【悪魔の十字架】 - 第八章;帰路

人間が暗闇を恐れる理由。

ヒトという哺乳類が、進化の過程で、
視覚を発達させた結果だと、賢者は語る。

生命を失ってしまうような、
重大な危険を回避するための手段が視覚だから、
それが機能しない暗闇を本能的に恐がるらしい。

賢者はまた、
オバケやアクマなんかの存在は、
脳の誤作動だと説明している。

今、暗闇を漂う「ニックだったもの」に恐怖心はなかった。
扇子が起こす微風のような、僅かな気配がそこに在るだけだ。

もう少しすると、その気配さえも薄れ、
「ニックだったもの」は完全に消滅する。

本来、この暗闇に放り込まれた魂は、
直ぐにでも消滅し、
新しい生命を宿して現世に戻っていくのだが。


『おい。ニック』

誰かが呼んだ。

光も音も、匂いも。
広さも深さも。
何もない場所で、起きるはずのない、事件が起きていた。

『居るだろ、そこに』

漂うだけの僅かな気配は、微塵も反応しない。

『ちゃんと、渡したはずだぜ』

暗闇の中で、黒く小さな塊が、身動きしたように感じた。

『おまえが握っているそれは何だ、ニック』

銀色の閃光が細い糸のように暗闇を突き抜けていった。

「……破邪の指輪だよ」

そうだ。

ボクは独りぼっちの寂しい人間だった。

そして、アロンという悪魔と契約したんだ。

「帰ろう。アロン」

周囲を覆っていた黒いベールが粉々に壊れていく。

ガラス窓を思い切りハンマーで打ち砕くように。

でもそこに音はなかった。

砕けた暗闇が、
ひび割れた箇所から光に浸食されていく。

それはとても静かな光景だった。

「ああ。帰ろうぜ、ニック」

光を背景に、
真っ黒な大悪魔、アロンが立っていた。

大きな身体の更に倍はありそうな黒い羽が、
柔らかく艶やかな羽毛に変わっている。

「あれ」

ニックが首をかしげた。

「アロンって、そんな顔だった」
「知らねえよ、自分の顔なんか」

三本だった鍵爪が、人間みたいな五本指になっている。

「手も。牙もないね」
「そうかもな」

歩き出したニックの側を
飛びながら返すアロンの声が、
低く落ち着いたものになっていた。

「酷い目にあった。ウリエルの野郎、今度会ったら絶対倒す」

相変わらず虚勢を張るアロン。

「爪も牙も失ったのに」

ニックが笑った。

「その代わり、凄え力を手に入れたから、いいんだ俺様は」
「へえ。そうなんだ」
「そんなことより」

不意に大きな手で身体を掴まれた。

「お前は歩くのが遅いな。俺様が運んでやるよ」

アロンはニックを掴んだまま
正体不明だった霧の河を軽く飛び越え、
あれだけ苦労した溶岩の道も一瞬で通り過ぎた。

「でも、ここは無理だ」

