『遥かなる海辺より』第2回

第2章(ルヴァーンの手紙)その1

 親愛なるアラン。

 この手紙が届くころ、スノーフィールドは長い冬を迎えているはずだ。首尾はどうなったかと、さぞ気をもんでおられることと思う。その点をまずおわびしたい。
 私は今ルードの村にいる。そろそろ夏が終わりに近づいているところだ。
 ルードの村の人魚には会えた。その歌を書き留めることもできた。同封の楽譜がその写しだ。
 けれど、これは影にすぎない。私が耳にしたのはとてもこんなものではなかった。あれをそのまま書き留めることはできそうにないし、それがいいことなのかも疑わしいと今では思っている。書くべきことがあまりに多く、話をどう始めるか、今だに迷っている始末だ。読みづらい点はなにとぞご容赦願いたい。


 私にも人並みの野心はあった。音楽で身を立てていこうとする者なら当然のことだが、なにか非凡で新しい、目覚ましい音楽を己が手で作り上げたいという思い。スノーフィールドでの成功を足掛かりに、いずれは王都に打って出ようという夢。私の若さでそんな夢を見ぬ者がいるだろうか。だが酒場では給仕をしながら酔客の求めるままに楽器を繰り、金持ちの屋敷では子らの我儘に耐えつつ進捗のないレッスンに明け暮れる、そんな将来の見えぬ暮らしの中、焦燥を募らせた果てに夢を追うことに疲れ、日常に埋没していった者のいかに多いことか。
 そんな私になぜかあなたは目をかけてくれ、同い年だといって友と遇してさえくれた。私にとってどれほど有り難いことだったか、あなたには想像もつかないだろう。成功への夢に加え、この恩義に報いる責務を負った私が音楽に没頭した姿をご存じだったにしても。

 だがそれほどの努力にもかかわらず、思うように成果はあがらなかった。私は焦った。しかもそれは、生活苦の中での焦り以上に厳しいものでさえあった。
 時間も余裕もなかったあのときならば、全てをそのせいにすることができた。自分は単に実力を発揮できずにいるだけだと言い聞かせることもできた。だがもう言い訳は通用しなかった。自分はここまでか、この程度のものでしかなかったのかとの暗澹たる思いに苛まれつつ、私は壁の前であがいていた。

 人魚が棲みついた村があるとの噂を聞いたのは、そんな苦闘のさなかのことだった。

 その村はルードという名前で、大陸南岸の漁の盛んな地域にあるという。その村の小さな入り江に二百年ほど前から人魚が棲みつき、以来ルードは豊漁で栄え、今や周辺の漁村から大漁祈願に詣でる人々も出ているという話だった。しかもその人魚は二百年もの間、全く年をとる様子がないのだと。
 だが旅人の話には肝心の部分が抜けていた。人魚の歌に関する話が全く含まれていなかったのだ。

 古来、人魚といえば惑わしの歌で舟乗りを破滅させる言い伝えで有名だ。私が人魚という言葉を耳にしたとき、真先に頭に浮かんだのもそのことだった。いかなる舟乗りも漕ぐのを忘れ、破滅を目の前にただ聴き入るばかりの魅了の歌とはいかなるものか。その秘密に迫ることができたとしたら!
 私は旅人に食い下がった。相手が当惑するほど何度も尋ねた。それでも歌に関する話は聞き出せなかった。そもそも彼は自分でルードの村へ行ったのではなく、別の者から伝え聞いたにすぎなかった。話した者も聞いた者も音楽に特別関心があったわけではなく、何百年も年をとらぬ麗しき妖魔の姿を興味本意に語らっただけだったのだ。青みを帯びた鱗に身を包み、赤い背びれと緑の髪を持つとかいうその姿を。ああ、なんたることだろう!
 中央図書館の文献にも人魚の歌について具体的に触れたものはなかった。変わりばえしない昔話がいくつか見つかっただけで、ルードの村の人魚が歌ったという記述自体がどこにもなかった。わかったのはその人魚が津波の到来を告げたことで人々が難を逃れ、感謝した村人たちに迎えられ入り江に棲みついたという顛末だけだった。二百年もたっているにもかかわらず、ルードの村の人魚が歌ったことを示す痕跡は何一つ残されていないのだ。その歌が言い伝えどおりの、いや、それこそ鱗一枚ほどにも魅力あるものだとしたら、記録に残されないとはとても思えなかった。

 私の心は決まった。なにがなんでもその人魚に会って、自分で確かめなければならない。惑わしの歌が現実のものなのか、それとも単なる言い伝えに留まるものなのか。もし現実のものなら、その秘密を解明するのは私でなければならないし、たとえ解明できずとも人魚の歌を書き写し持ち帰った最初の人間になることはできる。それだけでも私の名は後世に残るだろう。


