【悪魔の十字架】 - 第九章;覚醒

トンネルの中央付近で、ニックは立ち止まった。
以前アロンが言っていた台詞を思い出す。


『ニンゲンの記憶ってのは随分と曖昧なんだな』


「そういうことだったんだ」

握り締めた拳に、指輪の感触。

自分の中に、
抑えなければいけない激情があるのは、
かなり前から気付いていた。

黒く重たく、とても悲しい、負の感情。

アロンという悪魔の餌になってしまうのが嫌で、
ずっと身体の奥底に閉じ込めていた。


そうだと、思い込んでいた。


「悪魔から護るために」

小林はそう言って、指輪をニックに託した。

お風呂でも寝るときでも、
これだけは、外しちゃいけないよ。

悪魔はいつでもニックの隙を狙っているからね。


「……違うじゃないか!」

耳鳴りがした。
頭に血が昇るとき、目眩と一緒に起こる現象。

震える指先が、指輪を外し。

「ボク自身が……アクマだったんだ」

思い切り遠くへ投げた。

「もしかしたら」

割れそうに痛みだした頭を抱えて、
うずくまるニックが考える。

「飛行機を落としたのだって、ボクじゃないのか」


行きたくないと願った。

勝手に未来を決めた両親を一瞬でも恨んだ。


「Mahdollisuus―砕けろ―」


あの時呟いたのは、本当に自分なのか。


「Häivyttää niitä―消え去れー」


何が居るんだ。


自分の中に、誰が。


「もう、進みたくない」

この先の自分は全部偽者だ。

新しく出来た多国籍な友人と過ごした、
楽しい学生時代。

悪魔祓いだって、
正義のためだと信じていた。

怯えた視線を遺して消えていく、
可哀想な悪魔達。


「ボクは、何なのだろう」

そこに優越感はなかったと、言い切れるのか。


『ニック』

誰かが呼んでいた。

『おいで、ニック。自分が誰なのか、知りたいだろう』

誘われるままニックは足を踏み出した。

一本道だと思っていたトンネルに岐路がある。

『そっちは今までと同じ道だ。今度はこっちへ行ってみないか』

「あなたは、誰なのですか」

薄闇にぼんやりと見えたその老人は、
見上げるほどの背の高さだった。

帽子を目深に被って片目を隠し、
立派な槍を杖代りにして立っている。

『私か』

老人は片手でひげを撫でた。

『私は様々に呼ばれている。死の神、戦の神、魔術と知識の神』

帽子の淵から見える目は理知的な光を湛え、
その肩書きを聞いて知らぬ者はいないだろう、と、
語らずに笑っていた。

『君は私の魂の欠片を持って生まれた』
「魂の欠片、ですか」

新たに浮かんだ道に向かって歩き出しながら、
ニックは鸚鵡返しに言った。

『本当は回収に来たのだが』

老人は笑いを堪えるように肩を揺らして
楽しそうに話すが、
ニックの背中には冷たいものが走る。

「魂の回収、ってそれは」
『うん。君を無に還す』

死の神と呼ばれる所以(ゆえん)が垣間見えた。

記憶に新しい、
何もなかったあの場所には二度と還りたくない。

立ち止まり、ニックは本能的に身構えた。

『おやおや。この私と一戦交えるつもりかね』

ひげをしごきながら、
老人はついに声を上げて笑った。

