チョコレートレイン

プロローグ

日本の空を塗っているペンキ職人、彼の腕は達人の領域に達しています。
広くは知られていないこの大事な作業を知っているのは、彼と家族だけ。何せ一人として同業者がいないのですから……

だけど「芸術」と呼べるだけの彼の技がなければ、日本の繊細な風景は失われてしまうのです。
彼も「これが俺のやるべきことだ」そう誇りを持って技を磨いています。

彼の弟子は彼の息子、何時かは後を継がせたいと彼は思って仕事を手伝わせています。
ところがこの息子、彼の前では何時も真面目なフリをしているのですが、彼が居なくなるとすぐにサボる悪癖があったのです。
実力が一向に伸びないのは己の甘さのせいなのに「一体、何時になったら俺に空を塗らせてくれるんだ、あの頑固おやじ」そんな愚痴ばかり。
日頃学ぼうとせずに隠れて煙草を吸ったり、お酒を飲んだりと酷いものでした。

ある日、とうとう彼は息子に、
「今日はお前が塗ってみろ」
そう言ったのです。
今までの下積みを確認したいと彼は考えたのです。
彼は実力があり、空のスペシャリスト。ですが指導者としては致命的なほど人を見抜く才能がなかったのです。
その上親ばかで「俺の息子は優秀だ」とさえ思っていたのです。

突然任された大役に息子は全く動じませんでした。
誰も居ない夜明け前の空を前に煙草を吹かして達人気取り、
「よっしゃ、一丁取り掛かろうか!」
この息子、下積みで何を見ていたのか「もっと派手な色を塗ればいいのに」なんて彼の素晴らしき色彩感覚を馬鹿にさえしていたのです。
「誰もが驚く色」こともあろうか息子は日本中の空をチョコレート一色に塗りつぶしてしまいました。

息子の仕事を初めて確認した彼は唖然として口を開いて、息子は得意顔。
彼は頭を抱えて。
でもこれを機に彼の仕事の素晴らしさを日本中の人々が知ったのですから全く悪いことでもないでしょう。

――そんなこんなで、その日はチョコレートの雨が降ったのです。



チョコレートの雨が降って日本中がチョコレートまみれになってしまった。
『見てください、ご覧の通り東京は――』
TVのレポーターはチョコレートまみれの都心の状況を報道する。私は何時もと同じようにトーストを焼きながらそれを見ていた。
白い壁にかかったアンティーク調の時計を確認する。
7時13分
まだ余裕があるので引き続きTVを見ていた。
焼きあがったトーストに今日はチョコレートクリームを塗った。意識したわけでなく他のジャムがなかったから仕方なくと言う感じに近い。
そういう偶然が起こるから人生は不思議だ、それにしても甘い。

場面はスタジオに切り替わりアナウンサーが学者と対話している。
『こんなことが現実にあるのですか』
『科学的にありえなくはないのです、詳しく話すと――』
複雑な理論にも興味があるが、あれやこれや考え始めると一日が終わってしまいそうなため止めることにした。
「証明出来るのなら前もって天気予報で言ってもらいたいものだ」
何故、今日と言う日なのだろう。
私は今日を、人生の中で最も大事な日にすると決めたはずなのに。

私は「五十嵐 幸正」今年で五十になる独身の男だ。
私は仕事を生きがいに生きてきた。
国内に留まらず、海外を含めてあらゆるビジネスチャンスをものにしてきた私の通名は「ファンタジスタ イガラシ」
一流企業で私の名前を知らない奴は二流と言っていい。
私の行動理念はたったの3つだけだ。

1・時間に正確に。
2・約束を必ず守る。
3・人に親切に。

この3つだけは何があっても守りぬく、アイデンティティーと言っていい。

『――このチョコレートの成分上、完全に固まる危険性はありません』
そう学者は言っていた。
「それが良い情報なのか判断に難しいが……」
私は今日と言う日の特異性を認識しようとニュースを引き続き見ていた。
状況を正しく把握すれば出来ることが広がる、全ての事柄を正しく整理すれば出来ないことはなくなる。
はずだった。

・・・・・・・・・・

『その本を何時返されますか』
その日、私は偶然遠くの図書館へ出かけていた。
手に持った本は大して興味のない本だったけれど、何時も同じジャンルばかり読むことも視野が狭くなると試しに借りた恋愛物語。読む順番は最後にしようと思っていた。
けれどあまり待たせては彼女に悪いと思って、
「明後日には返却しますよ」
と言ってしまった、と言うことは最初に読むことになった。
その人は笑って言う。
「随分とお好きなのですね、恋愛物語が」
思わず恥ずかしくなって「では失礼」と言って帰ってしまった。
家に帰った私は、仕方なくその本を読むのだけれどあまりにベタベタな内容で全身がむず痒い。
「こんな本を好んで読んでいると思われたのか」
それでも約束を守るためノルマだと言い聞かせてページをめくっていく。何とか約束の日までに物語を読み終えてほっと一息も。
「……いや、別に無理をして読まなくても良かったのではないか」
そう思ったのは返却日の朝だった。
「まあ、読んだ後に言っても仕方あるまい」
そう呟いて珈琲を口にする。
「熱い!」
舌を火傷した。

