」
「明日ね、ニック。お大事に、さよなら」

言いたいことだけ全部言い、
茶封筒を石のベンチに置いた美幸は、
立ったままふらつくニックを残して
先に公園を出て行った。

気が付けば、時間にして、
ほんの数分の出来事だった。



「ほんと、久しぶりね」

バーバラの店で、
ニック以外の人と呑むのは初めてだった。

「学生時代に戻っちゃうわ」

笑顔で向かい側に座る美幸は、
この数年でますます綺麗になり、
優子を圧倒した。

隙のない女性らしい服装、
目的に合わせた化粧、
バッグも靴も、爪の先まで彼女は美人だった。

「先ずは、乾杯しましょ」

頼んでいた飲み物が届くと、
美幸は可愛らしく首をかしげて
優子とグラスを合わせる。

相変わらず明るく楽しい音楽が大音量で流れ、
異国の言葉が飛び交う店で、
新顔の美幸は明らかに注目の的だった。

「ふふっ、また見てる」

優子の肩越しに、
向こうの席を確かめた美幸が小さく笑った。

「どうしたの」

レタスにフォークを突き刺す優子が訊ねる。

「素敵なお兄さんが、さっきからずっとこっち見てるの」
「え。知り合い?」

食べながら振り向き、相手を確かめる優子。

健康的に日焼けしたラテン系の好青年が、
美幸に向かって熱っぽい視線を送っていた。

「ど、どうするの。美幸」

慌てて前を向き、心なしかほほを染める優子。

「放っておくわよ」

目を伏せ、美幸は
薄くカットされたトマトの端を指先で摘んだ。

紅が取れないよう上手に口へ放り込み、
指先をわざとゆっくり舐める。

女性の優子が見ても、どきどきする仕草だった。

「今日は私、同窓会なの。二人しかいないけど」

妖艶に微笑み、その顔は優子に向けられる。

「仕事は順調?」

何気ない女子トークが始まった。

「うん、まあ」
「恋人とはうまくいってるの」
「いないよ、恋人なんて」
「うそ」

悪戯っぽく笑い、頬杖をついて、
ゆっくりグラスを傾ける美幸。

優子の食べる速度が上がり、
大皿に盛られた野菜がどんどん減っていく。

「嘘なんて、つかないわよ。本当にいないの」
「じゃあ、あの人は?」
「え?」

刺し損ねたヤングコーンが
ぽとりと皿に戻った。

店の出入口を顎で示す美幸に釣られて、
またもや振り向く優子。

黒系統のスーツしか着ない、
常夏の空に浮かぶ鳶のような……

「ニック!」

つい声を出して、呼んでしまった。

「こんばんは。相席、よろしいでしょうか」

ニックは紳士的な距離で立ち止まると、
二人の女性を交互に見る。

「どうぞ」

嬉しい偶然に驚きながら、
優子が椅子をずらそうとして、
向かい側の美幸を思い出した。

「あ……ごめん。嫌だよね、美幸。今日は女子会だし」

三角形の小さなテーブル席は、
明らかな二人用で。

いつもはニックと亮太と、
仲良く膝をくっつけて楽しんでいた。

「嫌なわけないわ」

優しい笑顔を浮かべる美幸が、大きな瞳を光らせる。

「ニックを呼んだのは、私だもの」
「美幸が?」

動きを止めた優子の代りに、
美幸が椅子をずらして席を勧めた。

「私の会社にニックが来たの。知らなかったわ、個人契約していたなんて」
「出社することが滅多にないので、ボクも知りませんでした」

席につき、ニックは言い訳をするように、
言葉を優子に投げかける。

「へえ、そうだったんだ。美幸は翻訳会社に就職してたのね」

優子は尊敬の眼差しで美幸を見た。

「外国語の成績、良かったものね。やっぱり、凄いわ」
「そうね」

美幸の瞳が挑戦的に光った。

「いつか必ず、ニックに再会したいと思ってたから」
「それって」
「案外早くに、願いが叶ったわ」

雰囲気をころりと変えて微笑む美幸が、
戸惑う優子に向かって、
空になったグラスを揺らす。

「次は、何にする?」
