相対、水泡に帰す

 死は、救いなのだろう。頭の中を揺蕩うあまりにも冷えた思考が甘く囁くそれ。自分の周囲に降りかかったそれとは遠く離れているであろう死へと思いを馳せながら、年齢の割にくたびれきったその男は川原から何の気なしに、その小さな箱を川へ向かってなんのためらいもなく投げ捨てた。
 橋の上では様々な社会的立場を持つ人間がすれ違い、ゆったりとその列を流している。人口密度の高まっているであろうそことは真逆の、ひどく冷たいような場所でその男は何をするでもなくその箱が沈んでいったであろう水面をじっと見つめていた。
 不幸というものは、自分から遠く離れているように思えるが、決してそんなことはなく何でもない石ころのようにそこに転がっている。その小石に躓いたが最後、手に持っていたアイスクリームもおろしたてのズボンも全てが台無しになってしまう。不幸とは、そういうものだった。転がる石が大きければ大きいほど、手の中からなくなるものは大きく多い。彼が躓いてしまった石は、予想以上に大きく、また重かったのだ。
 一番大切にしていたものは、転んだ時に遠くへ飛んで壊れてしまった。何よりも繊細で美しかったそれは、もう修復不可能なほどに壊れきってしまった。粉々になってしまったそのかけらを必死に拾い集め、何とかして元に戻そうとあがいたが戻らないことを悟り、彼は色を、音を、温度を。ありとあらゆるものをなくし、そして諦めてしまった。
 時間は、なぜ不可逆なのだろう。男は煙草に火をつけながらそんなことを思った。考えても仕方がないこと。それなのに何度も考えずにはいられないこと。気が付けば頭の中を巡っているその思考は、呪いと呼ぶのに相応しかった。ひどく残酷なそれは精神を少しずつ、それでも確実に蝕み削り取っていく。
 摩耗しきった精神は少し触っただけでも折れてしまいそうなほどに脆く、張り詰めた神経がさらに自分を追い込んでいく。煙草の灰をとんとんと軽く落としながら、ぼんやりと口から煙を吐く。なんの意思もなく垂れ流された煙は、風に揺らめきながらそっと宙に掻き消えていった。
 どう死のう。気付けば短くなっていた煙草を地面へ落とし、革靴の裏でぐりぐりと押し付ける。いつもならポケット灰皿へ入れる吸殻だが、今日はどうしてだかそんな気にならなかった。ささやかな世界への仕返し。そうも取れるような僅かばかりの悪意が滲んだその足で、彼はその場を後にしようと近くにあった階段を上り始めた。どうせ今日で最後なのだ。ならば、これくらい許されてもいいのではないだろうか。免罪符かのように心の中でそう繰り返しながら、男はぼんやりとした、まるで夢を見ているかのような足取りで歩いていく。
 目的地などない。つい先日まであった目的地は急になくなってしまった。ずっと歩き続けていたというのに、その歩みが全て無駄になってしまった。そのままどこかへすぐ目的地の変更ができればよかったのだろう。でもそんなこと、出来やしなかった。どこかで聞いたことがあるが、人間というのは今までにある事象にかけてきた労力や時間、金銭を手放してしまうことをもったいないと思う傾向があるらしい。その男――西峰が今まで歩いてきたその道を捨てきれなかったのは、それに似ているように見えた。
 もったいない、というのは少し違うけれど。それでも、彼にとってこの先の道というのは一本きりで、それが絶たれてしまった今、残されたのはその道を引き返してしまうかあるいは。自棄になっているのとは異なるその行動。理由を聞かれても、きっとその理由は答えられないだろうということはわかりきっていた。だからこそ西峰はただ水の中を揺蕩う海藻のように、その根本に強い意思を持ちながら人の中を揺られ続けた。
 幸せそうな人間が、ひどく羨ましく見えた。明るい顔をして笑う学生が、慈しみの表情で我が子を見る母親が、忙しそうにあくせく走りながらもその顔に充実感が見て取れるサラリーマンが。波を作る人間は皆、形は違えどどこかに幸せを大切そうに孕んでいる。それが妬ましくて羨ましくて。どれだけあがいて、必死に願おうとも手に入れられないそれを手に当然のように生きている、人。それでいながら、その幸せに悪態をついてないがしろに扱うのだからこの世は残酷にも不平等だ。
