エクストリームマッスルディスオーダー・エターナルΣ!!

 以前の僕は貧弱な男の代表だった。
 今では立派な鬼である。
 地獄の看守として、貧相な老若男女を金棒で小突いたり血の池に沈めたりと、以前では考えられないような、とても充実した毎日を送っている。
 きっかけは、そう、抜け毛だった。今までまったく気にとめていなかったが、いつからか、いつのまにか、頭髪がやたらと抜け落ちるようになってしまっていたのだ。毎日枕に付いた髪の毛を取り除かなければいけなかったし、風呂場の排水溝もすぐに詰まった。
 まだ二十代前半のことである。初めのうちは、社会人になったばかりで、きっと環境が変わったことによる一時的なものに違いないと楽観していた。やがて、そうであってほしいと祈るような気持ちになり、いつしかむなしい現実逃避にすぎなかったと認めざるをえなくなった。
 僕の前髪は、もう失われてしまっていた。
 潔く頭を丸めてしまうのが一番の手立てに思われた。そうして脱サラして喫茶店を開業し、ファルコンと名乗って中南米帰りの元傭兵を標榜するのだ。それしかなかった。
 しかしそのためには、僕の肉体は日陰で育ったかいわれのようで、いかにも弱々しかった。たくましく鍛える必要があった。それに多少は現地語を話せないといけない。習得自体は難しくなかったが、どのていど習熟する必要があるか、そのかげんがわからなかった。そうしているうちに、それよりも英語が話せないと不自然であることに気づいた。元傭兵なのだ。観光で地球の裏側まで行っていたわけではないのだ。
 そこで、駅前留学を行うことにした。週に一日ていど、終業後に通うことになった。英文法ばかりの学校の授業とは勝手が違い、初めのうちは戸惑ったものだったが、僕の英会話技術はみるみるうちに上達し、日常会話を難なくこなすまでになった。学生時代に苦手意識を感じていたのが嘘のようである。やはり外国人講師による実践的なレッスンが決め手といえよう。
 ただ、荒くれ者に似つかわしいスラングを学ぶのには、残念ながら適しているとは言いがたいようだった。これには戦争や軍隊を扱った洋画が役立った。英語に親しむようになると、字幕版の映画を鑑賞するのは格段に楽しい。映画館さながらに部屋を暗くし、日がな一日映画鑑賞に耽ることもしばしばだった。
 足場を固めたところで、いよいよ肉体改造に取りかかることを決心した。想像を絶する過酷な道のりになるだろうことは容易に想像できた。つらくとも、苦しくとも、投げ出すことは許されない。心を強く持ち、最後までやり遂げる覚悟が必要だった。
 そのために、まずは英気を養うべきだと考えた。この先、僕に休息の時間などないのである。事前に、入念に心身を充実させておかなければ、とうてい耐え切れるものではない。僕は颯爽とロマンスカーに乗り込み、一路箱根を目指した。
 開放的な車窓からの眺めが都会の喧騒を置き去りにすると、僕の心は非日常感に包まれた。そういえば、一人で旅行をするなんて生まれて初めてのことだ。知らない土地を歩く足元の不確かさは、否応なく僕を高揚させた。箱根といえばやはり一番は温泉だが、それは夜のお楽しみである。日中は美術館を巡ったり、芦ノ湖で遊覧船に乗ったり、登山鉄道を上ったり下りたりした。宿に帰れば山海の幸をふんだんに盛り込んだ料理の数々が待っている。そうして星空の下で温泉に浸かりひと心地着くと、何もかも忘れてしまえるような気がした。何も問題などないのだと思えた。景気が長く低迷を続けていることも、いつも政治の陰に不正が見え隠れしていることも、近隣諸外国が不穏な動きを見せていることも、世界には今なお飢えで苦しむ子供がいることも、極地の氷が融けて環境や生態系への深刻な影響が懸念されることも、月曜日が納期であることも、すべて夢の中の出来事であるように思われた。しかしそれらは錯覚である。地上の楽園がごとき箱根の温泉宿であっても、朝目覚めた後の枕には、ぞっとするほどの毛髪が付着しているのだ。帰路のロマンスカーはあまり楽しい気分で乗ることはできなかった。
 ともあれ土台を確かなものとしたところで、いよいよ肉体改造に取りかかることを決心した。思い起こせば、ことこのときに至るまで実に多くの出来事があり、かけがえのない人との出会い、そして別れがあった。そう、英会話講師のサマンサのことだ。
 サマンサは若く、セクシーだった。その流れるようなブロンドが、真っ白なシーツの上に広がる様を幾度となく夢想したものだった。劇的な英会話力向上は彼女なしにはありえなかったといっても過言ではない。むしろ英語はどうでもよくて彼女が目当てだった。だが実は彼女は男性だった。衝撃を受けるとともに、いやそれでも僕はサマンサのことを……!という思いが一瞬だけ脳裏をかすめたが、やはり無理だった。どう考えても無理だった。一足飛びにプロポーズしようとまで考えていたほどだったので、かなり危ないところだった。事前に知ることができて良かった。もしも知らずにいたらと思うと顔が熱いやら背中が寒いやらもう大変である。
