封魔の城塞アルデガン 第1部:城塞都市の翳り 後編

<第6章:ラーダ寺院>

 破邪の神格ラーダを祀る白亜の寺院は高い尖塔を備えていた。これこそ尊師アールダの5つの宝玉のうち主たる宝玉を頂く塔であり、洞窟の魔物が地中を掘り進み洞窟から脱出することを封じる結界の源であった。ボルドフは出迎えた見習い僧にゴルツへの拝謁を求めた。
 大司教の執務室には先客がいた。白い長衣を身にまとったアザリアだった。かつてボルドフはアザリアの支援の下で何度も剣を振るった仲だった。彼らは目礼を交わした。
「用向きは何か、ボルドフ隊長」ゴルツが声をかけた。

 大司教ゴルツはすでに髪も長いあごひげも白い老人だった。僧侶の技と魔術師の術の両方を身に付けるべく修行する司教、それは長い年月を修行に費やすことを意味し、二十年前にその両方を極め大司教の称号を得た時ゴルツはすでに五十歳になろうとしていた。
 以来二十年間、ゴルツはアルデガン最高の術者としてしばしば実戦にも出ながら指導力を発揮していた。魔物との消耗戦に陥っているアルデガンでは実戦で発揮される実力こそが権威の裏づけであり、実戦での力の衰えは大司教としての役割の終わりを意味する。だが七十歳を前にしたゴルツの老いた肉体を支える意思の力にはまったく翳りがないことが、緑色の炎のような眼力からもうかがえた。
「洞門にマンティコアが出現し四人の死者が出ました」
 抑えた声での報告に、大司教は厳しい面持ちで応じた。
「なぜそんなものが洞門に現れたのか、それを聞きたいというのだな」
「尊師アールダの結界は人間に近い魔物より人間からかけ離れた存在により強く作用する。マンティコアなど、本来深い階層から容易に上がってこれぬはず」
 ボルドフは一歩前に出た。
「結界に異変が起きているとしか思えません」

「四方の塔の宝玉のうち、東と南の宝玉の魔力が変質したことを確認した」ゴルツの表情が険しさを増した。
「なんと! それでは……」
「このアルデガンの宝玉を補助しているのは、もはや北の塔の宝玉だけということです」アザリアが応えた。
「二十五年前の西部地域の内乱により、西の塔の宝玉がその力を求める者たちの争いの最中に失われたのは隊長もご存知ですね。追い詰められた勢力がその力をむりやり解放した結果、凄まじい魔力の暴走で敵味方ともども全滅し、西部地域は今も救いようのない混乱の只中にあります」
「愚行だ」ボルドフが吐き捨てた。
「だがそれ以来、宝玉がいかに強力な力の源であるかが天下に知れてしまった」ゴルツが言葉を継いだ。
「東と南の宝玉はかなり前から移されておる。手を出したのは南の大国レドラスの王であろうとわしは見る」
「前からですと! それに場所もおわかりだったのですか?」
「もちろん北の王国ノールドにはこのことを伝え、外交的に問題を解決することを依頼はしていた。しかし国力で勝るレドラスはノールドの呼びかけに応えなかったと聞いておる。そしてこたびの変質じゃ」ゴルツは息を継いだ。
「宝玉が何らかの加工を受けたとしか考えられぬ」
「レドラスには野心があると見なさざるを得ないでしょう、混乱の続く西部地域か、あるいは東のイーリアの虚を突くつもりかもしれません」アザリアが言葉を継いだ。
「ノールドはレドラスが宝玉を手にしていることを知っているのですから、レドラスもそう手出しはできないと思いますが」
「宝玉の効力は場所が移されただけなら保たれる。しかし加工され変質したゆえに効力が失われた。このままではアルデガンは遠からず破られ魔物たちが再び地上に解き放たれる。レドラスには触れてはならぬ力に手を出したことをなんとしても悟らせねばならぬ」