『流石は私の魂といったところか』
「あそこには還りたくないんです」

闘うために構えた指に、銀の指輪がない。

『闘い方を知っているようには見えないがな』

興味深くニックを見守る老人は、ふと、
トンネルの向こうに意識を移した。

『そういえば、先程何かを投げ捨てていたな君は』

覚えていないニックが
老人の言葉を理解しかねて戸惑う。

その隙を狙ったのか、
それほどの相手でもないのか、
ニックの眉間では既に、
槍の先が凶暴な光を放っていた。

『私が命令するとこの槍は、地獄の底までも君を追いかけて、確実に魂を回収する』

全知全能の戦神を相手に、
人間ごときがどう闘えというのか。

握った拳から力が抜け、
戦意を失ったニックが項垂れた。

『何だ。もういいのか』

今更。
何をどう足掻こうとも、運命は変わらない。

両親はもう、生き返りはしないのだ。


「ボクに帰る家はない」

呟きが、足元に落ちる。



「……ニック?」

優子が目を覚ました。

蝋人形みたいなニックの、
脇腹辺りに頭を寄せて、
座ったまま眠っていたようだった。

ユリの香が漂う暗い室内で、
デジタル時計の文字盤だけが
緑色に浮いて光っている。

カーテンのない大きなガラス窓の向こうで、
隣のビルに取り付けられた航空障害灯が
赤い点滅を繰り返していた。

「今、何か」

呟きを途中でやめて優子は、
薄明かりの中で、
冷え切ったニックの頬に両手を添える。

気になって確かめた心音が、遠い。

「やだ。ニック、起きて」

嫌な予感に全身が震えた。

「ニック。お願い。もう、目を覚まして」

悲しい声が彼の名を呼び続け、
泣き声は
静かな室内を埋め尽くしていく。


『カタオカ』

既に懐かしささえ感じる呼び声に、
優子が勢いよく顔を上げた。

「ニック!?」

『残念だが、俺様はニックじゃない』

青に染まる夜の景色。

どうやって入ってきたのか、
部屋の真ん中に佇む黒い衣装の男性は、
ニックに似た顔立ちと雰囲気を纏っていた。

『ここからが、あんたの出番だ』

涙で濡れた目で、優子はその人を凝視する。

「ねえ。あなたもしかして、アロン?」
『誰だっていいだろ。時間がねえんだ、カタオカ』

ベッドに近付いてきたその人が
黒装束だと思ったら、
全身が羽毛だった。

信じられない思いで口が開き、
涙が乾いていく。

「……その羽、本物?」
『煩い女だな』

確かめようと伸ばされた優子の手を掴み、
その目を覗き込んで言い聞かせた。

『ニックが逝っちまうぞ。いいのか』

力強く温かい手の感触に、
優子は我に返ると勢い良く頭を振った。

「嫌よ。私はどうしたらいいの?」
『呼ぶんだよ。目覚めるまで』

閉まりかけていた口がまた開いた。

「……それだけ?」
『ああ。それだけだ』

苛々と応えるアロン。

『いいか。カタオカ』

呆けたように自分を見上げている愚かな人間に、
大悪魔アロンが説明を始めた。

『ニックは今、分かれ道にいる。このまま放っておくと、無の世界に逆戻りしちまうんだ。今度あそこに戻ったら、ニックは完全に消滅するんだぞ、いいのか、それで』
「嫌よ」
『じゃ、呼べよ。早く』
「ニック。起きて、ニック」