 このような危険を回避した経験は、一方で自信にもつながった。僕は日々をただ安穏と暮らしてきただけの惰弱な男ではないのだ。精神的には、すでに屈強な肉体をもっていてもなんらおかしくない。今後のトレーニングによって、不屈の精神力に見合ったたくましい肉体へと変貌していく我が身を思うと武者震いがしたものだった。
 目を付けたのは、とあるエクササイズ器具だった。人目を忍ぶような深夜の時間帯に、ひっそりと販売されていた。器具を愛用しているというテレビ画面の中の男は、僕が思い描く理想の肉体を獲得していた。女性にも大変モテているようだった。あまりにモテるため、逆にモテないように努力が必要だとの話だった。その驚くべき効果は、宇宙開発にも用いられている最先端技術の賜物であるという。納得である。そんなすごいものが電話一本で入手できるとはにわかに信じがたかったが、いやだからこそこのような真夜中に販売しているのではないかと考えると、疑惑は氷解した。これは僕のために販売されているも同然に思われた。普段なら支払いがためらわれる価格であったが、そんなことは些細な問題であった。
 数日後、最先端科学のエッセンスを匂わせる絶妙な形状の器具が僕の元に届けられた。この器具は、よく耳にする、装着しているだけでテレビを眺めていようが寝そべっていようがいつのまにか鍛えられている、などといった胡散臭い代物ではない。きちんと身体を動かすことで筋肉を育む真っ当な器具である。無論、継続しなければ効果は現れず、根気が必要とされるのだが、以前の精神的に貧弱な僕ならいざ知らず、今の僕にはまったく無用な心配であった。
 ところが、充実した気力が発揮されることなく、肉体改造計画は断念せざるをえなかった。トレーニング開始から二週間ほどが経ったあたりで、腰を痛めてしまったのだ。この前衛芸術じみた意味不明な形状の器具の仕業に違いなかった。放置しては同じように腰を痛める人が続出することは火を見るより明らか。僕は義憤に駆られてメーカーに問い合わせた。すると、「取扱説明書で注意されている危険な使用方法を行いませんでしたか?」などといけしゃあしゃあとした回答が返ってきた。書いてあった。めげずに消費者センターに相談してみたが、「取扱説明書に記載があるなら文句のつけようがない。どうしてきちんと読まなかったのか」と逆に叱られてしまった。
 通院生活を余儀なくされて、僕は悲嘆に暮れた。幸い症状は軽かったが、ふとした拍子に痛みが走ることがあり、おそろしくて思い切ったことはできなくなった。トレーニングなどできそうにない。計画は頓挫した。諦めるしかなかった。筋肉の女神は僕を見捨てたのだ。
 そんなとき、僕の前に一人の女性が現れた。彼女は神秘的で、かつセクシーだった。僕は彼女に促されるままに、これまでの経緯を語った。僕の話を聞いているあいだ、彼女は絶えず「うふふ……」と妖艶な微笑みを投げかけてきた。僕のことが好きなのかもしれなかった。これは結婚も辞さないな!と僕は思った。
 ところが彼女はプロポーズをするのではなく、僕に一粒の錠剤を差し出してきた。これを飲めば望みはきっと叶えられるという。ただし、努力なくして得るものには相応の対価を求められる、とも言った。「よく考えて……」と彼女は囁く。ほのかに熱を帯びたその声はあたかもすぐ耳元で発せられたかのように感じられ、僕の脳をとろかした。次の瞬間には錠剤を飲み込んでいた。彼女は驚いてわずかに目を大きくしたが、やはり「うふふ……」と魅惑的に微笑んだ。結婚は近い。僕は彼女のゆるやかに波打つ髪が真っ白いシーツの上に広がる様を夢想した。
 その晩、にわかに胃がもたれるような感覚があったあと、発熱、頭痛、吐き気、倦怠感、間接の痛み等の諸症状に襲われた。僕は入浴を控えて早めに床に就くことにした。朝までに快復しそうにない。明日、勤務先に連絡を入れることを思うと憂鬱だった。
 長い夢を見た。黒く濁った泥の中を延々と泳ぎ続ける夢だった。ようやく泳ぎ切って岸に上がると、そこには子供が立っていた。子供はにやりと意地悪く笑うと、僕を再び泥の中に突き落とした。もがいて腕を伸ばしても、さきほどの岸辺はそこにはなかった。