「私はそのレドラスへの使者の役目を拝命したところです」
 アザリアの言葉に、ボルドフは目を剥いた。
「無茶ではありませんか? 閣下!」
「でも他に方法はないのよ。それに宝玉が現在どういう状態なのかを探る必要もあります。イーリアに立ち寄り状況を話せばレドラスの動きを牽制できるかもしれません」
「重大な任務じゃ。そなたは両親の出身ゆえ、かの遊牧民の王も同族のよしみでそう無体な扱いをせぬのではと思うが、それでも困難な役目に違いない。だが」
 ゴルツは首をかしげた。
「そんな任務にリアを伴いたいとそなたはいうのか?」
「彼女には今のアルデガンのどの魔術師よりも高い魔力の資質があります。でも感応力が高すぎて魔物の魂に触れてしまい、戦うことができずにいます。戦う目的を自分で捉え直すしか克服するすべはありません」
 ゴルツはしばしアザリアを見つめたあと首肯した。
「そなたを信頼している。リアにも支度をさせるがよい」
「ありがとうございます、閣下」
「ボルドフ隊長。聞いてのとおり、アルデガンはこれまでになく由々しき状況にある。洞門の警護さえもはや危険じゃ。十分用心し、戦力の損耗を極力抑えることを念頭に置くがよい」
「……心得ました、閣下」
 重鎮たちはゴルツのもとを辞した。去りゆく二人の足音が消えて間もなく、ゴルツもまた立ち上がった。


 二人は寺院の回廊をしばし無言のまま進んだが、やがてボルドフがぽつりと声をかけた。
「無茶なことを考えているのではないだろうな、アザリア」
「なにをいうの。今の私になにもできないことなどあなただってよく知っているはずよ」アザリアが歩みを止めた。
「そしてそのことで我が身を責めている。違うか?」
 背後の相手が答えないのもかまわず、巨躯の戦士は続けた。
「誰だってわかるさ。おまえに背中を守られた者なら」
「……教え子たちはみんなよくやってくれていると思う。でも、もう長い間、魔力の素質に優れた人材は出ていないわ。しょせん魔術師は魔力の水準で取れる行動が限られてしまうのよ。
 あと一つの呪文が使えたら救えた命だった、そう思ったことのない教え子なんかいないはずよ。私だって」
 アザリアはいつしか両の手を握り締めていた。
「せめて私に実戦に出られる力が残されていればと何度思ったか知れないわ!」
「だからリアをつれて行こうというのか」
 ボルドフは向き直り、灰色の瞳をまっすぐ見つめた。アザリアは頷いた。
「あの子には最高位の呪文を自在に使いこなす潜在力があるわ。それに年齢以上に思慮深さもある。戦いで味方に犠牲を出さない最高の守り手になれる資質があるのよ」
「なるほど、生まれたときから目をかけていたわけだ。おまえの真の後継者というわけか」
「生まれたばかりのリアを初めて見たとき、高い魔力のオーラに包まれていた。この子は優れた魔術師になるし、そうでなければならない。だからリアの名付け親になって早くから魔術師として育ててきたわ。なんとしても壁を乗り越えて、こんな私に代わる守護者になってほしい……」

「おまえは我ら剣を振るう者にとって最高の魔術師だった」
 ボルドフは感慨深げに語りかけた。思い詰めた様子もあらわなアザリアに。
「同じ魔術師でもガラリアンは正反対だった。奴は自分の魔力を恃んで敵を滅することしか考えていなかった。確かに奴は多くの魔物を倒した。だが、結局一人で戦っていたようなものだった。我ら戦士のことなど眼中になかった」
 ボルドフは言葉を切った。
「ラルダが戦士ローラムに夢中で奴を顧みなかったせいだったのかもしれんが」
「言葉が過ぎるわよ。ボルドフ」アザリアがたしなめた。
「そうだな、別に奴の悪口をいいたかったわけではない」
 ボルドフは苦笑したが、すぐに表情を改めた。
「おまえは常に仲間を守ることを考えていた。一歩下がったところで戦況を判断し、状況に応じた最善の手段でいくつもの窮地を切り抜けてくれた。アルデガンに魔術師の数あれど、参加した戦いで犠牲者を出したことのない者はおまえしかおらん。かつての仲間たちの感謝は決して尽きることなどないのだぞ。
 そしていま、おまえは多くの弟子を立派に導いている。今夜の戦いでケレスが見せた采配はまるでおまえのようだった。確かに魔力の素質に恵まれた者は不足しているのかもしれんが、ならばいっそうおまえ抜きではアルデガンの魔術師陣の瓦解は免れぬ。違うか?」
 ボルドフは無数の戦いを共に潜った女魔術師の両肩を、大きい無骨な両手でがっしりと掴んだ。
「おまえは昔も今もアルデガンにとってなくてはならぬ存在なんだ。絶対に無理だけはするな! 必ず帰ってくるんだ」
「ありがとう、ボルドフ……」アザリアは声を詰まらせた。