ニックの耳元へ声を流し始めた優子を見下ろしながら、
腕組みして仁王立ちの大悪魔アロンは愚痴を続ける。

だいたいよお。

俺様が魂を賭けて、
せっかく連れ出してやったのに、
こんな簡単に戻られてたまるかっつうの。

かといって、大神オーディンに、
喧嘩を売って勝てる算段なんか、
あるわけないだろ。

ニックもニックだ。

カタオカの声にしか反応しないとか、
不便極まりないよな。

俺様とか、アベとか、コバヤシとか、
立場ねえじゃないか。


「ちょっと、アロン。煩い」
『ああ?!喧嘩売ってんのか、人間の女』
「あとでね」
『ほう。言うじゃねえか』

苛々とした足踏みが隣室に届いたのか、
不意に玄関の扉が開いて阿部が入ってきた。

「片岡さん、こんばん……わあっ!」

玄関先で腰を抜かした阿部。
呆れて何も言わないアロン。
死の淵へ向かう冷たい身体のニック。
必死に声をかけ続ける優子。

「か、混沌(カオス)……」
『おまえだけだ。最初(ハナ)っから掻き回してるのは』

憎まれ口を叩きながら部屋の真ん中に立つ悪魔が、
阿部には宗教画の堕天使に見えた。

「ていうか、アロンさんですよねえ」

控えめな物言いに、アロンの機嫌が良くなる。

『お。口の利き方が解ってる奴だったな、そういえば』

そんな二人のやりとりを
気にすることなくベッドへ寄り添う優子に、
阿部が声をかけた。

「片岡さん。この方が」
「知ってるわよ。アロンでしょ」

早々に切り捨てられた。

『くっそ。何かむかつくな、この女』
「え〜と。明かり、点けますねえ」

阿部が恐縮しながら部屋の照明を点けたが、
アロンは動じる様子もなく
優子の真後ろに立ったままで、
ベッドを見下ろしている。

「ニック。リョータさんも来たわ。ねえ、目を覚まして」

微かな心音が、どんどん遠のいていく。

「どこへ行くの、ニック。あなたが帰る場所は、ここでしょう」


閉じたニックの目の淵から、涙が一筋流れた。


「ちょ、ニック!待って。逝かないで、私は」

言葉に詰まった優子が黙り込んだ。


『カタオカ』

二人を睨み降ろすアロンが声を落とした。

『眠り姫の童話を知っているか。あれは大昔、本当にあった話だ』


背中越しでも、彼女が緊張したのが分かった。

「あ。僕、トイレにいってきま〜す、ね」

察した阿部が居間から姿を消す。

トイレのドアが閉まる音を背中で聞きながら、
優子は青ざめたニックの、
端整な寝顔を見つめた。

「冷たい」

優子の細い指先が、
硬く閉じられたニックの唇をなぞる。

「本当は、ニックからして欲しかったのに」


いつからだったのだろう。

いや、本当は、出会ったときから。


「……大好きよ。ニック」


厳かな儀式のように、
優子の唇が静かに重ねられた。


『イテ……』

不意に襲った痛みに、
アロンは自分の胸辺りを見下ろした。

『なんだ、これ』

身体が、泡になっていく。

『どうして。誰が浄化なんか』

膝の力が抜けた。

『俺様を消すほどの力なんて、ニックしか』

床に片膝をつき、
片手を胸に当てるアロン。

力なく項垂れるその姿は、
まるで神の前で畏まる……。

「アロン!!」
「きゃああ」

大きな叫び声が重なって響き、
阿部がトイレから飛び出してきた。

「ど、どうしたんですかあ」

全裸でベッドから飛び降りたニック。

卒倒しそうな勢いで
真っ赤になった顔を両手で隠す優子。


二人の前でぐずぐずと溶けていく
「アロンだったもの」……。





赤煉瓦の壁。
丸いステンドグラス。

大きな十字架の横には、
本格的なパイプオルガン。

「次は左側ね。はい、追加のペンキ」
「ありがとう」

けっこう長い脚立の上で、
刷毛を振るうニック。

若干ぐらつくその脚を、
両手で抑える優子。

「やあ。ずいぶん進んだね」

やって来た小林の明るい声が、
高い天井に反射した。

「あと少しで、半面が終りますよ」

笑顔の優子が応える。

「そんな所にいるなら、手伝ってくれればいいのに」

脚立の頂上で、ニックがぼやいた。

「どうしたの」

見上げた優子にも、その姿が見えた。

天井近くにアロンが浮いている。

『ミヤケのマドレーヌをくれるなら、手伝わなくもないな』
「それなら。ちょうど、持ってきたよ」

小林が言った。

「休憩にしようと思って」

藤籠の蓋を開けると、
焼きたて菓子の香ばしい匂いが広がった。

その香りに釣られたのだろうか、
教会の扉が元気よく開かれる。

「小林さん、こんにちは!わあ、いい匂いですね」
「ああ、秋穂さん。こんにちは」
『相変わらず、煩い人間だな』
「アロンさんも。こんにちは!」

秋穂さんは屈託ない笑顔を天井にも振り撒いた。

『ああ、はいはい。こんにちは、っと』

音もなくアロンが降りてきて、
こんもりと山になったマドレーヌの一つを摘み、
早速口に放り込む。

『やっぱり、美味いな』
「ああ、ずるいよアロン。ボクも食べたいよ」
『じゃあ、早く降りてこいよ』

ぐらぐら揺れる脚立から降り立って、
ニックが腕を伸ばす。

シャツの袖を捲った手首に、契約の刻印はない。

立ったまま籠を持つ小林を囲む、