 アラン、あなたは驚いているはずだ。確かに私はあなたに人魚の歌のことを話し、ルードへ行かせてほしいと願い出た。そして興味を引かれたあなたが願いを聞き届けてくれたからこそ、私は今ここで手紙を書いている。でもこの手紙に書いていることは、あなたが知らなかった話のはずだから。
 私は大恩あるあなたに嘘をついた。ルードの村の人魚が歌った形跡がないことを隠したばかりか、他の誰かに先を超されてはならないとたきつけさえしたのだから。人魚の歌が実在しないかもしれないことを正直に話せば、そんなあやふやなものにあなたはお金を出してくれないかもしれない。それを私は恐れたのだ。
 本当にすまないことをした。縁を切られてもしかたがないと思う。だがこれだけはわかってほしい。私はそれほど必死だった。そこまで私は追いつめられていたのだ。





第2章(ルヴァーンの手紙)その2

 ルードの村が見えたとき、季節はすでに夏を迎えていた。北国に生まれ育った私には、天頂から振りそそぐ痛いほどの日差しは体験したことがないものだったが、海の色の鮮やかさもそれまで想像すらしたことのないものだった。冬ともなれば流氷に埋め尽くされる曇り空の下の鈍色をした故郷の海と、青空の色をさらに深めた紺碧のこの南の海が、同じ水でつながっているとはとても思えなかった。暗鬱な北の海のほうが神秘的なものを秘めるにはふさわしく思えるほどで、そのことは旅の間ずっと私を脅かせてきた、人魚の歌がもしなかったらとの不安をむしろかきたてさえしたのだった。
 やがて村に近づくにつれ、私は奇妙な感覚を覚えた。空気の色が違うとでもいうのか、あたりにうっすらとヴェールがかかったように影がたちこめている感じで、それが心にしみ込んで憂いに染められてゆくような、なんともいえぬ心地だった。
 村人たちの顔は沈んでいた。気のせいかと思ったが、そうではなかった。彼らの瞳に私の心を染める影と同じものを見い出したとき、思わず身震いが出た。人魚に会いにきたことを告げると、彼らは私を村長のところへ連れていった。


 村長はアギという名の、村で最年長という老人だった。その目にも影が宿っていたが、枯れた体から気力を振り絞るように私を見据えた。影を突き抜ける眼光に、私は思わずたじろいだ。
「遠来の方よ。なにを求めてこられた。我らが守り神にいかなる祈りを捧げるおつもりか?」
 か細い声だった。にもかかわらず、なにか有無をいわせぬ響きがあった。心を見透かされるような居心地の悪さだった。人魚にまつわる秘密を知るためにきたといって許される雰囲気とは思えなかったので、私は当たり障りのない答のつもりで、長寿と繁栄を願いにきたといった。
 そのとたん村長がかっと目を見開いた。思わずのけぞった私の体に、背後の村人たちが一斉に掴みかかり押さえ込んだ。そして口々にののしった。
「漁らぬ民よ。獣を食らう者よ。我らが小さき神に嘆きをもたらしにきたか!」
 驚いた私は本当のことを白状した。自分が音楽家であり、人魚の歌を聴きたいばかりに北の果ての国からこの地を訪れたことを必死に説明した。

 村人たちが私から離れた。老いたる村長は目を閉じてしばらく考え込んでいたが、村人の一人に楽器を持ってくるよう命じた。そして届けられた一本の笛を私に差し出した。
「吹いてみられよ」
 なにがなんだかわからぬままに、私は言われたとおりその笛を吹いた。心は大いに乱れていたが、長年にわたった研鑚が調べに乱れが顕れるのを防いでくれた。村長アギはじっと耳を傾けていたが、やがてうなづいた。
「確かに嘘ではないようじゃ。先程はすまぬことをした。我らも難渋しておったでな」
 村長に勧められ、私は彼の正面の席に座った。差し出された器の甘い水はヤシの実から取れたということだった。人心地ついた私に、老いたる村長は問わず語りに話し始めた。
「この頃はすっかり内陸の者どもにも噂が広まってしもうての。潮や魚のこととは無縁のことまで願かけにくる輩が後をたたぬ。じゃが一月前にきた男が先のそなたと同じ願いをかけたことで、小さき神は憂いに閉ざされ、我らも漁にすら満足に出れぬ仕儀となったのじゃ。
 そなたは村の誰よりも優れた楽士。お願いじゃ。小さき神を慰め、その憂いを晴らしては下さらぬか。たいしたもてなしはできぬが、望むだけ村にお泊めいたすでな」