頂上が見えない、高い高い壁の前で、
アロンはニックを降ろす。

「俺様は門を使って出入りが出来るけど」

人間に近いアロンの顔は、表情を豊かに表した。

「お前はもう一度、初めから歩いていかなきゃならない」
「凄く大変なんだね」
「多分、一回は俺様を忘れる。……カタオカのことも」
「カタオカ」

その名前を聴いた瞬間、全身に電流が走った気がした。
目を見張るニックを見下ろし、アロンが小さく笑う。

「忘れてたか」
「うん。だけど、思い出したよ」

指に嵌めた銀の指輪達を撫でて、ニックはアロンを見上げた。

「大切な人だった」
「そうかもな」

そうだ、帰ろう。

ボクはまだ、何も伝えていないじゃないか。

「ボクが通る道はどこ」

背筋が伸びる。

「そこのトンネルだ。一旦入ったら出口に行くしかねえぞ」

アロンの片手が、ニックの肩にそっと触れた。

「むこうで。……待ってるからな」

目の前で大きな翼が広がり、アロンが飛び去る。
ニックは深く息を吐くと、トンネルに足を踏み入れた。

「光だ」

無の世界とは違い、奥から小さな光が洩れて見えた。

そこを目指して力強く歩き出した足元が、崩れた。

「え」

落下の感覚に息が詰まる。
手を伸ばしたが何も掴めない。

上も下も判らない暗闇で、思わず目を閉じた。



「可愛いニック」

呼び声に目を開ける。
黒髪の女性が、胸に抱いた赤ん坊にキスしていた。

「俺にも抱かせて。ヨーコ」

横から手を伸ばした金髪の男性が赤ん坊を抱き上げ、
同じようにキスを落とす。

「ふええ」

ひげが痛かったのか、愚図りだす赤ん坊。

「わあ。泣いちゃったよ、ヨーコ」
「パパのおひげが痛かったのよね、ニック」
「そうか、きちんと剃らなきゃいけないな」

柔らかく暖かな空間。

ああ、この二人はボクのパパとママだ。

ニックはトンネルの意図を理解した。

大きな腕で妻と子をいっぺんに抱き締める父を見ながら、
先へ進む。


「パパ、ニックが歩いたわ」

誕生日のケーキ。
お気に入りだった、黄色のタオル。
芝生の庭、回るスプリンクラー。


「今日から学校よ。忘れ物はない、ニック」

新しい靴。
面白い先生。
たくさんの友達。


「ニック、聞いて。ママのお父さんが亡くなったの」


……ああ、運命の分かれ道だ。


「弟のペンションを手伝いたいの。ああ、日本に帰りたい」

駄目だよ、ママ。
その飛行機に乗っちゃいけない。

「パパはどうするの」
「日本の学校で、英語の教師になるよ」
「地元の中学校で、ちょうど募集してたのよ。懐かしいわ」

嫌だ!
ボクは行きたくない。
知らない国なんて怖いよ。
ボクは友達と別れたくないんだよ!