<第7章:寄宿舎>

 アラードと別れたリアはラーダ寺院に隣接する寄宿舎の自室に戻っていた。彼女の部屋は一階だった。五階建の寄宿舎は小さな砦のような造りになっており、年長者になるにつれ下の階を割り当てられる決まりだった。アルデガンに生まれた者の常として、彼女も物心がついたころからこの建物で暮らしてきたのだ。
 扉に閂をおろすとリアは簡素な寝台にあおむけになり、ラーダのシンボルが描かれた天井を見上げた。多分集会室からだろう。子供たちがラーダの神にささげる破邪の祈りが、今もずっと上の階からかすかに聞こえていた。

 子供たちは小さいうちから僧侶によって、魔物がいかに邪悪であり、これを滅ぼすのがどれだけ聖なる義務であるかを教えられて育つ。もちろんリアも例外ではなかった。魔物は人間とは異質でかけはなれた存在だと信じていた。
 だから自分が焼き殺した魔獣の断末魔に魂を感じたこと自体が彼女には衝撃だった。しかもあの一瞬にさらけだされた魔獣の魂は、狂暴で荒々しくこそあれ人間の魂となんら変わるところがなかった。
 自分が考えてはいけないことを考えているのはリアにもわかっていた。魔物たちは敵なのだ。決して人間と相容れぬ、どちらかが滅びるまで戦い続けるほかない相手だとわかってはいた。
 しかし今の彼女には、自分が人間であり相手が魔物であるということが、ほんのちょっとしたきっかけで逆でもありえたようなものとしか感じられなかった。かつてリアを支えていた自分への確信というべきものは、あの魔獣の断末魔とともに砕け散ったのだ。
 リアの脳裏にアラードの上気した顔が浮かんだ。魔物を初めて倒した喜びを語る彼の表情には迷いの影などみじんもなかった。彼がうらやましく思えてならなかった。

 ではアザリアはどうなのだろうと彼女は思った。魔法を自由に使えた時に、師は魔物との闘いにどう臨んでいたのだろうかと。師は戦うことにより自分が救う者たちのことを考えるようにと諭した。その言葉はもちろんリアにも正しいことだと受け取れた。しかし、それ以上に彼女には、師の思慮深さが何らかの苦しみを克服した結果得られたものであるように感じられたのだ。
 旅に出れば師に尋ねる機会もあるだろうかと思ううち、リアはいつしか眠りへと落ちていった。



 異様な悪寒の中、リアはめざめた。暗闇に塗りつぶされた視野の奥から、見慣れた自室の天井がおぼろに浮かびあがる。
 ここはアルデガンの中心部、ラーダ寺院に付属する寄宿舎の自室。窓から寺院の尖塔が見える、アルデガンで一番安全なはずの場所……。

 その部屋が、いまや妖気に満ちていた。

 少女は動けなかった。声も出ず、まばたきさえできず。ただ、研ぎ澄まされた感覚がなにかをとらえた。視野の外、足元の床で凝固しつつある妖気を。やがて床にわだかまる闇から気配が伸び上がり、のしかかるように迫ってきた。
 一瞬、リアの視線が双眸をとらえた。おぼろな影の中に燃える緑色の……。
 とたんに双眸が妖光を放ち、リアは意識を失った。





<第8章:見張り台>

 アラードと同期の戦士ガモフは、かがり火の燃える城壁の上で見張りに就いていた。背後には隊長のボルドフが立っていた。
 ずんぐりした体格のガモフは敏捷さよりは力で戦う資質の持ち主だった。もちろんまだ若く経験不足であるため、ボルドフから見れば未熟さは覆いがたいものだったが、オークやコボルト相手なら今のアラードよりむしろ安定した戦いができた。訓練所でもアラードと張り合ってきたガモフはアラードより先に洞門番に登用され、倒した亜人の数でもアラードに差をつけていた。
 しかし洞門が急襲を受けたとの知らせに宿舎から駈けつけたガモフたちを出迎えたものは、亜人とは次元の違う存在だった。