 思いがけぬ事の運びに面食らっていた私にとって、村長の話はわからないことだらけだった。そもそもなぜそんなことが人魚の憂いにつながるのか。
 その問いかけに答えようとした村長の顔に、だが奇妙な表情が浮かんだ。そのまなざしはどこか遥かなところに向けられ、老いしなびた顔に仄かな光が差したように見えた。口を閉ざした彼はしばし瞑目したが、やがてこういった。
「……直接語らう方がよかろう。小さき神が心開けば、おのずと知れようほどに」
 もう一つの、なにより私が知りたかった問いについての答えも落胆を禁じ得ないものだった。二百年前にこの村に棲みついて以来、人魚が歌ったことはなかったと村長アギは断言したのだ。


 夕方の前触れとなる風が吹き始めたとき、老いたる村長に促された私は小さな入り江に向かった。西に傾いた太陽が波間に金色の光を投げかけ、無数の波がそれを散乱させていた。輝く波間から顔を出した小さな岩が、さざめく光の上に黒く浮かびあがっていた。
 その黒い岩の上に、銀色の光を返すものがいた。近づくにつれ緑と赤の色彩が新たに加わり、かつて旅人が語ったとおりの麗しき妖魔の姿となった。うっすらと青みを帯びた銀色の鱗に覆われた長い体には水草のような緑の髪が劣らぬ長さで添い、背を覆う髪の間からは赤い背びれが船の帆のように突き出ていた。
 私たちが近づくのを知ってか知らずか、人魚は横顔をさらしたまま海の彼方を見つめていた。大きな耳とどこか猫に似た鼻を除けば、その顔は驚くほど人間に似ていた。
 そしてその大きな赤い瞳に宿る影を見たとき、私も初めて実感できた。村全体を押し包み村人や私の心をも染める憂いの源が、確かにこの麗しき妖魔であるのだと。

「ルードの救い主よ。潮を告げる者よ。相見えたるは我が喜び。数多の喜びと悲しみを共にする我らより夕べの挨拶を」
 村長アギが呼びかけると、人魚は物思いから覚めたように頭を巡らせた。大きな赤い瞳が枯れ木のような老人を認めた。
 そのときの人魚の表情をなんと形容すればいいだろう。とても柔和な親愛の表情でありながら、それは喜びと同じだけ、確かに悲しみにも彩られていたのだった。胸を突かれる心地の私の耳に幻妙としか言いようのない声が届いた。

「最初の者らの最後の子よ。ここに見えし喜びを留めるすべなき身ぞ哀し」
 古めかしい韻をふむ言い回しで儀礼的な呼びかけに応じたその声は、鈴を震わせたような麗妙な響きを帯びていた。いくつかの声が重なりあうとき、稀に聞かれるものにそれは似ていた。
 幻惑するようなその響きに、私はたちまち魅せられた。そして思った。これほどの声を持つ存在が歌わぬはずなどありはしないと。それはもはや確信だった。
 だが私のそんな思いになどおかまいなく、老いたる村長は私のことを紹介した。
「これなる者はルヴァーンと申す遠つ国の楽士じゃ。今宵はこの者の調べに耳を傾け、憂いに沈む心を慰めたまえ」
 妖魔の視線がこちらを向き、私はどぎまぎしながら見返した。そんな私たちを村長アギはしばし見つめたあと、再び彼に視線を戻した人魚に一礼し去っていった。杖にすがりおぼつかぬ足どりで去る後ろ姿を、海魔のまなざしがどこまでも追っていった。

 こうして私たちは取り残された。

 人魚の歌を聴きにきた私が、人魚に向けて演奏することになるとは! ましてかくも妙なる声の持ち主に、人の身でなにを聞かせられようか。けれど、できることはそれしかなかった。彼女の憂いを払わぬ限り、なんの進展も見込めなかったのだから。
 憂いに染められた上に気後れする心を無理やり振るい立たせながら、私はひたすら笛を吹いた。少しでも心の晴れそうな明るい曲を片端から選んだ。落日が空と海を真紅に染め、やがて白銀の粉を散らしたような星空に変じる中、私は笛を繰り続けた。
 人魚は喜んでくれたようだった。微笑みさえ浮かべじっと耳を傾けてくれていた。でもそれは、私の音楽が心に届いたからではなく、私の行い自体に寄せられた好意に相違なかった。私の心にさえ忍び寄る憂いは、薄らぐ気配すらなかったのだから。

 永遠に明けぬかとさえ思えた空が白み始めたとき、ありがとうの一言を残し麗しき海魔は波間に滑り込んでいった。そのたった一声に、私は呆然と立ち尽くすばかりだった。私が夜通し吹いた調べをすべて集めても、その声一つの美しさにかなわないことがあまりにも明らかだったから。こうしてルードでの私の日々は、絶望の涙で始まったのだった。