「あ、えっと。そうね……」

外国語の羅列に苦戦する優子。

「ニックは?」
「……ワインにします」

そんな美幸中心の晩餐だったが、
意外に楽しく時は過ぎた。

彼女の話は面白く、
豊富な雑学に程よくアルコールが回る。

「そろそろ終電だわ……帰らなきゃ」

腕時計に視線を投げて、優子が二人を見た。

「二人とも、明日仕事でしょ」
「私はいつもこんな感じだから」

名残惜しそうに、美幸がグラスの氷を眺める。

「そうですね。ボクは急ぎの仕事が入ったので、帰りたいです」

腰を浮かせた優子に合わせて
立ち上がるニックの手首を掴む美幸。

「ねえ」

やや低く落とした声に、ニックは嫌な予感を覚えた。

「何でしょう」

出来るだけ冷静な返事をしたつもりだった。

ニックの警戒に優子が気付き、
不審な顔を向ける。

「この事、彼女は知っているの?」

美幸が掴んだ服の中に隠された彼の秘密。

ニックが真夏でも長袖しか着ない理由。

料理をする時でさえ外せない、
大きな銀の指輪達の存在意義。

「だから」

ニックは強く言葉を切った。

「彼女は関係ないと言ったでしょう」
「何。どうしたの二人とも」

突然の険悪な雰囲気に、優子が慌てた。

「見えないから?」

優子を無視して、
美幸の美しい唇が意地悪く歪む。

「究極の現実主義者ですものね、優子は。なぜ、あなたが彼女を選んだのか理解に苦しむわ」

流暢な英語で綴られたその台詞の中に、
自分の名前を聞き取った優子が、
反対側からニックの腕にそっと触れる。

「どうして英語で話すの……私には隠したい事なの?」

優子の視線の、
ずっと上の方にある彼の肩が、
小さく揺れた。

柔らかな髪が、
悲しそうな彼の横顔を半分隠す。

「あなたには、関係のないことです。カタオカ」

囁くようなニックの小声が、
周囲の喧騒を通り越して優子に伝わる。

「そ、そうよね。……ごめんなさい、私。何か、勘違いしてたみたい」

先に帰るね、と美幸に告げた優子が
逃げるように店を出て行く。

「追いかけないの」

歪めた唇は、それでも艶やかに、
照明を反射して輝いている。

彼の心が激しく渦巻き迷うのを、
美幸は楽しそうに見守っていた。

一方、
競歩の勢いで無事に駅まで辿り着いた優子は、
改札を抜けながらふと空を見上げた。

「雨?」

見上げた先は駅構内の天井で、
優子は首を傾げながら指先で頬を拭う。

「変なの……」

すれ違う人が
少し驚いた顔で行き過ぎていく。

ほとんど乗客のない列車に乗り込み、
酔った頭を扉に預けた。

窓ガラスに映った自分の顔が、
泣いているとその時初めて気付く優子。

「関係ない、か……」

あの店で。

彼の自宅で。

嬉しそうに話すニック、笑って聞いている亮太。

その隙間に挟まって、
同じ位置に立っていると思っていた。

悪魔や精霊、そんな呼び名を付けられた
見えない存在について、
優子は自分の考えを曲げる気はない。

ニックはいつも、
少しだけ淋しそうな顔をしながらも、
思想は自由だと
彼女の意見を尊重してくれていた。

『ナンだ。あのオンナのニオイがしたのに、こっちのオンナかよ』
「痛……」

こめかみを抑える優子の真後ろに、
身体を折り曲げて列車内に納まる
真っ黒なアロンが立っていた。

感情を表さない瞳が、
覆いかぶさるように優子の顔を覗き込む。

『泣いてんのか』
「頭、痛い。呑みすぎたかな」

独り言を呟く優子の側から離れ、
アロンは空中に飛び出すと、
大きな手に掴んだ二・三体の小さな使い魔に訊ねた。

『で。オマエらは何であの女を喰おうとしてたんだ』

凶悪な鍵爪に纏めて掴まれた使い魔は、
苦しそうにもがく。

『イヤ、別にあれじゃなくても』
『タマシイなら何でも良かったんです』
『手頃なのがあれで……ぐえ』

握力を強め、