 獅子ほどもある醜悪な魔獣の死体。戦いに臨んだ仲間たちの話も凄まじいものだった。それは自分たちの前の班の若者を四人も瞬時に噛み殺し引き裂いたという。
 ボルドフがラーダ寺院から戻ったとき、ガモフたちは明らかに動揺していた。事態の悪化を感じているのを隠せずにいた。
 ボルドフはガモフたちを集め、宝玉の結界に異変が起こり魔物の行動への制約が弱まったために強力な魔獣が洞門に現れたことを説明した上で、当分のあいだ夜は城壁の下へは降りずに城壁の上から洞門を見張るよう指示した。そして、今夜は自分も見張りに立つから、一人ずつ交代で見張りに立ち他の者は階下で仮眠をとるよう命じた。

 ガモフが見張りに立ったのは、もう少しで空が白みはじめる頃だった。
「自分もあんな化け物を倒せるようになれるでしょうか」
 ガモフはボルドフに声をかけた。それは仲間たちも一様に隊長に発した問いだった。
「生き残り、戦い続ければ必ず」
 ボルドフもまた、同じ答えをガモフにも返した。
 そのときラーダ寺院の見習い僧が城壁の上に現れ、ボルドフを手招いた。そして近づいたボルドフに小声でなにかを告げた。
 ガモフにはその声は聞こえなかったが、ボルドフが顔色を変えたのがゆらめくかがり火の光でもはっきりと見て取れた。
 ボルドフは足早にガモフのところへ戻った。
「ラーダ寺院からの招集だ。すぐに行かねばならん。他の者を起こすから見張りをこのまま続けてくれ」
 そういうと、ボルドフは見習い僧と共に階下へ姿を消した。

 ついに空が白み始めた。だがそのせいで、洞門の影はかえって深まったようにガモフには感じられた。
 もしも洞門に異変が起きたら。若者はひたすら洞門を凝視していた。見張りのためというより恐怖にかられ、己の首に背後からのびる、やつれた、けれど鋭い爪を生やした手に、気づくこともできぬまま。





<第9章:集会所>

 ラーダ寺院の中央に位置する広い集会所は、高窓から射し込む朝日が白亜の内装に照り映えて輝きに満ちていた。破邪の神格を祀る寺院にとって昇る朝日は闇の克服の象徴であり、その輝きをあまさず取り込み人々を力づけることを目指してすべてが緻密に作られていた。匠の技はいまや最高の効果を発揮し、寺院には影などかけらも残らないはずだった。
 だがそこに集う人々の顔をおおう影の深さは、およそ朝日の輝きなどで消し去れるものではなかった。
 リアは祭壇近くに設けられた席に腰掛けていた。もともと色白の顔はいまや蝋のように生気を失い、空色の瞳は虚ろだった。朝日は淡い金髪にも照り映えていたが、それはその顔に掘り込まれた絶望を無残に際だたせるばかりだった。そしてか細い首筋に、この場を支配する恐怖の刻印が刻まれていた。
 牙に穿たれた傷だった。
 吸血鬼の牙の痕だった。
「では、そなたは吸血鬼の姿をはっきりとは目にできなかったというのか?」
 大司教を補佐する司教グロスの詰問は、だが絶望に魂が凍った少女には霧の彼方の囁きほどにも届いてはいなかった。
「重大なことだぞ。なにか思い出せぬのか!」
「よい、グロス」ゴルツが制した。
「無理を強いても詮無い。だが、たしかに由々しき事態じゃ」
 ゴルツはこの場に集うアルデガンの指導者たちを見渡した。
「これまでアルデガン内部に吸血鬼が侵入したことはなかった。我らはかつてなき恐るべき状況に置かれておる」
「吸血鬼の行方の探索は?」グロスが問うた。
「手を尽くしてはいますが、いまだ手係りはありません」
「洞門になにか異変は?」
「夜半前の魔獣が現れた乱戦の時が怪しまれます。夜の闇に身を溶け込ませ忍び込んだ可能性は否定できません」
「リアが襲われた時刻は?」
「少なくとも発見は、明け方まで間がある刻限でした」
「このことは外部に漏れたか?」
「リアを発見した者が複数おりますので、おそらく……」
「大司教閣下!」グロスが、いや、その場に集う指導者すべてがゴルツの言葉を待った。