第2章(ルヴァーンの手紙)その3

 その後なぜルードに留まることができたのか、自分でも不思議に思う。今から思えば、私の動機の根幹は成功や名声を求めることにあった。そのための足掛かりになる技術を期待して、伝説に名高い人魚の歌に手を伸ばしたはずだった。
 だがその歌はいまだ神秘の彼方に置かれたまま、その声でさえ人の身で近づけるとはとても思えぬ高みにあった。まねることすらできそうにないのだから当初の目的が果たせる見込みはなく、空しく帰国の途についていて当然だった。まして私の心は得体のしれぬ憂いに、深く閉ざされようとしていたのだから。
 けれど私は諦めなかった。いや、諦められなかったのだ。あの声のあまりの麗しさは、その声で歌われるに違いない天上の歌の幻影をかいま見せ、私の魂を呪縛した。個人的な野心にすぎないものが潰え、いわばこの世ならぬ美への憧憬の虜囚と成り果てたのだ。思えば音楽そのものが目的となったあのとき、私は初めて音楽家たりえたのかもしれない。

 だが、それは苦しい日々だった。幻の中にしか存在しない絶美の歌に憧れつつ、憂いに染められた心と裏腹の曲を吹き続ける無理を重ねる中、夏が過ぎるにつれ、私は疲弊していった。人魚がそんな私に関心と好意を示し続けたのはありがたくもあったが、おかげで私は容赦なく消耗させられた。彼女の声を聴くたびに、私は天上の陶酔と現世の絶望になすすべもなく引き裂かれるしかなかったのだから。
 この頃の記憶は狂おしいほど甘美な絶望の道行きに他ならず、とうてい詳しく書く気になれない。それでもこの茨の道を歩んだからこそ、事態は思わぬ転換をみせたのだった。


 ある日、重ね続けた無理に軋みをあげる私の心が、ついに笛の音を染め上げた。祭りの舞曲や愛の夜曲の調べが影を潜め、暗澹たる挽歌のごとき一つの旋律が浮かび上がった。もはや私の心を呑み込まんとする憂いが、とうとう形をなすに至ったのだ。
 すると人魚がいった。麗妙な声に初めて驚きの色を浮かべ、それが母から伝えられた旋律によく似ていると。それが妖魔の憂いに染められた私の心が、はからずも歌の秘密の一端を探りあてた瞬間だったのだ。
 それは私にとって思いもよらないことだった。なぜなら人魚の歌にまつわる言い伝えは、昔から惑わされた人間が迫る危険すら無視して聴き惚れるほど絶美のものとされており、私も誘惑の歌だろうと思いこそすれ、憂いや嘆きに満ちた挽歌など想像もしていなかったから。

 だが私がそういうと、人魚はさらに驚いた様子で応えた。自分たちが歌うのは誘惑の歌などではないし、そもそも人間に向けて歌っているわけでもないと。いわれてみれば確かにそうだ。鳥も仲間に向けて鳴いているはずであって、決して人間を楽しませるつもりで鳴くのではなかろうから。
 けれど鳥の歌の多くは恋の歌、それも雄から雌に向けての求愛の歌だ。ならばやはり、それは一種の誘惑の歌であるはずのもので、挽歌になるようなものではないように思えた。
 私の疑問に麗しき妖魔は答えた。それは自分たちが滅びつつある種族であるからだと。そう告げた彼女の声は深い憂いに満ちていて、村を押し包む影の源がそこにあるのは明らかだった。
 訳を聞いてもいいかと私が尋ねると海魔は話し始めた。彼女が長く話すのを聞くのは初めてだったが、その身にはいかなる力が宿るのか、言葉に聞いたものを想像するより早く、彼女の感覚や強い思いをじかに伝えてくることがしばしばだった。憂いを私や村人たちに伝えているのは、どうやらこの力の作用らしかった。その上かの幻妙なる声で語られるのだから、人魚という種族が直面している滅びの宿命を、耳に聞くというより夢の中で体験する心地だった。