アロンは残忍な牙を剥き出しにする。

『俺様を騙そうなんてな。百万年早いんだよ』

反対の手が一体を引き抜き、
アロンは彼らの目の前で大きな口を開けると、
使い魔を丸呑みにする。

悲鳴が腹の中で響くが、
中で何が起きているのか、
使い魔の断末魔はげっぷと一緒に外に漏れた。

『ひ、ひい』
『お助けください』

小さな身体が手の中で小刻みに震える。

『じゃ、言え。誰の使いだオマエら』

迫力ある大悪魔の眼、
ちらちら見え隠れする牙、の隙間から、
待ち切れずに流れる涎。

『オマエら、けっこう上品な味がするじゃないか。調味料は……女神か』
『うえっ』
『もう、ご存知で』

口を滑らせた使い魔に、
アロンはにんまりと笑ってみせた。

『そういうのをな。ニンゲンの世界じゃ、「問うに落ちず語るに落ちる」って言うんだぜ』

もう一体を口に放り込み、
牙の間でしっかり噛み潰すと、
最後の一体が盛大に震えながら懇願した。

『お許しください、アロン様』
『お。オマエは口の利き方がわかってるみたいだな』
『……アダンダ様です』
『は?誰だって?』

使い魔の糸みたいな尻尾を掴み、
口の前にぶら下げながら
意地悪く聞き返す大悪魔。

『女神アダンダ様が契約した、ニンゲンのオンナが命令して』
『あのオンナか!』

鼓膜が破れそうなアロンの大声に、
思わず目を閉じた使い魔は、
それ以上声を出す暇もなく
大悪魔の腹の中に納まった。

『んん。久しぶりにウメエな』

腹の辺りを撫でながら、
アロンは大きな口を横に引き上げる。

『こりゃ、女神ホンタイも、相当ウメエんだろうな』

下品に笑うアロンが飛び去る。
その眼下に、向き合うニックと美幸がいた。

「どこまで着いてくるつもりですか」

ニックの自宅、
高層マンションの敷地内にある
小さな噴水公園。

ライトアップされた石畳に
さらさらと水が流れるここは、夏、
小さな子供達が転げ回って遊ぶ場所だった。

「あなたじゃないのよ」

少し離れて歩いていた美幸が返す。

「私は、悪魔の方に用があるの」

アロンの言ったことを思い出すニック。

「鎖を、切ろうとしているというのは、本当ですか」
「あら。そんなこと言ったかしら」
「……アロンが」
「うふふ」

妖艶に笑い、
美幸は立ち止まったニックに近付く。

思わず退く先は植え込みの石垣。

噴水を見ながら並んで石垣に腰をかける二人の姿は、
他人が見たら疑う余地のない恋人同士だった。

「あなたは、悪魔の言うことを信じるの?ニック」

彼の両手を上から両手で押さえ込み、
上半身を極限まで近付ける美幸。

「ボクは……」
「そんなの、人間としておかしいと思わない?」

悪魔を信じているわけじゃない。

「……アロンだから」
「騙されちゃだめ」

香水が強く漂い、
密着した肩や膝は、
女性特有の柔らかな肢体を意識させた。

「私が、解放してあげる……悪魔の束縛から」

緊張して身体を硬くする
ニックの耳をくすぐるように、
紅い唇が囁く。

「熱っ……」

押さえつけられた指先が、
じりじりと痺れていた。

「大変。火傷しちゃうわ、早く外さないと」

美幸が手を離すと、
指輪を嵌めたニックの指が真っ赤に腫れていた。

「どうして……痛っ!」

無理やり指輪を外す美幸。

「早く。あそこの水で、冷やしましょ」

アルコールと、香水。

前例のないハプニングに混乱したニックが、
言われるままに立ち上がり、
噴水の側へと歩いていく。

その指に銀の指輪はなく、
勝ち誇ったような美幸の含み笑いが
闇に薄く吸い込まれていった。

「遅かったわね。大悪魔アロン」
『オマエ……隠してたダロ。ニックはドコだ』

怒りも顕わに、
大きな悪魔は羽を広げ
宙に浮いたまま周囲を見回す。

「あら。ご主人様が見えないの」