 幸せの色を滲ませるその波の中で、西峰はただただ異質なだけの異物だった。昔教科書に載っていた小さな魚の話に似ているような気がした。赤い魚の中に一人だけ放り込まれた、黒い魚の話。あの話の最後は、赤い色の魚と共に大きな魚を追い払うというものだったような気がするが、現実はそう上手くはいかない。幸せになんか、受け入れられるはずはない。一度幸せからはじき出されてしまえば、もう二度とその中には戻れないのだ。
 幸せを掴める機会というのは、回数が決まっているのだ。その中で幸せを掴みきれなければそこでおしまい。永遠にその機会は取り上げられて、なんの幸せもない世界で息をし続けるしかない。その世界は暗く冷たい深海に酷似している。無理矢理息をするたびに、海水の冷たさと塩分が喉を焼き体温をどんどん奪っていく。深海で生きられるような体はしていないのだから当然と言えば当然の苦しみ。それを思うと西峰はどうしようもない気分になってくる。
 人の流れに押し流されながら、彼の足はふらふらと頼りなく駅への道を歩く。目的地は、ない。だからこそ、最後くらい自分の意思でないところへ行ってもいいような気がしていた。幸いなことにICカードは財布の中に入っている。どうせ明日からは使わない、使えないものだ。それなら最後にとびきり運賃のかかるところへ行ってもいいじゃあないか。半分……いや、完全に全てがどうでもよかった。どうでもよかったが故の、こんな大胆な行動だったのかもしれない。
 いつもならば乗らない路線にでも乗ってみようか。いつの間にか到着していた駅の自動改札を流れるように通過しながら、西峰はちらりと案内板を見上げた。通勤に使う電車とは、真逆の方向へ走る電車。そういえば一度もその路線を使用したことはなかった。ならば乗ってみようじゃあないか。一度も乗ったことのない電車がつくのは、一度もまともに名前を聞いたことのない駅だ。誰も西峰のことなど知りやしない。自分がイレギュラーな存在で、どこか弾かれた存在になるであろうそこへ行ってみるのはどうしてだか少しだけ心が躍る。
 プラットホームへとその足を進めながら、西峰は背広のポケットに入れていたスマートフォンの電源をそっと落とした。今日こうしているのも思いつきだ。職場に休暇の申請も何もしていない。折角旅行のような散歩に出かけるのだ、途中で邪魔が入ってしまっては台無しになったしまう。だから、なんのためらいもなく彼を知っている世界との繋がりを断ったのだ。誰かと繋がっていては、直ぐに連れ戻されてしまいそうな気がしてたまらなかった。大切なものが欠けた、色あせ何の音もしない世界に連れ戻されたところでただただ辛いだけだ。それならそんな世界を捨ててしまったほうがいくらかいい。
 そんな、身勝手とも言える理由で。西峰は自分から自分を知る世界から遠のいていった。丁度滑り込んできた電車へ乗り込めば、空気の抜けるような音の後に扉が閉まりゆっくりと電車が動き始める。ゆりかごを思わせるそれが駅を完全に出る前。先程まで自分がいたホームに走り込んできた青年が窓を通して見えた。見覚えのない青年ではあったものの、彼の視線と西峰の視線が交わった。
 ばちり。そんな電流を流したような、そんな音と感覚がしたように思えた。錯覚であることは明確ではあるけれど。それでもそれほど強い何かがそこにあった。西峰が瞬きをしている間にも電車は進んでいき、青年は窓から消えていく。それをそっと見送りながら西峰はただどうしていいものかぼんやりとだけ考えていた。