みんなが笑顔で喋っていた。

「この前リョータが面白い話をしていたよ」

さりげなく優子の傍らに寄り添うニック。

「また何か、やらかしたの」
『コバヤシ。茶はないのか』
「あ。こっちのポットに入っているよ」

アロンは二つ目のマドレーヌを口に押し込みながら、
自分と、みんなの分もコップにお茶を注いでいる。

「ねえニック。そのリョータさんっていつ来るの」

向かい側から秋穂さんが訊ねた。

「急用が入らなければ、今週末には」
「早く会いたいわ」

うっとりと目を細める秋穂さん。

「きっと素敵な男性なんでしょうね。だって、あの『魔都の恋』を書いた人でしょう」
「そ、そうですね」

言葉を濁すニック。

『アキホ、あんまり期待しない方がいいぜ』
「あら、そうなの」
「夢は壊さないでよ、アロン」

横槍を入れるニックを見下ろしながら、
アロンが三つ目に手を伸ばした。

『だいたいおまえは、コバヤシ以外眼中にないくせに』
「きゃああ、アロン。それは言わないでえ!」

真っ赤になってしゃがみ込む秋穂さん。

「何か聞いたの、アロン」

小さな声でニックが確かめた。
当の小林は、優子と談笑を続けている。

真っ赤な秋穂さんは無言でお茶を流し込み、
アロンを横目で睨んでいた。

『こないだ俺に、懺悔しに来た』
「え。そうなの」

瞳を輝かせたニックにアロンは、
厳かな調子で言い切った。

『懺悔の内容は、他言できません』
「へえ」

感心したように、ニックの眉が上がる。

「どうしても?」
『この羽に誓って』

芝居がかった動きで片手を胸に置き、
もう片方の腕をゆっくりと顔の横に上げ、
うっすらと目を閉じる
アロンの柔らかな羽毛が、

今は、
純白に輝いていた。




「ねえ、リョータ」
「はい〜。何でしょう〜」

高層マンションの最上階。

人気作家は今日も
親友の部屋で珈琲を堪能している。

「この物語のベースって、ボクとアロンですよね」
「え。嫌だなあ、違いますよお」

泳ぐ目、浮つく腰。

『モデル料を頂きたい』
「わあ、アロンさん。いつの間に」

そこへ、前触れもなしに玄関の扉が開く。

「今晩は、ニック。と、リョータさん」
「明らかに気分を害されていますね、片岡さんは」
「アロンもいるの」

取って置きだったワインのボトルは、
首にリボンが巻いてあって。

「ニックと二人で呑もうと思ったのに」
『この環境でそれは無理じゃないか』
「美味しいチーズがあるんです。出してきますね」

うきうきとキッチンへ移動するニック。

「なんで、チーズで、包丁の音がしてるの」

出てきた肴は、
人参と隠元を
コンソメとチーズで軽く煮た絶品で。

「ああ。本当に美味しい」
『ニックは何になりたいんだ』
「お嫁さん、ですかねえ」


キッチンから眺める、
居間での楽しい会話に微笑みながら、
ニックはふと、考えた。

あの時。

迷わずもう一本の道を選んでいたら、
未来はどう変わっていたのだろう。


『オーディンの一部に戻る、それだけだ』

穏やかな声が上から降ってきた。

『オマエの中にはアイツの断片が埋まってる。まあ、暴走を止められるのは、俺しかいないだろうがな』

「……うん、そうだね。頼もしいよ、アロン」

口元で微笑み、玉葱を刻むニックの横で、
アロンが涙目になっていた。


『その玉葱、古くないか。ニック』



=END=

後書き

ここで一旦ニックとアロンのお話しは終わりにします。
またどこかで会いましょう。
最後まで読んでくださり、ありがとうございました。

この小説について

タイトル 第九章;覚醒
初版 2016年9月21日
改訂 2016年9月21日
小説ID 4816
閲覧数 318
合計★ 5
アクアビットの写真
ぬし
作家名 ★アクアビット
作家ID 666
投稿数 29
★の数 67
活動度 7901
継続の大切さと恐ろしさを実感する今日この頃

コメント (2)

弓射り 2016年10月10日 8時47分59秒
最後の話の終わりっぽい雰囲気は、よく書けてるなぁ〜。幽遊白書の最終巻みたい。
選ぶ単語がやさしい雰囲気だからですかね。

この最終話、いちばん好きなのは死の神の仕草がリアルなことです。ひげをしごく、なんてアニメチックな(動きのある、くらいの意味です)表現、老人らしいセリフ。変なとこに注目するな、って思うかもですが、ストーリーの筋が面白い、つまらないなんて好みの問題なので、僕にはどうでも良いことです。

完結させるというのは凄いことです。結果的には最後まで読まされてしまったので、アクアビットさんの勝ち。星、いつーつ!(笑
★アクアビット コメントのみ 2016年10月15日 9時20分35秒
弓射りさん>>
あなたからの★5はかなり嬉しいです。
こう、目をほそ〜くして、
どこを見ているか判らなくしておいて、
口角だけがじわじわと上がっていく感じ。

たった一人でも読者がいる、というのは
大袈裟でなく生甲斐になります。

ありがとう、次回もよろしくお願いしますね。
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