 おそらく自分たちの歌も、最初は鳥の歌のようだったのだろうと人魚はいった。遠い遠い昔、まだ彼らの力がさほど強大なものではなく、寿命も今ほど長くなかった頃は彼らにも男の仲間もいたし、女が仔を産むときに死ぬこともなかったという。卵を外敵から守るため体内で孵す種族であった彼らは、その不思議な力で親が体内の仔と語りあうことを通じ、そんな種族の歴史さえ語り継いできたのだった。
 そして彼らはその力、他の生き物の感覚に働きかける力を長い年月の中で伸ばし、個体としての能力を高めていったのだ。今やその力は驚くほど遠くまで届くようになり、獲物となる魚を引き寄せることも、外敵を退けることも自在にできるようになっていた。海の中には彼らを傷つけられる生き物はいなくなり、寿命も飛躍的に伸びていったという。
 それが宇宙の均衡の理に触れたのだろうと人魚はいった。海の中でも弱いものほど数が多く、強いものほど数が少ない。他の生き物に食われることがなくなったとき、自分たちの種族は自然の理をはみ出してしまい、滅びの定めに向かうことになったのだろうと哀しげにいった。いつしか男が生まれなくなり姿を消した。そして女は育ちすぎた仔を無事に産むことができなくなった。ゆえに彼らは数を増やすことができなくなり、事故や病で仔を産む前に死ぬものが出るごとに、じわじわと数を減らし続けてきたという。この広い海の中、あまりにも数が減少した彼らは、もはや仲間と出会うことすら絶えて久しいのだと。母の死と引きかえに生まれてから自らが仔を産むことで死ぬまでの間、千年もの歳月を外界で過ごすにもかかわらず。
 今や彼らの一生は、五百年ごとに区切られているという。母の体内で孵化し、対話の中で母から学ぶ五百年。母の死により外界に生み出され、孤独にさらされて生きる五百年。そして自らの体内の卵が孵り、我が仔に語りかけて過ごす最後の五百年。その二番目の孤独の五百年こそ、彼らが歌う時期なのだという。そして彼女も産み落とされておよそ三百年。ちょうどその時期を迎えていたのだった。

 だから彼らにとって、歌は呼びかけなのだという。どこにいるのか、そもそもいるのかもわからない仲間に向けてあげずにいられぬ、我が身を苛む孤独への訴えと自分を産んで死んだ母や祖先たちへの哀惜がないまぜになった、届くことなき挽歌たらざるをえないものなのだと。それは孤独と絶望に耐えかねた悲鳴でさえあるはずのものが、種族の持って生まれた能力や習性、ひいては世代を重ねる中で培われた美意識や想念の変化までもが溶け合うことで、歌の形に練磨され美化されているにすぎないのだと。
 そして彼女はこういった。そんなふうに孤独に生きていくのが耐えられなかったから、自分は人間に近づいたのだと。何世代か前の祖先にもそんなものがいたそうだが、その人魚は人間に声をかけるには至らぬまま、仔を宿し大洋へと還っていったという。彼女も長い間海辺で様子を窺いながら、なかなか接触することができずにいた。漁師たちが交わす言葉を舟の真下で聞き覚えるに至ってさえ、きっかけがつかめずにいたという。けれども津波の到来のおかげで、彼女はきっかけをつかむことができた。だから歌を歌わずにいられないほど孤独ではないし、そのことにとても感謝しているといっていた。
 とはいえここで暮らした二百年の間、完全に満たされていたわけでなかったとも彼女はいった。人間の寿命がこれほど短いとは予想していなかったので、ここへ来た当時の村人たちがこんなに早くいなくなるとは思いもしなかったというのだった。種族として上り坂にある人間族は、個体としてはとても儚い存在だった。しょせん自分とは違うのだ、異なる宿命に生きるものなのだとの思いを胸の奥に押し隠していたところに長寿と繁栄を願われて、ただただ悲しくなってしまったのだと麗しき妖魔は打ち明けたのだった。

 それが憂いの正体だったのだ。話だけ聞けば人間でもうら若い乙女などにありがちな、他愛もない憂愁に過ぎないものとすら思えそうなことだった。けれどもそれが千年を生きる人魚の憂いであるがゆえに、これほど深い翳りとして感じられるものになっているのは明らかだった。彼女の話を聞いている間も、その麗しい声が、そして神秘の力がその心を伝えてやまず、私の魂は数百年を大海原で漂い過ごしたものの絶望的な孤愁にまともに晒されていたのだから。
 いまや私は人魚の歌が惑わしの歌と伝えられた理由を悟った。彼らが種族の滅びにさえ思いを馳せて歌うとしたら、人間の身で受け止められるものになどなるはずがなかった。たとえ舟が波に呑まれずとも剥き出しの心は大海のごとき孤愁に沈み、魂は岩に打ち寄せられた舟底さながらに砕けるほかなかっただろう。己が手を出そうとしていたものがなんだったかを知り、私は身震いを禁じ得なかった。
 そして同時に、私は深く恥じ入った。胸破るようにして歌わずにいられぬ人魚に対し、はたして私にはそれほどまでに歌いあげたいものがあっただろうかと。あふれるばかりの心の思いをその身に可能な手段を駆使して歌い上げる彼らから、手段だけまねて私は一体どうするつもりだったのかと。己の浅はかさがただただ恥ずかしかった。