 死ぬにしても、その方法は選びたい。痛みが伴うものや、死体の損壊が激しいものは出来るなら避けたい。死は救いなのだ。穏やかに眠るようになんの痛みもなく死んでいける方法が望ましいが、そんな都合の良い死に方はあるのだろうか。安楽死ができれば一番だが、きっとそんな都合の良い方法はない。幾ばくかは痛みや苦しみがついてきてしまうのだろう。それを思うと、どの方法を選ぶべきなのかがわからなくなる。
 死のうとしているのに、その死に方にはいくつも文句をつける。早急に死にたいのなら飛び降り自殺でも何でも方法はあるのに、それをすぐに選べないのはまだ未練があるからなのかもしれない。厄介なクレーマーのようにいくつもいくつも思い浮かぶ方法へ文句をつけて、取り下げて。そんなことを何度も繰り返していると、とうとう自殺の方法なんてものが浮かばなくなっていた。
生きることも死ぬことも満足に許されない。生きているのか死んでいるのか。それさえも宙ぶらりんで確かでない。自分が不安定な存在であるということ改めて自覚すると、精神状態までそれに引っ張られて不安定になり始めた。女子学生の間で陰口が広がっていくような、そんな容易さで不安は心へ染み込んでいく。止める手立てのないその侵食を、西峰はただどうすることもなく感じることしかできなくて。
どうあがいても彼を受け入れることのない世界が怖い。突然手のひらを返したかのように排斥してくるそれはただただ意地悪で、そして悪質で。大切なものを奪うだけでは飽き足らず、今度は居場所や生命までもを奪うのか。搾取と言ってもいいような、その容赦のない取立てに抵抗する体力も気力も、ない。あったらきっと今頃いつもと同じように職場で代わり映えのしない仕事を淡々と、死んだように片付け続けていただろう。
それを思えば、この選択は正しいのかもしれないと西峰は思った。なんとか生きていようがどう死んでいるのと何ら変わりがないのなら、それならいっそ死んでしまうのが正解なのではなかろうか。その思考が間違っているであろうということも分かっている。どうしようもない屁理屈であるということだって十分に理解している。
でもそれでよかった。間違っていようがなんだろうが、とにかく口実が欲しかったのだ。不安と恐怖に揺らぐ己の心を押し付けるような理由のような何かが。
罪悪感にも似た感情が胸を刺す。今更になってそんなものが生まれてももうとっくに遅いのに。心や頭は諦め切った生でも、本能はまだそれを失うまいとしぶとく足掻き続ける。
 死にたいのに、生きたい。二律背反に苛まれる頭がオーバーヒートを起こし、鈍痛を訴え始めた。矛盾にまみれた思考から逃げるようにちょうど着いた駅へ降りると、真っ先に磯の香りが強く鼻を刺激した。
 まともに駅名も見ずに降りたそこは、数ヶ月したら海水浴客で溢れるであろう砂浜のすぐ横に作られた無人駅で。
 そういえば、海が近くにあったんだっけか。仕事の都合で引っ越してきた西峰へ、同僚がそんな話をしていたような気がする。
 結局仕事が忙しく、その恵まれた環境を生かせはしなかったけれども。こんな決心をしてから初めて海へ来ることになるとはとんだ皮肉だ。
 少し腐食の始まった、塗装が剥がれボロボロになった鉄製の手すりを指でそっとなぞりながら。西峰は改札へと向かった。
 駅員室はあるものの、もう何年も駅員がそこへいた形跡のないがらんどうの改札。そこが妙に寂しく、寒々しく思えて仕方が無かった。
 まるで打ち捨てられた家だ。家として人を迎え入れる準備は出来ているのに、肝心の人に見向きもされず捨てられた、もう誰の記憶にも残っていないそれ。
 その本質は変化し、まるで棺桶のようになってしまったその部屋はどこか少しだけ西峰と重なっているようにも思えた。
「この部屋が棺桶なら、この駅はさしずめ墓か」
 呟いた言葉はあまりにも虚しかった。自分の言葉を嘲笑うように一度溜息をついてから、西峰は改札を抜けて駅の外へと足を踏み出した。
 伸びている道は、海へ行くものと海沿いに続く道の二本だけ。徒歩で歩けるだけ遠くに歩いても良かったが、そんな気力などなく。それに折角季節外れだとは言え海のある駅で降りたのだ。それなら海へ行くのもまた一興かもしれない。