ベッドに近付いた優子が、ニックの頬にそっと触れる。

「おはよう。ニック」

青ざめた肌が、
冷蔵庫で冷やされた果物みたいだった。

優子は掛け布団を除け、冷たい胸板に耳を当てた。

ニックの身体の中心、ずっと遠い向こうから、
非常にゆっくりとした鼓動が聞こえていた。

「死んだわけじゃないのよね」

呟いた後、
優子は飛び退くように彼から離れると、頬を染めた。

「眠り姫みたい」

美しく眠る姿に暫く見惚れ、そっと布団を掛け直す。

三日が無為に過ぎていた。
優子は彼がしていたように香を焚き、軽い掃除をした。
歩き回る者が居ないフロアは、すぐにうっすらと埃が積もる。

「今日は、あっちの部屋も掃除しようかな」

広々とした居間から、ドア一枚で隔てられた寝室。
完全なプライベート・ルーム。

クリーニングに出していたスーツを片付ける、
という大義名分を胸に、
優子は躊躇いながらもドアを押した。

窓のない、密室。

「明かり。スイッチ」

手探りで壁のリモコンを見つけた。

篭った空気の中に、ニックの香水を感じる。
寝起きのままのしわくちゃなベッド。

「ニックの匂い……」

思わず涙が出た。

優子はビニールに入ったスーツを抱えたまま、
室内を見回した。

ウオーキング・クローゼットは彼好みの寒色系に染まっている。
袋を外し、優子はあの日のスーツをその中へ戻した。

「勝手に入ってごめんね」

呟きながら退室しようとして、
小さなデスクに散乱する手紙類が目についた。

一番上に置いてあった絵葉書が、光って見えたのだ。

「これって、ニックのお父さん」

数時間、優子は絵葉書を眺めていた。

僅かに震える手で支える、
受話器から聞こえた小林神父の声は、
ニックに似た穏やかさで。

「初めまして。片岡優子です」
「大学時代の同級生ですね、お名前は聞いていましたよ」

堪えきれなくなった優子が電話の前で泣き崩れ、
その日のうちに、
小林神父と優子は初めて出会っていた。

「本当に、ありがとうございました」

ベッドの前で膝をつき、
ニックの手を握りしめたまま神父が優子を見上げる。

「いえ。私は何も」

実際優子は、
阿部に言われた通りのことをしているだけだったし、
その真意を理解しかねていた。

「この子には親友と呼べる人が居なくて」

ニックの寝顔を見つめる神父。

「……悲しい事故でした」

悲しい、という単語に、優子はニックの瞳を思い出した。

「私。ニックの事は何も知らないんです」

心の底から笑えない、深い悲しみを抑えつけたような。

「お話し、聞かせていただけませんか」

優子が膝をつき、神父の前に正座する。

「理解したいんです。彼を」

小林神父は少しの間、黙って彼女を見つめた。
どこから話したものか、決めかねているようだった。

「椅子に座りましょう」

小林が先に立ち上がり、優子の手を引く。

「お茶でも飲みながら。長くなりますよ」

触れた小林の手が、とても温かく感じた。
いや、
生きている人間の、体温を感じただけだ。
冷たいニックの身体を思い出して、
優子の目尻に涙が滲む。

「私がお茶を入れますね」

泣き顔を見られないように、
急いでキッチンへ移動する優子。

「ニックは、私の姉の子供なのです」

湯気の立つカップを両手で抱えて、小林が話し始めた。
正面に座り、優子は黙って頷いた。


教会付ペンションの、初代経営者でもある両親が亡くなり、
独りで切り盛りをすることになってしまった弟を手伝うための、
帰国だった。

「姉家族を乗せた飛行機が墜落事故を起こしてしまいました」
「そのニュースは覚えています。小学生でしたけど」

山の中腹に墜ちた飛行機の残骸。
消火活動と生存者の捜索が同時に開始された。

奇跡といわれた数人の生存者。

「火傷や打撲で、一ヶ月の入院でした」
「でも助かったのですね。良かった」
「姉と義兄が、彼を包み込むように亡くなっていたらしいです」
「そうだったのですか」

入院中に、小林は彼を引き取る決意をしていた。
裁判所や役所に通い、戸籍を整理した。

「退院と同時に一緒に暮らし始めました。日本語が殆ど使えなくて、会話に苦労しましたよ」

学校への復帰は、
中学校に上がる時にしようと決めていた。

すべてが落ち着くまで、
小林はニックを自由にしておいた。

「おじさん」

ニックは小林をそう呼んだ。

「外へ、行ってもいいですか」

ペンションの一室で、一緒に暮らすようになって数週間。
ニックは一歩も外へ出ず、本や音楽だけを相手にしていた。
身体の痛みもあるだろうから、と、そっとしておいたが。

