夏風邪

 熱が出て、悪寒がひどい。食欲はあまりない。おなかはだいじょうぶ。咳もそんなに。喉は痛くないけど、声がちょっと変な感じ。
 そう伝えたところ、「まあ風邪ですね」と診断された。それくらいはわかる。いいから薬を、早く薬をよこせ。呪いのように心中で繰り返しながら、また待合室でしばらく待たされ、会計を済ませて処方箋をもらい、薬局でまた待たされ、ようやく薬を手に入れた。帰宅したときには満身創痍だった。絶対悪化した。診察時にはなかった症状がある。吐きそう。トイレに行ったが、吐けなかった。気持ち悪さだけが体の中をぐるぐると巡っている。
 午前中にもかかわらず、家の中には早くも熱気が充填されていた。
 ひとりだった。両親は仕事に出ている。しんと静まっていて、セミの声が遠くからしみてきている。
 すぐにも横になりたかった。けれどもすこし外を歩いただけでもう汗だくだったので、気力を振り絞って体を拭いた。濡れたタオルが体に当たると鳥肌が立った。暑いのに寒い。寒いのに汗が止まらない。ただただ不快だった。
 すこし食べて、薬を飲んで、ようやくベッドに入れた。もう安心。寝ていれば治る。
 それにしても災難だ。せっかくの夏休みだというのに。これで何日を棒に振ることになるか。
 それでも、終わりが見え始めた頃合いだったのは幸いだったかもしれない。夏休み序盤は調子づいてさんざん遊んだ。今は落ち着いてきて、そろそろ課題に手を付けないといけないなとみんなしぶしぶ思い始めているはずだ。逆に、一緒に課題をやろうなんていうお誘いがあるかもしれないけど。
 誘われて、断らなくちゃならなくなることがないといい。風邪ひいただなんて言いたくない。気兼ねされるのは嫌だし。
 ひっそりと床に伏し、快復を待ちたい。
 長引かなきゃいいけど、夏風邪は長引くという。私の中に眠る根性の覚醒に、期待が高まる局面である。
 そうして意識の表層から離れた私自身は、苦しみからも解放されて夢の国ですこやかにすごしたいのだが、どうにもうまくいかなかった。眠っても、すぐに目が覚めてしまう。そしてまた汗びっしょりになっている。着替えてまた寝ると、すぐ目が覚めてまた汗が。
 毛布をかぶった段階で、全身から汗が噴き出している。そうして眠るのだから、当然のことではある。しかしすこしでも毛布をはだけると、猛烈な寒気に襲われるのだ。もうどうしたら……
 手足がうまく動かなくて、着替えるのがもどかしい。肌の感触がぬるいゼリーを通しているみたいに遠くて、横になっても宙に浮いているみたいに感じられた。薄目で見ているくらいに視界が狭くて、白いもやに包まれている。慣れ親しんでいたはずの体の感覚が、どれもこれも、自分のものとは思えなかった。
 このまま死んでしまうのかもしれない、きっとそうにちがいない。弱気がぐいぐい攻めてくる。これは恒例のことで、いわば癖である。ただそうと理解していても、どうしようもなく心細くなってしまって、しまいには涙まで出てきてしまう。こまったものだ。でもべつに近くに誰かがいたところで治るものでもない。医者だって、薬さえもらえればあとは用なんてない。とにかく寒かろうがさみしかろうが、私にはおとなしく寝ている以外に方法はないのだ。