 潮風に導かれるようにして、西峰はふらふらと海の方へと歩いていく。夢遊病患者のような足取りで歩いていく彼はあまりにも危なっかしい。まるで弱りきった精神面が足取りに現れているようなそれに、彼自身はきっと気付いてすらいないのだろう。
 気付いていてもどうしようもないが、それでももう少し取り繕うことはできたかもしれない。誰かが見れば腕を掴むであろうそんな危うさのまま、西峰はゆっくりと海へ距離を詰めてゆく。
 通常の人間が歩いていくのの何倍もの時間をかけて、海へとたどり着いた彼は水面から少し離れたところに腰を下ろし、引いては寄せる波をぼんやりと見つめていた。春の日差しの中で煌く海はあまりにも生き物めいて見える。自分より生き生きと呼吸をする海に苦しくなって、西峰は己の膝を抱え込んで背中を丸めた。
 生きていないものにさえ、自然にさえ負けている。漠然とした焦りが胸の中で広がり、ゆっくりではあるものの的確に西峰を追い詰めていく。
 どこへ行っても逃げ場がない。針山の上を歩かされるような、永遠に続く痛み。痛みから逃れるための逃避にも関わらず、待ち構えるのは太くなっていく針ばかりで。
 どうしようも、ない。救いなど全く存在しやしないのだ。そのことを突きつけられたような気がして、細々と続けていた呼吸さえまともにできなくなるような感覚に襲われた。
 ただ生きていくだけの許可が与えられない。死にゆくことしか許されていない。そんな残酷な錯覚が止まない。
 顔を伏せ、必死で現実を見ないようにと目を閉じる。このまま目を開け、目に入るものを見たままでいると精神が持ちそうになかった。
 死ぬつもりでここまで来たのに。全て捨て去り、どこにも帰れない状態を作ったというのに。それでも世界は彼を拒絶し、出口のない暗闇へと突き落とす。
 それは正しく拷問であった。無慈悲な、神に等しい存在が行うそれに終わりなど存在はしないし、きっと救済もない。
 あまりに残酷だと、思った。理不尽とも言えるそれに涙が出そうになる。いつ誰が来るかわからない砂浜であるために泣くのはなんとか堪えたが、行き場のないやるせなさはまだ涙腺を刺激し続けている。
 つい感情へ向く意識をそらすため、ポケットの中でひしゃげていた煙草を取り出し火をつける。肺に流れ込む毒と苦味が、少しだけ日常を彼へ思い出させた。
 もう何本も残ってないのか。途中で折れてしまったり、折れるまではいかずとも変に曲がってしまったそれらの本数を数えながら。西峰は煙を吐き出すとともに大きなため息をついた。
 折角今日で終わりなのだ。煙草くらい、贅沢に吸いたかった。安っぽい願いではあるが、西峰にとっての贅沢はそれなのだから仕方がない。
 この後、どうしようか。漠然とした問が頭に浮かんだ時だった。いきなり背後からにゅっと腕が伸びてきて、西峰の肩を掴んだ。
 白く、いくつか傷の見られる骨ばった手。長い指と手入れのされた爪はひどく女性らしいが、それとは非対称的な大きさが男の手なのだということを強く主張しているような。妙にアンバランスな手が、そこにはあった。
「ああ、やっと見つけた……!」
「人違いじゃないのか。俺は人に探されるような人間じゃ……」
「いいえ、間違いありません。さっき川にこれを投げ込んだ人、ですよね?」
 そう言ってもう片方の手が何かを突きつける。それは群青色をした布の貼ってある、手のひらサイズの箱。蝶番が付けられ、開閉が可能なそれは、指輪をおさめるケースであった。
 見覚えのある、ここにはないはずの箱。そこにいる誰かの言うとおり、川へ投げ捨てたそれがなぜここに。
 思わず声の主が居るであろう方向へ顔を向ければ、そこには眉尻を下げて安心しきったような、少しだけ間抜けな笑顔をした青年がいた。
 この世に蔓延る悪意など一切知らないような。善意の中だけで生きてきたと言われても疑問を抱かないであろう、甘やかで穏やかな表情。ぐしゃぐしゃに崩れてしまってはいるものの、艶のある髪は短く切られていて清潔感がある。