「いいね。一緒に行こうか、教会まで案内するよ」
「はい。お願いします」

ニックは良い子だった。
嫌われないように、追い出されないように。
子供なりに心を砕く努力が目に見えた。

坂道を登る時、ふっと息を吐いた手を、小林が繋いだ。
驚いて見上げた彼の目が、まん丸になっていた。

「けっこう、急なんだよ。この坂」
「そう、ですね」

思わず引き抜こうとした小さな手が、
諦めたように脱力して、
小林は作られた彼の笑顔に心を痛めた。

「綺麗な教会だ」

赤煉瓦の壁、丸いステンドグラス。
ちょうど合流した、
オルガン弾きのお姉さんに背を押され、
ニックは初めて建物の中に入った。

太陽の光が、ガラス越しに柔らかく調節されている。

高い天井、本格的なパイプオルガン、
中央には銀色に輝く十字架。

「ママ……パパ……」

小さな呟きは抑える嗚咽にかき消され、
少年は十字架の前で膝を折ると長い長い祈りを捧げた。

その日以降、
ニックは教会の周辺で過ごすことが増えた。

クローバーの丘、近くの森、
少しずつ、行動範囲が広がっていく。

「ニック。ちょっとおいで」
「はい。おじさん」
「三宅さんがマドレーヌを作ってみたよ」

先代の頃から勤める古株のシェフが、
新しい焼き菓子に次々挑戦するようになったのは、
ニックのためであった。

口数の少ないシェフの分も、小林が笑顔を振り撒く。

「おやつに持っていけるね」
「はい。ありがとうございます」

赤いチェックのシャツにブルージーンズ。
ニックの髪は母に似た黒だったが、
瞳の色が微妙に青かった。
美しく整った顔は、輪郭が細く、
遠目からは女の子にも見えた。

「気を付けて行っておいで」
「はい。いってきます」

渡された巾着袋を本と一緒に抱えて、
ニックが散歩に出て行く。

拭えない寂しさを小さな背に負う少年の後ろ姿を、
二人の大人が見送った。

「いつか」

小林の独り言を、立ち止まったシェフが聞いていた。

「お父さんと、呼んでくれる日が来るといいなあ」
「来ますよ」

短くも誠実な言葉が、嬉しかった。

今日もいい天気だ。
ニックはかなり元気になった足を動かして、
坂道を登っていく。
いつものクローバーの丘で寝転がり、
空を向いて本を広げた。

『いいニオイがスル』

風の囁きみたいなその音を、最初聞き逃した。

頁を捲り、空想の世界に浸る。

『ウマそうダナア』

先程よりも近くで風が呟いた。
少年は本を閉じて、身体を起こした。

「誰」

思わず母国語を使い、慌てて日本語に言い直す。

「誰なの」
『たべタイなあ』

不思議な感覚だった。
何を言っているかは判るのに、何処の言語なのかが判らない。

「おいでよ」

思い切って呼びかけてみた。

「一緒に食べよう」

消えた気配と同時に途切れた声。
不意に表面化された寂しさが、倍になって圧し掛かってくる。

「だからボクは嫌だったんだ」

呟きながら、怒った顔で立ち上がる。

「神様はボクを独りぼっちにするためにここへ呼んだの」

さらさらと優しい音で梢が手招きしている。

「なぜ、ボクだけ生き残ったの」

ニックは森に向かって歩き出した。

「死にたかった、パパとママと一緒に」

ずっと我慢していた涙が、止まることなく頬を伝っていた。

教会の屋根にある白い十字架が、
森へ入っていく少年の、幼く細い背中を上から見ていた。

「ねえ。隠れていないで、出てきてよ」

流暢な母国語と拙い日本語で同じ事を繰り返した。

別荘地にやってきた外国の子供が、紛れ込んだのかもしれない。
近所に住む日本の子供が、様子を見に来たのかも。
……お菓子をあげたら、友達になれるだろうか。

目の前の茂みが、風のせいではない動き方をした。

「そこに、いるの」

少し、恐かった。

立ち止まって、揺れた低木の隙間へ目を凝らす。
そこでは煙の塊みたいな物が蠢いていた。

どこからか、焚き火の白い煙が流れてきているのか。
山火事かと顔を上げて周囲を見渡す。

焦げ臭さは、無い。

「ねえ。意地悪しないで出てきてよ」

ニックは思い切って一歩近付いた。
見た目でみんな油断するが、学校での喧嘩は負けたことがない。

「それ何。花火。爆竹」

悪戯に白煙を投げ込もうとしている相手を捕まえようと、
枝に手をかけて、それを左右に割り開いた。

視線の先、地面に丸く固まっていた煙が透明度をなくし、
縦に細長く伸びていく。

地上80cmくらいの場所に、二つの目が浮かんだ。

「何。これ」

思考が停止する。

白煙が徐々に色を変え、灰色の輪郭を形成していく。
目の下に口、毛のない頭部、裸の肩……細い手足。
異常に大きく見える先の尖った耳と、はみ出た犬歯。
それは、どこかの本で見た。