「かくなる上は全ての者に事実を知らせ、今後はまとまって行動するよう告げよ。高僧たちを一人ずつ配置し万全の備えで臨め。疑心にかられ自壊するのはなんとしても避けねばならぬ!」
 命を受けた僧たちが退出すると、立ち上がった大司教はリアの前へと歩を進めた。少女はその顔をおずおずと仰ぎ見たが、深く窪んだ眼窩の奥を窺うことはできなかった。
「そなたはもはや転化する定めを免れぬ」
 ゴルツの厳しい声がリアの耳朶を打った。
「そなたは生きたまま吸血鬼と化してゆく。いや増す渇きに身を焦がし、ついには身近な者に襲いかかる。そのときそなたは真に魔物の眷属へと身を堕とし、襲われた者はそなたと同じく転化の定めに呪われる」
 大司教は老いにやつれた手に握る錫杖を掲げた。一瞬、それは凄まじい力に満たされた。
「呪われた連鎖は絶たねばならぬ。我はアルデガンの長として、そなたに人として死ぬことを命じる。呪いに穢れた身から魂を解かれ、神の御元へ還りたまえ」錫杖がしだいに輝き始めた。
 リアは輝く錫杖を見上げていたが、やがてゆっくり瞑目した。光あせた空色の目が、絶望の帳に閉ざされていった。
「よい覚悟じゃ……」ゴルツの呟く声、そして低い呪文の詠唱。だが扉を激しく叩く音が、呼ばわる声がそれらを破った!
「隊長、ボルドフ隊長!」「アラード?」
 リアは驚いて目を開けた。ゴルツも詠唱を中断した。
「なにごとだ、騒々しい」ボルドフが開けた扉から赤毛の若者が飛び込んできた。
「見張りのガモフが行方不明です」「なにっ」「隊長がこちらへ向かわれてすぐ、代わりの者が上るまでの僅かな間に姿が消えたそうです。抜かれた剣がその場に落ちていました。ただごとではありません!」
「わかった」アラードに応えると戦士隊長は一同に告げた。
「手掛かりかもしれません。洞門へ戻ります!」
「頼むぞ、ボルドフ」グロスが応えた。
「行くぞ! アラード」返事がないためボルドフは振り向いた。「どうした? なにをしている」

 だが、アラードは目を見開いて立ち尽くしていた。
「リア。そんな、リアだったなんて……」
 赤毛の若者は蒼白だった。リアの顔色を映したように。
「なにかの間違いですよね、これは。リアが、まさか」
「間違いではない」グロスが答えた。「夜半過ぎ、リアは自室で吸血鬼の牙にかかったのだ。もはや助かるすべはない」
「助からない? そんな馬鹿な!」アラードは叫んだ。
「あなたがたはここでなにをしていたんですか? ただ集まって話し合っただけで、なんの手だても講じないなんて!」
「口が過ぎるぞ、アラード!」ボルドフが制した。
「おまえは吸血鬼の恐ろしさを知らん。我らはまずアルデガンの住人を守らねばならんのだ」
「リア一人さえ救えずになにをいうんですか! 吸血鬼を倒せば犠牲者は助かるというじゃありませんか」
「噂に過ぎぬ。確かめた者などおらん!」上擦った声でグロスが叫んだ。
「犠牲者が転化する前に吸血鬼を倒せた例など、これまでただの一つもありはせんのだぞ!」
「だから吸血鬼には手を出さないんですか? 野放しにするんですか? だったらこれからも、いくらでも犠牲者が出るだけじゃないですかっ!」

 アラードのその言葉がリアの耳朶を貫いた。絶望に凍りついた心が激しくゆさぶられた。自分のこの恐怖、この絶望。これは自分だけを襲うのではない。誰もが恐ろしい牙の餌食になりうる。今夜襲われるのは破邪の祈りを捧げる子供たちかもしれない。
 そんなことがあってはならない! リアは知らず立ち上がっていた。すべての視線が彼女に集まった。
「……私が助かるなどとは思えません。死ぬべき身であることは免れないとわかっています。でも……っ」リアの頬を一筋の涙が伝った。だが同時に、空色の目は激しい光を宿してもいた。
「私のほかにもこんな目にあう人が出るなんて、そんなことには耐えられません! 私はなんの役にも立てないのですか? このまま誰ひとり守れず、無為に死ぬしかないのですか!」