 非の打ち所のない、恵まれて生まれ育った人間。西峰とは真逆と言っても過言ではないような存在がそこにはあった。
「……俺は捨てたんだ。届けられても困る」
「捨てたって言ってもこれ、婚約指輪でしょう? そんなもの捨てちゃダメですよ」
「もう渡す相手もいないのに持っててどうしろって言うんだ。虚しくなるだけだろ」
「次にそういう相手ができるかもしれないじゃないですか。だから……」
「もうそんな相手、できねえよ」
 即答。否定の言葉に青年は口をつぐんで西峰の方を見た。何か返そうと必死に頭を回転させているようだが、西峰の声音にこもった感情を感じ取ってしまったらしく低速でしか回っていない。
 なにも返してこない青年へ、煙草の煙をもう一度肺へ入れ吐き出しながら続ける。
「お前の近くでは、死んだ人間ってのは戻ってくるのか? そりゃなんともおめでたい世界だな」
「……亡くなられたんですか」
「ああ。事故だ。友達と旅行に行った帰りにな。全員即死だ、笑えるだろ?」
「……すいません」
「いや、いい。曲げようのない事実だ、気にしちゃいない」
「……それでも、いや、だからこそ指輪は捨てちゃダメです。だって、婚約者さんのために作った指輪でしょう、捨てたら……」
「持ってるだけで、あいつの顔が浮かんできて辛いから捨てたんだ。なにもあいつをなかったことにするために捨てたんじゃない。なかったことにできないから捨てたんだ」
 苦しそうに言う西峰。青年はその様子になにも言えず箱を差し出していた手を引っ込めた。そんなことを言われては、押し付けるわけにもいかない。この上なく辛そうなその人へその辛さの原因を渡すという行為は、非人道的な行為のように思えて仕方が無かった。
 行先を失った箱が、青年の手の中で転がる。困り果てた様子の彼へ溜息の後、西峰が声をかけた。
「その指輪、くれてやる。もう俺には二度と必要のないものだ」
「でもこんな高価で特別なもの……」
「いい。無駄になるより売るなりなんなりされて、役に立つほうが意味がある。それにあんた、わざわざ川に入って拾ったんだろ。そこまでしたんだ、それの所有者はもう俺じゃなくてあんただ」
 さして興味もなさそうに。吐き捨てるようにかけられた言葉に青年の顔が更に困惑に揺れる。指輪の箱を手のひらで数回転がしてから、どこか悲しそうな表情をして彼は笑った。
「頂いても、俺に役立てられやしません」
「なに?」
「俺、もうすぐ死ぬつもりなので。お金があっても仕方ないんです。どうしてもいらないって言うなら頂きますけど」
「もうすぐ死ぬって、どういうことだ」
「生きていく希望がなくなったので、自殺でもしようかと。それでも一人で死ぬ勇気はなくて、先延ばしになってますけどね」
 困ったように、消え入りそうに笑う青年。どこにも死の気配はないのに、それでもどうしようもなく死にきっているような。相反する二つが宿る顔はアンバランスで奇妙だった。
 どこか、死へ淡い夢を抱く者、二人。きっと境遇もなにもまるっきり違ってきただろう彼らが行き着いたのは最も簡単な解でしかなかった。
 つい、奇遇だな、などという言葉が漏れた。予想外の言葉に青年の表情が一瞬固まった。想像もしていなかった返しに、どう反応すればいいのかわからず、じっと西峰の表情を見つめるだけの彼へ西峰はくたびれ切った表情返した。
「俺もな、死ぬつもりでここまで来た」
「……そう、ですか」
「婚約者が死んで、俺が走り続ける理由も死んだんだ。おかしな話に思えるかもしれんがな、俺は俺のために生きていたんじゃない」
「似た者同士なんですね、俺達」
「ああ、そうだな」
 簡単に返してから、西峰は青年から視線を逸らす。もう話題が尽きたのか、話す気がないのか。どちらかまではわからなかったが、それでももう話そうという意思がないのは明らかだった。
 半ば放り出されたような青年は、しばらくその様子を何をするでもなく見ていた。春の季節はずれの海岸に、これまた似合わない背広の男が一人。実に噛み合っていなくておかしな光景だったけれど。
