例えばの話

 ペンネーム蓮打、すなわち本名輪島多佳子は、「ぱろしょ」に投稿する創作すべてに、なんらかのテーマ、あるいは課題を設定している。
 例えば、〇四年十一月に投稿した『世界に僕は君で一人きり』では、思春期の男子が恋をするときに、いかに妄想し、ナルシスティックになるかを微細に描くことを目的としていた。また、〇六年三月に投稿された『本当のワケ』シリーズ(全三話)では、単にキャラクター小説を書くことを目的としていた。しかし、無理矢理な展開となったために、それを達成したとは言い難く、不完全燃焼のまま終わっている。
 そして本作『例えばの話』のテーマは、物を書くというその動機についてである。
 人間は書く者と書かない者に分けられる。書く動機の有無は、個人の内包する自意識の違いと言えるのではないだろうか。
 自意識。もっと言えば自己愛。エゴ。
 自発的に創作を試み、人に読んでもらうことを期待する行為を、自意識が強いと言い表すことはできるだろう。そもそもインターネットの浸透が、エゴの誇大化を促しているとも言われている(氾濫するブログなどに代表される。ぱろしょも例外ではないだろうが)。
 ネット上に作品を発表する人たちの自意識。その中で、輪島多佳子のエゴについて、これまでの作品を取材しながら明らかにしていきたいと思っている。
 輪島は社会人として民間企業に勤めている。実は作品の吟味にとりかかる前に、輪島本人へのインタビューを申しこんだが、日程が合わないという理由でキャンセルされている。

 彼女の内面を知る上で最も重要な作品は、前述した『世界に僕は君で一人きり』であり、彼女自身、最もうまく書けたと自負している。
 この作品は、好きだが告白できないでいる女の子と二人きりのシチュエーションになり、自意識過剰になっている男の子の内面を細かくつづった話であり、白眉は、その女の子に逃げられても、プラスに考えようとするところにあった。輪島の自意識を探る上で、本作品は外せない。
 主役の川田コージは、彼の内面をえんえんと語るという難しい役を任されたが、「実はやりやすかったんです」と振り返る。
「ほとんど自分の素で演技しました」
 川田はそう言って笑った。
 川田コージは、輪島が中学生のころの同級生をモデルに生み出されている。『世界に僕は〜』と同じようなシチュエーションを輪島本人が経験している。また川田の長大な一人語りは、江川達也や、舞城王太郎、町田康などから影響を受けている。
「僕よりも共演した聡美さんの方がやりづらかったって言ってました。僕があーだこーだやってる間、なにしていいのかわからなかったみたいですね」
 前述したように、『世界に僕は〜』では、川田コージの内面のみを極端にクローズアップしている。自分の心情を切り売りし、小説に仕立て上げようという目論見だったという。輪島は、だから自分のエゴに対して自覚的であったといえよう。
 短編を集めた『無題放免』(〇五年二月)に収められている『極めて男児の脳内トリップ講座』においても、その姿勢が見てとれる。輪島の“萌える”シチュエーションを書き殴った作品であり、輪島がどんな性癖なのか、うかがい知れるというものだ。
 一時期の蓮打(当時は連打)=輪島多佳子は、自分の内面を直接的に表現しているようで、実はあくまで意図的なものであり、計算して自分を小出しにしていたように見える。
 共通するのは“笑い”の要素である。
 同様の文体で書かれた、同じく『無題放免』所収の『ウルトラマン号の船出』では、前半こそ写実的な意識を持って筆を進めているが、後半は完全に輪島の内面(妄想)に終始している。しかしその妄想にはウケ狙いの部分が多く、明らかに他者の目を意識している(“照れ”という意識も多分にあるだろう)。事実その猛烈な妄想の後は、冷静な文章となり、静かに幕を引いている。
 このように一貫して自らの妄想、つまりエゴをコントロールしてきた輪島であったが、ある作品からその抑制が利かなくなってくる。