 しばしの重苦しい沈黙の後、やがて白い長衣をまとった人影が立ち上がった。アザリアだった。いつも穏やかなその顔は激しい葛藤に歪んでさえいた。一瞬の逡巡を見せた後、だがアザリアは胸を押さえつつ口を開いた。あたかも教え子の声に、言魂に射抜かれでもしたかのごとく。
「大司教閣下! たった一つ、吸血鬼の行方を知る方法があったはずです。一つでも手掛かりを得た上でなんらかの対策を講じるべきです」
「探知の秘術を使えというのか」
 ゴルツの言葉にあたりがざわめいた。
「探知の秘術? なんですか、それは」アラードがたずねた。
「吸血鬼とその犠牲者のいや増す精神感応を利用して、犠牲者の意識を足掛かりに吸血鬼の意識を探ろうとする術のことよ」
 アザリアが答えた。
「うまくいけば、吸血鬼に気取られず手掛かりを掴める可能性がある。でも、恐ろしい危険も伴うの」
「失敗すれば吸血鬼に気取られるばかりか術者が支配されることもあるではないか!」怒気で真っ赤なグロスの顔を、怯えめいた表情が一瞬よぎった。「そんな恐ろしい術を閣下に使わせようという気か!」
「しかも犠牲者の、リアの負担は大きい……」
 アザリアの目に、まぎれもない苦悩が浮かんだ。
「自分から吸血鬼の影響下に精神をさらけ出すのと同じなのよ。転化は確実に早まるし、相手に気取られれば最悪の場合、精神をその場で乗っ取られることになるわ」
「そんな、ほかに方法はないんですか!」
 アラードの叫びに、アザリアはかぶりを振った。

「……アザリア様はその呪文をご存じなのですね」
 リアの問いかけに、アザリアは小さく頷いた。
「一度だけ使ったことがあるわ。でもこちらの動きを気取られてしまい、相手に裏をかかれて探索は失敗した。そして今の私にはもう二度と唱えられない最高位の魔法。アルデガンでこの呪文を使えるのは、もはや大司教閣下だけ……」
 アザリアはリアの前に進み出ると、教え子にして名づけ子である少女の顔をまっすぐ見つめた。リアもまた師の視線を正面から受け止めた。
「成功する可能性は低い。しかも魂は確実に危険にさらされる。それでも吸血鬼の居場所一つでも知ろうとすれば、この方法しかないの。
 リア、誰にも無理強いできないことなのよ。あなたが安らかな死を願っても、責めることなど決して」
「アザリア様、私の心は定まりました」
 リアは答え、大司教の前に額づいた。
「お願いです。どうか私をお役立て下さい。そして私の魂を神の御許へお送り下さい」
「危険すぎます、閣下!」「よい、グロス」
 必死の形相で叫ぶグロスをゴルツは制した。
「アラードの申すとおり、アルデガンに侵入しうる相手を野放しにはできぬ。危険であろうと手掛かりは欠かせぬ」

 アルデガンの長は、リアに祭壇に横になるよう命じた。
「そなたを眠らせ夢を通じて接触する。その方が支配を受けにくいはずじゃ。力を抜き心を空にせよ」
 ゴルツは呪文を低くつぶやきながら少女の上に身をかがめた。たちまちリアの意識は暗転した。のしかかるように迫る老人の、眼窩の奥深く燃える緑の双眸も窺えぬまま。