「ゴブリン」

姿を認めると、
それは詰まった溝みたいな悪臭を放ち始める。

思わず服の袖で口元を庇いながら、目は離せないニック。

「きみ、ゴブリンだよね」

自分より小さいそれに聞いてみた。

『オマエがオレをかたちにしたんダヨ』

黒板を爪で引っ掻いたような、なんとも酷い音声だった。

「ボクが」
『なあなあ。それ、くれるんダロ』

腕にぶら下がる巾着袋を、凝視する変な生き物。

「う。うん」

少し震える手で袋の口を開けた。

奪われるかと構えていたが、灰色のゴブリンは、
口から涎を垂らしながらもおとなしく待っている。

「あ、甘い物、好きなの」
『あまいモノ、スキダヨ』

人間じゃないけど、会話が出来た。
会話が出来たら、友達になれるのかな。

「きみ、名前は」

ひとつ目を渡して訊いた。

『ナマエってなんだ』

丸呑みにしたゴブリンが小さな目を光らせる。

「ボクはニック」

手のひらを胸に当てて、ニックが言った。

『オマエはニック。オレはゴブリン』

真似をするように胸の辺りへ手をやる。

『もういっこくれ』
「違うよ。それだとボクは人間で、キミがゴブリンてこと」

ふたつ目を差し出しながら続ける。

「ボクは人間のニック。キミはゴブリンの何」
『しらねえ。まだあるか』

三本しかない指で巾着袋を示す。

「名前って、ないのかな」

上の空でみっつ目を渡しながら、
もう恐がっていない自分に気付く。

「ねえ。キミに友達はいないの」
『トモダチってなんだ』

あんな丸呑みで、味なんか分かるのかな。

「おんなじゴブリン」
『いるよ』
「え。どこに」
『あそこにも、ここにも。いっぱい』

空や地面を指しながら、
ゴブリンは踊るように跳ね回り、
そのまま森の奥へ姿を消してしまう。

「あ。待って」

思わず追いかけたニックだったが、直ぐ先にあった崖に阻まれた。

「あと二つあったのに」

巾着袋の中身を見ながら呟くニック。
半ば自棄気味に頬張り、森を後にした。

次の日。

「ミスター三宅」

ニックの方から話しかけたのは、それが初めてだった。

内心、腰を抜かす勢いで驚きながら、
表情も動きも一切変えないシェフが眉を上げる。

「はい。何でしょう」
「昨日のマドレーヌ、凄く美味しかったです。ありがとう。それで、今日のお菓子は何ですか」

拙い日本語を頑張って使う少年に、
心で感涙するシェフが無表情に頷く。

「今日は、フィナンシェです。あと少しで焼きあがりますよ」
「またこれに、お願いできますか」

昨日の巾着袋を差し出すニックの頬が、
ほんのり赤く染まっている。

脳内で『可愛い!』と叫びながら、
シェフはそっと袋を受け取った。

「分かりました。出来たらお呼びします」
「はい。ありがとう」

顔を上げて三宅さんを見たニック少年の顔に、
柔らかい微笑が浮かんでいた。

軽やかに走り去る後ろ姿をしばし見送り、
再び作業に戻ろうとしたシェフの足がもつれて
野菜箱を蹴っ飛ばす。

「お……」

向こう脛を押さえてうずくまるシェフに、小林が気付いた。

「どうしました、大丈夫ですか」
「ああ、稔くん。今、ニックが」

大人達の喜びに気付かないニックは、
昼食を終えると直ぐに、
焼きたてのお菓子が入った巾着袋を提げて森へ向かった。

「ゴブリン。いないの」

声を小さくして呼びかける。

昨日の夜、寝る前に本を読んだ。
ゴブリンについて、もう一度調べたかったのだ。
伝承は様々で、しかし、
あまり良いものではないと記されていた。

「ねえ。ゴブリン、出てきてよ」

神父の養子として暮らす自分が関わりを持っていいものか。
そんな戸惑いが声を小さくしていた。

『いいニオイがスル』

風の囁き。

『ウマそうダナア』

茂みが揺れ、灰色のゴブリンが姿を見せた。

「今日はフィナンシェだよ」

ニックが急いで袋を開けると、焼きたての香りが周囲に広がった。

『くれ』
「あげるから、友達になってよ」

ゴブリンの手にお菓子を落としながら、
ニックは勢いをつけて言った。

昨日と同じようにお菓子を丸呑みしたゴブリンは、
袋を凝視したまま返す。

『トモダチになったら、もういっこくれるのか』

こんな取引みたいに作り出された友人関係が本物になり得るのか、幼いニックには考えが及ばない。

友達の意味も知らないゴブリンと、
叶うかも分からない約束をしたにも関わらず、