 目が覚めると、昨夜の不調が嘘のように身体が軽かった。ただし、同時に大きな違和感もあった。しかし嫌な印象を受けるものではない。動作のひとつひとつに、これまで感じたことのない力強さを感じた。見ると、腕や脚が、はち切れんばかりの筋肉に覆われている。胸板も分厚く、銃弾すらも弾き返してしまいそうなほどだ。広背筋も大きく盛り上がっており、寝そべれば窪みで金魚が飼えそうだった。
 やった。ついに中南米帰りの元傭兵にふさわしい肉体を手に入れたのだ。長く厳しい苦難の日々が報われて、僕は歓喜に奮えた。
 ただ、ひとしきりはしゃいで足元に目をやると、枕元にはおびただしい量の毛髪が散らばっていて、スーッと頭が冷えた。僕の頭部にはもう一本の毛も残っていなかったから、物理的にも冷えていたかもしれない。彼女の言っていた対価であろう。もともと丸めてしまうつもりだったので、むしろ手間が省けたのだったが、深い喪失感は否めず、僕は静かに涙した。
 出勤時間が近づいていた。次のステップは脱サラではあるが、退職を申し出てすぐ辞められるほど社会のルールは簡単ではない。しかし生まれ変わった僕の肉体を見た同僚たちの反応を想像すると、億劫な出社もむしろ楽しみで、思わず含み笑いがもれた。ひょっとしたら、誰も僕とはわからないかもしれない。ワイルドなスキンヘッドは今までのイメージと全然違うし、体つきに即してか、人相もだいぶ変わっている。身長も三メートル近くになっている。着られる服がなかった。これでは外出もままならない。こっちが対価だったか、と僕は思い直した。
 しかたがないので、部屋にこもって過ごした。不思議と空腹を感じることはなかった。それよりも、筋肉を持て余していることがつらかった。せっかくの筋肉が、こうしている間にどんどんと衰えていく。いかんなく発揮する機会が欲しかった。しかしどうすることもできず、部屋に寝転がったまま、たくましく発達した筋肉が活躍する場面を空想して気を紛らわすしかなかった。けれどもそれは楽しい空想だった。この肉体さえあれば、今まで考えもしなかったこと、初めから諦めてしまっていたようなことが、いともたやすくできてしまう。優れた筋力は想像の翼をも広げるのだ。
 あるとき、想像の中の僕が暴力的な行為ばかりしていることに気づいた。暗い夜道であっても、白昼の繁華街であっても、とにかく人を襲い、憎悪に憑りつかれたように暴虐の限りを尽くす。そういう暗い想像を、繰り返し繰り返し楽しむのである。僕はおそろしくなり、自らを強くかき抱き、抑えつけようとした。人を傷つけるなんて、絶対にしてはいけない。たとえどんな悪人が相手であったとしても、絶対にしてはいけないことだ。ただし、小学校のころにさんざん僕をいじめていたぶったFだけは除外してもいいかなとは思った。Fだけは今でも許せないからだ。
 外に出てみることにした。ひょっとしたらFと遭遇することがあるかもしれないと期待したとかではない。理性では、部屋から出るべきではないとはわかっていた。だが限界だったのだ。部屋にこもって我慢していても、胸の奥から破壊的な衝動が湧き出てくるばかりで、いつかこらえきれなくなってなりふり構わず飛び出してしまうように思えてならなかった。そして、そのとき僕は人間的なことを何も考えることができないだろう。そのまえに、きちんと自分と向き合う術を見出さなければいけなかった。
 人目を避けたのはもちろんだったが、裸はさすがにはばかられるので、シーツを身体に巻きつけた。筋肉が布に隠れると、ひどくがっかりとした気分になった。そのおかげなのか暴力的な欲求は鎮まったが、代わりに別の欲求が高まった。僕はその欲求を少しずつ満たすことで、どうにか今の自分と折り合いをつけていける手ごたえを感じた。
 しかし、それも長くは続かなかった。人知れず行っていたそれを、見られてしまったのだ。
 僕は、筋肉を披露したかった。見違えた肉体を衆目にさらしたかった。だが本当に見られるわけにはいかない。せめてもの慰みに、人目に付かないところでこっそりと、身にまとったシーツをはだけていた。その場面を、折悪く見られてしまったのだった。絹を裂くような悲鳴が響き渡った。目撃者は女性だった。僕はひどく狼狽してその場を逃げ去った。取り返しのつかないことになってしまった。やはり部屋から出るべきではなかったと、深く後悔した。
 ところが、数日と経たずに僕はまた外に出ていた。シーツをはだけて、自慢の肉体を月明かりの下にさらけ出していた。何度となく通りすがりの女性に行き会い、そのたび悲鳴が夜のしじまを切り裂いた。しかたのないことだった。そうしなければ、暗い衝動に押しつぶされてしまう。だから人に見とがめられても、やめることはできなかった。しかたがないのだった。悲鳴を聞くたびに、僕の心は罪悪感でいっぱいになった。でもしょうがないのだ。やめられないし、もう少し大胆な手口はどうだろうかと試行錯誤を怠らなかった。悲鳴を聞くたびに、筋肉のツヤが増すようだった。身震いするほどの興奮がこの身を貫き、身体の一部が熱を帯び、固く張って、力強く盛り上がった。額の話である。額から、角が生えてきていた。