 だからこそどこか穏やかで、狂いなくすべてが噛み合っているような。そんな安心感にも似た何かがあった。
「あの」
「なんだ。もう用は済んだだろ、帰るなりなんなりすればいい」
「……ご迷惑でなかったら、ご一緒させてください」
「……何言ってんのか分かってんのか」
「分かってます。でもきっとなにかの縁で指輪を拾って、ここまで持ってきたんです。このままいつ死ぬか決めないまま生きるより、誰かと一緒に今日死ぬほうがよっぽどいいです」
 ――そのほうが、生きていられる気がします。
 自己破壊的な思考だと思った。死が近いから生きていられる。西峰には理解のできない思考だった。
 ああ、俺は新田といいます。今更になって思い出したかのように告げられた名前に、西峰も釣られて自分の名前を口にした。
 もう数時間しか――下手をすれば数十分しか意味のない音の羅列に、新田は嬉しそうに笑った。
「西峰さん、迷惑はかけませんから。邪魔もしません。だから、」
 ――一緒に死なせてください。
 人懐っこい、華やかな笑顔を浮かべながら。新田はただただ幸せそうに西峰へと笑いかけた。それは、あまりに春の日差しに酷似していてひどく眩しかった。


 ほだされたのか、流されたのか。海水に膝まで浸かりながら西峰は数時間前を思い出していた。
 一人で死ぬつもりだったのに、思わぬ同行者ができてしまった。それも、一緒に死んでいたらこちらが惨めになってしまいそうな程な恵まれた男だ。
 どうしてこうなったのだろう、と何度も繰り返した問を投げかけてみたが、やはり答えは出なかった。
 新田は、夢にやぶれたがために死ぬのだと、最後の晩餐をとりながら言った。若者らしい理由だ、と西峰はぼんやりとその顔を見ていたが彼は嘘一つついておらず、本気で夢のために死ぬのだと悲しく笑った。
 バンドのボーカルだったにも関わらず、喉を潰してしまったのだそうだ。治療しても元通りにはならず、前のように歌うことは出来ないのだと。
 それを聞いて、西峰はなにも返さず煙草をふかすだけだった。同情はしていたし、理解もできた。だがそれを軽々しく、ありがちな言葉で新田へ伝えるのが彼への失礼に当たるような気がしたのだ。だからあえてなにも言わなかった。
 新田もその意図を察したらしく話し終えると、少しだけ微笑んでからお礼を言った。何へのお礼なのか、正しくはわからない。だがそれで十分だった。
 引く波が、西峰を誘うようにしてその膝を崩そうとする。その度に微かに揺れる彼の体を見つめながら、新田はふと思い出したようにポケットからあの指輪の箱を取り出した。
 そして、その中に大人しく収まっていた指輪を取り出すと興味をなくしたかのように箱を海へと落とした。
 小さな水柱を作り、ゆったりと沈んでゆくそれ。水面に触れた時にたった音で気付いたのか、西峰の視線が訝しげに新田へと向けられた。
 彼の視線が自分に向いていることに新田は美しく笑んだ。日が地平線へと落ち、橙を空へ溶かし始めた、夜の入口とも呼べるような空の下。彼の笑みはやはり何よりも眩しかった。
「それを、どうするつもりだ」
「西峰さんに、はめてもらおうかと思って。折角もらったんですから」
「馬鹿か? 俺がはめられるわけがないだろう」
「しっかりはめなくていいんです。ただ、誓って欲しいだけで」
「誓う? お前に俺が何を誓えって?」
「……一緒に、死んでくれると。途中で怖くなって、一人で陸へ上がってしまわないと」
 狂気めいたそれは、ただただ呪いめいていた。冗談でもなく本気で、心の底からそう行っているのであろうことが分かり、西峰は少しだけ返答に困った。
 そんな誓いなど立てたところで、意味などないというのに。そう遠くない未来で、数瞬のうちに死ぬというのに。ほんの気休めにしかならないだろうその言葉をわざわざ紡ぐ意味などあるのだろうか。