<第10章:私室>

 リアは寝台の上で目覚めた。頭の芯にかき回されたような痛みが残り、奇妙な疲労感が体にまとわりついていた。
 自分の部屋でないと察した少女が身を起こしたそのとき扉が開き、アザリアが水差しを持って入ってきた。
「ここは……?」
「私の部屋よ」
 そう答えつつ呪文の師は汲んできたばかりの冷たい水をリアにすすめた。水の冷たさが奇妙な疲労感をはらしたとたん、それまでの記憶がよみがえった。
「アザリア様! 探知は成功したんですか? 吸血鬼はいったいどこに?」
「あなたは意識を失っていたのよ」
 腰を浮かせたリアを制しつつ、師は続けた。
「意識のないあなたを通じて大司教閣下は吸血鬼が見聞きしているものを探られたの。洞窟にいるのは間違いないとおっしゃられたわ」
「いったいどんな相手なのでしょう。何かわかったことは?」
「あの術は術者自身にしか感覚が伝わらないし、深入りしすぎると相手に気づかれてしまうから閣下にもほとんどわからなかったはずよ。でも」アザリアは眉を寄せた。
「なにかあったんですか?」
「閣下は三人だけで洞窟へゆくとおっしゃるの。あなたと、そしてアラードだけをつれて」
 想像もしていなかった言葉に、リアは呆然としてただアザリアを見つめるばかりだった。そんな彼女にアザリアは気遣わしげな一瞥を向けた。
「閣下は洞窟に入るには少人数で身を隠しながらゆくしかない。だから僧侶の癒しや解呪の技、魔術師の術や探知の秘術もすべて身につけた自分がゆかねばならないとおっしゃるの。皆が反対したけれど、お聞き入れにならなかったわ」
「敵が手強いと考えておられる……、そうなのですね?」
 アザリアは頷いた。
「そもそも吸血鬼は普通の剣や魔法では倒せない、いくら倒してもすぐに復活してしまうおそろしい魔物で神聖魔法の解呪の技でその存在を禁じることによってのみ消滅させることができるのは知っているわね。でもあの術は神の秩序への絶対の信仰に基づく意思の力で呪われた存在それ自体を解体しようとする技だから、結局は敵の意思力との力比べになってしまう。閣下があそこまでおっしゃる以上、よほど強大な敵であると察しられたからとしか思えないのよ」
 重苦しい沈黙がおとずれた。

 自分を襲った黒い影がリアの脳裏にうかんだ。正体も姿も定かならぬそれは、いまや悪意と力のかたまりのように彼女には思えた。洞窟の奥底に待ちうける邪悪の権化のような影と対峙せねばならない自分があまりにも小さく無力に思えた。しかもこの身はしだいに恐ろしい影の力に取り込まれてゆくばかり……。
 絶望に屈しそうになった少女の耳に、アザリアの声がからくも届いた。
「あなたにあやまらなければならないわね」
 リアは意表をつかれ、どういうことですかと師に訊ねた。
「どちらが、いや、両方ね」アザリアは答えた。
「初めにあなたが宣告をうけたとき、私はあなたが殺されるのを見過ごそうとした。でもあなたの嘆願に負けて、吸血鬼の意識を探る探知の秘術のことを話してしまった。そのせいであなたは、死ぬより恐ろしい旅の門出に立たされている」
 アザリアは目をそらした。
「私は迷いに迷ったあげく、あなたの絶望を引き伸ばすことしかできなかったのよ……」
 集会場での出来事がリアの心に蘇った刹那、あの激しい思いが再び燃え上がり無力感を打ち破った。少女は身を起こし師の手を取って叫んだ。
「そんなことはありません。アザリア様はチャンスを下さったんです!」
 アザリアはリアのひたむきな視線を無言で受けとめていたが、いきなり華奢な愛弟子をぐいと抱きよせた。
 思いがけぬ師の行動へのとまどいは、しかし次の瞬間、奇妙に甘い香りへの驚きにとってかわられた。その香りのもたらした欲望がまったく新しいものだったので、すぐにはそれが知っている香りであることに気づけなかった。
 次の瞬間、リアは悲鳴をあげ身をもぎ離した。それが師の体に脈打つ血の匂いなのを悟って。
「私の友も、アルマもそうだったわ」
 アザリアは硬い声で告げた。脳裏に遠い、けれど忘れられぬ声を、言葉を甦らせながら。自分がそれを感じていることにリアは気づき慄いた。己が身が、そして生来の力までが、異常な変貌を遂げつつあるそれは証だったから。直接師の肉体に触れたことでかき立てられた魔性の力が、忌むべき感応力をかつてなき強さで発動させたことを見せつけるものだったから。
「あなたは敵と闘うだけじゃない。時間と、なにより自分自身と闘わなくてはならないのよ」
 耳朶を打つ師の言葉に、けれどリアは聞き取った。師の記憶の奥底から浮かび重なるもう一つの声を。恐怖と絶望に軋む無惨な震え声を。
”アザリア。どうなるの、わたし、こわい……”
 瞬間、いまの接触で流れ込んだアザリアの記憶がリアの意識を圧倒した!