蔑む眼つきで、美幸が顎を上げる。

「所詮、その程度ってことね。あなた達の仲なんて」
『ウルセエよ』

伸ばした手が、美幸の細い首を掴んだ。

大きな鍵爪が余り、彼女の後ろで交差する。

『ニックをどうするつもりだ……女神アダンダ』

答えを待たずに引き裂きそうな勢いで
アロンが牙を剥いていた。

感情など表現しないはずの真っ黒な瞳に、
烈火のような怒りが揺らめいている。

「やはり。あなたは人間に近付き過ぎたのね……アロン」

美幸の身体から力が抜けた。

気を失った彼女の背中から湧き上がる、
もうひとつの存在。

『小さなゴブリンをここまで育て上げる人間なんて、危険極まりないのよ』

巨大なアロンと互角の大きさの、
女神アダンダ。

しなやかで滑らかな身体の線が、
弦楽器を思わせた。

丸い緑の目、
吊り気味の目尻、
尖った顎。
三角形の耳が頭の上についている。

『ホンタイは化け猫かよ』
『そうね。オンナは化けるわ』

美しく微笑む顔は人間に近い。
艶やかな絹の毛皮に包まれた細い手足。

その手に握られた品物に、
アロンが眼を奪われた。

『オマエ……それ、どうした。何で、オマエが持ってるんだ』

大悪魔が動揺していた。

『だって。もう要らないんだもの』

その瞬間、
何かの気配に気付いたアロンが
大きな身体を反転させた。

噴水の前で、うつ伏せに倒れているのは、

『ニック!?』

僅かな翼の動きで、
アロンがニックの傍に移動していた。

死んではいない。
そんなのは見て判る。

ただ、
助け起こす、という行為を知らない悪魔は、
ここからどうすればいいのかが、
判らない。

『なあ、おい。ニック』

いつものように呼びかけるアロン。

その黒く大きな背中を、
後ろからアダンダの拳が貫いた。

『アヴヴ……グワァ……』

言葉にならない音を喉の奥から出しながら、
アロンの真ん中が泡になっていく。

アダンダの掌の中には、銀の指輪が握られている。

『あなたが消えたら、次はそっちのニンゲンね』

小さな舌先で唇の端を舐め、
アダンダは
貫いた拳をその場所で回転させた。

『ガアァァァ』

生きた感覚があるまま、
身体の一部分を捩じ切られる痛み。

地獄のどこかでやられたことがある。

翼を開いたまま、アロンの膝が折れた。

『あはは。おもしろーい』

じわじわといたぶる猫の習性は残虐なのか。

『なかなか壊れないわ』

夜の闇に、緑の瞳がきらきらと美しく光る。

『お、きろ……ニック……』

無意識に伸ばされたアロンの腕を、
水に濡れて冷えきった手のひらが掴んだ。

「……消え去れ、悪魔め」

掠れた声に正常な意識が感じられない。

アロンの腕を引くようにして
半身を持ち上げたニックと目が合った。

『……ヤベえ』

壊された背中の痛みを忘れて、
本気で怯えるアロン。

この小さな人間から発せられる光は、
本来、
白く清らかなものであるはずだった。

しかし、今、ニックの全身は
闇より黒い霧に包まれて、
その邪まな力は完全にアロンを凌ぎ、
その手首にあったはずの痣が、消えていた。

『アダンダ。指輪を寄越せ』

アロンは自分の鍵爪を腹に突っ込む。

痛みを伴う泡の中で、アダンダの手を探し、
掴もうと躍起になるが、
彼女は笑って逃げ回り、更にアロンの傷口を広げていく。

『オマエもヤベえ……って』
『そろそろ終わりよ。どっちももう瀕死じゃないの』

楽しげにくすくす笑うアダンダは、
アロンの身体を完全に引き裂く為に
両腕を突っ込んだ。


―――逃げろニック―――


それがアロンの最期の言葉だった。


その夜、
優子と亮太は同じ夢を見た。

水浸しで倒れているニック、
傍らに立つ黒い物体が手招きしている。

「ニック!?」

ほとんど同時に起き上がり、
二人は同じような行動をした。