 本気で問いかけようと思った。それでも死にゆく者のする表情とは思えない、恐ろしく穏やかで幸せそうなその表情を己の言葉で崩してしまうのは、なんだか忍びないような気がして口をつぐんだ。
「……悪趣味だな。だが、それでお前が安心するのならいいだろう」
「ありがとうございます。じゃあ、左手の薬指に」
「……よりにもよってか」
「婚約指輪なんですから。そこ以外につける場所、ありますか?」
 いたずらっ子のように新田は笑って、西峰の左薬指へ小さすぎるそれをはめた。第一関節の少し下程で止まってしまったが、彼の表情は満足そのものだった。
 もうやりたいことは全て済んだのか、新田は穏やかに西峰の顔を見ているだけ。しばらくその顔を見つめ返していた西峰だったが、一度深く息を吐くと新田の女性めいた手をとってざぶざぶと迷いなく沖の方へと足を進めていく。
 徐々に迫る水面と、死の匂い。春だというのに鋭い刃物を刺されているような痛みに似た冷たい海水が容赦なく二人の体から体温を奪ってゆく。
 死に場所に選んだ海にすら、受け入れてはもらえなかった。寒さのために上手く思考ができなくなった脳で、そんなことを思った。小刻みにガチガチという音を立てる歯と、もう己の意志では動かすことすら叶わない四肢。声なんてものはもう数分前からまともにはでなくなっていた。
 余裕のない中で、自分の背後に居るであろう新田へと視線を向けたがもうそこに彼の姿はなかった。
 もう鈍くなってしまってはいるが、己の手の感覚はまだ彼の存在を訴えている。遺されたのか。あんなことを言いながら、最後に残るのは西峰だった。
 ――もう、いいか。
 新田の姿が見えないことに、とうとう西峰の心が折れた。半ば意地で進めていた足だったが、もう引っ張っていくべき人間は水の中だ。
 一緒に死ぬと、約束したのだ。ならばここで沈むのが一番だろう。
 力の抜けた足は、西峰の体をいとも簡単に水の底へと導く。水底へと沈みながら、もう光の差さなくなった水面が鈍く揺らめいているのがぼやけた視界で見えた。
 ここが、墓場だ。薄れ、閉じゆく視界と苦しみと痛みの混ざった何とも言えない危険信号を出す胸と。
 酸素が足りず、脳がその機能を停止する直前。死にゆく彼が思ったのは、これがただ正しく結婚のようだということだった。

この小説について

タイトル 相対、水泡に帰す
初版 2016年11月24日
改訂 2016年11月24日
小説ID 4843
閲覧数 153
合計★ 4
柏崎あんの写真
ゲスト
作家名 ★柏崎あん
作家ID 1064
投稿数 1
★の数 4
活動度 94

コメント (1)

弓射り 2016年11月24日 19時37分04秒
これ、生き残ってさらに葛藤する主人公まで書けたら名作ですな。
ここまでは、まぁ綺麗な短編、という感じ。
続編書いたら映画化しても映える(笑

なんとなく序盤から中盤、濃密で良い文章ですけど、緩急がなくて読む人を選ぶような雰囲気があります。息苦しさみたいなものを表現できているといえばそうも言えるし、耐えられないひとは読むのをやめてしまうかも。そのへんのバランスがもうちょっと取れれば。
なんとなく全体的に雰囲気は良いんですが、パンチ力というか、ハイライトになる一文がちょっと少ないせいかも。

>>少し腐食の始まった、塗装が剥がれボロボロになった鉄製の手すりを指でそっとなぞりながら。西峰は改札へと向かった。
これは滅茶苦茶良い文章です。すごいリアル。情感があって、場面に相応しくて、綺麗な表現ですね。素敵だと思います。
最後の結婚はオチとしても綺麗ですね。こじつけ感なく、まとまったなぁ。

主人公の吸ってるタバコは、銘柄で表記したほうがカッコよかったかな。マイセン(今はメビウス?)なのかマルボロなのか、ピースなのか。些細なことですが、キャラクターがより醸せる気がします。
面白かったです。
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