浮いた足取りで帰宅するニック。

「楽しみを見つけたようですね」
「明日は何を作りましょうか」

厨房で囁きあう大人達。
明日を待つ喜びを思い出した少年。
胸の奥を温かくしながら、ニックは眠りについた。

葉っぱが緑から黄や赤に変わり、
やがて茶色く乾いて地に落ちる。

高原に一足早く冬がやってきていた。

『よお。ニック』

高い梢の上から、身軽に降りてくる灰色のゴブリン。

「やあ。アロン」
『今日は遅かったナ』
「学校へ行っていたんだよ」

温かい出来たてパンを手渡しながら、ため息をこぼす。

「日本の学校はつまらないよ」
『そうか』

上の空で相槌だけ打って、
アロンと名付けられたゴブリンは、
横に裂けたような大きな口にパンを押し込んだ。

「みんなが、何を話しているか分からないんだ」

ゴブリンの言葉は分かるのに。

『もういっこくれ』

言われるままにパンを差し出しながら、
ニックはアロンの変化に気付いた。

「ねえアロン」
『ナンダヨ』
「少し大きくなった」

それに、透けてない。
最初は、目を凝らさないと
背景の草むらに溶けてしまうくらいの存在感だったのに。

『そうか』

出来立てパンを丸呑みして、
アロンは物足りない風に腹の辺りを撫でる。

『今日はもうないのか』
「ごめんね。お客さんがいっぱい泊まる日はあまり貰えないよ」
『もっと食いたいナ』
「そうだよね」

やがて高原に雪が降り積もる。

生まれて初めて見る雪に大興奮したニックだったが、
その日のうちに風邪をひいてしまった。

「今日はしっかり寝ていないと駄目だよ」

小林の優しい手が布団を掛け直し、氷枕を確かめる。

「はい」

真っ赤な頬で瞳を潤ませ、高熱に半日うとうとした。
でも気になるのはアロンのことだ。

「寒くないかな。お腹、空いてないかな」

もしかしたら、いつもの場所で待っているかもしれない。

起き上がれるようになったのは、翌日の午後だった。

「ニック。歩けるかい」

様子を見に来た小林が訊く。

「はい。もう大丈夫です」

パジャマのままスリッパで階下へ降りる、と、
同級生の女の子がエントランスに立っていた。

「あの。先生が、手紙とか渡して、って」

家が一番近い彼女は、二日分の配布物をニックに手渡す。

「あ、ありがとう」

少し緊張した。

面と向かって同級生と話すのは、
これが初めてじゃないだろうか。

「あと、これ」
「なに」

クリアファイルに挟まれたプリント用紙。

「宿題。先生が手伝ってもいいよ、って言ってたんだけど」

どうしよう、と、二人は
エントランスに突っ立ったまま黙り込む。

小林が助け舟を出した。

「真希ちゃんに時間があるのなら、ケーキでも食べながらそこでニックに宿題を教えてくれるかい」

ケーキ、に釣られたと思う。
真希ちゃんは赤いほっぺたを更に赤くして頷いた。

庭に面した広いガラス窓から、柔らかな冬の日差しが届く。
静かで暖かい食堂の片隅で、
二人はケーキと紅茶を堪能しながら漢字の読み書きに励んだ。

「何かしら、あれ」

手を休めた真希ちゃんが、
紅茶のカップを口につけたまま動きを止めた。

「スクィロゥ、かな」

苦手な漢字で頭をいっぱいにしたニックは、
ペンを握ったまま呟く。

「え。何」

聞き返されて顔を上げた。

「あ、ごめんなさい。リス、かな、って」

言いながら一緒に見た庭と雑木林の境界線。

「……アロン」

青ざめるニック。

「また英語」

呆れて困る真希ちゃん。

灰色のゴブリンが、ペンションの庭先まで来てしまった。

隠して飼っていた野良犬が見つかった気分に近い。

「何あれ、気持ち悪い。こっち来るよ」

怯えて立ち上がった真希ちゃんを落ち着けようと思った。

「怖くないよ。アロンっていうんだ」
「え。ニック、あれを知ってるの」

だんだん近付くアロンが、窓越しにニックの所在を認める。

灰色の皮膚、地面を擦る細長い腕、醜悪に歪んだ獣の顔。

「ゴブリンだよ。友達なんだ」

安心させたくて真希ちゃんに笑顔を向けた。

「きゃああ!」

ガラスの向こうで消えたゴブリンは、
次の瞬間、
食堂脇の階段に立っていた。

椅子を倒す勢いで真希ちゃんが泣き叫ぶ。

「どうしたんだい」

驚いた小林が螺旋階段の上から顔を出した。

「おおおじさん、そこ」

震える指が示す先には、何もいなくて。

「私っ、帰るね!」

現象でしかなかったゴブリンは、