 だがそんな私の心にも、いまや一つの思いが宿っていた。





第2章(ルヴァーンの手紙)その4

 人魚の話を聞いた私の胸に宿ったのは、彼女の歌をもっとその心にふさわしいものにできないかとの思いであり、願いだった。滅びの定めに置かれたことで彼らの歌が破滅をもたらす挽歌と化したのなら、その歌をいま一度、より幸せなものにできないだろうかと思ったのだ。出会うこともできぬ仲間に空しく呼びかける歌ではなく、奇しき縁で結ばれた者たちに向けた歌であってもいいのではないか。挽歌を歌うしかない生き様をよしとせず人間の村を訪れた彼女の心にふさわしい歌。元来その麗しき声が破滅や滅びしか歌えぬものでなかった以上、それは見い出せぬものではないはずだったから。
 そして無からなにかを創り出すだけの才を持たぬ私にも、この麗しき海魔のためにできることはあったのだ。苦闘の日々の研鑽が報われ、彼女の心を開く鍵になったあの憂いの旋律を核とした変奏曲の構想が、私の脳裏には浮かんでいたから。展開の道筋を私は彼女の話に求めた。なぜならそれはどこまでも、彼女自身の歌であるべきものだったから。

 私の話を聞いて、人魚はとまどったようだった。けれど嘆きの旋律を例にして私が変奏してみせると、彼女は私の意図をすぐに理解した。そして私の求めに応じ、嘆きの旋律を形作る音から水中を優美に舞うような旋律を導き出した。それは人魚族の似姿であり、彼女はそれをカノン風に組み合わせたとき、最も調和して響きあうよう整えた。それは母と仔の似姿であると同時に、遠い昔ともに波間を泳いだ仲間たちのイメージも重ねられたらしかった。彼女がその部分を歌ったとき、相似形を成す二つの旋律を取り巻くように無数のこだまが呼び交わすのを私は聞いたのだったから。このこだまの効果だけは、私の能力ではどうしても楽譜に書き表すことができなかった。
 二つの旋律のうち一つだけが取り残され挽歌と化す部分の扱いは配慮を要した。彼女が母から伝えられた旋律は私が探り当てたものと少ししか違わなかったが、人魚の声で歌うと深さがまるで違うのだった。引き込まれるような憂いのまま長く歌われるのに懸念を覚え、私は多くの部分を私が探り当てた旋律に置き替え、最も深く沈むべき部分に一度だけ、本来の形で登場するようはからった。それがどの場所かは、楽譜を注意深く見ていただければわかると思う。その旋律こそ人魚族が伝える本来の歌なのだ。
 そしてその部分に続けて、彼女は挽歌の旋律に含まれていない音を主体とする短いモチーフをちりばめ始めた。それが人魚から見た人間の似姿なのは明らかだった。それまで使われていなかった音が加えられたことで、そのモチーフは新たな局面を音楽にもたらした。自足的な調和が失われ、人魚の似姿の旋律は不安定な足場の上で懸命にバランスを探っているような趣きだった。

 本当に驚くべきことだった。ほんのいくつか変奏の例を示しただけで、彼女はその技法を駆使して求める表現を自在に引き出していたのだ。だから私は曲の結びの部分については、もうなにも指示を出さなかった。ただ自分の思うように、感じるままに曲を結んでみるよう促しただけだった。
 そして私は気づいていた。人魚が曲をどう結ぶかは、この村にやってきたことを最終的にどう感じているかを示すことになるのだと。だから彼女が短いモチーフの新しい音との調和点にたどり着き、憂いの影を浄化するような慰謝の響きで曲を終えたとき、私は落涙を禁じえなかった。


 東の水平線から顔を出した太陽が最初の光を投げかけた。その光に払われたかのように、私の心からは憂いの影が消えていた。青みを帯びた鱗に銀色の光を散らす麗しき妖魔のかんばせにも、満たされた表情が浮かんでいた。
 すると村人たちがやってきた。村長アギを先頭に、砂浜をゆっくり歩いてきた。誰もが目に涙を浮かべていたが、それは悲しみゆえのものではなく、浄化された涙だった。彼らは夢の中で妙なる歌を聴き、心閉ざす憂いが清められてゆくのを感じたと口々にいった。
 そして集まった人々の前で、人魚はもう一度歌ったのだった。はにかんだような、けれど幸せそうな表情で。そしてその思いは彼女の歌にいっそう柔和な趣きを添え、私たちの心にしみ入ったのだった。