着替え、家を飛び出し、小さな噴水公園へ。
ただし、
黒い物に対する認識には誤差があった。

「アロン〜?ですよねえ〜」

階下へ降りるだけの亮太が、先に公園に到着する。

「どこですかあ〜」
『おい……アベ』
「うひゃあ!はいっ!」

肩をすくめる亮太はアロンに気付き、
噴水の側へ駆け寄る。

「ああ!ニック!?ど、どうして……わあ!女の人も」
『いいか、よく聞けアベ』
「は、はい」

見上げたアロンの口の端から、
猫の尻尾のようなものが見えたが
気のせいだろう。

アロンは幾つかの指示を与えると、翼を広げた。

「それで〜。あなたはどちらへ、行かれるんですか〜?ニックが目覚めたら、教えてあげなきゃ……」
『来れるような場所じゃねえよ』
「へ?そうなんですか?」
『俺様が還るのは……地獄だ』

霧が晴れるように消えてしまったアロン。

腰が抜けていた亮太を励ます声が飛んできた。

「りょ、亮太さん!?しっかりして。ニック……美幸!?」

タクシーから飛び降り、
部屋着の優子が
水浸しのニックを抱き起こす。

「冷たい……大変。救急車」
「それは駄目です。片岡さん」

美幸の半身を起こしながら、
亮太が珍しく強い声を出した。

「は?何、言ってるの」
「あなたも見たんでしょう。僕と同じ夢を」

驚き黙り込む彼女に、亮太は早口に言った。

「僕がニックを部屋まで運びます。片岡さんは、この女性のために救急車を呼んであげてください。ところで、この女性は知り合いだったんですね?」
「う、うん。さっきまで一緒に呑んでた……友達なの」

いつもと違う雰囲気に気圧され、素直に頷く優子。

「じゃあ。よろしくお願いしますよ、っと」

水で重たくなった上着を脱がせ、
亮太は自分より長いニックを
やっとの思いで担ぎ上げる。

「すみません。少しだけ、手伝ってください」
「わ、わかったわ」

おんぶの要領でニックを背中に負うと、
かなり楽に歩けた。

言われるままにエントランスへ走った優子が、
車椅子を持って戻ってくる。

ぐったりした彼を座らせ、
エレベーターで階上へ向かう亮太。

「下が済んだら、必ず部屋に来てください」
「わかりました。ニックを、お願いします」

閉まる扉に、優子は思わず頭を下げた。




後書き

個人的に美幸は好きなキャラクターです。
美しく賢い女性って憧れます。

この小説について

タイトル 第六章;女神アダンダ
初版 2016年3月8日
改訂 2016年3月8日
小説ID 4764
閲覧数 550
合計★ 3
アクアビットの写真
ぬし
作家名 ★アクアビット
作家ID 666
投稿数 30
★の数 67
活動度 7999
アクアビットの小説は『PCにて見開き表示』が読みやすいかと。お試しあれ〜

コメント (2)

弓射り 2016年3月19日 22時56分17秒
女性の描写にかなり力が入ってるなと思いました。
観察力と描写が上手く結びついてるところは雰囲気出てると思います。

それ以外がどうも説明的に感じます。
女性の描写もすごく細かく丁寧、なわけじゃなくて選ぶ単語や一文一文の雰囲気が良い感じなので、それを他にもってこれたら、、、

誰々が〜する、という文体が崩れてほしい気がします。崩れてて良いかんじの所もかなりあるのですが、時々「いやに単調だな」と思わせる部分があり、物語が進む「だけ」のところが引っかかるからです。前回のロマンチックなシーンはそういう意味で読みやすかったのですけど、あの規模でなくてもワンパターンさは出来るだけ敏感に察知し回避できると、さらに全体の印象をプラスにできると思います。
clibin009 コメントのみ 2018年6月22日 16時37分35秒
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