 机の上に携帯電話がある。私が自分で、そこに置いたのだ。どうして枕元に置いておかなかったのか、悔やまれてならない。
 けたたましく鳴っている。誰からだろう。友達だろうか。父や母だろうか。遠くに住む祖母だろうか。祖父は、電話なんてしなさそう。でももしかしたら。それとも別の誰か――
 個別にメロディを設定してあったが、何の曲が流れているのかわからない。うるさいくらいに鳴っているのに、全然耳に入ってこない。どうしてだろう。どうしよう。わたしは、なにか、ああ、たいへんなことに、こわい、あたまが。
 携帯電話が鳴っている。家には誰もいないから、私が出ないといけない。私が出るまで、携帯電話は鳴りつづける。いつまでも。
 私が寝ているベッドから、机は遠くにあるわけじゃない。でも手を伸ばしても届かないなら、遠くでも近くでも関係ない。カーペットを敷いた床は、ベッドのはるか下にある。机もそれくらい遠くにあれば。けれども、あれは、私のものなのだ。すぐ目の前にあるみたいに、お気に入りの根付も、細かな傷も、はがしたシールの跡も。
 不意に、止まる。鳴りやむ。音がしない。
 代わりに通話口から黒い煙が、どろどろと噴き出る。壊れてしまったのかもしれない。私がいつまでたっても電話に出ないから、もう嫌になって、壊れてしまったのかもしれない。
 黒い煙に覆われて、携帯電話がすっかり見えなくなってしまうと、ひどくかなしい気持ちでいたのが、急にわからなくなった。冷えて固まったみたいに、ごろりとしたかたまりのまま、放置するよりほかにない。黒い煙が、机の端から垂れ落ちていく。私はそれをじっと見て、なんの感慨もなく眺めて、深い深い床の底に、煙はたまっていく。

 いつのまにか日が暮れていた。部屋が赤い。窓の外が燃えている。
 また汗をかいたはずだが、不快感はなかった。乾いたのかと考えると嫌だったが、それよりもまだ眠りたかった。たまたま瞼が持ち上がっただけみたいな感覚で、体を起こすなんて考えることもなく、ベッドに吸い込まれるみたいに眠りに落ちた。瞼の裏が赤かったのを、ほんの一瞬だけ意識した。本当に窓の外が燃えていても同じだったと思う。

 玄関のドアが開く音で目が覚めた。母が仕事から帰ったのだろう。毛布をかぶったまま、目をつむって、足音が近づいてくるのを聞いた。ノック。部屋に入ってくる。気配がすぐそばに感じられたのを見計らって、私は目を開けた。
「起きてたの?」
「うん、今」
 あいまいに答える。それから聞かれるまま、午前中に食べて薬を飲んで、それからずっと寝ていたことを伝えた。体はさっきよりずっと楽。熱も下がったみたいだ。
「夕飯は食べられそう?」
「食べたい」
「じゃあ、ちょっと待ってなさいね」
 母が部屋を出ていくまで、後ろ姿をじっと見守った。
 上半身を起こしてみて、まだすこしだるいかなと思った。でも生き返ったような気持ちだ。夕飯ができるまで、また横になってじっとしていた。部屋の中は静かだけれど、壁越しにキッチンで立ち働く母の気配があった。
 遅くなると言っていたらしい父は案外に早く帰宅し、家族そろっての夕食となった。食べると途端に元気が湧いてきて、おどろくと同時にいかに自分が単純な生きものであるかを知らされるようで複雑な気分になった。
 食後、薬を飲む。これで安心。
 すっかり強気になった私はシャワーを存分に浴びたいと意気揚々であったけれども、父に止められた。額にぺたりと手を置いて、「まだ熱があるよ」と言う。父の手はいつも冷たいので、熱なんて計れるわけないと思う。でもまあ、今日のところは、しょうがない、言うとおりにしておこう。
 部屋に戻って、机の上の携帯電話を手に取った。電話もメッセージも着信はない。
 机の上に戻し、ベッドに入りかけて、また取った。おもむろにメッセージを送る。
『今日、熱出てずっと寝てた。ツマンネ!明日どっか行こうぜー!』
 ややあって、返信を報せるメロディが鳴った。
『せめてあさってくらいにしようよ。明日電話するね。今日はもう寝なさい。』
『はい。寝まーす。』
 すぐに返して、ベッドに潜る。
 なかなか寝付けなくて退屈。でもまあ、今日のところは。

この小説について

タイトル 夏風邪
初版 2017年4月29日
改訂 2017年4月29日
小説ID 4931
閲覧数 168
合計★ 4
こてさきのてばさきの写真
熟練
作家名 ★こてさきのてばさき
作家ID 1074
投稿数 16
★の数 35
活動度 1588

コメント (2)

★餅村 みみ 2017年5月7日 10時23分42秒
匿名 2017年6月10日 23時49分27秒
ん〜ん、あるある。

風邪をひいて一人むんむんとする気持ち。

自分の感情をどんどん追求していく文章はリズムが大事ですね。

途中で掛かって生きた電話。最後に掛けた電話の相手は誰かな?

少し突っ込みどころがあるが、おもしろさは伝わる作品だ。
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