 こうして私は人魚に会い、その歌を書き留めることができた。それが昨夜から今朝にかけてのことだったが、それまでの長かった日々も、こうして振り返ると同じ一夜の夢での出来事だったとさえ思えてくるほどだ。
 それでもこの手紙を書くことで、定まらなかった思いや考えをずいぶん整理できたように思う。読みにくい手紙につきあわせてしまい、すまなかったとは思うが。

 とにかくこの楽譜は急いで送りたいと思う。あなたには多大の援助を仰いだばかりか、いろいろ心配もかけてしまった。だからこの旅の成果は約束どおり、あなたのもとへ送るつもりだ。
 だが私はこの曲を、もう自分で公表しようとは考えていない。今回のことは自分のこれまでの考え方を、根こそぎ変えてしまうほどの体験だったと今にして思う。私は名声を欲するあまり、なにか新規な技法を期待して人外の歌に手を伸ばした。かりに手に負えなくても、持ちかえりさえすれば有名になれると見せ物師まがいのことまで考えていたのだ。ただただ自分が恥ずかしい。

 私は彼女に教えられた。人魚の歌がああいうものになるのは、彼らがその思いに自身の取りうる手段を駆使して最もふさわしい形を与えようとするからであり、人間が手段だけまねても意味がないのだと。人間にも人間にしかなしえない音楽があるはずで、きっとそれはこの大陸のあちこちに、風土や歴史の反映としての多様なありかたで伝えられているに違いない。その尊さを私は知ることができたのだ。
 そもそもこの楽譜は私の曲などではない。私はほんの少しヒントを出しただけで、あとはすべて人魚が自ら作り出したものだ。そんなものを自分の名声の礎にしようという考えが間違っていたと今にして思う。だからもう私は、自分の名前をいかなる形でもこの楽譜と関係づける気になれない。

 もちろんあなたが私を援助してくれた以上、あなたはこの曲に権利を持つ。そのことは否定しないし、この曲から利益を回収しようとするのは当然だと思う。この曲はたしかにすばらしいし、世に出ること自体は決して間違っていないはずだから。
 アラン、だがもしこれをあなたが世に出すのなら、人魚の曲であることも伏せていただきたいと私は願う。この曲の成り立ちや内容を思えば、これは珍奇さへの好奇心から聴く曲ではないし、由来に関する知識なども必要としないはずだ。興行面の仕掛けが必要であれば、いっそ作者も由来も何ひとつわからないといって神秘のヴェールで包んでほしい。そのほうがずっとふさわしいと思う。
 そして心から願うのだ。ルードの村の人魚をそっとしておきたいと。この海辺の村に奇しくも棲みつき、まるでかけ離れた存在である村人たちと寄り添って暮らしている人魚。その奇跡のような暮らしぶりはこの地に楽園の趣きをもたらしていて、少しでも長く続いてくれることを祈らずにはおれぬほどいとおしく、今はただこの平安が人々の耳目を集めることで乱されぬよう願うばかりだ。そんな思いを私に抱かせた出来事をひとつ、最後に記しておきたい。






第2章(ルヴァーンの手紙)その5

 人魚の歌を聴いたあと、人々は久しぶりの漁に出た。人魚も波間に滑り込むと、舟を漁場へ導いていくのだった。彼女が「潮を告げる者」と呼ばれていたことを私は思い出した。
 彼女をそう呼んでいた老いたる村長は隣で舟々を見送っていたが、やがて私に向き直ると事の次第を尋ねた。けれど私の話に驚くでもなく、むしろ感慨深げな様子でさえあった。それで私も思い至った。村長アギは彼女の話を聞いたことがあったのではないかと。

「わしはほんの小僧じゃった」
 私の問いかけに老いたる村長は応えた。
「あのときも小さき神はうち沈んでおられた。だが村の者はどう接すればよいのかと思いあぐねるばかりじゃった。じかに聞けばいいのにとわしは思い、思い切ってそうしてみたのじゃ。
 そのときのわしが小さき神のいわれたことを理解したとは到底いえぬ。それでも悲しんでおわす御心だけは感じられた。だからなんとかしたいと一途に思い込みはしたものの、そなたのような才なき身ゆえ、御言葉に耳傾ける以外にすべはなかった。
 それでも神は喜び給うた。かの話を初めて打ち明けたことで、御心が晴れたのがわしにさえ感じられた。小さき神の力になれたことが嬉しくて、わしは生涯お守りしようと誓ったのじゃ」
 ほんに小僧っ子じゃったことよと枯れ木のような老人は笑ったが、そのまなざしには老いさらばえた容貌には似つかわしくない光が宿っていた。それを見て私は悟った。彼は誓いを守ったのだと。異類の姫に仕える浜辺の騎士のように、その生涯を過ごしてきたのだと。口を閉ざし舟影の消えた海の彼方を見つめるアギの横顔。刻まれた歳月の跡に、その気高さに、私は深く感じ入り、思わず頭を垂れたのだった。そんな私の耳に、低くつぶやく声が聞こえた。