固有名詞を貰うことで実体化した。

魔物が仮契約をした人間の子供は、
正式に洗礼を受けていた。

食べ物を分け合い会話をしながら、
アロンは成長していた。


「ニック。ちょっと、いいかな」

小林が部屋に訪れた満月の夜。

それが、運命のあの日。
ニックは中学三年生になっていた。

「はい。どうぞ」

受験勉強の最中で、彼は机上にあったラジオの音量を下げた。

「勉強は、はかどっているかい」
「はい」
「珈琲を淹れてきたよ」
「ありがとうございます」

小林の手に、もう一つ紅茶のカップがあることに気付いて、
ニックは珈琲を受け取ると、椅子を回して小林に向き直った。

「少し痩せたかな」

小林はじっとニックを見て言った。

「そうですか」

笑顔を作ったがぎこちないと自覚する。

「あれは」

小林の声が、恐いと思った。
言葉を選んでいるような沈黙に、耐えるニック。

「ゴブリンは魔物だよ。友達にはなれない」

知っていたのか。

ニックの手が震えて、カップが受け皿の上で音を立てる。

「でも。アロンは」

声も出せずに、小林が驚愕していた。

「……名前を付けたのかい、あれに」

やっと搾り出した台詞がそれで。

自分が信頼する友人を否定されて、悔しいやら悲しいやら。
反抗期に突入した気分だった。

「アロンは、おじさんが思うような悪い物じゃありません」
「いや、悪魔だよ。ゴブリンは」

可哀想に、寂しさのあまり獲り憑かれてしまったか。

小林が取り出した銀色の指輪から、
銃口を向けられているような恐怖を感じるニック。

『よお。ニック』

最悪のタイミングで、その声が聞こえた。

「来ちゃ駄目だ。アロン、逃げて」

いつものように外から窓を開けたアロンが
くるりと背中を向ける。
その灰色の身体が、
痺れたように痙攣しながら部屋の中へ落ちてきた。

「アロン!」

駆け寄るニックの肩を、思いがけない力で引き戻す小林。
月明かりに眼鏡のレンズが乱反射して、表情が見えない。

「……」
聴いたことのない単語の羅列だった。

小林は指輪を握り締めた拳をアロンに向けて、
浄化の言葉を注ぎ込む。

『イテエ、イテエよお』

長い両腕で抱き締めるように身を縮め、
床を転げまわって痛がるアロン。

『ヤメロ。ヤメてくれよお』

悲痛な叫び声が部屋に響く。

「おじさん!止めて!お願い!」

腕にしがみついて懇願した。

応えない小林は、
ニックを背後に庇い仁王立ちのまま詠唱を続ける。

『あ、あ、消えル……消えちゃうヨお』

灰色の背中が泡になっていく。

頭を抱える腕も、形を失って溶けていく。

「い、やだ。止めてよ。おじさん……ボクの友達だよ」

パパもママも居ない。
独りぼっちだったボクの、唯一の。

「Mahdollisuus―砕けろ―」

背中を突き飛ばされた恰好で、小林の身体が転んだ。
弾みで指輪が床に散乱する。

「ニック」

膝の痛みに耐えながら小林が振り返ると、
立ち上がる隙を与えないニックが両手を組み、
天に翳していた。

「一体何を……」

誰も教えていない。

北欧の言語も、砂漠の国に伝わる呪詛のポーズも。

「お前が奪うのか。私の愛する者を奪うのは、お前なのか」

少年の唇から囁くように零れる異国の言葉。

『スゲエ』

小林の背後で、灰色のゴブリンが小さな瞳を輝かせた。

『あのチカラも、欲しいナ』
「Häivyttää niitä―消え去れー」

鬼を思わせる憤怒の瞳で、ニックが呟く。

服の上から心臓を抑える小林が死を覚悟した。
しかし、ここで小林まで居なくなったら、
誰が彼を止めるのだろう。

彼の哀しみや怒りを、誰が癒すのか。

『おい。オマエ』

ゴブリンが悪臭を撒き散らしながらニヤニヤ笑いを浮かべていた。

『ニックを止める方法。オレサマなら知ってるゼ』
「ど、うやって」

開いていた窓から突風が吹き込んだ。
いつの間にか降っていた雨が、室内を濡らしていく。

机上の本を、ベッドの布団を、ニックの服も髪も。

「あああっ!」

少年が激痛に顔を歪めて床に転がる。
肉の焼ける臭いを、湿った風がかき消した。

焦げた手首に刻まれた、三本の鍵爪の痕。

『イマだ。指輪を嵌メロ』

濡れて滑る床を這うように近付いた小林が、
転げ回るニックに手を伸ばし、その身体を捕まえる。

「い、痛い!熱いよ!」

腕が激しく振り回され、小林の眼鏡が吹き飛んだ。