 その作品とは〇六年三月に投稿された『淡水魚ヨリメ』である。
 この作品は、樹上にいるカエルが、架空の川魚であるヨリメを観察するという小説である。一見わかりづらいが、実はカエルの一人語りであり、一人称の小説なのである。なのでヨリメについては描写はされるものの、ヨリメ自身が発言、あるいは内面が描かれることはない。そういった意味では、『世界に僕は〜』と同様の構造を持っているが、終盤、自らの内面を吐露し続けたカエルまでをも、輪島は物語から離脱させる。結局語り手が誰もいなくなり、物語は唐突に終わりを迎える。
 蓮打は何を意図してこのような結末を選んだのだろうか。そのことを知る手がかりとして、我々は幸いにもヨリメのコメントを得ることができた。
「なにもしなくてもいいからって。そこら辺を泳いでてくれればいいよって言われたの。最初」金魚鉢の中から、ヨリメは気泡を吐きながら取材に協力してくれた。
「最後は海に飛びこむでしょ。僕が。でももともとは、カエルさんが川の中に飛びこんできて、助けてくれるはずだったの」
 もしこのもともとの設定が採用されれば、輪島の諸作品に特徴的であった、キャラクター同士で意思の疎通を図らせないというスタンスが崩れるところだったのである。しかし実際は正反対の、またはお約束通りの結末を迎えることになる。ついにカエルとヨリメの精神が近づくことはない。
 カエルは、自分自身を最も的確に表しているキャラクターだと、輪島はもらしたことがある。
「常に傍観者を気取っておきながら、本当は他者との密なつながりを求めている。そういう歪んだ感情を、自分は持ち合わせている」
 輪島がそう語ったのは、『本当のワケ』シリーズに登場した榎本エノモに対してであった。
「あんまり蓮打さんて、女性が出てくる話を書かないじゃないですか。だからだと思うんですけど、同姓同士、仲良くさせてもらってましたよ。一緒にご飯食べに行ったりとか」
 超能力が使えるという探偵エラン鏑矢と、そのアシスタントエノモが活躍する『本当のワケ』シリーズでは、輪島は意識的に、他者とのコミュニケーションを試みている。前述したが、輪島はこの作品をキャラクター造型のための習作として書いていた。キャラクターを全面に押し出すために、極力地の文を控えるスタイルをとっている。『本当のワケ』シリーズでの課題はそれだけであり、榎本エノモとも親しい交流があったことから、輪島はわりあい楽な気持ちで取り組んでいたのだろう。
 ところが次作の『禁忌の果実、または少女と不可視の楽園』(〇六年四月)においては、『淡水魚ヨリメ』のレベルまで、いやそれ以上のレベルまで蓮打の自意識は弧絶を深める。この作品は、王国の一兵士の視点で描かれる戦争の話である。テーマとして設定されていたのは、食人についてと、無思考無批判な人間を描くことであった。
 カエル―ヨリメの関係性が、『禁忌の果実〜』ではいたるところに見受けられる。クロッス―リディーの関係しかり、アギイ―リディー、プレスター王国―ネゴット自治区、王国―クロッスの所属する王国軍のような感じである。最終的にクロッス―王国の図式となるが、そのときには既に、リディーも自治区も王国も消滅している。関係性の修復は果たされない。
 この関係性とは何か。それは『世界に僕は〜』から一貫して輪島=蓮打の作品世界に存在する空気であり、意思の疎通を図らない関係性、ディスコミュニケーションの問題である。
『禁忌の果実〜』に新聞記者の役で登場したフラン・キニューリアは、制作時の雰囲気をこう語る。
「実は俺リディーちゃんと会ったことがないんだよね。劇中で知らないことを知る必要はないって、蓮打の意向でね。相手のことを考える以上に、自分のことを考えるようにって、口癖のように言っていたね」
 蓮打がそう言っていたのは、『禁忌の果実〜』で目指した作風の追求、ということだけで説明ができるだろうか。フランが語ってくれたことに、蓮打の内面が表されているのではないだろうか。
 我々が取材を進める中、珍しい人物とコンタクトをとることができた。書いている途中で頓挫した、『注釈小説(仮題)』という作品の登場人物である、浪岡秀明である。
「彼女が人間嫌いで、あまり人付き合いをとりたくないタイプだということを、川田コージ君から聞いたことがあるんですよ。しかし何度かお会いした印象は、そうではなかったですね。
 彼女は確かに人付き合いは得意ではないのでしょうが、その理由が特殊というか、彼女は自分の内側に、なにか巨大でうまく扱えないものを抱えているんじゃないかと思いましたね。それを人に見られたくないし、自分でも意識したくない。知りたいとも思わない。でも捨てることもできなくて、結局彼女の足かせのようになっているんじゃないですかね」
 その蓮打=輪島多佳子の足かせこそが、彼女の自意識=エゴであり、それを克服し、飲みこみ、受け入れる作業こそが、彼女にとっての創作なのであろうか。