 僕のことが、巷で話題になっていた。だからといって自重しようとは思えなかった。いかにこの肉体を世間に知らしめるか、そればかりで頭がいっぱいだった。そうしてある夜に、僕は不意に複数の男たちに囲まれる。狙いは一人歩きの女性だったので、これはとても不愉快な事態だった。男たちは保健所の職員を名乗った。なぜか銃火器を装備し、その先端を僕に向ける。不満を感じている場合ではなかった。
 その場はうまく逃げおおせたが、それから事あるごとに彼らに遭遇し追い立てられることになった。僕がいったい何をしたというのか。憤懣やるかたない思いは、しかし彼らには通じない。彼らの構えた武器は容赦なく火を噴き、僕を傷つけた。反撃を考えなかったわけではない。その気になれば、この強靭な肉体はさほどの苦労もなく彼らを返り討ちにしおおせるだろう。けれどもそれは僕の望むものではなかった。僕はただ、筋肉を、見せびらかしたかっただけなのだ。女性に。
 いつまでも逃げ切れるものでもない。ほどなくして僕は退治され、天に召された。冷たくなった肉体から抜け出た僕の魂は、しかし生前の姿を保っていて安心した。係員の案内に従って死者としての手続きを進めていくと、最後に閻魔様との面談が待っていた。閻魔様はバストが豊満で、とにかくセクシーだった。厳めしい髭面の中年男とばかり思っていたので、これは嬉しい誤算である。聞けば、それは人間担当の閻魔様であって、彼女は人間以外の担当なのだそうだ。なるほどそれならば、現世に伝わっていなくて当然である。
「えっと、どうします?」と閻魔様は僕のプロフィールらしき書類に目を落としながら聞いてきた。「どうします、とは?」「あなたは人間じゃなくなったので極楽行きは無理なんですけどね、地獄に行くなら行くで、また人間に転生するか、鬼のまま地獄で暮らすか、どちらかを選んでもらうことになるんです」「そうでしたか。できれば、転生したいなと思うのですが……」「お気持ちはわかりますが、いいんですか? 人間やめちゃった方がもう一回人間に転生するためには、相当厳しいカリキュラムを組まなくちゃいけませんよ?」「え、本当ですか? それってどれくらい?」「うーん、そうですねぇ、死んだほうがマシなくらい? ってもう死んでるんですけどね。あははは」「あははは」「で、どうします?」「鬼のままでいいです」
 鬼として地獄に住まうからには、食っちゃ寝は許されない。転生のためのカリキュラムをこなす亡者たちを監督し、金棒で小突いたり血の池に沈めたりする職務が与えられた。初めのうちは貧相であわれな亡者をいたぶるような所業に心を痛めたものだったが、今では生きがいに感じるほどになった。針山の一本一本を鋭く研ぐ作業や、湯を煮えたぎらせるためのボイラーを清掃する作業、ため池の血液を新鮮なものに入れ替える作業などなど、それらすべてが亡者たちを新たな人生に送り出す一助となるのである。そう考えると、感慨もひとしおだった。
 決して、鬼になりたかったわけではなかった。何がどうなって人が鬼になるのか、今もってよくわからなくもある。ひとつ間違いないのは、毛が抜けたことが、僕の人生を大きく変えたということだ。
 ただ、生やす道もあったし、隠す道もあった。それを選ばなかったのは、他ならぬ僕自身である。
 同僚の鬼たちに、髪はある。天然パーマの鬼、ロン毛の鬼、リクルートカットの鬼、さまざまである。うらやましく思わないことはないが、しかし誰もが同じ鬼である。僕がすべらかな頭部をそっとさするのと同じように、それぞれが自身を振り返るのだろう。
 そのとき何を思うのかはわからない。僕はただ、亡者を血の池に投げ込むときに髪を引っ掴むのはやめておこうと、ひそかに思うのだ。

この小説について

タイトル エクストリームマッスルディスオーダー・エターナルΣ!!
初版 2017年4月1日
改訂 2017年4月1日
小説ID 4911
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こてさきのてばさきの写真
熟練
作家名 ★こてさきのてばさき
作家ID 1074
投稿数 16
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活動度 1588

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