「ニック」

子供とは思えない力だ。

『しっかりヤレヨ』

巻き添えを避けたアロンは、少し離れた場所から見ている。
小さな拳が、抑え込む小林の脇腹を抉っていた。
息を詰まらせ、目眩を感じながら、小林は掴んだ腕を離さない。

「ここにいるよ、ニック」

絞り出す声は掠れていた。

「君を愛する家族だ……僕は、君の父親だ」

震える指先が、ようやく指輪を嵌めた。

吹き込む風が唸り声を上げている。
冷たい雨が、体温を奪っていく。

「どうしたの、これ」

目を開けたニックは驚いた。

また少し大きくなったゴブリンが、
室内で小林を組み敷いているように見えた。

『オレサマだよ、ニック』

びしょ濡れで疲労しきった小林が、
それでもニックを護ろうと闘っている。

「痛い。これは何」

手首に感じた、引き攣るような火傷の痛みと痣。

『ソレは契約の刻印(シルシ)だニック』

窓枠に片足をかけ、アロンは逃げる準備をしていた。

『コバヤシの生命と引き換えダ』

暴風に激しく揺れたカーテンが、窓枠に乗るアロンを叩く。
『あっ』という声と一緒にゴブリンの姿が消え、
ようやく立ち上がった小林が窓を閉めた。

吹き込んでいた雨と冷たい風が止み、
静かになった室内で、
二人はびしょ濡れのまま顔を見合わせる。

「ニック……無事で、よかった……」

小林がニックを抱き締めて、泣いていた。

「ありがとう」

驚いていたニックの表情が和らぎ、
少年はそっと腕を回して目を閉じる。

「お父さん」


後書き

あ。マドレーヌ、食べたい。

この小説について

タイトル 第八章;帰路
初版 2016年8月21日
改訂 2016年8月21日
小説ID 4808
閲覧数 235
合計★ 3
アクアビットの写真
ぬし
作家名 ★アクアビット
作家ID 666
投稿数 29
★の数 65
活動度 7642
継続の大切さと恐ろしさを実感する今日この頃

コメント (3)

弓射り 2016年9月15日 3時08分37秒
ひとつひとつの場面は丁寧な描写で、雰囲気もよく伝わってくるのですが、いわゆる回想シーンですよね?
いろんな場面が次々移り変わっていく、というイメージには乏しい文章かなぁと。アクアビットさん特有の淡々とした進め方に向いてないシーンかもしれません。工夫しないと伝わりづらい。
映画ならシーンの変わり目で、カットが変わりますね?シーンとシーンの間に特殊効果を入れたりとか。それに代わる文章的な工夫が必要だと思います。

そして、それを僕のようなイチ読者に指摘されるまでもなく、気づけたら良かった、、、長く続けてらっしゃる思い入れのある作品で、決して習作ではないのですから。
★アクアビット コメントのみ 2016年9月16日 6時19分22秒
弓射りさん>>コメントありがとうございます。

前回のご指摘にあった『OOがXXする』という書き方が、本当に多かったので、その部分は修正して投稿してみました。
回想場面はクドいと飽きる、と思った上で削った文章でしたが、なるほど大事なところまで消しちゃったかな。

特殊効果のような表現力かあ・・・頑張ってみます。

弓射り コメントのみ 2016年9月16日 6時59分11秒
はい、クドいと飽きます。削った判断自体は正解かと思いますよ!
ただ、バランスの問題ですね。

とりわけこのお話の、ニックの過去が(ちょっと違いますけど走馬灯のように)うつりかわっていくのを、普通の書き方で表現するのはとても難しいでしょう。アロンとの絆を象徴するシーンの1つ1つの美しさが、だらっと繋がっていることで損なわれています。

難しいことじゃなく、ただシーンの変わり目に
*********
を入れて区切ったりとか
エピソード1つを改行をなくして字詰めにし、次のシーンにうつるときは5行くらい改行を入れて、エピソードが視覚的に別のシーンだとわかりやすくしたりとか。その程度の工夫です。
紹介させて頂いたのは安易な方法ですが(^^;;

勇気をもって平叙文のスタイルを変えたのは、とても良いと思います。文章がリズミカルになると、内容が輝きだします。
まだ癖が抜け切れていない印象ですが、平叙文のパターンに試行錯誤するのは物書きの宿命ですからね、、、
名前 全角10文字以内
コメント 全角3000文字以内 書式タグは利用できません
[必須]

※このボタンを押すと確認画面へ進みます。