「……だがもはやわしも長からぬ身。そう思い、少し前から小さき神とは距離を置くようにしておった。わしがおらぬようになったとき、そのほうが少しでも悲しまれずにすむのではと思ったのじゃが、小さき神は寂しく思われたのじゃろう。たまさか顔を合わせた折など、父祖の言葉で呼びかけられるようになった。
 昔を思い出してほしい、昔のように接してほしいとの御心だったのじゃろう。思えばこたびの憂いの深さの、それも一因だったのやもしれぬ。このままわしが逝きでもすればと焦るばかりで、正直途方に暮れておった……」
 老いたる村長が再び私に向き直るのが感じられた。
「遠つ国の楽士よ。そなたのおかげで小さき神の御心を、村の者どもも知ることができた。わしの言葉などでは伝えきらぬものを皆も実感できたのじゃ。これからは多くの者どもが小さき神と、宿命の違いを超えて心通わすであろう。小さき神の御心は満たされ、この村もまたささやかなる楽園となろう。これなら後の憂いなく旅立てるというもの。まこと感謝の言葉もみつからぬ」


 夕方に戻ってきた舟はどれも豊漁で、その夜私は大変な歓待を受けた。本来の力強さを取り戻した海辺の民の姿はまぶしくさえ見えるほどだった。その席で披露された武骨ながらも生き生きとした踊りのリズムを、私はさっそく採譜した。
 そして夜半近く、私は浜辺に出て人魚に会い、数日後には村を去ることを告げた。麗しき海魔は少し寂しそうに微笑むと、あの幻妙な声でありがとうといった。あの初めての夜に聞いたのと同じその声は、けれどもう私を絶望させることはなかった。そして彼女のその様子に、私もそれまで迷っていた決心を固めることができた。

 私は人魚にアギのことを話した。話すつもりが彼にないことは承知していたが、そのままにしておけば彼の真意を知らぬまま、この異類の姫が何百年も過ごすことになると思うと、黙っていられなかったのだ。
 麗しき妖魔は涙ぐみ、小さな声で彼の名をつぶやいた。けれどすぐ、アギを悲しませてはいけないといって、微笑んでみせたのだった。そんな彼女に、私はルードの踊りのリズムを聞かせた。きっと私はここへ戻る、こんな音楽をもっとたくさん聞いてもらうつもりだからというと、彼女は嬉しそうな顔で、待っていると応えてくれた。

 最後に人魚はこういった。あと二百年もすれば自分の体内の卵も孵り、最後は自分も大洋に戻ることになる。母が自分を生んだその深みは血族の生誕の海であると同時に墓所であり、ただ一度母の顔を目にしたかけがえのない場所なのだからと。
 それでもきっと自分の仔はこの浜に戻ってくるだろう。先祖の中にも自分ほど幸せに暮らせたものはいないと思うし、自分の話を聞けば我が仔もそう思うに違いないからと。たとえ寿命が異なろうと、自分たちも人間と同じくこの海辺に世代を越えて戻ってくるのなら、種族の宿命は重なることになるのだからと。
 彼女の話を聞きながら、私は銀河を見上げていた。生きている間には見られないはずのその光景が瞼に浮かび、それが実現することを星々に祈らずにいられなかった。



 ルードでの出来事についてはいくら書いても書ききれない心地さえするが、すでにこの手紙はあまりにも長い。あとは帰国してから直接話すべきだろう。
 けれど帰りは少し時間をかけたいと思う。私はルードへと急ぐあまり、途中の町や村をすべて素通りしてしまった。それらの町や村にも、ルードの民の踊りのようなかけがえのない音楽は息づいているに違いない。そんな日々の営みから生み出された音楽を集めて広く紹介する。これが私の進むべき道だと思うのだ。
 帰り道だけでどれだけの成果が得られるのか。それも踏まえて今後のことを話し合えればと願っている。再会の日を心待ちにしている。

                       あなたの友
                       ルヴァーン

この小説について

タイトル 『遥かなる海辺より』第2回
初版 2017年1月16日
改訂 2017年1月16日
小説ID 4870
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ふしじろ もひとの写真
駆け出し
作家名 ★ふしじろ もひと
作家ID 1016
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人間ならざるものが出てこないお話はいっさい書けないという奇病持ちのロートルです(汗)

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