その図書館へ向かう途中でその人に気付いたため声をかけた。
「おはようございます、今日も良い天気で」
そう爽やかに挨拶をした、私は会社でもモテる男だった。
細身で長身、優雅さとインテリジェンスな外見で誰からも好かれる上司だったのだから。少なくても挨拶をして嫌な顔などされたことはなかった。
この時まで。
その人はあからさまに嫌な表情を浮かべて早足で距離を作った。
「ま、待ってください。何か私がしましたか」
「誰ですか、あまり馴れ馴れしくしないでください」
どうやら覚えていないらしい、私は借りた本をその人に見せて言う。
「この本を次に借りるのでしょう、思い出しましたか、前に一度会っているはずです」
「え……ああ、恋愛物語が好きな。あの、お名前は」
「五十嵐です、五十嵐 幸正と申します」
「珍しいですよね、男性で女性向けの恋愛物語を読む人は。私は「鈴木このみ」と言います」
聞けば近所に住んでいてこの図書館の常連だと言う。
「その本の感想を聞かせてもらえると嬉しいのですが」
私は内容を思い出して、ただ一言。
「まるでチョコレートのようで」
別に飾ったわけではなく、あまりにベタベタな展開だったからだ。

・・・・・・・・・・・

その図書館へはよく足を運ぶことになる、と言うのは置いてある本の質や量が良かったからで。常連の彼女と出くわすたびに恋愛物語を勧められることになる。
「これはどうでしょう、五十嵐さんの好きそうな物語ですよ」
「いえ、私はこいいう本は……」
「そうでしたか、ではどんな本を最近は読むのでしょうか」
「歴史物です、特に最近はヨーロッパの歴史物にはまっていまして」
最後まで聞かずに彼女は何処かへ。と思っていたら手にたくさんの本を持って戻ってきた。
「歴史を感じさせるヨーロッパの恋愛物語ですよね、分かります、私も大好きなんです。この本はどうでしょうか、こっちも気に入ると思います。これだって捨てがたいですし、これもまた違った良さが――」
「……そうですね……そう」
熱弁する彼女に水を差すことは悪いと思い黙って聞いていた。

断りきれずに借りた本は律儀にも最後まで読んでいた。
一番気に入らなかったのは「ロミオとジュリエット」
「私ならもっとスマートに恋愛出来るだろう、大人の恋というものが似合っているはずだ」

そのうち彼女と近くのカフェで本の話をするような仲になっていた。
「ブラック珈琲で頼むよ、ブレンドの味を楽しみたいんだ」
チョコレートだの何だの入っているのは好きじゃない。
席に座ると自然と本の話になった。
「このみさんは何が一番お気に入りなのですか」
一番のお気に入りは何と「ロミオとジュリエット」だと言った。思わず討論が始まった、若さゆえに破滅する二人は見ていて悲しいからと。
「私ならあれだ、あの本が好きだ、素晴らしきあの落ち着いた恋愛――」
気が付くとカフェの視線が立ち上がった私を見ていた。
熱くなり過ぎたようだ。
座ってブラック珈琲を口に運ぶ。
「熱い!」
舌を火傷した。

・・・・・・・・・・・

お互いについて詳しい話をしたのはこの間のこと。
彼女は何時か誰かに聞いてもらいたかったのだろう。
図書館に通い始めた時期は離婚してからだと言った、離婚した当初は本を読む以外に何もする気が起きなかったからだと言う。
「あなたを振る男性の気持ちが分からない」
「どうしても子供が出来なかったためです」
名家に嫁いだ彼女は3年後、子供が作れないと言う理由で離婚された。

――だからあんなにもベタな恋愛物語を好むのか?
単純な好き嫌いだけの恋愛を。過ぎ去ってしまった愛だけあった遠い日を懐かしむように読んでいたのか?
私は駆け抜けた人生をこの歳になって振り返るために本を読む。
彼女も人生を振り返っているのか、誰も居ない映画館で今さっき本編が終わった映画のエンドロールを眺めて、胸が締め付けられた場面を一人思い出していると。
「――幸せだったのでしょうか、私の結婚生活は」
そう言った彼女を見て気が付いた。
私は彼女に恋をしている、そして彼女を幸せにしてあげたいと願う。
私は50才で彼女は26才だと言う。それでも、あらゆる困難を前にしても私は逃げないと言いたい。
伊達に世界中を駆けまわってきたわけじゃない。
「ファンタジスタ イガラシ」
全ての不可能を可能にするからこの通名だ。

「次の日曜日、12時にここで会いましょう。あなたに渡したいものがある」
私の気持ちを伝える、エメラルドの指輪と共に。
「……分かりました。待っています」

・・・・・・・・・・・

7時45分
この日のために新調した細身のスーツを着て、指輪を丁寧に持ち歩く。鏡の前でネクタイと髪型を整えた。高鳴る胸の鼓動を抑えようとしていた。
「チョコレートが降るような事態ならもう家を出ておくべきだな」
8時ジャストに家の扉に手をかけた。

後書き

初投稿です。
「月と缶チューハイ」と言うサークルの物書き担当、青樹です。
色々な場所で作品に触れてもらおうと、今回「ぱろしょ」に登録させていただきました。WEB「月と缶チューハイ」やらで全作品見れます、こちらでも精力的に活動したいなーと考えています。ではではー

この小説について

タイトル チョコレートレイン
初版 2017年3月30日
改訂 2017年3月30日
小説ID 4908
閲覧数 28
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青樹 凛音の写真
熟練
作家名 ★青樹 凛音
作家ID 1080
投稿数 10
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活動度 1139
from「月と缶チューハイ」

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