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 英語教師が急に発奮してテキストの内容から遠ざかり始めたので、視線を外して小休止していたところ、ふと壁の落書きが目にとまった。古式ゆかしい相合傘である。中学生にもなって幼稚なことだと鼻白んではみたものの、しかしよくよく見ればその内容は見過ごせないものだった。
 ハートマークの下に矢印のような傘、その柄の部分の左側に『タカシ』、右側に『ミサキ』とある。タカシと聞いて思い当たるのは、同じクラスの友人、渡辺崇。そして俺は三崎洋という。吐き気をもよおすとともに憤慨した。これはあんまりないたずらだ! いったいどいつの仕業だ、こんにゃろう! ――と、しかし俺はすぐさま平静を取り戻す。普通に考えて、右側に記されるべきは男子の姓ではなく女子の名であろうことは明らか。そしてこのクラスには、吉村岬という女子生徒が在籍している。
 状況は、この相合傘を書き残した人物が、渡辺崇と吉村岬が恋愛関係で結ばれることを希望しているものとみなすことができる。その人物とは当の本人と考えるのがまずは順当であろう。二人のうちのいずれかということになる。
 渡辺崇が書いた可能性は低いと見る。彼は入学以来、校内で知らぬ者のない美人の先輩に夢中なのである。クラスメイトの女子など取るに足らない路傍の石ころも同然であろう。もしもそのような普段の態度がフェイクであり、実は人知れず身近な女子を恋慕していた場合、その時点では特にどうということもないが、その思いを女々しく壁の落書きなんぞにしたためていたならば、それは絶交も視野に入れて今後の付き合い方を見直すべき事案である。
 では、吉村岬の手によるものなのか。しかし、正直、これも考えにくいように思う。
 吉村岬は、これといって特筆すべきところのない平凡な女子生徒である。地味、と言い換えても良い。万が一、渡辺崇がひそかに思いを寄せる女子がいたとしても、すくなくとも彼女ではないだろう。他に、渡辺崇が好みそうな女子はいる。
 翻って、これは吉村岬にとっても同様である。彼女も含め、クラスの女子たちにとって、渡辺崇という男子生徒は、取るに足らない路傍の石ころが水たまりに沈んでいるも同然に違いない。恋多き女子中学生が、わざわざ彼に特別な感情を抱くには相応の理由が必要になる。そして、彼にそれほどの重大な理由が発生するほど女子と関わりがないことは、校内においてほぼ行動を同じくする俺自らが保証するところである。
 よって、これは別人であると俺は結論する。すくなくともこの『タカシ』については、渡辺崇ではない。そもそもクラスのどれくらいが、彼の下の名前を把握しているか。
 当たり前だが、可能性はいくらでも挙げられる。いつ書かれたものかだって、知れたものではないのだ。今のこのクラスに限定するのは早合点が過ぎる。さすがに過敏な反応だったと認めざるをえない。
 ただ、渡辺崇が俺を差し置いて女子に好かれるなんて、許されることではないのだ。万が一そんなことがあったならば、俺はやはり絶交も視野に入れて今後の付き合い方を見直さなくてはいけなくなる。


 休み時間、雑談がてら相合傘の落書きを渡辺崇に披露した。彼はみるみるうちに赤面して狼狽し、周囲から隠すように手で覆った。あまりに劇的な反応に、俺は思わずのけぞった。
「え……? まさかおまえが書いたの?」
「ばっ、ち、ちげーよ!」
 しかし彼の顔色は酸欠にあえぐ金魚のように赤黒くなっている。ただ、あわてふためくわりには消そうとしないところを見ると、彼が書いたのではないことは本当らしい。
「だったら何を恥ずかしがってるんだ」
「いやおまえ……だってこれ、吉村が書いたってことだろ……? それってつまり……」
「ふむふむ。つまり、おまえのことを……」
「そう! 俺のことを……!」
「いや、ないだろ。ないない」
「はぁ!? そんなのわかんねーだろうが! ひがんでんのか、てめえ、こんにゃろう!」
「まあ落ち着け。普通に考えて、これはおまえのことじゃないと思うぞ」
 俺は、渡辺崇という存在が石ころのように無為に蹴り飛ばされるのが妥当である実状を中心に、言葉を尽くして彼の早とちりを正した。これには10分間の休み時間のうち、半分以上を費やさなければならなかった。
「――たしかに、おまえの言うとおりなんだろうけどさ……」
「納得してもらえたか」
「いやでも、俺のことじゃないっていう根拠が、壊滅的にモテないからだ、という部分に重点を置きすぎじゃねえ?」
「なにか間違っているだろうか」
「……いや、間違ってないんだけど、もっとこう、論理的な筋立てで否定してもらえないもんかな、と……」
「そうか? じゅうぶんに説得力があったものと自負してるけど」
「うん、まあな……?」
 といったところでチャイムが鳴り、彼は自分の席に戻っていった。この期に及んで釈然としない表情をしているところを見ると、いまだに身の程というものをわきまえていないようである。
 それに、吉村岬をちらちら見ているところなんかも。