 栗色の巻き毛の小柄なアルマはアザリアと並び称された魔術師だった。同期生だった二人はすでにアルデガン最高の魔術師と称えられていたが、天分ではむしろアルマの方が上だった。
 だがもともと温和な性格のアルマは戦いの修羅場が続く中で神経をすり減らし、なにかとアザリアを頼りにしていた。高位魔術師であったゆえ彼らは同じパーティに入ることはできず、それぞれが自分の仲間たちの生死を預かる重責を双肩に負い心身を削る戦いを続けていた。

 ある時アザリアは過労のあまり高熱を出し命さえ危ぶまれる容態となった。アルマはアザリアの欠けた穴を埋めるためより多くの戦いに駆り出された。
 そんなある日、アザリアのパーティに加わったアルマは吸血鬼の毒牙にかかってしまった。仲間たちの死に物狂いの抵抗でなんとか地上に帰還できたものの、ラーダ寺院の一室に閉じ込められるほかなかった。
 意識を取り戻したアザリアがこのことを知ったのは、事件からもう幾日も過ぎたあとだった。未だ熱の下がりきらぬ体を引きずり彼女はアルマのもとを訪れた。見るも無残にやつれ果てたアルマの姿にアザリアは思わず彼女を抱き寄せ詫びようとした。
 そのときアルマは血の凍るような叫びを上げ、アザリアの腕をもぎ放した。牙の伸びつつある口元を押さえ、恐怖と絶望に塗りつぶされようとする目で、打たれたように立ち尽くすアザリアにアルマはいったのだ。
”アザリア。どうなるの、わたし、こわい……”


 アザリアは頭を振り忌むべき記憶を追いやると、右腕にはめていた紫水晶の腕輪をはずした。ようやく我に返った少女に、師はそれを差し出した。
「これをつけていきなさい、リア」
「だめです! それは支えの腕輪」
「そう、人間の意思の力を高め魔力を強める腕輪。この腕輪のおかげで、こんな私もあなたたちに魔法を教えるだけならなんとかこなしてこれたのよ」
 アザリアの唇にかすかな自嘲が浮かんだ。
「だからこそ、今のあなたに必要なのよ。これはあなたの意思を強める。敵の支配の意思や魔力にあなたが抵坑しようとするとき必ず力を与えてくれる」
 アザリアはリアの右腕に腕輪をはめた。触れたその手を通じ、師の思いが伝わってきた。
「でも、これはあくまで支えにすぎない。あなたに何らかの意思があってはじめて力を発揮するものなのよ。忘れないで」
「アザリア様、私……」
「いいのよ」アザリアは制した。
「私はこれからアルデガンの外へ出向かなくてはならない。人間相手に魔法を使うわけにはいかないのだから」

 鐘楼から正午の鐘がきこえてきた。
「いかなければならないわ、もう。私も、あなたも」
 アザリアは椅子から立ち上がった。
「別々の道を行くことになってしまったけれど、どこかで思いがけない会い方をするような、いえ、そうなりたいものね」
「あの、一つだけ教えて下さい。そのお友達の方はどうなられたのですか……?」
 慄きを隠せぬ愛弟子の、あのアルマの言葉にも似た問いかけにアザリアは思わず目を伏せたが、意を決し姿勢を正した。癒えぬ古傷のごときその痛みに、窺いきれなかった結末を不安のあまり問わずにいられなかった己を悔いるリア。だが時遅く、恐るべき答えが耳に届いた。
「アルマを襲った吸血鬼は私たちを嘲笑いながら洞窟の中を逃げ回ったわ。奴に追いつけずにいるうちに彼女は恐怖に擦り切れて絶望に屈し、とうとう吸血鬼に精神を乗っ取られて襲いかかってきたの」
 立ち上がったアザリアは扉を開き、背を向けたまま告げた。
「私が焼き尽くしたのよ。この手で、アルマを」

この小説について

タイトル 封魔の城塞アルデガン 第1部:城塞都市の翳り 後編
初版 2018年10月8日
改訂 2018年10月8日
小説ID 5055
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ふしじろ もひとの写真
熟練
作家名 ★ふしじろ もひと
作家ID 1016
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人間ならざるものが出てこないお話はいっさい書けないという奇病持ちの隠者です(汗)

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