 我々は輪島多佳子について多くの証言を得てきた。おぼろげながらも彼女の内面に近づくことができてきた。しかしその一方、彼女の本質には近づけてはいないのではないだろうかという、不安が首をもたげてきた。
 やはり輪島本人への取材が必要だと思っていたときである。
 我々のもとに一通の手紙が届いた。それは輪島の家族からの手紙だった。そして手紙の内容が、我々のテーマを見失わせたのである。
「その節はお世話になりました。多佳子は自分への取材に、うれしいような恥ずかしいような心境でいました。
 実は先日、二〇〇六年の五月三日のことですが、多佳子は、会社への出勤途中、信号無視をした車にはねられ、死亡しました。かねてより打診されていた取材の申しこみの件ですが、こういう理由のために、お断りさせていただきます」
 我々は慌てて、家族に電話をして確認したが、蓮打の死亡は間違いのないものであった。
 彼女は自分の心の中にあった何かを抱えながら死んだことになる。
 後日、彼女の遺稿が発見されたと聞き、遺族にお願いしてコピーを送ってもらった。
『本当のワケ』シリーズに登場していたエランとエノモを再起用し、彼らの過去に焦点を当てる内容のようであった。しかし未完で終わっている。
 このことを聞き、エラン鏑矢がコメントを残してくれた。
「本当に残念です。彼女との仕事は楽しかったし、刺激的でした。僕たちの話をまた書こうとしてくれたのはとてもうれしいです。返す返すも残念です」
 彼女が二人をもう一度書こうと思ったのはなぜだろうか。遺稿でも、前作と同じように、二人のかけ合いは絶妙であった。この二人の密な関係性を、もう一度味わいたい、より深いものにしたいと思ったのだろうか。しかしその真実は闇の中である。我々の取材も、ここで一旦終えることにする。

後書き

 まさに狂言。一人スパロボ。ぱろしょグレードアップのお祝いに、こんなものを書いてしまいました。おもしろい人はおもしろい。つまらない人はつまらない。それでいいのではないだろうか。評価がものすごく割れる作品を、私は書いていきたいのです。
 作中にエゴとか使われていますが、意味はまったく違います。エゴなんで意識と同じレベルにはありません。でもなんか厳密に区別することないなと思って、そのまま使ってしまいました。
 みなさんも自分の書く理由を考えてみてはいかがでしょうか。私ですか? 死人に口無しと言いますから……。

この小説について

タイトル 例えばの話
初版 2006年5月6日
改訂 2006年5月6日
小説ID 708
閲覧数 1173
合計★ 8
蓮打の写真
ぬし
作家名 ★蓮打
作家ID 9
投稿数 14
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活動度 8795

コメント (5)

★キャイ コメントのみ 2006年5月6日 17時29分02秒
わたしの書く理由は、どこか儚くも美しい詩を書いてみたくて。。。です。
まぁ。。。。俺のは一言でいうとオカルトですけどね(苦笑
弓射り 2006年5月6日 17時57分36秒
うわぁ、怖っ!
というのも、最後の「車に撥ねられて」の部分です。いや、僕もたまに
「僕が死んだら、誰かにぱろしょに通達してほしいなぁ」などと思っていたので
どんな風に遺書を残すかをたまに考えたりします。死は意外に身近。

自分で自分の内面を探る試みというのは、僕もちょっと前、ミスチルかぶれだった頃にやった事があったのですが、自分を語り尽くせた! と思う瞬間には、その文がどうも胡散臭くなったりします。蓮打さんはどうなのでしょうか。

僕は「エゴ」という言葉がすごい嫌いです。まだその意味さえも正確には掴んでいませんが、何か僕の住んでる世界を全部ひっくるめて悪い物で片付けようとする邪悪っぽい意志を感じるのです。でも、難しい文では度々使われるので、早いとこ真の意味を見つけないといけませんね。
 というか、キャラクターが実在するという設定がユニークです。キャラと筆者が対談する形式がありますが、新しい形ですね。この作品によって「あの話は『劇』であって、文字上での『架空』ではないんだよ」という、サンタを息子に信じさせようとする父親の意図に似たものが見え隠れしたような・・・僕はそういうの嫌いじゃないです。

最後に、本名を暴露した勇気に乾杯。女性だったんですね。
しっかし、読むの難しいなぁ・・・
★蓮打 コメントのみ 2006年5月7日 3時30分04秒
あ、ごめんなさい。体毛の薄い男です、私。和島多佳子はアナグラムです。名前を入れ替えて作ってます。ちょっと女になりたかったです。だからチ○○とか、チ○○ッ○○○コとかが体についてます。いたるところに。背中には全面に。でも死んでるのは本当かもしれません。まじで怖いです。
弓射り コメントのみ 2006年5月7日 9時40分18秒
  ↓結局2重でひっかかった人orz
★くるぶし! 2006年5月7日 17時49分05秒
もちろんひっかかりました。素で女性だと思いました。
面白かったです。あーこんな事を思っているのかあ、と。

そんな蓮打さんがお亡くなりになったのは悲しいです。心からお悔やみ申し上げるとともに、ご冥福をお祈りすると共に、また今後の作品も楽しみにしてます。
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