 渡辺崇の言い分は以下のとおりである。
  一、吉村岬は当該の落書きを残すことが可能な席(今の俺の席)だったことがある。
  二、渡辺崇は吉村岬と席が隣り合っていた時期があり、その折いくらか言葉を交わしたことがある。
  以上により、当該の落書きは吉村岬の手による渡辺崇への恋心を示すものである。
 翌朝一番にそんなことを熱っぽく語る彼を、俺は非常に残念に思うとともに、その無類の滑稽ぶりに恐れ入った。どうやら彼を見くびっていたようだった。ここまでとなると、もはや頭ごなしに否定するなんて、もったいなくてできない。
「なるほど、おまえの言うとおりかもしれないな!」
「……なにをにやけてるんだ?」
 しまった、顔に出た。
「気にするな。それで? わざわざ声高にそんなことを主張するからには、それだけってことはないんだろう?」
「うむ、それなんだが、たしかに俺は吉村と話したことがあるが、親しい間柄とは言えないし、良く知っているわけでもない」
「まったくそのとおりだな!」
「力強い相槌! たのもしいかぎりだが、とりあえず話を聞いてくれ。とにかくまずは吉村のことを知りたい。しかるのち、直接に交流をもって徐々に友好を深めていく、という方針で進めていきたいと考えている」
「最終的な目標は?」
「現段階では言えない」
「えー? 言えよぉー、言っちゃえよー」
「な、なんだよ……気持ち悪いノリだな……」
「なーに言ってんだよぉ、おまえには大差で負けるよぉー」
「なにおう! ……いや、まあいい。とにかくおまえにはいろいろ協力してもらうこともあると思う。やってくれるか?」
「やぶさかでないともー!」
「お、おう。なんか今日のおまえ、不思議なテンションだな。べつにいいけど」


 前述のとおり、吉村岬は平凡な女子生徒である。成績が良いとも悪いとも聞かない。運動ができるともできないとも聞かない。髪は長くも短くもないし、太っても痩せてもいないし、背丈が高くも低くもないし、スカート丈も長くも短くもない。内気で恥ずかしがり屋だとか、逆に勝気でおてんばとかいうこともない。エキセントリックだったりファンタスティックだったりもしない。
 個性的な要素を見つけることができない。
「それがどうした? だったら俺たちで見つけていけばいいだけのことじゃないか!」
 渡辺崇は拳を突き上げ意気軒昂である。たいへん前向きでけっこうなことだ。
「それもそうだな! ところでおまえ、先輩のことはもういいのか?」
「先輩は女神だからな、なにも問題ない」
「ん? どういうこと? まあ、どうでもいいか」
 さて、個人的には吉村岬についてもうこれ以上知るべきことはないように思うのだが、渡辺崇的にはまだまだ情報不足であるらしい。というよりも、最低限あらかじめ得ておきたい種類の情報があって、それなしには次のステップへ移行できないということなのだろう。
 たとえば……そう、好きなやつがいるのか、もしくはすでに付き合っているやつがいるのか、というような。
 しかし、だとするとそもそもの相合傘の落書きとの整合性がとれなくなる。渡辺崇の頭の中では、吉村岬が自分に思いを寄せている、という前提があり、そのうえで今後どのように振る舞うかという判断を下そうとしているところのはず。したがって、彼が知りたがっていることはもっと別のことということになる。
 いったいなにが彼を逡巡させているのか。俺の見立てでは、もうすっかり舞い上がっているというのに。早いところ突撃して、きっと後世に語り継がれるであろう見事な散り様を披露してほしいのに!
 ……いや、待てよ。
 今回の件で、俺の中で渡辺崇という男は愛すべき無上の馬鹿としての地位を確固たるものとしたのだったが、ひょっとしたらそれは早計だったのかもしれない。
 いくらなんでも、あんな落書きひとつでああもあっさりその気になるとは考えにくい。彼はあえて道化を演じているのではないのか。となると狙いは……落書きを口実に、吉村岬と親密になること。それ以外にない。
 彼がいつ吉村岬に関心を抱いたのかはわからない。落書きをきっかけとして意識するようになったのか、実は以前から惚れていたのか。
 美人の先輩にうつつを抜かす裏で、ひそかに身近なクラスメイトへの恋情を温めていたとしても、まあべつに、それはどうでもよろしい。先輩のことはどうせ冗談半分だろうなんて、わかりきっていたし。
 問題は、この相合傘の落書きまでもが、すでにして渡辺崇の計略のうちだった可能性。
 泥船に乗るタヌキを演じ、まんまと俺の協力を引き出し、抜け駆けを決める魂胆ではないのか――
 狡猾なり渡辺崇! 許すまじ!
 ……とはいえ確証あってのことではない。だがその可能性に気づいたからには、用心に越したことはないだろう。

                    (続く)

この小説について

タイトル UU:1/3
初版 2017年6月17日
改訂 2017年6月17日
小説ID 4949
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こてさきのてばさきの写真
熟練
作家名 ★こてさきのてばさき
作家ID 1074
投稿数 16
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活動度 1588

コメント (1)

2017.9.13xukaimin コメントのみ 2017年9月13日 9時56分48秒
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